「郷 土 の先 覚 者 赤 松 小 三 郎」
関 口 貞 雄 (上田高校48期)
* はじめに
赤松小三郎
上田市出身の幕末の先覚者赤松小三郎は、近年日本初の英国式兵学者、議会政治提唱者として再評価されている。地元の上田市では「赤松小三郎顕彰会」が発足し、「赤松小三郎生誕祭」が毎年開催され、「赤松小三郎記念館」が設立された。東京では「赤松小三郎研究会」が結成されて事務局が設置され、例会を開催して新たな資料、情報を発掘して共有している。
平成29年(2017)10月上田城跡公園内の上田市立博物館で特別展「赤松小三郎―幕末の先覚者」が開催された。この機会を利用して、上田市常盤城にあった「赤松小三郎記念館」が公園内の上田招魂社境内に移転された。特別展終了後上田市立博物館内に「赤松小三郎コーナー」が常設されたので、従来から公園内に存在する「赤松小三郎記念碑」を含め、赤松小三郎関連施設が公園内に集結することとなった。
上田市で生まれ育った赤松小三郎は藩校明倫館で学び、江戸へ出て内田塾で学んだ後勝海舟の学問塾へ入門した。この縁で師と共に長崎海軍伝習所で最先端の技術教育を受けた。後に江戸へ出て、横浜の英国公使館付き軍人アフリン大尉から英語を学んだ。しかし赤松の活躍した舞台は京都で、「英国式兵学塾」を開き、「建白七策」を書いて福井藩主松平春嶽へ提出し、薩摩藩で英国式兵学を教授し、会津藩に銃隊調練稽古を行ったのも京都で、最後に暗殺されたのも京都であった。従って関西にある京都には赤松小三郎関連の場所が集中しているので、これらを訪ね、郷土の偉人、幕末の先覚者の足跡をたどって見ようと思う。
私にとって赤松小三郎は幼少時より身近な存在であった。私の実家の菩提寺は曹洞宗「月窓寺」で、常田隆永(真田昌幸の弟、幸村の叔父)が創立し、第一次上田合戦(神川合戦)で焼失したが、真田幸村が現在の場所(旧鍛冶町)に再建した名刹である。この寺の墓地に赤松家の墓所があり、京都で暗殺された赤松小三郎の遺髪が持ち帰られ葬られている。従って赤松小三郎の名前は幼少時より父母から聞いて知っていた。
昭和17年(1942)に上田城跡公園内に建立された「赤松小三郎記念碑」については小学校で先生から学んだ記憶がある。私が小学校5年生の時中耳炎を患い、その時診察して頂いたのが女医の赤松先生(後記)であったことも鮮明に覚えている。
数年前、京都の「真如堂」へ紅葉見物に出かけた時、ついでに隣接する「金戒光明寺」を訪れた。この時偶然にも寺務所で赤松小三郎の墓が更新されることを知った。そして上田市の有志が旧墓石を故郷に運び、記念館を建立する計画があることも判った。それから数ヶ月後、新墓石が設置された金戒光明寺を再度訪れ、翌年春に上田市へ帰省した時、旧墓石が安置されて開館した「赤松小三郎記念館」を訪れることになった。
以上の様に、私にとって赤松小三郎は何かと不思議な縁があり、興味深い存在である。
1 赤松小三郎の生涯
1-1 出生と英才教育
赤松小三郎は天保2年(1831)4月4日上田藩士芦田勘兵衛、志賀夫妻の二男として上田市木町で出生した。幼名は清次郎、兄柔太郎、姉くにの三人兄弟であった。父勘兵衛は十石三人扶持の下級藩士で、藩校明倫館堂の句読師(教官)を務めていた。清次郎は9歳で叔父(父の義弟)植村半兵衛の私塾で算術(そろばん)を習った。植村は藩の帳元(会計)を務め、清次郎は幼くして英才教育を受ける環境に育った。12歳で藩校に入学し、文学校の明倫堂では儒学、武学校では槍術と剣術を学んだ。この時叔父八木剛介が江戸で砲術を学んで帰藩したので、清次郎は砲術の手ほどきを受けて興味が湧き、砲術の勉強には算術が必須であることを知った。毘沙門堂の活文禅師にも度々教えを受けたと云われる。
1-2 江戸へ遊学
嘉永元年(1848)清次郎17歳の時、修学のために江戸へ発った。内田五観(いつみ)塾へ入塾したが、幾何学、力学、弾道学、航海術、造船術、天文学、地理学等を初歩から学ぶには蘭語の習得が先ず不可欠であることを教えられ、蘭語の勉強に集中して努力し、師にその才能を認められた。
師の内田は尚歯会を通じて高野長英、渡辺崋山と親しく、高野長英が小伝馬町の牢屋の火災の折、牢屋へ戻る条件で釈放されたにも拘らず戻らずに逃走した時、物心両面で支えたのが内田であった。高野が逃走先の宇和島から戻り、変名で江戸市中に潜伏中、捕らえられる時に自害した事件は清次郎に大きな衝撃と影響を与えた。
黒船が浦賀へ来航して世情は騒然となったが、蘭語の書物を通じて船の性能、装備等を知っていた清次郎は左程驚かなく、遂に来たかと思った。
1-3 赤松家へ養子入り
江戸遊学から上田へ戻った清次郎は父の同輩赤松弘の養子となり、赤松小三郎を名乗った。養父は十石三人扶持の徒士で、養母きぬは後妻で小諸の商家の出であった。赤松小三郎は上田藩の数学助教兼操練世話役となった。
1-4 勝麟太郎の永解塾へ入塾
勝海舟
安政2年(1855)江戸へ出た小三郎は師内田五観の紹介で勝麟太郎の氷解塾へ入塾した。少禄の赤松家は学費が払えず、勝家に寄宿して家事を手伝うことで授業料を免除してもらった。数学と蘭語に優れた小三郎は頭角を現し、師に認められた。
1-5 長崎海軍伝習所へ勝の従者として入所
同年、勝が幕府の開いた長崎海軍伝習所で勉強する学生長に任命され、小三郎は勝の従者に選ばれ、員外聴講生として入所する機会が到来した。勝は小三郎の蘭語の能力を高く評価していたので、共に学びながら自分を補佐してくれることを期待した。上田藩は小三郎を藩士(組付徒士)として俸禄二人扶持を与えた。
安政2年(1855 )9月品川から軍艦昇平丸に勝以下伝習生113名(各藩派遣の正規伝習生と員外聴講生)が乗船し、長崎へ航海した。長崎ではオランダ船スンピン号船長ライケン大尉を団長として22名の乗組員で教師団が形成された。必修科目は数学と蘭語で、専門科目は航海術、造船術、砲術、蒸気機関、天測等であった。
約1年半の伝修期間終了後、安政4年(1857)3月小三郎は第一期卒業生と共にスンピン号で江戸へ戻った。
1-6 オランダ兵法書翻訳、咸臨丸渡米乗組員に選抜されず
江戸で滞在中、オランダの兵法書「新銃射放論」(オランダ水陸軍練兵学校教科書)を翻訳して「矢ごろのかね(小銃教練)」を自費出版した。この本の出版で小三郎は洋式兵学者として認められるようになった。
万延元年(1860)幕府は咸臨丸をアメリカへ航海させることを決定した。艦長に勝が指名されたが、乗組員に選ばれたのは大藩から派遣された正規伝習生ばかりで、小三郎をはじめ員外聴講生からは一人も選抜されなかった。幕府の選抜基準は資格、地位優先で、能力本位ではなかった。小三郎は伝習所でも必修科目の数学、蘭語は優秀な成績であったので、当然自分は選ばれると自負していただけに落胆が大きかった。
1-7 松代藩士白川久左衛門娘たかと結婚、佐久間象山と面会
江戸より上田へ戻り上田藩の職務に専念し、数学測量世話係、西洋銃調練稽古世話係に任じられた。この間に和宮降嫁の途中警備を体験し、後年の公武合体の主張に繋がる。
この時、実父の友人が松代藩士白川久左衛門の娘たかとの縁談を持って来た。白川は吉田松陰密航未遂事件に連座して松代で蟄居中の佐久間象山と親交があり、小三郎が勝の弟子で、長崎伝習所で共に学んだことを高く評価し、是非にと縁談を積極的に進めてきた。小三郎も勝の師で義兄弟の佐久間象山を大変尊敬し、憧れを抱いていたので、象山に面会出来る期待から見合いを承知した。
旧上田藩主であった真田家が松代藩主なので両藩の間は交流があり、佐久間は少年時に上田の毘沙門堂の活紋禅師に教えを受けるために通った。藩を超える縁組に支障はなく、小三郎は松代へ出向いて白川たかと見合いを行い、その時憧れの佐久間象山と会うことが出来た。
佐久間象山
象山は勝からも小三郎のことは知らされていたので、二人は意気投合し、お互いに所有する蘭書を貸し借りした。しかし二人が会ったのはこの一回のみで終わった。翌年の元治元年(1864)幕府の命で京都に上った象山は、木屋町で過激派攘夷浪士河上彦斉に暗殺されて生涯を終えた。
1-8 英語学習
元治元年(1864)9月、幕府の発した第一次長州征伐令に上田藩は江戸警備を命じられた。小三郎も出陣し、大砲方兼武器調達係に任命された。
同藩の御馬役小倉門弥が神奈川宿の英国公使館付アフリン騎兵大尉から西洋馬術を学んでいたので、小三郎は自著の蘭語翻訳書「選馬説」を小倉に読んでもらい、英語を直接アフリンから習うため紹介状を書いて貰った。これからは英語が新知識吸収のために絶対に必要であると考えたからである。小三郎は江戸から神奈川宿まで約七里(28km)の道程を7回通い、英語と騎兵操典を学んだ。
一度帰藩を命じられたが、職務の武器調達を名目に江戸へ戻り、再びアフリンのもとに足を運んだ。この時アフリンから英書の「騎兵操典」を6日間だけ借り受け、蘭英辞書を片手に懸命に読破した。返却した時アフリンから内容について数箇所の質問が出されたが、小三郎は全てを完全に返答してアフリンを驚かせ、小三郎を語学の天才と賞賛したと伝えられる。
第一次長州征伐が中止となり、上田藩は江戸警備を解かれ帰還することになったが、小三郎は職務の武器調達と砲術習得と名目をつけ、再度江戸へ出て、アフリンから英語の学習を続けた。
1-9 「英国歩兵練法」翻訳、出版
「英国歩兵練法」
江戸にて砲術習得のため入塾を予定していた応懲館主下曽根金三郎から、英語で書かれた歩兵訓練、銃隊調練の五編八冊の翻訳を依頼された。訳文の題名が「英国歩兵練法」と命名された。
