「七夕文化」

日本の七夕を調査・記録したジオシティーズ「七夕文化」(2010年)を移行しました。

「室津の七夕飾り」聞き書き:尾崎織女

2018-10-07 13:15:22 | 調査報告
 「室津の七夕飾り」聞き書き:尾崎織女

■はじめに
 瀬戸内海の東部に位置する御津町室津(兵庫県揖保郡)は、三方を山で囲まれた天然の良港として古くから栄えた町でした。「風を防ぐこと室のごとき」港であることから室津と名付けたと『播磨風土記』には記されています。江戸時代には、参勤交代の西国大名が乗船地・下船地に利用し、箱根に次ぐ宿場町として賑わいを見せました。「一宿一軒」が原則の本陣が最盛期には6軒もありました。現在、御津町立海駅館として公開されている旧・嶋屋(回船問屋)や室津民俗館の旧・魚屋(海産物問屋)の佇まいの中に、かつての面影をみることができます。また室津は、李氏朝鮮の国王の新書を携えて将軍の座す江戸幕府まで上る朝鮮通信使の一行が必ず寄港した国際海駅港としても知られています。幕末にここを訪れたシーボルトが、賀茂神社の参籠所から望む瀬戸内海の美しさを絶賛したことでも有名です。

 かつて「室津千軒」と呼ばれた町のすべてが残されているわけではありませんが、港に沿って軒を連ねる町並の中には、近世から受け継がれる様々な民俗文化が保存されています。室津独自の行事には、4月上旬の小五月祭、7月下旬の夏越祭、盆の精霊流し(※1)、旧暦8月1日の八朔ひな祭りなどがあります。
(※1) 15日の夕方、長さ1m程度の木製精霊舟に、仏壇に供えたものを積み込み、線香を焚き、「妙法丸」あるいは「西方丸」と書いた帆を掛けて提灯で飾る。各家、鈴を鳴らしながら出発、船で沖あいまで出ると、精霊舟は西方に向けて流される。

 2004年8月20日、御津町室津で町をあげて開催されている「第2回八朔のひな祭り」を訪ねた折、御津町立室津民俗館で前年秋に開催された特別展『御津の民俗』の図録を入手しました。そこにはこの地に伝承される七夕飾りの写真が掲載されており、他の播州各地で行われている野菜を吊す飾りとの共通性がある一方、室津独自の要素も感じました。私たちは室津民俗館の紹介で、この特別展に際し七夕飾りの復元に携わられたという金澤孝子さんをお訪ねし、室津の七夕まつりの様子をお聞きすることが出来ました。また、8月29日、11月13日に再訪し、室津民俗館に勤務される山下初代さんにも七夕まつりのお話を伺うことが出来ましたので、ここにその内容を報告させていただきます。


■金澤孝子さん(大正14年生まれ/御津町室津出身、現在も室津在住)のお話
 金澤さんは、御津町役場に55歳まで勤められた後、御津町立室津民俗館(開館=昭和60年7月7日)で12年間、この地の歴史や民俗、文物に関わった仕事をされてきた方です。昨年秋に行われた民俗館の特別展『室津の民俗』の中で、七夕飾りを復元し、写真資料等も提供しておられます。

七夕の飾り台に笹竹を2本立て、枝竹を渡し野菜を吊す
 金澤さんによれば、室津では8月6日に七夕飾りの準備が行われます。午前中に近くの竹やぶから笹竹を2本切り出してきて、笹の葉の美しい部分を使って2本の笹飾り用を用意します。七夕の飾り台にその2本の笹を立て、短冊や網(投網)などの切り紙細工を吊るすと、残りの笹竹から枝葉を落として70cm位の竹をとり、2本の笹飾りの間に差し渡します。両端を紐で固定し、差し渡された竹には、この地方でこの時期に実り始めるハツモン(初物)の野菜のいろいろを糸で対につないで吊り下げます。

