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「七夕文化」

日本の七夕を調査・記録したジオシティーズ「七夕文化」(2010年)を移行しました。

日本人と七夕 ー『日本民俗地図』に見る20世紀前半の七夕行事ー

2019-03-04 23:23:01 | 調査報告
   
  日本人と七夕

     -『日本民俗地図』に見る20世紀前半の七夕行事-


20世紀前半の日本ではどんな七夕行事が行われていたのでしょうか。

昭和37年から昭和39年にかけて全国1342カ所で行われた民俗一斉
調査の結果をもとに、各地区で行われていた行事を抜き出して集計し、
日本の七夕行事を数量的に把握してみました。

はじめに
第1位 七夕竹を立てて短冊などを結びつけ、七夕飾りをする(281ヵ所)
第2位 だんごや赤飯など特別な食物をつくり供える(264ヵ所) 
第3位 墓掃除をおこない墓への道をきれいにする(171ヵ所) 
第4位 初物の野菜、果物や粟・きびの穂などを供える(96ヵ所)
第5位 井戸替えをする(66ヵ所)

第6位 水浴びする、7回水浴びする(56ヵ所)
第7位 真菰や藁などで馬をつくる(36ヵ所)   
第8位 虫除け・虫送り・虫干しをする(34ヵ所)
第9位 女は沼や川で髪を洗う(21ヵ所)
第10位 ネブタ祭り、ネブタ流しをする、ネムの葉などで目をこする(18ヵ所)

第11位 牛を川や池で洗う、泳がせる(17ヵ所)
第12位 物を洗うとよく落ちる(14カ所)
第13位 雨が降ると良い、雨がふると悪い(計13カ所)
第14位 着物を供える、晴着を着る、着物を着替える(12ヵ所)
第15位 小屋や宿で子供たちが集まって、泊まったり会食をしたりする(10ヵ所)

第16位 色紙で着物を作って飾る(6カ所)
第17位 七夕船を作り、川(海)に流す(4ヵ所)
第17位  相撲をとる(4ヵ所)
第17位 稲田をほめてまわる、田ホメ(4カ所)
第17位 奉公人の出がわり、下男が仕事から解放される(4カ所)


はじめに
 七夕というとまず思い浮かぶイメージは笹竹に短冊や吹き流しなど結んだ七夕竹の飾りである。この笹竹飾りを個人の家で立てたり、あるいは商店街で客寄せのため大規模に飾っているところも多い。しかし日本の七夕行事はこれだけなのだろうか。いったい日本ではどんな七夕行事が行われていたのだろうか。

 実はこの問いに答える恰好の資料がある。それは1962年度(昭和37)から1964年度(昭和39)にかけ、文化財保護委員会が国庫補助事業として実施した「民俗資料緊急調査」である。この調査は所定の項目について、各都道府県ごとに約30カ所の地区を抽出して実施され、調査地区の総数は1342カ所にものぼる。全国的な民俗一斉調査として、わが国で始めての大規模なものであった。

 調査が行われたのは20世紀後半に入っているが、調査の対象とされたのは各地域の老人で、しかも調査時点をできるだけ古い時代に置いたので、江戸時代からの習俗がまだ色濃く残る明治後期から大正・昭和初期の20世紀前半の日本社会が対象になった。

 この調査の報告集として文化庁編「日本民俗地図」第1巻が1969年(昭和44)に刊行され、20年後の1988年(昭和63)第9巻で完結した。第1巻「年中行事1」の「七夕」の調査データ(解説書)を分析してみると、調査地区が多いため20世紀前半の日本の七夕行事が数量的に把握できるのである。

 例えば七夕に作る特別な食物を分析してみると、「だんご」(97ヵ所)、「赤飯」(70ヵ所)、「まんじゅう」(34ヵ所)、「もち」(28ヵ所)、「うどん」(14ヵ所)、「ぼたもち」(10ヵ所)、「そうめん(7ヵ所)、「あずきめし」(4ヵ所)のように食物の種類と地区数が出てくる。これは日本全体の傾向をある程度反映しているといえる。ただ調査地区は農山漁村が多いため、都市の民俗より農村の民俗がより反映されているといえる。

 こうして数量化された日本の七夕行事は驚くほど豊富でしかも奥深い。あまりの豊富さに七夕とはいったい何なのかと考え込んでしまいそうだ。しかしここではまず、ありのままの姿を紹介して七夕行事が持つ、その複雑であるがゆえに魅力的な様相を味わっていただきたい。

 なお調査データの抽出にあたっては、内容の記述が不明確な箇所もあり、筆者の判断で採否を決めたものも多い。したがって集計数に若干の誤差があることはご了承ください。地区の市町村名は当時のままを記載した。(石沢誠司 2003年7月記)

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◎ 第1位 七夕竹を立てて短冊などを結びつけ、七夕飾りをする(281ヵ所)

 七夕行事のなかで一番普及しているのは、何といっても竹の七夕飾りである。竹の葉に「天の川」などと書いた短冊などを結んで星に字の上達や技芸の上達を祈るのは、現在の日本でも最もポピュラーな行事である。20世紀前半の日本でもやはり一番多かった。

「七夕様には家庭で色紙を短冊に切って、筆で七夕様に関する種々の文章を書いて、青竹の笹の枝に結び付け竹飾りを行なう。七夕様に書く墨水はさといもの葉にたまった水を取ってきて墨をする習わしである」(栃木県足利市本町)、「星祭りをする。色紙で短冊を作って天の川などと書き、竹笹の葉に結びつけて高く掲げる。子供らは芋の葉の露で墨をすって書く。字が上達するという」(埼玉県狭山市北入曽)などが代表的な例で、竹飾りには、(1)色紙で短冊を作り、(2)里芋などの葉の露で墨をすり、(3)天の川や七夕の歌などの文字を書いて吊るす、ことがセットになっていることが多い。

 ところで短冊にどんな文字を書くかについては、「天の川や七夕様、歌やいろは家族の名前」(香川県豊中町比地大)、「七夕の歌の本があってそれを書く(内容は俳句・詩)」(栃木県足利市高松)、「川の名、百人一首の歌を書く」(群馬県中之条町蟻川)、「短冊に古歌や格言を書いて笹に吊るすと、習字が上達すると言い伝えられている」(香川県満濃町吉野)などが一般的なところである。こうした文字を書くと習字が上達すると云われていた。「歌や願い事」(静岡県竜洋町掛塚)のように願い事を書くという例もあるが、願い事は現在ほど強調されていないようである。

 短冊以外の飾り物については、「網・折り鶴などの飾り」(茨城県大子町)、「女竹の枝々にちょうちんをつけ」(愛知県美浜町野間)、「色紙で作った着物」(福岡県大木町笹渕)などがあげられる。

 この項目に関連する事柄として、飾った七夕竹の使い道については、
「飾った七夕竹を川(海)に流す、川に立てる」(97ヵ所)、
「飾った竹を、田畑の中や畦等に立てて虫除けにする」(23ヵ所)
「飾った七夕竹を物干竿・釣竿などに使う」(4ヵ所)、が報告されている。

 なお七夕竹の飾りについて注目すべきコメントが収録されている。それは、「最近、子供たちがいわゆる七夕の行事をするようになったが、以前は墓掃除の日であった」(東京都八王子市松木)、「七夕は新しい風習で、墓掃除、井戸替えをする」(大阪府東能勢町木代)、「たなばたはもとなかったが、ちかごろ学校の影響で盛んに行なうようになった」(大阪府堺市別所町)などの証言である。これは調査地点の多くが農村・山村・漁村に位置していることが影響していると思われる。竹飾りは江戸時代に都市で発生した風俗であり、これが徐々に農山村に伝播していったのであるが、調査時点でも新しい風習と認識する人も多かったのである。

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◎ 第2位 だんごや赤飯など特別な食物をつくり供える(264ヵ所) 

 七夕には常の日と異なった特別の食物をつくりお供えし、また食べた。特別な食物とは、だんご、赤飯、まんじゅう、もち、うどん、ぼたもち、そうめん、あずきめし等である。これらの食物の多くは、祭日や祝日などいわゆるハレの日に食べるものである。七夕は江戸時代、五節句のひとつであり、この日は式日すなわち祝日であった。七夕に特別な食物を供えて食べるのは、こうした江戸時代から続くハレの日の感覚が残っているためである。

 京都では宮中で七夕に索餅(さくべい)という菓子が食された。これは小麦と米の粉を練って細く縄のように二本ないあわせた菓子で麦縄ともよばれる。これを真似て民間で食べるようになったのが素麺だといわれる。だから七夕の最も由緒ある食物は素麺ということになるが、素麺をたべる風習は日本民俗地図でみるかぎり非常に少なく全国的なものとはいえない。七夕の食物からみるかぎり、日本人は七夕と他の祝日を区別していないといえよう。

 七夕につくる特別な食物を多い順にならべると次のとおりである。
「だんご」(97ヵ所)
「赤飯」(70ヵ所)
「まんじゅう」(34ヵ所)
「もち」(28ヵ所)
「うどん」(14ヵ所)
「ぼたもち」(10ヵ所)
「そうめん(7ヵ所)
「あずきめし」(4ヵ所)

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◎ 第3位 墓掃除をおこない墓への道をきれいにする(171ヵ所) 
 
 七夕の行事で3番目に多いのは、墓掃除や墓への道をきれいにすることである。
「墓地から家までの道路を、部落総出で伐ったり、悪いところをなおしたりする。家のまわりの草もとったり、かたずけたりした」(青森県階上村田代)、「この日墓なぎをする。お墓の掃除や、道の草刈りをやり、寺では施餓鬼供養をして卒塔婆を出す」(茨城県緒川村小舟)などの事例が代表的なものである。

 「日本民俗地図」の調査項目には、行事の名称の項もある。もちろん「七夕(七夕祭り、七夕さん等も含む)」という呼び方が、675カ所もあり一番多いが、次いで「七日盆」という名称が82カ所ある。これは、ちょうど正月の満月が小正月で、その1週間前が七日正月というのとおなじである。つまり7月15日の盆の1週間前を意味し、「盆始め」とも呼ぶところがあるように、盆の準備として墓掃除や提灯を吊るしたり、灯籠を立てたり、仏具掃除をする日となっている。この習俗には星祭りの意味は認められず、盆行事の一環としての色彩がきわめて濃厚である。元来、7月は盆月とも呼ばれるように、1日から盆の準備を始めるところも多い。とくに盆道作り、道薙ぎ、墓薙ぎなどといって、道や墓の掃除をおこない、7日には盆迎えの最終的な準備、もしくはすでに盆の始まりとなるのであった。

 さらに盆の準備という観点からの関連項目として、
「盆踊りを始める」(19ヵ所)
「盆棚を設ける」(18ヵ所)
「迎え火をたく」(14ヵ所)
「提灯を吊るす、灯す」(12ヵ所)
「高灯籠を立てる」(10ヵ所)
「仏具掃除をする」(10ヵ所)
「寺参りをする」(8ヵ所)
「灯籠などを持って村中を練り歩く」(6ヵ所)
「川に灯籠を流す」(4ヵ所)などがある。

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◎ 第4位 初物の野菜、果物や粟・きびの穂などを供える(96ヵ所)

 七夕には初物の野菜や果物、また稲の穂、粟・きびの穂などを供えるところが多い。旧暦の7月は初秋とはいえ、稲の稔りにはまだ早い。農作物からいうと、瓜やキビなどの畑作物が収穫時期となる。

供え物として具体的に名前があがった作物では、野菜・果物では「なす」31カ所、「すいか」20カ所、「きゅうり」13カ所、「うり」13カ所、「とうもろこし」9ヵ所がベスト5で、穀物では「粟穂」「きび穂」がそれぞれ4ヵ所、「稲穂」「つときび」「とうきび」「なんばきび」がそれぞれ2ヵ所となっている。
            
 具体的例としては、
「初もの食いといって、なす(馬をこしらえる)・なんばきび・ほうずき・すいか・うりなどを供える」(岡山県備前町香登本)
「竹を2本たて、横竹をわたしてこれに栗の枝・柿・枝豆・あわ・きびの穂・ほうずきをさげる」(岡山県英田町河合北)
「笹竹を一本杭にくくり、この竹に麻がらで棚をつくり、ここに瓜やなすなどをお供えした」(鳥取県岩美町荒金)
「六日の夕方、笹に五色の短冊をつけ、いわゆるお棚をつくって十八豆・瓜・なす・きゅうり・とうもろこし・ほうずきなどとぼたもち(だんご)をそなえてまつる」(徳島県小松島市櫛渕)
などで、棚を作ってそこに供えるところもある。

 またわたしが直接、調査した例に「七夕さんは初物食いだからと、ほおずきのついた枝、稲穂のついた葉、柿の枝、枝豆、さつま芋のつる、ズイキ(里芋の葉茎)、ゴマの枝の7つを笹竹のもとのあたりに結びつける」(兵庫県姫路市的形町)といって、すべて青いままの枝葉を付けているものがあった。

 こうした初物を供える習俗と関連して、
「初物などを供えるための棚(七夕棚)をつくる」(15カ所)  
「七夕に供える野菜を盗みにゆく」(5ヵ所)、
「七夕荒し(供え物を盗む)をする」(5ヵ所)、
「生きた魚を供える」(3ヵ所)、
「初子の家では果物、野菜などを配る(初七夕)」(3ヵ所)が報告されている。

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◎ 第5位 井戸替えをする(66ヵ所)

 井戸替えというのは、井戸水を清めるため井戸の中の水やごみをすっかりくみ出して掃除することで、特に7月7日の七夕を選んで行なわれた地方が多い。
「井戸水をことごとく汲み上げ御幣を挿す」(秋田県琴浜村鳥居長根)「井戸さらいをして墓石を洗う。井戸さらいが終わると、井戸神様に酒を1本あげる」(茨城県波崎町明神)
「共同井戸の井戸さらえが行なわれ、水神様のお祭りがある」(山口県上関町白井田)
などの事例のように、井戸替えと同時に御幣を挿したり井戸の神様を祀ることも多い。これは、井戸が生活に不可欠な飲料水の源として常に信仰の対象であったことと係わっている。井戸替えと関連して、「池、川の掃除をする」というのも2カ所あった。

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◎ 第6位 水浴びする、7回水浴びする(56ヵ所)

 これも水に関する習俗であるが、この日は水浴びをすることが習慣となっている地方が多い。とくに7回水浴びをする、と7という回数が決まっているところが東北地方を中心にみられる。また水浴びに連動して7回飯を食べるというところも多い。水浴びをしたのは子供たちであるが、その理由として「水難にかからない」「身を清める」などが言われている。

事例として、
「水難にかからないといって、七度赤飯を食べ七度水浴する」(青森県鶴田町胡桃館)
「ナナゲリ飯を食いナナゲリ水浴びする、という」(青森県黒石市安入)
「1日7回ごはんを食べ、7回海にはいって身を清めた」(宮城県七ヶ浜町湊浜)
「この日は、七たびママ(飯)を食い七たび水泳ぎする日、だといって子供たちがはしゃいだ」(秋田県十和田町毛馬内)
「青少年は佐渡川で水浴。7たび浴び、7たび食べるという習慣があった」(秋田県平鹿町下醍醐)
「この日は七夕でもあるので海水浴に行く人、常願寺川に水浴びに行く人などさまざまである」(富山県富山市太田)
「7回水浴び、7回食事、7回衣装を変える」(岡山県英田町河合北)等が報告されている。
 水浴びに関連して、逆の「川にはいるな、泳ぐな」(4ヵ所)というところもある。

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◎ 第7位 真菰や藁などで馬をつくる(36ヵ所)   
  
 七夕に真菰や藁などで馬を作る七夕馬の習俗は、東日本の各地に伝えられている。ほとんどが馬(29カ所)であるが、千葉県では馬と牛を一緒に作るところが6カ所ある。これらの馬は対で作ることが多く、飾りかたもさまざまである。一般に馬は祖先の霊を迎える乗物とされており、七夕の馬も盆行事の始まりに関するものといえるが、地方によっては七夕様を迎える、といって独自の七夕行事となっているところが多い。

各地の事例には、
「麦わらで馬2匹を作り厩の前に置き、16日に屋根に上げた」(福島県梁川町八幡)
「麦藁で作った牝牡の馬(七夕様を迎える馬)を屋根の軒先に置く」(福島県安達町上川崎)
「七夕様を迎えに行く馬を麦わらでつくり、屋根にあげる」(福島県飯館村飯樋)
「6日にまこもで馬の形を2匹つくり、向かい合わせて棒にまたがせ、この棒をつり、たづなでゆわく」(埼玉県浦和市大久保領家)
「まこもの馬(おす・めす)を作り、向かい合わせて竹の横棒にのせ、七夕が終わると母屋にほうり上げる」(埼玉県朝霞町膝折)
「6日の晩にまこもで作った馬2頭を左右にし、中間に縄を張り、竹と竹との中間に飾る」(埼玉県騎西町正能)
「まこもでつくった馬2頭を向かい合わせて竹棒につけ、竹笹に飾りつける」(埼玉県杉戸町下高野)
「まこもか藁で牛・馬をつくり、朝草を刈ってきて七夕の竹の下にしき、その上におく。竹は夕方川に流し、牛・馬は氏神様に供える」(千葉県神崎町神崎本宿)
「まこもの馬と牛を(台)車にのせて早朝から走り回った」(千葉県九十九里町西野)
「ミチシバで25~26・の男馬・女馬を作り、鞍棚におく」(静岡県小山町大御神)等がある。

 一方これと関連する項目として西日本ではナス・キュウリで馬・牛を作るところが10カ所ある。
「縁に机を出し、みようが・きゅうりで馬を作り、馬の足を竹の枝で作ってたてる。みょうがの子で鶏をつくる」(岡山県新見市千屋)
「なすの牛、きゅうりの馬、みょうがのにわとりなどを作って供える」(岡山県八束村)
「みょうがとほうせんかの花弁でにわとり、きゅうりで馬、なすで牛をつくる。牛馬の尻尾にはナンバキビ(とうもろこし)の毛を用いる」(広島県東城町塩原)などがその事例である。

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◎ 第8位 虫除け・虫送り・虫干しをする(34ヵ所)

 七夕に虫除けや虫送り、虫干しをすることもよく見られる。なかでも七夕に飾った竹を、田畑の中や畦等に立てて虫除けにする習俗が23ヵ所ある。

具体例には、
「夕方ぼたもちをつくって、五、六尺ほどの小笹の枝元にはさみ、短冊に虫送るように書いて用水に立てておく」(宮城県泉町古内)
「竿飾りを行ない短冊に川名のほかに『大根大当り』などと書いてさげた。竿は翌日大根畑に持参し、虫よけの呪いとした」(福島県梁川町八幡)
「笹竹に短冊をさげ軒先に飾る。七夕が済めば大根や野菜畑に虫除けと称してたてる」(福島県安達町上川崎)
「笹竹は翌日川に流すが、一枝だけ残しておいて害虫がつかないといって大根畑に立てる」(茨城県緒川村小舟)
「七夕の竹は大根畑にたて、これをたてるともぐらが土を起こさない」(長野県真田町入軽井沢)
「立てた竹の小枝を大根畑にさすと虫よけになる」(長野県東村仁礼)「七夕の短冊を川に流すとき、小枝を畑に立てて虫除けにする」(徳島県東祖谷山村菅生)
などがあげられる。立てる場所は、野菜畑とくに大根畑が多い。

 本格的な虫送りをするところも7カ所ある。虫送りは稲などにつく病害虫を追い払うため村単位で行なわれる共同祈願の儀礼で、通常6、7月の夜に行なわれる。これを七夕に行なうのである。

事例としては、
「虫送りがある。虫をとり紙に包み、御幣を竹に挟み太鼓をたたいて村境に送る」(福島県飯館村飯樋)
「山垣(やまがい)上のかがり火を合図にたいまつをつけて、『稲の虫はゴジョウラク』といって畦をかける」(兵庫県青垣町佐治)
「休息日であり、虫おとしという供養をする。「何々おくる、何の虫おくる、稲の虫おくる」といい村境まででかけた」(広島県比和町三河内)などがある。

 また衣類や書籍などを取り出し、これに風を通して虫の害やカビを防ぐ虫干しも、寺などを中心に4カ所報告されている。

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◎ 第9位 女は沼や川で髪を洗う(21ヵ所)

 子供が水浴びをするのに対し、女性は沼や川で髪を洗うという習俗が多い。これは水による清めという点で共通するものである。以下の21カ所である。

「早朝女の人は河辺で髪洗いする」(福島県福島市鎌田)
「この朝四つ前に沼に行って髪を洗うと頭の病が治るという」(茨城県牛久町城中)
「この日に髪を洗うと黒く長くなる」(埼玉県越生町小杉)
「四つ前に髪を洗うと黒く長くなり、また洗濯物の汚れがよく落ちるという」(埼玉県花園村黒田)
「髪や膳を川で洗うとよく落ちる日という」(新潟県小千谷市西小千谷)
「この日に頭を洗うとよいといわれた」(富山県富山市星井町)
「女が髪を洗う日であるといわれた」(石川県小松市埴田町)
「この朝女の人は四つ前に川へ行って髪を洗った」(愛知県新城市大海)
「この日女は髪を洗った」(愛知県津具村行人原)
「女は7日に髪を洗うしきたりであった」(大阪府岸和田市土生町)
「7日の日に女は髪の毛を洗った。この日に髪の毛を洗うとからすのように黒く柳のように長くなるといった」(大阪府貝塚市蕎原町)
「この日頭の毛を洗うとよく落ちるという」(奈良県平群村櫟原)
「この日髪を洗えば良く落ちるといって、昔は川へおりて髪を洗った」(奈良県十津川村竹筒)
「この日、この川は京の鴨川となるので、女が髪を洗うとよい」(鳥取県西伯町落合)
「女の人はこの日に髪洗いをした」(徳島県徳島市上八万町)
「髪を洗うとよいという」(徳島県美馬町惣後)
「女は谷川で髪を洗う」(徳島県東祖谷山村菅生)
「流れ川で髪を洗う」(香川県満濃町吉野)
「女たちはこの日特に七夕洗いといって洗濯をしたり、髪を洗ったりする」(福岡県前原町井原)
「女子は七日洗いといって髪を洗ったり、その他のすすぎ洗濯をする」(福岡県大川市榎津)
「女子は七夕洗いといって、髪を洗ったり洗濯したりする」(福岡県高田町開)

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◎ 第10位 ネブタ祭り、ネブタ流しをする、ネムの葉などで目をこする(18ヵ所)

 ネブタ祭りといえば、青森県の青森市(ネブタ祭り)と弘前市(ネプタ祭り)が有名である。これはおおきな人形型や扇型の灯籠を練り歩き、7日の朝に川や海に流す行事である。これほど大規模でないが青森県を中心に灯籠をつくり、練り歩く行事が6カ所報告されている。

「ネブタ灯籠といって人物または動物をかたどった大灯籠をつくり、陰暦7月5日ごろから7日まで3日間、子供らは扇形か金魚ネブタを1日から1週間運行する」(青森県今別町袰月)、
「小さな扇形のものを各自で作り、はやしながら歩いた」(青森県柏村桑野木田)、
「1日から7日までネブタをつくり、灯をつけて1週間内を巡り歩く」(青森県浪岡町王余魚沢)、
「1日の晩から毎晩1週間、若者連中はナブタ祭りを行う」(青森県平賀町広船)
「ネブタが明治30年ごろまて盛んであった。若者組が主催しおおきなキリコを作って車に乗せ、町内を曳きまわった」(秋田県多和田町毛馬内)
「七夕のやま(山車)は大正末期から昭和の初期にかけて作られた。手製の灯籠に絵を書き、太鼓をのせて笛・拍子木のはやし方がつき、旧7月6,7日にをねり歩いた」(秋田県稲庭川連町大館)

なおねぶたという言葉は用いないが、ガクとよばれる灯籠を荷車につけ行列するネブタと同じような行事が北海道で報告されている。
「各町内ごとにガクを出す。ガクはトンチ絵や、武者絵を書いた6尺くらいの大きさの燈籠を荷車につけたもので、太鼓をたたいて行列し、行列がぶつかるとけんかする」(北海道松前町)

 いっぽうネブタと言葉は同じであるが、行事の内容はいささか異なるネブタ流しも東北地方を中心に12カ所みられる。それは「ねぶた流し」「ねむった流し」などとよばれ、ねむの木の葉や大豆の葉で目をこすり眠けをはらう習俗である。言葉だけが残っているところもある。

「ネブタ流し、7月1日はネブタの始め」(青森県相馬村)
「ねむり流し」(秋田県稲庭川連町大館)
「ごちそうを食べて、ねぶると流すぞ、といって一晩中遊んだ」(山形県酒田市本楯)
「七夕と合わせて未明にネムッタ流シの行事がある。ねむの木の葉のまだ開かないうちに、洗顔のときに葉っぱで眼をこすり、『ねむった、ねむった流れろ』と唱えて流すと、お盆に夜ふかししても朝起きができるという」(福島県表郷村金山)、
「ねむった流し。朝ねむの木の葉が合わさっているうちに、ねむの小枝と豆(大豆)の葉を川に流す」(福島県矢祭町内川)、
「子供はねむった流しをする。豆の葉で眼をこすり『ねむった流れる、豆葉つっかかれ』といって豆の葉を川にながす」(福島県下郷町南倉沢)、
「子供はメッタ流しを大川で行い、『メッタ(目胎の意)流れよ、豆の葉とまれ』と唱える」(福島県西会津町弥平四郎)
「早朝暗いうちに子供は水あび(ねぶたといった)に行った」(栃木県黒羽町川上)
「朝はねぶたで目をこすり顔を洗うと、夏の暑い日に眠けがさめるという。翌朝それらを川へ流すが、以前は『ねぶたは流れる心はとまれ』などといった」(埼玉県小川町小貝戸)
「土地ではネブタ様といっている。朝早くネブタを取ってきてそえる」(埼玉県秩父市裏山)
「ネブタの木の枝も新竹にそえて祭る」(埼玉県大滝村滝之沢)
「朝早く子供たちは『眠気を流す』といって、祭った笹竹を川へ納めにいく」(愛知県新城市大海)

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◎ 第11位 牛を川や池で洗う、泳がせる(17ヵ所)

 牛は農耕用として、また運搬用として古代から飼育されていた動物である。七夕に牛を洗ったり泳がせたりする風習は「牛洗い」などとよばれ、西日本に多い。特に大阪4、岡山4、広島7で計15例と大半を占めている。