第二次長州征伐が発せられて上田藩は大阪行きを命じられ、同行した小三郎は寸暇を惜しんで翻訳を続けた。下曽根の弟子で英語に堪能な加賀藩の浅津富之介が第二編、第三編の翻訳を担当し、小三郎が第一編、第四編、第五篇を担当して共同で翻訳が完成し、漸く出版に漕ぎつけた。
1-10 京都で英国式兵学塾開く、上田藩主に藩政改革口上書提出
第二次長州征伐は薩摩藩が反対して出兵せず、幕府軍は各地で戦闘に敗れ、将軍家茂の急死で中止となった。小三郎は大阪より上田へ帰還したが直ぐに江戸へ発った。かねてより希望していた英国式兵学塾を京都で開くため、下曽根の推薦状を貰うためであった。この間実父芦田勘兵衛の病状が悪化し、危篤の報が寄せられたので上田へ戻り、留守であった実兄柔太郎に代わって葬儀を仕切った。
京へ上った小三郎は上田藩邸(現在京都市中央立図書館の地)を訪ね、開塾願いを提出して協力を願い出た。留守居役の協力を得て、二条城に近い二条衣棚に空き家を借り、「英国式兵学塾赤松小三郎天雲塾」の看板を掲げて開塾した。一説では河原町とも伝えれる。
小三郎は薩摩、会津、福井、土佐、水戸の藩邸を訪ね、自著の「英国歩兵錬法」を贈呈し、開塾の挨拶と勧誘を行った。各藩とも興味を抱き、とくに熱心な薩摩藩と福井藩は直ちに藩士を入塾させた。大垣、肥後、会津の各藩からも入門者があったが、上田藩の反応は鈍く、藩主松平忠礼は理解せずに冷淡で、入門者は一人もなかった。
そこで上田藩の閉鎖的体質を憂えた小三郎は、人材の登用、西洋の政治、兵学の習得、西洋式軍備の必要性を口上書として藩主に直接訴えた。しかし家老は小三郎の猟官運動と見なして黙殺したのか返書はなかった。
1-11 京都薩摩藩邸で英国式兵学を教授
慶応2年(1866)3月薩摩藩より使いが来て、天雲塾を薩摩藩邸内(現在の同志社大学)に移し、薩摩藩士を優先して教育する話が持ち込まれた。生麦事件に発する薩英戦争で英国海軍の力を見せつけられ、海軍力の増強を急務と考えた薩摩藩が赤松小三郎の英国式兵学に注目し、英語及び英国海軍の知識を若い藩士に習得させようと考えた。同時に「英国歩兵錬法」の最新改定版の出版を援助する提案をしてきた。この提案に小三郎は心を動かされ、上田藩の許可を得て承諾した。この時、表面では薩摩藩は親幕府で会津藩と協力して長州藩と対峙していたが、裏では薩長同盟に動いていて、武力での討幕を計画し、そのためにも小三郎の最新兵学知識を必要としていた。
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薩摩藩邸跡(左)・同志社大学正門(右)
薩摩藩邸内の塾には他藩の希望者の入塾も認められ、薩摩藩士約50名のほか、福井藩士數名、大垣藩士等が入塾した。授業科目は英国式兵学(歩兵、騎兵、射撃)西洋戦史、航海術、算術等があり、課外授業として英語の初歩、公武合体による政治改革などがあり講義された。薩摩藩塾生には桐野利秋を筆頭に村田、篠原、伊東、東郷、上村、野津等の有望な若手藩士が含まれ、西南戦争で戦死した桐野、村田、篠原を除き、明治時代の海軍、陸軍のリーダーとして育っていった。
1-12 会津藩で銃隊調練稽古、幕府の開成所教官要請を上田藩が拒む
慶応2年(1866)11月京都守護職会津藩が小三郎の英国式兵学に興味を示し、銃隊調練稽古を依頼する使いがやって来た。公武合体を主導し、京都守護職として権力のある会津藩に接触する機会を待っていた小三郎は喜んで承諾した。会津藩は小三郎の兵学に勿論興味はあったが、最近不穏な動きを示していた薩摩藩の動向を、小三郎を通して探り出す狙いもあったと思われる。
この時、幕府から上田藩に対し赤松小三郎の開成所教官就任の要請があり、上田藩は本人の意向は聞かず、小三郎は上田藩の兵制改革に必要な人材であるとの理由で断った。これを後から知らされた小三郎は、先年藩主に提出した口上書に対する返書もなく無視し、幕府直属の学問所開成所教官、幕臣への昇進を一方的に閉ざした上田藩に不信感を抱いた。そして藩の帰国命令に反して痔疾と仮病を使って延期し、京に滞在した。
1-13 「建白七策」を松平春嶽、島津久光、幕府へ提出、薩摩藩と幕府の融和模索
慶応3年(1867)5月、旧態依然たる幕府の政治体制、教育制度等を改める目的で「建白七策」を執筆し、福井藩主松平春嶽に提出した。春嶽が小三郎の率直な意見を聞きたくて要望したものである。この「建白七策」は同時に薩摩藩国父島津久光と幕府へも提出された。
公武合体を念頭に置き、天皇を頂点とする統一した近代国家像を画いたもので、上下二局の議会政治を主張し、教育制度の充実、公正な税負担、貨幣の統一、国防軍の充実、産業改革等を唱えた建白書で、七箇条、三千字を超える卓抜な堂々たる論文であった。
赤松小三郎は公武合体の主張を実現するために、京都町奉行永井尚志(元長崎海軍伝習所長、後に大目付、若年寄)が元上司であったことから積極的に接近し、梅沢孫太郎(将軍後見役一橋慶喜の近臣)とも連絡をとり、薩摩藩の西郷隆盛との仲介に奔走した。これが武力討幕に舵をきった薩摩藩には小三郎が幕府の手先、スパイと疑われ、藩の軍事機密を幕府に通報される恐れから暗殺に至ったと推定される。
1-14 赤松小三郎暗殺、三条大橋に斬奸状
暗殺現場(左)・受勲記念碑(右)
再三の帰国命令を無視して延期してきた小三郎は、「建白七策」を書き上げて提出したので帰国を決意した。慶応3年(1867)9月3日、帰国準備で多忙な中、東洞院通り五条下ル和泉町で刺客に襲われて絶命した(この地には昭和17年、京都信濃会によって受勲記念碑が建てられた)。京を離れる予定の前日のことで、塾生による送別会が行われた直後のことであった。そして三条大橋のたもとに赤松小三郎を糾弾する「斬奸状」が張り出され、西洋を第一とし皇国をないがしろにしたので天誅を加えるとの内容であった。しかし後年にこれら全てが薩摩藩による偽装工作であったことが暴かれていった。
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斬奸状(左)・三条大橋(右)
1-15 葬儀と墓建立
薩摩藩は小三郎が「緑林の害」(強盗)に遭遇したと上田藩に通報し、亡骸を金戒光明寺に運び入れた。上田藩へ引き渡されたのは遺髪と身の回りの物32点と書物65冊だけであった。京都守護職会津藩が駐在する金戒光明寺での葬儀は他藩士とは思えない異例の盛大な規模で行われ、薩摩藩は大切な学問の師を失ったのを悲しむことを会津藩の目前で示した。遺族には薩摩藩から百両の弔慰金が送られた。遺骸はこの寺に埋葬され、塾生の名で寄付が集められて立派な墓が建立された。会津藩に故意に見せつけ、欺いたのであった。「禁門の変」までは薩摩藩は会津藩とは味方同士であったが、この事件の寸前に坂本竜馬の仲介により長州藩と手を組み、密かに薩長同盟が成立していた。
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金戒光明寺(左)・旧墓石(中)・新墓石(右)
1-16 遺髪赤松家墓へ埋葬、赤松家断絶
薩摩藩から京の上田藩に引き渡された遺髪と遺品は上田の遺族のもとに送り届けられた。赤松家の菩提寺月窓寺で葬儀が行われ、遺髪のみが赤松家の墓に納められた。赤松小三郎、たか夫妻には子供がなかったので、藩の制度により赤松家は断絶となった。
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月窓寺本堂(左)・同唐門(中)・赤松小三郎墓(赤松家、旧)
2 「建白七策」の後世への影響
2-1「建白七策」と「船中八策」
「建白七策」
(1) 上下二局の議会政治
慶応3年(1867)5月17日赤松小三郎が福井藩主松平春嶽等に提出した「建白七策」は、「公武合体、諸藩一和」の新政権を基本理念としていた。天皇の下、内閣を総理、財政、外交、軍事、司法、税務の閣老で構成し、上下二局の議政局を設け、上局は諸侯、旗本から選挙によって30人を選び、下局は一般国民から130人が選挙で選ばれるものとした画期的な提案であった。「天皇によって許容されない箇条は議政局で再審議し、天皇に建白して、議政局より国中に布告すべし。」とまで主張し、民意の反映を重んじた議会政治を提唱した。
赤松小三郎が最も力を注いだのは、この上下二局の議会政治の項で、多くの文章を費やして具体的に精緻に論じている。
(2) 教育充実、大学、小学校の設立
教育改革を提言し、全国5ヶ所に国立大学を設け、平等に教育を受けさせることによって人材開発を行うことを主張した。
(3) 平等な税負担
藩政では農民のみに掛けられる税負担を四民(士農工商)平等にし、不公平感をなくすことを主張した。
(4) 国中の貨幣統一
各藩が独自に藩札を発行していたが、全国統一貨幣として外国との貿易に対処する国際経済の思想を展開した。
(5) 国防、陸、海軍の兵備充実
門地、身分を問わず農民でも兵として登用し、国直轄の軍隊を創設する。有事の際は男女を問わず皆兵として役立てる抜本的な改革を唱えた。これが後の国民皆兵、徴兵制とつながり、富国強兵思想となった。
(6) 産業改革、諸物製造局の造営
各藩によってばらばらな産業形態を統一して、組織的な産業立国の思想を打ち出している。
(7) 食生活と栄養の改善、養殖と肉食
軍備強化にはそれに伴う国民の体格を造り上げることが必要で、日常の食生活を改善することにより向上を目指すことを提案した。
「船中八策」
坂本龍馬
