「七夕文化」

日本の七夕を調査・記録したジオシティーズ「七夕文化」(2010年)を移行しました。

踏入七夕まつり「天の川」:石沢 誠司

2018-10-08 20:55:48 | 調査報告
踏入七夕まつり「天の川」
    ~長野県上田市に伝わる七夕の井戸替え祭り~

■はじめに
 長野県上田市の踏入地区に珍しい七夕の行事「天の川」があることを知ったのは、昨年(平成16年)、上田市の笠原一洋氏から送っていただいた地元紙「信州民報」(平成13年8月8日付)の記事である。そこには「砂文字で“天之川”―上田市踏入地区に伝わる七夕行事を世代を超えて―」との見出しで、およそ次のような内容が書かれていた。

「踏入地区の街道沿いに古井戸がある。この井戸は昔から人や馬、牛などが喉を潤し、一休みする場所であった。ここで昭和25年前後まで毎年行われてきた七夕行事「天之川」が、平成7年に復活し、それ以後、地元自治会・公民館分館・PTAなどが協力し、次世代を担う子どもたちにこの伝統行事を継承していこうとしている。行事は、千曲川から運んできた砂を用いて、「天之川」の三文字を古井戸の横に浮かび上がらせる。井戸の周りには短冊を付けた竹が飾られる。午後7時から砂文字の上に水の神様に捧げる線香が並べられ、幻想的なクライマックスとなる。」(注:踏入七夕が途絶えた年代については、「戦後まもなく(昭和21・22年頃)」と言う人もいる)

 上田市はわたしの故郷である。興味を持ったわたしは、公民館の踏入分館長・大西福茂氏に連絡をとらせていただき、見学したい旨を告げると、「どうぞ来てください。歓迎いたします」との返事をいただいた。里帰りを兼ねて、平成17年8月6日(土)、この七夕行事を見学した。

■北国街道沿いの古井戸が祭りの舞台

踏入地区の地図。赤い「井」のマークが古井戸。旧北国街道の赤線部分が、七夕まつりの夜に車が通行止めになる。左下に少し見えているのが、砂を取りに行く千曲川の流れ。

 上田市の踏入地区は、上田の繁華街から約1キロ東南にあり、旧北国街道沿いに家並みが続く町である。踏入という名称は、江戸方面から北国街道を歩いてきた旅人が、上田の城下町へ踏み入るところから付けられたという説があるが、まさしく上田市街地への東の玄関口にあたる場所にある。

 踏入の北国街道沿いには古くから井戸がいくつもあり、住民の生活用水として役立っていたほか、街道を行き来する人が喉を潤していたという。昭和29年頃、上水道が普及して井戸は使われなくなっているが、踏入の七夕行事はこの地区に唯一残る共同古井戸で行われる。

 ところで舞台となるこの井戸は、今日の七夕行事のためすでに7月31日朝6時から「井戸替え」を済ませていた。井戸替えというのは、井戸を掃除してきれいにすることで、電動ポンプで井戸水を汲み出し周辺をきれいに洗い、脇にある水神さんの石も洗う。その水を井戸の内側の石積みにもかけて水垢を落とし、外側はたわしでこすり、きれいにしておく。その後、水神さんを祀る石と、井戸を覆う小屋の4本の柱に注連縄を張る。わたしが見学したとき下がっていた注連縄は、このとき下げたものだった。

■砂文字の「天之川」を作る
 七夕行事は8月6日の午後4時から準備が始まるというので、4時ごろ行くと、すでに井戸の周辺には子どもから大人までおよそ40人が集まって作業を始めようとしているところだった。子どもは踏入地区の小学5・6年生を中心とした男女20名余、大人は子どもの両親と地区の役員、それに昔の七夕行事を知っている老人たちである。
 
「天之川」と書かれた木枠を井戸の横に置く。
 まず大人たちが木枠で囲んだ長方形の板を取り出した。木枠は、幅70センチ、縦150センチほどで、高さ10センチ余の枠が周囲についている。枠の中には「天之川」と黒く縁取りされた中抜き文字が書かれている。ポンプで汲み上げた井戸水をさっとかけて湿らせてから、井戸の側面に置いた。

子どもたちが砂だんごを文字の上に置いてゆく。
 また井戸替えをした7月31日には、子どもたちとその親が千曲川の河原に行き、布袋に砂を入れて車に積んで運んできていた。砂袋は井戸の傍らに積んである。
 さてこれからが子供たちの出番である。大人がバケツの上に篩(ふるい)を乗せると、子供たちは井戸の傍らに積んである砂袋をとり、口を開けて砂を少しずつ篩に流し込む。大人は篩を揺すって砂に混じっている小石を取り除く。