「牛の水を浴びる日」(新潟県両津市河崎)
「牛を飼う家では朝、牛を川で洗い氏神さんへ詣った。牛神さんというものがあり、麦ばかりの握り飯にぬかをふって、牛神さんに供え、それを各家へ1個ずつもらって来て、食べるまねをしてから、牛に食わせた。」(大阪府岸和田市塔原)
「朝早くおきて川へ牛を洗いに行った。牛洗いには小木川の上流の山奥へ行った」(大阪府貝塚市蕎原)
「朝早く牛と出かけ、たなばたを川へ流し、牛を池で泳がせた。そのあと牛を牛神へつれていってお神酒をうけた」(大阪府熊取町和田)
「七夕を流しにゆくとき、牛をひいて行って川で洗ってやる。それから牛神につれてまいった」(大阪府東鳥取町自然田)
「根来川で牛洗いと称し、小麦わらで牛を洗う」(和歌山県岩出町根来)
「牛を河につれてゆき洗う」(岡山県矢掛町東三成)
「牛を洗う」(岡山県昭和町水内)
「牛洗い」(岡山県北房町中津井)
「牛も洗ってやる」(岡山県八束村)
「牛の盆といって牛を洗う」(広島県尾道市梶山田)
「牛を洗ってやる」(広島県甲山町東上原)
「牛ノ釜と称して牛を洗う」(広島県福山市走島町)
「たでの葉で牛を洗う」(広島県豊松村)
「午前中、牛を川原につれて行って、しらみがわかぬといって、たでの葉・きゅうりの葉で洗ってやる」(広島県東城町塩原)
「この日いぬたでをもって牛を洗う」(広島県東城町帝釈)
なお1例だけ「牛馬を洗う」(広島県世羅西町上津田)と馬を含めた例があった。

 関連した事例として、「牛神をまつる」が6ヵ所(大阪府4、和歌山県1、広島県1)報告されている。

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◎ 第12位 物を洗うとよく落ちる(14カ所)

 物を洗うとよく落ちるからといって、七夕に道具などを洗う習俗もよくみられる。これは、井戸替えをする、水浴びする、女は髪を洗うなど、この日に水で清めるという習俗と関連するものであろう。

「午前10時までに物を洗うとよくおちるという」(茨城県古河市中田)
「この日に洗うとよく落ちるといって、家では燈蓋皿や鉢や油のしみた道具などを洗った」(長野県清内路村)
「この日に物を洗えばすべてきれいになる」(神奈川県小田原市早川)
「この日に油のついたものを洗うとよく落ちるといわれている」(愛知県新城市大海)
「かわらけの油はこの日の朝、人知れず洗いに行けばよく落ちる。また洗濯をするとよくとれるという」(奈良県十津川村神納川)
「この日に洗い物をすればよく落ちるといって谷へ洗いに行った」(奈良県十津川村谷垣内)
「7月6日仏壇から位牌その他をおろして水で洗った」(鳥取県関金町今西)
「この日仏道具をみがき、朝日のあたらぬ先にすずりを洗う」(鳥取県日南町多里)
「すずり本洗い」(広島県八本松町飯田)
「7日の朝、まだ日の出ぬとき、かわらけを洗う」(徳島県羽ノ浦町)
「女たちはこの日特に七夕洗いといって洗濯をしたり、髪を洗ったりする」(福岡県前原町井原)
「女子は七日洗いといって髪を洗ったり、その他のすすぎ洗濯をする」(福岡県大川市榎津)
「女子は七夕洗いといって、髪を洗ったり洗濯したりする」(福岡県高田町開)
「油のついた道具類も洗う。この日の水は油ものがよくおちる」(大分県栄村五馬)

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◎ 第13位 雨が降ると良い、雨がふると悪い(計13カ所)

 七夕の日は雨がふるという言い伝えを持つところが多い。「雨がふると良い(8カ所)」というところと、「雨がふると悪い(5カ所)」というところがある。

 良いという事例は、
「雨のないときは風害があるといい、雨の降ることを祈る」(栃木県鹿沼市樅山)
「この日雨が降るとよいとされた」(栃木県川上)
「6日に雨が降るとよいという」(東京都世田谷区粕谷)
「(七夕には)大きい雨が降るといった。朝降ると陽気がよいという」(神奈川県山北町中川箒沢)
「この日たとえ3粒でも雨が降ったほうがよい」(神奈川県松田町寄・虫沢)
「この日は1粒でも雨が降るとよいといわれた」(富山県富山市星井町)
「七夕の晩雨だと天の川に水がでて彦星と織女が逢えぬから、その年は虫が出ぬ」(山梨県富沢町福士)
「この日雨が降らなければ、ほうそう神さんがたたるといって子供の状態に注意する。雨が降るとほうそう神とやくの神が天の川で会うのでそんな心配はない」(山梨県丹波山村)である。

 雨がふると悪いという事例は、
「この日には雨が降って天の川が洪水になって2人が会えないものだという」(兵庫県社町上鴨川)
「七夕雨が降ると伝染病がはやるという」(奈良県安堵村岡崎)
「この日四つまでに雨が三粒でも降れば二人は会えぬという」(奈良県十津川村谷垣内)
「雨が3粒おちてもたなばた様はお出にならんという」(高知県木壽村四万川)
「雨が3粒降ると、お星様は天の川を渡れない、といった」(高知県土佐山田町楠目)である。

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◎ 第14位 着物を供える、晴着を着る、着物を着替える(12ヵ所)

 七夕に着物を供えたり、着替えたり、晴着を着る習俗が各地に残っている。これは機織りや裁縫など技芸の上達を祈る乞巧奠の行事に、江戸時代になり着物を供える習俗が出てきて、それが続いているものである。

「一番装いを七夕さまに貸し申す、と称して晴れ着を着る」(岩手県大野村大野)、
「屏風か縄に女の衣装をかけて祭る」(山形県酒田市飛鳥)
「七夕様の織った衣装になぞらえ、廊下・座敷などに衣装を掛けた」(福島県安達町上川崎)
「女の子にひとえもんの着物をつくって着せる」(群馬県中之条町蟻川)
「新しく縫った着物を七夕様に供えると、針の腕があがる」(埼玉県越生町小杉)
「新しく縫った着物を七夕様に供えると、針の腕があがる」(埼玉県花園村黒田)
「主人と主婦の着物と帯、せんすを供える」(静岡清沢村黒俣)
「帯と着物を盆の上にのせ、きゅうり・ささげ・なすなどをまつった」(静岡県佐久間町戸口)
「盆に着る着物を作ってもらったら、たなばた様に着ぞめをしてもらえば焼き穴ができぬといって、木刀のまん中をくくってさげ、両袖を通して仏さまの前にさげておいた」(奈良県十津川村谷垣内)
「7回水浴び、7回食事、7回衣装を変える」(岡山県英田町河合北)
「7度水泳をして、7度着物を着替える」(広島県東城町帝釈)
「七夕さまは子供だくさんで貧乏であるから、この日衣類をお供えする」(大分県姫島村) 

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◎ 第15位 小屋や宿で子供たちが集まって、泊まったり会食をしたりする(10ヵ所)

 この日、子供たちが小屋や宿に集まり、泊まったり会食をしたりして遊ぶ地方も多い。東北地方を中心に、長野県、広島県、徳島県で集まった子供たちが水浴びをしたりして楽しむ様子が報告されている。

「子供たちは川べりに小屋を作って、水泳をして遊び、食事を共にし、夜は花火を上げる」(宮城県大和町吉田字沢渡)
「各子供組ごとに、子供たちが宿に集まり、白玉やそうめんを持ちより、ごちそうを食べて『ねぶると流すぞ』といって一晩中遊んだ」(山形県酒田市本楯)
「6日の夜から河原に小屋かけして泊まり、7日浴ビの水浴びをやる」(山形県米沢市通町)
「子供は小屋がけして宿泊し、七夕を祝う」(山形県米沢市綱木)
「6日の夜、子供たちは一室に集まり、共同炊事をして泊まり、7日朝、暗いうちに泳ぎに行った」(山形県白鷹町荒砥)
「子供が集まってどこかの家を宿にして、カワラゴモリといって泊まり、七夕祭りをする」(福島県喜多方市岩月町入田付)
「子供たちが、川ばたに小屋をつくっておこもりをした。ここで泊まって7日の朝早く水浴びしてオネンブリを流すといった。戦後やめになったが、子供たちがここで泊まるときいろいろ持ち寄って自分たちで料理をして食べた」(長野県真田町入軽井沢)
「子供は1か所へ集まり、親がでて米を持ち寄り、食事の世話をする」(広島県高陽町王久)
「加計本郷の子供たちは太田川の河原2か所に石を舟形に積み重ねむしろをしき、船の周囲に竹に短冊、幕をはってちょうちんをつり、へさきにはしめ縄をはり、野菜その他の供物を供えた。夜にはいるとろうそくをたて、太鼓をたたき素麺をたべて花火をやった」(広島県筒賀村)
「6日夜、七夕のよいで、子供組がシャーラ(精霊)小屋に集まり、子供がしらが中心になって遊ぶ」(徳島県鴨島町敷地)

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◎ 第16位 色紙で着物を作って飾る(6カ所)

 第14位の着物を供える習俗に関連して、子供が色紙で作った着物を飾る習俗が江戸中期から起こるが、これが各地に伝播して残っているものである。

「笹竹に小袖や小袴の折り紙をつるす」(愛知県新城市大海)
「女は五色の色(紙)で着物を折って供える」(福岡県前原町井原)
「色紙で作った着物を笹竹につけて飾る」(福岡県大木町笹渕)
「色紙で、袴・帯・花などを作って長い竹ざおの先につけてたてる」(熊本県八代市妙見町)
「女子は衣服の雛形を作って供える」(大分県栄村五馬)
「女は色紙で着物をつくり、から竹にむすんで立てる」(鹿児島県財部町下大川原)

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その他として主なものを項目だけ紹介すると以下のようになる。

◎ 第17位 七夕船を作り、川(海)に流す(4ヵ所)

「茅で作った船を子供がかついで「たなばた様よ、来年ござれよ」と唱えて村を回り、船を海に流す」(新潟県粟島浦村)
「茅で舟を作り、ちょうちんと短冊で美しく飾りたて、ねり歩いたのち川へ流す」(新潟県神林村宿田)
「青年たちは、麦藁・竹・藤づるなどで6~7尺の舟を作った。舟には人形と馬形を各戸が作ってのせた。青年たちはこの舟をかついで神社にお参りしたのち、もみ合いをしたのち海に行き「七夕様ようーまた来年ござれようー」と唱えながらこの舟を海に流した」(新潟県築地村大字村松浜)
「七夕舟を流す」(香川県多度津町佐柳島)

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◎ 第17位  相撲をとる(4ヵ所)

「淡島宮祭礼、西番の淡島の宮跡(合社があった)で奉納相撲をする。この祭神は疫神とも女人ともいって男の裸を喜ばっしゃるとされ毎年する」(富山市太田)
「村相撲があり、子供たちが相撲をとったが約55年前になくなった」(大阪府岸和田市土生町)
「若者は相撲をとった」(大阪府熊取町和田)
「福智下宮に里組が集まって、宮司のお祓いの式があって、子供角力に興じた。現在は行っていない」(福岡県赤池町上野)

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◎ 第17位 稲田をほめてまわる、田ホメ(4カ所)

「この日に三部経祭りの土のだんごを受けて来て、これをくだいて、おのおの自分の田を回りながら田にまき、稲田のできがいいとほめて回る行事があった。田ホメは現在はしていない」(福岡県鞍手町長谷)
「たいへんよくできました、と田をほめにゆく」(大分県大田村上沓掛)
「浴衣がけで田のできぐわいを回りながら、稲の作柄をほめて回る。田ホメの行事という」(大分県山香町浦篠7)
「田ボメ」(大分県武蔵町吉広)

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◎ 第17位 奉公人の出がわり、下男が仕事から解放される(4カ所)

「下男は仕事から解放された」(神奈川県相模原市田名滝)
「奉公人の出かわり(契約のきりかわり)の日でもある」(和歌山県下津町大窪)
「奉公人のいれかわりの日」(和歌山県清水町杉野原)
「昔は奉公人の出替りもこの日であった」(和歌山県金屋町石垣)

以上


                    

七夕の参考文献(論文)

2018-11-07 22:23:26 | 調査報告
七夕の参考文献(論文) 2006年現在

<目次>                         
七夕伝説(刊行年順)
七夕の歴史・民俗(刊行年順)
七夕歌(刊行年順)

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七夕伝説(刊行年順)
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◆藤沢衛彦「七夕二星の伝説 天界神話 鵲橋考」
藤沢衛彦『日本伝説研究5』所収 六文館 1932年

◆杤尾武「張騫説話と七夕説話」
西尾光雄先生還暦記念会編『日本文学叢攷』所収 東洋法規出版 1968年

◆出石誠彦「牽牛織女説話の考察」
出石誠彦『支那神話伝説の研究』所収 中央公論社 1973年

◆大久間喜一郎「七夕説話伝承考」
『明治大学教養論集』75号 p1~22 1972年12月

◆柳田国男「犬飼七夕譚」
『柳田国男全集第13巻 年中行事覚書』所収 筑摩書房 95~106p 1973年

◆小南一郎「西王母と七夕伝承」
『東方学報(京都大学)』46号 p33~81 1974年3月

◆鈴木美恵子「日本古代文芸における七夕伝説受容をめぐって」
『金城国文(金城学院大学)』52号 p19~28 1976年3月

◆桂芳久「古代日本神話伝承の基層1 タナバタツメとアマテラスと」
『北里大学教養部紀要』20号 p194~178 1986年3月

◆鈴木陽一「七夕の伝説と祭祀習俗」
『人文研究(神奈川大学)』112号 p47~70 1992年3月

◆吉井美弥子「浮舟物語における七夕伝説」
早稲田大学大学院中古文学研究会編『源氏物語と平安文学』所収 早稲田大学出版部 1998年

◆茶園麻由「天人女房譚と七夕起源伝説」
『日本文学論集(大東文化大学)』23号 p1~12 1999年3月

◆金谷信之「七夕伝承考」
『関西外語大学研究論集』71号 p247~260 2000年2月

◆小松和彦「天界への通路 ―『天稚彦草子絵巻』」
小松和彦『異界と日本人』所収 p92~104 角川書店 2003年

◆呉 艶「時代の変遷に伴う神話・伝説の受容 七夕伝説をめぐって」
『同志社国文学』58号 p115~123 2003年3月

◆李 琳「牛郎織女の故事と七夕伝説」
『文明の科学』2号 p21~43 2003年3月

◆奥 真紀子「宇治十帖における七夕伝説ー大君・中の君から浮舟へ」
『立教大学大学院日本文学論叢』4号 p26~38 2004年6月

◆池田美桜・松本 学「七夕行事と絵本に関する一考察」
『国際学院埼玉短期大学研究紀要』26号 p77~81 2005年

◆舘入靖枝「七夕夜の隠し絵ー七夕伝説と末摘花・雲居雁」
『物語研究』5号 p55~67 2005年3月

◆大西美和「地方劇に見る七夕伝承」
『愛知県立大学大学院国際文化研究科論集』6号 p131~153 2005年

◆杉本妙子「七夕伝説の比較文化ー中国、日本、韓国朝鮮、ベトナムの比較」
『コミュニケーション学科論集』19号 p101~118 2006年3月

◆勝俣 隆「七夕伝説の起源と変化」
(その1)なぜ七月七日か
『天界』87(975) p504~506 2006年8月
(その2)なぜ鵲の橋を渡るのか
『天界』87(976) p565~567 2006年9月
(その3)なぜ牽牛織女が天の河を挟んで向かい合うのか
『天界』87(977) p604~606 2006年10月
(その4)牛から犬へ…羽衣伝説との融合
『天界』87(978) p686~689 2006年11月
(その5)七夕と乞巧奠、織女と瓜
『天界』87(979) p749~751 2006年12月

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七夕の歴史・民俗(刊行年順)
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◆折口信夫「七夕祭りの話」
『旅と伝説』3(7) p108~116 1930年7月
『折口信夫全集15』所収 中央公論社 1967年

◆信濃教育会南安曇郡部会「七夕  七夕様  供え物・食物  七夕送り」
信濃教育会南安曇郡部会『南安曇郡郷土調査叢書1 年中行事篇』所収 p221~232
郷土研究社 1935年 

◆押尾孝「七夕の真菰馬(房総)」
『旅と伝説』14(7) p9~11 1941年7月

◆佐藤悌「七夕と農村儀礼 大分県速見郡日出町」
『民間伝承』13(11) p36 1949年11月

◆村田煕「甑島の七夕とトビサゴ」
『民間伝承』15(10) p18~19 1951年10月

◆小沢秀之「甲州の七夕祭り」
『民間伝承』15(10) p28~30 1951年10月
 
◆貞方春野「七夕の料理」
『家庭科教育』26(7) p56~59 1952年7月

◆中塩清臣「七夕まつり構造論」
『富山大学文理学部文学紀要』2号 p29~51 1952年11月

◆田中磐「松本地方の七夕人形の系統」
一志茂樹先生還暦記念会編『地方研究論叢』所収 一志茂樹先生還暦記念会 1954年

◆酒井卯作「七夕と農耕」
 『稲の祭り』岩崎書店 p215~226 1958年

◆田中磐「信州松本地方の七夕人形の源流」
 『日本民俗学』6号 1959年3月

◆佐々木秀子「大呂の七夕祭」
『史窓』14号 p73~75 1959年4月
内容:京都府中郡峰山町大呂の安達家で行われている七夕行事の紹介

◆高木啓夫「土佐の七夕習俗と伝承」
『日本民俗学』17号 1961年4月

◆大井ミノブ「中世における立花成立の基盤 とくに七夕花合について」
『日本女子大学紀要(文学部)』11号 1962年7月

◆芳賀日出男「高岡の七夕祭」
『俳句』12(7) p138~145 1963年7月

◆田中磐「信州松本地方の七夕人形の源流」
田中磐『信濃・松本平の民俗と信仰』所収 p143-148 安筑郷土誌料刊行会 1964年

◆木村誠一「松前総社堂の七夕と七日盆 北海道漁師町ぐらし」
『民間伝承』32(3) p148~152 1968年10月

◆神戸新聞学芸部「七夕  姫路市白浜町宇佐崎・飾磨郡夢前町神種、資料編(兵庫県内各地)」
『兵庫探検 民俗編』所収 p218~222 神戸新聞社  1972年

◆清水基美「聖なる乙女信仰 主として上州の七夕について」
『短歌研究』29(7) p116~119 1972年7月

◆鮎貝久仁子「甦える七夕祭(東京)」
『短歌研究』29(7) p120~123 1972年7月

◆細谷福太郎「日本の夏 郷土の七夕(京都)」
『短歌研究』29(7) p128~129 1972年7月

◆中原勇夫「佐賀平野の七夕まで」
『短歌研究』29(7) p134~137 1972年7月

◆永平利夫「合歓の木の葉ごしもいとへ 松前の七夕との出会い」
『短歌研究』29(7) p110~111 1972年7月

◆真鍋隆彦「地域社会における民俗芸能の伝承組織2 市来町大里七夕踊りの事例」
『経済学論集(鹿児島大学)』8号 p235~266 1972年2月

◆「埼玉の七夕とお盆特集」『埼玉民俗』2号 1972年 埼玉民俗の会

◆内田賢作「埼玉の七夕について」
『埼玉民俗』2号 p11-21 1972年 埼玉民俗の会

◆井上 浩「たなばたの日の雨」
『埼玉民俗』2号 p22-31 1972年 埼玉民俗の会

◆坂上昭夫「坂上家の七夕とお盆」
『埼玉民俗』2号 p51-58 1972年 埼玉民俗の会

◆鳥越憲三郎「七夕祭りの変遷」
鳥越憲三郎『歳時記の系譜』所収 p201~215 毎日新聞社  1977年

◆近江恵美子「仙台七夕の伝統と継承 七夕ゼミナール報告」
『紀要(東北生活文化大学他)』13号 p73~81 1977年

◆得能誠「神奈川県中郡大磯町西小磯の七夕祭」
『民俗と歴史』第5号 1977年

◆「お盆と七夕の習俗 板倉町の民俗行事その1」
 『板倉町史基礎資料(群馬県)』48号 80p 1977年1月

◆守屋毅「つくりもの考7 七夕竹」
『日本美術工芸』478号 p94~99 1978年7月

◆ 「仙台七夕の由来」
 仙台市民図書館編『要説宮城の郷土誌』所収 p31~37 宝文堂出版 1980年

◆井上重義「七夕人形(姫路市)」
井上重義『兵庫の郷土玩具』所収 p118~122 神戸新聞出版センター  1981年

◆田中磐「七夕人形コレクション」
『信州の民俗コレクション』所収 p9~36 信濃毎日新聞社  1982年

◆今井登子「播州姫路の七夕人形」
『女性と経験』8号 p31~35 1983年

◆田中宣一「七夕まつりの原像」
『日本民俗研究大系 第3巻』所収 國學院大學  1983年

◆奥野広隆「七夕の綱張り行事 熊本県南部の特殊な分布」
『日本民俗学』151号 p36~53 1984年1月

◆蛸島 直「ローソク出せ出せよー民俗のひとり歩きー」
『日本民俗学』166号 1986年7月

◆荒尾須賀子・小寺比出子「七夕」
 『冷泉家の歳時記』所収 p137~143 1987年 京都新聞社

◆ 後藤淑「大磯町の七夕祭」
『神奈川県文化財図鑑 補遺編』所収 神奈川県教育委員会 1987年

◆鈴木晋一「素麺と七夕」
 『たべもの史話』所収 p117~121 1989年 平凡社

◆岩城邦子「七夕人形考 長野県松本市の七夕人形を中心に」
 『歴史研究』335号 p28~48 1989年3月

◆吉成直樹「七夕、盆行事にみる水神祭祀としての性格」
『日本民俗学』187号 p31~66 1991年8月

◆板垣時夫「旧南埼玉郡北部の七夕習俗」
『八潮市史研究』8号 1991年 八潮市立資料館

◆土屋京子「子供の行事食について 七夕の場合」
『東京家政大学研究紀要』32号 p39~44 1992年2月

◆小笠原一「七夕考 用字を中心に 織女から七夕へ」
『学芸国語国文学(東京学芸大学)』24号 p37~46 1992年3月

◆小野重朗「七夕踊り」
小野重朗『南日本の民俗文化4 祭りと芸能』所収 第一書房 1993年

◆正道寺康子「『うつほ物語』における七夕ー琴との関係を中心にー」
『現代社会文化研究(新潟大学)』1号 p1~30 1994年12月

◆桜井満「七夕の古典」
桜井満『節供の古典 花と生活文化の歴史』所収 p123~143 1993年 雄山閣
桜井満『桜井満著作集9 花の民俗学』所収 おうふう 2000年

◆倉石忠彦「タナバタ伝承の禁忌に見る地域性」
『国立歴史民俗博物館研究報告』52号 p161~183 1993年11月

◆斎藤達次郎「柳田国男・七夕と洪水の昔話・世界観」
鈴木正・山領健二編『日本思想の可能性』所収 五月書房 1994年

◆森銑三「愛知県三河の七夕」
『森銑三著作集 続編』第15巻 p316~318 1995年

◆塚本宏「『七夕の草紙』考」
『和洋国文研究(和洋女子大学)』30号 p47~73 1995年3月

◆小田嶋政子「七夕 八月七日 ローソクもらい」
小田嶋政子『北海道の年中行事』所収 p165~171 北海道新聞社 1996年

◆石川博行「七夕行事の一考察」
『埼玉民俗』19号 1996年 埼玉民俗の会

◆冷泉布美子「冷泉家雅の十二カ月1 七夕 星に歌を手向けて」
 『太陽(平凡社)』1997年7月号 p110~114

◆藤本孝一「冷泉家の乞巧奠 七夕祭の史料を中心に」
 『文化財報』98号 p3~10 1997年8月

◆沼崎一郎「日本のなかのフィリピン、フィリピンのなかの日本 仙台七夕祭の「多文化化」についての覚書」
『東北文化研究室紀要(東北大学)』41号 p75~86 1999年

◆冷泉布美子「七夕 星に願いを」
『冷泉布美子が語る 京の雅 冷泉家の年中行事』所収 p114~121 集英社 1999年

◆熊野卓司「前橋七夕まつり(群馬・前橋市) 町全体の取り組みが生む飾りと催しのハーモニー」
『商業界』52(10) p25~28 1999年10月

◆畑野栄三「村松浜の七夕流しと武者人形と紙人形」
『郷玩文化』135号 p142~146 1999年10月

◆上田正昭「七夕の伝流」
日本風俗史学会編『日本の風と俗』所収 p6~21 つくばね舎 2000年

◆石原重男「多古町の七夕馬行事」
『町と村調査研究(千葉県立房総のむら)』3号 p45~51  2000年3月

◆小熊延幸「神林村塩谷地区のタナバタまつり」
『高志路(新潟県民俗学会)』338号 p13~17 2000年11月

◆稲葉継陽「荘園政所の七夕と夏麦納法」
『日本歴史』630号  26~31 2000年11月

◆産経新聞取材班「七夕」
産経新聞取材班『祝祭日の研究―「祝い」を忘れた日本人へ』所収 p102~111 角川書店  2001年

◆佐川和裕「大磯町西小磯の七夕」
『民俗学論叢(相模民俗学会)』16号 p91~115 2001年4月
 
◆石沢誠司「花洛十二か月 七月 七夕」(京都の七夕)
『茶道雑誌』65(7) p103~110 2001年7月

◆小熊延幸「紫雲寺町藤塚浜の七夕祭り」
『高志路(新潟県民俗学会)』340号 p6~11 2001年7月

◆石沢誠司「埼玉県上尾市の真菰馬を飾る七夕まつり見学記」
『郷玩文化』146号 p313~319 2001年9月

◆上田正昭「古代飛鳥の七夕信仰」
上田正昭『半島と列島・接点の探求』所収 p144~149 2002年

◆中山真知子「七夕の立花」
『いけばなの起源 立花と七支刀』人文書院 p96~104 2002年

◆石沢誠司『高山市松ノ木町の七夕まつり(七夕岩)見学記』日本七夕文化研究所 8p 2002年

◆江口智子「子どもたち生き生き七夕の支度―子宝五節遊」
鈴木章生編『江戸東京歴史探検1 年中行事を体験する』所収 p62~63 中央公論社 2002年

◆石山秀和「初秋の風物詩今に伝えるー風流五節句之内 七夕」
鈴木章生編『江戸東京歴史探検1 年中行事を体験する』所収 p64~65 中央公論社 2002年

◆逆井萬吉「七夕」(茨城県猿島郡七郷村・現岩井市)
逆井萬吉『こっちの水はにーがいぞ 菅生沼の四季、昭和二十年代の子どもたち』所収 p58~66 文芸社 2003年

◆小熊延幸「中条町村松浜のタナバタまつり」
『高志路(新潟県民俗学会)』348号 p37~44 2003年5月

◆鎌田幸男「秋田の眠り流し考ー七夕・盆行事の視点から」
『秋田市史研究』12号 p65-77 2003年8月

◆高橋綾子・初沢敏生「仙台七夕まつりの変容に関する一考察」
『福島大学地域創造』15(1) p4937~4944 2003年9月

◆斎藤弘之「七夕「額」飾りの世界 ー七夕に立万古を飾る西三河南部地方の習俗ー」
 『安城市歴史博物館研究紀要』10・11合併号 p133~165 2004年2月

◆渡辺善司「千葉県における明治時代後期の七夕行事 『郡誌』の記述を頼りとして」
『千葉県立中央博物館研究報告人文科学』8(2) p43~48 2004年3月

◆林 和生「中国伝統文化中的七夕ー七夕源流探討」
『常磐国際紀要』8号 p1~17 2004年3月

◆「冷泉家の乞巧奠 京都の七夕あれこれ」
『週刊朝日百科 日本の祭り4』朝日新聞社 p14~21 2004年6月

◆「仙台七夕まつり 東北各地の七夕」
『週刊朝日百科 日本の祭り8』朝日新聞社 p2~13 2004年7月

◆「特集 七夕にお茶会を」
『淡交』58(7) p 12~31 2004年7月
内容 岡崎宗澄「七夕にお茶会を」、小澤宗誠「七夕の趣向に向くお道具」、「七夕の趣向を彩るお菓子」

