淡島信仰と流し雛 ~流し雛は雛人形の源流か?~ 下:石沢誠司
淡島願人の活動
女性信者をターゲットにした神社の活動を側面から支援したのが、淡島願人(がんにん)あるいは淡島坊主と呼ばれる下級宗教家であった。広辞苑によると、淡島願人は「淡島神社のお札を入れた箱を負って、その由来を語りながら門付けをした遊行者」と書かれ、また小学館の『日本国語大辞典』には、「淡島明神の小宮をたずさえたり、背負ったりして、その由来を語り、『紀州名草の郡、加太淡島さまへ代僧代参り』などと言って門付けをして歩いた行者」とある。
『上方演芸辞典』(東京堂出版)は、『けいせい飛馬始』(寛政元年・1789)を引用して、「淡島さまへ代僧代参り、分けて女中は櫛・笄(こうがい)・簪(かんざし)・耳掻・たぼ留・前差し・両差・後差し、其うち似せ物は値打ちがない。本鼈甲(べっこう)を上げよとの御誓願でござる」と、淡島殿(淡島願人)の言草(語りの内容)の一例を紹介している。これをみると淡島願人は女性に代わって淡島神社に代参し、その際、櫛や笄(こうがい)・簪(かんざし)など女の装身具などを「淡島さんに納めるから」と供出させていたようである。しかも本鼈甲(べっこう)などの本物を出せと言っているところをみると、恐らく供出させた装身具をどこかに売り飛ばしていたのであろう。
また『大阪ことば事典』(講談社)には、「アワシマハン」の説明に、「元禄の頃から、あわしまという一種の乞食があって、淡島明神を祀った小さい神棚に紅・紫とりどりの小布を結びつけたものを手に持ち、淡島の縁起めいたものを声高に唱えて、白帯下に悩む婦人に、祈願して病苦をのがれよと勧進した。上方では僧侶の風をなし、江戸では神主めいた扮装をしたという」とある。「縁起めいたものを声高に唱えて」というのが、先に示した『続飛鳥川』(19世紀中頃)に述べられている内容であろう。
一方、奥野鉄夫氏は、先に引用した論文「島の流し雛」のなかで出典を明示していないが、「役の行者が開創したといわれる紀州伽蛇寺は、淡島様を強力に支援する寺であった。毎年3月には修験のため、諸国から300人あまりの行者がこの寺に集まったが、この行者たちが全国に淡島様を宣教して歩き、女性の頭のもの(くし、かんざし、かもじ)を供えて祈願すると霊験のあらたかであると説いて、衣類や米、銭を受けたという」と、修験の行者が淡島願人となって全国を宣教したと述べている。
淡島願人の図が示すもの
『人倫訓蒙図彙』(元禄3年刊・1690年)に描かれた淡島願人
この淡島願人を描いた図が『人倫訓蒙図彙』(元禄3年刊・1690年)にある。編み笠を被った人物が、柄の先に小型のお宮を付けたものを手に持ち歩く姿である。小宮の中には立雛や這子らしきものが描かれており、宮の周囲からいくつも細い布が垂れ下がっている。この説明に「淡嶋殿、かれが向上、一から十まで皆誤りなれども、それをたゞす者もなし。女の身にとっては第一気の毒の病をまもり給ふといえば、愚なる心から、おしげなくとらする也。夫(それ)粟嶋は紀伊国名草郡蚊田(かだ)にあり。其神は陽躰(ようたい)にして女躰にはあらず。然(しかる)を、はり才天女の宮といふ也。わろうべしわろうべし」とある。 『人倫訓蒙図彙』の著者にとっても、淡島願人は荒唐無稽なことを言って婦女をたぶらかし、施しを受けるとんでもない者に見えたようである。
『絵本御伽品鏡』(享保15年刊・1730年)に描かれた淡島願人図
それから40年後に出版された『絵本御伽品鏡』(享保15年刊・1730年)にも淡島願人が描かれた図が出てくる。そこには僧の姿をした願人が、右手に鈴を持ち、左手に小宮の柄を持ちながら、通りかかった晒木綿の束を頭上にのせた女に声をかけている。小宮のなかには立雛が見え、小宮の床の回りからやはり布きれが垂れ下がっている。絵の題歌に「曝嚊(さらしかかあ) 血の道の出たらば恥や 晒(さらし)かゝ 淡島様を兼て祈らん」と書かれている。意味は、「晒しを運んでいるかかあさん、下の病で血がでたら恥ですよ、淡島さんにお祈りしませんか」というほどのものである。
これら淡島願人の図を分析してみると非常に興味深いことがわかってくる。まず淡島願人は両方とも小宮をたずさえている。小宮の中には立雛が見える。『人倫訓蒙図彙』のほうには這子らしきものも描かれている。立雛は社家の言い伝えにあるように、神功皇后手ずから作ったという少彦名命の神像、すなわち淡島明神を表現している。(しかし立ち雛は男女1対である。これについて現在の淡島神社は、立ち雛を少彦名命と神功皇后の男女一対の御神像であると説明している。)
また這子は『紀伊国名所図会』に、「天児といへるも少彦名命の御神像にして」とあり、天児は這子とも言ったことから、これも少彦名命を表現している。こうしてみると、淡島願人は淡島の神さまを小宮の中に携えていることになる。なお小宮の下方から垂れ下がっている細い布は、『大阪ことば事典』に、「紅・紫とりどりの小布を結びつけ」と記し、布の色が赤や紫などであるこがわかるが、この布が何を意味しているのか定かでない。