 続いてバケツの中に適量の水を入れてコテでかき回すと、湿った砂の出来上がりだ。子供たちは、野球のボールほどの大きさの砂のだんごをひとつづつ作って両手に持ち、枠の中に入り「天之川」の文字の上に置いてゆく。最初は「天」の字から始め、大人の指示で適当な厚みになるよう次々に重ねてゆく。

お父さんたちが砂文字の形を整える。
 砂のだんごをひととおり置き終わると、今度は子供たちの父親の出番である。経験者の老人から教えてもらいながら、左官屋さんが壁を塗るコテを使って文字の側面は垂直、表面は水平になるよう更に湿った砂を補充しながら仕上げてゆく。同時に木枠の内側から、枠と同じ高さの板を10センチほどの間隔を空けて立て、その隙間にも砂を入れてゆく。文字を囲む額縁を作るのである。

女の子たちとお母さん方は笹飾り。
 この砂文字を作る作業は主に男の子とお父さん方、それに老人の仕事だが、女の子は近くの駐車場を転用して設けた作業場で、七夕の短冊に願い事を書いて、笹に付けている。その短冊や輪つなぎなど飾りの準備をするのはお母さん方の仕事だ。地区のみんながそれぞれの役割をもって準備を進めていく様子は、地域社会のまとまりを感じさせた。

最後に老人たちが額縁つくりと仕上げをする。
 文字と額縁のかたちができると、最後は老人たちの番である。昔とった杵柄で手際よく最後の修正をおこないながら、文字以外の板の上に薄く砂をまいたり、枠の外側を砂で塗りこめる作業をする。こうして枠の外側と上をすべて砂で覆うと、木枠はまったく見えなくなる。初めて砂文字を見た人は、どうやってこんなに上手に砂を積み上げて作るのかといぶかるに違いない。木枠は砂文字を上手に作るための隠れた道具だったのだ。

いよいよ大詰め。額縁の外を砂で塗り込める。

出来上がった砂文字の「天之川」

■井戸のまわりに七夕飾り

井戸小屋の柱に笹飾りと燈籠を縄で固定する。
 井戸を覆う屋根の4本の柱に笹竹と「天之川」と書かれた灯ろうが縄で結ばれると準備は午後6時前に終わった。子供たちはお菓子をもらってひとまず家に帰った。7時から七夕まつりが始まるからである。

出来上がった七夕飾りと砂文字。右が旧北国街道。

■線香の火で浮かび上がる砂文字「天之川」
 午後7時、辺りが薄暗くなり灯ろうに灯りが点り、七夕まつりが始まった。まつりが行われる踏入地区の北国街道は、6時から通行止めになっており車が入ってこない。年配の方にうかがうと、昔は街道沿いに民家が七夕飾りをつけた笹竹を立てていたという。車の通らない静かな街道に立つと、昔行われていたであろう七夕まつりの雰囲気が偲ばれるようだ。

 集まった100人を超える人々に公民館の踏入分館長、自治会長、PTA会長らの挨拶が終わると、全員で井戸の後ろにある水神さんを祀る石に向かって、二礼二拍手一礼して水神を拝んだ。

夜に入ると、砂文字の上に火をつけた線香を立ててゆく。

 それから大人の役員が線香に火をつけると、子供を並ばせて、一人一人に1本づつ渡す。子供たちは手渡された線香をまず砂文字から、続いて額縁の上に刺して立ててゆく。子供たちが次々に線香を立て大人たちも続くと、暗闇のなかに線香の火がつくる「天之川」の文字がほんのりと浮び上がってきた。幻想的な光景であった。

砂文字と額縁の上に線香が立った。
 線香を立て終わった子どもは、役員のお母さん方からスイカをもらって食べる。8時前、子どもたちは七夕まんじゅうとカンジュースをもらって家路についた。

線香の火でほのかに浮かび上がる天之川。(平成16年撮影)

■「天之川」復活のいきさつ
 踏入の七夕まつり「天之川」は、平成7年に約50年ぶりに復活されたまつりである。復活までのいきさつを当時、踏入分館長だった木村信良氏に伺った。

