「七夕文化」

日本の七夕を調査・記録したジオシティーズ「七夕文化」(2010年)を移行しました。

「郷 土 の先 覚 者 赤 松 小 三 郎」 関 口 貞 雄

2020-07-28 14:32:04 | ふるさと上田
   「郷 土 の先 覚 者 赤 松 小 三 郎」
                       
                                関 口 貞 雄 (上田高校48期)

* はじめに
 赤松小三郎
 上田市出身の幕末の先覚者赤松小三郎は、近年日本初の英国式兵学者、議会政治提唱者として再評価されている。地元の上田市では「赤松小三郎顕彰会」が発足し、「赤松小三郎生誕祭」が毎年開催され、「赤松小三郎記念館」が設立された。東京では「赤松小三郎研究会」が結成されて事務局が設置され、例会を開催して新たな資料、情報を発掘して共有している。
 平成29年(2017)10月上田城跡公園内の上田市立博物館で特別展「赤松小三郎―幕末の先覚者」が開催された。この機会を利用して、上田市常盤城にあった「赤松小三郎記念館」が公園内の上田招魂社境内に移転された。特別展終了後上田市立博物館内に「赤松小三郎コーナー」が常設されたので、従来から公園内に存在する「赤松小三郎記念碑」を含め、赤松小三郎関連施設が公園内に集結することとなった。
 上田市で生まれ育った赤松小三郎は藩校明倫館で学び、江戸へ出て内田塾で学んだ後勝海舟の学問塾へ入門した。この縁で師と共に長崎海軍伝習所で最先端の技術教育を受けた。後に江戸へ出て、横浜の英国公使館付き軍人アフリン大尉から英語を学んだ。しかし赤松の活躍した舞台は京都で、「英国式兵学塾」を開き、「建白七策」を書いて福井藩主松平春嶽へ提出し、薩摩藩で英国式兵学を教授し、会津藩に銃隊調練稽古を行ったのも京都で、最後に暗殺されたのも京都であった。従って関西にある京都には赤松小三郎関連の場所が集中しているので、これらを訪ね、郷土の偉人、幕末の先覚者の足跡をたどって見ようと思う。

 私にとって赤松小三郎は幼少時より身近な存在であった。私の実家の菩提寺は曹洞宗「月窓寺」で、常田隆永(真田昌幸の弟、幸村の叔父)が創立し、第一次上田合戦(神川合戦)で焼失したが、真田幸村が現在の場所(旧鍛冶町)に再建した名刹である。この寺の墓地に赤松家の墓所があり、京都で暗殺された赤松小三郎の遺髪が持ち帰られ葬られている。従って赤松小三郎の名前は幼少時より父母から聞いて知っていた。
 昭和17年(1942)に上田城跡公園内に建立された「赤松小三郎記念碑」については小学校で先生から学んだ記憶がある。私が小学校5年生の時中耳炎を患い、その時診察して頂いたのが女医の赤松先生(後記)であったことも鮮明に覚えている。
 数年前、京都の「真如堂」へ紅葉見物に出かけた時、ついでに隣接する「金戒光明寺」を訪れた。この時偶然にも寺務所で赤松小三郎の墓が更新されることを知った。そして上田市の有志が旧墓石を故郷に運び、記念館を建立する計画があることも判った。それから数ヶ月後、新墓石が設置された金戒光明寺を再度訪れ、翌年春に上田市へ帰省した時、旧墓石が安置されて開館した「赤松小三郎記念館」を訪れることになった。
 以上の様に、私にとって赤松小三郎は何かと不思議な縁があり、興味深い存在である。

1 赤松小三郎の生涯
1-1  出生と英才教育

 赤松小三郎は天保2年(1831)4月4日上田藩士芦田勘兵衛、志賀夫妻の二男として上田市木町で出生した。幼名は清次郎、兄柔太郎、姉くにの三人兄弟であった。父勘兵衛は十石三人扶持の下級藩士で、藩校明倫館堂の句読師(教官)を務めていた。清次郎は9歳で叔父(父の義弟)植村半兵衛の私塾で算術(そろばん)を習った。植村は藩の帳元(会計)を務め、清次郎は幼くして英才教育を受ける環境に育った。12歳で藩校に入学し、文学校の明倫堂では儒学、武学校では槍術と剣術を学んだ。この時叔父八木剛介が江戸で砲術を学んで帰藩したので、清次郎は砲術の手ほどきを受けて興味が湧き、砲術の勉強には算術が必須であることを知った。毘沙門堂の活文禅師にも度々教えを受けたと云われる。

1-2  江戸へ遊学
 嘉永元年(1848)清次郎17歳の時、修学のために江戸へ発った。内田五観(いつみ)塾へ入塾したが、幾何学、力学、弾道学、航海術、造船術、天文学、地理学等を初歩から学ぶには蘭語の習得が先ず不可欠であることを教えられ、蘭語の勉強に集中して努力し、師にその才能を認められた。
 師の内田は尚歯会を通じて高野長英、渡辺崋山と親しく、高野長英が小伝馬町の牢屋の火災の折、牢屋へ戻る条件で釈放されたにも拘らず戻らずに逃走した時、物心両面で支えたのが内田であった。高野が逃走先の宇和島から戻り、変名で江戸市中に潜伏中、捕らえられる時に自害した事件は清次郎に大きな衝撃と影響を与えた。
 黒船が浦賀へ来航して世情は騒然となったが、蘭語の書物を通じて船の性能、装備等を知っていた清次郎は左程驚かなく、遂に来たかと思った。

1-3  赤松家へ養子入り
 江戸遊学から上田へ戻った清次郎は父の同輩赤松弘の養子となり、赤松小三郎を名乗った。養父は十石三人扶持の徒士で、養母きぬは後妻で小諸の商家の出であった。赤松小三郎は上田藩の数学助教兼操練世話役となった。

1-4  勝麟太郎の永解塾へ入塾
 勝海舟
 安政2年(1855)江戸へ出た小三郎は師内田五観の紹介で勝麟太郎の氷解塾へ入塾した。少禄の赤松家は学費が払えず、勝家に寄宿して家事を手伝うことで授業料を免除してもらった。数学と蘭語に優れた小三郎は頭角を現し、師に認められた。

1-5  長崎海軍伝習所へ勝の従者として入所
 同年、勝が幕府の開いた長崎海軍伝習所で勉強する学生長に任命され、小三郎は勝の従者に選ばれ、員外聴講生として入所する機会が到来した。勝は小三郎の蘭語の能力を高く評価していたので、共に学びながら自分を補佐してくれることを期待した。上田藩は小三郎を藩士(組付徒士)として俸禄二人扶持を与えた。
 安政2年(1855 )9月品川から軍艦昇平丸に勝以下伝習生113名(各藩派遣の正規伝習生と員外聴講生)が乗船し、長崎へ航海した。長崎ではオランダ船スンピン号船長ライケン大尉を団長として22名の乗組員で教師団が形成された。必修科目は数学と蘭語で、専門科目は航海術、造船術、砲術、蒸気機関、天測等であった。
 約1年半の伝修期間終了後、安政4年(1857)3月小三郎は第一期卒業生と共にスンピン号で江戸へ戻った。  
  
1-6  オランダ兵法書翻訳、咸臨丸渡米乗組員に選抜されず
 江戸で滞在中、オランダの兵法書「新銃射放論」(オランダ水陸軍練兵学校教科書)を翻訳して「矢ごろのかね(小銃教練)」を自費出版した。この本の出版で小三郎は洋式兵学者として認められるようになった。
 万延元年(1860)幕府は咸臨丸をアメリカへ航海させることを決定した。艦長に勝が指名されたが、乗組員に選ばれたのは大藩から派遣された正規伝習生ばかりで、小三郎をはじめ員外聴講生からは一人も選抜されなかった。幕府の選抜基準は資格、地位優先で、能力本位ではなかった。小三郎は伝習所でも必修科目の数学、蘭語は優秀な成績であったので、当然自分は選ばれると自負していただけに落胆が大きかった。

1-7  松代藩士白川久左衛門娘たかと結婚、佐久間象山と面会
 江戸より上田へ戻り上田藩の職務に専念し、数学測量世話係、西洋銃調練稽古世話係に任じられた。この間に和宮降嫁の途中警備を体験し、後年の公武合体の主張に繋がる。
 この時、実父の友人が松代藩士白川久左衛門の娘たかとの縁談を持って来た。白川は吉田松陰密航未遂事件に連座して松代で蟄居中の佐久間象山と親交があり、小三郎が勝の弟子で、長崎伝習所で共に学んだことを高く評価し、是非にと縁談を積極的に進めてきた。小三郎も勝の師で義兄弟の佐久間象山を大変尊敬し、憧れを抱いていたので、象山に面会出来る期待から見合いを承知した。
 旧上田藩主であった真田家が松代藩主なので両藩の間は交流があり、佐久間は少年時に上田の毘沙門堂の活紋禅師に教えを受けるために通った。藩を超える縁組に支障はなく、小三郎は松代へ出向いて白川たかと見合いを行い、その時憧れの佐久間象山と会うことが出来た。
 佐久間象山
 象山は勝からも小三郎のことは知らされていたので、二人は意気投合し、お互いに所有する蘭書を貸し借りした。しかし二人が会ったのはこの一回のみで終わった。翌年の元治元年(1864)幕府の命で京都に上った象山は、木屋町で過激派攘夷浪士河上彦斉に暗殺されて生涯を終えた。