さて『人倫訓蒙図彙』(元禄3年刊・1690)の小宮に描かれた立雛図であるが、これが意外に古いのである。現在までに知られている立雛図のなかで古いものとしては、『女用訓蒙図彙』(貞享四年・1687)の「雛(ひいな)」の図、『日本歳時記』(貞享五年・1688)の雛飾りに描かれている立雛図が私の知るところであるが、『人倫訓蒙図彙』の小宮内の立雛図はこれらと刊年において2~3年の違いしかなく、ほとんど同時代といってよい。すなわち淡島神社は世の中にひいな遊びが普及しはじめた1600年代の後半にはすでに淡島の神として立雛をとりこんでいたことになる。
平安時代から「ひいな遊び」と言われていた人形遊びが、三月三日に収斂してくるのは、俳諧歳時記の『俳諧初学抄』(寛永18年・1641)や『山之井』(正保5年・1648)の三月三日に「ひいな遊び」の詞(ことば)が見える1640年代のころと考えられている。それから40~50年後にひいなである立雛を神社の祭神として祭り上げているのは、世の中の動きを先取りした英断であったといえよう。なぜなら、ひいな遊びはその後、雛まつりへと発展して各地に普及し、淡島神社の信仰もそれに伴うように全国に拡がるからである。
淡島信仰の繁栄
『紀伊続風土記』の著者が「索強付会(こじつけ)」とよび、『人倫訓蒙図彙』の著者も「一から十まで皆誤りなれども」と批判した淡島信仰は、しかし時代を経るにつれて拡がっていった。それは江戸時代の女性から圧倒的な支持を得たからであった。お布施を包み願掛けの品々を託せば、紀州の淡島明神に代参してくれるという淡島願人の活動は、病んだ女性たちにとって救いの神であったことだろう。まさに淡島信仰はこの下級宗教家が拡げたものいえる。
この淡島願人の活動は歌舞伎のなかにも残っている。淡島物とよばれる一群の作品がそれである。平凡社の百科事典によれば、淡島物は淡島願人の風俗が歌舞伎にとりいれられて成立した一群の作品で宝暦9年(1759)閏7月、江戸市村座上演の「粟島園生竹」がその最初とされる。市村亀蔵演じる関東小六が淡島願人となって郭に入り込み、遊女大岸と恋の所作をする内容という。続いて明和7年(1770)秋、市村座で上演された「関東小六後雛形」で、市村亀蔵の丹波屋七郎兵衛が淡島願人となって郭に入り込み、遊女音羽と恋を語る。この後も淡島物は文化4年(1804)江戸中村座で、安政4年(1859)市村座で上演されている。これらの芝居は淡島願人が郭の遊女に信仰されていたことを示している。
また淡島信仰が拡がるにつれて、神社も各地に増えていった。神社の境内に末社として勧請されたり、寺の境内に淡島堂として建てられた。また個人の民家の屋敷内に邸内社として一家の鎮守となっているものも多い。今も各地に残る淡島神社の多くは、こうして江戸時代以降、淡島願人の活動と平行して建てられ拡がっていったものである。
淡島信仰の流し雛はなぜ発生したのか
こうして広まった淡島信仰の流れにさらに新しい動きが加わった。流し雛である。先に述べたように鳥取や用瀬では流し雛は淡島信仰と関連をもちながら江戸末期に鳥取城下で始められたのではないかと推定されている。また和歌山県粉河や奈良県五条の流し雛も江戸時代にその起源があると考えられる。いったい流し雛はどんな役割をもってなぜ始められたのだろうか。
鳥取県の各地に古くから伝わる流し雛は先にも述べたように、水に浮かんで流れてゆく流し雛に手を合わせて、「女の病を病みませんように」「帯から下の病いを治してつかんせい」「長血・白血を病まんように」と、以前は女の帯の下の病気に限っていう場合が多く、そうしたところでは「アワシマサンに行ってつかんせい」と唱えていた(坂田友宏氏「因幡の雛送り」)。
岡山県笠岡市北木島の流し雛行事でも、「当地の旧暦三月三日は、正午頃が満潮で潮流が東に向くので、この潮流に乗せれば舟が早く紀州加太の浦へ着くだろうという発想からである。遅れる雛のないよう隣近所誘い合って海岸へ揃う。家内安全、健康、安産など、女性のあらゆる欲ばった願いをこめて、『どうぞ無事に淡島さんへいんでおくれ』と各家庭で手作りした紙雛を麦わら製のウツロ船に乗せ、祈りながら海へ流す」(奥野鉄夫氏「島の流し雛」)。また奈良県五條市の流し雛は紀ノ川の川口に近い淡島まで流れて行き、女の下の病気にかからぬと信ぜられている(『五条市史』)。このように流し雛は、淡島さまに願い事が届くようにと紙雛に託して代参してもらうという役割を果たしており、純粋な祓いのヒトガタではない。こうした流し雛はなぜ生まれたのであろうか。
俳諧歳時記の『滑稽雑談』(正徳3年・1713)には、加太淡島神社に関わる俗説のひとつとして、「此の神ことに婦人の病をすくふ因縁ある故に、是を祈る婦女、雛を作りて奉るならし」と、参拝する婦女が病治癒のため雛を作って奉納する習俗を紹介している。こうした雛を作って淡島さんに奉納し病の治癒を祈願する習俗がもとになって、神社まで直接参拝できない紀ノ川流域の女たちが、淡島さんに届くようにと川に雛を流すようになったのが始まりではないかとわたしは推測している。
流し雛の代参機能はもともと淡島願人が担っていたものである。のちに雛祭りの時期に行商人によって流し雛が売りさばかれたり、また各家庭で手作りされることもあったのは、日本の各地をまわって淡島さんの信仰を普及してきた淡島願人が築き上げた土壌があったからこそといえる。まさに流し雛は淡島願人の耕した土壌の上に開いた文化であるといえよう。
流し雛はいつから始まったか
