「七夕文化」

日本の七夕を調査・記録したジオシティーズ「七夕文化」(2010年)を移行しました。

村松浜の七夕流しと武者人形と紙人形:畑野栄三

2018-10-05 15:36:04 | 調査報告
  村松浜の七夕流しと武者人形と紙人形 畑野栄三

はじめに
 8月7日の夜。新潟の中条町村松浜では、麦わらで大きな「七夕流しの舟」を青年達が作り、その舟に色紙で作った姉様風紙人形と、わら馬に乗った色紙の武者人形を乗せて海に流す行事が今も伝えられているという。

 数年前、こんな行事が残されていることを知り問い合わせたところ、毎年行っているのでぜひ一度見に来てほしいと返事をいただいた。行事もさることながら紙人形に興味があるので、ぜひ見学に行きたいといったまま数年が過ぎた。それというのも8月の盆近くは乗り物は混み、しかも酷暑の旅は気が重い。そのうえ、当方の郷土玩具館の建設、開館と雑務にとりまぎれてなかなか実現しなかった。

根知谷から村松浜へ
 今年(平成11年)こそは出かけたいと考えていた矢先、郷玩文化の6月の例会に久し振りに顔を出したところ、石沢さんから糸魚川の根知谷に面白い七夕行事が残り、それに珍しい七夕人形が伝えられている。この夏に会で見学旅行を計画しているので、ぜひ一緒にとのお誘いをいただいた。いずれも同じ新潟県内の日本海岸寄りの集落。都合のよいことに根知谷が8月7日、村松浜は8日、しかも両方とも珍しい七夕人形のある民俗行事。絶好のチャンス到来、即座に参加を申し込んだ。

 根知谷の七夕行事見学の旅は、翌日、信州松本へ向かうため、一行は根知の民宿泊まりとなる。村松浜の方は、浜の小学校で早朝から舟の製作が始まり、昼には浜へ持って行き海に流す予定。舟の製作風景を見るには、午前10時頃までには浜の小学校まで来てほしいとのことであった。その時間に間に合わせるには、糸魚川を6時前の急行に乗らなければならない。

 私だけ根知で一行と別れ、糸魚川のホテルに一泊。翌日、早朝の新潟行き急行に飛び乗った。新潟駅から村上行きの快速に乗り換える。運悪く海水浴行きの子供達の団体と一緒になった。子供達の喚声と36度を越す熱気(冷房車でなく扇風機のみ)、むし風呂のような車内になやまされるが、なんとか中条駅に着く。駅前のタクシーで村松浜小学校へと急いだ。

七夕流しの舟を作る
 学校では、すでに体育館で大人たちにより七夕流しの舟の製作が始まっていた。館の一方では子供達大勢で七夕の笹飾りを習っていた。70名余りの全校生徒は各所に別れ、七夕飾りのいろいろを集落の大人達から指導をうけているほほえましい姿が見られた。
 大人たちが七夕流しの船をつくる
 七夕行事のメインになる七夕流しの舟は大人(男性)7,8人が、直径20センチ位の太さに束ねた麦わらで、舟の形に作り上げてゆく。長さは3mあり、高さと幅は1m位のかなり大きな麦わら舟である。舟の左右の側面を補強するため、青竹が縦横井桁に組まれる。その青竹にすゝきや小さな赤い草花(花の名前はわからないが、舟を作っている人達はぼんばなと呼んでいた)を結わえる。この舟、七夕流しの舟であるが、盆の精霊送りとがいつの間にか混同したのではないだろうか。
 おしょう舟の製作
 体育館の中では、この大きな舟とは別に小さな舟も作られており、その方は「おしよう舟」と呼ばれている。このおしよう舟、今は大きな舟と一緒に海に流されるが、本来は盆の精霊流しの舟に使われたものである。8月16日の正午、精霊棚に供えられていたものを舟に乗せ海に流したものである。