1-8  英語学習
 元治元年(1864)9月、幕府の発した第一次長州征伐令に上田藩は江戸警備を命じられた。小三郎も出陣し、大砲方兼武器調達係に任命された。
 同藩の御馬役小倉門弥が神奈川宿の英国公使館付アフリン騎兵大尉から西洋馬術を学んでいたので、小三郎は自著の蘭語翻訳書「選馬説」を小倉に読んでもらい、英語を直接アフリンから習うため紹介状を書いて貰った。これからは英語が新知識吸収のために絶対に必要であると考えたからである。小三郎は江戸から神奈川宿まで約七里(28km)の道程を7回通い、英語と騎兵操典を学んだ。
 一度帰藩を命じられたが、職務の武器調達を名目に江戸へ戻り、再びアフリンのもとに足を運んだ。この時アフリンから英書の「騎兵操典」を6日間だけ借り受け、蘭英辞書を片手に懸命に読破した。返却した時アフリンから内容について数箇所の質問が出されたが、小三郎は全てを完全に返答してアフリンを驚かせ、小三郎を語学の天才と賞賛したと伝えられる。
 第一次長州征伐が中止となり、上田藩は江戸警備を解かれ帰還することになったが、小三郎は職務の武器調達と砲術習得と名目をつけ、再度江戸へ出て、アフリンから英語の学習を続けた。

1-9 「英国歩兵練法」翻訳、出版
 「英国歩兵練法」
 江戸にて砲術習得のため入塾を予定していた応懲館主下曽根金三郎から、英語で書かれた歩兵訓練、銃隊調練の五編八冊の翻訳を依頼された。訳文の題名が「英国歩兵練法」と命名された。
 第二次長州征伐が発せられて上田藩は大阪行きを命じられ、同行した小三郎は寸暇を惜しんで翻訳を続けた。下曽根の弟子で英語に堪能な加賀藩の浅津富之介が第二編、第三編の翻訳を担当し、小三郎が第一編、第四編、第五篇を担当して共同で翻訳が完成し、漸く出版に漕ぎつけた。
   
1-10 京都で英国式兵学塾開く、上田藩主に藩政改革口上書提出
 第二次長州征伐は薩摩藩が反対して出兵せず、幕府軍は各地で戦闘に敗れ、将軍家茂の急死で中止となった。小三郎は大阪より上田へ帰還したが直ぐに江戸へ発った。かねてより希望していた英国式兵学塾を京都で開くため、下曽根の推薦状を貰うためであった。この間実父芦田勘兵衛の病状が悪化し、危篤の報が寄せられたので上田へ戻り、留守であった実兄柔太郎に代わって葬儀を仕切った。

 京へ上った小三郎は上田藩邸(現在京都市中央立図書館の地)を訪ね、開塾願いを提出して協力を願い出た。留守居役の協力を得て、二条城に近い二条衣棚に空き家を借り、「英国式兵学塾赤松小三郎天雲塾」の看板を掲げて開塾した。一説では河原町とも伝えれる。
 小三郎は薩摩、会津、福井、土佐、水戸の藩邸を訪ね、自著の「英国歩兵錬法」を贈呈し、開塾の挨拶と勧誘を行った。各藩とも興味を抱き、とくに熱心な薩摩藩と福井藩は直ちに藩士を入塾させた。大垣、肥後、会津の各藩からも入門者があったが、上田藩の反応は鈍く、藩主松平忠礼は理解せずに冷淡で、入門者は一人もなかった。
 そこで上田藩の閉鎖的体質を憂えた小三郎は、人材の登用、西洋の政治、兵学の習得、西洋式軍備の必要性を口上書として藩主に直接訴えた。しかし家老は小三郎の猟官運動と見なして黙殺したのか返書はなかった。

1-11 京都薩摩藩邸で英国式兵学を教授
 慶応2年(1866)3月薩摩藩より使いが来て、天雲塾を薩摩藩邸内(現在の同志社大学)に移し、薩摩藩士を優先して教育する話が持ち込まれた。生麦事件に発する薩英戦争で英国海軍の力を見せつけられ、海軍力の増強を急務と考えた薩摩藩が赤松小三郎の英国式兵学に注目し、英語及び英国海軍の知識を若い藩士に習得させようと考えた。同時に「英国歩兵錬法」の最新改定版の出版を援助する提案をしてきた。この提案に小三郎は心を動かされ、上田藩の許可を得て承諾した。この時、表面では薩摩藩は親幕府で会津藩と協力して長州藩と対峙していたが、裏では薩長同盟に動いていて、武力での討幕を計画し、そのためにも小三郎の最新兵学知識を必要としていた。

薩摩藩邸跡(左)・同志社大学正門(右)
 薩摩藩邸内の塾には他藩の希望者の入塾も認められ、薩摩藩士約50名のほか、福井藩士數名、大垣藩士等が入塾した。授業科目は英国式兵学(歩兵、騎兵、射撃)西洋戦史、航海術、算術等があり、課外授業として英語の初歩、公武合体による政治改革などがあり講義された。薩摩藩塾生には桐野利秋を筆頭に村田、篠原、伊東、東郷、上村、野津等の有望な若手藩士が含まれ、西南戦争で戦死した桐野、村田、篠原を除き、明治時代の海軍、陸軍のリーダーとして育っていった。               

1-12 会津藩で銃隊調練稽古、幕府の開成所教官要請を上田藩が拒む
 慶応2年(1866)11月京都守護職会津藩が小三郎の英国式兵学に興味を示し、銃隊調練稽古を依頼する使いがやって来た。公武合体を主導し、京都守護職として権力のある会津藩に接触する機会を待っていた小三郎は喜んで承諾した。会津藩は小三郎の兵学に勿論興味はあったが、最近不穏な動きを示していた薩摩藩の動向を、小三郎を通して探り出す狙いもあったと思われる。
 この時、幕府から上田藩に対し赤松小三郎の開成所教官就任の要請があり、上田藩は本人の意向は聞かず、小三郎は上田藩の兵制改革に必要な人材であるとの理由で断った。これを後から知らされた小三郎は、先年藩主に提出した口上書に対する返書もなく無視し、幕府直属の学問所開成所教官、幕臣への昇進を一方的に閉ざした上田藩に不信感を抱いた。そして藩の帰国命令に反して痔疾と仮病を使って延期し、京に滞在した。

1-13 「建白七策」を松平春嶽、島津久光、幕府へ提出、薩摩藩と幕府の融和模索
 慶応3年(1867)5月、旧態依然たる幕府の政治体制、教育制度等を改める目的で「建白七策」を執筆し、福井藩主松平春嶽に提出した。春嶽が小三郎の率直な意見を聞きたくて要望したものである。この「建白七策」は同時に薩摩藩国父島津久光と幕府へも提出された。
 公武合体を念頭に置き、天皇を頂点とする統一した近代国家像を画いたもので、上下二局の議会政治を主張し、教育制度の充実、公正な税負担、貨幣の統一、国防軍の充実、産業改革等を唱えた建白書で、七箇条、三千字を超える卓抜な堂々たる論文であった。
 赤松小三郎は公武合体の主張を実現するために、京都町奉行永井尚志(元長崎海軍伝習所長、後に大目付、若年寄)が元上司であったことから積極的に接近し、梅沢孫太郎(将軍後見役一橋慶喜の近臣)とも連絡をとり、薩摩藩の西郷隆盛との仲介に奔走した。これが武力討幕に舵をきった薩摩藩には小三郎が幕府の手先、スパイと疑われ、藩の軍事機密を幕府に通報される恐れから暗殺に至ったと推定される。

1-14 赤松小三郎暗殺、三条大橋に斬奸状
   
暗殺現場(左)・受勲記念碑(右)
 再三の帰国命令を無視して延期してきた小三郎は、「建白七策」を書き上げて提出したので帰国を決意した。慶応3年(1867)9月3日、帰国準備で多忙な中、東洞院通り五条下ル和泉町で刺客に襲われて絶命した(この地には昭和17年、京都信濃会によって受勲記念碑が建てられた)。京を離れる予定の前日のことで、塾生による送別会が行われた直後のことであった。そして三条大橋のたもとに赤松小三郎を糾弾する「斬奸状」が張り出され、西洋を第一とし皇国をないがしろにしたので天誅を加えるとの内容であった。しかし後年にこれら全てが薩摩藩による偽装工作であったことが暴かれていった。 
 
斬奸状(左)・三条大橋(右)
       
1-15 葬儀と墓建立
 薩摩藩は小三郎が「緑林の害」(強盗)に遭遇したと上田藩に通報し、亡骸を金戒光明寺に運び入れた。上田藩へ引き渡されたのは遺髪と身の回りの物32点と書物65冊だけであった。京都守護職会津藩が駐在する金戒光明寺での葬儀は他藩士とは思えない異例の盛大な規模で行われ、薩摩藩は大切な学問の師を失ったのを悲しむことを会津藩の目前で示した。遺族には薩摩藩から百両の弔慰金が送られた。遺骸はこの寺に埋葬され、塾生の名で寄付が集められて立派な墓が建立された。会津藩に故意に見せつけ、欺いたのであった。「禁門の変」までは薩摩藩は会津藩とは味方同士であったが、この事件の寸前に坂本竜馬の仲介により長州藩と手を組み、密かに薩長同盟が成立していた。
  
金戒光明寺(左)・旧墓石(中)・新墓石(右)     

1-16 遺髪赤松家墓へ埋葬、赤松家断絶
 薩摩藩から京の上田藩に引き渡された遺髪と遺品は上田の遺族のもとに送り届けられた。赤松家の菩提寺月窓寺で葬儀が行われ、遺髪のみが赤松家の墓に納められた。赤松小三郎、たか夫妻には子供がなかったので、藩の制度により赤松家は断絶となった。 
  
月窓寺本堂(左)・同唐門(中)・赤松小三郎墓(赤松家、旧)       
           