流し雛がいつごろから行われたのか。これを調べるひとつの方法として、各時代の俳諧歳時記の季語を比較分析する手法がある。俳諧歳時記は俳諧の季語(詞)を分類して解説や例句をつけた書であるが、その季語は発行された時代の社会風俗がかなり反映されている。そこで江戸初期から後期までの俳諧歳時記の三月三日の季語のうち、雛祭りに関連する言葉を抜き出してみたのが別表である。
この表を見ると、江戸初期から1700年代までの歳時記には「流し雛」の詞(ことば)はでてこない。19世紀に入り『俳諧歳時記』(1803年)に初めて「流シ雛」がでてくる。その15年後に刊行された『季引席用集』(1818年)にも「流し雛」が出てくることから、この頃には流し雛の言葉が定着したようである。
しかしそれまでの1600年代から1700年代の200年間の歳時記に「流し雛」はまったく見あたらない。歳時記の詞は、その時代に必ず行われていた事柄が書かれているわけではない。例えば「曲水の宴」はどの歳時記にも登場するが、江戸時代を通じて実際にどの程度行われていたか疑問である。しかし三月三日に欠かすことのできない古代からの伝統ある言葉として俳諧の詞に採用されているのである。一般的にいうと、いったん採用された詞は実体がなくなっても消えにくい傾向がある。
これと逆に新しい詞が採用されるときは、社会にその詞が表す現象が現れたからであると考えられる。例えば、これまで「草餅」「蓬餅」という詞だけだった3月3日の餅に、『華実年浪草』(1783)から以降に「菱餅」が加わる。またそれまで「桃の酒」だけだった酒に、「白酒」が同じく『華実年浪草』から加わっている。これは江戸中期頃から菱餅と白酒が広く用いられるようになり、ついにこの言葉が歳時記に採り上げられたと考えられる。
こうしてみるとき、「流し雛」は江戸後期の新しい現象として世の中に広まったものと考えられる。では歳時記にとりあげられた「流し雛」は何を表しているのだろうか。ひとつ考えられるのは古い雛や壊れた雛を流す雛流しの行事である。江戸後期に入り、雛祭りが盛んになり作られる雛人形の数が多くなるとともに、古雛や壊れた雛の処分という社会問題が発生してくる。これらの雛は神社などに納める「捨て雛」や、川や海に流す「雛流し」「雛送り」などの方法で処分される。これらの中で流される雛人形にたいして、「流し雛」という言葉が使われるようになってきたのではないかと考えられる。
『嬉遊笑覧』(文政13年・1830)には「相模(神奈川県)愛甲郡敦木(厚木)の里にて、年毎に古びなの損したるを児女共持出て、さがみ河に流し捨ることあり。白酒を入、銚子携えて河辺に至れば、他の児女もここに来り、互いにひなを流しやることを惜みて、彼白酒をもて離杯を汲かはして、ひなを俵の小口などに載て流しやり、一同に哀み泣くさまをなすことなり。此あたりのひな、内裏ひなに異なることなし、其外に藤の花かつげる女人形多し」とあるのは、古い雛を流す様子を物語っている。『紀伊続風土記』(天保10年・1839)に加太淡島明神で三月三日に「雛ならびに雛の其婦人の手道具を奉納する事夥しくして、神殿中に充満す」とあるのは、江戸後期におびただしい雛が神社に奉納されたことを物語っている。
もうひとつの「流し雛」は、もちろん淡島信仰の流し雛である。この淡島代参機能をもつ簡素な紙雛も、『俳諧歳時記』(1803年)が編集された江戸後期には始まっていたものと考えられる。
「巳の日の祓い」と「流し雛」の関係
なおここでひとつ確認しておきたいことがある。それは「巳の日の祓い」のことである。歳時記の「三月」の項目にこの言葉はよく登場する。具体例は次のとおりである。
『はなひ草』(1636)の三月の詞に、「巳の日の祓」
『俳諧初学抄』(1641)の末春に、「須磨の御祓(みそぎ)、三月上ノ巳也」
『増山井』(1667)の三月に、「巳の日のはらへ 上巳。三月上の巳の日、水辺にてはらへして疾病を除くわさとかや。是、周の代にはしまれりを、魏の時よりのち只三月三日を用て、巳の日を不用云々。(中略) 須磨の御祓 是は光源氏須磨浦に左遷のとき、三月一日に出来たる巳の日、陰陽師におほせてみそきし給へり。舟に人かたをつくりてながせし事など彼物語にあり」
『滑稽雑談』(1713)の三月之部に、「巳日のはらへ」と題して中国文献の説明や源氏物語の須磨の御祓を説明している。
『俳諧手挑灯』(1744)の三月に、「巳の日御祓 上ノ巳日、川辺にて疫神除の祓なり、 須磨の祓 上に同 源氏」
『華実年浪草』(1783)の三月に、「巳日祓」として中国文献の解説、「須磨御祓」として源氏物語の須磨の御祓を説明している。
『俳諧歳時記』(1803)の三月に、「巳の日の禊」として中国文献の解説、「須磨御祓」として源氏物語の須磨の御祓を説明している。
このように「巳の日の祓い」は、江戸期を通じて一貫して歳時記に登場する。しかしこの祓いは江戸時代に実際に行なわれた習俗なのであろうか。この点については今後、調査してゆきたいが、各種の俳諧歳時記は、中国での由来と源氏物語の須磨の御祓(みそぎ)を載せているのみである。
