益々!昌益(ますます!しょうえき) [安藤昌益資料館を育てる会・公式ブログ]

安藤昌益。江戸時代に日本が生んだ大思想家。自然を愛し、農業を愛し、人間を愛した。現代に息づく昌益を伝えます!

八戸における安藤昌益 vol.009 菩提寺・願栄寺

2008年11月23日 22時56分52秒 | 【好評連載中!】昌益と八戸の18
 安藤昌益は謎の多い人物ですが、八戸には、今も昌益の「あしあと」が残されています。
 パネルを見ながら、昌益の足跡とその時代をたどります。全18回。
----------------------------------------------------------------------
■あしあと5 願栄寺(写真パネル紹介文)

(青森県八戸市)十一日町。延亨3年(1746)の宗門改帳によれば、昌益は当時の門徒であった。
---------------------------------------------------------
■昌益の家族とその後

 前述のとおり(こちらを参照)、昌益の家族構成が分かったのは、延享3年(1746)の願栄寺の宗門改帳が発見されたからでした。
 その記録によれば、昌益はこのとき44才。妻と息子(亨嘉・みちよし。後に周伯・しゅうはく)、2人の娘の5人家族でした。
 その後の昌益一家の足取りをたどってみましょう。
 昌益は、宝暦8年(1758)ごろ、郷里の二井田(現・秋田県大館市)に単身移住します。安藤本家当主だった兄・孫左衛門が亡くなり、家督を継ぐためでした。
 その頃八戸では、息子・周伯が医者となり、八戸藩士で昌益の門人・北田市右衛門の治療にあたった記録が残っています。
 宝暦12年(1762)、昌益は二井田で没します。享年60才。
 その翌年に、28才の周伯は母を伴って、勉学のため上方に向かう旨を藩に願い出、途中、江戸の山脇東門(やまわき・とうもん。日本の解剖学の先駆者・山脇東洋の次男)に弟子入りしました。その後の周伯の消息は、分かっていません。
 昌益の妻は、名前も生まれも分かっていませんが、刊本『自然真営道』(こちらを参照)の板元(はんもと)、京都の老舗・小川源兵衛の一族の小川多左衛門の娘だったとの見方もあります。
 2人の娘のことは全く分かっていませんが、母と周伯は江戸へ向かったものの、娘たちは同行していないことから、八戸の地で嫁いだとの憶測もあります。
 このように、昌益の家族のことは、推測も交えた断片的なことしか分かっていません。新たな資料などの発見や研究の進展が待たれますね。

※管理人注)以下を参考にいたしましたが、文責は浅学の管理人Fにあります。
・石渡博明『安藤昌益の世界』(草思社、平成19年)
・稲葉克夫著『八戸の安藤昌益』(八戸市発行、平成14年)
・安藤昌益基金編・発行『八戸における安藤昌益』(平成7年)
・安藤昌益研究会ホームページ「昌研NET
・各種Wikipedia

最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
そうなんですか (SYU)
2008-11-29 16:16:30
昌益の奥様も娘も消息不明、娘さんは八戸地域に嫁いでいる可能性が高い、関連資料もそこから出てくるかも?
八戸の皆さん、ゴミを出す前に「分別」資料があるかも?
返信する
そうなんですか (SYU)
2008-11-29 16:16:43
昌益の奥様も娘も消息不明、娘さんは八戸地域に嫁いでいる可能性が高い、関連資料もそこから出てくるかも?
八戸の皆さん、ゴミを出す前に「分別」資料があるかも?
返信する
昌益資料以外にも! (管理人F)
2008-11-30 12:55:37
> SYUちゃん様

そうなんです!
昌益の周辺のことは、必ずしも昌益自体の資料から分かるとは限りません。
一見、全く関係のない私信のような古文書から、昌益やその家族、あるいは弟子の消息、当時の生活、交友関係などが分かったりする可能性もあります。
実際、昌益の研究は偶然の資料の発見によっていることも少なくありません。
ですから、資料の保全と収集が必要で、昌益の資料だから保全・収集するではなくて、あらゆる資料の保全をどうするかを考えなければなりません。
「安藤昌益資料館」はそのきっかけになればいですね。
返信する