………「昔は車も通りませんでしたから、通りに面した軒より少し前へ床机を出し、その上に七夕の台を据えました。台の両方から笹飾りを立て、その間に渡した竹には対に糸でつないだ野菜を吊るします。七夕さんはハツモン食いと言ってね、胡瓜、ホオズキ、茄子、トマト、ナンバキビ、柿、栗(イガに入ったまま)、ササゲなど、ハツモンの野菜をまくばりよく吊るしました。やっと実りはじめたばかりの野菜ですから、まだ小さくて青いものですよ。対につないでいるので、正面と手前にふりわけるのですが、その時、野菜どうしがぶつからないように上下を少しずらしてぶら下げていましたね。それから、吊るした野菜の真ん中には、半紙を折り畳んで「奉二星」と墨で書いた紙を、金銀の水引で結びきりにして掛けました。半紙を半分に折り、さらに3等分に折って、上と下を折り曲げた形です。竹に掛けると、下から萱が支えてくれますので、うまい具合に収まるのです。」

室津の七夕飾りの様子(尾崎織女作図)

室津独自のものと思われる七夕飾りの台
 さて、この2本の笹飾りが立つ七夕の台は、室津独自のものと思われます。台の大きさは、高さ65cm、幅60cm、奥行35cmほどのこじんまりした箱型の枠で、手前を除き、両脇と正面の三方に、ぎっしりと萱の茎を立て込んだ形です。枠の下から5cmほどのところに一段、それから10cmほど開けて一段と、二段の横板が渡されています。
茄子の牛
 上の棚には、ご飯、2匹の魚(尾頭付きの魚は、その種類によって調理方法が違う)、あられ、西瓜、南瓜、サツマイモ(蒸かしたもの)などのお供え物が置かれます。魚は決まっておらず、海老などをお供えすることもあります。その他には、割り箸で4本の足を刺した茄子の牛(背中には御幣をいただく)、それに高杯型の陶器の水鉢に水をはったものも添えられます。茄子の牛が水に口を浸すような位置に水鉢は据えられました。また、下の棚には、子どもたちの「おくばり」(あられや飴などのお菓子)を入れた箱、それから「おうつり」(いただいたお菓子のお返し)を入れる箱を仕舞っておきます。
        
………「長方形の床机は長い辺を横にして通りに出すのですが、その上に据える七夕の台は短い方の辺に合わせるように置きました。台の傍には母親や、兄弟の多い家では兄や姉が座って、おくばりにくる子どもたちの相手をしなくてはなりませんから。」  
     
「おくばり」と「水鉢」
 こうして七夕飾りが完成した6日の夕刻になると、子ども達がお菓子などを思い思いの箱に入れ、七夕飾りのある家を訪問してお菓子を交換する「おくばり」が行われます。これは7日の夜も行われました。

………「私の子どもの頃は、城崎の麦わら細工の小箱にあられなどを入れて、各家を回りました。お菓子を差し上げると、おうつり、といって、差し上げたものの3分の1ほどのお返しを箱に入れてもらいます。こうして、子ども達は、いただいたらお返しをする、という作法を自然に覚えていったのです。」
2本の笹飾りの両側には一つずつの提灯が掛けられ、ゆれるロウソクの灯りが、夏の夜の風情をかもしていたことでしょう。

金澤本家に保存されている陶器の水鉢

………「7日の夜には、お供えの水鉢を前栽の雪見灯篭の上に置き、夜露をその中にとりました。水鉢は、大半の家はガラスのコップでしたが、私の家のものは直径が14cm、高さ10cmほどの高杯型の鉢に藍色で織姫さまや巻物などの絵が描かれたものです。水鉢の水にお月様が映ってキラキラとする様子を見たことがあります。」

………「夜露をとった水鉢の水は、8日の朝、笹や吊るした野菜などの飾り物とともに海へ流しました。」こうして室津の七夕まつりは、8月6日にはじまり、7日を過ごして8日の朝に終わります。                        

第二次大戦後の室津の七夕
 
格子のある金澤家
 大正14年生まれの金澤さんが記憶されている七夕飾りは、昭和初期から10年代にかけての時期。戦前の飾りといえます。また、金沢さんが祖母にあたる方から伝え聞かれたところの明治末期から大正時代の七夕飾りも同じような様子だったそうです。

金澤家で行われた略式の七夕飾り(平成9年頃)
(御津町教育委員会編・特別展図録「室津の民俗」にも掲載されている写真)