江戸期に巳の日の祓いが行なわれていたとしても、これは三月の初めての巳の日の行事であって、三月三日の行事ではない。巳の日が三日と重なるときだけ、三月三日になるのである。さらに雛人形と異なるのは祓いの人形の名称である。それは古代においてヒトガタ(人形)あるいはカタシロ(形代)と呼ばれており、ヒイナ(雛)という呼び方はなされていない。
こうしたことから、はっきり言えるのは、「流し雛は巳の日の祓いの人形ではない」ということである。源氏が須磨で御祓に用いたのは、「人かた」であって「ひいな」ではない。流し雛の源流を源氏物語の須磨の御祓に求めるのは、筋違いもはなはだしい。流し雛は淡島信仰を源流として発生したものであって、この人形は女性の祈りや願いが込められた奉納人形の性格をもっており、身のケガレを移して流し去るヒトガタ・カタシロとは基本的に異なっている。
明治以降の淡島信仰と流し雛
明治以降の淡島信仰はどうなったのであろうか。淡島信仰を広めた淡島願人について近代の目撃証言がいくつか残っているので、それらのいくつかを紹介してみたい。
「昭和七、八年頃、私は何回か淡嶋願人が笈(おい)(背に負う箱)のような仏壇のようなものを背負い六部(巡礼)姿で家々を回って歩くのを見た。その中には髪の束や、赤い布切れなどがぶらぶら下がっていて薄気味悪く、何かお経のようなものを唱えていた。家々では米や、お金を供え拝んでいた。(秋田県横手市)」(川越雄助『押絵』秋田文化出版社)
「大坂ことば事典」の淡島願人図(模写)
「幼少のころ、「淡島はん」という背に祠(ほこら)を負い、きたない風体で門づけに来た人物がいました。祠から赤い布や髪などがのぞいていて、異様な感じがした記憶があります。よくごんたを言ったり(だだをこねる)、やんちゃをすると、大人から「淡島はんがくんど(来るぞ)」と言われ、恐怖をおぼえたものです。その淡島はんも戦後しばらくして、その姿を見かけなくなりました。(奈良県田原本町)」(ウエブサイト「田原本町に伝わる昔話」)
「年配の方は知っておられると思うが、当地(岡山県笠岡市)でも昭和12年頃までは、袖の違った着物で小箱を背負い、鉦をたたきながら、ときおり淡島願人がきた。背中の箱には黒髪が下がり、不気味であった記憶がある。(奥野鉄夫「島の流し雛」)
「因幡においては、淡島願人の活動は近代に入ってからも見ることができた。前述した(流し雛を売り歩いた)国府町三代寺の松坊主などもその一派であったと思われるが、八頭郡船岡町志子部などでは、昭和の始めごろまでその姿を見かけることができたという。彼らは俗にアワシマサンと呼ばれ、背中に背負った大きな箱(逗子)の中に神像を入れ、もっぱら婦人病の効験を説いて回ったようである。願掛けや願開きの際に納める櫛や笄・簪、それに髪などを背中の箱に飾り付けて歩いていた。(鳥取県因幡地方)」(坂田友宏『神・鬼・墓 因幡・伯耆の民俗学的研究』)
以上の事例から、淡島願人は近代に入ってから昭和初期、場所によっては戦後まもなくまでその姿を見かけることができたようである。『大阪ことば事典』(講談社)のアワシマハンの項に、願人の図が載っているが、江戸期のような小宮でなく、背に祠を背負っており開いた戸に髪の束が下がっていることから、近代の証言に出てくる淡島願人に近い。
ところで東北地方では淡島像といって右手に粟の穂を持った石像が、福島県を中心に分布しているが、これを調査した小坂泰子氏は「福島県中通り(福島市・郡山市を中心とした地域)の淡島像の造立年を調べてみると、他の石仏たちの造立がやや弱まった頃、江戸末期から淡島像の造立がなされ、昭和に至る現在まで、むしろ、昭和に入ってからの方が多く造立されている。(中略)女の日といわれる二月八日の針供養、三月三日の雛祭りなどもこの淡島信仰にまつわる俗信の名残りといわれ、現在もこの日を淡島講と呼んでささやかに、この講を続けている少数の村がある」(「東北地方の淡島様とその信仰」・『日本の石仏9 東北篇』所収 昭和59)と述べて、福島県では淡島信仰をかたちで示す淡島像の造立は江戸末期からなされ、昭和に入ってむしろ多くなったと分析されている。
こうした状況をみると、今川花織氏が「流し雛」(「郷玩文化」121号)の中で紹介した、福島県大沼郡金山町西谷及び同県三島町高清水地区の流し雛の行事は、近代になってこれらの地方に伝わった可能性も考えられる。
おわりに
流し雛の隆盛にともなってますます勢いを増す「流し雛は雛人形の源流」説。以前からこの説に違和感を持っていたわたしは、今回、これに対して正面から反論を挑んでみた。資料を求めて「流しびなの館」に問い合わせをさせていただくとともに、図書館にも足繁く通った。また今年にはいって奈良県五條市、鳥取県用瀬町、岡山県北木島へと現地調査もおこなった。その結果、以前から伝承されている流し雛のほとんどが淡島信仰の影響を受けていること、江戸時代の俳諧歳時記に「流し雛」の詞(ことば)は江戸後期からしか出てこないことなどがわかってきた。こうした事実をもとに流し雛は雛人形の源流でなく、淡島信仰を源流として江戸後期以降に発生した習俗であると結論を出したのが本稿である。今回、流し雛について荒削りではあるが、一定の方向を示せたと考えている。今後、みなさんのご意見をうかがってより内容を深めて行きたいと思いますので、忌憚のないご意見をお寄せいただければ幸いです。
(本稿は『郷玩文化』171号 2005年10月刊 郷土玩具文化研究会発行、に掲載された論文を転載したものです)