「わたしが分館長をしていたとき、地区のお年寄りに集まってもらい昔の暮らしや子どもの遊びなどを聞く『茶話踏入』という会を立ち上げました。その中で七夕行事の「天之川」の話が出て、これはおもしろそうなので一度ぜひ再現してみようということになった。やってみると非常に評判がよく、ぜひ子供たちのまつりとして続けてほしいという声がでて、それから分館が中心になり、自治会・PTAの協力も得て現在まで続けている。当時はまず再現することだけ考えており、このように続くとは思いもよらなかった」

 平成7年に復活したこのまつりは、今年(平成17年)11回目を迎えて地域に定着してきたようである。

■老人たちが語る昔の「天之川」
 踏入分館のサークル『茶話踏入』では、老人たちから聞き取った話を「茶話踏入」という冊子にまとめており、その中に書かれている「天之川行事」を引用させていただきながら、当日、わたしが聞いた話も加えて、以前の踏入七夕を紹介してみよう。

七夕行事「天之川」は井戸替えの祭り
 冊子「茶話踏入」は、まず踏入の七夕行事「天之川」は、何の祭りかについて明快に書いている。それは井戸替えの祭りなのである。「踏入では井戸替えの時に、井戸替えの祭り・天之川をしていました。井戸のあるところではどこでも行っていたようで、祭りの本番は8月6日の晩。旧暦の七夕の宵祭りと一緒です。」

 七夕当日の8月6日、まず行われるのは井戸替えである。現在では、7月31日に行われているが、以前は七夕祭りの日の朝に行われた。「井戸替えは、祭の前に行い、1年間使った井戸に感謝しながら大掃除をします。井戸の中の水を全部汲み出して、井戸の側面はたわしなどでこすり、水垢などもしっかり落とします。井戸の中は石積みになっているので、その石に足を掛け、洗いながら徐々に下りるというような方法で掃除が行われます。井戸内がきれいになれば、井戸替えは終わり。その後、井戸の周りに注連縄を張って、4隅に塩を盛り清めます。これで井戸はまた新しい年を迎えるというところでしょうか。(茶話踏入)」

素朴だった砂文字つくり
 次いで午後から天之川の砂文字作りが行われた。当時は今のような木枠を使って砂文字を作ることはなかったそうである。それに子供たちが中心になって作るので、文字のかたちも不揃いで、今よりもっと素朴なものであったという。

「祭は例年、8月6日の晩に行われます。午後から井戸の周りに縦1mほどの長方形に砂を盛り上げ、縁を額縁のように形作ります。その中に砂で天之川の文字を盛り上げて浮き立たせます。左官屋さんの小さな鏝(こて)で器用に文字を形作っていくのですが、実はこの祭を主催するのは子どもたちの役目。祭りに使う砂は千曲川に水泳に行く度に運んできて、井戸の近くにためて置きます。このためておく場所は井戸によって違い、横田んぼでは八幡さまの庭でした。砂を運んでくるのはメリケン粉の袋。5年生が大将で、こうした計画を立てます。砂はごく細かい粒のもので、使う前にふるいに掛けます。そのままでは上手く固まりませんので、水と土を少し混ぜて使い、文字が際だって見えるように固めます。(茶話踏入)」

 千曲川から砂を運ぶことについて、当日参加した老人も、「千曲川に水浴びに行った帰りに上級生から″砂を持ってこい″といわれて運んだ。当時は上級生から言われると素直に従ったものだ」と回想しておられた。なお「茶話踏入」では、当時、「砂に土を少し混ぜて使う」と書かれているが、わたしが見学した今年の砂文字は土を混ぜていなかった。

線香を立てて人々を待つ
 現在は、午後7時に集まり皆でいっせいに線香を砂文字に立てるが、以前は砂文字ができると線香を立てて地域の人たちが集まってくるのを待っていたようである。

「天之川の文字の砂の額が出来上がると、文字にも額縁にも線香を立てて、地域の人たちが来るのを待ちます。井戸の周りには、灯籠を立てて灯を入れ、笹竹に「天之川」や願い事を書いた短冊を結びます。井戸の奥まった所にある水神さまにも線香を立て、清めの塩を盛ります(茶話踏入)」

 そして祭りに集まった人々もそれぞれが持ってきた線香を立ててお詣りした。「夕方から地域の人たちが集まってきますが、この頃になると夕闇の中に線香の明かりが点々と灯り、井戸の周りに普段とは違う祭の雰囲気が漂います。地域の人たちは、祭に来てそれぞれが持ってきた線香を立て、お詣りします。(茶話踏入)」

子どもたちの攻防戦 ~砂文字を壊す~
 踏入地区には、街道沿いに共同井戸が5カ所、個人井戸が11カ所あり、共同井戸ではそれぞれ砂文字を作る七夕行事が行われていたという。子どもたちは、遊びでよその井戸へ砂文字を壊しに行くことがあったようである。