坂本龍馬の「船中八策」は同年6月、長崎より上洛の途中の船中で考案されたと云われ、土佐藩主山内容堂に大政奉還を進言するために、家老の後藤象二郎に対し口頭で提案し、それを海援隊士長岡謙吉が記述し成文化してものと云われる。
(1) 大政奉還
(2) 上下両院による議会政治
(3) 人材の登用
(4) 不平等条約の改定
(5) 憲法制定
(6) 海軍力の増強
(7) 御親兵(天皇直属)の設置
(8) 金銀交換レートの変更
(2)(3)(6)(7)(8)は大筋では赤松の「建白七策」とほぼ同じである。
(1)大政奉還
最も重要な項目で、実際にこの年10月、山内容堂が将軍徳川慶喜に働きかけて実現している。
(4)不平等条約の改定
(5)憲法制定
斬新な提言で、赤松の七策には見られない。
(8)金銀交換レートの変更
坂本の八策の中で二番目に重要で、坂本が最も力を注ぎ、後世に影響を及ぼした。外国貿易を円滑にするために国内通貨を統一し、外国通貨との交換レートを一定にすることが重要であると唱えた。坂本は亀山社中の貿易を通してこのことを実感していたので、松平春嶽の近臣で、福井藩の財政を藩札発行と専売制を結合した政策で健全化した三岡八郎(由利公正)と知り合い、熱心に意見交換を行った。そ
して大政奉還が実現した時、後藤象二郎に手紙を書き、三岡を新政府の財政責任者に推薦して実現させた。
「船中八策」は、坂本が福井藩に仕えていた横井小楠とその弟子であった三岡から松平春嶽に提出された赤松小三郎の建白書を知り、自分の考えをまとめてスローガン化したもので、一説では後年になって土佐藩士が坂本を偶像化するために書かれたとも云われる。
2-2「五箇条の御誓文」への影響
坂本龍馬の提言を受けた後藤象二郎は藩主山内容堂を動かし、松平春嶽と共に将軍徳川慶喜へ働きかけ、大政奉還が実現した。新政府の最高指導者となった岩倉具視は政務の運営で幕府の政事総裁職を務めた松平春嶽の協力を必要とした。
通貨の統一を急務と考えた岩倉は松平春嶽と山内容堂の推薦する三岡八郎(由利公正)を財政の責任者に任命した。三岡は福井藩での経験から、国が統一して「太政官札」を発行するには、その裏付けとなる国民の新政府への信頼を得るために、国家としての理念を定める「五箇条の御誓文」の設定と公布を提言した。
岩倉の認可で三岡が原案を書いた。これを土佐藩士福岡孝弟が修正し、最後に維新の立役者長州藩桂小五郎(木戸孝允)が加筆して完成した。
由利公正「議事の体大意」(「五箇の条御誓文」草案)
由利公正
(1) 庶民からの人材登用
(2) 全国民の政治参画
(3) 新知識を世界から習得
(4) 人材の交代による活性化
(5) 万機公論に決し、私に論ぜず
「五箇条の御誓文」成文(福岡孝弟修正、木戸孝允加筆)
(1)広く会議を興し、万機公論に決す
(2)上下心を一にして、盛んに経綸を行うべし
(3)官武一途庶民に到るまで各其志を遂げ、人身をして倦まざらしめん事を要す
(4)日本の陋習を破り、天地の公道に基くべし
(5)知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし
三岡の原案には赤松の建白七策の思想が色濃く反映されていた。最終の「五箇条の御誓文」の(1)と(2)は赤松の提唱した二局の議会政治を意味している。(3)は人材の登用(5)は教育重視を宣言している。従って赤松の提言と思想は「五箇条の御誓文」の骨子となって生かされている。
2-3 大日本帝国憲法、日本国憲法への影響
(1) 大日本帝国憲法
明治22年(1889)2月11日に発布され、その第三章帝国議会の項に二院制が明記されている。
衆議院 : 国民の選挙により選出された議員
貴族院 : 皇族,華族と勅任された議員
両院は対等の権限を有するが、法律案、予算案の審議権にとどまる。通過した法案は枢密院の諮詢を経て天皇の裁定に任される。
議会の招集、停会、解散権は天皇に属している。
(2) 日本国憲法
終戦後の昭和21年(1946)11月3日に発布された。
第四章 国会 の項に二院制が明記されている。
国会は国権の最高機関で唯一の立法機関である。
衆議院、参議院は全国民を代表する選挙された議員で組織する。
以上の様に明治維新後の近代国家となった日本では、議員内閣制、二院制を採用しており、赤松小三郎の「建白七策」の精神が脈々と受け継がれている。
3 海軍三提督の墓参
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/0e/243a190dff5d42500afc73a2fc0b7d5f.jpg)
伊東元帥(左)・東郷大将(中)・上村彦之丞中将(右)
明治39年(1906)5月、日本海海戦に勝利した1年後、伊東元帥(海軍軍令部長)東郷大将(連合艦隊司令長官)・上村彦之丞中将(第二艦隊司令長官)の海軍3提督が上田町を訪れた。恩師赤松の墓参が目的で、東郷が伊東、上村を誘って来訪し、墓前で日本海海戦の勝利を報告したと報じられた。恩師により海外情勢に目を開かれ、海軍の初歩の知識を授けられたことを深く感謝していたことが動機となったと思われる。
しかし今にして思えば、3提督は薩摩藩が恩師を暗殺したことを知っていて、勝利の報告よりも贖罪の気持ちで墓参したと考えられ、前夜の歓迎晩餐会の席で、東郷はどこか沈痛な表情を示していたと伝えられる。
赤松の遺体は金戒光明寺に葬られたが、遺品と共に毛髪が上田藩に送り返され、赤松家の菩提寺月窓寺の墓に納められた。当時の新聞記事や上田郷友会の記録によると、晩餐会の席上で初めて恩師赤松の墓が上田町にあることを知らされたとあるが、軍の御用商人であった飯島(飯島みすず飴商会)が情報を集め、自宅を宿に提供して墓参と歓迎会もお膳立てしたものであろう。
翌日、三提督は墓参を済ませて信濃国分寺を訪問し、千曲川で川下りの舟遊びを楽しみ、翌々日に予定されていた善光寺の日露戦役戦死者追弔法会に出席するために長野市へ向った。
4 赤松家再興
赤松小三郎、たか夫妻には子供がなく、藩制度により赤松家は断絶となった。明治維新後に新家族制度となり、明治29年(1896)9月3日赤松小三郎30年忌に当たり、芦田新(あゆむ)(姉くにの娘かねの次男)を小三郎、たか夫妻の養子として迎い入れ、赤松家が再興された。赤松新(母校4期)は千葉医専を卒業して医師となり、軍医を経験して後上田市へ戻り、原町裏通りで開業した。新の妻光子も医師で、耳鼻咽喉科の女医として赤松医院で診察した。私が小学5年生の時中耳炎で診察して頂いたのがこの女医さんであった。翌日から一泊二日の学校行事「根子岳登山」へ参加する予定であったが、女医さんは診察するなり「明日の遠足はやめなさい。」ときっぱりと宣言され、私は泣く泣く諦めた。その後菅平高原、麓の真田町にはスキー、ハイキング、探訪等で何回も訪れたが、根子岳へ登る機会はなかった。後年勤めの関係でスイスへ出張する機会が多く、アルプス三山(ユングフラウ/アイガー、マッターホルン、モンブラン)を探訪する機会に恵まれた。しかし少年期に根子岳登山の機会を逸したことは今でも大変心残りに思っている。
赤松新は昭和12年―13年母校の校医を務め、戦後の昭和23年、新教育制度で発足した上田市二中で校医を務めた。戦後何年か経て赤松医院の名前を聞かなくなったが、新、光子夫妻の子供が医院を継がず、閉院となったと思われ、子孫は現在も千葉県に居住している。
赤松新の兄芦田閑(しずか)(母校5期)は慈恵医専を卒業し、丸堀町で医院を開業した。二人の父芦田諧(かのう)の旧姓は桜井で、東大医学部卒後に芦田くにと結婚して芦田家の婿養子となった。東大時代から上田市出身の山極勝三郎と友人で、その縁で芦田家へ入ったのかも知れない。軍医を務めたと云われる。
芦田閑の娘すず子は兎束龍夫(母校23期)に嫁いだ。兎束龍夫は音楽家を目指し、東京音楽学校(現東京芸大)を卒業して母校のヴァイオリン科主任教授となった。兎束龍夫の兄が母校で長年(昭和18年ー35年)音楽教諭を務めた兎束武雄先生である。赤松家、芦田家、兎束家は何れも出石藩以来の松平家家臣なので、養子縁組や婚姻が比較的容易に行われたと思われる。
5 赤松小三郎受勲と記念碑建立
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赤松小三郎受勲記念碑(左)・同裏(右)
上田城跡公園内の駐車場を出て直ぐ、上田招魂社横に大きな石碑が見える。「贈従五位赤松小三郎君之碑」と書かれ、東郷平八郎揮毫となっている。
大正13年(1924)赤松小三郎は宮内省より従五位を贈られた。これを記念して上田史談会が中心となって寄付金を集め、上田公園内に記念碑を建立することとなった。そこで日本海海戦の英雄東郷平八郎に揮毫を依頼し、その書を石材に刻んで記念碑とし、東郷の死後8年、昭和17年(1942)5月に漸く建立されたのである。東郷は赤松の門下生の一人で、同じく教えを受けた伊東裕亨、上村彦之丞と一緒に日本海海戦の翌年明治39年5月に上田市を訪れ、月窓寺の赤松家墓(赤松小三郎の遺髪が埋葬)を参詣している。
この時は未だ薩摩藩が赤松を暗殺したことは判明しておらず、裏面の書には一部誤りがあり、暗殺者桐野利秋が門下生の筆頭に名を連ねている。記念碑建立発起人は上田史談会となっていて、当時母校教諭であった十亀先生も名を連ねている。上田史談会としては赤松に教えを受けた全ての薩摩藩士を身分の順番に記載したもので、後年になって判明した暗殺者桐野利秋が筆頭に刻まれる誤りを犯すことになった。この矛盾にいち早く気が付き指摘した人達(信大の太田教授等)の要望に応え、上田市教育委員会は記念碑の横に裏面の記述の誤りを認め、桐野等による暗殺を明示する掲示板を設置している。