………「戦中戦後は、もう世の中の混乱期で、七夕を飾る余裕の無い時代でしたけれど、暮らしが落ち着くと、子どものある家では、昔ながらの七夕飾りがなされるようになったと思います。私の家は萱を立てた台を使って七夕飾りをしていましたが、格子に笹飾りを結びつけ、その間に野菜を吊るすと、屋内に小机などを据えてお供えをして、格子越しにおまつりをするといった簡略式の飾り方をするようになりました。昨年、室津民俗館で開催された特別展『室津の民俗』の図録やポスターの写真は、我が家の略式の飾りを写した写真が使用されています。」

 8月8日の朝、七夕飾りの笹や竹にかけたハツモンの野菜、水鉢の水などは海へ流されましたが、七夕の台は、次の年もまたその次の年も毎年、使ったそうです。

………「台に立て込んだ萱は、毎年、立て替えましたから、まつりが終わった後は焼いていたのでしょう。萱は置いておくと、麦わらのように茶色になりますけれど、七夕に立てた時は、まだ青くて綺麗です。笹飾りやお供え物を海に流したり出来なくなりましたから、以前のような飾り方もだんだんと廃れ、七夕の台も処分してしまったのでしょう。伝承されてきた本式の七夕飾りを行う家は、今ではもう絶えてしまったように思いますね。」

■山下初代さん(昭和20生まれ/御津町室津出身、現在は室津民俗館勤務)のお話
 室津民俗館では、特別展を開催された折に展示されたという七夕の台を見せていただきました。枠に立て込んだ萱も昨年のまま保存されていましたので、様子がよくわかる資料です。この七夕の台は、室津地区内の山里家の蔵に残されていた大正時代のもので、かつては、金澤家の他にも、こうした台を使って七夕飾りをする家はあちこちにあったということを物語っています。
 その資料を撮影させていただきながら、民俗館に勤務されている山下初代さんにお話を伺いました。山下さんは、室津生まれの室津育ち、現在は「室津を活かす会」の会員としても町の文化を守り育てる活動に取り組まれています。 

山里家に保存されていた七夕飾りの台~室津民俗館所蔵~
………「室津では、このような台を使って七夕飾りを行っていました。台の両側から笹飾りを立て、2本の笹に竹を差し渡しますでしょ。そこにハツモンの野菜をかけて飾るんです。ホオズキ、ササゲ、胡瓜、出来たばかりの柿や栗などを対にしてね。その真ん中には、半紙を畳んで――私の記憶では「天奉 二星」と書いたものをかけていました。萱を立てた台の棚には、西瓜や南瓜、ご飯やお菓子、それに室津は漁場ですから魚なども供えましたし、それに茄子に割り箸をさして作った牛なども置きました。」

室津民俗館に所蔵されている七夕飾りの台

………「七夕の牛の背中には、家で初七夕を迎えるのが男の子だと御幣を、女の子だと長方形に畳んだ紙をさすのだと、祖母から聞かされていました。私は女の子ですから、畳んだ紙をさした牛だったのですが、御幣をさして欲しいなあとよく思ったものです。牛が水を飲めるような位置に水鉢を置きました。茄子の切り口を水に浸すことになりますから、茄子が萎れなくてすみます。」

………「萱をさした台を使って七夕飾りをされる家もありましたけれど、室津は格子の町ですから、その格子に2本の笹飾りをくくりつけ、その間に野菜を吊るす家もありました。竹を差し渡す代わりに格子の桟を利用してハツモンの野菜をくくりつけたりね。最近はもうあまり見られなくなりましたが、それでも、8月6日になると、室津の町並の中に、時々、笹飾りが立っている家がありますよ。」

■猪澤久彦さん(昭和19年生まれ/御津町室津出身、現在も室津在住)のお話
 8月29日の夜、八朔の雛飾りを行っておられる猪澤久彦さんにも、大正時代の雛人形を見せていただきながら、子ども時代の七夕のお話を伺いました。