2 「建白七策」の後世への影響
2-1「建白七策」と「船中八策」

「建白七策」
(1) 上下二局の議会政治
 慶応3年(1867)5月17日赤松小三郎が福井藩主松平春嶽等に提出した「建白七策」は、「公武合体、諸藩一和」の新政権を基本理念としていた。天皇の下、内閣を総理、財政、外交、軍事、司法、税務の閣老で構成し、上下二局の議政局を設け、上局は諸侯、旗本から選挙によって30人を選び、下局は一般国民から130人が選挙で選ばれるものとした画期的な提案であった。「天皇によって許容されない箇条は議政局で再審議し、天皇に建白して、議政局より国中に布告すべし。」とまで主張し、民意の反映を重んじた議会政治を提唱した。
 赤松小三郎が最も力を注いだのは、この上下二局の議会政治の項で、多くの文章を費やして具体的に精緻に論じている。
(2) 教育充実、大学、小学校の設立
 教育改革を提言し、全国5ヶ所に国立大学を設け、平等に教育を受けさせることによって人材開発を行うことを主張した。
(3) 平等な税負担
 藩政では農民のみに掛けられる税負担を四民(士農工商)平等にし、不公平感をなくすことを主張した。
(4) 国中の貨幣統一
 各藩が独自に藩札を発行していたが、全国統一貨幣として外国との貿易に対処する国際経済の思想を展開した。
(5) 国防、陸、海軍の兵備充実
 門地、身分を問わず農民でも兵として登用し、国直轄の軍隊を創設する。有事の際は男女を問わず皆兵として役立てる抜本的な改革を唱えた。これが後の国民皆兵、徴兵制とつながり、富国強兵思想となった。
(6) 産業改革、諸物製造局の造営
 各藩によってばらばらな産業形態を統一して、組織的な産業立国の思想を打ち出している。
(7) 食生活と栄養の改善、養殖と肉食
 軍備強化にはそれに伴う国民の体格を造り上げることが必要で、日常の食生活を改善することにより向上を目指すことを提案した。

「船中八策」
 坂本龍馬
坂本龍馬の「船中八策」は同年6月、長崎より上洛の途中の船中で考案されたと云われ、土佐藩主山内容堂に大政奉還を進言するために、家老の後藤象二郎に対し口頭で提案し、それを海援隊士長岡謙吉が記述し成文化してものと云われる。
(1) 大政奉還 
(2) 上下両院による議会政治
(3) 人材の登用
(4) 不平等条約の改定
(5) 憲法制定
(6) 海軍力の増強
(7) 御親兵(天皇直属)の設置
(8) 金銀交換レートの変更
(2)(3)(6)(7)(8)は大筋では赤松の「建白七策」とほぼ同じである。
(1)大政奉還 
 最も重要な項目で、実際にこの年10月、山内容堂が将軍徳川慶喜に働きかけて実現している。
(4)不平等条約の改定
(5)憲法制定
 斬新な提言で、赤松の七策には見られない。
(8)金銀交換レートの変更 
 坂本の八策の中で二番目に重要で、坂本が最も力を注ぎ、後世に影響を及ぼした。外国貿易を円滑にするために国内通貨を統一し、外国通貨との交換レートを一定にすることが重要であると唱えた。坂本は亀山社中の貿易を通してこのことを実感していたので、松平春嶽の近臣で、福井藩の財政を藩札発行と専売制を結合した政策で健全化した三岡八郎(由利公正)と知り合い、熱心に意見交換を行った。そ
して大政奉還が実現した時、後藤象二郎に手紙を書き、三岡を新政府の財政責任者に推薦して実現させた。
 「船中八策」は、坂本が福井藩に仕えていた横井小楠とその弟子であった三岡から松平春嶽に提出された赤松小三郎の建白書を知り、自分の考えをまとめてスローガン化したもので、一説では後年になって土佐藩士が坂本を偶像化するために書かれたとも云われる。

2-2「五箇条の御誓文」への影響
 坂本龍馬の提言を受けた後藤象二郎は藩主山内容堂を動かし、松平春嶽と共に将軍徳川慶喜へ働きかけ、大政奉還が実現した。新政府の最高指導者となった岩倉具視は政務の運営で幕府の政事総裁職を務めた松平春嶽の協力を必要とした。
 通貨の統一を急務と考えた岩倉は松平春嶽と山内容堂の推薦する三岡八郎(由利公正)を財政の責任者に任命した。三岡は福井藩での経験から、国が統一して「太政官札」を発行するには、その裏付けとなる国民の新政府への信頼を得るために、国家としての理念を定める「五箇条の御誓文」の設定と公布を提言した。
 岩倉の認可で三岡が原案を書いた。これを土佐藩士福岡孝弟が修正し、最後に維新の立役者長州藩桂小五郎(木戸孝允)が加筆して完成した。
 
由利公正「議事の体大意」(「五箇の条御誓文」草案)
 由利公正
(1) 庶民からの人材登用
(2) 全国民の政治参画
(3) 新知識を世界から習得
(4) 人材の交代による活性化
(5) 万機公論に決し、私に論ぜず
  「五箇条の御誓文」成文(福岡孝弟修正、木戸孝允加筆)
(1)広く会議を興し、万機公論に決す
(2)上下心を一にして、盛んに経綸を行うべし
(3)官武一途庶民に到るまで各其志を遂げ、人身をして倦まざらしめん事を要す
(4)日本の陋習を破り、天地の公道に基くべし
(5)知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし

 三岡の原案には赤松の建白七策の思想が色濃く反映されていた。最終の「五箇条の御誓文」の(1)と(2)は赤松の提唱した二局の議会政治を意味している。(3)は人材の登用(5)は教育重視を宣言している。従って赤松の提言と思想は「五箇条の御誓文」の骨子となって生かされている。  

2-3 大日本帝国憲法、日本国憲法への影響
(1) 大日本帝国憲法 
 明治22年(1889)2月11日に発布され、その第三章帝国議会の項に二院制が明記されている。
  衆議院 : 国民の選挙により選出された議員
  貴族院 : 皇族,華族と勅任された議員 
 両院は対等の権限を有するが、法律案、予算案の審議権にとどまる。通過した法案は枢密院の諮詢を経て天皇の裁定に任される。
 議会の招集、停会、解散権は天皇に属している。
(2) 日本国憲法
 終戦後の昭和21年(1946)11月3日に発布された。
 第四章 国会 の項に二院制が明記されている。
 国会は国権の最高機関で唯一の立法機関である。
 衆議院、参議院は全国民を代表する選挙された議員で組織する。
 以上の様に明治維新後の近代国家となった日本では、議員内閣制、二院制を採用しており、赤松小三郎の「建白七策」の精神が脈々と受け継がれている。

3 海軍三提督の墓参
  
伊東元帥(左)・東郷大将(中)・上村彦之丞中将(右)
 明治39年(1906)5月、日本海海戦に勝利した1年後、伊東元帥(海軍軍令部長)東郷大将(連合艦隊司令長官)・上村彦之丞中将(第二艦隊司令長官)の海軍3提督が上田町を訪れた。恩師赤松の墓参が目的で、東郷が伊東、上村を誘って来訪し、墓前で日本海海戦の勝利を報告したと報じられた。恩師により海外情勢に目を開かれ、海軍の初歩の知識を授けられたことを深く感謝していたことが動機となったと思われる。
 しかし今にして思えば、3提督は薩摩藩が恩師を暗殺したことを知っていて、勝利の報告よりも贖罪の気持ちで墓参したと考えられ、前夜の歓迎晩餐会の席で、東郷はどこか沈痛な表情を示していたと伝えられる。
 赤松の遺体は金戒光明寺に葬られたが、遺品と共に毛髪が上田藩に送り返され、赤松家の菩提寺月窓寺の墓に納められた。当時の新聞記事や上田郷友会の記録によると、晩餐会の席上で初めて恩師赤松の墓が上田町にあることを知らされたとあるが、軍の御用商人であった飯島(飯島みすず飴商会)が情報を集め、自宅を宿に提供して墓参と歓迎会もお膳立てしたものであろう。
 翌日、三提督は墓参を済ませて信濃国分寺を訪問し、千曲川で川下りの舟遊びを楽しみ、翌々日に予定されていた善光寺の日露戦役戦死者追弔法会に出席するために長野市へ向った。
                                             
4 赤松家再興
 赤松小三郎、たか夫妻には子供がなく、藩制度により赤松家は断絶となった。明治維新後に新家族制度となり、明治29年(1896)9月3日赤松小三郎30年忌に当たり、芦田新(あゆむ)(姉くにの娘かねの次男)を小三郎、たか夫妻の養子として迎い入れ、赤松家が再興された。赤松新(母校4期)は千葉医専を卒業して医師となり、軍医を経験して後上田市へ戻り、原町裏通りで開業した。新の妻光子も医師で、耳鼻咽喉科の女医として赤松医院で診察した。私が小学5年生の時中耳炎で診察して頂いたのがこの女医さんであった。翌日から一泊二日の学校行事「根子岳登山」へ参加する予定であったが、女医さんは診察するなり「明日の遠足はやめなさい。」ときっぱりと宣言され、私は泣く泣く諦めた。その後菅平高原、麓の真田町にはスキー、ハイキング、探訪等で何回も訪れたが、根子岳へ登る機会はなかった。後年勤めの関係でスイスへ出張する機会が多く、アルプス三山(ユングフラウ/アイガー、マッターホルン、モンブラン)を探訪する機会に恵まれた。しかし少年期に根子岳登山の機会を逸したことは今でも大変心残りに思っている。
 赤松新は昭和12年―13年母校の校医を務め、戦後の昭和23年、新教育制度で発足した上田市二中で校医を務めた。戦後何年か経て赤松医院の名前を聞かなくなったが、新、光子夫妻の子供が医院を継がず、閉院となったと思われ、子孫は現在も千葉県に居住している。
 赤松新の兄芦田閑(しずか)(母校5期)は慈恵医専を卒業し、丸堀町で医院を開業した。二人の父芦田諧(かのう)の旧姓は桜井で、東大医学部卒後に芦田くにと結婚して芦田家の婿養子となった。東大時代から上田市出身の山極勝三郎と友人で、その縁で芦田家へ入ったのかも知れない。軍医を務めたと云われる。
 芦田閑の娘すず子は兎束龍夫(母校23期)に嫁いだ。兎束龍夫は音楽家を目指し、東京音楽学校(現東京芸大)を卒業して母校のヴァイオリン科主任教授となった。兎束龍夫の兄が母校で長年(昭和18年ー35年)音楽教諭を務めた兎束武雄先生である。赤松家、芦田家、兎束家は何れも出石藩以来の松平家家臣なので、養子縁組や婚姻が比較的容易に行われたと思われる。