淡島願人の活動
女性信者をターゲットにした神社の活動を側面から支援したのが、淡島願人(がんにん)あるいは淡島坊主と呼ばれる下級宗教家であった。広辞苑によると、淡島願人は「淡島神社のお札を入れた箱を負って、その由来を語りながら門付けをした遊行者」と書かれ、また小学館の『日本国語大辞典』には、「淡島明神の小宮をたずさえたり、背負ったりして、その由来を語り、『紀州名草の郡、加太淡島さまへ代僧代参り』などと言って門付けをして歩いた行者」とある。
『上方演芸辞典』(東京堂出版)は、『けいせい飛馬始』(寛政元年・1789)を引用して、「淡島さまへ代僧代参り、分けて女中は櫛・笄(こうがい)・簪(かんざし)・耳掻・たぼ留・前差し・両差・後差し、其うち似せ物は値打ちがない。本鼈甲(べっこう)を上げよとの御誓願でござる」と、淡島殿(淡島願人)の言草(語りの内容)の一例を紹介している。これをみると淡島願人は女性に代わって淡島神社に代参し、その際、櫛や笄(こうがい)・簪(かんざし)など女の装身具などを「淡島さんに納めるから」と供出させていたようである。しかも本鼈甲(べっこう)などの本物を出せと言っているところをみると、恐らく供出させた装身具をどこかに売り飛ばしていたのであろう。
また『大阪ことば事典』(講談社)には、「アワシマハン」の説明に、「元禄の頃から、あわしまという一種の乞食があって、淡島明神を祀った小さい神棚に紅・紫とりどりの小布を結びつけたものを手に持ち、淡島の縁起めいたものを声高に唱えて、白帯下に悩む婦人に、祈願して病苦をのがれよと勧進した。上方では僧侶の風をなし、江戸では神主めいた扮装をしたという」とある。「縁起めいたものを声高に唱えて」というのが、先に示した『続飛鳥川』(19世紀中頃)に述べられている内容であろう。
一方、奥野鉄夫氏は、先に引用した論文「島の流し雛」のなかで出典を明示していないが、「役の行者が開創したといわれる紀州伽蛇寺は、淡島様を強力に支援する寺であった。毎年3月には修験のため、諸国から300人あまりの行者がこの寺に集まったが、この行者たちが全国に淡島様を宣教して歩き、女性の頭のもの(くし、かんざし、かもじ)を供えて祈願すると霊験のあらたかであると説いて、衣類や米、銭を受けたという」と、修験の行者が淡島願人となって全国を宣教したと述べている。
淡島願人の図が示すもの

『人倫訓蒙図彙』(元禄3年刊・1690年)に描かれた淡島願人
この淡島願人を描いた図が『人倫訓蒙図彙』(元禄3年刊・1690年)にある。編み笠を被った人物が、柄の先に小型のお宮を付けたものを手に持ち歩く姿である。小宮の中には立雛や這子らしきものが描かれており、宮の周囲からいくつも細い布が垂れ下がっている。この説明に「淡嶋殿、かれが向上、一から十まで皆誤りなれども、それをたゞす者もなし。女の身にとっては第一気の毒の病をまもり給ふといえば、愚なる心から、おしげなくとらする也。夫(それ)粟嶋は紀伊国名草郡蚊田(かだ)にあり。其神は陽躰(ようたい)にして女躰にはあらず。然(しかる)を、はり才天女の宮といふ也。わろうべしわろうべし」とある。 『人倫訓蒙図彙』の著者にとっても、淡島願人は荒唐無稽なことを言って婦女をたぶらかし、施しを受けるとんでもない者に見えたようである。

『絵本御伽品鏡』(享保15年刊・1730年)に描かれた淡島願人図
それから40年後に出版された『絵本御伽品鏡』(享保15年刊・1730年)にも淡島願人が描かれた図が出てくる。そこには僧の姿をした願人が、右手に鈴を持ち、左手に小宮の柄を持ちながら、通りかかった晒木綿の束を頭上にのせた女に声をかけている。小宮のなかには立雛が見え、小宮の床の回りからやはり布きれが垂れ下がっている。絵の題歌に「曝嚊(さらしかかあ) 血の道の出たらば恥や 晒(さらし)かゝ 淡島様を兼て祈らん」と書かれている。意味は、「晒しを運んでいるかかあさん、下の病で血がでたら恥ですよ、淡島さんにお祈りしませんか」というほどのものである。
これら淡島願人の図を分析してみると非常に興味深いことがわかってくる。まず淡島願人は両方とも小宮をたずさえている。小宮の中には立雛が見える。『人倫訓蒙図彙』のほうには這子らしきものも描かれている。立雛は社家の言い伝えにあるように、神功皇后手ずから作ったという少彦名命の神像、すなわち淡島明神を表現している。(しかし立ち雛は男女1対である。これについて現在の淡島神社は、立ち雛を少彦名命と神功皇后の男女一対の御神像であると説明している。)
また這子は『紀伊国名所図会』に、「天児といへるも少彦名命の御神像にして」とあり、天児は這子とも言ったことから、これも少彦名命を表現している。こうしてみると、淡島願人は淡島の神さまを小宮の中に携えていることになる。なお小宮の下方から垂れ下がっている細い布は、『大阪ことば事典』に、「紅・紫とりどりの小布を結びつけ」と記し、布の色が赤や紫などであるこがわかるが、この布が何を意味しているのか定かでない。