◆尾崎織女「『室津の七夕飾り』聞き書き」
 HP『七夕文化・調査報告』所収 日本七夕文化研究会 2004年12月

◆中田仁公「わが市を語る 交野市(大阪府)七夕伝説のロマンと豊かな自然に次代の夢を紡ぐまち かたの」
『市政』53(12)p124~127 2004年12月

◆近江恵美子「仙台七夕の伝統と継承」
『東北生活文化大学・東北生活文化短期大学部紀要』35号 p37~46 2004年

◆木下 守「書評 石沢誠司著『七夕の紙衣と人形』」
『信濃』57(1) p 75~79 2005年1月

◆小熊延幸「新潟町の七夕祭り(湊祭)」
『高志路(新潟県民俗学会)』355号 p 1~12 2005年3月

◆石沢誠司「日本人と七夕 ー『日本民俗地図』に見る20世紀前半の七夕行事ー」
 HP『七夕文化』所収 日本七夕文化研究会 2005年3月

◆勝俣 隆「仙台市博物館所蔵『七夕』の翻刻並びに解題」
『長崎大学教育学部紀要 人文科学』70号 p1~16 2005年3月

◆「松本・軒端に揺れる、七夕の雛」写真=小林庸浩
『銀花』142号 p 50~58 2005年6月

◆木下 守「七夕と人形 ー松本の愛すべき風習」
『銀花』142号 p 59~61 2005年6月

◆丘 桓興「祭りの歳時記(7)星を祭り、子授けを祈るー七夕節」
『人民中国』625号 p72~75 2005年7月

◆金田文男「七夕行事」
『高志路』356号 p19~33 2005年7月

◆柳 正博「埼玉の七夕習俗ー七夕飾りと農耕儀礼をめぐって」
『埼玉県立歴史資料館研究紀要』27号 p91~106 2005年

◆尾崎織女「兵庫県市川流域に伝わる紙衣」
『郷玩文化』170号 p281~291 2005年9月

◆尾崎織女「兵庫県市川流域に伝わる紙衣」
松本市立博物館編『七夕と人形』所収 p42~57 郷土出版社 2005年

◆信清由美子「山梨の七夕人形」
HP『七夕文化』所収 日本七夕文化研究会 2005年10月

◆大原俊二「星のメルヘン 米子の七夕祭りと宇気河口(うけ・かわぐち)神社」
『伯耆文化研究』7号 p59~75 2005年

◆信清由美子「山梨の七夕人形」
『天界』87(971) p198~205 2006年4月

◆尾崎織女「復活をめざす生野七夕」
 HP『七夕文化・調査報告』所収 日本七夕文化研究会 2005年7月

◆石沢誠司「山梨の七夕人形 オルスイさん」
『郷玩文化』176号 p37~47 2006年9月

◆尾形 彰「北海道の七夕 道東の町・遠軽からの報告」
 HP『七夕文化・調査報告』所収 日本七夕文化研究会 2005年7月

◆澤村泰彦「平塚七夕まつり」
『里に降りた星たち』所収 p24~29 平塚市博物館 2006年

◆澤村泰彦「幻の七夕人形ー二宮町山西の七夕」
『里に降りた星たち』所収 p30~35 平塚市博物館 2006年

◆澤村泰彦「伝統を継ぐー大磯町西小磯の七夕」
『里に降りた星たち』所収 p36~42 平塚市博物館 2006年

________________________________________
七夕歌(刊行年順)
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◆山崎馨「憶良の七夕歌二題」
『語文(大阪大学)』11号 p18~21 1954年3月

◆池宮正治「万葉集における文学の場としての宴 七夕・月人壮士を中心に」
『琉球大学法文学部紀要 人文篇』13号 p69~92 1969年4月

◆後藤重郎「建礼門院右京大夫集七夕歌に関する一考察」
『名古屋大学文学部研究論集』52号 p31~51 1971年3月

◆久米常民「山上憶良の七夕宴の歌」
『愛知県立大学説林』22号 p1~10 1973年12月

◆戸谷高明「万葉の天象 星と七夕の歌」
『早稲田大学教育学部学術研究 国語・国文学編』23号 p1~17 1974年12月

◆辛島武雄「万葉集 七夕の歌一首 短歌を併せたり 独唱曲」
『別府大学紀要』18号 p37~48 1977年2月

◆片岡智子「七夕の歌にみる「天の河」のイメージの変遷1」
『ノートルダム清心女子大学紀要 国語・国文学編』4(1) p1~8 1980年

◆高野正美「万葉集の七夕歌」
『古代文学』20号 p103~117 1980年

◆岩崎礼太郎「新古今集・新勅撰集における七夕の歌」
『日本文学研究』16号 p91~101 1980年11月

◆井出至「万葉集七夕歌の配列と構造」
『萬葉』111号 p1~30 1982年9月

◆竹村則之「洪昇の七夕詩と長生殿」
『東方学』68号 p76~90 1984年7月

◆江口 洌「人麻呂歌集七夕歌の構成 表記の面から」
『千葉商大紀要』22(4) p74~104 1985年3月

◆月野文子「懐風藻の七夕詩 製作時期と「同用某字」の法」
『桜美林大学中国文学論叢』10号 p156~180 1985年

◆福田俊昭「懐風藻の七夕詩」
『日本文学研究(大東文化大学)』25号 p15~28 1986年1月

◆吉川栄治「平安朝七夕考説 詩と歌のあいだ」
和漢比較文学会編『和漢比較文学叢書3 中古文学と漢文学』所収 汲古書院 1986年

◆下西善三郎「万葉七夕歌・二星逢会の表現」
『金沢大学語学・文学研究』16号 p1~7 1987年1月

◆大島信生「万葉集七夕歌訓詁2題」
『皇學館論叢』21(1) p21~35 1988年2月

◆江口 洌「大伴家持と山上憶良「七夕歌」 表記時点への序論」
『千葉商大紀要』26(4) p72~48 1989年3月

◆月野文子「山田三方の七夕詩における日本的発想 「衣玉」と「彩舟」をめぐって」
『上代文学』63号 p97~110 1989年11月

◆江口 洌「大伴家持と山上憶良「七夕歌」 その表記者と表記時点」
『千葉商大紀要』27(3) p72~44 1989年12月

◆渡瀬昌忠「人麻呂歌集の七夕歌群 冒頭歌と末尾歌」
『実践女子大学文学部紀要』33号 p125~137 1991年3月

◆菊池威雄「万葉七夕歌の場と表現」
『国文学研究』105号 p11~22 1991年10月

◆吉川栄治「平安朝七夕再説」
和漢比較文学会編『和漢比較文学叢書11 古今集と漢文学』所収 1992年

◆渡瀬昌忠「人麻呂歌集の七夕歌群2 牽牛星と月人壮士との対詠6首」
『実践女子大学文学部紀要』34号 p13~23 1992年3月

◆渡瀬昌忠「人麻呂歌集非略体歌の七夕歌2首 「告げてし思へば」と「吾等が恋ふる」 
『実践国文学』41号 p35~52 1992年4月

◆菊池威雄「万葉集と集宴 万葉巻10を中心に」
『国文学研究』107号 p1~11 1992年6月

◆渡瀬昌忠「人麻呂歌集非略体歌七夕歌群 七夕以前の十数首について」 
『萬葉』146号 p42~58 1993年4月

◆浜田弘美「人麻呂歌集七夕歌の表現 語り手・配列・典型化」
『日本文学誌要』48号 p72~84 1993年12月

◆丹和浩「往来物における七夕の歌 類題和歌集の利用」
『学芸国語国文学(東京学芸大学)』26号 p128~136 1994年3月

◆渡瀬昌忠「人麻呂歌集七夕歌群前半の論 その第4群4首について」
『実践国文学』46号 p1~12 1994年10月

◆大浦誠士「万葉七夕歌と七夕語彙 タナバタツメ・ヒコホシの形成と定着」
『上代文学』73号 p23~37 1994年11月

◆中西進「七夕歌群の形成」
中西進『中西進万葉論集2』所収 講談社 1995年

◆宇野直人「歴代七夕詩の変容と柳永の「二郎神」詩」
宋代史研究会編『宋代の規範と習俗』所収 汲古書院 1995年

◆中西進「万葉集の七夕歌」
中西進『中西進万葉論集3』所収 講談社 1995年

◆渡瀬昌忠「人麻呂歌集の七夕歌群 立場上の歌い手と歌の作り手」
『言語と文芸』111号 p5~24 1995年1月

◆渡瀬昌忠「人麻呂歌集七夕歌群第5群4首の論 七夕当夜の相会以前」
『実践国文学』47号 p174~186 1995年3月

◆内藤明「人麻呂歌集七夕歌」
『国文学 解釈と教材の研究』43(9) p49~55 1998年8月

◆上林由貴子「人麻呂歌集の七夕歌 歌群構成が示唆するもの」
『成蹊国文』32号 p64~75 1999年3月

◆渡瀬昌忠「人麻呂歌集七夕歌群の構造 その第三十一首まで」
『萬葉(萬葉学会)』169号 p30~42 1999年4月

◆品田悦一「憶良の七夕歌十二首」
神野志隆光・坂本信幸企画編集『セミナー万葉の歌人と作品5』所収 和泉書院 2000年

◆高橋六二「家持の七夕歌」
神野志隆光・坂本信幸企画編集『セミナー万葉の歌人と作品9』所収 和泉書院 2000年

◆西條勉「人麻呂歌集七夕歌の劇的構造」
戸谷高明編『古代文学の思想と表現』所収 新典社 2000年

◆大浦誠士「憶良の七夕歌」
『椙山国文学』24号 p25~51 2000年3月

◆月野文子「家持の七夕歌「まそ鏡清き月夜に雲立ち渡る」考 「まそ鏡」と「月鏡」
『国文学研究(早稲田大学国文学会)』130号 p47~58 2000年3月

◆渡瀬昌忠「七夕伝承と人麻呂歌集七夕歌群 天武朝の天文知識を前提として」
『文学・語学(全国大学国語国文学会)』166号 p1~17 2000年3月

◆遠藤寛一「七夕説話と「長恨歌」について 長恨歌の研究7」
『江戸川女史短期大学紀要』15号 p18~39 2000年3月

◆上平真由美「古今集の七夕歌」
『人文学科論集(茨城大学)』34号 p107~114 2000年10月

◆田坂憲二「織女は立秋から牽牛を待つのか 『古今和歌集』七夕歌瞥見」
『香椎潟』46号 p13~23 2000年12月

◆西原能夫「万葉七夕歌と山上憶良の七夕長歌」
『昭和学院国語国文』34号 p1~8 2001年3月

◆北山円正「更級日記の七夕歌」
『神女大国文』12号 p12~24 2001年3月

◆工藤力男「人麻呂歌集七夕歌解読法」
『国語と国文学』78(11) p101~113 2001年11月

◆佐藤美知子「七夕歌と天官書的世界」
佐藤美知子『万葉集と中国文学受容の世界』所収 2002年

◆大濱眞幸「七夕歌の「霞」」
関西大学国文学会編『片桐洋一教授古稀記念国文学論集』所収 関西大学国文学会 2002年

◆大濱眞幸「七夕歌の「霞」 憶良作巻八・一五二八番歌をめぐって」
『国文学(関西大学)』83・84号 p29~39 2002年1月

◆鉄野昌弘「後期万葉歌人の七夕歌」
説話と説話文学の会編『説話論集13 中国と日本の説話1』)所収 清文堂出版 2003年

◆山崎健司「人麻呂歌集の七夕説話」
説話と説話文学の会編『説話論集13 中国と日本の説話1』)所収 清文堂出版 2003年

◆加藤有子「〔カン〕と〔ボ〕 人麻呂七夕歌の一用字と黄帝神話」
『日本文学研究(大東文化大学)』42号 p9~22 2003年2月

◆津田克巳「古代和歌における七夕」
『日本文理大学紀要』31(1) p43~53 2003年3月

◆森 斌「大伴家持七夕歌の特質」
『広島女学院大学日本文学』13号 p27~47 2003年7月

◆酒井茂幸「国立民俗学博物館蔵高松宮家伝来禁裏本『七夕廿首和歌』について」
『研究と資料』50号 p79~88 2003年12月

◆山崎健司「人麻呂歌集七夕歌の表記ー用字法から見た歌群意識」
『熊本県立大学文学部紀要』10(2) p 103~122 2004年3月

◆久保卓哉「陳後主の七夕詩と六朝の侍宴七夕詩」
『福山大学人間文化学部紀要』5号 p37~50 2005年3月

◆舘入靖枝「続・七夕夜の隠し絵 ー末摘花から浮舟へ(七夕伝説を紐帯として)ー」
源氏物語を読む会編『新典社研究叢書193 源氏物語<読み>の交響』)所収 p201~226 新典社 2008年11月






東根七夕まつり (動く七夕ちょうちん行列): 笹部いく子

2018-10-16 14:45:08 | 調査報告
 東根七夕まつり (動く七夕ちょうちん行列):笹部いく子

1.はじめに
七夕提灯との出会い ~東の杜資料館~
 山形県東根市に明治初期から100年以上の歴史を持つ全国でも珍しい「動く七夕提灯行列」があることを初めて知ったのは、娘婿の転勤で彼らの一家が北海道から山形県東根市に引っ越した2006年のことです。

 その年の3月、私は娘婿の家を拠点に雛巡りをするため、会場のひとつであった東の杜資料館を訪ねました。この資料館は旧東根城三の丸跡地に位置する横尾家の酒蔵を改造した歴史資料館で、昭和62年に開館、毎年3月末~4月3日まで横尾家をはじめ市内の旧家に残るお雛さまを展示公開しています。

 雛人形を見学して隣りの蔵へ移ると、そこは七夕展示室で「東根の七夕祭」と書かれた解説板があり、その前には七夕まつりの笹飾りと田楽提灯や大型提灯が展示されていました。 解説板には東根の七夕祭りについて説明が書かれていました。その内容を見出しをつけて紹介させていただくと以下のようになります。

  東根の七夕祭(動く七夕提灯行列)
東根七夕の由来
 古老の話によれば、江戸の末期頃から明治初期に、七夕の夜(旧暦7月6日)各家で豊作や家内安全等の願い事を田楽提灯に書いて、養蚕の棚竹につけて家の前に立てたものを、子供たちが持ち出して石油缶等を叩きながら歩きまわったのが始まりと言われている。明治38年、日露戦争が終わり凱旋兵士を迎えるために大太鼓・小太鼓・笛等で編成された音楽隊を七夕行列に利用するようになり、それに七夕祭独特の太鼓・ラッパも加わって提灯行列が一層にぎやかになったと伝えられている。

祭の特徴
 東根の七夕祭は子供達のまつりで、願いを託した短冊を青竹に下げて、自分で作った提灯に絵や字を書き、一日町の秀重院境内に祀られている天神様(菅原道真公)より灯をいただき提灯に移し、学問の向上、学芸の上達、五穀豊穣、家内安全を祈って町内を練り歩く動く七夕提灯行列が、明治以来、今日まで絶えることなく続いている全国でも類のないまつりです。子供達の発想は素晴しく、田楽提灯のほかに星・扇・西瓜・胡瓜・茄子・唐辛子・焼麩(やきふ)の形をした提灯まで作ったものです。

戦中から戦後にかけての七夕
 七夕祭の長い歴史の中で第二次世界大戦中は、提灯の絵や願い事も戦時色となり、行列の最初には必勝を祈願して八幡神社に詣でたものです。戦後は新暦の8月6日の夜に行うようになり、東根小学校校庭に全員集合し、一斉に提灯をともし、「竹に短冊七夕さまよ、一年一度の七夕さまよ」と斉唱し、本町通りを練り歩く盛大なものになりました。

七夕祭保存会の設立
 これまで小中学生だけで自主的に七夕祭を行ってきましたが、「受験勉強やクラブ活動・少子化」等で七夕祭に参加する子供が少なくなり、継続が危ぶまれてきたので、子供クラブ育成会と東根地区民とで、昭和47年に「七夕祭保存会」を設立し、全面的に後援することになりました。その後、提灯も大型化し、お城や、五重塔、宝船、マンガのキャラクター等がトラックに搭載されるようになりました。

東根まつりの一環として
 平成元年、東根市役所庁舎落成時より、東根まつりの一環として共催するようになり、東根地区の子供クラブだけでなく、東根市全地区の子供クラブ、東京中央区の子供達、東京東根会の会員も参加するようになり、益々盛大なまつりとなっております。尚この東根七夕祭は、平成6年1月1日に東根市指定無形民俗文化財(伝統芸能)の指定を受けております。
 東根七夕保存会・東根公民館・市商工会東根支部


東の杜資料館展示の東根七夕まつりの提灯

おなじく大型提灯
         
調査のきっかけ
 このようなきっかけで東根七夕祭のことを知ったわたしは、2007年、当時小学校6年生だった孫が神町地区から七夕提灯行列に初参加したのを機に初めてこの祭を見学しました。また、2009年は二つ違いの孫娘が、転居した小林地区から七夕まつりに初参加したので見学し、二つの地区の七夕祭の様子をつぶさに見ることができました。そこで、二人の孫に付き添って体験した事柄を中心にレポートするとともに、地元の新聞記事も引用させていただき、東根七夕の概要を報告します。

東根市の概要
 東根市は山形県中央部、山形盆地の北部に位置し、山形盆地で最大の乱川扇状地の扇端に市街地があります。市の東部は奥羽山脈で宮城県境、西に最上川を挟んで谷地町と隣接、南北は天童市と村山市に接しています。さくらんぼ「佐藤錦」の誕生地として生産高日本一を誇り、りんご、ラ・フランスなどの果樹園も多く「果樹王国ひがしね」として知られています。

 江戸時代には、紅花・たばこ等の換金作物の生産が盛んで、市の南北を貫く羽州街道が整備されると六田宿が設けられ、参勤交代によって江戸の文化が直接入りました。現在は羽州街道に平行して奥羽本線と平成11年に延伸した山形新幹線が走り「さくらんぼ東根」駅が誕生。さらに西に平行する国道13号線沿いの南部の神町には山形空港があり、大森地区に工業団地を誘致して人口も年々増加し、新興都市として発展しています。

2.七夕祭の準備
◆田楽提灯をつくる
 子ども会が中心となって行われる「動く七夕提灯行列」に欠かせないのが、田楽提灯です。夏休みになると、七夕行列に参加する子どもたちは、各こども会で定められた田楽提灯用の用紙に、好みの絵や願い事を描いて自分が持つ提灯を作ります。田楽提灯の作り方は地区によって違います。

A 神町地区
東根市南部、山形空港東方の神町地区では30の子ども会が結集しているため子供の数が多く、七夕行列に参加できるのは6年生だけです。神町地区の「でんがく提灯」は、長い1枚の紙を長方形の枠の左側面・正面・右側面・裏面の4面に巻き、上面と下面には別に切った紙をはります。

  でんがく提灯の作り方の図


神町地区の田楽提灯行列(2007年)

B 小林地区
「さくらんぼ東根駅」の東方にある大森緑地公園近くの小林地区は、ここ数年、新しく開発された住宅地で子どもが少ないため、子ども会の親子で七夕行列に参加します。
 田楽提灯用に渡されたA3用紙2枚に家で正面と裏面用に好みの絵や願い事を描きます。七夕まつりの前日に集会所に集まったとき、側面用の「小林育成会」と「団結」の文字がプリントされた紙(A3タテ2分の1)を貰って木枠に貼り、ローソクを立てて田楽提灯を仕上げます。
 田楽提灯は手作りの花を付けたり、棒を紅白の布で巻いたりして各子ども会で特色があり、シンボルマークを付ける地区もあります。

◆山車を飾る
 七夕まつりには、提灯行列の他に山車が参加します。七夕まつりの前日には親子で集会場に集まって田楽提灯を作るだけでなく、山車を飾る花や笹竹に吊す飾りや短冊などを一日がかりで準備します。笹は当日の朝に切り、短冊を下げて山車に載せ、丸い提灯や手作りの紙の花、電飾で飾り付けをします。
午後3時ごろ、完成した山車と子供達が地区内を回ります。

紙を木枠に貼ると完成

提灯と花で飾った小林育成会の山車

3.第40回ひがしね祭  動く七夕ちょうちん行列 
・2009年、第40回を迎える「ひがしね祭」は8月10日(金)・11日(土)の二日間、
・東根市役所周辺および東根本町通りを会場として開催されました。
・第一日目の10日のプログラムに「動く七夕提灯行列」と「七夕フィナーレ」が組まれています。
・第1スタート地点から出発する参加者は「JAさくらんぼ東根」の駐車場に集合。
・本部山車を先頭に三日町交差点を18:30にスタート。
・29号線を東へ→334号線との交差点で右折→白水川にかかる柳橋→最初の交差点で右折。
五間町交差点に向かい、第・スタート地点で集合の参加者と合流。
・参加人数、約3、100人、山車約60基の七夕提灯行列は東根市役所に向かって約2時間半
続きました。

七夕ちょうちん行列・出発地点とコース
◆七夕行列のスタート地点
・三日町交差点スタート● 18:30 → プログラム1番~17番、 26番~39番 
・五間町交差点スタート● 18:50 → プログラム18番~25番、 40番  

地図 七夕ちょうちん行列出発点とコース
 
◇音楽隊を持つ子ども会
「東根の七夕まつり」について東の杜資料館に展示されている東根七夕保存会の解説によると明治38年日露戦争が終り凱旋兵士を迎えるために大太鼓、小太鼓、笛で編成された音楽隊を七夕行列に利用するようになり、それに七夕祭独特の太鼓、ラッパも加わって提灯行列が一層賑やかになったと伝えられています。
 その伝統はいまも受け継がれ、田楽提灯行列に子ども会の音楽隊が参加している地区があります。
原方子供クラブの伝統の横笛の音楽隊、温泉町音楽隊、宮崎こどもクラブ音楽隊、一日町子供クラブ音楽隊などです。「竹に短冊七夕さまよ、年に一度の七夕さまよ」の唄も、古くから七夕まつりを行ってきた地区の子供達に伝えられています。
                                             ◇民俗芸能を伝える子ども会
 東根七夕まつりでは七夕提灯行列の他に、東根市指定無形民俗文化財を見ることが出来ます。

小田島地区 「小田島田植踊」の衣裳で参加
 小田島地区の「小田島田植踊」は江戸時代に飢饉に見舞われた時に五穀豊穣を祈願して奉納されたのが始まりで、300年以上伝承されています。保存会では、平成2年から小田島小学校の5・6年生児童を対象に「小田島田植踊子供伝承会」をつくり伝承活動が続けられ、七夕提灯行列には田植踊の衣裳で参加。行列途中の数ヶ所や、パレード終了後のステージで田植踊が披露されました。


東方子供クラブ「東根城」  
 長瀞地区は東根城型の灯籠の山車に続いて無形民俗文化財の「長瀞猪子踊」の猪子頭が火を噴いて登場。猪子踊の起源年代は不詳で慈覚大師に感謝の念を捧げるために猪子踊りを組織したと伝えられています。ほかにも大林子供クラブの花笠音頭や、神町地区「桜桃元気太鼓」、高崎地区「黒伏太鼓」東郷地区「東郷太鼓」六田子供倶楽部 「六田龍太鼓」など地元太鼓の民俗芸能がでます。

◇子ども会の大型山車
 各地区で工夫を凝らした山車には大型提灯に縁起物や漫画のキャラクターを描いたものがあり、電飾などで華やかに飾られます。1地区では数台の山車が出るところもあります。
       
 孫が参加した小林地区の出番は40番中の35番で終わりに近く、ゴールの東根市役所前に着いたときは、夜9時を過ぎていました。参加のこども達はトップから1時間以上遅いゴールにお疲れさまでした。そして、七夕行列の最後まで雨が止んでいたことが幸いでした。

◇公共・企業団体の山車
 本部山車 ・市長と実行委員が乗った本部の山車をはじめとして、東根市議会、東根公民館、東根市企業連絡協議会、企業連号、果樹王国ひがしね、などの山車がでました。

4.「Look for 伝承文化」こども教室の七夕提灯
 2005年から文化庁の助成を受けて、「Look for 伝承文化子ども教室」で大富中学校の生徒達が、地区の大人の指導で竹で骨組みを作り、手作り和紙を貼って製作して七夕提灯行列に参加しています。

◆七夕提灯のテーマ
2007年「昔の七夕提灯&イバラトミヨと水中生物」。
2008年 市制50周年を記念して「果樹王国ひがしね」のキャラクター・タント君にも挑戦。
2009年「果樹王国ひがしね不思議な樹」


07年の七夕提灯「昔の七夕提灯&イバラトミヨと水生動物」

 東根の七夕まつりの提灯行列で私が最も注目しているのが、昭和30年頃まで続いていた昔ながらの野菜や果物を模った提灯です。今年は復元されて5年目になります。「Lookfor伝承文化こども教室」の約15人の生徒達は、七夕の一ヶ月前から週に一度集まって七夕提灯の製作にとりかかっていたそうです。

09年の七夕提灯「果樹王国ひがしね不思議な樹」サクランボ・胡瓜・リンゴの樹
 
七夕提灯教室の新聞記事
 「Look for伝承文化こども教室」の2年目となる「七夕提灯」教室の様子を取材した山形新聞の記事を引用させていただきます。
   
今年は手作り和紙使用 2年目「七夕提灯」教室開く
 「東根の伝統七夕提灯づくり教室」が7日夜、東根市の藤助新田地区で開講した。近年、提灯の形は画一化してきたが、昔の七夕行列で用いたように野菜や虫などをかたどったバラエティーに富む形を再現する。(中略)同市の伝統文化の継承発展に取り組む「Look for伝承文化こども教室」子供教室が文化庁の助成を受け企画。七夕提灯行列は明治時代から続くといわれる。(中略)関係者によると、七夕提灯は昭和33(1958)年ごろまで五穀豊穣の願いを込めた野菜の形や、害虫を追い払うという意味で虫の形をしていたという。

 昨年の第一回提灯づくり教室では、大富中の生徒たちが、ナスやキュウリ、サクランボなどの形の9種類を制作、立体的な枠に張る紙は、昨年は市販の和紙だったが、今年は市内の子どもたちが山林で採ったコウゾをたたいて繊維状にし、すき上げた和紙を使う。2,3年生9人が参加し、1カ月かけてそれぞれ1基を完成させる。講座初日は、図鑑などを参考にしながらデザインに取り掛かった。9人は完成した提灯にろうそくの火をともし、浴衣とげた履き姿でパレードに臨む。(山形新聞2006年7月9日付記事)