 11時頃には、七夕流しの舟はぼんばなで美しく飾られ仕上がる。体育館の正面に舟は飾られ、その舟に紙人形や武者人形が子供達により運び込まれ、舟の中に沢山吊り下げられる。舟の中央には帆柱が立てられ、「上」と書かれた帆が上げられ、各所に立てられたローソクに灯が入る。

でき上がった舟を前に、子供達に七夕行事のお話をする村の役員

以前の村松浜の七夕行事
 話は前後するが、冒頭で述べたようにこの七夕流しの舟のことを知ったのはかなり以前である。『日本民俗地図1 年中行事1』(昭和44年 国土地理協会刊)、この本は全国各地の民俗行事を、それぞれの地方の人達が文化庁に現況報告したものをまとめた貴重な記録である。この中の「七夕行事」の項で、村松浜の七夕のわら舟や紙人形のことを知ったのである。一寸長いがその一部を記しておこう。

 「村松浜 七夕 7月7日(中略)青年たちは、麦藁、竹、藤づるなどで6~7尺の舟を作った。この舟は千石舟をかたどり、上通り、下通りそれぞれ1そうずつ作った。舟にはヤグシ(波の返し具、デッキようのもの)をつけ、人形と馬型を各戸が作ってこの舟にのせた。夜青年たちはこの舟をかついで神社にお参りしたのち、上通り、下通り両者の舟はもみ合いをはじめ、一方の舟が地面に着くまで争われた。村中これを応援し、嫁や婿はその実家の通りのほうに加勢して壮絶をきわめたものであった。三度このもみ合いをしたのち浜に行き、
七夕様ようー また来年ござれようーと、唱えながらこの舟を海に流した。近年この行事は警察から止められて現在は行われない。」

 いま作られている七夕流しの舟の帆には「上」と書かれている。すなわち上通りの舟である。いまでは年に1艘、上・下交代で作られているが、かってはそれぞれの集落で作っていた。舟ができ上ると、上通りの舟は天照皇大神宮(上の宮)、下通りの舟は金比羅神社(下の宮)へかついで行き、その夜2艘の舟がぶつかり、もみ合い壮絶な争いの後に、浜へかついで行き海に流した。舟の両側が青竹で頑丈に組み込まれているのは、この激しいもみ合いに押しつぶされないようにしたものである。いまはそれが見られないのは淋しいと、老人たちは昔をなつかしむように青竹を丁寧に組んでいた。

上・下の文字の入った帆が張られた「おしよう舟」
 大きな七夕流しの舟と一緒に作られているもう1つの舟、おしよう舟の方は、大きな舟とほぼ同様の作り方である。麦わらを太さ3センチ位に凧糸のような木綿糸で束ね、舟は長さ60センチ、幅25センチ位で、左右の側面は大型のように高くなく10センチ位である。それに30センチ位の帆柱が立てられ、上・下の文字の入った帆が張られている。この舟にも、男の子のいる家は武者人形を、女の子のいる家は紙人形を糸でつないだものを乗せ海に流した。武者人形は、わら馬と色紙製の武者が一対となっている。
 武者人形と紙人形
 馬を作るわらがこの浜にはない(村松浜は漁業の集落のため、麦は多少つくるが稲作は全くされない)。そのため隣村から田植に残った早苗をもらってきて、それで事前に馬を作っておく。馬は長い尻尾まで入れると全長が70センチほどある。根の部分をたてがみ風に編み、胴体から尾にかけて早苗の葉を長く延ばし、脚をつけ実に格好のいい馬である。

武者人形と紙人形 教室では紙人形を制作中
 その上に武者人形が乗る。人形の高さ25センチ、両手の幅25センチ位で、頭部は早苗の葉が竹串を芯にして結わえつけられ、同様にして両手、両足がつけられている。その芯に、色ちがいの色紙2枚を重ねて着物が着せられる。人形の両手が左右に出ているため、着物はT字形に切り込まれている。頭部には烏帽子や陣笠をかぶせ、腰には長い太刀、そして背中には旗差物までつけている人形もある。人形の下部から突き出た竹の芯を馬の背に差し、馬上の武者に手綱をもたせて出来上がる。なかには馬にも二色の色紙を重ね模様を切り抜き、馬衣までつけているものもある。