5 赤松小三郎受勲と記念碑建立
 
赤松小三郎受勲記念碑(左)・同裏(右)
 上田城跡公園内の駐車場を出て直ぐ、上田招魂社横に大きな石碑が見える。「贈従五位赤松小三郎君之碑」と書かれ、東郷平八郎揮毫となっている。
 大正13年(1924)赤松小三郎は宮内省より従五位を贈られた。これを記念して上田史談会が中心となって寄付金を集め、上田公園内に記念碑を建立することとなった。そこで日本海海戦の英雄東郷平八郎に揮毫を依頼し、その書を石材に刻んで記念碑とし、東郷の死後8年、昭和17年(1942)5月に漸く建立されたのである。東郷は赤松の門下生の一人で、同じく教えを受けた伊東裕亨、上村彦之丞と一緒に日本海海戦の翌年明治39年5月に上田市を訪れ、月窓寺の赤松家墓(赤松小三郎の遺髪が埋葬)を参詣している。
 この時は未だ薩摩藩が赤松を暗殺したことは判明しておらず、裏面の書には一部誤りがあり、暗殺者桐野利秋が門下生の筆頭に名を連ねている。記念碑建立発起人は上田史談会となっていて、当時母校教諭であった十亀先生も名を連ねている。上田史談会としては赤松に教えを受けた全ての薩摩藩士を身分の順番に記載したもので、後年になって判明した暗殺者桐野利秋が筆頭に刻まれる誤りを犯すことになった。この矛盾にいち早く気が付き指摘した人達(信大の太田教授等)の要望に応え、上田市教育委員会は記念碑の横に裏面の記述の誤りを認め、桐野等による暗殺を明示する掲示板を設置している。
 赤松への叙勲も帝国陸軍、海軍への功労を意図的に取り上げ、軍国主義思想を高揚する目的で薩摩藩出身の海軍首脳が推薦したものと思われる。
 赤松の受勲を記念して、生家の木町から紺屋町へ通ずる通りが赤松町と命名された。京都信濃会は暗殺現場、東洞院通り五条下ル和泉町に記念碑を建て、墓のある金戒光明寺の塔頭善教院の前にも記念碑を設置し、信濃教育会と共催で75年忌法要を金戒光明寺で営んだ。
                  
6 戦後の赤松小三郎再評価運動
6-1 桐野利秋の日記発見

 赤松の死後100年を経た昭和42年(1967)、桐野利秋(中村半次郎)の日記が発見され、事件の真相が明らかとなった。直接の命令者は明記されていなかったが、藩命により師の命を奪ったことが生々しく書かれていた。当時の薩摩藩の事情から、命令者は西郷隆盛に間違いなく、武力による倒幕を密かに画策していた薩摩藩にとって、藩の軍事機密を知り過ぎた赤松は危険な存在となっており、徳川幕府親藩の上田藩へ帰すのを阻止したものと思われる。示現流の達人で人斬り半次郎と恐れられ、師の顔を良く知り、道順、時間までよく知った桐野利秋等に襲われたので、赤松は護身用の短筒で応戦しようとしたが逃れる術はなかった。桐野以下8人の薩摩藩士が実名で記され、暗殺計画を立てて実行に移した様子が生々しく記述されていた。

6-2 赤松小三郎顕彰会(上田市)発足
 平成15年(2003)上田高校51期同窓生を中心に「赤松小三郎顕彰会」(会長伊東邦夫氏)が発足し、資料の発掘、検証を行っている。述の丸山瑛一氏、久保忠夫氏(信州ハム社長)が中心となって活動を始めた。現在は林和男氏が会長を務めている。

6-3 赤松小三郎生誕祭
  法被姿の伊東会長(東信ジャーナル)
 平成20年(2008)4月4日第1回「赤松小三郎生誕祭」が顕彰会の人々が中心となって立ち上げられた。「上田城千本桜まつり」が5日から開かれるので、この行事を連結して祭りを盛り上げ、観光都市上田市をアピールしようとしたものである。 伊東会長が作詞した曲「彗星赤松小三郎」が披露され、紙芝居の上演、法被姿でのぼりを立てての行進等で盛り上がった。その後毎年この行事は多くの人々が参加して継続されている。
     
6-4 赤松小三郎研究会(東京)発足
 平成23年(2011)東京の上田高校同窓会を中心に「赤松小三郎研究会」が結成され、隔月1回、会員以外の一般の人も参加して講演会等を開催し、活発な活動を行っている。会長は丸山瑛一氏が務めている。

6-5 上田郷友会報で海軍三提督の墓参記事再発見
 上田郷友会は明治11年(1878)山極勝三郎と勝俣英吉郎が呼びかけて上田出身の医学生の会、上田医学生会を立ち上げたのが前身で、明治16年(1883)に他学科生を含めて上田郷友会が発足した。会報は明治18年(1885)に創刊され、以来137年の歴史1500号以上の版を重ねてきた。
 偶然にも上記と同年の平成23年(2011)上田市の同窓生宅で、上田郷友会報第235号(明治39年(1896)5月号)に海軍三提督の上田来訪と赤松小三郎墓参の記事が詳しく記載されていたのが再発見された。そしてそのコピーが上田郷友会事務局へ送られ、後の例会で赤松小三郎の業績を再評価しようと論議された。
 一方、上田郷友会上田部会でも同年「赤松小三郎物語」の著者片桐京介氏を講師に招いて講演会を開催した。

6-6 赤松小三郎記念館建立(上田市)
  
赤松小三郎記念館入場券と直筆サイン(左)・旧墓石(金戒光明寺より移転)(右)
 
旧墓石裏面の拓本(最後から5行目に「緑林の害」の文字)(右)
 
 平成24年(2012)3月、上田市常盤城の旧丸山邸の土蔵1棟が提供され、「赤松小三郎記念館」が開館した。直前に母屋の火事騒ぎがあり、開館の遅れが心配されたが、漸く予定期日に間に合って発足した。平成23年(2011)赤松の墓がある京都の金戒光明寺より、144年を経た墓石が風化し、損傷が激しいので新装することを赤松小三郎顕彰会に提案された。顕彰会は直ちに寄付を募り、新しい墓石を造ることを決定した。この活動の中心になったのは、上田高校51期の伊藤邦夫氏、丸山瑛一氏、44期の久保忠夫氏等であった。
 そして新墓石を造成し、京都へ送って金戒光明寺に安置すると同時に、旧墓石を故郷の上田市へ持ち帰り、記念館を創立して展示することが検討され、実行に移された。丸山氏の所有する旧宅の一隅にある土蔵が提供され、改装されて記念館となり、この旧墓石を展示品の中心の据え、赤松が提案した「建白七策」の複製品等が展示されることになった。
 旧墓石の裏面には、赤松の経歴、功績を讃え、教えを受けた門下生一同が恩義に報いるために墓を建てたと記されている。その文中に「緑林之害」の文字があり、赤松が路上で強盗の被害を被って死去したと書かれている。この「緑林之害」の四文字は、明治維新前の薩摩藩の複雑な動き、謀略と欺瞞を告発する歴史の証人となっている。金戒光明寺に建てられた新墓石の裏面にも「緑林之害」の四文字は踏襲して刻まれている。
 また「建白七策」は3通作られ、福井藩主松平春嶽、薩摩藩国父島津久光、徳川幕府へと提出されたが、原本が残されているのは島津久光宛の1通だけで鹿児島の黎明館に残されており、その複製品がこの記念館を飾ることになった。館長には赤松小三郎顕彰会会長の伊藤邦夫氏が就任した。

 当主丸山瑛一氏の先祖は代々上田藩の御用達材木商であった。明治初年廃藩置県令の発令された時、上田城が民間に払い下げとなった。時の当主丸山平八郎は城の解体と散逸に心を痛め、本丸と西楼、城の土地全てを買い取って保存し、石垣の一部は自宅に持ち込んで利用した。他の建物は離散し、一部は遊郭の建物となったと云われる。
 明治12年(1879)旧松平上田藩士から旧藩主を祀る「松平神社」を建立したいとの申し出があり、丸山平八郎は快諾し、本丸の半分の土地を松平神社に提供し、西楼を含む半分の土地を松平家へ寄付した。更に明治18年(1885)残り全ての土地を公園、遊園地にする約束で上田町に寄贈した。幕末に姫路城を戦火から救った神戸の豪商北風荘右衛門と全く同様な事を実行した篤志家が信州、上田にも存在したことは誇らしい事である。その末裔が赤松小三郎再評価の運動の中心人物の一人となっているのも偶然ではない。
                