昭和20年代後半の七夕提灯行列
 山形新聞2009年1月5日号に「東根・七夕提灯行列 祭りの中心は子どもたち」という見出しで昭和20年代後半の七夕提灯行列の様子が紹介されているので、その記事の一部を引用させていただきます。

 旧暦7月7日の晩は特別だった。手作りの田楽ちょうちんを掲げて東根市中心部を練り歩いた後、子どもだけで最上川まで電灯もない道のりを歩く。七夕の短冊が付いた笹竹の枝を背負って。笹の葉を川に流し、五穀豊穣(ほうじょう)を祈るのだ。天野禎二さん(72)=東根市、会社役員=は「夏休みの一大行事だった」と話す。
 天野さんの時代は中学3年生が主体になって、祭りの準備をした。ちょうちん作りのための作業場「宿」の確保、制作のための寄付金集めもすべて子どもたちでこなした。宿や寄付金の確保の仕方は先輩から教えられた。資金を確実に集めるため「たくさん出してもらえる家からもらいに行け」という教えもあったという。ちょうちん作りと並行し、楽隊の練習も行った。作業が進まないと宿に泊まることも。「それが楽しみだった」と天野さん。

 地区の子どもたちのきずなは強かった。「ほかの地区がどんな音楽を練習しているかのぞいたり、宿荒らしをしたりすることもあった」と天野さんは笑う。それほど当時の子どもたちは、祭りに熱中していた。
 祭りの当日は、夕方早くから地区を1周。その後、ちょうちんにろうそくをともして大通りに移り、午後10時近くまで練り歩く。年下の子どもはここで解散だが、年上の子どもには、笹の葉を最上川に流す「竹流し」という一大イベントが待っている。天野さんの地区では、中学生10人ほどが村山市の碁点橋を目指した。笹竹の枝を背負って2時間以上。おにぎりを持ち、ちょうちんを提げて、はしゃぎながら真っ暗な夜道を歩いた。
 碁点橋に着き、最上川に笹の葉を流すのは深夜。当時は交通量が少なく、橋の上の車道でない部分で眠り、夜が明けてから帰途に就いた。天野さんは「大人に規制されずに自分たちだけで取り組めるのが最高だった」と話す。
                                             
5.終わりに
 2006年の春に「東の杜資料館」で初めて東根七夕祭の存在を知り、その見学を望んでいた私に翌年さっそく見学のチャンスが訪れました。2007年に孫が神町地区の提灯行列に参加。続いて2年後に孫娘が転居した小林地区から参加して、違う地区だったということも七夕調査にとっては幸運でした。孫達の七夕祭の記録として、日本七夕文化研究会の調査報告として、写真と資料をようやく1冊にまとめることが出来ました。 
 七夕行事は一般的に笹竹に飾りをつけるだけの地方が大部分です。しかし、ここ東根市では提灯をもち行列を作って練り歩く七夕行列というかたちに発展しました。これは、七夕の一種である東北地方の「ねぶた」に通じるものがあります。こうした視点からみると、東根七夕は東北地方にあって「ねぶた」との接点をもつ民俗的に貴重な祭りといえると思います。
2009年(平成21年)9月





北海道の七夕 ~道東の町・遠軽からの報告~ : 尾形 彰

2018-10-14 21:06:14 | 調査報告
 北海道の七夕 ~道東の町・遠軽からの報告~ : 尾形 彰

■追憶の七夕行事

北海道東部、遠軽町周辺の地図(Yahoo!地図情報より)

 ローソク出せ 出せよ
   出さぬと かっちゃくぞ
   おまけにくいつくぞ

 うとうと、まどろんでいると、脳裏に70年前の風景が廻り灯篭のように浮かび、かつ消える。8月7日、七夕の宵の景である。浴衣を着た子供たちが打ち連れて、小さな提灯に火をともし、唄いながら近所を何軒か廻るのである。家々では用意しておいた小ローソクを一本ずつ呉れる。

 私が育った北海道の遠軽(えんがる)は、明治31年(1898)に開拓の鍬が入ったオホーツク海から20キロほど内陸に入った小さな町である。私は昭和6年(1931)、3歳の時から戦後、成人するまで遠軽の町内で過ごした。北海道では、ほとんど8月7日に、いわゆる月遅れで七夕をするが、夏休みには当然、夏の行事として全戸で行われていたように思う。

ササの代わりに柳に飾りをつける

自宅に生えているコリヤナギの枝を用いて七夕飾り(7本)を再現してみた。(平成18年8月)

 北海道では道南の一部を除くと、本州のように竹に飾りをつけることはない。第一、竹は奥山に根曲り竹(チシマザサ)というのがあるが、根元が曲がっているので飾るのに都合が悪いし、どこにでも生えているわけでもない。手っ取り早いところ、川っぷちに叢生していて、竹に似ている葉を持ったヤナギの仲間が使われた。
 「北海道植物図鑑」によると、北海道には十数種のヤナギが生育しているが、七夕にはカワヤナギかネコヤナギそれにエゾヤナギなどが用いられたように思う。

  ささのは さらさら のきばにゆれる
  お星様 きらきら 金銀すなご
という唱歌を聞いて、内地ではササを飾るのか、ササといえばクマイザサしか知らぬ私は、奇異な感じを抱いていた。

 さて、柳の木は七夕前日の6日の午後に用意した。柳は街のほぼ中央を流れる湧別川の両岸に豊富に生えていた。私の幼少の頃は、父親が伐って来てくれたが、私が中学生になってからは、私の仕事になった。
 柳は根元で太さ3~4センチ、丈は1.5~2メートルくらい。私は腰鋸(こしのこ)という小型の鋸を用いたが、父親は鉈でスパッと一気に切っていた。
 ゆさゆさと肩にかついで来るのが、とても晴れがましい思いをしたものである。家の前庭に垂木(たるき)の長さ90センチほどのものを、先を鉈で削って、掛矢(かけや)という大きな木槌で打ち込んで、柳の枝を添わせ、縄のきれっぱしで上下二箇所を縛れば大人の仕事は終わりである。

 あとは子供のお楽しみ。7日の朝は、朝食もそこそこに飯台(一般にいうところのチャブダイ)をそのまま机代わりに、七夕飾り製作を始める。七夕飾りの材料は、文房具店で扱っていた。半紙半分くらいの白地に赤や黄や青など染料でさっと掃いたように彩色された紙であった。それを縦長に切って短冊とし、各自の願い事を墨で書いた。

 願い事は特に決まりはなかったが、同じ町内で育った小生の家内は、彼女の母親から先ず初めに、
  七夕や 机の上に瓜と茄子
  七夕や 竹に五色の花が咲く
  荒海や 佐渡に横たふ天の河
の3句をしたため、その後、自分の願い事を書くようにと言われていたそうで、私と一緒になって定住の家を持ち、七夕飾りをするようになって20年ほど、この3枚は毎度ぶら下げている。因みに彼女の母親は淡路島出身で、20歳まで南淡町で暮らしていた由。

 さて書きあがった短冊を、こよりで柳の小枝に結びつけるのだが、こよりを作るのは当時は日常のことで、書き物を綴じたり、紙袋(かんぶくろ)の口をしょっとしばったりと、必需品であったから和紙の端っこなどで折々作りためておいた。私も中学生になった頃、父親に教えてもらって今に忘れずこより作りはできる。
 短冊の他には、広告や包装紙で投網を切ったり、五色のテープ片で鎖にして飾ったが、デングリやいろいろの作り物が店頭に並ぶのは戦後もしばらくたってからだ。

ローソクもらい
 いよいよ7日も宵が迫ると、子供たちは待ち兼ねたように提灯に火をともしてローソクもらいに出かける。その時の唄が一般に「ローソク貰い唄」といわれているものだ。
 一番年かさの子が、
  ローソク出せ
と、始めると、皆一斉に、
  ‥出せよ
  出さぬと かっちゃくぞ
と続く。「かっちゃく」とは、標準語で「ひっかく」に当たる。この位まで唄っているうちに、もう隣の家の門口だ。すこし離れた家でも、
  おまけにくいつくぞ
  くいついたら はなさんぞ
位まで唄えば、いやでも着いてしまう。門口では、また最初から、
  ローソク出せ 出せよ
と唄い出す。

 どこの家でも、家人が小ローソクを一本ずつ渡してくれる。これがまた、何ともいえず嬉しいものだ。このローソクの丈は5センチのもの。こうして隣組の家々で一巡すれば、片手にいっぱいの頂き物である。わたしは、
  くいついたら はなさんぞ
までしか知らぬが、昭和7年生まれの私の家内は、この後にも続きがあったと力説する。
  はなさんかったら いーたいぞ
  いーたかったら 
  ローソク出せ 出せよ
と、なかなかしぶとく続くのである。

 ところで貰ったローソクだが、当時はいろんな使い道があった。我が家では、
(1)入浴の折に風呂釜のヘリに立てた。遠軽では、風呂のある家はあまり多くなかった。我が家は外風呂であったが、戸外に電灯を引いていないのでローソクを風呂釜のヘリに立てれば、ちょうど1本で一風呂浴びるのに十分である。風呂は内地から移入された五右衛門風呂ですべて鉄製であった。
(2)神棚や仏壇用にも使った。
(3)はじめに入っていた家では、便所に電灯がなかったので、板に釘を打って、それにローソクを立てて用足しに行った。勿論、懐中電灯もあったが、主に夜間の自転車用であった。
 ともかくローソクは貴重品であったから、大事な貰い物だったわけである。(ちなみに最近の「ローソク貰い」では、ローソクは姿を消して「お菓子」である由。) 

 さて「ローソク貰い唄」であるが、当地方では冒頭に掲げた唄のみが唄われているという事実である。ところが小田嶋政子「北海道の年中行事」(北海道新聞社)によれば道南の函館では、
  竹に短冊七夕まつり、オーイヤ、イヤヨ
  ローソク1本ちょうだいな
となる。
「ローソク一本 ちょうだいな」が、道北では、「ローソク出せ 出せよ」と変貌している。
ところが、函館の西に位置する松前では、
  今年豊年 七夕まつり オーイヤイヤヨ
  ローソク出せ 出せよ 出さねバ
  かっちゃくぞ おまけに くっつくぞ
と歌われており、石狩湾に面する港町・小樽でも、
  今年豊年 七夕まつり ローソク出せ 出せよ
  出さねば かっちゃくぞ おまけに くっつくぞ
  商売繁昌 出せ 出せ 出せよ
だそうであるから、「ローソク出せ 出せよ」は、枕の「今年豊年 七夕まつり」の有無はあるものの、北海道の広い地域にわたって共通した歌詞のようだ。

 さて、楽しい七夕の宵も、時過ぎれば幕切れとなる。8月の北海道も遠軽付近は午後6時半になればたそがれ時、ローソク貰いも15分もあれば、あたり近所廻り尽くす。柳のもとで線香花火などに打ち興じ「もう家に入れよう」と、家人に呼ばれれば、ちょっと名残惜しいが、家に入ってしまう。昔の子は早寝早起きだった。睡眠時間も大分長かった。寝る子は育ち、粗食ながらも丸々と太っていた。

ローソクもらいのアキカン提灯(追記)
 今年(2007年)5月、知人の佐藤弘憲氏がローソクもらいに使ったアキカン提灯を作ってくれたので、これを紹介しておこう。彼は大正13年7月、遠軽町生田原生まれの83歳。小生より五歳年長である。昭和10年頃、彼は小学校5,6年生だった。七夕の日、幼児や小学校低学年の生徒は、市販の七夕提灯に灯をつけてローソクもらいに参加したが、彼ら高学年や高等科の男子らは、缶詰のアキカンを用いて自作の提灯を作り、それを持って参加したという。

 そういえば小生の亡き兄(大正12年生れ)らも作っていたのを覚えているが、小生が高学年になった昭和14~15年には日支事変(日中戦争)も激しさを増し(16年には太平洋戦争に突入)、貧困層の我ら家庭には缶詰など手に入らぬものであったから、小生に缶詰の提灯を作った記憶はない。

 さて、佐藤氏が作ってくれたアキカン提灯とは、どんなものか。それはアキカンの胴や底に各自好きな模様を描いてから、三寸釘や五寸釘で模様の線に沿って3~4ミリ間隔で穴をあけ、上部に太い針金で提げ手をつけ、下部に釘を打ちローソク立てとしたものである。胴の模様は、船や魚、花などを、丸い底には自分の頭文字一字をカタカナで入れたという(出来上がった提灯は〇のなかにオが入っている)。

アキカン提灯(胴に釘で穴をあけて船の模様を入れてある)

缶の中のローソクに火を灯す。

模様が浮かび上がる。照らされた先はけっこう明るい。

 アキカンに釘で穴をあけるためには、缶にマルタンボ(丸太棒)をさし入れ、丸太に跨って動かないように固定してから釘を打ったという。また取っ手の針金には熱が伝わらないよう籐などを切って通した。
 暗いところでローソクに火をつけてみると、模様が浮き出てロマンチックだ。また提灯に照らされた前方は結構明るい。七夕の晩に、ちょっと得意気な男子上級生がローソクもらいの先頭に立って歩いているさまを想像して楽しくなった。

七夕飾りを川面に投げる
 8日の朝は結構忙しい。朝食もそこそこに各戸の年長の子は、七夕飾りをかついで年下の子を従えて、三々五々湧別川の方へ歩いていく。川べりから、或いは橋の上から、柳を川面に投げると、五彩を波間に漂わせ浮きつ沈みつ川下に流れてゆく。子供心にも敬虔という語が当てはまるような神妙な気持ちになる。この川を流れて行き、海に出て、それから先はどうなるんだろうと、考え込んでいた少年の頃の自分がいとおしいものに思えてくる。

■ 鉄道が運んだ七夕行事
七夕は農村地帯の行事でない
 私が所属する老人クラブで、60歳代から80代の会員30名ほどについて、幼少時代に居住していた町村・地区で七夕行事が行われていたか調査を試みた。
 会員の幼少時代の居住地は、網走管内のほぼ全域にわたっているが、幼時(大正末期から昭和10年代)すでに七夕が行われていたと回答があったのは、鉄道沿線の駅周辺市街地形成地区であり、市街地で七夕を行っていない箇所は1ヶ所もなかった。
 七夕を行っていないのは、
・ 市街地より遠距離で、山村である。
・ 純農村地帯で、家屋が散在している。
・ 小学校など文化的拠点がない。
・ 経済的ゆとりがない。
などが挙げられる。

 しかし、純農村でも市街地に近く、小学生を市街の学校に通学させている地区では、七夕が行われていた事実があり、七夕の行事が市街地区と密接なつながりを持っていることが判明した。北海道では七夕は決して農村地帯の行事でないということである。このことは七夕行事の北海道への流入を考えるとき、大きな意味をもつ。
 
鉄道の発達による文物の流入
 北海道への文物の流入は、大きく分けて2つある。ひとつは江戸時代から明治時代にかけて本州から海路を沿岸沿いに、東廻りは函館・室蘭・釧路・根室へと行くコース。北廻りは小樽・稚内・紋別と沿岸伝いに港町を中心に伝播するコースで、このコースを通じて文化は伝わり、さらに港町に注ぐ河川の流域を内陸部へと遡っていった。
 江戸時代末に七夕行事は本州から海路で松前・函館まで伝わっていたが、明治以降、ここから先の海路による伝播については、港町を中心にある程度、伝播して行ったと考えられる。

 もうひとつは、明治以降、鉄道の発達によってもたらされたものである。鉄道については余り詳しく判らぬので、当地方に限らせてもらう。
 中央から帯広へ。内陸を北へめざして野付牛(今の北見)へ、また釧路から斜里へと、大正時代以降、入植者は内地から一家で鉄道の貨車に家具を積んで、或いは単身で北海道での一発成功を夢見て陸続として入り込んできたのであった。

明治44年、池田~野付牛(北見)間が全通した当時の鉄道網(HP「北海道鉄道ワールド」を参照して作図)
 
昭和7年、新旭川~遠軽間が全通した当時の鉄道網(HP「北海道鉄道ワールド」を参照して作図)

 当地方の状況をいま少し詳述すると、道中央から十勝管内池田から北見(当時、野付牛)の開通は明治44年(1911)である。その後、次々と線をのばし最終的に旭川と遠軽が石北トンネルの開通によって繋がったのが昭和7年(1932)である。大正末から昭和の初めにかけては入植のラッシュ時だったと思う。たとえば北見地方のハッカ景気など。小生の幼時に覚えた唄の少しが脳裏にこびりついている。
  十勝平野を越えて来て
  釧路・・(北海道の地名が続く)・・
  ああ、黄金花咲くユートピア

 こういう唄にあおられて陸続として内地からの入植者が押し寄せた。かくいう私の父親も大正10年頃、東京は上野で周旋屋の口車に乗せられ単身渡道した者。各地の市街地は、大通りは大体商店が軒をつらね、裏通りは資財ある者たちは一寸しゃれた戸建を、そうでない者たちは家主による急ごしらえの柾屋根葺きのバラック長屋で生活を営んでいた。しかし子沢山で貧乏ながらも結構活気があったように思う。内地各地からの入り込み人で、わやわやの時世であった。

怒濤の如く拡がった七夕行事
 こういう、わやわやの時世にちょうど七夕祭りはうってつけの行事ではなかったか。半年に余る長い冬籠りから抜け出して春が来たと思ったら、瞬く間にかっと暑い夏となる。子供たちは夏休み。各人、出身地ごとの催し事をやろうと思っても出来ないが、七夕だと手軽で安上がりで、子供中心だが大人だって結構楽しい。ローソクを貰いに行った子供たちに一本一本配っている、おっかさんの顔付きを見ていたらよく判る。(そして七夕に続いて大人中心の盆踊りの行事にも繋がっていると考えている)

 私は鉄道の敷設によって形成された市街地で、七夕祭りは怒涛の如くというか、津波が押し寄せる如くというか、短い年の中に拡がっていったとみている。そうでなければ、この広大な北海道で各町各村まったく同じような飾りつけ、同じ「ローソク出せ、出せよ」という唄を唄いながら、ローソクを貰い歩くという行事が定着していったわけがない。
 私は、道北・道東の七夕祭りは明治末から大正・昭和の初めにかけ鉄道の敷設によって形成され、市街地に於いて爆発的に拡がったとみている。

 著名な札幌雪まつり。根元を本州東北に持ち、全道各地に拡がっている、あの冬の行事・雪まつり(処によって、冬まつり、氷まつり、氷ばくまつりと多彩)、さらに近年賑々しくもてはやされているヨサコイソーラン(これも内地のヨサコイ節と北海道の民謡ソーラン節とが結びついた夏の狂乱舞のフェスティバル。全道各地に団体ができていて、祭の時のみならず事ある毎にソレソレソレソレと踊り狂っている)。こんなものと軌を一にしていると私は考えている。
 
■戦後の七夕の衰退
 私は戦後、昭和22年の春から家を離れた。辺地の学校に勤める田舎教師だった。斜里の畑作地。網走の酪農を主とした僻地。ともにその集落では七夕の習慣はなかった。
 昭和46年の春、二十数年振りに故郷遠軽に帰ってきたが、市街の変貌はすさまじいものであった。市街地からすっかり七夕が影をひそめていたことである。
 遠軽の市街地で店舗を構える古川商店の女将・カツエ氏の証言。「終戦の年、昭和20年の時は小学校1年生。戦後、小学校卒業時、昭和25年の夏までは七夕飾りをした。小学校をおえると七夕をやめたが、他家ではずっと続けていた。」ここに七夕と子どもとの関係がわかる気がしないだろうか。
 道路は大通りでも未舗装であった。大通りは彼女が昭和32年、高校に通っていた時は砂利道だったが、卒業後、町を出て昭和36年に帰ったときには既に舗装されていた。この頃には、七夕祭りはだんだん姿を消して来たようである。

 以下、少しく七夕衰退の要因を考えてみることとする。
先に述べたように道路の舗装によって、従来の如く簡単に柳を立てることが出来なくなった事。これは隣町・上湧別町中湧別の市街地の大通りで文具商を営み、七夕の飾り物をも商っていた山本光文堂の女店主・山本佐喜子さんもはっきりと証言している。

 次に河川敷も整備されて、河岸は地ならしされ、コンクリートで固められ、自動車練習場とか野球場・サッカー場と次々新設されて、カワヤナギの自生地が市街地から消えていった事。時を同じくして、河川の汚染問題も浮上して河川にいかなる物も投棄できなくなった事。

 遠軽でも、戦前から8月20日、二十日盆の夜に灯篭を流す習俗があった。私の妻の証言。彼女の母は昭和44年に死亡、その年の初盆には4尺5寸の灯篭を流したという。随分数多くの灯篭が川面を埋めたとのことである。そして平成11年までは、細々ながらも灯篭流しが続いていたことが、遠軽町大通り品田商店の女主人。品田トヨ子氏の証言でわかった。

 彼女は講を主宰して灯篭流しを行なっていたが、(1)講の人々の老齢化に伴って会員の数が減少し、(2)湧別川の水位も年々下がり、灯篭がうまく流れない(これは建設用の砂利採取が主要因であり、後に禁止されている)。(3)川に物を流してはいけない、(4)たまたま川のそばにあって供養してくれた當福寺も無住となるなどで廃止を決めたという。
 七夕や灯篭流しなど、川に流す行事が廃絶していった背景には、こうした諸種の事情のあることがわかる。

■北海道の「七夕」の現況 ~遠軽を中心に~
 北海道の七夕は、8月7日に行われる処が多い。しかし函館や根室の七夕は7月7日である。この地域が7月のお盆、つまり旧盆が根強く残る地域であることが関係しているといわれる。

調査した佐呂間町、遠軽町、上湧別町周辺図(Yahoo!地図情報より)
 ところがオホーツク海に面した佐呂間町でも、平成18年7月8日付け北海道新聞に「佐呂間(さろま)で七夕祝う」と、7月7日の七夕のことを報じていた。さっそく佐呂間町役場に照会してみた。
 「‥あくまでも推測ですが‥佐呂間町内でも、一部の地区(浜佐呂間地区)では8月7日に七夕を行なっており、そのような地域については、7月7日が農漁業の繁忙期と重なるなどの理由から、8月7日に行なうようになったと思われますが、この辺りは梅雨もなく、7月の夜空に星が見える日も多いことから、大部分の地域では、改暦後も変わらず7月7日に七夕を行なっているものと考えられます」間もなく寄せられた回答の主要部分である。それにしても、なぜ佐呂間だけがという思いが残る。
 他の市町村は大体、いわゆる月遅れの8月7日であって、旧暦そのままの7月7日に行なっている処はないようである。

 小生は伝統行事の廃れるのを惜しみ、何とかして児童に七夕を伝えようと思い、昭和55年から63年に退職するまで、在職していた町内の丸瀬布(まるせっぷ)小学校で、低学年を担任した何年間、次のような実践を試みた。

 小宅の敷地に、生垣代わりにコリヤナギを植えていたので、7月7日(8月7日は、すでに夏休みに入っていて実施できない)学級の児童分のコリヤナギの枝を60センチほどに切って教室に持ち込み、図工や自由の時間を利用して、各自の希望や願い事を書かせ、紙の鎖や折り紙の提灯などを作らせ、柳の枝に飾りつけ、下校時に持たせて家庭で飾るように指導していた。(今回、当時を思い返して、コリヤナギの七夕飾りを作ってみた。冒頭の写真がそれである。)
 現在、教師の自主的な教育は極端に制約を受けているようで、このような事はできまいと思う。

 現在、どのようなところで七夕飾りがなされているか。平成16~18年にわたって少し調べてみた。遠軽では、保育園・幼稚園で、園の行事として実施している。
 その他の公の施設も廻ってみた。昨年開所したあるグループホームの玄関先に七夕飾りをしていたが、今年は見受けられない。上湧別町のケアハウスでも毎年ホールに飾っているとのこと、さっそく出かけてみた。職員の奉仕による大きな柳に、入所している人々が力を合わせて飾り付けをしているということである。

上湧別町のケアハウス内での七夕飾り

 それから本町生田原地区の「木のおもちゃワールド館」でも、毎年七夕飾りをしていると聞いていたので、平成18年8月7日、電話でたずねたところ「今年はしません」という話であった。
 上湧別町中湧別の市街地区で「七夕まつり」をしていて(今年で第19回)、10年程前に一度見に行ったことがある。旧中湧別駅の停車場通りに、仙台から取り寄せたという孟宗竹に飾りをつけた見事なものであった。
 今年6月のはじめ、中湧別に行った折、市街に一件ある岩井書店を訪れてみた。この店は7月中には七夕飾りを販売する。単品で100円くらいから。セットで5,000円位まで。停車場通り恒例の七夕祭りは商工会主催。飾りは岩井書店から一括して納品。今年は8月4,5日頃から開催の予定などなど。

 8月に入って新聞の広告をみて、ちと考えさせられた。七夕まつりは8月5日・6日とある。なんで7日が含まれないのか。土日にかけてのお客の入り込みが目当てなのか。
 6日の夜、10年ぶりに出かけてみて、先ず驚いたのは、あの竹飾りが1本もないことだ。柳の木すらない。名称は「七夕まつり」となっていたが、なんのことはない。ただ騒々しい平凡な「夏まつり」といったところ。であれば8月7日でなくてもよいわけ。聞くところによると、経費節減とのこと。

 以上、二、三の例で判るように、予算の都合や職員の意識の有り方で、七夕になったり、取りやめたりというわけのようである。
 僕らの七夕は、誰に言われるでもなく、金のあるなしでなく、子ども達が自然発生的に7月7日に行なったもの。そして、それは柳飾りと、浴衣を着て提灯をさげた子ども達のローソク貰いと一体のものであった。
 
 函館市、札幌市、旭川市などの都市の一部地域で、観光協会とか商店街の振興組合とかで主導して、七夕祭りに合わせ、子どもを対象としてローソク貰いを実施している処があるが、かつてのようにローソクを与えるのではなくて、袋菓子などに変わっているということである。

 平成18年8月16日北海道新聞の投書。旭川に来て7ヶ月、40歳女性。「夕方小5の息子に近所の友人から電話…『今晩、ローソク出せ、やるからコンビニ前に集まれ』…息子は友達との打ち合わせ通り、暗くなってきたころリュックを背負って飛び出して行きました。浴衣もちょうちんもなしです。近所の家を数人でまわり、お菓子や花火をいただいて来ました。何もないから『アイスでも買いなさいね』とおこずかいをくれた家もありました…」
 北海道の七夕の今の様子の一断面がうかがえる面白い記事だが、七夕にかこつけた集団による単なる「物貰い」のようで、余り芳しいことではないと思う。

遠軽町西町の七夕飾り(平成18年8月7日)

 遠軽では、西町1丁目の野上通り沿いで、七夕飾りを実施している。まとめ役をしている五十嵐建設での聞き書き(平成17年秋)。「この地区は20軒程のうち、10軒くらいで実施している。そもそもの初めは平成8年頃、五十嵐さんの娘さんが『遠軽って淋しい処だね、何かしようよ』と。それで冬にクリスマスツリーを戸外に飾った。それがだんだん拡がって、平成15年頃には西町以外の南町にも拡がって随分賑やかになっている。
それはさておいて、平成10年に『夏にもしようよ』ということになり、自宅の前に柳の木を立て、七夕飾りとした。たまたま近所の母子が願い事を書いた短冊を持って来て『これを付けさせてください』といって柳の枝につり下げた。

