![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/fb/87fcc16bdecfbb096a183c000f688a77.jpg)
安藤昌益は謎の多い人物ですが、八戸には、今も昌益の「あしあと」が残されています。
パネルを見ながら、昌益の足跡とその時代をたどります。全18回。
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■あしあと2 延享3年の宗門改帳(写真パネル紹介文)![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/camera.gif)
八戸市立図書館所蔵。44歳の昌益は、男2人と女3人の5人家族で生活をしていた。
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■宗門改帳で、昌益の家族が明らかに![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/pen.gif)
昌益の年齢や家族構成が分かったのは、八戸の神官・野田健次郎(のだ・けんじろう)が「宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)」の記載を発見したためでした。
実は、この「発見」も奇跡的なものでした。というのも、宗門改帳自体が残っていたわけではなく、「御用人所日誌」の紙背から昌益家族の宗門改めを発見したからです。つまり、「御用人所日誌」は裏紙を再利用して書かれていたのですが、その裏紙が、宗門改帳の、たまたま昌益家族が記載されているページだったのです! 当時、紙は貴重品でした。
ちなみに、江戸時代当時は、どの家も仏教の宗派に属すること(檀家)が、幕府の政策として義務付けられていました。いわゆる「寺請(てらうけ)制度」で、キリスト教禁止を強化する狙いがあったといわれています。非キリシタンであるという、一種の身分保証制度ですね。
寺院は、その檀家の家族全員について、出生地や生年月日などを「宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)」に記録しました。今の戸籍のような役割を果たしていたわけですね。
※管理人注)以下を参考にいたしましたが、文責は浅学の管理人Fにあります。
・稲葉克夫著『八戸の安藤昌益』(八戸市発行、平成14年)
・安藤昌益基金編・発行『八戸における安藤昌益』(平成7年)
・安藤昌益研究会ホームページ「昌研NET」
・学研「キッズネット」
・各種Wikipedia
パネルを見ながら、昌益の足跡とその時代をたどります。全18回。
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■あしあと2 延享3年の宗門改帳(写真パネル紹介文)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/camera.gif)
八戸市立図書館所蔵。44歳の昌益は、男2人と女3人の5人家族で生活をしていた。
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■宗門改帳で、昌益の家族が明らかに
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/pen.gif)
昌益の年齢や家族構成が分かったのは、八戸の神官・野田健次郎(のだ・けんじろう)が「宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)」の記載を発見したためでした。
実は、この「発見」も奇跡的なものでした。というのも、宗門改帳自体が残っていたわけではなく、「御用人所日誌」の紙背から昌益家族の宗門改めを発見したからです。つまり、「御用人所日誌」は裏紙を再利用して書かれていたのですが、その裏紙が、宗門改帳の、たまたま昌益家族が記載されているページだったのです! 当時、紙は貴重品でした。
ちなみに、江戸時代当時は、どの家も仏教の宗派に属すること(檀家)が、幕府の政策として義務付けられていました。いわゆる「寺請(てらうけ)制度」で、キリスト教禁止を強化する狙いがあったといわれています。非キリシタンであるという、一種の身分保証制度ですね。
寺院は、その檀家の家族全員について、出生地や生年月日などを「宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)」に記録しました。今の戸籍のような役割を果たしていたわけですね。
※管理人注)以下を参考にいたしましたが、文責は浅学の管理人Fにあります。
・稲葉克夫著『八戸の安藤昌益』(八戸市発行、平成14年)
・安藤昌益基金編・発行『八戸における安藤昌益』(平成7年)
・安藤昌益研究会ホームページ「昌研NET」
・学研「キッズネット」
・各種Wikipedia