6-7 有名雑誌に掲載(文芸春秋、週刊朝日)
 「文芸春秋」平成26年(2014)6月号に宮原安春氏(ノンフィクション作家)が“「船中八策」に先んじた男“と題して赤松小三郎の業績を紹介し、特に議会政治の二院制を提唱したことを説明している。
 「週刊朝日」平成27年(2015)11月16日号ではNHKテレビの大河ドラマ“真田丸”が放映されていたこともあり、「坂本龍馬より時代に先駆けた男、赤松小三郎暗殺の真相」の表題で宮原氏が写真入り2頁で記述している。  

6-8 上田市立博物館で特別展開催、常設コーナー設置
 平成29年(2017)10月7日から11月26日まで上田城跡公園内の上田市立博物館で特別展「赤松小三郎 ― 幕末の先覚者」が開催された。博物館所有の赤松小三郎ゆかりの資料、記念物を整理して公開した展覧会である。
(翻訳者パネル、兵学者パネル、天幕合体パネル、知探求パネル、遺髪の墓画像)
 50日間の開催中、NHKテレビの「真田丸」放映の影響もあり、約15,000人の観客が訪れた。特別展終了後は館内に常設コーナーを設置して資料を公開している。 

6-9 赤松小三郎記念館の上田城跡公園内へ移転
 
移転した赤松小三郎記念館(左)・赤松小三郎顕彰会事務所(右)
 上記の展覧会を機に常盤城の旧丸山邸から上田城跡公園内の上田招魂社の一隅に記念館が移転された。地理的な不便さもあったので、一般観光客が訪れ易い上田城跡公園に関連施設を集約するためであった。
 運営:赤松小三郎研究会(会長 林和男氏)電話:02638-22-8503
 開館:土曜、日曜、祝日 11:00 - 16:00
 料金:無料
 開館日以外でも林会長様に事前に連絡すると、開館して頂けます。

*おわりに
 本文の作成に当たり、資料、情報を提供して下さいました林和男様(赤松小三郎顕彰会会長)、滝澤正幸様(上田市立博物館館長)、小山平六様(赤松小三郎研究会事務局)、田原敬様(上田郷友会事務局)に厚く御礼申し上げます。
 参考書:
「赤松小三郎物語」 片桐 京介著
「信州奇人考」 井出 孫六著
「会津藩VS薩摩藩」 星 亮一著
「王政復古」 井上 勲著
「幕末歴史散歩」(京阪神篇) 一坂 太郎著    
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「赤松小三郎―議会政治の提唱者」

   令和2年(2020)2月15日 48期 関口貞雄



日本人と七夕 ー『日本民俗地図』に見る20世紀前半の七夕行事ー

2019-03-04 23:23:01 | 調査報告
   
  日本人と七夕

     -『日本民俗地図』に見る20世紀前半の七夕行事-


20世紀前半の日本ではどんな七夕行事が行われていたのでしょうか。

昭和37年から昭和39年にかけて全国1342カ所で行われた民俗一斉
調査の結果をもとに、各地区で行われていた行事を抜き出して集計し、
日本の七夕行事を数量的に把握してみました。

はじめに
第1位 七夕竹を立てて短冊などを結びつけ、七夕飾りをする(281ヵ所)
第2位 だんごや赤飯など特別な食物をつくり供える(264ヵ所) 
第3位 墓掃除をおこない墓への道をきれいにする(171ヵ所) 
第4位 初物の野菜、果物や粟・きびの穂などを供える(96ヵ所)
第5位 井戸替えをする(66ヵ所)

第6位 水浴びする、7回水浴びする(56ヵ所)
第7位 真菰や藁などで馬をつくる(36ヵ所)   
第8位 虫除け・虫送り・虫干しをする(34ヵ所)
第9位 女は沼や川で髪を洗う(21ヵ所)
第10位 ネブタ祭り、ネブタ流しをする、ネムの葉などで目をこする(18ヵ所)

第11位 牛を川や池で洗う、泳がせる(17ヵ所)
第12位 物を洗うとよく落ちる(14カ所)
第13位 雨が降ると良い、雨がふると悪い(計13カ所)
第14位 着物を供える、晴着を着る、着物を着替える(12ヵ所)
第15位 小屋や宿で子供たちが集まって、泊まったり会食をしたりする(10ヵ所)

第16位 色紙で着物を作って飾る(6カ所)
第17位 七夕船を作り、川(海)に流す(4ヵ所)
第17位  相撲をとる(4ヵ所)
第17位 稲田をほめてまわる、田ホメ(4カ所)
第17位 奉公人の出がわり、下男が仕事から解放される(4カ所)


はじめに
 七夕というとまず思い浮かぶイメージは笹竹に短冊や吹き流しなど結んだ七夕竹の飾りである。この笹竹飾りを個人の家で立てたり、あるいは商店街で客寄せのため大規模に飾っているところも多い。しかし日本の七夕行事はこれだけなのだろうか。いったい日本ではどんな七夕行事が行われていたのだろうか。

 実はこの問いに答える恰好の資料がある。それは1962年度(昭和37)から1964年度(昭和39)にかけ、文化財保護委員会が国庫補助事業として実施した「民俗資料緊急調査」である。この調査は所定の項目について、各都道府県ごとに約30カ所の地区を抽出して実施され、調査地区の総数は1342カ所にものぼる。全国的な民俗一斉調査として、わが国で始めての大規模なものであった。

 調査が行われたのは20世紀後半に入っているが、調査の対象とされたのは各地域の老人で、しかも調査時点をできるだけ古い時代に置いたので、江戸時代からの習俗がまだ色濃く残る明治後期から大正・昭和初期の20世紀前半の日本社会が対象になった。

 この調査の報告集として文化庁編「日本民俗地図」第1巻が1969年(昭和44)に刊行され、20年後の1988年(昭和63)第9巻で完結した。第1巻「年中行事1」の「七夕」の調査データ(解説書)を分析してみると、調査地区が多いため20世紀前半の日本の七夕行事が数量的に把握できるのである。

 例えば七夕に作る特別な食物を分析してみると、「だんご」(97ヵ所)、「赤飯」(70ヵ所)、「まんじゅう」(34ヵ所)、「もち」(28ヵ所)、「うどん」(14ヵ所)、「ぼたもち」(10ヵ所)、「そうめん(7ヵ所)、「あずきめし」(4ヵ所)のように食物の種類と地区数が出てくる。これは日本全体の傾向をある程度反映しているといえる。ただ調査地区は農山漁村が多いため、都市の民俗より農村の民俗がより反映されているといえる。

 こうして数量化された日本の七夕行事は驚くほど豊富でしかも奥深い。あまりの豊富さに七夕とはいったい何なのかと考え込んでしまいそうだ。しかしここではまず、ありのままの姿を紹介して七夕行事が持つ、その複雑であるがゆえに魅力的な様相を味わっていただきたい。

 なお調査データの抽出にあたっては、内容の記述が不明確な箇所もあり、筆者の判断で採否を決めたものも多い。したがって集計数に若干の誤差があることはご了承ください。地区の市町村名は当時のままを記載した。(石沢誠司 2003年7月記)

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◎ 第1位 七夕竹を立てて短冊などを結びつけ、七夕飾りをする(281ヵ所)

 七夕行事のなかで一番普及しているのは、何といっても竹の七夕飾りである。竹の葉に「天の川」などと書いた短冊などを結んで星に字の上達や技芸の上達を祈るのは、現在の日本でも最もポピュラーな行事である。20世紀前半の日本でもやはり一番多かった。

「七夕様には家庭で色紙を短冊に切って、筆で七夕様に関する種々の文章を書いて、青竹の笹の枝に結び付け竹飾りを行なう。七夕様に書く墨水はさといもの葉にたまった水を取ってきて墨をする習わしである」(栃木県足利市本町)、「星祭りをする。色紙で短冊を作って天の川などと書き、竹笹の葉に結びつけて高く掲げる。子供らは芋の葉の露で墨をすって書く。字が上達するという」(埼玉県狭山市北入曽)などが代表的な例で、竹飾りには、(1)色紙で短冊を作り、(2)里芋などの葉の露で墨をすり、(3)天の川や七夕の歌などの文字を書いて吊るす、ことがセットになっていることが多い。

 ところで短冊にどんな文字を書くかについては、「天の川や七夕様、歌やいろは家族の名前」(香川県豊中町比地大)、「七夕の歌の本があってそれを書く(内容は俳句・詩)」(栃木県足利市高松)、「川の名、百人一首の歌を書く」(群馬県中之条町蟻川)、「短冊に古歌や格言を書いて笹に吊るすと、習字が上達すると言い伝えられている」(香川県満濃町吉野)などが一般的なところである。こうした文字を書くと習字が上達すると云われていた。「歌や願い事」(静岡県竜洋町掛塚)のように願い事を書くという例もあるが、願い事は現在ほど強調されていないようである。

 短冊以外の飾り物については、「網・折り鶴などの飾り」(茨城県大子町)、「女竹の枝々にちょうちんをつけ」(愛知県美浜町野間)、「色紙で作った着物」(福岡県大木町笹渕)などがあげられる。

 この項目に関連する事柄として、飾った七夕竹の使い道については、
「飾った七夕竹を川(海)に流す、川に立てる」(97ヵ所)、
「飾った竹を、田畑の中や畦等に立てて虫除けにする」(23ヵ所)
「飾った七夕竹を物干竿・釣竿などに使う」(4ヵ所)、が報告されている。

 なお七夕竹の飾りについて注目すべきコメントが収録されている。それは、「最近、子供たちがいわゆる七夕の行事をするようになったが、以前は墓掃除の日であった」(東京都八王子市松木)、「七夕は新しい風習で、墓掃除、井戸替えをする」(大阪府東能勢町木代)、「たなばたはもとなかったが、ちかごろ学校の影響で盛んに行なうようになった」(大阪府堺市別所町)などの証言である。これは調査地点の多くが農村・山村・漁村に位置していることが影響していると思われる。竹飾りは江戸時代に都市で発生した風俗であり、これが徐々に農山村に伝播していったのであるが、調査時点でも新しい風習と認識する人も多かったのである。