 その翌年から、五十嵐建設が主唱して近所の希望者の面倒をみてやることになる。車で柳の木を運んで来てあげる。もう街の中の川べりでは、柳の伐採はできぬので、1キロ程上流の清川地区の川原から伐り出す。柳を立てる台はコンクリート製の物干竿の台を用意した。七夕飾りの材料は町内の文房具店「旭屋」でセット物(2000円~5000円)を各自求め、投網を切ったり色紙短冊を下げる。提灯や「でんぐり」も下げる。不足分は包装紙を使うこともある。平成16年冬、旭屋が閉店したので、17年の夏は「どうしよう」と困ったが、隣町の上湧別町中湧別の岩井書店で扱っているというので、わざわざ隣町まで行って求めてきて飾った。ただ七夕飾りをするだけで、ローソク貰いはしていない。

 今年(平成18年)8月7日、西町2丁目を歩いてみた。七夕飾りは道路の左右、計11本であった。
 また、同じ遠軽町西町地区で、小学校教諭が「西町子ども会」の会長として十年余、その活動の一部として、夏休み中「ローソク貰い」の行事を実施していたが、退職後は中止になったという事を聞いた。

 現在の北海道の七夕は、(1)七夕飾り、(2)ローソク貰い、(3)両者の複合、の3つの型に分かれるが、いずれも戦後間もなく中断していたものが、子ども会、自治会、商工会、観光協会等の団体主導で、児童の生活指導の一環や、地域の活性化などの掛け声で生まれ出てきたといえる。古いようで案外新しい行事なのだ。こうした行事は、昔言った「お祭り馬鹿」的な人物が中心になって活動していることも判った。従ってその中心人物がいなくなり、後継者がなければ自然消滅するといった面もある。

 平成18年7月上旬、18年ぶりに遠軽町丸瀬布の「いずみや書店」に立ち寄って、昨年の残りの七夕提灯を求めたついでに、店主夫妻に、丸瀬布の七夕の様子をたずねてみた。「昭和の末頃、丸瀬布の天神地区では、住宅街の一本道路の両側の家ごとに七夕飾りがなされていて、とても懐かしい思いがしたものだが…。地区毎のことははっきりしないけれど、多分行なっていないようだ。ただお母さんが子どものために買っていく人や、それから何と言おうか、自分の趣味といったらいいか、そういう感じで飾っている人もいるし…」などと口々に語ってくれた。

 8月の七夕が終わったあと、また丸瀬布の「いずみや書店」へ電話を入れてみる。今年の七夕の様子や如何に。おかみさん曰く「今年は、孫のためにと求めて行った婦人が2人。自分のためにと買って行った未亡人が1人と、たった3人だけでした。去年までは、子どものためにと来店した若いお母さんが大分いたけど、今年はひとりもいないの。さみしいわ。」(2006年8月記)


復活をめざす生野七夕(兵庫県朝来市生野町):尾崎 織女

2018-10-13 22:45:58 | 調査報告
復活をめざす生野七夕(兵庫県朝来市生野町):尾崎 織女

■はじめに
 筆者の勤務する日本玩具博物館(兵庫県姫路市)には、昭和63年、井上館長が入手した明治時代と思われる生野の七夕紙衣がある。丈は40~50センチ、幅30センチ前後、華やかで上質の千代紙で作られた6対と4枚、計16点の紙衣の存在は、かつて生野町でも姫路の播磨灘沿岸で今も行われているような「紙衣が主役として飾られる七夕祭り」が行われたことを示している。

日本玩具博物館が所蔵する生野町口銀谷の紙衣「七夕さん」
(明治時代製/丈47.5センチ×幅32センチ)

 日本玩具博物館ではこれらの紙衣を展示し、生野で行われていた七夕習俗を紹介してきた。しかし実際に紙衣を飾る七夕を当時は見かけることが出来ず、こうした習俗は過去のものと考えられていた。

 筆者は平成15年から5回にわたり生野に出かけて、紙衣を中心とする七夕飾りの聞き取り調査をおこなってきた。この調査の過程で、いったん途絶えていた七夕紙衣が、近年、ふれあいセンターや公民館で女性たちによって復元されて飾られたり、町づくりの拠点・旧吉川邸の井筒屋で、観光客に対し生野の七夕を伝える動態展示として行われていることがわかった。
 とくに平成18年の七夕は地域ぐるみで大規模に行われており、生野七夕復活の萌しが見えるので、そうした動きを紹介するとともに、これまでの聞き取り調査で得た以前の七夕習俗についても報告したい。今後の七夕復活に何らかのお役に立てば幸いである。

■銀山の町・生野

生野町中心部。JR「いくの」駅一帯が口銀谷、史跡生野銀山への入口付近が奥銀谷。「Yahoo!地図情報」サイトより

 生野町は兵庫県のほぼ中央部に位置し、四方を山に囲まれた盆地状の町。平成17年(2005)4月1日に平成の合併によって、朝来郡生野町から朝来市生野町となった。

 生野の山々に源を発する水は、南に向かうと市川となって播磨灘へ注ぎ、北へ向かうと円山川となって日本海へ注ぐ。生野は但馬の玄関口として、その身は但馬地方に属しながら、歴史的には播磨地方との結びつきが深く、生活文化においても、北と南の分水嶺をなす町である。

 また生野は銀山で栄えた町であった。戦国・安土桃山時代より江戸時代、さらに明治初期を通じて権力者の直轄支配を受け、幕府や政府の財政を支え続けたと言われている。昭和48年の閉山に至るまで、この町は、銀山をめぐる産業によって歴史を刻み続け、山間部にありながら、中央の文化の影響を受け、また労働力とともに流入する全国各地の様々な生活文化を受け入れ銀山町特有の文化を形成するに至っている。

口銀谷の町並み(2003年秋)
 町は大きく分けて、江戸幕府の代官所や郷宿(公用で訪れた旅人の宿)、また主だった山師(銀山の採掘権を与えられた鉱山師)の住居が残された口銀谷(くちがなや)と、銀鉱の採掘に直接関わる人々が居住した奥銀谷(おくがなや)の2つに分けられる。

 今も、江戸末期から明治・大正時代に建てられた重厚で落ち着いた白壁の家々が軒を連ね、カラミ石を使った水路や、産出された鉱石を積んでトロッコが走っていた旧道が残されている。町が銀山とともにあった頃の面影は、口銀谷でも奥銀谷でも至るところで発見できる。

■生野の七夕・地域ぐるみの新たな取り組み<平成18年>
 井筒屋の屋号でかつて公用の宿・郷宿として用いられていた旧吉川邸は、現在、町づくりの拠点として生まれ変わりボランティア団体が持ち回りで活動をしている。
 この井筒屋でボランティア活動をしておられる斉藤敬子さんから、「今年はずいぶん七夕飾りに力を入れたので是非、訪ねてほしい」とのご連絡を受け、平成18年7月7日、生野町へ出かけた。斉藤さんの言葉どおり、井筒屋を中心とする口銀谷地区は笹飾りが立ち並び、幕末・明治時代の町家も数多く残されている町並を舞台に爽やかな七夕風景が広がっていた。また、井筒屋で出会った谷藤眞佐恵さんの案内で、奥銀谷・小野町の地区をあげての七夕飾りにも接することが出来たので、その様子をレポートしてみたい。

口銀谷の取り組み
 平成18年7月6日、口銀谷に位置する朝来市生野マインホールにおいて全国近代化遺産活用連絡協議会・第9回総会フォーラムが開催され、生野は、近代化遺産の活用や市民による町づくり活動に興味をもった方々を全国から迎えることとなった。それに際して、「鉱石の道」産業遺産ツーリズム・生野推進協議会と生野まちづくり工房井筒屋運営委員会、並びにいくの銀谷工房は、町中に七夕飾りを立てて全国から来客をもてなす計画を立て、住民に向けて協力参加を呼びかけた。

 史跡・生野銀山を管理する「シルバー生野」が笹竹を用意し、井筒屋運営委員会が中心となって笹に飾る切り紙細工を担当。協力を申し出る家々には笹竹と切り紙細工の飾り物が配布されることとなった。結果、口銀谷の120軒に及ぶ家々から七夕飾りを立てたいとの申し込みがあり、数週間かけて準備が進んだ。

 切り紙細工の飾り物は、紙衣の「七夕さん」、輪つなぎ、短冊、投網、でんぐり、天の川、三角つなぎ、四角つなぎ、ハートつなぎなど22枚が1軒分で、ボランティアは合計約3000枚の切り紙細工を作り上げた。笹竹1本と切り紙細工22枚をもらった家々では、それぞれに他の飾り物を手作りして笹飾りに加え、家々が思い思いの七夕飾りを行った。

口銀谷・街角の七夕飾り

町屋の玄関で、竹に掛けられた七夕さん(右上)

口銀谷の町屋から発見された七夕さん

 斉藤さんは、「与えられたものをただ飾るというのではなく、住民がそれぞれに工夫して七夕を楽しむことを大切にしたい。一過性のものにならず、少しずつでも伝承文化を再興していくためには、ひとりひとりに季節のまつりを楽しいと思う心が大切。今回は子どもたちも含め、皆が楽しんで飾ったと思う。ぜひ、次回へと繋げていきたい。」と語られる。
 
 JR生野駅から散策を開始した。駅前にもそこから伸びる小路にも、格子と白壁の町を舞台に、さやさやと笹飾りが立てられている。笹飾りは1本のみの家が多いが、それでもその飾り物の中に、小さいながらに「七夕さん」が揺れているのが生野らしい。さらに町中を散策すると、それぞれの家々が工夫をこらして七夕飾りを立てていることがよくわかる。配布された笹竹は1本ずつであったが、「生野の七夕飾りといえば、2本あるべき」ともう1本を調達して2本飾りを立てる家もあった。笹飾りにと用意された小さな「七夕さん」のほかに、半紙大の「七夕さん」を切って竹などに掛けて飾る家もある。子どもたちが作った折り紙の織姫と彦星の人形が「七夕さん」の代わりに下がっている笹飾りも見える。

 こうして口銀谷だけで120軒もの家が七夕飾りを行うことは、家々に眠る古い「七夕さん」が目覚めるきっかけともなった。井筒屋には、口銀谷の住民から「家から古いものが出てきたから、飾って多くの人に見てもらいたい」と大正から昭和初期製と思われる「七夕さん」が持ち込まれた。このような取り組みは、伝承の「七夕さん」を飾る風景に光が当たることで、それを知らなかった若い世代が家の納屋などから両親や祖父母の代に飾られた資料を発見する可能性を秘めている。来年の七夕には、ぜひ、生野伝承の2本飾りに「七夕さん」をずらりと掛け飾る家々が増えるようにと願いたい。
                             
小野町の取り組み                        
小野町の家の七夕飾り
 奥銀谷の小野町においても、今年、家々の軒に七夕飾りが立ち並んだ。小野町ふれあいセンターのボランティアが中心となって笹竹や切り紙細工の飾り物を準備し、家々に配ったのである。小野町の七夕飾りも本年は、笹竹1本に短冊や投網、輪つなぎ、提灯、星、それから小さな紙衣「七夕さん」を吊るし飾るものであった。

 谷藤さんのご案内で訪ねた<展示処・小野町がらり>には、地元の古老たちが昔を思い起こして作り上げた「七夕さん」が美しく展示されていた。中心になって復元に当たった大正10生まれの成瀬みさ子さんによると、特に女の子が初節句を迎えた家や豪華にしたい家では、2本の笹竹の間に4段にも5段にも苧がらを渡して「七夕さん」を飾ったという。「七夕さん」は時に紋付を模して両袖の上方に切り紙を貼ったり、別紙で模様を切り取って袖を飾ったりする工夫が行われたそうだ。

小野町がらりに展示された「七夕さん」       

谷藤家の七夕のしつらえ(眞佐恵さん作)

 谷藤家にも立ち寄り、座敷から庭に面した窓に眞佐恵さん(昭和7年生まれ)がしつらえた爽やかな七夕飾りを見せていただいた。口銀谷で育った子ども時代に母親から教わったという「七夕さん」を思い起こして製作し、御簾風の衝立を利用して飾ったもの。窓外の緑に映え、笹飾りはなくても、季節感をたっぷりと感じさせる生野らしい七夕飾りとなっていた。谷藤さんの話を伺いながら、戦前の七夕飾りをそのまま復活させていくことはもちろん大事であるが、伝承を踏まえながら、大変な無理をせずとも、今の暮らしの中で楽しめる飾り方を工夫していくことも大切なのではないかと思ったことである。

■生野の七夕・拠点文化施設での取り組み
 平成18年、口銀谷と小野町の2地区で地域ぐるみの七夕が実施されたが、それまでは公民館やふれあいセンターそれに、町づくりの拠点・井筒屋での個別展示が数年前から行われている。今年も同じように行われたが、七夕文化研究会のメンバーと詳しく調査した平成16年の七夕について報告したい。

旧吉川邸・井筒屋の七夕飾り
吉川家は、銀山の有力な山師で、また「井筒屋」の屋号で郷宿を営み、繁栄を極めた家である。平成11年、吉川家より家屋の寄贈を受けた生野町が、口銀谷地区の景観整備の一環で建屋を改修し、現在、町づくりの拠点として、町の指導の下、ボランティア団体が持ちまわりで活動を支えている。


井筒屋縁側での七夕飾り

ケースに入れて展示された昭和20年代の小型の七夕さん
 
 井筒屋の七夕は、7月7日から1ヶ月間、七夕の雰囲気づくりとして、周辺の通りにも笹飾りが立てられて行われる。座敷から庭を望む縁側には、生野伝承の七夕飾りも行われていた。2本の笹には、短冊や投網、小さな「七夕さん」も吊るされている。その間に竹(本来は苧がら)を渡して、男女1対の「七夕さん」が掛けて飾られた。この「七夕さん」の製作者は口銀谷在住の女性である。ここでは、「七夕さん」の男女は袖丈や帯の結び方ではなく、紙の色で区別されている。庭を風が渡ると、笹飾りも「七夕さん」もさやさやと揺れて涼しげな風情。縁側には机が置かれ、茄子の牛や南瓜、ナンバキビ、胡瓜、まだ青いホオズキが供えられていた。

 また野菜の両脇には小さな展示ケースが2つ設置され、丈15~20cmほどの小型の「七夕さん」が展示されている。生野町一区(口銀谷)在住の女性が家に保管しておられたもので、昭和21年生まれの姪御さんの初七夕に飾られたもの。三角にとがった部分からコヨリが付けられているが、このまま苧がらに結びつけられたものか、あるいは笹飾りに使用されたものかは不明ということだった。

新町ふれあいセンターの七夕飾り

新町ふれあいセンターの七夕飾りと町のご婦人たち
 新町は、口銀谷を出て銀山へと至る途中に位置する地区。平成16年7月6日、新町ふれあいセンターには明治末から大正時代生まれの婦人16名が、婦人会の皆さんとともに七夕飾りを完成させ、私たちの到着を待っていて下さった。

 2本の笹竹には短冊の他、色紙で作られた輪つなぎや投網などが賑やかに吊るされ、その間には2段に竹を差し渡して(本来は苧がら)、荒木千代子さんお手製の男女4対の「七夕さん」が掛けられている。日本玩具博物館に寄贈された明治42年製の「七夕さん」の型を模したもので、包装紙などが利用され、男女は袖の長さや帯の色などが違えてある。

 その下には小さな机が置かれ、西瓜が1つ、茄子の牛が2頭、胡瓜やトマトなどの夏野菜は竹笊に盛って供えられる。毎年、七夕にはこのような飾りの前で、歌を歌ったり、お面と衣装で仮装したり、演劇をしたりして、室内の七夕まつりを楽しむという。新町ふれあいセンターでは、平成11年のオープン以来、七夕飾りを続けてきた。「お年寄がみんな生き生きしますし、地域の文化を伝えていくためにも末永く行っていきたい」とセンター長は話された。

口銀谷四区公民館の七夕飾り
 生野町四区は口銀谷の寺院が立ち並ぶ一角にあたる。四区公民館においても、毎年七夕には、サロン活動として地元の婦人会が老人会とともに七夕まつりを催している。平成16年で6回目。すでに7月6日の夜にサロンのまつりが行われたが、7日に訪問する私たちのために神橋千秋さんと婦人会の方々が七夕飾りを片付けずに待っていて下さった。

生野町口銀谷・四区公民館の七夕飾り

 2本の笹には、サロンに属する人たちの願い事が書かれた短冊が下げられ、色紙で作られた輪つなぎや三角つなぎ、投網などが吊るされている。その間には3段に竹が渡され、男女3対の「七夕さん」が掛けられていた。丈40cmほどの大型のものが2対と丈16~7cmほどの小型のものが1対。色紙の提灯や切り紙の船も一緒に吊るされ、また2本の笹をつなぐように切り紙細工の天の川が渡されている。七夕さんの下には机が出され、その上に茄子の牛と胡瓜の馬、南京やトマト、ナンバキビなどの夏野菜は竹笊に入れて供えられていた。

■生野の七夕飾り・戦前と戦後
 復活をめざす近年の生野七夕の取り組みをレポートしてきた。では以前、生野七夕はどのようなかたちで行われていたのか。ここでは、成瀬みさ子さん(大正10年・生野町新町生まれ/同町小野町在住)、荒木千代子さん(大正10年・生野小野町生まれ/同町新町在住)、山口久子さん(大正12年生まれ/子ども時代は生野町奥銀谷~神崎郡神河町在住)、谷藤眞佐恵さん(昭和7年生まれ/生野町口銀谷生まれ~同町小野町在住)をはじめ、5回にわたる聞き取り調査で出会った18名の方々の話をまとめ、生野七夕の戦前と戦後を概観してみたい。

●戦前の七夕

生野の七夕飾りの図(短冊以外の輪つなぎや投網が加わるようになるのは戦後から)

 生野町では大正時代から昭和初期、ひと月遅れの8月7日を中心に、口銀谷だけではなく、小野町などの奥銀谷でも、その間に位置する新町でも、子どものいる家では盛んに七夕飾りが行なわれていた。笹に飾られるのは短冊のみ。「七夕さん」、時には「ヒナガタ」と呼ばれる紙衣が家庭の母親や時には父親、また女児たちの手で作られ、2本の笹飾りの間に渡された苧がらに掛けて飾られた。

 紙衣は男女の区別を持っており、袖の長さや帯のしめ方に特徴があった。1対が揃いの紙で製作されることも多かった。苧がらは、1段から2段、多い時には5段にも渡して、たくさんの「七夕さん」を飾る家もあった。「七夕さんを飾ると裁縫が上達する」と母親や祖父母から教えられたという例は少なからずあったが、播磨灘沿岸地域のように「七夕さんの着物を飾ると祝われる子どもが着るものに不自由しない」というような言い伝えは聞き及ばなかった。

 七夕飾りは庭に面した縁側に立てられるのが常で、縁側には文机や経机を据え、主に店で買ってきた茄子や胡瓜、ナンバキビ(トウモロコシ)、ホオズキなどの野菜、時には西瓜も供えられた。田畑の少ない生野町では、ほとんどの野菜は購入されたものであったが、近所に畑などがあると、子どもは「♪七夕さん、ナンバキビとってもだんないか? だんない、だんない。♪七夕さん、ホオズキとってもだんないか? だんない、だんない」などと唱えながら、畑の作物を拝借したりもしていた。この風習は、播州一帯に広く見られるものである。古老たちの話によると、こうした七夕のしつらえは、明治後期生まれの両親や明治初年生まれの祖父母が指揮をとって行っており、明治時代にも同じ形態の七夕飾りが存在していたことが類推される。

 七夕飾りは8月6日の夜を過ごし、7日の朝には外される。各家々は市川の流し口へ笹飾りを持っていき、川へ流していたが、「七夕さん」だけは小箱に納めたり、箪笥の引き出しに眠らせたりして残し置かれることが多かった。お話をうかがった荒木千代子さんは、明治42年誕生の姉君の初節句を祝って父親が手作りした「七夕さん」2対を形見として大切に守ってこられた。また、神橋千秋さん(昭和15年生まれ/養父市八鹿町生まれ~生野町口銀谷在住)は、文箱の中に5対ほどの「七夕さん」を保管しておられる。「七夕さん」は、明治末期から昭和初期にかけての自家製で、20年ほど前、町の裁縫上手として知られたご高齢の婦人 (明治後期生まれ)から、文箱ごともらい受けられたのだという。

●戦後の七夕

島田和裁塾での最後の七夕まつり(昭和63年七夕)
 太平洋戦争が激しさをます昭和10年代後半になると、紙という素材も貴重品となり、七夕飾りが中止される時期が続いた。戦後、時代が落ち着きを取り戻す昭和20年代中頃になって、再び、生野の家々には昔ながらの七夕飾りが戻ってくるが、戦前とは異なり、笹飾りには短冊以外に投網や輪つなぎ、提灯などの切り紙細工が加わるようになる。小型の「七夕さん」が作られて短冊や他の切り紙細工とともに笹に飾られることも時にはあった。生野の家々に「七夕さん」を掛け飾る七夕が見られたのは昭和30年代中頃までで、環境保全の立場から市川へ笹飾りが流せなくなったのを潮時として、急速に衰退していった。

 ところが、口銀谷在住の神橋千秋さんから伺った話から、昭和30年代から60年代にかけて、神橋さんが通う「島田和裁塾」(生野町鍛冶屋町通)において、塾長と塾生による七夕が行なわれていたこと、「七夕さん」を飾る意味について、「裁縫の上達を願うもの」と捉えていたこと、また主婦である塾生たちは、昭和50年代頃まで、それぞれの家庭でも子どもたちのために生野七夕を飾っていたことが確認できた。裁縫塾がこの地に嫁いできた女性たちに地元の七夕飾りの風習を伝えるという機能を果たしていたことは興味深い。

■生野の紙衣「七夕さん」のかたち   
 ここで、生野の紙衣「七夕さん」の形についてまとめてみたい。
大きさ・・・・・・日本玩具博物館蔵や個人蔵の明治から昭和初期製の資料の寸法は、丈30~50cm×幅20~30cm程度。半紙よりひと周り、ふた周り大きいものがほとんどである。

紙・・・・・・昭和初期以降は近隣の雑貨屋で七夕紙として売られていた薄手の用紙が使われ、また各家庭でとり置かれた包装紙なども多用されている。明治から大正時代製の「七夕さん」は華やかで上質な千代紙(花文様など)が目立つ。2枚の紙を重ね合わせて製作され、表紙と中紙の色合わせなども工夫されている。

男女の区別・・・・・・どの「七夕さん」も男女の区別を持っている。女性は振袖で、帯の幅が太く、時に帯締めを結んでいる。後ろ側は太鼓結びで作られる場合が多い。男性は女性に比べて袖は短く、帯の幅は狭い。男女1対が意識された「七夕さん」は、共紙で作られている。

男(左)女(右)で違う袖と帯のかたち。
上・七夕さんの前/下・後ろ側
                      
作り方・・・・・・胴部と2つの袖の幅を3等分して作られたものと、2つの袖幅を比較的広くとって袖を目立たせて作られたもの、この2種類が見られる。これは地区による違いではなく、製作者の美意識の違いによる。

 口銀谷の町家より発見された、明治時代製の「七夕さん」(日本玩具博物館蔵)には、袖脇に2~3mmほどの切り込みがあって、ひらひらと風に靡く工夫がなされているが、昭和期に入ると、このような切り込みは見られなくなる。

袖脇に細い切り込みのある口銀谷の「七夕さん」
(明治時代/日本玩具博物館所蔵)

生野の「七夕さん」の切り方

(1) 2枚重ねで前と後ろを折り合わせ、折り線をつける。
(2) 開いて長い二つ折りにし、ハサミで斜めに切り込みをいれ、衿ぐりにV字形の切りを入れる。
(3) 前と後ろを折り合わせ、4枚重ねで、胴と袖の切り線に従って、切り込みを入れる。
(4) 男女の違いによって、袖の長さを調整する。
(5) 袖脇に2mmほどの切り込みを入れたり、他の紙を切って袖に模様や紋を貼り付けたりして「七夕さん」を飾る。

■おわりに

 播磨から丹波の各地に広く伝承される七夕飾りは、昭和30年代後半に至って、急速に衰退してしまった。生野においても同様である。けれども、生野では、心ある家庭によって細々ながらも地域の七夕飾りが伝承されていたことは幸いであった。

 またこの町には、子ども時代の様子をきちんと記憶している古老たちが数多く存在し、平成に入っても、公民館やふれあいセンターでは、そんな古老たちを助けて昔ながらの七夕飾りを立てる試みが続けられてきた。これらのほとんどが室内飾りであったために、残念ながら関係者以外の目に触れることは少なかったと思われる。

 しかし平成18年、町づくりの拠点から各家庭へと屋外での七夕飾りが広がったことで、生野町を訪れた多くの人々は、古い町並を彩る七夕風景に心躍らせた。筆者は、笹飾りの中に、大小、数多くの「七夕さん」が登場し、生野七夕復活の波が大きくなっていく様を見聞するに及んで、生野が育んできた生活文化の底力を感じている。今後、画一的な「日本の伝統」ではなく、この町が伝える七夕を振り返り、その伝統が家庭の中で楽しめるようになれば素晴らしい。今の時代にあった楽しみ方が確立できれば、なお素晴らしいと思う。

 数年にわたりに訪問させていただいた生野町では、口銀谷の神橋昭男・千秋ご夫妻、小野町の谷藤眞佐恵さん、新町の荒木千代子さん、井筒屋の斉藤敬子さんはじめ、郷土愛に満ちた多くの方々にお世話になり、生野独自の生活文化についてご教示をいただいた。この場を借りて心より感謝申し上げたい。(2006年7月記)


山梨の七夕人形:信清 由美子

2018-10-09 11:30:57 | 調査報告
山梨の七夕人形  信清 由美子

山梨の七夕人形との出会い
 私が山梨に紙で作られる七夕人形があることを知ったのは今から7年程前、『やまなしの民俗―祭りと芸能―』という本を読んだ時のことであった。そこにはかつて七夕に対の紙人形が作られていたことが記され、「七夕の夜、五色の色紙のこの紙人形がさやかに揺れる姿はいかにも夢幻的であった。そこには笛吹川畔の七夕の夜の風情がにじんでいた。」と詩的に結ばれていた。しかし写真などは無く、どうしても見てみたいという気持ちが募った。以来七夕に笹竹を目にすると、そこに人形の姿を探したが全く目にする事は出来なかった。

 現物が無理ならせめて文献資料ではどうかと探してみたところ、こちらは実に多くの市町村に記録が見られた。面白いことに七夕の後「泥棒除けになる」とされ、「オルスイさん(お留守居さん)」という呼び名も多く見られた。しかしいずれも昭和30年くらいの民俗調査か、「かつてあった」という過去形の記述であった。