赤松への叙勲も帝国陸軍、海軍への功労を意図的に取り上げ、軍国主義思想を高揚する目的で薩摩藩出身の海軍首脳が推薦したものと思われる。
赤松の受勲を記念して、生家の木町から紺屋町へ通ずる通りが赤松町と命名された。京都信濃会は暗殺現場、東洞院通り五条下ル和泉町に記念碑を建て、墓のある金戒光明寺の塔頭善教院の前にも記念碑を設置し、信濃教育会と共催で75年忌法要を金戒光明寺で営んだ。
6 戦後の赤松小三郎再評価運動
6-1 桐野利秋の日記発見
赤松の死後100年を経た昭和42年(1967)、桐野利秋(中村半次郎)の日記が発見され、事件の真相が明らかとなった。直接の命令者は明記されていなかったが、藩命により師の命を奪ったことが生々しく書かれていた。当時の薩摩藩の事情から、命令者は西郷隆盛に間違いなく、武力による倒幕を密かに画策していた薩摩藩にとって、藩の軍事機密を知り過ぎた赤松は危険な存在となっており、徳川幕府親藩の上田藩へ帰すのを阻止したものと思われる。示現流の達人で人斬り半次郎と恐れられ、師の顔を良く知り、道順、時間までよく知った桐野利秋等に襲われたので、赤松は護身用の短筒で応戦しようとしたが逃れる術はなかった。桐野以下8人の薩摩藩士が実名で記され、暗殺計画を立てて実行に移した様子が生々しく記述されていた。
6-2 赤松小三郎顕彰会(上田市)発足
平成15年(2003)上田高校51期同窓生を中心に「赤松小三郎顕彰会」(会長伊東邦夫氏)が発足し、資料の発掘、検証を行っている。述の丸山瑛一氏、久保忠夫氏(信州ハム社長)が中心となって活動を始めた。現在は林和男氏が会長を務めている。
6-3 赤松小三郎生誕祭
法被姿の伊東会長(東信ジャーナル)
平成20年(2008)4月4日第1回「赤松小三郎生誕祭」が顕彰会の人々が中心となって立ち上げられた。「上田城千本桜まつり」が5日から開かれるので、この行事を連結して祭りを盛り上げ、観光都市上田市をアピールしようとしたものである。 伊東会長が作詞した曲「彗星赤松小三郎」が披露され、紙芝居の上演、法被姿でのぼりを立てての行進等で盛り上がった。その後毎年この行事は多くの人々が参加して継続されている。
6-4 赤松小三郎研究会(東京)発足
平成23年(2011)東京の上田高校同窓会を中心に「赤松小三郎研究会」が結成され、隔月1回、会員以外の一般の人も参加して講演会等を開催し、活発な活動を行っている。会長は丸山瑛一氏が務めている。
6-5 上田郷友会報で海軍三提督の墓参記事再発見
上田郷友会は明治11年(1878)山極勝三郎と勝俣英吉郎が呼びかけて上田出身の医学生の会、上田医学生会を立ち上げたのが前身で、明治16年(1883)に他学科生を含めて上田郷友会が発足した。会報は明治18年(1885)に創刊され、以来137年の歴史1500号以上の版を重ねてきた。
偶然にも上記と同年の平成23年(2011)上田市の同窓生宅で、上田郷友会報第235号(明治39年(1896)5月号)に海軍三提督の上田来訪と赤松小三郎墓参の記事が詳しく記載されていたのが再発見された。そしてそのコピーが上田郷友会事務局へ送られ、後の例会で赤松小三郎の業績を再評価しようと論議された。
一方、上田郷友会上田部会でも同年「赤松小三郎物語」の著者片桐京介氏を講師に招いて講演会を開催した。
6-6 赤松小三郎記念館建立(上田市)
赤松小三郎記念館入場券と直筆サイン(左)・旧墓石(金戒光明寺より移転)(右)
旧墓石裏面の拓本(最後から5行目に「緑林の害」の文字)(右)
平成24年(2012)3月、上田市常盤城の旧丸山邸の土蔵1棟が提供され、「赤松小三郎記念館」が開館した。直前に母屋の火事騒ぎがあり、開館の遅れが心配されたが、漸く予定期日に間に合って発足した。平成23年(2011)赤松の墓がある京都の金戒光明寺より、144年を経た墓石が風化し、損傷が激しいので新装することを赤松小三郎顕彰会に提案された。顕彰会は直ちに寄付を募り、新しい墓石を造ることを決定した。この活動の中心になったのは、上田高校51期の伊藤邦夫氏、丸山瑛一氏、44期の久保忠夫氏等であった。
そして新墓石を造成し、京都へ送って金戒光明寺に安置すると同時に、旧墓石を故郷の上田市へ持ち帰り、記念館を創立して展示することが検討され、実行に移された。丸山氏の所有する旧宅の一隅にある土蔵が提供され、改装されて記念館となり、この旧墓石を展示品の中心の据え、赤松が提案した「建白七策」の複製品等が展示されることになった。
旧墓石の裏面には、赤松の経歴、功績を讃え、教えを受けた門下生一同が恩義に報いるために墓を建てたと記されている。その文中に「緑林之害」の文字があり、赤松が路上で強盗の被害を被って死去したと書かれている。この「緑林之害」の四文字は、明治維新前の薩摩藩の複雑な動き、謀略と欺瞞を告発する歴史の証人となっている。金戒光明寺に建てられた新墓石の裏面にも「緑林之害」の四文字は踏襲して刻まれている。
また「建白七策」は3通作られ、福井藩主松平春嶽、薩摩藩国父島津久光、徳川幕府へと提出されたが、原本が残されているのは島津久光宛の1通だけで鹿児島の黎明館に残されており、その複製品がこの記念館を飾ることになった。館長には赤松小三郎顕彰会会長の伊藤邦夫氏が就任した。
当主丸山瑛一氏の先祖は代々上田藩の御用達材木商であった。明治初年廃藩置県令の発令された時、上田城が民間に払い下げとなった。時の当主丸山平八郎は城の解体と散逸に心を痛め、本丸と西楼、城の土地全てを買い取って保存し、石垣の一部は自宅に持ち込んで利用した。他の建物は離散し、一部は遊郭の建物となったと云われる。
明治12年(1879)旧松平上田藩士から旧藩主を祀る「松平神社」を建立したいとの申し出があり、丸山平八郎は快諾し、本丸の半分の土地を松平神社に提供し、西楼を含む半分の土地を松平家へ寄付した。更に明治18年(1885)残り全ての土地を公園、遊園地にする約束で上田町に寄贈した。幕末に姫路城を戦火から救った神戸の豪商北風荘右衛門と全く同様な事を実行した篤志家が信州、上田にも存在したことは誇らしい事である。その末裔が赤松小三郎再評価の運動の中心人物の一人となっているのも偶然ではない。
6-7 有名雑誌に掲載(文芸春秋、週刊朝日)
「文芸春秋」平成26年(2014)6月号に宮原安春氏(ノンフィクション作家)が“「船中八策」に先んじた男“と題して赤松小三郎の業績を紹介し、特に議会政治の二院制を提唱したことを説明している。
「週刊朝日」平成27年(2015)11月16日号ではNHKテレビの大河ドラマ“真田丸”が放映されていたこともあり、「坂本龍馬より時代に先駆けた男、赤松小三郎暗殺の真相」の表題で宮原氏が写真入り2頁で記述している。
6-8 上田市立博物館で特別展開催、常設コーナー設置
平成29年(2017)10月7日から11月26日まで上田城跡公園内の上田市立博物館で特別展「赤松小三郎 ― 幕末の先覚者」が開催された。博物館所有の赤松小三郎ゆかりの資料、記念物を整理して公開した展覧会である。
(翻訳者パネル、兵学者パネル、天幕合体パネル、知探求パネル、遺髪の墓画像)
50日間の開催中、NHKテレビの「真田丸」放映の影響もあり、約15,000人の観客が訪れた。特別展終了後は館内に常設コーナーを設置して資料を公開している。
6-9 赤松小三郎記念館の上田城跡公園内へ移転
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移転した赤松小三郎記念館(左)・赤松小三郎顕彰会事務所(右)
上記の展覧会を機に常盤城の旧丸山邸から上田城跡公園内の上田招魂社の一隅に記念館が移転された。地理的な不便さもあったので、一般観光客が訪れ易い上田城跡公園に関連施設を集約するためであった。
運営:赤松小三郎研究会(会長 林和男氏)電話:02638-22-8503
開館:土曜、日曜、祝日 11:00 - 16:00
料金:無料
開館日以外でも林会長様に事前に連絡すると、開館して頂けます。
*おわりに
本文の作成に当たり、資料、情報を提供して下さいました林和男様(赤松小三郎顕彰会会長)、滝澤正幸様(上田市立博物館館長)、小山平六様(赤松小三郎研究会事務局)、田原敬様(上田郷友会事務局)に厚く御礼申し上げます。
参考書:
「赤松小三郎物語」 片桐 京介著
「信州奇人考」 井出 孫六著
「会津藩VS薩摩藩」 星 亮一著
「王政復古」 井上 勲著
「幕末歴史散歩」(京阪神篇) 一坂 太郎著
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「赤松小三郎―議会政治の提唱者」
令和2年(2020)2月15日 48期 関口貞雄
関 口 貞 雄 (上田高校48期)
* はじめに
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/91/32a3ddf8cc249f39bf977d8d3e18ad70.jpg)
上田市出身の幕末の先覚者赤松小三郎は、近年日本初の英国式兵学者、議会政治提唱者として再評価されている。地元の上田市では「赤松小三郎顕彰会」が発足し、「赤松小三郎生誕祭」が毎年開催され、「赤松小三郎記念館」が設立された。東京では「赤松小三郎研究会」が結成されて事務局が設置され、例会を開催して新たな資料、情報を発掘して共有している。