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◎ 第2位 だんごや赤飯など特別な食物をつくり供える(264ヵ所) 

 七夕には常の日と異なった特別の食物をつくりお供えし、また食べた。特別な食物とは、だんご、赤飯、まんじゅう、もち、うどん、ぼたもち、そうめん、あずきめし等である。これらの食物の多くは、祭日や祝日などいわゆるハレの日に食べるものである。七夕は江戸時代、五節句のひとつであり、この日は式日すなわち祝日であった。七夕に特別な食物を供えて食べるのは、こうした江戸時代から続くハレの日の感覚が残っているためである。

 京都では宮中で七夕に索餅(さくべい)という菓子が食された。これは小麦と米の粉を練って細く縄のように二本ないあわせた菓子で麦縄ともよばれる。これを真似て民間で食べるようになったのが素麺だといわれる。だから七夕の最も由緒ある食物は素麺ということになるが、素麺をたべる風習は日本民俗地図でみるかぎり非常に少なく全国的なものとはいえない。七夕の食物からみるかぎり、日本人は七夕と他の祝日を区別していないといえよう。

 七夕につくる特別な食物を多い順にならべると次のとおりである。
「だんご」(97ヵ所)
「赤飯」(70ヵ所)
「まんじゅう」(34ヵ所)
「もち」(28ヵ所)
「うどん」(14ヵ所)
「ぼたもち」(10ヵ所)
「そうめん(7ヵ所)
「あずきめし」(4ヵ所)

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◎ 第3位 墓掃除をおこない墓への道をきれいにする(171ヵ所) 
 
 七夕の行事で3番目に多いのは、墓掃除や墓への道をきれいにすることである。
「墓地から家までの道路を、部落総出で伐ったり、悪いところをなおしたりする。家のまわりの草もとったり、かたずけたりした」(青森県階上村田代)、「この日墓なぎをする。お墓の掃除や、道の草刈りをやり、寺では施餓鬼供養をして卒塔婆を出す」(茨城県緒川村小舟)などの事例が代表的なものである。

 「日本民俗地図」の調査項目には、行事の名称の項もある。もちろん「七夕(七夕祭り、七夕さん等も含む)」という呼び方が、675カ所もあり一番多いが、次いで「七日盆」という名称が82カ所ある。これは、ちょうど正月の満月が小正月で、その1週間前が七日正月というのとおなじである。つまり7月15日の盆の1週間前を意味し、「盆始め」とも呼ぶところがあるように、盆の準備として墓掃除や提灯を吊るしたり、灯籠を立てたり、仏具掃除をする日となっている。この習俗には星祭りの意味は認められず、盆行事の一環としての色彩がきわめて濃厚である。元来、7月は盆月とも呼ばれるように、1日から盆の準備を始めるところも多い。とくに盆道作り、道薙ぎ、墓薙ぎなどといって、道や墓の掃除をおこない、7日には盆迎えの最終的な準備、もしくはすでに盆の始まりとなるのであった。

 さらに盆の準備という観点からの関連項目として、
「盆踊りを始める」(19ヵ所)
「盆棚を設ける」(18ヵ所)
「迎え火をたく」(14ヵ所)
「提灯を吊るす、灯す」(12ヵ所)
「高灯籠を立てる」(10ヵ所)
「仏具掃除をする」(10ヵ所)
「寺参りをする」(8ヵ所)
「灯籠などを持って村中を練り歩く」(6ヵ所)
「川に灯籠を流す」(4ヵ所)などがある。

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◎ 第4位 初物の野菜、果物や粟・きびの穂などを供える(96ヵ所)

 七夕には初物の野菜や果物、また稲の穂、粟・きびの穂などを供えるところが多い。旧暦の7月は初秋とはいえ、稲の稔りにはまだ早い。農作物からいうと、瓜やキビなどの畑作物が収穫時期となる。

供え物として具体的に名前があがった作物では、野菜・果物では「なす」31カ所、「すいか」20カ所、「きゅうり」13カ所、「うり」13カ所、「とうもろこし」9ヵ所がベスト5で、穀物では「粟穂」「きび穂」がそれぞれ4ヵ所、「稲穂」「つときび」「とうきび」「なんばきび」がそれぞれ2ヵ所となっている。
            
 具体的例としては、
「初もの食いといって、なす(馬をこしらえる)・なんばきび・ほうずき・すいか・うりなどを供える」(岡山県備前町香登本)
「竹を2本たて、横竹をわたしてこれに栗の枝・柿・枝豆・あわ・きびの穂・ほうずきをさげる」(岡山県英田町河合北)
「笹竹を一本杭にくくり、この竹に麻がらで棚をつくり、ここに瓜やなすなどをお供えした」(鳥取県岩美町荒金)
「六日の夕方、笹に五色の短冊をつけ、いわゆるお棚をつくって十八豆・瓜・なす・きゅうり・とうもろこし・ほうずきなどとぼたもち(だんご)をそなえてまつる」(徳島県小松島市櫛渕)
などで、棚を作ってそこに供えるところもある。

 またわたしが直接、調査した例に「七夕さんは初物食いだからと、ほおずきのついた枝、稲穂のついた葉、柿の枝、枝豆、さつま芋のつる、ズイキ(里芋の葉茎)、ゴマの枝の7つを笹竹のもとのあたりに結びつける」(兵庫県姫路市的形町)といって、すべて青いままの枝葉を付けているものがあった。

 こうした初物を供える習俗と関連して、
「初物などを供えるための棚(七夕棚)をつくる」(15カ所)  
「七夕に供える野菜を盗みにゆく」(5ヵ所)、
「七夕荒し(供え物を盗む)をする」(5ヵ所)、
「生きた魚を供える」(3ヵ所)、
「初子の家では果物、野菜などを配る(初七夕)」(3ヵ所)が報告されている。

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◎ 第5位 井戸替えをする(66ヵ所)

 井戸替えというのは、井戸水を清めるため井戸の中の水やごみをすっかりくみ出して掃除することで、特に7月7日の七夕を選んで行なわれた地方が多い。
「井戸水をことごとく汲み上げ御幣を挿す」(秋田県琴浜村鳥居長根)「井戸さらいをして墓石を洗う。井戸さらいが終わると、井戸神様に酒を1本あげる」(茨城県波崎町明神)
「共同井戸の井戸さらえが行なわれ、水神様のお祭りがある」(山口県上関町白井田)
などの事例のように、井戸替えと同時に御幣を挿したり井戸の神様を祀ることも多い。これは、井戸が生活に不可欠な飲料水の源として常に信仰の対象であったことと係わっている。井戸替えと関連して、「池、川の掃除をする」というのも2カ所あった。

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◎ 第6位 水浴びする、7回水浴びする(56ヵ所)

 これも水に関する習俗であるが、この日は水浴びをすることが習慣となっている地方が多い。とくに7回水浴びをする、と7という回数が決まっているところが東北地方を中心にみられる。また水浴びに連動して7回飯を食べるというところも多い。水浴びをしたのは子供たちであるが、その理由として「水難にかからない」「身を清める」などが言われている。

事例として、
「水難にかからないといって、七度赤飯を食べ七度水浴する」(青森県鶴田町胡桃館)
「ナナゲリ飯を食いナナゲリ水浴びする、という」(青森県黒石市安入)
「1日7回ごはんを食べ、7回海にはいって身を清めた」(宮城県七ヶ浜町湊浜)
「この日は、七たびママ(飯)を食い七たび水泳ぎする日、だといって子供たちがはしゃいだ」(秋田県十和田町毛馬内)
「青少年は佐渡川で水浴。7たび浴び、7たび食べるという習慣があった」(秋田県平鹿町下醍醐)
「この日は七夕でもあるので海水浴に行く人、常願寺川に水浴びに行く人などさまざまである」(富山県富山市太田)
「7回水浴び、7回食事、7回衣装を変える」(岡山県英田町河合北)等が報告されている。
 水浴びに関連して、逆の「川にはいるな、泳ぐな」(4ヵ所)というところもある。

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◎ 第7位 真菰や藁などで馬をつくる(36ヵ所)   
  
 七夕に真菰や藁などで馬を作る七夕馬の習俗は、東日本の各地に伝えられている。ほとんどが馬(29カ所)であるが、千葉県では馬と牛を一緒に作るところが6カ所ある。これらの馬は対で作ることが多く、飾りかたもさまざまである。一般に馬は祖先の霊を迎える乗物とされており、七夕の馬も盆行事の始まりに関するものといえるが、地方によっては七夕様を迎える、といって独自の七夕行事となっているところが多い。

各地の事例には、
「麦わらで馬2匹を作り厩の前に置き、16日に屋根に上げた」(福島県梁川町八幡)
「麦藁で作った牝牡の馬(七夕様を迎える馬)を屋根の軒先に置く」(福島県安達町上川崎)
「七夕様を迎えに行く馬を麦わらでつくり、屋根にあげる」(福島県飯館村飯樋)
「6日にまこもで馬の形を2匹つくり、向かい合わせて棒にまたがせ、この棒をつり、たづなでゆわく」(埼玉県浦和市大久保領家)
「まこもの馬(おす・めす)を作り、向かい合わせて竹の横棒にのせ、七夕が終わると母屋にほうり上げる」(埼玉県朝霞町膝折)
「6日の晩にまこもで作った馬2頭を左右にし、中間に縄を張り、竹と竹との中間に飾る」(埼玉県騎西町正能)
「まこもでつくった馬2頭を向かい合わせて竹棒につけ、竹笹に飾りつける」(埼玉県杉戸町下高野)
「まこもか藁で牛・馬をつくり、朝草を刈ってきて七夕の竹の下にしき、その上におく。竹は夕方川に流し、牛・馬は氏神様に供える」(千葉県神崎町神崎本宿)
「まこもの馬と牛を(台)車にのせて早朝から走り回った」(千葉県九十九里町西野)
「ミチシバで25~26・の男馬・女馬を作り、鞍棚におく」(静岡県小山町大御神)等がある。