 山梨の七夕人形はもう消え去ってしまったのか。そう思い始めた平成15年6月、我が家に一本の電話が来た。山梨市市川にお住まいの杉田房子さんという方からで、「毎年七夕にお人形を作っていますよ」とおっしゃった。問い合わせをしていた山梨市の教育委員会の方が今も七夕人形を作る杉田さんをご存知で、私を御紹介下さったのだった。そして「七夕にいらっしゃい」と夢のようなお誘いをいただいた。

山梨市市川 杉田家の七夕人形
 私がこの市川の地に七夕人形があるのではと思う端緒となったのは、昭和32年の郷土研究誌に載っていた「甲州八幡聞書―山梨市市河―」という論文であった。そこには、「七夕。八日に七夕流しを行う。田の畦に七夕をもって行き立て、野菜物をあげる。七夕さんをとって納戸か蔵の入口に二つ吊す。これをオルスイさんという。」とあった。

 人形という記述はどこにもない。にもかかわらず私が人形ではと思ったのは、同じ論文の別の項目で「長い袂(たもと)を着ている人をオタナバタサンみたいな人だという。」という記述があり、「七夕さん」は袂の長い着物を着た姿なのではと考えられたことと、他の資料で七夕人形の呼び名として「オルスイさん」があるのを見ていたためであった。そして人形と決まった訳でもないのに、当時七夕人形は七夕行事の間は「七夕さん」と呼ばれ、七夕が済んで守り神となったときには「オルスイさん」と名前を変えて呼ばれていたのではないかなどと想像を膨らませたりもしていた。
 幸いなことに勝手な思い込みは当っていた。市川に七夕人形はあったのである。しかも今も作り続けられているという。

笹竹にひるがえる市川の七夕人形
 杉田家の七夕人形
 山梨市市川は甲府盆地の東部に位置する果樹畑の広がる美しい土地である。伺った杉田浩さんのお宅も果樹栽培をされている。
 平成15年7月7日、夢にまで見た七夕人形との対面が実現した。家の前に立てられた笹竹の一番上に彼らはおられた。下に拡がる幣(ぬさ)のようなものが印象的で、それがふわりと風になびく様はまさに「夢幻的」であった。以来3年に渡り毎年七夕にお邪魔させていただいている。今年(平成17年)は関西から調査に来られた石沢誠司氏と共にお話を伺う事ができた。これまでにお伺いした部分も含め、杉田家の七夕について記す。

 7月7日に裏の山から御主人が笹竹を切ってくる。そして飾りを付ける。飾りは男女二体の人形と天の川を象った網、短冊である。男女二体は笹竹の上部に付けるが、男の人形を女より少しだけ上の方に飾る。人形は奥様の房子さんが作る。「織姫」「彦星」と呼んでおり、「天から星が降りてきたものと思って作っている」という。

 かつて昭和30年代には近所のお店で「七夕紙」として売っていた物を使っていたが今は無く、自分で見つけるが、なかなか昔と同じ薄手の紙が見つからないという。今年は甲府市の紙店で購入された四国産の色付き半紙(横33.5センチ、縦24センチ)を使っておられた。下に切り下げられるひらひらとした部分が風になびく姿を想像しながら切っているということであった。

七夕人形の作り方は以下のとおりである。
1.二枚の長方形の紙を重ねる。彦星は上に紫、下に白。織姫は上が赤、下が白。
2.山折りで長い二つ折りにする。(図A)
 A.点線で二つ折り(山折り)する。紙の大きさは、横33.5センチ、縦24センチ。
3.さらに二つ折りにして折り目を付けて開く。(図B)
4.中央の折り目まで斜めに切り込みを入れる。(図C)
 C.折り目から4センチに斜めに切り口を入れ、折り目1.5センチまで切り込む。
5.一度開いて短い二つ折り(山折り)にすると頭が出る。(図D,E)
 D.開く。V字状の切り込みができた。短い二つ折り(山折り)をする。
 E.頭が出た。さらに点線で二つ折り(谷折り)する。
6.さらに二つ折り(谷折り)すると、頭を出した状態の四つ折りになる。(図F)
 F.頭が出た状態の四つ折りになった。ここから袖などを切り出してゆく。


 G.数字の順に切り目を入れてゆく。男は1から2へは直角に、女は点線のようにカーブをつけて切る。
 図G
 7.袖を作る。上部の半分程のところから鋏を入れ、下から三分の一くらいまで切る(図Gの1)。彦星は直角に、織姫は緩やかなカーブをつけて、袖の下を切る(図Gの2)。
8.袖の内側から頭の方へ向って切り込みを入れる(図Gの3)。また下に向かって切り込みを入れ約1センチを残してカーブしながら外側に切り込む(図Gの4)。
9.袖の外側の部分は中心線に直角に交互に切り目を入れる(図Gの5~19)。これが脚のようなヒラヒラとした部分になる。
10.開いて袖の外側の交互に切り込みをいれた部分を下へほどきながら形を整える。

11.頭の二枚の紙の間にこよりを貼付け出来上がり。

出来上がった七夕人形
 飾り付けした笹竹は家の前庭に立てる。翌朝日が昇る前に、裏の畑の入口へ持って行き立てておく。それから一年間(次の笹竹が来る迄)泥棒除けとして働く。昭和30年くらいまでは、田の水の取り入れ口「水の口(みのくち)」に立て、稲を収穫した後は稲を干す為の「ウシ」に飛ばないよう結び付けて立てておいたが、田をやらなくなってからは果物畑の入口に立てるようになったそうである。

 奥様の御実家(山梨市後屋敷)では8日朝、人形を取って旦紙で切り餅くらいの大きさに包み、「七夕」と書いてお蔵の入口に釘で貼付けたという。今そのお宅では人形は作っていないそうであるが、今年、房子さんの作った七夕人形で、特別に当時の様子を再現していただいた。確かに神様に見られている気がして、罰当たりなことは出来そうに無い。興味深い文化だと思った。

 いつ頃から七夕人形が作られ始めたのかは分からないが、杉田さんのお宅に勝沼町からお嫁に来られた1900年(明治33年)生まれのおばあさんは、この家の七夕人形を見て「子供の頃実家で作ったのと同じだと思った」そうで、百年を超える歴史があるのは確かのようである。

 昭和30年代くらいまでは、杉田さんの周りのどこの家でも七夕人形を作っていたそうであるが、今は杉田さんのお宅で作られるのみだという。しかしながら、杉田房子さんの熱心な調査により、近隣にまだ切り方を覚えている方がおられること、「オルスイさん」という名前を御存じの方もおられること、また御実家の近くには、お蔵の長押に紙にくるまれた七夕人形がずらっと並ぶ様子を御記憶の方がおられることなどが判ってきた。七夕人形の姿はまだ人々の記憶から忘れ去られてはいない。

 調査の段階では杉田さんのお宅で「オルスイさん」という呼び名は確認されなかったが、その後筆者に房子さんから電話でお知らせいただいたところによると、御主人の御兄弟のお一人が、子供の頃に杉田家でも人形を「オルスイさん」と呼び、玄関の内側に旦紙にくるんで打ち付けていたのを覚えておられたという。市川の「オルスイさん」は確かにいた。

勝沼町深沢 三枝家の七夕人形
 一昨年の冬、私は『ぶどうの里の物語―甲府盆地祈りと実りの四季―』というNHKのテレビ番組を見ていた。それは勝沼町深沢にお住まいの三枝さんというぶどう農家の御一家が、美しい里山で旧家の伝統やしきたりを重んじながら真摯に生きていく姿を描いた素晴らしい番組であった。やがて七夕の様子が映されると、私は飛び上がらんほどに驚いた。奥様が和紙で七夕人形を切り始めたのだ。そしてその作り方は山梨市の杉田さんのそれと違っていた。山梨の七夕人形文化はとてつもなく深いものなのではないかと思った瞬間であった。
 そして平成17年7月7日、この三枝家の七夕を石沢誠司氏に同行し見学させていただけるという素晴らしい機会に恵まれた。

軒下の笹竹に飾られた七夕人形

 勝沼町は甲府盆地の東端に位置するぶどうとワインで有名な町である。古刹大善寺にはぶどうを手にした薬師如来もいる。その大善寺の直ぐ近く、深沢という緑豊かな地に三枝栄富さんのお宅はあった。お伺いした時すでに家の前の笹竹に優美な七夕人形がおられ、しばし見とれてしまった。

 お聞きした三枝家の七夕の次第は次の通りである。
 三枝家の七夕は7月6日から始まる。6日の午後、家族全員で一時間ほどかけ笹竹に飾り付けをし、すぐ家の前に立てる。飾られるものは、男女二体の七夕人形、鎖(輪つなぎ)、短冊などである。七夕人形は「男と女」と呼ばれ、奥様の貴久子さんが作る。貴久子さんの前はお父さんの初太郎さん、初太郎さんの前は明治23年生まれのおばあさんタケさんが作っておられたが、人形はそれ以前から作られ続けてきたという。笹竹での場所は男が東側、女が西側と決まっているそうである。

「男と女」の作り方
1.三枚の長方形の紙(横34センチ、縦24センチ)を重ねる。男は青系の紙、女は赤系の紙で作る。
2.四つ折りにする。(図A.B)
3.「わ」(折り目)から2.5センチのところから、端を2センチほど残して切る。(図C)
4.開いて短い二つ折りの状態にする。(図D)
5.中央の折り目からから斜めに切り込みを点線まで入れ、頭を作る。(図E)
6.一度開いてから四つ折りにする。(図F,G)
7.体に近い方から交互に切り込みを入れて足を作る。最初は下から上へ切る(図H)。(G、Hとも実際の作業は頭を出してされていなかったが、図解をわかりやすくするため、頭を出して作図した。)
8.足の折り目を付けながら下にほどき形を整える。
9.足の紙の重なった部分を切る(図Hのハサミの○印)。先に切るとずれるので折り目を付けた後に切る。
10. 足の重なった紙を広げる。
11. 頭にこよりを差し、結んで出来上がり。


出来上がった七夕人形、「男と女」

 上記の七夕人形の作り方は、当日、見学したとおりを記したが、紙の種類や大きさは年によって違いがある。なるべく薄い和紙を使いたいがなかなかいい紙が無い、とのことであった。以前はぶどうの箱に敷く紙を利用したこともあったという。
 また図Hの足を作る切り込みの数は一定しているのでなく、いくつ切り込みをいれてもいい、とのことであった。見せていただいた古い七夕人形には、胴や足がもっと細く、従って足が長いものがあった。切り下げられる長い御幣のようなものは「足」と呼んでおられた。

 6日の午後から8日の午前中まで、二人が降りて来て会っているので胡瓜や豆などのヤブへは入ってはいけない、と伝えられ、決して行かないそうである。
 家の縁側には「おかざりさん」と呼ばれるお供えがされる。台の上に家で採れた野菜(胡瓜、茄子、トマト、いんげん、すもも)と花を供え、「おひかりさん」と呼ぶランプを置く。そして、6日の夜はそうめん叉はひやむぎを上げ、7日の朝は「小豆御飯」とお茶を上げる。この日は七夕の二人の邪魔をしないようにし、外出は良いが夜はなるべく外へは出ないという。

 8日朝、お茶を上げてから七夕人形を外し、笹竹を家の北東の決まった場所へ流し(差しておき)、一年間そのまま風に吹かれるままにしておく。
 そして七夕人形「男と女」は家の中で第二の人生を歩み始める。小さく畳んで旦紙にくるまれ、「○○年 七夕」と表書きされた後、家の二階の箪笥の引出しに納められる。そして「家を守る」「御留守番をする」という重要な役目を果たしてゆくのである。三枝家の七夕は三日間に渡る一大行事であった。

箪笥の引出にしまわれている昔の七夕人形。

紙に包まれ「七夕」と書かれている。
 七夕人形の入る箪笥の引出しも見せていただいたが、ぎっしりと紙に包まれた昔からの七夕人形たちがいた。人形も広げて見せていただいたが、色とりどり美しい色彩で作られていた。中には一体に四色の紙を使っていたものもあった。星神様のために日常生活の中で綺麗な紙はとっておいたのであろう。三枝家の人々の七夕人形への思いが伝わるような気がした。包み紙のうち古いと思われるものは年が書かれていなかったが、「御餞別 初鹿野村」と記された紙が使われており、紙が貴重だった時代を偲ばせていた。「初鹿野村」はかつて三枝さんのお宅のある深沢が属していた村であるが、昭和16年(1941年)に近隣の村と合併し大和村となり、その後昭和29年(1954年)に深沢が分かれて勝沼町に移ったという経緯があり、そこからこの紙、及びこの人形が少なくとも50年以上前のものであると推察されるそうである。大変長い年月三枝家を守ってきた「男と女」にお会いできて光栄であった。

 調査中、奥様が七夕人形を作る様子を見ていた石沢氏が、「里山辺の人形と似ている」と声を上げた。長野県松本市の里山辺という地区で、一軒のお宅でのみ作り続けられてきた紙の七夕人形があるのだが、その作り方とほとんど同じだったのである。調査後に松本の七夕人形について御研究されている松本市時計博物館の木下守氏から、里山辺で今七夕人形を作っておられる方のお祖父さん(おそらく江戸時代生まれ)が、かつて山梨に住んでいたことが判明したと御連絡いただいた。山梨ゆかりの七夕人形が七夕人形の街ともいうべき松本で確固たる地位を築いていたのである。このような素晴らしい発見も、忘れる事なく次代へとつなぎ、作り続けてこられたお宅があればこそのものである。心より感謝申し上げたい。

山梨県における七夕人形の分布
 「どうしても見てみたい」という気持が募り、ついに二カ所で見ることができた山梨の七夕人形であるが、最初にも述べたように文献資料では多くの市町村に記録が見られる。また山梨市市川の杉田さんのご協力で判明したご近所や知り合いが以前に行なっていた七夕人形の記録を含めると、現在、15カ所がリストアップできる。

 具体的には以下のとおりである。
1 山梨市市川   杉田浩さん宅
2 山梨市大工   山梨市教育委員会の調査による。
3 山梨市後屋敷  杉田房子さんの御実家
4 山梨市小原東  杉田房子さんの聞き取り調査による。
5 山梨市下石森  同上
6 山梨市落合   同上
7 山梨市上岩下  『古里歳時記 おほうとう』宮本いたる著 昭和53年 アポロ出版 
8 山梨市日川地区 『山梨市史民俗調査報告書―日川の民俗―』山梨市史編さん委員会 平成13年
9 勝沼町深沢   三枝栄富さん宅
10 塩山市神金地区 『塩山市史民俗調査報告書 平成四年度―神金の民俗―』
           塩山市史編さん委員会 平成5年
11 甲府市国玉町  磯部正沖さん宅
          『甲府市史 別編・ 民俗』甲府市市史編さん委員会 昭和63年 
12 笛吹市石和町旧富士見村地区 『富士見村誌』富士見村 1957年 
13 笛吹市御坂町金川原  杉田房子さんの聞き取り調査による。
14 笛吹市八代町御所  「甲州の七夕祭り」小澤秀之 『民間伝承 第15巻第10号』昭和26年 
15 南部町    『改訂 南部町誌 下』南部町 平成11年 (行われていた地区は不明)

 以上の結果を図示してみると下の図になる。南部町にも分布するが、現在のところ特に笛吹川沿いの多くの市町で行われていた行事であることがわかる。この図を出発点として今後、山梨の七夕人形の全体像が浮かび上がるようになれば幸いである。

おわりに
 家族の幸せを願って七夕人形を切る。そんな素晴らしい山梨の夏の情景を二軒も拝見することができたことはこの上ない幸せであった。
 
 両家に共通する特徴として、下に切り下げられたひらひらとした幣(ぬさ)の様な物が挙げられる。三枝家ではそれを「足」と呼んでおり星神様の一部であることが分かる。祓えの対象として使われる形代と幣(ぬさ)とが一体化したような姿である。甲府市国玉の玉諸神社を代々守り続けてこられた磯部家でも、戦前まで二本の笹竹の先に一体づつ赤白の紙で作られた七夕人形が飾られており、やはり幣のようなものが下がっていたという。独特の形である。

 そしてその姿もさることながら特筆すべきは人形の持つお守り的機能である。山梨の七夕人形はただ七夕の日に働くだけではない。ずっと働き続けるのである。今この瞬間も作った人と家族を守るために頑張っている。

 この愛すべき七夕人形は長い年月受け継がれてきたものに違い無い。しかしこの数十年の間に急速に失われている感がある。急ぎ調査をし、記録してゆく必要があると思う。

 甲府市酒折にある山梨学院大学附属幼稚園では、この伝統の七夕人形をを子供達の目に触れさせようと、毎年職員の方が作り、飾っているという。次代を担う子供達にもずっと覚えていて欲しいものである。七夕の風にしなやかに揺れる働き者の七夕人形。それは忘れてはならない山梨の文化である。

 最後に、お仕事がお忙しい中お話を聞かせて下さった杉田家・三枝家両家の皆様、杉田さんを御紹介下さった山梨市教育委員会の方々、勝沼町の歴史や七夕人形についてお話を聞かせて下さった勝沼町生涯学習課の室伏様、七夕の想い出をお聞かせ下さった甲府市の玉諸神社氏子総代会長磯部正沖様、素晴らしい番組を作り上げられ三枝家の七夕人形を御紹介下さったNHK樣、山梨学院大学附属幼稚園の皆様、そして石沢誠司様と石沢様を御紹介下さり、里山辺の七夕人形についてお教えいただいた松本市時計博物館の木下守様に深く感謝申し上げます。2005年10月記(日本七夕文化研究会・山梨県甲府市在住)

【参考文献】
『やまなしの民俗―祭りと芸能― 下巻』上野晴朗著 光風社書店 昭和48年
「甲州八幡聞書―山梨市市河―」池田俊平 『民俗手帖 改題 甲斐』 山梨民俗の会 昭和32年



踏入七夕まつり「天の川」:石沢 誠司

2018-10-08 20:55:48 | 調査報告
踏入七夕まつり「天の川」
    ~長野県上田市に伝わる七夕の井戸替え祭り~

■はじめに
 長野県上田市の踏入地区に珍しい七夕の行事「天の川」があることを知ったのは、昨年(平成16年)、上田市の笠原一洋氏から送っていただいた地元紙「信州民報」(平成13年8月8日付)の記事である。そこには「砂文字で“天之川”―上田市踏入地区に伝わる七夕行事を世代を超えて―」との見出しで、およそ次のような内容が書かれていた。

「踏入地区の街道沿いに古井戸がある。この井戸は昔から人や馬、牛などが喉を潤し、一休みする場所であった。ここで昭和25年前後まで毎年行われてきた七夕行事「天之川」が、平成7年に復活し、それ以後、地元自治会・公民館分館・PTAなどが協力し、次世代を担う子どもたちにこの伝統行事を継承していこうとしている。行事は、千曲川から運んできた砂を用いて、「天之川」の三文字を古井戸の横に浮かび上がらせる。井戸の周りには短冊を付けた竹が飾られる。午後7時から砂文字の上に水の神様に捧げる線香が並べられ、幻想的なクライマックスとなる。」(注:踏入七夕が途絶えた年代については、「戦後まもなく(昭和21・22年頃)」と言う人もいる)

 上田市はわたしの故郷である。興味を持ったわたしは、公民館の踏入分館長・大西福茂氏に連絡をとらせていただき、見学したい旨を告げると、「どうぞ来てください。歓迎いたします」との返事をいただいた。里帰りを兼ねて、平成17年8月6日(土)、この七夕行事を見学した。

■北国街道沿いの古井戸が祭りの舞台

踏入地区の地図。赤い「井」のマークが古井戸。旧北国街道の赤線部分が、七夕まつりの夜に車が通行止めになる。左下に少し見えているのが、砂を取りに行く千曲川の流れ。

 上田市の踏入地区は、上田の繁華街から約1キロ東南にあり、旧北国街道沿いに家並みが続く町である。踏入という名称は、江戸方面から北国街道を歩いてきた旅人が、上田の城下町へ踏み入るところから付けられたという説があるが、まさしく上田市街地への東の玄関口にあたる場所にある。

 踏入の北国街道沿いには古くから井戸がいくつもあり、住民の生活用水として役立っていたほか、街道を行き来する人が喉を潤していたという。昭和29年頃、上水道が普及して井戸は使われなくなっているが、踏入の七夕行事はこの地区に唯一残る共同古井戸で行われる。

 ところで舞台となるこの井戸は、今日の七夕行事のためすでに7月31日朝6時から「井戸替え」を済ませていた。井戸替えというのは、井戸を掃除してきれいにすることで、電動ポンプで井戸水を汲み出し周辺をきれいに洗い、脇にある水神さんの石も洗う。その水を井戸の内側の石積みにもかけて水垢を落とし、外側はたわしでこすり、きれいにしておく。その後、水神さんを祀る石と、井戸を覆う小屋の4本の柱に注連縄を張る。わたしが見学したとき下がっていた注連縄は、このとき下げたものだった。

■砂文字の「天之川」を作る
 七夕行事は8月6日の午後4時から準備が始まるというので、4時ごろ行くと、すでに井戸の周辺には子どもから大人までおよそ40人が集まって作業を始めようとしているところだった。子どもは踏入地区の小学5・6年生を中心とした男女20名余、大人は子どもの両親と地区の役員、それに昔の七夕行事を知っている老人たちである。
 
「天之川」と書かれた木枠を井戸の横に置く。
 まず大人たちが木枠で囲んだ長方形の板を取り出した。木枠は、幅70センチ、縦150センチほどで、高さ10センチ余の枠が周囲についている。枠の中には「天之川」と黒く縁取りされた中抜き文字が書かれている。ポンプで汲み上げた井戸水をさっとかけて湿らせてから、井戸の側面に置いた。

子どもたちが砂だんごを文字の上に置いてゆく。
 また井戸替えをした7月31日には、子どもたちとその親が千曲川の河原に行き、布袋に砂を入れて車に積んで運んできていた。砂袋は井戸の傍らに積んである。
 さてこれからが子供たちの出番である。大人がバケツの上に篩(ふるい)を乗せると、子供たちは井戸の傍らに積んである砂袋をとり、口を開けて砂を少しずつ篩に流し込む。大人は篩を揺すって砂に混じっている小石を取り除く。

 続いてバケツの中に適量の水を入れてコテでかき回すと、湿った砂の出来上がりだ。子供たちは、野球のボールほどの大きさの砂のだんごをひとつづつ作って両手に持ち、枠の中に入り「天之川」の文字の上に置いてゆく。最初は「天」の字から始め、大人の指示で適当な厚みになるよう次々に重ねてゆく。

お父さんたちが砂文字の形を整える。
 砂のだんごをひととおり置き終わると、今度は子供たちの父親の出番である。経験者の老人から教えてもらいながら、左官屋さんが壁を塗るコテを使って文字の側面は垂直、表面は水平になるよう更に湿った砂を補充しながら仕上げてゆく。同時に木枠の内側から、枠と同じ高さの板を10センチほどの間隔を空けて立て、その隙間にも砂を入れてゆく。文字を囲む額縁を作るのである。

女の子たちとお母さん方は笹飾り。
 この砂文字を作る作業は主に男の子とお父さん方、それに老人の仕事だが、女の子は近くの駐車場を転用して設けた作業場で、七夕の短冊に願い事を書いて、笹に付けている。その短冊や輪つなぎなど飾りの準備をするのはお母さん方の仕事だ。地区のみんながそれぞれの役割をもって準備を進めていく様子は、地域社会のまとまりを感じさせた。

最後に老人たちが額縁つくりと仕上げをする。
 文字と額縁のかたちができると、最後は老人たちの番である。昔とった杵柄で手際よく最後の修正をおこないながら、文字以外の板の上に薄く砂をまいたり、枠の外側を砂で塗りこめる作業をする。こうして枠の外側と上をすべて砂で覆うと、木枠はまったく見えなくなる。初めて砂文字を見た人は、どうやってこんなに上手に砂を積み上げて作るのかといぶかるに違いない。木枠は砂文字を上手に作るための隠れた道具だったのだ。

いよいよ大詰め。額縁の外を砂で塗り込める。

出来上がった砂文字の「天之川」

■井戸のまわりに七夕飾り

井戸小屋の柱に笹飾りと燈籠を縄で固定する。
 井戸を覆う屋根の4本の柱に笹竹と「天之川」と書かれた灯ろうが縄で結ばれると準備は午後6時前に終わった。子供たちはお菓子をもらってひとまず家に帰った。7時から七夕まつりが始まるからである。

出来上がった七夕飾りと砂文字。右が旧北国街道。

■線香の火で浮かび上がる砂文字「天之川」
 午後7時、辺りが薄暗くなり灯ろうに灯りが点り、七夕まつりが始まった。まつりが行われる踏入地区の北国街道は、6時から通行止めになっており車が入ってこない。年配の方にうかがうと、昔は街道沿いに民家が七夕飾りをつけた笹竹を立てていたという。車の通らない静かな街道に立つと、昔行われていたであろう七夕まつりの雰囲気が偲ばれるようだ。

 集まった100人を超える人々に公民館の踏入分館長、自治会長、PTA会長らの挨拶が終わると、全員で井戸の後ろにある水神さんを祀る石に向かって、二礼二拍手一礼して水神を拝んだ。

夜に入ると、砂文字の上に火をつけた線香を立ててゆく。

 それから大人の役員が線香に火をつけると、子供を並ばせて、一人一人に1本づつ渡す。子供たちは手渡された線香をまず砂文字から、続いて額縁の上に刺して立ててゆく。子供たちが次々に線香を立て大人たちも続くと、暗闇のなかに線香の火がつくる「天之川」の文字がほんのりと浮び上がってきた。幻想的な光景であった。

砂文字と額縁の上に線香が立った。
 線香を立て終わった子どもは、役員のお母さん方からスイカをもらって食べる。8時前、子どもたちは七夕まんじゅうとカンジュースをもらって家路についた。

線香の火でほのかに浮かび上がる天之川。(平成16年撮影)

■「天之川」復活のいきさつ
 踏入の七夕まつり「天之川」は、平成7年に約50年ぶりに復活されたまつりである。復活までのいきさつを当時、踏入分館長だった木村信良氏に伺った。

「わたしが分館長をしていたとき、地区のお年寄りに集まってもらい昔の暮らしや子どもの遊びなどを聞く『茶話踏入』という会を立ち上げました。その中で七夕行事の「天之川」の話が出て、これはおもしろそうなので一度ぜひ再現してみようということになった。やってみると非常に評判がよく、ぜひ子供たちのまつりとして続けてほしいという声がでて、それから分館が中心になり、自治会・PTAの協力も得て現在まで続けている。当時はまず再現することだけ考えており、このように続くとは思いもよらなかった」

 平成7年に復活したこのまつりは、今年(平成17年)11回目を迎えて地域に定着してきたようである。

■老人たちが語る昔の「天之川」
 踏入分館のサークル『茶話踏入』では、老人たちから聞き取った話を「茶話踏入」という冊子にまとめており、その中に書かれている「天之川行事」を引用させていただきながら、当日、わたしが聞いた話も加えて、以前の踏入七夕を紹介してみよう。