さて『人倫訓蒙図彙』(元禄3年刊・1690)の小宮に描かれた立雛図であるが、これが意外に古いのである。現在までに知られている立雛図のなかで古いものとしては、『女用訓蒙図彙』(貞享四年・1687)の「雛(ひいな)」の図、『日本歳時記』(貞享五年・1688)の雛飾りに描かれている立雛図が私の知るところであるが、『人倫訓蒙図彙』の小宮内の立雛図はこれらと刊年において2~3年の違いしかなく、ほとんど同時代といってよい。すなわち淡島神社は世の中にひいな遊びが普及しはじめた1600年代の後半にはすでに淡島の神として立雛をとりこんでいたことになる。
平安時代から「ひいな遊び」と言われていた人形遊びが、三月三日に収斂してくるのは、俳諧歳時記の『俳諧初学抄』(寛永18年・1641)や『山之井』(正保5年・1648)の三月三日に「ひいな遊び」の詞(ことば)が見える1640年代のころと考えられている。それから40~50年後にひいなである立雛を神社の祭神として祭り上げているのは、世の中の動きを先取りした英断であったといえよう。なぜなら、ひいな遊びはその後、雛まつりへと発展して各地に普及し、淡島神社の信仰もそれに伴うように全国に拡がるからである。
淡島信仰の繁栄
『紀伊続風土記』の著者が「索強付会(こじつけ)」とよび、『人倫訓蒙図彙』の著者も「一から十まで皆誤りなれども」と批判した淡島信仰は、しかし時代を経るにつれて拡がっていった。それは江戸時代の女性から圧倒的な支持を得たからであった。お布施を包み願掛けの品々を託せば、紀州の淡島明神に代参してくれるという淡島願人の活動は、病んだ女性たちにとって救いの神であったことだろう。まさに淡島信仰はこの下級宗教家が拡げたものいえる。
この淡島願人の活動は歌舞伎のなかにも残っている。淡島物とよばれる一群の作品がそれである。平凡社の百科事典によれば、淡島物は淡島願人の風俗が歌舞伎にとりいれられて成立した一群の作品で宝暦9年(1759)閏7月、江戸市村座上演の「粟島園生竹」がその最初とされる。市村亀蔵演じる関東小六が淡島願人となって郭に入り込み、遊女大岸と恋の所作をする内容という。続いて明和7年(1770)秋、市村座で上演された「関東小六後雛形」で、市村亀蔵の丹波屋七郎兵衛が淡島願人となって郭に入り込み、遊女音羽と恋を語る。この後も淡島物は文化4年(1804)江戸中村座で、安政4年(1859)市村座で上演されている。これらの芝居は淡島願人が郭の遊女に信仰されていたことを示している。
また淡島信仰が拡がるにつれて、神社も各地に増えていった。神社の境内に末社として勧請されたり、寺の境内に淡島堂として建てられた。また個人の民家の屋敷内に邸内社として一家の鎮守となっているものも多い。今も各地に残る淡島神社の多くは、こうして江戸時代以降、淡島願人の活動と平行して建てられ拡がっていったものである。
淡島信仰の流し雛はなぜ発生したのか
こうして広まった淡島信仰の流れにさらに新しい動きが加わった。流し雛である。先に述べたように鳥取や用瀬では流し雛は淡島信仰と関連をもちながら江戸末期に鳥取城下で始められたのではないかと推定されている。また和歌山県粉河や奈良県五条の流し雛も江戸時代にその起源があると考えられる。いったい流し雛はどんな役割をもってなぜ始められたのだろうか。
鳥取県の各地に古くから伝わる流し雛は先にも述べたように、水に浮かんで流れてゆく流し雛に手を合わせて、「女の病を病みませんように」「帯から下の病いを治してつかんせい」「長血・白血を病まんように」と、以前は女の帯の下の病気に限っていう場合が多く、そうしたところでは「アワシマサンに行ってつかんせい」と唱えていた(坂田友宏氏「因幡の雛送り」)。
岡山県笠岡市北木島の流し雛行事でも、「当地の旧暦三月三日は、正午頃が満潮で潮流が東に向くので、この潮流に乗せれば舟が早く紀州加太の浦へ着くだろうという発想からである。遅れる雛のないよう隣近所誘い合って海岸へ揃う。家内安全、健康、安産など、女性のあらゆる欲ばった願いをこめて、『どうぞ無事に淡島さんへいんでおくれ』と各家庭で手作りした紙雛を麦わら製のウツロ船に乗せ、祈りながら海へ流す」(奥野鉄夫氏「島の流し雛」)。また奈良県五條市の流し雛は紀ノ川の川口に近い淡島まで流れて行き、女の下の病気にかからぬと信ぜられている(『五条市史』)。このように流し雛は、淡島さまに願い事が届くようにと紙雛に託して代参してもらうという役割を果たしており、純粋な祓いのヒトガタではない。こうした流し雛はなぜ生まれたのであろうか。
俳諧歳時記の『滑稽雑談』(正徳3年・1713)には、加太淡島神社に関わる俗説のひとつとして、「此の神ことに婦人の病をすくふ因縁ある故に、是を祈る婦女、雛を作りて奉るならし」と、参拝する婦女が病治癒のため雛を作って奉納する習俗を紹介している。こうした雛を作って淡島さんに奉納し病の治癒を祈願する習俗がもとになって、神社まで直接参拝できない紀ノ川流域の女たちが、淡島さんに届くようにと川に雛を流すようになったのが始まりではないかとわたしは推測している。
流し雛の代参機能はもともと淡島願人が担っていたものである。のちに雛祭りの時期に行商人によって流し雛が売りさばかれたり、また各家庭で手作りされることもあったのは、日本の各地をまわって淡島さんの信仰を普及してきた淡島願人が築き上げた土壌があったからこそといえる。まさに流し雛は淡島願人の耕した土壌の上に開いた文化であるといえよう。
流し雛はいつから始まったか