平成29年(2017)10月上田城跡公園内の上田市立博物館で特別展「赤松小三郎―幕末の先覚者」が開催された。この機会を利用して、上田市常盤城にあった「赤松小三郎記念館」が公園内の上田招魂社境内に移転された。特別展終了後上田市立博物館内に「赤松小三郎コーナー」が常設されたので、従来から公園内に存在する「赤松小三郎記念碑」を含め、赤松小三郎関連施設が公園内に集結することとなった。
上田市で生まれ育った赤松小三郎は藩校明倫館で学び、江戸へ出て内田塾で学んだ後勝海舟の学問塾へ入門した。この縁で師と共に長崎海軍伝習所で最先端の技術教育を受けた。後に江戸へ出て、横浜の英国公使館付き軍人アフリン大尉から英語を学んだ。しかし赤松の活躍した舞台は京都で、「英国式兵学塾」を開き、「建白七策」を書いて福井藩主松平春嶽へ提出し、薩摩藩で英国式兵学を教授し、会津藩に銃隊調練稽古を行ったのも京都で、最後に暗殺されたのも京都であった。従って関西にある京都には赤松小三郎関連の場所が集中しているので、これらを訪ね、郷土の偉人、幕末の先覚者の足跡をたどって見ようと思う。
私にとって赤松小三郎は幼少時より身近な存在であった。私の実家の菩提寺は曹洞宗「月窓寺」で、常田隆永(真田昌幸の弟、幸村の叔父)が創立し、第一次上田合戦(神川合戦)で焼失したが、真田幸村が現在の場所(旧鍛冶町)に再建した名刹である。この寺の墓地に赤松家の墓所があり、京都で暗殺された赤松小三郎の遺髪が持ち帰られ葬られている。従って赤松小三郎の名前は幼少時より父母から聞いて知っていた。
昭和17年(1942)に上田城跡公園内に建立された「赤松小三郎記念碑」については小学校で先生から学んだ記憶がある。私が小学校5年生の時中耳炎を患い、その時診察して頂いたのが女医の赤松先生(後記)であったことも鮮明に覚えている。
数年前、京都の「真如堂」へ紅葉見物に出かけた時、ついでに隣接する「金戒光明寺」を訪れた。この時偶然にも寺務所で赤松小三郎の墓が更新されることを知った。そして上田市の有志が旧墓石を故郷に運び、記念館を建立する計画があることも判った。それから数ヶ月後、新墓石が設置された金戒光明寺を再度訪れ、翌年春に上田市へ帰省した時、旧墓石が安置されて開館した「赤松小三郎記念館」を訪れることになった。
以上の様に、私にとって赤松小三郎は何かと不思議な縁があり、興味深い存在である。
1 赤松小三郎の生涯
1-1 出生と英才教育
赤松小三郎は天保2年(1831)4月4日上田藩士芦田勘兵衛、志賀夫妻の二男として上田市木町で出生した。幼名は清次郎、兄柔太郎、姉くにの三人兄弟であった。父勘兵衛は十石三人扶持の下級藩士で、藩校明倫館堂の句読師(教官)を務めていた。清次郎は9歳で叔父(父の義弟)植村半兵衛の私塾で算術(そろばん)を習った。植村は藩の帳元(会計)を務め、清次郎は幼くして英才教育を受ける環境に育った。12歳で藩校に入学し、文学校の明倫堂では儒学、武学校では槍術と剣術を学んだ。この時叔父八木剛介が江戸で砲術を学んで帰藩したので、清次郎は砲術の手ほどきを受けて興味が湧き、砲術の勉強には算術が必須であることを知った。毘沙門堂の活文禅師にも度々教えを受けたと云われる。
1-2 江戸へ遊学
嘉永元年(1848)清次郎17歳の時、修学のために江戸へ発った。内田五観(いつみ)塾へ入塾したが、幾何学、力学、弾道学、航海術、造船術、天文学、地理学等を初歩から学ぶには蘭語の習得が先ず不可欠であることを教えられ、蘭語の勉強に集中して努力し、師にその才能を認められた。
師の内田は尚歯会を通じて高野長英、渡辺崋山と親しく、高野長英が小伝馬町の牢屋の火災の折、牢屋へ戻る条件で釈放されたにも拘らず戻らずに逃走した時、物心両面で支えたのが内田であった。高野が逃走先の宇和島から戻り、変名で江戸市中に潜伏中、捕らえられる時に自害した事件は清次郎に大きな衝撃と影響を与えた。
黒船が浦賀へ来航して世情は騒然となったが、蘭語の書物を通じて船の性能、装備等を知っていた清次郎は左程驚かなく、遂に来たかと思った。
1-3 赤松家へ養子入り
江戸遊学から上田へ戻った清次郎は父の同輩赤松弘の養子となり、赤松小三郎を名乗った。養父は十石三人扶持の徒士で、養母きぬは後妻で小諸の商家の出であった。赤松小三郎は上田藩の数学助教兼操練世話役となった。
1-4 勝麟太郎の永解塾へ入塾
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安政2年(1855)江戸へ出た小三郎は師内田五観の紹介で勝麟太郎の氷解塾へ入塾した。少禄の赤松家は学費が払えず、勝家に寄宿して家事を手伝うことで授業料を免除してもらった。数学と蘭語に優れた小三郎は頭角を現し、師に認められた。
1-5 長崎海軍伝習所へ勝の従者として入所
同年、勝が幕府の開いた長崎海軍伝習所で勉強する学生長に任命され、小三郎は勝の従者に選ばれ、員外聴講生として入所する機会が到来した。勝は小三郎の蘭語の能力を高く評価していたので、共に学びながら自分を補佐してくれることを期待した。上田藩は小三郎を藩士(組付徒士)として俸禄二人扶持を与えた。
安政2年(1855 )9月品川から軍艦昇平丸に勝以下伝習生113名(各藩派遣の正規伝習生と員外聴講生)が乗船し、長崎へ航海した。長崎ではオランダ船スンピン号船長ライケン大尉を団長として22名の乗組員で教師団が形成された。必修科目は数学と蘭語で、専門科目は航海術、造船術、砲術、蒸気機関、天測等であった。
約1年半の伝修期間終了後、安政4年(1857)3月小三郎は第一期卒業生と共にスンピン号で江戸へ戻った。
1-6 オランダ兵法書翻訳、咸臨丸渡米乗組員に選抜されず
江戸で滞在中、オランダの兵法書「新銃射放論」(オランダ水陸軍練兵学校教科書)を翻訳して「矢ごろのかね(小銃教練)」を自費出版した。この本の出版で小三郎は洋式兵学者として認められるようになった。
万延元年(1860)幕府は咸臨丸をアメリカへ航海させることを決定した。艦長に勝が指名されたが、乗組員に選ばれたのは大藩から派遣された正規伝習生ばかりで、小三郎をはじめ員外聴講生からは一人も選抜されなかった。幕府の選抜基準は資格、地位優先で、能力本位ではなかった。小三郎は伝習所でも必修科目の数学、蘭語は優秀な成績であったので、当然自分は選ばれると自負していただけに落胆が大きかった。
1-7 松代藩士白川久左衛門娘たかと結婚、佐久間象山と面会
江戸より上田へ戻り上田藩の職務に専念し、数学測量世話係、西洋銃調練稽古世話係に任じられた。この間に和宮降嫁の途中警備を体験し、後年の公武合体の主張に繋がる。
この時、実父の友人が松代藩士白川久左衛門の娘たかとの縁談を持って来た。白川は吉田松陰密航未遂事件に連座して松代で蟄居中の佐久間象山と親交があり、小三郎が勝の弟子で、長崎伝習所で共に学んだことを高く評価し、是非にと縁談を積極的に進めてきた。小三郎も勝の師で義兄弟の佐久間象山を大変尊敬し、憧れを抱いていたので、象山に面会出来る期待から見合いを承知した。
旧上田藩主であった真田家が松代藩主なので両藩の間は交流があり、佐久間は少年時に上田の毘沙門堂の活紋禅師に教えを受けるために通った。藩を超える縁組に支障はなく、小三郎は松代へ出向いて白川たかと見合いを行い、その時憧れの佐久間象山と会うことが出来た。
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象山は勝からも小三郎のことは知らされていたので、二人は意気投合し、お互いに所有する蘭書を貸し借りした。しかし二人が会ったのはこの一回のみで終わった。翌年の元治元年(1864)幕府の命で京都に上った象山は、木屋町で過激派攘夷浪士河上彦斉に暗殺されて生涯を終えた。
1-8 英語学習
元治元年(1864)9月、幕府の発した第一次長州征伐令に上田藩は江戸警備を命じられた。小三郎も出陣し、大砲方兼武器調達係に任命された。
同藩の御馬役小倉門弥が神奈川宿の英国公使館付アフリン騎兵大尉から西洋馬術を学んでいたので、小三郎は自著の蘭語翻訳書「選馬説」を小倉に読んでもらい、英語を直接アフリンから習うため紹介状を書いて貰った。これからは英語が新知識吸収のために絶対に必要であると考えたからである。小三郎は江戸から神奈川宿まで約七里(28km)の道程を7回通い、英語と騎兵操典を学んだ。
一度帰藩を命じられたが、職務の武器調達を名目に江戸へ戻り、再びアフリンのもとに足を運んだ。この時アフリンから英書の「騎兵操典」を6日間だけ借り受け、蘭英辞書を片手に懸命に読破した。返却した時アフリンから内容について数箇所の質問が出されたが、小三郎は全てを完全に返答してアフリンを驚かせ、小三郎を語学の天才と賞賛したと伝えられる。
第一次長州征伐が中止となり、上田藩は江戸警備を解かれ帰還することになったが、小三郎は職務の武器調達と砲術習得と名目をつけ、再度江戸へ出て、アフリンから英語の学習を続けた。
1-9 「英国歩兵練法」翻訳、出版
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江戸にて砲術習得のため入塾を予定していた応懲館主下曽根金三郎から、英語で書かれた歩兵訓練、銃隊調練の五編八冊の翻訳を依頼された。訳文の題名が「英国歩兵練法」と命名された。
第二次長州征伐が発せられて上田藩は大阪行きを命じられ、同行した小三郎は寸暇を惜しんで翻訳を続けた。下曽根の弟子で英語に堪能な加賀藩の浅津富之介が第二編、第三編の翻訳を担当し、小三郎が第一編、第四編、第五篇を担当して共同で翻訳が完成し、漸く出版に漕ぎつけた。