七夕行事「天之川」は井戸替えの祭り
 冊子「茶話踏入」は、まず踏入の七夕行事「天之川」は、何の祭りかについて明快に書いている。それは井戸替えの祭りなのである。「踏入では井戸替えの時に、井戸替えの祭り・天之川をしていました。井戸のあるところではどこでも行っていたようで、祭りの本番は8月6日の晩。旧暦の七夕の宵祭りと一緒です。」

 七夕当日の8月6日、まず行われるのは井戸替えである。現在では、7月31日に行われているが、以前は七夕祭りの日の朝に行われた。「井戸替えは、祭の前に行い、1年間使った井戸に感謝しながら大掃除をします。井戸の中の水を全部汲み出して、井戸の側面はたわしなどでこすり、水垢などもしっかり落とします。井戸の中は石積みになっているので、その石に足を掛け、洗いながら徐々に下りるというような方法で掃除が行われます。井戸内がきれいになれば、井戸替えは終わり。その後、井戸の周りに注連縄を張って、4隅に塩を盛り清めます。これで井戸はまた新しい年を迎えるというところでしょうか。(茶話踏入)」

素朴だった砂文字つくり
 次いで午後から天之川の砂文字作りが行われた。当時は今のような木枠を使って砂文字を作ることはなかったそうである。それに子供たちが中心になって作るので、文字のかたちも不揃いで、今よりもっと素朴なものであったという。

「祭は例年、8月6日の晩に行われます。午後から井戸の周りに縦1mほどの長方形に砂を盛り上げ、縁を額縁のように形作ります。その中に砂で天之川の文字を盛り上げて浮き立たせます。左官屋さんの小さな鏝(こて)で器用に文字を形作っていくのですが、実はこの祭を主催するのは子どもたちの役目。祭りに使う砂は千曲川に水泳に行く度に運んできて、井戸の近くにためて置きます。このためておく場所は井戸によって違い、横田んぼでは八幡さまの庭でした。砂を運んでくるのはメリケン粉の袋。5年生が大将で、こうした計画を立てます。砂はごく細かい粒のもので、使う前にふるいに掛けます。そのままでは上手く固まりませんので、水と土を少し混ぜて使い、文字が際だって見えるように固めます。(茶話踏入)」

 千曲川から砂を運ぶことについて、当日参加した老人も、「千曲川に水浴びに行った帰りに上級生から″砂を持ってこい″といわれて運んだ。当時は上級生から言われると素直に従ったものだ」と回想しておられた。なお「茶話踏入」では、当時、「砂に土を少し混ぜて使う」と書かれているが、わたしが見学した今年の砂文字は土を混ぜていなかった。

線香を立てて人々を待つ
 現在は、午後7時に集まり皆でいっせいに線香を砂文字に立てるが、以前は砂文字ができると線香を立てて地域の人たちが集まってくるのを待っていたようである。

「天之川の文字の砂の額が出来上がると、文字にも額縁にも線香を立てて、地域の人たちが来るのを待ちます。井戸の周りには、灯籠を立てて灯を入れ、笹竹に「天之川」や願い事を書いた短冊を結びます。井戸の奥まった所にある水神さまにも線香を立て、清めの塩を盛ります(茶話踏入)」

 そして祭りに集まった人々もそれぞれが持ってきた線香を立ててお詣りした。「夕方から地域の人たちが集まってきますが、この頃になると夕闇の中に線香の明かりが点々と灯り、井戸の周りに普段とは違う祭の雰囲気が漂います。地域の人たちは、祭に来てそれぞれが持ってきた線香を立て、お詣りします。(茶話踏入)」

子どもたちの攻防戦 ~砂文字を壊す~
 踏入地区には、街道沿いに共同井戸が5カ所、個人井戸が11カ所あり、共同井戸ではそれぞれ砂文字を作る七夕行事が行われていたという。子どもたちは、遊びでよその井戸へ砂文字を壊しに行くことがあったようである。

「井戸はいくつかありましたので、それぞれがよその天之川を壊しにいくのが楽しかったということです。お互いに壊されては大変、と周囲に杭を打ったり、バラをつけたりして攻防しました。この攻防戦に先駆けて井戸の周りに萩を付けたとか竹を付けたとか記憶する人たちもいます。祭を仕組む中心は男の子で、女の子は参加しなかったようです。(茶話踏入)」

この攻防戦に備えてトゲのあるカラタチの木を植えたりしたそうで、現在の井戸の側にも樹齢約80年(直径およそ15センチ)のカラタチが残っている。

■踏入以外の「天之川」
 踏入以外でも上田市で砂文字七夕が行われていたことが、『上田市誌 民俗編(3) 信仰と芸能』(平成14年・上田市発行)に記載されている。「七夕に井戸替えをしたり(踏入・下常田・馬場町・上房山・吉田)、天の川のお祭りをした(踏入・下常田・新町)地区もあります。(中略)天の川の行事は、新町では戦前に、踏入は昭和20年代中ごろに行われなくなりましたが、その後踏入では公民館の分館が中心になり平成7年に復活しました。」とあり、踏入以外に下常田・新町の地区でも行われていたことがわかる。

 下常田を含む常田地区は踏入に隣接し、踏入を通った北国街道が上田の中心部に向かう道筋にある。また新町は、中心部を通った北国街道が踏入とは逆の西へ向かう道筋にある。砂文字七夕の行われた地域はいずれも上田市街地の北国街道沿いにあることから、この行事は上田市域の街道沿いの七夕文化ということができるかもしれない。

■井戸替えと星祭りが結びついた祭り
 この行事は、「茶話踏入」で明確に述べられているように、七夕におこなわれる井戸替えの祭りである。七夕に井戸替えを行うのは全国的な習慣であり、昭和37年から昭和39年にかけて全国1342カ所で行われた民俗一斉調査の結果をまとめた『日本民俗地図』には、66カ所で行われていることが報告されている。これは七夕竹を飾る(281カ所)、だんごや赤飯など特別な食物をつくる(264カ所)、墓掃除・墓への道をきれいにする(171カ所)、初物の野菜や果物を供える(96カ所)に次いで5番目にポピュラーな七夕の習俗である。

 井戸替えは江戸時代から七夕に行われることが多く、京都でも貞享2年(1685)の序がある『日次紀事』(ひなみきじ)の7月7日に、「井水 今日、村民、家ごとに井の水を汲み尽くし、井底の泥を去り、他家の井水を汲みてこれに合わす。これ俗に男水(とのみず)と謂う。洛下の家もまた然り」とあって、七夕に井戸替えがおこなわれたことが記されている。

 踏入の七夕行事「天の川」は、全国的に行なわれていた七夕の井戸替えに中国伝来の星祭りが結びついたものといえる。星祭りは織姫と牛飼いが年に一度会合するという伝説にもとづいた乞巧を祈るまつりであるが、日本では江戸時代に入ると、字の上達を願って短冊に「天の川」などと書いて笹につるす習俗を生んだ。踏入の砂文字七夕「天之川」は、短冊に書いている「天の川」の文字を砂で作って、井戸替えが終わった井戸のそばに、奉納したものといえよう。

■おわりに
 踏入の七夕行事を見学して感じたことは、地域の子どもとその親たち、それに昔からの行事を知っている老人たちが一体となって祭りを作り上げている様子であった。子どもたちが砂だんごを作り、それを文字にしてゆく様子は実に危なっかしい。昔は子どもだけで砂文字を作ったというが、現在ではとうてい無理であろう。その代わり父親たちが手伝う。その父親も地域の老人から習う。

 子どもたちは大きくなったら七夕の思い出を胸に秘め、もしこの地で父親になれば子どもと一緒にこの行事を手伝うであろう。地元自治会・公民館分館・PTAなどが協力して七夕の伝統行事を継承してゆこうとする取り組みは、地域社会のつながりが薄くなってきている現代社会の将来の姿を示すものといえる。

 調査にあたり、信州民報の記事を送っていただいた笠原一洋氏、公民館踏入分館長の大西福茂氏、元分館長の木村信良氏、お世話いただいた自治会の松澤一志氏、その他いろいろとお話を聞かせていただいた踏入地区のみなさんに御礼を申しあげます。(2005年8月記)


                    

「室津の七夕飾り」聞き書き:尾崎織女

2018-10-07 13:15:22 | 調査報告
 「室津の七夕飾り」聞き書き:尾崎織女

■はじめに
 瀬戸内海の東部に位置する御津町室津(兵庫県揖保郡)は、三方を山で囲まれた天然の良港として古くから栄えた町でした。「風を防ぐこと室のごとき」港であることから室津と名付けたと『播磨風土記』には記されています。江戸時代には、参勤交代の西国大名が乗船地・下船地に利用し、箱根に次ぐ宿場町として賑わいを見せました。「一宿一軒」が原則の本陣が最盛期には6軒もありました。現在、御津町立海駅館として公開されている旧・嶋屋(回船問屋)や室津民俗館の旧・魚屋(海産物問屋)の佇まいの中に、かつての面影をみることができます。また室津は、李氏朝鮮の国王の新書を携えて将軍の座す江戸幕府まで上る朝鮮通信使の一行が必ず寄港した国際海駅港としても知られています。幕末にここを訪れたシーボルトが、賀茂神社の参籠所から望む瀬戸内海の美しさを絶賛したことでも有名です。

 かつて「室津千軒」と呼ばれた町のすべてが残されているわけではありませんが、港に沿って軒を連ねる町並の中には、近世から受け継がれる様々な民俗文化が保存されています。室津独自の行事には、4月上旬の小五月祭、7月下旬の夏越祭、盆の精霊流し(※1)、旧暦8月1日の八朔ひな祭りなどがあります。
(※1) 15日の夕方、長さ1m程度の木製精霊舟に、仏壇に供えたものを積み込み、線香を焚き、「妙法丸」あるいは「西方丸」と書いた帆を掛けて提灯で飾る。各家、鈴を鳴らしながら出発、船で沖あいまで出ると、精霊舟は西方に向けて流される。

 2004年8月20日、御津町室津で町をあげて開催されている「第2回八朔のひな祭り」を訪ねた折、御津町立室津民俗館で前年秋に開催された特別展『御津の民俗』の図録を入手しました。そこにはこの地に伝承される七夕飾りの写真が掲載されており、他の播州各地で行われている野菜を吊す飾りとの共通性がある一方、室津独自の要素も感じました。私たちは室津民俗館の紹介で、この特別展に際し七夕飾りの復元に携わられたという金澤孝子さんをお訪ねし、室津の七夕まつりの様子をお聞きすることが出来ました。また、8月29日、11月13日に再訪し、室津民俗館に勤務される山下初代さんにも七夕まつりのお話を伺うことが出来ましたので、ここにその内容を報告させていただきます。


■金澤孝子さん(大正14年生まれ/御津町室津出身、現在も室津在住)のお話
 金澤さんは、御津町役場に55歳まで勤められた後、御津町立室津民俗館(開館=昭和60年7月7日)で12年間、この地の歴史や民俗、文物に関わった仕事をされてきた方です。昨年秋に行われた民俗館の特別展『室津の民俗』の中で、七夕飾りを復元し、写真資料等も提供しておられます。

七夕の飾り台に笹竹を2本立て、枝竹を渡し野菜を吊す
 金澤さんによれば、室津では8月6日に七夕飾りの準備が行われます。午前中に近くの竹やぶから笹竹を2本切り出してきて、笹の葉の美しい部分を使って2本の笹飾り用を用意します。七夕の飾り台にその2本の笹を立て、短冊や網(投網)などの切り紙細工を吊るすと、残りの笹竹から枝葉を落として70cm位の竹をとり、2本の笹飾りの間に差し渡します。両端を紐で固定し、差し渡された竹には、この地方でこの時期に実り始めるハツモン(初物)の野菜のいろいろを糸で対につないで吊り下げます。

………「昔は車も通りませんでしたから、通りに面した軒より少し前へ床机を出し、その上に七夕の台を据えました。台の両方から笹飾りを立て、その間に渡した竹には対に糸でつないだ野菜を吊るします。七夕さんはハツモン食いと言ってね、胡瓜、ホオズキ、茄子、トマト、ナンバキビ、柿、栗(イガに入ったまま)、ササゲなど、ハツモンの野菜をまくばりよく吊るしました。やっと実りはじめたばかりの野菜ですから、まだ小さくて青いものですよ。対につないでいるので、正面と手前にふりわけるのですが、その時、野菜どうしがぶつからないように上下を少しずらしてぶら下げていましたね。それから、吊るした野菜の真ん中には、半紙を折り畳んで「奉二星」と墨で書いた紙を、金銀の水引で結びきりにして掛けました。半紙を半分に折り、さらに3等分に折って、上と下を折り曲げた形です。竹に掛けると、下から萱が支えてくれますので、うまい具合に収まるのです。」

室津の七夕飾りの様子(尾崎織女作図)

室津独自のものと思われる七夕飾りの台
 さて、この2本の笹飾りが立つ七夕の台は、室津独自のものと思われます。台の大きさは、高さ65cm、幅60cm、奥行35cmほどのこじんまりした箱型の枠で、手前を除き、両脇と正面の三方に、ぎっしりと萱の茎を立て込んだ形です。枠の下から5cmほどのところに一段、それから10cmほど開けて一段と、二段の横板が渡されています。
茄子の牛
 上の棚には、ご飯、2匹の魚(尾頭付きの魚は、その種類によって調理方法が違う)、あられ、西瓜、南瓜、サツマイモ(蒸かしたもの)などのお供え物が置かれます。魚は決まっておらず、海老などをお供えすることもあります。その他には、割り箸で4本の足を刺した茄子の牛(背中には御幣をいただく)、それに高杯型の陶器の水鉢に水をはったものも添えられます。茄子の牛が水に口を浸すような位置に水鉢は据えられました。また、下の棚には、子どもたちの「おくばり」(あられや飴などのお菓子)を入れた箱、それから「おうつり」(いただいたお菓子のお返し)を入れる箱を仕舞っておきます。
        
………「長方形の床机は長い辺を横にして通りに出すのですが、その上に据える七夕の台は短い方の辺に合わせるように置きました。台の傍には母親や、兄弟の多い家では兄や姉が座って、おくばりにくる子どもたちの相手をしなくてはなりませんから。」  
     
「おくばり」と「水鉢」
 こうして七夕飾りが完成した6日の夕刻になると、子ども達がお菓子などを思い思いの箱に入れ、七夕飾りのある家を訪問してお菓子を交換する「おくばり」が行われます。これは7日の夜も行われました。

………「私の子どもの頃は、城崎の麦わら細工の小箱にあられなどを入れて、各家を回りました。お菓子を差し上げると、おうつり、といって、差し上げたものの3分の1ほどのお返しを箱に入れてもらいます。こうして、子ども達は、いただいたらお返しをする、という作法を自然に覚えていったのです。」
2本の笹飾りの両側には一つずつの提灯が掛けられ、ゆれるロウソクの灯りが、夏の夜の風情をかもしていたことでしょう。

金澤本家に保存されている陶器の水鉢

………「7日の夜には、お供えの水鉢を前栽の雪見灯篭の上に置き、夜露をその中にとりました。水鉢は、大半の家はガラスのコップでしたが、私の家のものは直径が14cm、高さ10cmほどの高杯型の鉢に藍色で織姫さまや巻物などの絵が描かれたものです。水鉢の水にお月様が映ってキラキラとする様子を見たことがあります。」

………「夜露をとった水鉢の水は、8日の朝、笹や吊るした野菜などの飾り物とともに海へ流しました。」こうして室津の七夕まつりは、8月6日にはじまり、7日を過ごして8日の朝に終わります。                        

第二次大戦後の室津の七夕
 
格子のある金澤家
 大正14年生まれの金澤さんが記憶されている七夕飾りは、昭和初期から10年代にかけての時期。戦前の飾りといえます。また、金沢さんが祖母にあたる方から伝え聞かれたところの明治末期から大正時代の七夕飾りも同じような様子だったそうです。

金澤家で行われた略式の七夕飾り(平成9年頃)
(御津町教育委員会編・特別展図録「室津の民俗」にも掲載されている写真)

………「戦中戦後は、もう世の中の混乱期で、七夕を飾る余裕の無い時代でしたけれど、暮らしが落ち着くと、子どものある家では、昔ながらの七夕飾りがなされるようになったと思います。私の家は萱を立てた台を使って七夕飾りをしていましたが、格子に笹飾りを結びつけ、その間に野菜を吊るすと、屋内に小机などを据えてお供えをして、格子越しにおまつりをするといった簡略式の飾り方をするようになりました。昨年、室津民俗館で開催された特別展『室津の民俗』の図録やポスターの写真は、我が家の略式の飾りを写した写真が使用されています。」

 8月8日の朝、七夕飾りの笹や竹にかけたハツモンの野菜、水鉢の水などは海へ流されましたが、七夕の台は、次の年もまたその次の年も毎年、使ったそうです。

………「台に立て込んだ萱は、毎年、立て替えましたから、まつりが終わった後は焼いていたのでしょう。萱は置いておくと、麦わらのように茶色になりますけれど、七夕に立てた時は、まだ青くて綺麗です。笹飾りやお供え物を海に流したり出来なくなりましたから、以前のような飾り方もだんだんと廃れ、七夕の台も処分してしまったのでしょう。伝承されてきた本式の七夕飾りを行う家は、今ではもう絶えてしまったように思いますね。」

■山下初代さん(昭和20生まれ/御津町室津出身、現在は室津民俗館勤務)のお話
 室津民俗館では、特別展を開催された折に展示されたという七夕の台を見せていただきました。枠に立て込んだ萱も昨年のまま保存されていましたので、様子がよくわかる資料です。この七夕の台は、室津地区内の山里家の蔵に残されていた大正時代のもので、かつては、金澤家の他にも、こうした台を使って七夕飾りをする家はあちこちにあったということを物語っています。
 その資料を撮影させていただきながら、民俗館に勤務されている山下初代さんにお話を伺いました。山下さんは、室津生まれの室津育ち、現在は「室津を活かす会」の会員としても町の文化を守り育てる活動に取り組まれています。 

山里家に保存されていた七夕飾りの台~室津民俗館所蔵~
………「室津では、このような台を使って七夕飾りを行っていました。台の両側から笹飾りを立て、2本の笹に竹を差し渡しますでしょ。そこにハツモンの野菜をかけて飾るんです。ホオズキ、ササゲ、胡瓜、出来たばかりの柿や栗などを対にしてね。その真ん中には、半紙を畳んで――私の記憶では「天奉 二星」と書いたものをかけていました。萱を立てた台の棚には、西瓜や南瓜、ご飯やお菓子、それに室津は漁場ですから魚なども供えましたし、それに茄子に割り箸をさして作った牛なども置きました。」

室津民俗館に所蔵されている七夕飾りの台

………「七夕の牛の背中には、家で初七夕を迎えるのが男の子だと御幣を、女の子だと長方形に畳んだ紙をさすのだと、祖母から聞かされていました。私は女の子ですから、畳んだ紙をさした牛だったのですが、御幣をさして欲しいなあとよく思ったものです。牛が水を飲めるような位置に水鉢を置きました。茄子の切り口を水に浸すことになりますから、茄子が萎れなくてすみます。」

………「萱をさした台を使って七夕飾りをされる家もありましたけれど、室津は格子の町ですから、その格子に2本の笹飾りをくくりつけ、その間に野菜を吊るす家もありました。竹を差し渡す代わりに格子の桟を利用してハツモンの野菜をくくりつけたりね。最近はもうあまり見られなくなりましたが、それでも、8月6日になると、室津の町並の中に、時々、笹飾りが立っている家がありますよ。」

■猪澤久彦さん(昭和19年生まれ/御津町室津出身、現在も室津在住)のお話
 8月29日の夜、八朔の雛飾りを行っておられる猪澤久彦さんにも、大正時代の雛人形を見せていただきながら、子ども時代の七夕のお話を伺いました。

猪澤家と室津の町並
………「私たちの小さい頃は、ちょうど戦後の混乱期。物の無い時代でしたし、暮らしに精神的な余裕もありませんでしたから、本式のきちんとした七夕まつりなどは出来ませんでしたね。萱を立てた台に飾るようなことはその頃には、もう行われませんでした。妹が生まれた頃(昭和20年代後半)になると、それでも、時代が落ち着いてきましたから、七夕まつりもまた再開されました。室津は格子の町ですから、格子に2本笹の飾りをくくりつけて、そこへ短冊やら、切り紙細工やらを吊るし飾るようなやり方です。その間にハツモンの野菜なども吊るしたりしていましたね。8月6日に飾り、7日に終わる。私たちの頃は確か、そんなふうだったと思います。6日の夜に、おくばりといって、あちこちの家を回ってお菓子をもらい歩く風習がありまして、それが楽しみでしたね。」

■他の播州地域と比較した室津の七夕飾りの特徴
 今回お話を伺った室津の七夕飾りは、床机と七夕の台を使用して飾るもので、金澤さんや山下さん、猪澤さん以外にもお話を伺いましたが、このような形態は、大正時代から昭和初期にかけて各家それぞれに行われていたものとわかりました。それが、戦後になると七夕の台が姿を消し、通りに面した家々の格子を利用して飾るものへと変化していったようです。その昔は近くでいくらでもとれた萱が手に入らなくなったことや、飾り物を海に流すことが禁止されたことなども戦前の飾り方が廃れた要因と考えられます。

 播州地域の七夕飾りを概観してみると、床机を舞台に2本の笹飾りを立て、その間に竹を差し渡して、胡瓜、茄子、トマト、栗、柿、ササゲなどハツモノの野菜を対にして飾るというものです。その下には西瓜や南瓜、盥に小魚を放して供えたりもされます。市川水系では野菜の代わりに「七夕さんの着物」とか「七夕さん」とか呼ばれる七夕人形が飾られる地域もありますが、ほとんどの市川水系地域、夢前川水系地域、揖保川水系地域ともに多少のバリエーションがあるものの、概して野菜を吊るす飾りです。御津町は揖保川水系に属しますが、室津に近い岩見や黒崎、苅屋地区では、室津に見られたような七夕の台を使った飾りの伝承者を見つけることは出来ませんでした。

 萱を三方に立て込む七夕の台、水鉢、御幣をいただく牛、「奉二星」あるいは「天奉二星」の文字、全体に優雅にまとまった感のある室津の飾りは、他の播州地域のものに比べると、古式の美が漂っています。また、他の播州地域と異なるのは、七夕を祝う日が他地域では8月6日夜から7日朝にかけてであるのに対して、戦前の室津では8月6日から7日を過ごして8日の朝までであった点です。
 この地区でも、古老たちは七夕を「盆の始まり」と考えておられるので、七夕の台を盆棚と関連付けて考えていくことも必要かと思われますが、文献類の中から、他の播州地域では見ることの出来ない室津の七夕飾りのあり方について、またこの形態の成立の時期について説明してくれるものを見つけることは現在のところ出来ませんでした。室津周辺部の聞き取りを含め、今後の調査課題です。
 お話を伺った町の人たちが「七夕まつり」と聞いてまず懐かしがられるのは、「おくばり」の行事でした。夜、提灯の点った七夕飾りを巡りながら、お菓子やあられをもらい歩く楽しさについて目を細めて語られ、「七夕まつりは確かに子どもの行事だった」と振り返られます。今回、懇切丁寧にお話し下さった金澤孝子さん、保存してある七夕飾りの台をお見せ下さった室津民俗館と山下初代さん、情報を提供して下さった室津海駅館のスタッフの方々、それから猪澤久彦さんにお礼申し上げます。

 金澤さんによると、現在、御津町立室津幼稚園では、ふれあいを大切にと、老人クラブの役員と園児や父兄が一緒になって、七夕祭りを行っておられるようです。昔ながらの七夕まつりの様子をぜひ、拝見してみたいものです。(2004年12月記)                                      
 調査チーム: 日本七夕文化研究会 笹部いく子・天野美紗子・尾崎織女
 調 査 日 : 2004年8月20日・29日/11月13日 
 使用写真  : 「金沢家の略式の七夕飾り」以外は、笹部いく子・天野美紗子が撮影

村松浜の七夕流しと武者人形と紙人形:畑野栄三

2018-10-05 15:36:04 | 調査報告
  村松浜の七夕流しと武者人形と紙人形 畑野栄三

はじめに
 8月7日の夜。新潟の中条町村松浜では、麦わらで大きな「七夕流しの舟」を青年達が作り、その舟に色紙で作った姉様風紙人形と、わら馬に乗った色紙の武者人形を乗せて海に流す行事が今も伝えられているという。

 数年前、こんな行事が残されていることを知り問い合わせたところ、毎年行っているのでぜひ一度見に来てほしいと返事をいただいた。行事もさることながら紙人形に興味があるので、ぜひ見学に行きたいといったまま数年が過ぎた。それというのも8月の盆近くは乗り物は混み、しかも酷暑の旅は気が重い。そのうえ、当方の郷土玩具館の建設、開館と雑務にとりまぎれてなかなか実現しなかった。

根知谷から村松浜へ
 今年(平成11年)こそは出かけたいと考えていた矢先、郷玩文化の6月の例会に久し振りに顔を出したところ、石沢さんから糸魚川の根知谷に面白い七夕行事が残り、それに珍しい七夕人形が伝えられている。この夏に会で見学旅行を計画しているので、ぜひ一緒にとのお誘いをいただいた。いずれも同じ新潟県内の日本海岸寄りの集落。都合のよいことに根知谷が8月7日、村松浜は8日、しかも両方とも珍しい七夕人形のある民俗行事。絶好のチャンス到来、即座に参加を申し込んだ。

 根知谷の七夕行事見学の旅は、翌日、信州松本へ向かうため、一行は根知の民宿泊まりとなる。村松浜の方は、浜の小学校で早朝から舟の製作が始まり、昼には浜へ持って行き海に流す予定。舟の製作風景を見るには、午前10時頃までには浜の小学校まで来てほしいとのことであった。その時間に間に合わせるには、糸魚川を6時前の急行に乗らなければならない。

 私だけ根知で一行と別れ、糸魚川のホテルに一泊。翌日、早朝の新潟行き急行に飛び乗った。新潟駅から村上行きの快速に乗り換える。運悪く海水浴行きの子供達の団体と一緒になった。子供達の喚声と36度を越す熱気(冷房車でなく扇風機のみ)、むし風呂のような車内になやまされるが、なんとか中条駅に着く。駅前のタクシーで村松浜小学校へと急いだ。

七夕流しの舟を作る
 学校では、すでに体育館で大人たちにより七夕流しの舟の製作が始まっていた。館の一方では子供達大勢で七夕の笹飾りを習っていた。70名余りの全校生徒は各所に別れ、七夕飾りのいろいろを集落の大人達から指導をうけているほほえましい姿が見られた。
 大人たちが七夕流しの船をつくる
 七夕行事のメインになる七夕流しの舟は大人(男性)7,8人が、直径20センチ位の太さに束ねた麦わらで、舟の形に作り上げてゆく。長さは3mあり、高さと幅は1m位のかなり大きな麦わら舟である。舟の左右の側面を補強するため、青竹が縦横井桁に組まれる。その青竹にすゝきや小さな赤い草花(花の名前はわからないが、舟を作っている人達はぼんばなと呼んでいた)を結わえる。この舟、七夕流しの舟であるが、盆の精霊送りとがいつの間にか混同したのではないだろうか。
 おしょう舟の製作
 体育館の中では、この大きな舟とは別に小さな舟も作られており、その方は「おしよう舟」と呼ばれている。このおしよう舟、今は大きな舟と一緒に海に流されるが、本来は盆の精霊流しの舟に使われたものである。8月16日の正午、精霊棚に供えられていたものを舟に乗せ海に流したものである。

