益々!昌益(ますます!しょうえき) [安藤昌益資料館を育てる会・公式ブログ]

安藤昌益。江戸時代に日本が生んだ大思想家。自然を愛し、農業を愛し、人間を愛した。現代に息づく昌益を伝えます!

八戸における安藤昌益 vol.008 安藤昌益の居宅跡

2008年11月22日 23時24分42秒 | 【好評連載中!】昌益と八戸の18
 安藤昌益は謎の多い人物ですが、八戸には、今も昌益の「あしあと」が残されています。  パネルを見ながら、昌益の足跡とその時代をたどります。全18回。 ---------------------------------------------------------------------- ■あしあと4 安藤昌益の居宅跡(写真パネル紹介文)

  (青森県八戸市)十三日町。昌益は城下に住みながら、万人が「直耕」する平等な社会の実現を目指した。 --------------------------------------------------------- ■昌益家のご近所さん

 前述のとおり(こちらを参照)、延亨3年(1746)の宗門改帳によって、安藤昌益とその家族は現・八戸市十三日町に住んでいたことが分かっています。
 この宗門改帳には、昌益のご近所さんの記録も残っています。
 昌益一家の右隣が、中村忠平で、昌益の弟子です。その隣が、忠平の兄の中村忠兵衛で、八戸三店(さんだな。つまり、豪商)の一つ大阪屋。その息子の右助も昌益の弟子の一人です。
 左隣が富坂涼庵で、昌益と同じ町医者です。越前の生まれで、京都で医療と儒教を学んだと言われています。その息子、涼仙は後に現・岩手県九戸郡軽米町で医者を開業し、宝暦の飢饉の記録『耳目凶歳録』を残しています。
 ところで、昌益一家は、延享元年(1744)、昌益42才の時に八戸に移り住んだと考えられています。昌益が住んだ十三日町は八戸市の中心街で、住まいは持ち家だったようですから、豪商・大阪屋らの援助があったものと推測されています。
 昌益は、弟子たちや周囲の協力に支えられながら、思索をこの地で深めていったんですね。

※管理人注)以下を参考にいたしましたが、文責は浅学の管理人Fにあります。
・石渡博明『安藤昌益の世界』(草思社、平成19年)
・稲葉克夫著『八戸の安藤昌益』(八戸市発行、平成14年)
・安藤昌益基金編・発行『八戸における安藤昌益』(平成7年)
・安藤昌益研究会ホームページ「昌研NET
・各種Wikipedia


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