1-10 京都で英国式兵学塾開く、上田藩主に藩政改革口上書提出
第二次長州征伐は薩摩藩が反対して出兵せず、幕府軍は各地で戦闘に敗れ、将軍家茂の急死で中止となった。小三郎は大阪より上田へ帰還したが直ぐに江戸へ発った。かねてより希望していた英国式兵学塾を京都で開くため、下曽根の推薦状を貰うためであった。この間実父芦田勘兵衛の病状が悪化し、危篤の報が寄せられたので上田へ戻り、留守であった実兄柔太郎に代わって葬儀を仕切った。
京へ上った小三郎は上田藩邸(現在京都市中央立図書館の地)を訪ね、開塾願いを提出して協力を願い出た。留守居役の協力を得て、二条城に近い二条衣棚に空き家を借り、「英国式兵学塾赤松小三郎天雲塾」の看板を掲げて開塾した。一説では河原町とも伝えれる。
小三郎は薩摩、会津、福井、土佐、水戸の藩邸を訪ね、自著の「英国歩兵錬法」を贈呈し、開塾の挨拶と勧誘を行った。各藩とも興味を抱き、とくに熱心な薩摩藩と福井藩は直ちに藩士を入塾させた。大垣、肥後、会津の各藩からも入門者があったが、上田藩の反応は鈍く、藩主松平忠礼は理解せずに冷淡で、入門者は一人もなかった。
そこで上田藩の閉鎖的体質を憂えた小三郎は、人材の登用、西洋の政治、兵学の習得、西洋式軍備の必要性を口上書として藩主に直接訴えた。しかし家老は小三郎の猟官運動と見なして黙殺したのか返書はなかった。
1-11 京都薩摩藩邸で英国式兵学を教授
慶応2年(1866)3月薩摩藩より使いが来て、天雲塾を薩摩藩邸内(現在の同志社大学)に移し、薩摩藩士を優先して教育する話が持ち込まれた。生麦事件に発する薩英戦争で英国海軍の力を見せつけられ、海軍力の増強を急務と考えた薩摩藩が赤松小三郎の英国式兵学に注目し、英語及び英国海軍の知識を若い藩士に習得させようと考えた。同時に「英国歩兵錬法」の最新改定版の出版を援助する提案をしてきた。この提案に小三郎は心を動かされ、上田藩の許可を得て承諾した。この時、表面では薩摩藩は親幕府で会津藩と協力して長州藩と対峙していたが、裏では薩長同盟に動いていて、武力での討幕を計画し、そのためにも小三郎の最新兵学知識を必要としていた。
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薩摩藩邸跡(左)・同志社大学正門(右)
薩摩藩邸内の塾には他藩の希望者の入塾も認められ、薩摩藩士約50名のほか、福井藩士數名、大垣藩士等が入塾した。授業科目は英国式兵学(歩兵、騎兵、射撃)西洋戦史、航海術、算術等があり、課外授業として英語の初歩、公武合体による政治改革などがあり講義された。薩摩藩塾生には桐野利秋を筆頭に村田、篠原、伊東、東郷、上村、野津等の有望な若手藩士が含まれ、西南戦争で戦死した桐野、村田、篠原を除き、明治時代の海軍、陸軍のリーダーとして育っていった。
1-12 会津藩で銃隊調練稽古、幕府の開成所教官要請を上田藩が拒む
慶応2年(1866)11月京都守護職会津藩が小三郎の英国式兵学に興味を示し、銃隊調練稽古を依頼する使いがやって来た。公武合体を主導し、京都守護職として権力のある会津藩に接触する機会を待っていた小三郎は喜んで承諾した。会津藩は小三郎の兵学に勿論興味はあったが、最近不穏な動きを示していた薩摩藩の動向を、小三郎を通して探り出す狙いもあったと思われる。
この時、幕府から上田藩に対し赤松小三郎の開成所教官就任の要請があり、上田藩は本人の意向は聞かず、小三郎は上田藩の兵制改革に必要な人材であるとの理由で断った。これを後から知らされた小三郎は、先年藩主に提出した口上書に対する返書もなく無視し、幕府直属の学問所開成所教官、幕臣への昇進を一方的に閉ざした上田藩に不信感を抱いた。そして藩の帰国命令に反して痔疾と仮病を使って延期し、京に滞在した。
1-13 「建白七策」を松平春嶽、島津久光、幕府へ提出、薩摩藩と幕府の融和模索
慶応3年(1867)5月、旧態依然たる幕府の政治体制、教育制度等を改める目的で「建白七策」を執筆し、福井藩主松平春嶽に提出した。春嶽が小三郎の率直な意見を聞きたくて要望したものである。この「建白七策」は同時に薩摩藩国父島津久光と幕府へも提出された。
公武合体を念頭に置き、天皇を頂点とする統一した近代国家像を画いたもので、上下二局の議会政治を主張し、教育制度の充実、公正な税負担、貨幣の統一、国防軍の充実、産業改革等を唱えた建白書で、七箇条、三千字を超える卓抜な堂々たる論文であった。
赤松小三郎は公武合体の主張を実現するために、京都町奉行永井尚志(元長崎海軍伝習所長、後に大目付、若年寄)が元上司であったことから積極的に接近し、梅沢孫太郎(将軍後見役一橋慶喜の近臣)とも連絡をとり、薩摩藩の西郷隆盛との仲介に奔走した。これが武力討幕に舵をきった薩摩藩には小三郎が幕府の手先、スパイと疑われ、藩の軍事機密を幕府に通報される恐れから暗殺に至ったと推定される。
1-14 赤松小三郎暗殺、三条大橋に斬奸状
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暗殺現場(左)・受勲記念碑(右)
再三の帰国命令を無視して延期してきた小三郎は、「建白七策」を書き上げて提出したので帰国を決意した。慶応3年(1867)9月3日、帰国準備で多忙な中、東洞院通り五条下ル和泉町で刺客に襲われて絶命した(この地には昭和17年、京都信濃会によって受勲記念碑が建てられた)。京を離れる予定の前日のことで、塾生による送別会が行われた直後のことであった。そして三条大橋のたもとに赤松小三郎を糾弾する「斬奸状」が張り出され、西洋を第一とし皇国をないがしろにしたので天誅を加えるとの内容であった。しかし後年にこれら全てが薩摩藩による偽装工作であったことが暴かれていった。
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斬奸状(左)・三条大橋(右)
1-15 葬儀と墓建立
薩摩藩は小三郎が「緑林の害」(強盗)に遭遇したと上田藩に通報し、亡骸を金戒光明寺に運び入れた。上田藩へ引き渡されたのは遺髪と身の回りの物32点と書物65冊だけであった。京都守護職会津藩が駐在する金戒光明寺での葬儀は他藩士とは思えない異例の盛大な規模で行われ、薩摩藩は大切な学問の師を失ったのを悲しむことを会津藩の目前で示した。遺族には薩摩藩から百両の弔慰金が送られた。遺骸はこの寺に埋葬され、塾生の名で寄付が集められて立派な墓が建立された。会津藩に故意に見せつけ、欺いたのであった。「禁門の変」までは薩摩藩は会津藩とは味方同士であったが、この事件の寸前に坂本竜馬の仲介により長州藩と手を組み、密かに薩長同盟が成立していた。
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金戒光明寺(左)・旧墓石(中)・新墓石(右)
1-16 遺髪赤松家墓へ埋葬、赤松家断絶
薩摩藩から京の上田藩に引き渡された遺髪と遺品は上田の遺族のもとに送り届けられた。赤松家の菩提寺月窓寺で葬儀が行われ、遺髪のみが赤松家の墓に納められた。赤松小三郎、たか夫妻には子供がなかったので、藩の制度により赤松家は断絶となった。
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月窓寺本堂(左)・同唐門(中)・赤松小三郎墓(赤松家、旧)
2 「建白七策」の後世への影響
2-1「建白七策」と「船中八策」
「建白七策」
(1) 上下二局の議会政治
慶応3年(1867)5月17日赤松小三郎が福井藩主松平春嶽等に提出した「建白七策」は、「公武合体、諸藩一和」の新政権を基本理念としていた。天皇の下、内閣を総理、財政、外交、軍事、司法、税務の閣老で構成し、上下二局の議政局を設け、上局は諸侯、旗本から選挙によって30人を選び、下局は一般国民から130人が選挙で選ばれるものとした画期的な提案であった。「天皇によって許容されない箇条は議政局で再審議し、天皇に建白して、議政局より国中に布告すべし。」とまで主張し、民意の反映を重んじた議会政治を提唱した。
赤松小三郎が最も力を注いだのは、この上下二局の議会政治の項で、多くの文章を費やして具体的に精緻に論じている。
(2) 教育充実、大学、小学校の設立
教育改革を提言し、全国5ヶ所に国立大学を設け、平等に教育を受けさせることによって人材開発を行うことを主張した。
(3) 平等な税負担
藩政では農民のみに掛けられる税負担を四民(士農工商)平等にし、不公平感をなくすことを主張した。
(4) 国中の貨幣統一
各藩が独自に藩札を発行していたが、全国統一貨幣として外国との貿易に対処する国際経済の思想を展開した。
(5) 国防、陸、海軍の兵備充実
門地、身分を問わず農民でも兵として登用し、国直轄の軍隊を創設する。有事の際は男女を問わず皆兵として役立てる抜本的な改革を唱えた。これが後の国民皆兵、徴兵制とつながり、富国強兵思想となった。
(6) 産業改革、諸物製造局の造営
各藩によってばらばらな産業形態を統一して、組織的な産業立国の思想を打ち出している。
(7) 食生活と栄養の改善、養殖と肉食
軍備強化にはそれに伴う国民の体格を造り上げることが必要で、日常の食生活を改善することにより向上を目指すことを提案した。
「船中八策」