 一方これと関連する項目として西日本ではナス・キュウリで馬・牛を作るところが10カ所ある。
「縁に机を出し、みようが・きゅうりで馬を作り、馬の足を竹の枝で作ってたてる。みょうがの子で鶏をつくる」(岡山県新見市千屋)
「なすの牛、きゅうりの馬、みょうがのにわとりなどを作って供える」(岡山県八束村)
「みょうがとほうせんかの花弁でにわとり、きゅうりで馬、なすで牛をつくる。牛馬の尻尾にはナンバキビ(とうもろこし)の毛を用いる」(広島県東城町塩原)などがその事例である。

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◎ 第8位 虫除け・虫送り・虫干しをする(34ヵ所)

 七夕に虫除けや虫送り、虫干しをすることもよく見られる。なかでも七夕に飾った竹を、田畑の中や畦等に立てて虫除けにする習俗が23ヵ所ある。

具体例には、
「夕方ぼたもちをつくって、五、六尺ほどの小笹の枝元にはさみ、短冊に虫送るように書いて用水に立てておく」(宮城県泉町古内)
「竿飾りを行ない短冊に川名のほかに『大根大当り』などと書いてさげた。竿は翌日大根畑に持参し、虫よけの呪いとした」(福島県梁川町八幡)
「笹竹に短冊をさげ軒先に飾る。七夕が済めば大根や野菜畑に虫除けと称してたてる」(福島県安達町上川崎)
「笹竹は翌日川に流すが、一枝だけ残しておいて害虫がつかないといって大根畑に立てる」(茨城県緒川村小舟)
「七夕の竹は大根畑にたて、これをたてるともぐらが土を起こさない」(長野県真田町入軽井沢)
「立てた竹の小枝を大根畑にさすと虫よけになる」(長野県東村仁礼)「七夕の短冊を川に流すとき、小枝を畑に立てて虫除けにする」(徳島県東祖谷山村菅生)
などがあげられる。立てる場所は、野菜畑とくに大根畑が多い。

 本格的な虫送りをするところも7カ所ある。虫送りは稲などにつく病害虫を追い払うため村単位で行なわれる共同祈願の儀礼で、通常6、7月の夜に行なわれる。これを七夕に行なうのである。

事例としては、
「虫送りがある。虫をとり紙に包み、御幣を竹に挟み太鼓をたたいて村境に送る」(福島県飯館村飯樋)
「山垣(やまがい)上のかがり火を合図にたいまつをつけて、『稲の虫はゴジョウラク』といって畦をかける」(兵庫県青垣町佐治)
「休息日であり、虫おとしという供養をする。「何々おくる、何の虫おくる、稲の虫おくる」といい村境まででかけた」(広島県比和町三河内)などがある。

 また衣類や書籍などを取り出し、これに風を通して虫の害やカビを防ぐ虫干しも、寺などを中心に4カ所報告されている。

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◎ 第9位 女は沼や川で髪を洗う(21ヵ所)

 子供が水浴びをするのに対し、女性は沼や川で髪を洗うという習俗が多い。これは水による清めという点で共通するものである。以下の21カ所である。

「早朝女の人は河辺で髪洗いする」(福島県福島市鎌田)
「この朝四つ前に沼に行って髪を洗うと頭の病が治るという」(茨城県牛久町城中)
「この日に髪を洗うと黒く長くなる」(埼玉県越生町小杉)
「四つ前に髪を洗うと黒く長くなり、また洗濯物の汚れがよく落ちるという」(埼玉県花園村黒田)
「髪や膳を川で洗うとよく落ちる日という」(新潟県小千谷市西小千谷)
「この日に頭を洗うとよいといわれた」(富山県富山市星井町)
「女が髪を洗う日であるといわれた」(石川県小松市埴田町)
「この朝女の人は四つ前に川へ行って髪を洗った」(愛知県新城市大海)
「この日女は髪を洗った」(愛知県津具村行人原)
「女は7日に髪を洗うしきたりであった」(大阪府岸和田市土生町)
「7日の日に女は髪の毛を洗った。この日に髪の毛を洗うとからすのように黒く柳のように長くなるといった」(大阪府貝塚市蕎原町)
「この日頭の毛を洗うとよく落ちるという」(奈良県平群村櫟原)
「この日髪を洗えば良く落ちるといって、昔は川へおりて髪を洗った」(奈良県十津川村竹筒)
「この日、この川は京の鴨川となるので、女が髪を洗うとよい」(鳥取県西伯町落合)
「女の人はこの日に髪洗いをした」(徳島県徳島市上八万町)
「髪を洗うとよいという」(徳島県美馬町惣後)
「女は谷川で髪を洗う」(徳島県東祖谷山村菅生)
「流れ川で髪を洗う」(香川県満濃町吉野)
「女たちはこの日特に七夕洗いといって洗濯をしたり、髪を洗ったりする」(福岡県前原町井原)
「女子は七日洗いといって髪を洗ったり、その他のすすぎ洗濯をする」(福岡県大川市榎津)
「女子は七夕洗いといって、髪を洗ったり洗濯したりする」(福岡県高田町開)

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◎ 第10位 ネブタ祭り、ネブタ流しをする、ネムの葉などで目をこする(18ヵ所)

 ネブタ祭りといえば、青森県の青森市(ネブタ祭り)と弘前市(ネプタ祭り)が有名である。これはおおきな人形型や扇型の灯籠を練り歩き、7日の朝に川や海に流す行事である。これほど大規模でないが青森県を中心に灯籠をつくり、練り歩く行事が6カ所報告されている。

「ネブタ灯籠といって人物または動物をかたどった大灯籠をつくり、陰暦7月5日ごろから7日まで3日間、子供らは扇形か金魚ネブタを1日から1週間運行する」(青森県今別町袰月)、
「小さな扇形のものを各自で作り、はやしながら歩いた」(青森県柏村桑野木田)、
「1日から7日までネブタをつくり、灯をつけて1週間内を巡り歩く」(青森県浪岡町王余魚沢)、
「1日の晩から毎晩1週間、若者連中はナブタ祭りを行う」(青森県平賀町広船)
「ネブタが明治30年ごろまて盛んであった。若者組が主催しおおきなキリコを作って車に乗せ、町内を曳きまわった」(秋田県多和田町毛馬内)
「七夕のやま(山車)は大正末期から昭和の初期にかけて作られた。手製の灯籠に絵を書き、太鼓をのせて笛・拍子木のはやし方がつき、旧7月6,7日にをねり歩いた」(秋田県稲庭川連町大館)

なおねぶたという言葉は用いないが、ガクとよばれる灯籠を荷車につけ行列するネブタと同じような行事が北海道で報告されている。
「各町内ごとにガクを出す。ガクはトンチ絵や、武者絵を書いた6尺くらいの大きさの燈籠を荷車につけたもので、太鼓をたたいて行列し、行列がぶつかるとけんかする」(北海道松前町)

 いっぽうネブタと言葉は同じであるが、行事の内容はいささか異なるネブタ流しも東北地方を中心に12カ所みられる。それは「ねぶた流し」「ねむった流し」などとよばれ、ねむの木の葉や大豆の葉で目をこすり眠けをはらう習俗である。言葉だけが残っているところもある。

「ネブタ流し、7月1日はネブタの始め」(青森県相馬村)
「ねむり流し」(秋田県稲庭川連町大館)
「ごちそうを食べて、ねぶると流すぞ、といって一晩中遊んだ」(山形県酒田市本楯)
「七夕と合わせて未明にネムッタ流シの行事がある。ねむの木の葉のまだ開かないうちに、洗顔のときに葉っぱで眼をこすり、『ねむった、ねむった流れろ』と唱えて流すと、お盆に夜ふかししても朝起きができるという」(福島県表郷村金山)、
「ねむった流し。朝ねむの木の葉が合わさっているうちに、ねむの小枝と豆(大豆)の葉を川に流す」(福島県矢祭町内川)、
「子供はねむった流しをする。豆の葉で眼をこすり『ねむった流れる、豆葉つっかかれ』といって豆の葉を川にながす」(福島県下郷町南倉沢)、
「子供はメッタ流しを大川で行い、『メッタ(目胎の意)流れよ、豆の葉とまれ』と唱える」(福島県西会津町弥平四郎)
「早朝暗いうちに子供は水あび(ねぶたといった)に行った」(栃木県黒羽町川上)
「朝はねぶたで目をこすり顔を洗うと、夏の暑い日に眠けがさめるという。翌朝それらを川へ流すが、以前は『ねぶたは流れる心はとまれ』などといった」(埼玉県小川町小貝戸)
「土地ではネブタ様といっている。朝早くネブタを取ってきてそえる」(埼玉県秩父市裏山)
「ネブタの木の枝も新竹にそえて祭る」(埼玉県大滝村滝之沢)
「朝早く子供たちは『眠気を流す』といって、祭った笹竹を川へ納めにいく」(愛知県新城市大海)

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◎ 第11位 牛を川や池で洗う、泳がせる(17ヵ所)

 牛は農耕用として、また運搬用として古代から飼育されていた動物である。七夕に牛を洗ったり泳がせたりする風習は「牛洗い」などとよばれ、西日本に多い。特に大阪4、岡山4、広島7で計15例と大半を占めている。