 もう一つの紙人形は高さ20センチ、幅10センチ、頭は白い半紙を丸めて顔を作り、その上に細長く折った紙で髪を結い、顔の部分の紙を下に長く延ばして体の芯にしている。その芯に赤と青、黄に緑など、二枚の色ちがいの色紙を重ね合わせて着物にする。着物は裾から両方同じ位に切り込みを入れ袖にする。中央が胴体となり、胸のあたりに帯を結び、配色のちがった人形2体を長い糸でつなぐ。この2体の人形の作り方は同じだが、男女一対のつもりだろうか。

 武者人形や2体の紙人形、いづれの人形も丁寧に作られ、製作を指導していた老婆の話では、人形の作り方は、この浜に嫁いで姑に教わったが、その姑も祖母から習ったといっていたが、かなり古くからここでは作られていたようである。このような可愛い人形達が、どうして今まで郷土玩具の話題にのぼらなかったのか不思議なくらいである。これらの武者人形や紙人形が、大きな七夕流しの舟の舟腹に数えきれないほど沢山吊り下げられる。

高学年の子供達が七夕流しの舟をかつぎ上げ校庭を廻る
  
午前11時頃、飾り付けを終えた大きな七夕流しの舟は高学年の男子生徒、小さなおしよう舟は女子生徒、七夕の笹飾りは低学年の男女生徒達が持って校庭に出る。集落の人達が多勢で見送る中を、
  竹にたんざく 七夕様よ
  ローソクだせだせよ
  ださねどかっちゃくぞ(注 かっちゃくぞ→ひっかくぞ)
  ワー、ワー、ワー
と、はやしながら校庭を廻り、浜へ向かった。

筏に乗せた七夕流しの舟、さあ出発!

浜では、大きな七夕流しの舟を波打ちぎわに下し、用意されていた筏に舟を乗せ、小さなおしよう舟は筏を曳航する漁船に積み込まれた。
やがて集落の人達が見まもる中を、大きな七夕流しの舟は漁船に引かれて次第に小さくなり、青い海の彼方へと消えて行った。小さなおしよう舟も海の藻屑となるのでしょう。

七夕流しの舟を漁船で曳いて沖へ行く

笹飾りを手に、七夕流しの舟をいつまでも見送る子供達

おわりに
 因みに、村松浜の七夕流しの行事について、またその歴史について知る資料や文献がないかと捜したが急には見つからず、菅江真澄も直江津から越後への途次、中条を過ぎたと思われるが『菅江真澄遊覧記』には見あたらない。

 しかたなく『年中行事辞典(東京堂出版)』の「七夕送り」の項を見ると、「ー新潟県西頸城郡では、七夕流しといって藁・麦がら・麻がらで大きな舟を作り、これに竹などを積んで流し、「おたのばたまいの また来年もございの」と歌う。糸魚川市などでは、七夕丸と書いた帆をあげ、往来を練ってから海に流す。七夕丸のそばに、五~六歳の女の子を二人ほどのせて、太鼓などではやし廻る村もある。北蒲原郡では念仏のはやしで七夕舟を流す。刈羽郡では、七日の日に四~五尺の大きさの麦わら舟を流す。これを七夕舟といい、豊年丸、万作丸などの旗を立て、藁人形十二体ほど立てる。-」
 など、新潟の北蒲原地方から西頸城地方にかけての海浜の集落の各所で、この様な七夕送りの行事が見られたようである。だが現在は如何残っているのかわからないが、村松浜のように新たな発見があるかも知れないので折りを見て訪ねたい。
(「郷玩文化」135号 平成11年(1999年)10月発行より転載)


       


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