猪澤家と室津の町並
………「私たちの小さい頃は、ちょうど戦後の混乱期。物の無い時代でしたし、暮らしに精神的な余裕もありませんでしたから、本式のきちんとした七夕まつりなどは出来ませんでしたね。萱を立てた台に飾るようなことはその頃には、もう行われませんでした。妹が生まれた頃(昭和20年代後半)になると、それでも、時代が落ち着いてきましたから、七夕まつりもまた再開されました。室津は格子の町ですから、格子に2本笹の飾りをくくりつけて、そこへ短冊やら、切り紙細工やらを吊るし飾るようなやり方です。その間にハツモンの野菜なども吊るしたりしていましたね。8月6日に飾り、7日に終わる。私たちの頃は確か、そんなふうだったと思います。6日の夜に、おくばりといって、あちこちの家を回ってお菓子をもらい歩く風習がありまして、それが楽しみでしたね。」

■他の播州地域と比較した室津の七夕飾りの特徴
 今回お話を伺った室津の七夕飾りは、床机と七夕の台を使用して飾るもので、金澤さんや山下さん、猪澤さん以外にもお話を伺いましたが、このような形態は、大正時代から昭和初期にかけて各家それぞれに行われていたものとわかりました。それが、戦後になると七夕の台が姿を消し、通りに面した家々の格子を利用して飾るものへと変化していったようです。その昔は近くでいくらでもとれた萱が手に入らなくなったことや、飾り物を海に流すことが禁止されたことなども戦前の飾り方が廃れた要因と考えられます。

 播州地域の七夕飾りを概観してみると、床机を舞台に2本の笹飾りを立て、その間に竹を差し渡して、胡瓜、茄子、トマト、栗、柿、ササゲなどハツモノの野菜を対にして飾るというものです。その下には西瓜や南瓜、盥に小魚を放して供えたりもされます。市川水系では野菜の代わりに「七夕さんの着物」とか「七夕さん」とか呼ばれる七夕人形が飾られる地域もありますが、ほとんどの市川水系地域、夢前川水系地域、揖保川水系地域ともに多少のバリエーションがあるものの、概して野菜を吊るす飾りです。御津町は揖保川水系に属しますが、室津に近い岩見や黒崎、苅屋地区では、室津に見られたような七夕の台を使った飾りの伝承者を見つけることは出来ませんでした。

 萱を三方に立て込む七夕の台、水鉢、御幣をいただく牛、「奉二星」あるいは「天奉二星」の文字、全体に優雅にまとまった感のある室津の飾りは、他の播州地域のものに比べると、古式の美が漂っています。また、他の播州地域と異なるのは、七夕を祝う日が他地域では8月6日夜から7日朝にかけてであるのに対して、戦前の室津では8月6日から7日を過ごして8日の朝までであった点です。
 この地区でも、古老たちは七夕を「盆の始まり」と考えておられるので、七夕の台を盆棚と関連付けて考えていくことも必要かと思われますが、文献類の中から、他の播州地域では見ることの出来ない室津の七夕飾りのあり方について、またこの形態の成立の時期について説明してくれるものを見つけることは現在のところ出来ませんでした。室津周辺部の聞き取りを含め、今後の調査課題です。
 お話を伺った町の人たちが「七夕まつり」と聞いてまず懐かしがられるのは、「おくばり」の行事でした。夜、提灯の点った七夕飾りを巡りながら、お菓子やあられをもらい歩く楽しさについて目を細めて語られ、「七夕まつりは確かに子どもの行事だった」と振り返られます。今回、懇切丁寧にお話し下さった金澤孝子さん、保存してある七夕飾りの台をお見せ下さった室津民俗館と山下初代さん、情報を提供して下さった室津海駅館のスタッフの方々、それから猪澤久彦さんにお礼申し上げます。

 金澤さんによると、現在、御津町立室津幼稚園では、ふれあいを大切にと、老人クラブの役員と園児や父兄が一緒になって、七夕祭りを行っておられるようです。昔ながらの七夕まつりの様子をぜひ、拝見してみたいものです。(2004年12月記)                                      
 調査チーム: 日本七夕文化研究会 笹部いく子・天野美紗子・尾崎織女
 調 査 日 : 2004年8月20日・29日/11月13日 
 使用写真  : 「金沢家の略式の七夕飾り」以外は、笹部いく子・天野美紗子が撮影

最新の画像もっと見る

コメントを投稿