流し雛がいつごろから行われたのか。これを調べるひとつの方法として、各時代の俳諧歳時記の季語を比較分析する手法がある。俳諧歳時記は俳諧の季語(詞)を分類して解説や例句をつけた書であるが、その季語は発行された時代の社会風俗がかなり反映されている。そこで江戸初期から後期までの俳諧歳時記の三月三日の季語のうち、雛祭りに関連する言葉を抜き出してみたのが別表である。

この表を見ると、江戸初期から1700年代までの歳時記には「流し雛」の詞(ことば)はでてこない。19世紀に入り『俳諧歳時記』(1803年)に初めて「流シ雛」がでてくる。その15年後に刊行された『季引席用集』(1818年)にも「流し雛」が出てくることから、この頃には流し雛の言葉が定着したようである。
しかしそれまでの1600年代から1700年代の200年間の歳時記に「流し雛」はまったく見あたらない。歳時記の詞は、その時代に必ず行われていた事柄が書かれているわけではない。例えば「曲水の宴」はどの歳時記にも登場するが、江戸時代を通じて実際にどの程度行われていたか疑問である。しかし三月三日に欠かすことのできない古代からの伝統ある言葉として俳諧の詞に採用されているのである。一般的にいうと、いったん採用された詞は実体がなくなっても消えにくい傾向がある。
これと逆に新しい詞が採用されるときは、社会にその詞が表す現象が現れたからであると考えられる。例えば、これまで「草餅」「蓬餅」という詞だけだった3月3日の餅に、『華実年浪草』(1783)から以降に「菱餅」が加わる。またそれまで「桃の酒」だけだった酒に、「白酒」が同じく『華実年浪草』から加わっている。これは江戸中期頃から菱餅と白酒が広く用いられるようになり、ついにこの言葉が歳時記に採り上げられたと考えられる。
こうしてみるとき、「流し雛」は江戸後期の新しい現象として世の中に広まったものと考えられる。では歳時記にとりあげられた「流し雛」は何を表しているのだろうか。ひとつ考えられるのは古い雛や壊れた雛を流す雛流しの行事である。江戸後期に入り、雛祭りが盛んになり作られる雛人形の数が多くなるとともに、古雛や壊れた雛の処分という社会問題が発生してくる。これらの雛は神社などに納める「捨て雛」や、川や海に流す「雛流し」「雛送り」などの方法で処分される。これらの中で流される雛人形にたいして、「流し雛」という言葉が使われるようになってきたのではないかと考えられる。
『嬉遊笑覧』(文政13年・1830)には「相模(神奈川県)愛甲郡敦木(厚木)の里にて、年毎に古びなの損したるを児女共持出て、さがみ河に流し捨ることあり。白酒を入、銚子携えて河辺に至れば、他の児女もここに来り、互いにひなを流しやることを惜みて、彼白酒をもて離杯を汲かはして、ひなを俵の小口などに載て流しやり、一同に哀み泣くさまをなすことなり。此あたりのひな、内裏ひなに異なることなし、其外に藤の花かつげる女人形多し」とあるのは、古い雛を流す様子を物語っている。『紀伊続風土記』(天保10年・1839)に加太淡島明神で三月三日に「雛ならびに雛の其婦人の手道具を奉納する事夥しくして、神殿中に充満す」とあるのは、江戸後期におびただしい雛が神社に奉納されたことを物語っている。
もうひとつの「流し雛」は、もちろん淡島信仰の流し雛である。この淡島代参機能をもつ簡素な紙雛も、『俳諧歳時記』(1803年)が編集された江戸後期には始まっていたものと考えられる。
「巳の日の祓い」と「流し雛」の関係
なおここでひとつ確認しておきたいことがある。それは「巳の日の祓い」のことである。歳時記の「三月」の項目にこの言葉はよく登場する。具体例は次のとおりである。
『はなひ草』(1636)の三月の詞に、「巳の日の祓」
『俳諧初学抄』(1641)の末春に、「須磨の御祓(みそぎ)、三月上ノ巳也」
『増山井』(1667)の三月に、「巳の日のはらへ 上巳。三月上の巳の日、水辺にてはらへして疾病を除くわさとかや。是、周の代にはしまれりを、魏の時よりのち只三月三日を用て、巳の日を不用云々。(中略) 須磨の御祓 是は光源氏須磨浦に左遷のとき、三月一日に出来たる巳の日、陰陽師におほせてみそきし給へり。舟に人かたをつくりてながせし事など彼物語にあり」
『滑稽雑談』(1713)の三月之部に、「巳日のはらへ」と題して中国文献の説明や源氏物語の須磨の御祓を説明している。
『俳諧手挑灯』(1744)の三月に、「巳の日御祓 上ノ巳日、川辺にて疫神除の祓なり、 須磨の祓 上に同 源氏」
『華実年浪草』(1783)の三月に、「巳日祓」として中国文献の解説、「須磨御祓」として源氏物語の須磨の御祓を説明している。
『俳諧歳時記』(1803)の三月に、「巳の日の禊」として中国文献の解説、「須磨御祓」として源氏物語の須磨の御祓を説明している。
このように「巳の日の祓い」は、江戸期を通じて一貫して歳時記に登場する。しかしこの祓いは江戸時代に実際に行なわれた習俗なのであろうか。この点については今後、調査してゆきたいが、各種の俳諧歳時記は、中国での由来と源氏物語の須磨の御祓(みそぎ)を載せているのみである。
江戸期に巳の日の祓いが行なわれていたとしても、これは三月の初めての巳の日の行事であって、三月三日の行事ではない。巳の日が三日と重なるときだけ、三月三日になるのである。さらに雛人形と異なるのは祓いの人形の名称である。それは古代においてヒトガタ(人形)あるいはカタシロ(形代)と呼ばれており、ヒイナ(雛)という呼び方はなされていない。