「井戸はいくつかありましたので、それぞれがよその天之川を壊しにいくのが楽しかったということです。お互いに壊されては大変、と周囲に杭を打ったり、バラをつけたりして攻防しました。この攻防戦に先駆けて井戸の周りに萩を付けたとか竹を付けたとか記憶する人たちもいます。祭を仕組む中心は男の子で、女の子は参加しなかったようです。(茶話踏入)」

この攻防戦に備えてトゲのあるカラタチの木を植えたりしたそうで、現在の井戸の側にも樹齢約80年(直径およそ15センチ)のカラタチが残っている。

■踏入以外の「天之川」
 踏入以外でも上田市で砂文字七夕が行われていたことが、『上田市誌 民俗編(3) 信仰と芸能』(平成14年・上田市発行)に記載されている。「七夕に井戸替えをしたり(踏入・下常田・馬場町・上房山・吉田)、天の川のお祭りをした(踏入・下常田・新町)地区もあります。(中略)天の川の行事は、新町では戦前に、踏入は昭和20年代中ごろに行われなくなりましたが、その後踏入では公民館の分館が中心になり平成7年に復活しました。」とあり、踏入以外に下常田・新町の地区でも行われていたことがわかる。

 下常田を含む常田地区は踏入に隣接し、踏入を通った北国街道が上田の中心部に向かう道筋にある。また新町は、中心部を通った北国街道が踏入とは逆の西へ向かう道筋にある。砂文字七夕の行われた地域はいずれも上田市街地の北国街道沿いにあることから、この行事は上田市域の街道沿いの七夕文化ということができるかもしれない。

■井戸替えと星祭りが結びついた祭り
 この行事は、「茶話踏入」で明確に述べられているように、七夕におこなわれる井戸替えの祭りである。七夕に井戸替えを行うのは全国的な習慣であり、昭和37年から昭和39年にかけて全国1342カ所で行われた民俗一斉調査の結果をまとめた『日本民俗地図』には、66カ所で行われていることが報告されている。これは七夕竹を飾る(281カ所)、だんごや赤飯など特別な食物をつくる(264カ所)、墓掃除・墓への道をきれいにする(171カ所)、初物の野菜や果物を供える(96カ所)に次いで5番目にポピュラーな七夕の習俗である。

 井戸替えは江戸時代から七夕に行われることが多く、京都でも貞享2年(1685)の序がある『日次紀事』(ひなみきじ)の7月7日に、「井水 今日、村民、家ごとに井の水を汲み尽くし、井底の泥を去り、他家の井水を汲みてこれに合わす。これ俗に男水(とのみず)と謂う。洛下の家もまた然り」とあって、七夕に井戸替えがおこなわれたことが記されている。

 踏入の七夕行事「天の川」は、全国的に行なわれていた七夕の井戸替えに中国伝来の星祭りが結びついたものといえる。星祭りは織姫と牛飼いが年に一度会合するという伝説にもとづいた乞巧を祈るまつりであるが、日本では江戸時代に入ると、字の上達を願って短冊に「天の川」などと書いて笹につるす習俗を生んだ。踏入の砂文字七夕「天之川」は、短冊に書いている「天の川」の文字を砂で作って、井戸替えが終わった井戸のそばに、奉納したものといえよう。

■おわりに
 踏入の七夕行事を見学して感じたことは、地域の子どもとその親たち、それに昔からの行事を知っている老人たちが一体となって祭りを作り上げている様子であった。子どもたちが砂だんごを作り、それを文字にしてゆく様子は実に危なっかしい。昔は子どもだけで砂文字を作ったというが、現在ではとうてい無理であろう。その代わり父親たちが手伝う。その父親も地域の老人から習う。

 子どもたちは大きくなったら七夕の思い出を胸に秘め、もしこの地で父親になれば子どもと一緒にこの行事を手伝うであろう。地元自治会・公民館分館・PTAなどが協力して七夕の伝統行事を継承してゆこうとする取り組みは、地域社会のつながりが薄くなってきている現代社会の将来の姿を示すものといえる。

 調査にあたり、信州民報の記事を送っていただいた笠原一洋氏、公民館踏入分館長の大西福茂氏、元分館長の木村信良氏、お世話いただいた自治会の松澤一志氏、その他いろいろとお話を聞かせていただいた踏入地区のみなさんに御礼を申しあげます。(2005年8月記)


                    

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