 11時頃には、七夕流しの舟はぼんばなで美しく飾られ仕上がる。体育館の正面に舟は飾られ、その舟に紙人形や武者人形が子供達により運び込まれ、舟の中に沢山吊り下げられる。舟の中央には帆柱が立てられ、「上」と書かれた帆が上げられ、各所に立てられたローソクに灯が入る。

でき上がった舟を前に、子供達に七夕行事のお話をする村の役員

以前の村松浜の七夕行事
 話は前後するが、冒頭で述べたようにこの七夕流しの舟のことを知ったのはかなり以前である。『日本民俗地図1 年中行事1』(昭和44年 国土地理協会刊)、この本は全国各地の民俗行事を、それぞれの地方の人達が文化庁に現況報告したものをまとめた貴重な記録である。この中の「七夕行事」の項で、村松浜の七夕のわら舟や紙人形のことを知ったのである。一寸長いがその一部を記しておこう。

 「村松浜 七夕 7月7日(中略)青年たちは、麦藁、竹、藤づるなどで6~7尺の舟を作った。この舟は千石舟をかたどり、上通り、下通りそれぞれ1そうずつ作った。舟にはヤグシ(波の返し具、デッキようのもの)をつけ、人形と馬型を各戸が作ってこの舟にのせた。夜青年たちはこの舟をかついで神社にお参りしたのち、上通り、下通り両者の舟はもみ合いをはじめ、一方の舟が地面に着くまで争われた。村中これを応援し、嫁や婿はその実家の通りのほうに加勢して壮絶をきわめたものであった。三度このもみ合いをしたのち浜に行き、
七夕様ようー また来年ござれようーと、唱えながらこの舟を海に流した。近年この行事は警察から止められて現在は行われない。」

 いま作られている七夕流しの舟の帆には「上」と書かれている。すなわち上通りの舟である。いまでは年に1艘、上・下交代で作られているが、かってはそれぞれの集落で作っていた。舟ができ上ると、上通りの舟は天照皇大神宮(上の宮)、下通りの舟は金比羅神社(下の宮)へかついで行き、その夜2艘の舟がぶつかり、もみ合い壮絶な争いの後に、浜へかついで行き海に流した。舟の両側が青竹で頑丈に組み込まれているのは、この激しいもみ合いに押しつぶされないようにしたものである。いまはそれが見られないのは淋しいと、老人たちは昔をなつかしむように青竹を丁寧に組んでいた。

上・下の文字の入った帆が張られた「おしよう舟」
 大きな七夕流しの舟と一緒に作られているもう1つの舟、おしよう舟の方は、大きな舟とほぼ同様の作り方である。麦わらを太さ3センチ位に凧糸のような木綿糸で束ね、舟は長さ60センチ、幅25センチ位で、左右の側面は大型のように高くなく10センチ位である。それに30センチ位の帆柱が立てられ、上・下の文字の入った帆が張られている。この舟にも、男の子のいる家は武者人形を、女の子のいる家は紙人形を糸でつないだものを乗せ海に流した。武者人形は、わら馬と色紙製の武者が一対となっている。
 武者人形と紙人形
 馬を作るわらがこの浜にはない(村松浜は漁業の集落のため、麦は多少つくるが稲作は全くされない)。そのため隣村から田植に残った早苗をもらってきて、それで事前に馬を作っておく。馬は長い尻尾まで入れると全長が70センチほどある。根の部分をたてがみ風に編み、胴体から尾にかけて早苗の葉を長く延ばし、脚をつけ実に格好のいい馬である。

武者人形と紙人形 教室では紙人形を制作中
 その上に武者人形が乗る。人形の高さ25センチ、両手の幅25センチ位で、頭部は早苗の葉が竹串を芯にして結わえつけられ、同様にして両手、両足がつけられている。その芯に、色ちがいの色紙2枚を重ねて着物が着せられる。人形の両手が左右に出ているため、着物はT字形に切り込まれている。頭部には烏帽子や陣笠をかぶせ、腰には長い太刀、そして背中には旗差物までつけている人形もある。人形の下部から突き出た竹の芯を馬の背に差し、馬上の武者に手綱をもたせて出来上がる。なかには馬にも二色の色紙を重ね模様を切り抜き、馬衣までつけているものもある。

 もう一つの紙人形は高さ20センチ、幅10センチ、頭は白い半紙を丸めて顔を作り、その上に細長く折った紙で髪を結い、顔の部分の紙を下に長く延ばして体の芯にしている。その芯に赤と青、黄に緑など、二枚の色ちがいの色紙を重ね合わせて着物にする。着物は裾から両方同じ位に切り込みを入れ袖にする。中央が胴体となり、胸のあたりに帯を結び、配色のちがった人形2体を長い糸でつなぐ。この2体の人形の作り方は同じだが、男女一対のつもりだろうか。

 武者人形や2体の紙人形、いづれの人形も丁寧に作られ、製作を指導していた老婆の話では、人形の作り方は、この浜に嫁いで姑に教わったが、その姑も祖母から習ったといっていたが、かなり古くからここでは作られていたようである。このような可愛い人形達が、どうして今まで郷土玩具の話題にのぼらなかったのか不思議なくらいである。これらの武者人形や紙人形が、大きな七夕流しの舟の舟腹に数えきれないほど沢山吊り下げられる。

高学年の子供達が七夕流しの舟をかつぎ上げ校庭を廻る
  
午前11時頃、飾り付けを終えた大きな七夕流しの舟は高学年の男子生徒、小さなおしよう舟は女子生徒、七夕の笹飾りは低学年の男女生徒達が持って校庭に出る。集落の人達が多勢で見送る中を、
  竹にたんざく 七夕様よ
  ローソクだせだせよ
  ださねどかっちゃくぞ(注 かっちゃくぞ→ひっかくぞ)
  ワー、ワー、ワー
と、はやしながら校庭を廻り、浜へ向かった。

筏に乗せた七夕流しの舟、さあ出発!

浜では、大きな七夕流しの舟を波打ちぎわに下し、用意されていた筏に舟を乗せ、小さなおしよう舟は筏を曳航する漁船に積み込まれた。
やがて集落の人達が見まもる中を、大きな七夕流しの舟は漁船に引かれて次第に小さくなり、青い海の彼方へと消えて行った。小さなおしよう舟も海の藻屑となるのでしょう。

七夕流しの舟を漁船で曳いて沖へ行く

笹飾りを手に、七夕流しの舟をいつまでも見送る子供達

おわりに
 因みに、村松浜の七夕流しの行事について、またその歴史について知る資料や文献がないかと捜したが急には見つからず、菅江真澄も直江津から越後への途次、中条を過ぎたと思われるが『菅江真澄遊覧記』には見あたらない。

 しかたなく『年中行事辞典(東京堂出版)』の「七夕送り」の項を見ると、「ー新潟県西頸城郡では、七夕流しといって藁・麦がら・麻がらで大きな舟を作り、これに竹などを積んで流し、「おたのばたまいの また来年もございの」と歌う。糸魚川市などでは、七夕丸と書いた帆をあげ、往来を練ってから海に流す。七夕丸のそばに、五~六歳の女の子を二人ほどのせて、太鼓などではやし廻る村もある。北蒲原郡では念仏のはやしで七夕舟を流す。刈羽郡では、七日の日に四~五尺の大きさの麦わら舟を流す。これを七夕舟といい、豊年丸、万作丸などの旗を立て、藁人形十二体ほど立てる。-」
 など、新潟の北蒲原地方から西頸城地方にかけての海浜の集落の各所で、この様な七夕送りの行事が見られたようである。だが現在は如何残っているのかわからないが、村松浜のように新たな発見があるかも知れないので折りを見て訪ねたい。
(「郷玩文化」135号 平成11年(1999年)10月発行より転載)


       


高山市松之木町の七夕まつり(七夕岩)見学記:石沢誠司

2018-10-04 12:44:25 | 調査報告
松之木町七夕岩の行事とは
 JR高山駅から東へ約2キロ行ったところに、松之木町がある。この町内を流れる大八賀川が上流で漆垣内町と接するところが、両岸に岩山が迫っており「字七夕」と呼ばれている。この岩山の上流に向かって右岸を男岩、左岸を女岩と言い、通称「七夕岩」と呼んでいる。毎年8月6日(古くは旧暦7月6日)に岩から岩へ大しめ縄を張り渡し、牽牛織女の二星をまつり五穀豊穣を祈る行事が松之木町七夕まつり(七夕岩)である。町内でこの一年間に男の子が生まれた家では藁馬を、女の子が生まれた家では糸巻きの作り物を大しめ縄に吊し、子供たちの健やかな成長を願う。この行事は高山市の無形文化財に指定されており、高山市教育委員会が発行した『高山の文化財』(平成11年刊)には次のように紹介されている。

無形民俗文化財 松之木七夕
〈市指定〉 平成6年11月4日
〈所有者〉 松之木町内会
〈所在地〉 松之木町
〈時 代〉 江戸時代~
 松之木の七夕は、町内にある七夕岩で行われる行事を中心としている。七夕岩は、大八賀川の両岸に立つ、男岩と女岩の二つの大岩からなる。毎年八月六日(古くは旧暦七月六日)に、男岩と女岩の両岸に大しめ縄を張り渡し、飾り提灯や、その年男の子の生まれた家では藁の馬を、女の子の生まれた家では糸巻きを吊し、牽牛織女の二星をまつり、五穀豊穣を祈る。
 この行事は元禄時代以前から行われていたといわれ、『飛州志』や『飛騨国中案内』『斐太後風土記』の中でも紹介されており、古くから遠近に知られていた。国道を横断して張られ、危険なために一時中断したこともあったが、当局との折衝の末、復活をした。歴史もあり、他では見られない貴重な民俗行事である。

高山市の松之木町へ 
 平成14年8月6日(火)高山市を訪れた私たちは、まず市立図書館に行き宮崎惇氏の編集した『高山市松之木町の民俗行事 七夕祭り資料集』を閲覧し主要部分のコピーをとらせていただいた。そして夕方、高山市中心部からタクシーで約10分の松之木町に着いた。さっそく電話で連絡をとってあった町内会長の門前洋一さん宅を訪れると、門前さんは「この祭をよく知っている地元の方を紹介します」と言って、家からすぐ近くの七夕岩まで案内してくださった。

 門前さんの家は大八賀川の右岸にあり川沿いの道を上流に少し歩くと、すでに両岸は七夕祭を見学にきた人たちで賑わっている。道に沿って飲食物を売る屋台が並び、河原には特設の会場が設けられ音楽等が演奏されていた。川を斜めにまたいで国道361号の高架橋がかかっているところが七夕岩だった。両側に山が迫っており対岸を見上げると大きな岩があり、これが男岩だという。岩には大しめ縄が幾重にも巻かれその先が下に延びている。

 河原に下りると流れをまたぐ仮設の橋が架けられており、それを渡り対岸に上がった所が七夕祭の準備をする場所だった。そこでは松之木町内の人々が男岩から延びたしめ縄に行灯を付ける作業をしていた。目的の藁馬はすでに糸巻きとともにしめ縄に結びつけ られていた。
 しめ縄に行灯をつける
 わら馬
 藁馬が3頭、糸巻きが3個である。すなわち松之木町内では七夕までの一年間に男児3名と女児3名が誕生したことになる。行灯は藁馬と糸巻きの間に等間隔で4つずつ吊り下げられているところだった。行灯というのは町民の手作りで約10センチ角の板上下2枚に30センチの枠材4本を釘で固定し、障子紙を貼ったものである。上下の板に錐で穴が二箇所あけられ、そこに針金を通し行灯3つが縦一列になって一番下の針金の先には重りが付いている。行灯の中には底板から出ている釘にローソクが刺されて立てられている。

 門前さんは町内のお二人を紹介してくださった。藁馬を作った洞善治さんと、地元の歴史にくわしい平野勇さんである。まず洞さんにお話を伺った。
「藁馬は毎年2~3頭作ります。糸巻きも2~3個作ります。昔は皆、わら細工が得意だったので、七夕の前になると男の子の生まれた家では藁馬、女の子の生まれた家では糸巻きの作り物をその家のおやじが作ったものだが、今では私のところに頼みにくる。今年は馬を2頭作ったが、私以外にも一人が馬を作った。この二人以外にも馬を作れる人は2~3名いる。藁馬は集中すれば一日でできるが、仕事があるのでその合間につくるから1週間ほどかかる。首と4つの脚には針金を入れてあり、全体の姿は針金を曲げながらバランスよく仕立てる。たてがみの部分は髪をピンと立てる為に、割り箸に稲穂(籾を落としたあとの)を揃えてはさんみ取り付けてある。糸巻きは木枠を藁で覆い、細い藁縄で所々を結んで作る。これで出来上がりだが丁寧に作る場合は、糸に見立てた細縄をぐるぐる巻く。今年は糸巻きを2つ作った。」

 続いて平野勇さんのお話をお聞きする。
「松ノ木の七夕しめ縄は右ない縄です(一般のしめ縄は左ない縄)。男岩(地上から約13メートル)から女岩(男岩より少し低い)まで直線距離約80メートルだが、縄の長さは垂れるので100メートルになる。縄は10メートルのものを13本つないであります。つなぎ目に約1.5メートルとっています。縄は1週間前の日曜日に地区の者が公民館に集まって作ります。しめ縄なので縄の途中に七つ、五つ、三つの房を順に出してある。房は同じ量の藁で作るので、七つの房はひとつひとつが細く三つの房は一番太い。

 七夕のしめ縄は、昔は一年中飾っておいた。すると台風や雪が降った時などに自然に切れた。しかし運良く一年間保ち、翌年の七夕に二本、縄を飾ることもあった。そういう時は「世の中が良い」といって喜んだ。今は縄の下に国道の橋ができ、切れると危険なので一ヶ月後(9月7日前後の日曜日)に下ろします。

 昔(第二次大戦前)は町内の子どもが「七夕か~ん~じ~ん(勧進)」と言って小さい采(ざい)を腰につけながら近隣町村を歩いて寄付を募った。寄付集めは子どもの仕事だった。集まったお金で花火を買って七夕の夜に上げて遊んだ。大きな笹飾りを作って男岩のてっぺんに立てた。また子どもたちは各家で笹飾りをした。

 延享2年(1745)、隣の村と七夕岩をめぐって山論があった。つまり隣り村は七夕岩のところが村の境界だと主張し、松之木村は七夕岩から降りた谷が境界で岩はこちらの村のものだと主張した。この山論で縄を張れなくなったら、その年は稲の害虫が大発生した。また十数年前、国道に架かる松之木橋の架橋建設にともなって安全上の理由から縄上げが禁止されたが、この年に付近の子どもが2人も水死する事故があり、それから縄上げを復活したこともある。」

大しめ縄が夜空に上がる
 お話を伺っているうちにだんだん暗くなってきた。午後7時30分、曹洞宗のお坊さんがやってきて、男岩の下にある三十三番観音の前で法要が始まった。この観音は七夕岩のあいだを通る現国道ができ、人通りの少なくなった以前の場所から平成2年に移されたもので、七夕のイベントの一環として法要をおこなっているのだという。

 法要が終わると、町内の人たちが手分けして縄に吊されている行灯のローソクに火をつけ始めた。行灯といっても先に書いたように木枠に紙を貼った簡単なもので、紙をあらかじめ貼り残した隙間から手を入れて火をつける。暗い夜空に行灯の明かりが次々に灯されると、幻想的な雰囲気になってきた。いつの間にか所々に配置されていた篝火にも火がついていた。8時になるといよいよ大しめ縄の引き上げ作業が始まりである。まず町内の若者たちがサスマタという先がY字形になった棒をいくつもしめ縄にあて、高く持ち上げた。
 サスマタでしめ縄を持ち上げる
見上げていた観衆のあいだから一斉に歓声が起る。縄の先端が国道の高架橋の上にいる人たちに届くと、橋の上で女岩から下りてきている縄との結合作業が始まった。国道はこの時、交通止めされている。以前この国道ができるまでは少し下流の七夕橋しかなかったそうである。七夕橋から大しめ縄を眺めるのが最高の場所だったそうである。

 しばらくすると河原の特設ステージから司会者の声で、「これから大しめ縄の引き上げが始まります」というアナウンスがあると、ホラ貝の合図で引き上げが始まった。女岩にいる若者たち30人ほどが引き上げているのだという。今度はステージから太鼓の音が聞こえてくる。行灯の明かりが夜空に揺れ、大しめ縄が上がっていく様は感動的であった。

翌朝の七夕岩で
  上流から見た七夕岩
 翌8月7日朝、七夕岩の綱飾りを写真にとるため再度、松之木町を訪れた。大しめ縄は青空に映えて雄大な眺めを作っていた。昨日使っていたテントや仮設舞台、流れに架かる仮橋などはすべて片づけられてきれいになっている。同行していただいた洞さんにお聞きすると、今朝5時から町内の者が出てきて片づけたそうである。最近は町内でも会社勤めの人が多いので出勤前でないと全員が集まれないとのこと。七夕行事を維持してゆくために払っている町民の方々の努力に対して頭がさがる思いである。

 わら馬と糸巻きの間に行灯4列が下がる
 大八賀川の下手から歩いて行くと、国道の高架橋が見えて写真をとるにはあまりいいアングルではない。縄の下を通って上流へ出るとようやくいい景観が見つかった。写真がそれである。しかし上流からは右の女岩は見えるが、左の男岩は見えない。それにしても下流の七夕橋からの景観が失われたのは残念である。

 改めて吊られている作り物を確認すると、藁馬と糸巻きが交互に3つ、計6個、それらのあいだに行灯が4列ずつ、また左右計8列、合計28列が吊されている。昨日、男岩の下で準備していたのはこれら作り物を縄につるす作業で、縄を上げる直前に橋の上で結びあわされたのは、吊し物のある最後の縄の端だったわけである。

 七夕岩を描いた渋草焼の絵皿
なお、大しめ縄を見学する前に藁馬を作られた洞さん宅を訪問し、七夕に関する資料を見せていただいたが、その中のひとつに平成6年に松之木町七夕が高山市の無形民俗文化に指定されたのを記念して制作された渋草焼の絵皿があった。渋草焼は高山市上二之町の芳国舎で作られている白磁で、天保年間から続く飛騨の名窯である。皿の絵は七夕岩の綱飾りの景色を描いたもので、両岸に屹立する七夕岩から大しめ縄が張られ、下には大八賀川と七夕橋が描かれている。この絵は川の下流からみたもので、江戸時代から続くというこの綱飾りの昔の姿を彷彿とさせる絵皿である。現在は十数年前から国道の橋が七夕岩の真下を通っており大部景観が変わってしまっているので、以前の七夕の様子を知ることのできる貴重な絵皿である。

『斐太後風土記(ひだごふどき)』にみる明治初期の七夕岩
 松之木町七夕がどこまで遡れるのか、宮崎惇氏からご教示いただいた資料を用いて辿ってみたい。
『斐太後風土記(ひだごふどき)』は明治6年(1873)、冨田礼彦によって集大成された飛騨の地誌である。発行は明治だが内容は江戸末期の飛騨地方を伝えているとされる。七夕岩の項は次のとおりである。

七夕巖 東西山腰の岩より岩まで、大八賀川の川幅。南方隣村五名との山境に在り。大八賀川を挟み、東西の山腰に、相對て峙起たる丈餘の大巖あり。村民家ごとに綯おきたる縄を集め、毎年七月の六日の宵、東西の大岩に張亘し、挑燈(ちょうちん)に火を點し、藁にて馬牛其餘種々の形したる作物等、あまた取懸ならべて、牽牛・織女を祭り、年の豊凶を占う。翌年の七夕まで、其縄の保ちたるは豊年の兆なりとぞ。其来由詳ならず。鍋山豊後守の居城より以前のことにや。六日の夜には、年々高山町よりはさら也、近村よりも若年輩来りつどひ、皆々橋上にて見はやせり。「初秋の夕を照らすともし火に、七夕岩の名こそ高けれ」越前横越照誠寺東溟。

この記述をみると、七夕岩の習俗は現在と基本的に変わっていない。当時から七夕岩は有名だったようで、高山だけでなく近隣の村々から若い者が集まって賑やかだったことが分かる。しかし縄に吊すのは馬だけでなく、牛や種々の形をした作物などがたくさん取懸け並べられていた。そしてこの祭りの目的は牽牛・織女を祭るだけでなく、その年の豊凶を占う意味もあったことがわかる。すなわち縄が切れず翌年の七夕まで保てば豊作だといわれたのである。なお文の前後に七夕岩の場所を示す地図と、七夕岩の綱飾りの下に七夕橋を描いた図がある。この図中に詠まれている詩歌は、男岩の下が「二つ岩苔むしにけり星おちて、なりし石さえ千代や経ぬらん 冨田礼彦」、女岩の下が「初秋の夕を照らすともし火に、七夕岩の名こそ高けれ 釈東溟」である。

『飛騨国中案内(ひだくにじゅうあんない)』にみる江戸中期の七夕岩
『飛騨国中案内』は高山陣屋の地役人であった上村満義が公務のかたわら約20年間に飛騨国内を調査した結果をまとめた地誌で、延享3年(1746)に刊行された。七夕岩の項は次のとおりである。

板橋一ケ処あり、字「七夕」と云う、橋長八間、巾九尺あり、即ち、此近き処、橋場より一町程川上南の方に「七夕岩」と云て、年毎七月七夕に川東より川西へ縄を張る、両方共に険阻の岩角なり、先年より七夕に祭事致す義なり、此縄の長さ十五・六間も谷川を横に引き張る事なり、此つな年中も不切にあれば、秋世の中、吉と処の野人共悦ぶ事、悪風雨も之れ無く候へば、年中は其儘に不切故、秋作の出来方能と云う義なるべし、此岩の近き処に岩穴一ケ処あり、此の岩屋の内に観音佛一体御座す、尊観音にて即ち七観音の内成り

 江戸中期、七夕岩に縄が張られたことが記されているが、藁馬が吊されたかどうかは定かでない。この縄が年中保たれるかが作物の豊凶を占うことは、地元の人々にとって関心事だったことが記されている。近くの岩屋に観音仏が一体祀られており、現在、男岩の下にある三十三番観音の源流になっている。
 なお『飛騨国中案内』が出た延享3年より8年後の宝暦4年(1754)に刊行された津野滄洲著『飛騨八所 全』に、「七夕岩」が飛騨八所のひとつに入っている。江戸中期においても七夕岩の綱飾りは飛騨の国で名所のひとつだったのである。(この書物には七夕岩の絵が載っているそうである)


『飛州志(ひしゅうし)』にみる江戸中期の飛騨の七夕岩と七夕綱飾り
 『飛州志』は飛騨代官の長谷川忠崇によって延享年間(1744-48)にまとめられた飛騨の地誌である。ここに七夕岩の記述がある。(飛騨叢書 第一編『飛州志』 住伊書店 明治42年)

私呼巌
○ 七夕岩 同郡五明村松の木村両山上にあり、村民毎歳7月6日より七夕を祭る故にこの号あり、これ五穀豊熟の祭礼古来の定例なりと云う、其の式は両山の上の岩に縄を張り灯篭又藁を以って造りものをいたし是に掛けることなり

ここでの七夕岩は、その目的が五穀豊熟の祭礼であること、それが「古来の定例なり」と、古くから続いていることを示唆している。また縄に灯篭(とうろう)及び藁の作り物を吊るすことが記されている。
『飛州志』にはまた民間月令の項に七夕について注目すべき記述がある。

民間月令 
○ 七月、(中略)六日 民の児童、今夜七夕の祭をいたす。凡(すべ)て川の岸に出て向の岸よりこなたへ縄を張り、是に藁にて色々の品を作り、又灯籠をかけてともす也。七日の朝、悉く取り捨てるなり。七月七夕、強飯を祝い食す、硯を洗う事他州に同じ。

 七夕岩と共通する行事が江戸中期の飛騨にあったことが記されている。すなわち子どもたちが川の両岸に集まり、岸のむこうからこちらへ縄を張り、これに藁でいろいろな品を作って吊り、また灯籠も吊して灯すのである。しかしこの縄は翌7日の朝、取り捨てられるという。これをみると飛騨では七夕岩以外にもいろんな所で、川をまたぐ七夕綱飾りがおこなわれていたことが分かる。なお7月7日は強飯(赤飯)を食べ、硯を洗う風習があった。

江戸初期の検地帳に「字七夕」の地名、七夕岩の始まりは?
 郷土誌にくわしい平野勇さんは、「七夕岩の地名が『元禄八年松之木村田畑御検地水帳』(1695)に「字七夕」と記録されている。地名に「七夕」とついているところから、すでに元禄時代にはここで七夕行事をおこなっていたと考えられる」とおっしゃっている。ではこの地の七夕行事はいつ頃まで遡れるのだろうか。

 平野さんは、「元禄5年からこの地は天領だった。それ以前は金森氏が支配していた。金森氏は天正10年(1582)頃この地にきた。特に金森長近は高山城築城以前に鍋山城(女岩のある山の頂上にあった城)に10年近くいた。それ以前は土地の豪族が支配していた。『斐太後風土記』に出てくる鍋山豊後守顕綱は永禄(1558~1569)の頃の飛騨国主・三木自綱の弟で女岩山頂にあった鍋山城の城主であった。岩から岩へと大しめ縄を張り渡すこうした大規模な七夕行事は村単独でできるものでない。殿様(鍋山氏か金森氏)が言い出して始めたものではないか」との見解を述べている。

 七夕にいろんな作り物を綱や竿に吊して軒下などに飾る七夕飾りは日本の各地でおこなわれてきた。長野県松本市・大町市・塩尻市では今も軒に七夕人形を飾っている。江戸時代の記録に残るものとしては新潟県湯沢市、塩沢町、栃尾町などの例がある。また道を横切って綱を張り、そこにいろんな吊し物を飾る七夕飾りは、現在も新潟県糸魚川市根知谷で続いている。

 江戸期の記録には長野県松本市の例がある。さらに川を横切って綱を張りいろんな藁の作り物を吊す行事は、熊本県芦北町下白木で同地を流れる天月川に張り渡す「七夕の綱張り」として残っている。高山市松之木町の七夕岩行事は熊本県芦北町の行事と共通する性格を持っている。しかし松之木町の七夕は両岸の岩から岩へと綱をわたすというショウ的要素も持ち合わせており、七夕習俗のうちでも特異なものといえよう。

※本稿の作成にあたり、松之木町の門前洋一町内会長、洞善治、平野勇の各氏に大変お世話になりました。また松之木七夕の資料集を提供いただいた宮崎惇氏には本調査のきっかけをいただきました。なお写真は笹部いく子氏撮影のものを使わせていただきました。ともに厚く御礼を申し上げます。