こうしたことから、はっきり言えるのは、「流し雛は巳の日の祓いの人形ではない」ということである。源氏が須磨で御祓に用いたのは、「人かた」であって「ひいな」ではない。流し雛の源流を源氏物語の須磨の御祓に求めるのは、筋違いもはなはだしい。流し雛は淡島信仰を源流として発生したものであって、この人形は女性の祈りや願いが込められた奉納人形の性格をもっており、身のケガレを移して流し去るヒトガタ・カタシロとは基本的に異なっている。
明治以降の淡島信仰と流し雛
明治以降の淡島信仰はどうなったのであろうか。淡島信仰を広めた淡島願人について近代の目撃証言がいくつか残っているので、それらのいくつかを紹介してみたい。
「昭和七、八年頃、私は何回か淡嶋願人が笈(おい)(背に負う箱)のような仏壇のようなものを背負い六部(巡礼)姿で家々を回って歩くのを見た。その中には髪の束や、赤い布切れなどがぶらぶら下がっていて薄気味悪く、何かお経のようなものを唱えていた。家々では米や、お金を供え拝んでいた。(秋田県横手市)」(川越雄助『押絵』秋田文化出版社)
「大坂ことば事典」の淡島願人図(模写)
「幼少のころ、「淡島はん」という背に祠(ほこら)を負い、きたない風体で門づけに来た人物がいました。祠から赤い布や髪などがのぞいていて、異様な感じがした記憶があります。よくごんたを言ったり(だだをこねる)、やんちゃをすると、大人から「淡島はんがくんど(来るぞ)」と言われ、恐怖をおぼえたものです。その淡島はんも戦後しばらくして、その姿を見かけなくなりました。(奈良県田原本町)」(ウエブサイト「田原本町に伝わる昔話」)
「年配の方は知っておられると思うが、当地(岡山県笠岡市)でも昭和12年頃までは、袖の違った着物で小箱を背負い、鉦をたたきながら、ときおり淡島願人がきた。背中の箱には黒髪が下がり、不気味であった記憶がある。(奥野鉄夫「島の流し雛」)
「因幡においては、淡島願人の活動は近代に入ってからも見ることができた。前述した(流し雛を売り歩いた)国府町三代寺の松坊主などもその一派であったと思われるが、八頭郡船岡町志子部などでは、昭和の始めごろまでその姿を見かけることができたという。彼らは俗にアワシマサンと呼ばれ、背中に背負った大きな箱(逗子)の中に神像を入れ、もっぱら婦人病の効験を説いて回ったようである。願掛けや願開きの際に納める櫛や笄・簪、それに髪などを背中の箱に飾り付けて歩いていた。(鳥取県因幡地方)」(坂田友宏『神・鬼・墓 因幡・伯耆の民俗学的研究』)
以上の事例から、淡島願人は近代に入ってから昭和初期、場所によっては戦後まもなくまでその姿を見かけることができたようである。『大阪ことば事典』(講談社)のアワシマハンの項に、願人の図が載っているが、江戸期のような小宮でなく、背に祠を背負っており開いた戸に髪の束が下がっていることから、近代の証言に出てくる淡島願人に近い。
ところで東北地方では淡島像といって右手に粟の穂を持った石像が、福島県を中心に分布しているが、これを調査した小坂泰子氏は「福島県中通り(福島市・郡山市を中心とした地域)の淡島像の造立年を調べてみると、他の石仏たちの造立がやや弱まった頃、江戸末期から淡島像の造立がなされ、昭和に至る現在まで、むしろ、昭和に入ってからの方が多く造立されている。(中略)女の日といわれる二月八日の針供養、三月三日の雛祭りなどもこの淡島信仰にまつわる俗信の名残りといわれ、現在もこの日を淡島講と呼んでささやかに、この講を続けている少数の村がある」(「東北地方の淡島様とその信仰」・『日本の石仏9 東北篇』所収 昭和59)と述べて、福島県では淡島信仰をかたちで示す淡島像の造立は江戸末期からなされ、昭和に入ってむしろ多くなったと分析されている。
こうした状況をみると、今川花織氏が「流し雛」(「郷玩文化」121号)の中で紹介した、福島県大沼郡金山町西谷及び同県三島町高清水地区の流し雛の行事は、近代になってこれらの地方に伝わった可能性も考えられる。
おわりに
流し雛の隆盛にともなってますます勢いを増す「流し雛は雛人形の源流」説。以前からこの説に違和感を持っていたわたしは、今回、これに対して正面から反論を挑んでみた。資料を求めて「流しびなの館」に問い合わせをさせていただくとともに、図書館にも足繁く通った。また今年にはいって奈良県五條市、鳥取県用瀬町、岡山県北木島へと現地調査もおこなった。その結果、以前から伝承されている流し雛のほとんどが淡島信仰の影響を受けていること、江戸時代の俳諧歳時記に「流し雛」の詞(ことば)は江戸後期からしか出てこないことなどがわかってきた。こうした事実をもとに流し雛は雛人形の源流でなく、淡島信仰を源流として江戸後期以降に発生した習俗であると結論を出したのが本稿である。今回、流し雛について荒削りではあるが、一定の方向を示せたと考えている。今後、みなさんのご意見をうかがってより内容を深めて行きたいと思いますので、忌憚のないご意見をお寄せいただければ幸いです。
(本稿は『郷玩文化』171号 2005年10月刊 郷土玩具文化研究会発行、に掲載された論文を転載したものです)