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坂本龍馬の「船中八策」は同年6月、長崎より上洛の途中の船中で考案されたと云われ、土佐藩主山内容堂に大政奉還を進言するために、家老の後藤象二郎に対し口頭で提案し、それを海援隊士長岡謙吉が記述し成文化してものと云われる。
(1) 大政奉還
(2) 上下両院による議会政治
(3) 人材の登用
(4) 不平等条約の改定
(5) 憲法制定
(6) 海軍力の増強
(7) 御親兵(天皇直属)の設置
(8) 金銀交換レートの変更
(2)(3)(6)(7)(8)は大筋では赤松の「建白七策」とほぼ同じである。
(1)大政奉還
最も重要な項目で、実際にこの年10月、山内容堂が将軍徳川慶喜に働きかけて実現している。
(4)不平等条約の改定
(5)憲法制定
斬新な提言で、赤松の七策には見られない。
(8)金銀交換レートの変更
坂本の八策の中で二番目に重要で、坂本が最も力を注ぎ、後世に影響を及ぼした。外国貿易を円滑にするために国内通貨を統一し、外国通貨との交換レートを一定にすることが重要であると唱えた。坂本は亀山社中の貿易を通してこのことを実感していたので、松平春嶽の近臣で、福井藩の財政を藩札発行と専売制を結合した政策で健全化した三岡八郎(由利公正)と知り合い、熱心に意見交換を行った。そ
して大政奉還が実現した時、後藤象二郎に手紙を書き、三岡を新政府の財政責任者に推薦して実現させた。
「船中八策」は、坂本が福井藩に仕えていた横井小楠とその弟子であった三岡から松平春嶽に提出された赤松小三郎の建白書を知り、自分の考えをまとめてスローガン化したもので、一説では後年になって土佐藩士が坂本を偶像化するために書かれたとも云われる。
2-2「五箇条の御誓文」への影響
坂本龍馬の提言を受けた後藤象二郎は藩主山内容堂を動かし、松平春嶽と共に将軍徳川慶喜へ働きかけ、大政奉還が実現した。新政府の最高指導者となった岩倉具視は政務の運営で幕府の政事総裁職を務めた松平春嶽の協力を必要とした。
通貨の統一を急務と考えた岩倉は松平春嶽と山内容堂の推薦する三岡八郎(由利公正)を財政の責任者に任命した。三岡は福井藩での経験から、国が統一して「太政官札」を発行するには、その裏付けとなる国民の新政府への信頼を得るために、国家としての理念を定める「五箇条の御誓文」の設定と公布を提言した。
岩倉の認可で三岡が原案を書いた。これを土佐藩士福岡孝弟が修正し、最後に維新の立役者長州藩桂小五郎(木戸孝允)が加筆して完成した。
由利公正「議事の体大意」(「五箇の条御誓文」草案)
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(1) 庶民からの人材登用
(2) 全国民の政治参画
(3) 新知識を世界から習得
(4) 人材の交代による活性化
(5) 万機公論に決し、私に論ぜず
「五箇条の御誓文」成文(福岡孝弟修正、木戸孝允加筆)
(1)広く会議を興し、万機公論に決す
(2)上下心を一にして、盛んに経綸を行うべし
(3)官武一途庶民に到るまで各其志を遂げ、人身をして倦まざらしめん事を要す
(4)日本の陋習を破り、天地の公道に基くべし
(5)知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし
三岡の原案には赤松の建白七策の思想が色濃く反映されていた。最終の「五箇条の御誓文」の(1)と(2)は赤松の提唱した二局の議会政治を意味している。(3)は人材の登用(5)は教育重視を宣言している。従って赤松の提言と思想は「五箇条の御誓文」の骨子となって生かされている。
2-3 大日本帝国憲法、日本国憲法への影響
(1) 大日本帝国憲法
明治22年(1889)2月11日に発布され、その第三章帝国議会の項に二院制が明記されている。
衆議院 : 国民の選挙により選出された議員
貴族院 : 皇族,華族と勅任された議員
両院は対等の権限を有するが、法律案、予算案の審議権にとどまる。通過した法案は枢密院の諮詢を経て天皇の裁定に任される。
議会の招集、停会、解散権は天皇に属している。
(2) 日本国憲法
終戦後の昭和21年(1946)11月3日に発布された。
第四章 国会 の項に二院制が明記されている。
国会は国権の最高機関で唯一の立法機関である。
衆議院、参議院は全国民を代表する選挙された議員で組織する。
以上の様に明治維新後の近代国家となった日本では、議員内閣制、二院制を採用しており、赤松小三郎の「建白七策」の精神が脈々と受け継がれている。
3 海軍三提督の墓参
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伊東元帥(左)・東郷大将(中)・上村彦之丞中将(右)
明治39年(1906)5月、日本海海戦に勝利した1年後、伊東元帥(海軍軍令部長)東郷大将(連合艦隊司令長官)・上村彦之丞中将(第二艦隊司令長官)の海軍3提督が上田町を訪れた。恩師赤松の墓参が目的で、東郷が伊東、上村を誘って来訪し、墓前で日本海海戦の勝利を報告したと報じられた。恩師により海外情勢に目を開かれ、海軍の初歩の知識を授けられたことを深く感謝していたことが動機となったと思われる。
しかし今にして思えば、3提督は薩摩藩が恩師を暗殺したことを知っていて、勝利の報告よりも贖罪の気持ちで墓参したと考えられ、前夜の歓迎晩餐会の席で、東郷はどこか沈痛な表情を示していたと伝えられる。
赤松の遺体は金戒光明寺に葬られたが、遺品と共に毛髪が上田藩に送り返され、赤松家の菩提寺月窓寺の墓に納められた。当時の新聞記事や上田郷友会の記録によると、晩餐会の席上で初めて恩師赤松の墓が上田町にあることを知らされたとあるが、軍の御用商人であった飯島(飯島みすず飴商会)が情報を集め、自宅を宿に提供して墓参と歓迎会もお膳立てしたものであろう。
翌日、三提督は墓参を済ませて信濃国分寺を訪問し、千曲川で川下りの舟遊びを楽しみ、翌々日に予定されていた善光寺の日露戦役戦死者追弔法会に出席するために長野市へ向った。
4 赤松家再興
赤松小三郎、たか夫妻には子供がなく、藩制度により赤松家は断絶となった。明治維新後に新家族制度となり、明治29年(1896)9月3日赤松小三郎30年忌に当たり、芦田新(あゆむ)(姉くにの娘かねの次男)を小三郎、たか夫妻の養子として迎い入れ、赤松家が再興された。赤松新(母校4期)は千葉医専を卒業して医師となり、軍医を経験して後上田市へ戻り、原町裏通りで開業した。新の妻光子も医師で、耳鼻咽喉科の女医として赤松医院で診察した。私が小学5年生の時中耳炎で診察して頂いたのがこの女医さんであった。翌日から一泊二日の学校行事「根子岳登山」へ参加する予定であったが、女医さんは診察するなり「明日の遠足はやめなさい。」ときっぱりと宣言され、私は泣く泣く諦めた。その後菅平高原、麓の真田町にはスキー、ハイキング、探訪等で何回も訪れたが、根子岳へ登る機会はなかった。後年勤めの関係でスイスへ出張する機会が多く、アルプス三山(ユングフラウ/アイガー、マッターホルン、モンブラン)を探訪する機会に恵まれた。しかし少年期に根子岳登山の機会を逸したことは今でも大変心残りに思っている。
赤松新は昭和12年―13年母校の校医を務め、戦後の昭和23年、新教育制度で発足した上田市二中で校医を務めた。戦後何年か経て赤松医院の名前を聞かなくなったが、新、光子夫妻の子供が医院を継がず、閉院となったと思われ、子孫は現在も千葉県に居住している。
赤松新の兄芦田閑(しずか)(母校5期)は慈恵医専を卒業し、丸堀町で医院を開業した。二人の父芦田諧(かのう)の旧姓は桜井で、東大医学部卒後に芦田くにと結婚して芦田家の婿養子となった。東大時代から上田市出身の山極勝三郎と友人で、その縁で芦田家へ入ったのかも知れない。軍医を務めたと云われる。
芦田閑の娘すず子は兎束龍夫(母校23期)に嫁いだ。兎束龍夫は音楽家を目指し、東京音楽学校(現東京芸大)を卒業して母校のヴァイオリン科主任教授となった。兎束龍夫の兄が母校で長年(昭和18年ー35年)音楽教諭を務めた兎束武雄先生である。赤松家、芦田家、兎束家は何れも出石藩以来の松平家家臣なので、養子縁組や婚姻が比較的容易に行われたと思われる。
5 赤松小三郎受勲と記念碑建立
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赤松小三郎受勲記念碑(左)・同裏(右)
上田城跡公園内の駐車場を出て直ぐ、上田招魂社横に大きな石碑が見える。「贈従五位赤松小三郎君之碑」と書かれ、東郷平八郎揮毫となっている。
大正13年(1924)赤松小三郎は宮内省より従五位を贈られた。これを記念して上田史談会が中心となって寄付金を集め、上田公園内に記念碑を建立することとなった。そこで日本海海戦の英雄東郷平八郎に揮毫を依頼し、その書を石材に刻んで記念碑とし、東郷の死後8年、昭和17年(1942)5月に漸く建立されたのである。東郷は赤松の門下生の一人で、同じく教えを受けた伊東裕亨、上村彦之丞と一緒に日本海海戦の翌年明治39年5月に上田市を訪れ、月窓寺の赤松家墓(赤松小三郎の遺髪が埋葬)を参詣している。
この時は未だ薩摩藩が赤松を暗殺したことは判明しておらず、裏面の書には一部誤りがあり、暗殺者桐野利秋が門下生の筆頭に名を連ねている。記念碑建立発起人は上田史談会となっていて、当時母校教諭であった十亀先生も名を連ねている。上田史談会としては赤松に教えを受けた全ての薩摩藩士を身分の順番に記載したもので、後年になって判明した暗殺者桐野利秋が筆頭に刻まれる誤りを犯すことになった。この矛盾にいち早く気が付き指摘した人達(信大の太田教授等)の要望に応え、上田市教育委員会は記念碑の横に裏面の記述の誤りを認め、桐野等による暗殺を明示する掲示板を設置している。
