安藤昌益は謎の多い人物ですが、八戸には、今も昌益の「あしあと」が残されています。
パネルを見ながら、昌益の足跡とその時代をたどります。全18回。
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■あしあと4 安藤昌益の居宅跡(写真パネル紹介文)
(青森県八戸市)十三日町。昌益は城下に住みながら、万人が「直耕」する平等な社会の実現を目指した。 --------------------------------------------------------- ■昌益家のご近所さん
前述のとおり(こちらを参照)、延亨3年(1746)の宗門改帳によって、安藤昌益とその家族は現・八戸市十三日町に住んでいたことが分かっています。
この宗門改帳には、昌益のご近所さんの記録も残っています。
昌益一家の右隣が、中村忠平で、昌益の弟子です。その隣が、忠平の兄の中村忠兵衛で、八戸三店(さんだな。つまり、豪商)の一つ大阪屋。その息子の右助も昌益の弟子の一人です。
左隣が富坂涼庵で、昌益と同じ町医者です。越前の生まれで、京都で医療と儒教を学んだと言われています。その息子、涼仙は後に現・岩手県九戸郡軽米町で医者を開業し、宝暦の飢饉の記録『耳目凶歳録』を残しています。
ところで、昌益一家は、延享元年(1744)、昌益42才の時に八戸に移り住んだと考えられています。昌益が住んだ十三日町は八戸市の中心街で、住まいは持ち家だったようですから、豪商・大阪屋らの援助があったものと推測されています。
昌益は、弟子たちや周囲の協力に支えられながら、思索をこの地で深めていったんですね。
※管理人注)以下を参考にいたしましたが、文責は浅学の管理人Fにあります。
・石渡博明『安藤昌益の世界』(草思社、平成19年)
・稲葉克夫著『八戸の安藤昌益』(八戸市発行、平成14年)
・安藤昌益基金編・発行『八戸における安藤昌益』(平成7年)
・安藤昌益研究会ホームページ「昌研NET」
・各種Wikipedia
(青森県八戸市)十三日町。昌益は城下に住みながら、万人が「直耕」する平等な社会の実現を目指した。 --------------------------------------------------------- ■昌益家のご近所さん
前述のとおり(こちらを参照)、延亨3年(1746)の宗門改帳によって、安藤昌益とその家族は現・八戸市十三日町に住んでいたことが分かっています。
この宗門改帳には、昌益のご近所さんの記録も残っています。
昌益一家の右隣が、中村忠平で、昌益の弟子です。その隣が、忠平の兄の中村忠兵衛で、八戸三店(さんだな。つまり、豪商)の一つ大阪屋。その息子の右助も昌益の弟子の一人です。
左隣が富坂涼庵で、昌益と同じ町医者です。越前の生まれで、京都で医療と儒教を学んだと言われています。その息子、涼仙は後に現・岩手県九戸郡軽米町で医者を開業し、宝暦の飢饉の記録『耳目凶歳録』を残しています。
ところで、昌益一家は、延享元年(1744)、昌益42才の時に八戸に移り住んだと考えられています。昌益が住んだ十三日町は八戸市の中心街で、住まいは持ち家だったようですから、豪商・大阪屋らの援助があったものと推測されています。
昌益は、弟子たちや周囲の協力に支えられながら、思索をこの地で深めていったんですね。
※管理人注)以下を参考にいたしましたが、文責は浅学の管理人Fにあります。
・石渡博明『安藤昌益の世界』(草思社、平成19年)
・稲葉克夫著『八戸の安藤昌益』(八戸市発行、平成14年)
・安藤昌益基金編・発行『八戸における安藤昌益』(平成7年)
・安藤昌益研究会ホームページ「昌研NET」
・各種Wikipedia