赤松への叙勲も帝国陸軍、海軍への功労を意図的に取り上げ、軍国主義思想を高揚する目的で薩摩藩出身の海軍首脳が推薦したものと思われる。
赤松の受勲を記念して、生家の木町から紺屋町へ通ずる通りが赤松町と命名された。京都信濃会は暗殺現場、東洞院通り五条下ル和泉町に記念碑を建て、墓のある金戒光明寺の塔頭善教院の前にも記念碑を設置し、信濃教育会と共催で75年忌法要を金戒光明寺で営んだ。
6 戦後の赤松小三郎再評価運動
6-1 桐野利秋の日記発見
赤松の死後100年を経た昭和42年(1967)、桐野利秋(中村半次郎)の日記が発見され、事件の真相が明らかとなった。直接の命令者は明記されていなかったが、藩命により師の命を奪ったことが生々しく書かれていた。当時の薩摩藩の事情から、命令者は西郷隆盛に間違いなく、武力による倒幕を密かに画策していた薩摩藩にとって、藩の軍事機密を知り過ぎた赤松は危険な存在となっており、徳川幕府親藩の上田藩へ帰すのを阻止したものと思われる。示現流の達人で人斬り半次郎と恐れられ、師の顔を良く知り、道順、時間までよく知った桐野利秋等に襲われたので、赤松は護身用の短筒で応戦しようとしたが逃れる術はなかった。桐野以下8人の薩摩藩士が実名で記され、暗殺計画を立てて実行に移した様子が生々しく記述されていた。
6-2 赤松小三郎顕彰会(上田市)発足
平成15年(2003)上田高校51期同窓生を中心に「赤松小三郎顕彰会」(会長伊東邦夫氏)が発足し、資料の発掘、検証を行っている。述の丸山瑛一氏、久保忠夫氏(信州ハム社長)が中心となって活動を始めた。現在は林和男氏が会長を務めている。
6-3 赤松小三郎生誕祭
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平成20年(2008)4月4日第1回「赤松小三郎生誕祭」が顕彰会の人々が中心となって立ち上げられた。「上田城千本桜まつり」が5日から開かれるので、この行事を連結して祭りを盛り上げ、観光都市上田市をアピールしようとしたものである。 伊東会長が作詞した曲「彗星赤松小三郎」が披露され、紙芝居の上演、法被姿でのぼりを立てての行進等で盛り上がった。その後毎年この行事は多くの人々が参加して継続されている。
6-4 赤松小三郎研究会(東京)発足
平成23年(2011)東京の上田高校同窓会を中心に「赤松小三郎研究会」が結成され、隔月1回、会員以外の一般の人も参加して講演会等を開催し、活発な活動を行っている。会長は丸山瑛一氏が務めている。
6-5 上田郷友会報で海軍三提督の墓参記事再発見
上田郷友会は明治11年(1878)山極勝三郎と勝俣英吉郎が呼びかけて上田出身の医学生の会、上田医学生会を立ち上げたのが前身で、明治16年(1883)に他学科生を含めて上田郷友会が発足した。会報は明治18年(1885)に創刊され、以来137年の歴史1500号以上の版を重ねてきた。
偶然にも上記と同年の平成23年(2011)上田市の同窓生宅で、上田郷友会報第235号(明治39年(1896)5月号)に海軍三提督の上田来訪と赤松小三郎墓参の記事が詳しく記載されていたのが再発見された。そしてそのコピーが上田郷友会事務局へ送られ、後の例会で赤松小三郎の業績を再評価しようと論議された。
一方、上田郷友会上田部会でも同年「赤松小三郎物語」の著者片桐京介氏を講師に招いて講演会を開催した。
6-6 赤松小三郎記念館建立(上田市)
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赤松小三郎記念館入場券と直筆サイン(左)・旧墓石(金戒光明寺より移転)(右)
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旧墓石裏面の拓本(最後から5行目に「緑林の害」の文字)(右)
平成24年(2012)3月、上田市常盤城の旧丸山邸の土蔵1棟が提供され、「赤松小三郎記念館」が開館した。直前に母屋の火事騒ぎがあり、開館の遅れが心配されたが、漸く予定期日に間に合って発足した。平成23年(2011)赤松の墓がある京都の金戒光明寺より、144年を経た墓石が風化し、損傷が激しいので新装することを赤松小三郎顕彰会に提案された。顕彰会は直ちに寄付を募り、新しい墓石を造ることを決定した。この活動の中心になったのは、上田高校51期の伊藤邦夫氏、丸山瑛一氏、44期の久保忠夫氏等であった。
そして新墓石を造成し、京都へ送って金戒光明寺に安置すると同時に、旧墓石を故郷の上田市へ持ち帰り、記念館を創立して展示することが検討され、実行に移された。丸山氏の所有する旧宅の一隅にある土蔵が提供され、改装されて記念館となり、この旧墓石を展示品の中心の据え、赤松が提案した「建白七策」の複製品等が展示されることになった。
旧墓石の裏面には、赤松の経歴、功績を讃え、教えを受けた門下生一同が恩義に報いるために墓を建てたと記されている。その文中に「緑林之害」の文字があり、赤松が路上で強盗の被害を被って死去したと書かれている。この「緑林之害」の四文字は、明治維新前の薩摩藩の複雑な動き、謀略と欺瞞を告発する歴史の証人となっている。金戒光明寺に建てられた新墓石の裏面にも「緑林之害」の四文字は踏襲して刻まれている。
また「建白七策」は3通作られ、福井藩主松平春嶽、薩摩藩国父島津久光、徳川幕府へと提出されたが、原本が残されているのは島津久光宛の1通だけで鹿児島の黎明館に残されており、その複製品がこの記念館を飾ることになった。館長には赤松小三郎顕彰会会長の伊藤邦夫氏が就任した。
当主丸山瑛一氏の先祖は代々上田藩の御用達材木商であった。明治初年廃藩置県令の発令された時、上田城が民間に払い下げとなった。時の当主丸山平八郎は城の解体と散逸に心を痛め、本丸と西楼、城の土地全てを買い取って保存し、石垣の一部は自宅に持ち込んで利用した。他の建物は離散し、一部は遊郭の建物となったと云われる。
明治12年(1879)旧松平上田藩士から旧藩主を祀る「松平神社」を建立したいとの申し出があり、丸山平八郎は快諾し、本丸の半分の土地を松平神社に提供し、西楼を含む半分の土地を松平家へ寄付した。更に明治18年(1885)残り全ての土地を公園、遊園地にする約束で上田町に寄贈した。幕末に姫路城を戦火から救った神戸の豪商北風荘右衛門と全く同様な事を実行した篤志家が信州、上田にも存在したことは誇らしい事である。その末裔が赤松小三郎再評価の運動の中心人物の一人となっているのも偶然ではない。
6-7 有名雑誌に掲載(文芸春秋、週刊朝日)
「文芸春秋」平成26年(2014)6月号に宮原安春氏(ノンフィクション作家)が“「船中八策」に先んじた男“と題して赤松小三郎の業績を紹介し、特に議会政治の二院制を提唱したことを説明している。
「週刊朝日」平成27年(2015)11月16日号ではNHKテレビの大河ドラマ“真田丸”が放映されていたこともあり、「坂本龍馬より時代に先駆けた男、赤松小三郎暗殺の真相」の表題で宮原氏が写真入り2頁で記述している。
6-8 上田市立博物館で特別展開催、常設コーナー設置
平成29年(2017)10月7日から11月26日まで上田城跡公園内の上田市立博物館で特別展「赤松小三郎 ― 幕末の先覚者」が開催された。博物館所有の赤松小三郎ゆかりの資料、記念物を整理して公開した展覧会である。
(翻訳者パネル、兵学者パネル、天幕合体パネル、知探求パネル、遺髪の墓画像)
50日間の開催中、NHKテレビの「真田丸」放映の影響もあり、約15,000人の観客が訪れた。特別展終了後は館内に常設コーナーを設置して資料を公開している。
6-9 赤松小三郎記念館の上田城跡公園内へ移転
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/7e/3e4e2a1df46c28fcd6d29dede84ea9d7.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/77/00f93f2f242f2430c79e61da6aca9c03.jpg)
移転した赤松小三郎記念館(左)・赤松小三郎顕彰会事務所(右)
上記の展覧会を機に常盤城の旧丸山邸から上田城跡公園内の上田招魂社の一隅に記念館が移転された。地理的な不便さもあったので、一般観光客が訪れ易い上田城跡公園に関連施設を集約するためであった。
運営:赤松小三郎研究会(会長 林和男氏)電話:02638-22-8503
開館:土曜、日曜、祝日 11:00 - 16:00
料金:無料
開館日以外でも林会長様に事前に連絡すると、開館して頂けます。
*おわりに
本文の作成に当たり、資料、情報を提供して下さいました林和男様(赤松小三郎顕彰会会長)、滝澤正幸様(上田市立博物館館長)、小山平六様(赤松小三郎研究会事務局)、田原敬様(上田郷友会事務局)に厚く御礼申し上げます。
参考書:
「赤松小三郎物語」 片桐 京介著
「信州奇人考」 井出 孫六著
「会津藩VS薩摩藩」 星 亮一著
「王政復古」 井上 勲著
「幕末歴史散歩」(京阪神篇) 一坂 太郎著
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「赤松小三郎―議会政治の提唱者」
令和2年(2020)2月15日 48期 関口貞雄