「牛の水を浴びる日」(新潟県両津市河崎)
「牛を飼う家では朝、牛を川で洗い氏神さんへ詣った。牛神さんというものがあり、麦ばかりの握り飯にぬかをふって、牛神さんに供え、それを各家へ1個ずつもらって来て、食べるまねをしてから、牛に食わせた。」(大阪府岸和田市塔原)
「朝早くおきて川へ牛を洗いに行った。牛洗いには小木川の上流の山奥へ行った」(大阪府貝塚市蕎原)
「朝早く牛と出かけ、たなばたを川へ流し、牛を池で泳がせた。そのあと牛を牛神へつれていってお神酒をうけた」(大阪府熊取町和田)
「七夕を流しにゆくとき、牛をひいて行って川で洗ってやる。それから牛神につれてまいった」(大阪府東鳥取町自然田)
「根来川で牛洗いと称し、小麦わらで牛を洗う」(和歌山県岩出町根来)
「牛を河につれてゆき洗う」(岡山県矢掛町東三成)
「牛を洗う」(岡山県昭和町水内)
「牛洗い」(岡山県北房町中津井)
「牛も洗ってやる」(岡山県八束村)
「牛の盆といって牛を洗う」(広島県尾道市梶山田)
「牛を洗ってやる」(広島県甲山町東上原)
「牛ノ釜と称して牛を洗う」(広島県福山市走島町)
「たでの葉で牛を洗う」(広島県豊松村)
「午前中、牛を川原につれて行って、しらみがわかぬといって、たでの葉・きゅうりの葉で洗ってやる」(広島県東城町塩原)
「この日いぬたでをもって牛を洗う」(広島県東城町帝釈)
なお1例だけ「牛馬を洗う」(広島県世羅西町上津田)と馬を含めた例があった。

 関連した事例として、「牛神をまつる」が6ヵ所(大阪府4、和歌山県1、広島県1)報告されている。

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◎ 第12位 物を洗うとよく落ちる(14カ所)

 物を洗うとよく落ちるからといって、七夕に道具などを洗う習俗もよくみられる。これは、井戸替えをする、水浴びする、女は髪を洗うなど、この日に水で清めるという習俗と関連するものであろう。

「午前10時までに物を洗うとよくおちるという」(茨城県古河市中田)
「この日に洗うとよく落ちるといって、家では燈蓋皿や鉢や油のしみた道具などを洗った」(長野県清内路村)
「この日に物を洗えばすべてきれいになる」(神奈川県小田原市早川)
「この日に油のついたものを洗うとよく落ちるといわれている」(愛知県新城市大海)
「かわらけの油はこの日の朝、人知れず洗いに行けばよく落ちる。また洗濯をするとよくとれるという」(奈良県十津川村神納川)
「この日に洗い物をすればよく落ちるといって谷へ洗いに行った」(奈良県十津川村谷垣内)
「7月6日仏壇から位牌その他をおろして水で洗った」(鳥取県関金町今西)
「この日仏道具をみがき、朝日のあたらぬ先にすずりを洗う」(鳥取県日南町多里)
「すずり本洗い」(広島県八本松町飯田)
「7日の朝、まだ日の出ぬとき、かわらけを洗う」(徳島県羽ノ浦町)
「女たちはこの日特に七夕洗いといって洗濯をしたり、髪を洗ったりする」(福岡県前原町井原)
「女子は七日洗いといって髪を洗ったり、その他のすすぎ洗濯をする」(福岡県大川市榎津)
「女子は七夕洗いといって、髪を洗ったり洗濯したりする」(福岡県高田町開)
「油のついた道具類も洗う。この日の水は油ものがよくおちる」(大分県栄村五馬)

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◎ 第13位 雨が降ると良い、雨がふると悪い(計13カ所)

 七夕の日は雨がふるという言い伝えを持つところが多い。「雨がふると良い(8カ所)」というところと、「雨がふると悪い(5カ所)」というところがある。

 良いという事例は、
「雨のないときは風害があるといい、雨の降ることを祈る」(栃木県鹿沼市樅山)
「この日雨が降るとよいとされた」(栃木県川上)
「6日に雨が降るとよいという」(東京都世田谷区粕谷)
「(七夕には)大きい雨が降るといった。朝降ると陽気がよいという」(神奈川県山北町中川箒沢)
「この日たとえ3粒でも雨が降ったほうがよい」(神奈川県松田町寄・虫沢)
「この日は1粒でも雨が降るとよいといわれた」(富山県富山市星井町)
「七夕の晩雨だと天の川に水がでて彦星と織女が逢えぬから、その年は虫が出ぬ」(山梨県富沢町福士)
「この日雨が降らなければ、ほうそう神さんがたたるといって子供の状態に注意する。雨が降るとほうそう神とやくの神が天の川で会うのでそんな心配はない」(山梨県丹波山村)である。

 雨がふると悪いという事例は、
「この日には雨が降って天の川が洪水になって2人が会えないものだという」(兵庫県社町上鴨川)
「七夕雨が降ると伝染病がはやるという」(奈良県安堵村岡崎)
「この日四つまでに雨が三粒でも降れば二人は会えぬという」(奈良県十津川村谷垣内)
「雨が3粒おちてもたなばた様はお出にならんという」(高知県木壽村四万川)
「雨が3粒降ると、お星様は天の川を渡れない、といった」(高知県土佐山田町楠目)である。

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◎ 第14位 着物を供える、晴着を着る、着物を着替える(12ヵ所)

 七夕に着物を供えたり、着替えたり、晴着を着る習俗が各地に残っている。これは機織りや裁縫など技芸の上達を祈る乞巧奠の行事に、江戸時代になり着物を供える習俗が出てきて、それが続いているものである。

「一番装いを七夕さまに貸し申す、と称して晴れ着を着る」(岩手県大野村大野)、
「屏風か縄に女の衣装をかけて祭る」(山形県酒田市飛鳥)
「七夕様の織った衣装になぞらえ、廊下・座敷などに衣装を掛けた」(福島県安達町上川崎)
「女の子にひとえもんの着物をつくって着せる」(群馬県中之条町蟻川)
「新しく縫った着物を七夕様に供えると、針の腕があがる」(埼玉県越生町小杉)
「新しく縫った着物を七夕様に供えると、針の腕があがる」(埼玉県花園村黒田)
「主人と主婦の着物と帯、せんすを供える」(静岡清沢村黒俣)
「帯と着物を盆の上にのせ、きゅうり・ささげ・なすなどをまつった」(静岡県佐久間町戸口)
「盆に着る着物を作ってもらったら、たなばた様に着ぞめをしてもらえば焼き穴ができぬといって、木刀のまん中をくくってさげ、両袖を通して仏さまの前にさげておいた」(奈良県十津川村谷垣内)
「7回水浴び、7回食事、7回衣装を変える」(岡山県英田町河合北)
「7度水泳をして、7度着物を着替える」(広島県東城町帝釈)
「七夕さまは子供だくさんで貧乏であるから、この日衣類をお供えする」(大分県姫島村) 

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◎ 第15位 小屋や宿で子供たちが集まって、泊まったり会食をしたりする(10ヵ所)

 この日、子供たちが小屋や宿に集まり、泊まったり会食をしたりして遊ぶ地方も多い。東北地方を中心に、長野県、広島県、徳島県で集まった子供たちが水浴びをしたりして楽しむ様子が報告されている。

「子供たちは川べりに小屋を作って、水泳をして遊び、食事を共にし、夜は花火を上げる」(宮城県大和町吉田字沢渡)
「各子供組ごとに、子供たちが宿に集まり、白玉やそうめんを持ちより、ごちそうを食べて『ねぶると流すぞ』といって一晩中遊んだ」(山形県酒田市本楯)
「6日の夜から河原に小屋かけして泊まり、7日浴ビの水浴びをやる」(山形県米沢市通町)
「子供は小屋がけして宿泊し、七夕を祝う」(山形県米沢市綱木)
「6日の夜、子供たちは一室に集まり、共同炊事をして泊まり、7日朝、暗いうちに泳ぎに行った」(山形県白鷹町荒砥)
「子供が集まってどこかの家を宿にして、カワラゴモリといって泊まり、七夕祭りをする」(福島県喜多方市岩月町入田付)
「子供たちが、川ばたに小屋をつくっておこもりをした。ここで泊まって7日の朝早く水浴びしてオネンブリを流すといった。戦後やめになったが、子供たちがここで泊まるときいろいろ持ち寄って自分たちで料理をして食べた」(長野県真田町入軽井沢)
「子供は1か所へ集まり、親がでて米を持ち寄り、食事の世話をする」(広島県高陽町王久)
「加計本郷の子供たちは太田川の河原2か所に石を舟形に積み重ねむしろをしき、船の周囲に竹に短冊、幕をはってちょうちんをつり、へさきにはしめ縄をはり、野菜その他の供物を供えた。夜にはいるとろうそくをたて、太鼓をたたき素麺をたべて花火をやった」(広島県筒賀村)
「6日夜、七夕のよいで、子供組がシャーラ(精霊)小屋に集まり、子供がしらが中心になって遊ぶ」(徳島県鴨島町敷地)

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◎ 第16位 色紙で着物を作って飾る(6カ所)

 第14位の着物を供える習俗に関連して、子供が色紙で作った着物を飾る習俗が江戸中期から起こるが、これが各地に伝播して残っているものである。

「笹竹に小袖や小袴の折り紙をつるす」(愛知県新城市大海)
「女は五色の色(紙)で着物を折って供える」(福岡県前原町井原)
「色紙で作った着物を笹竹につけて飾る」(福岡県大木町笹渕)
「色紙で、袴・帯・花などを作って長い竹ざおの先につけてたてる」(熊本県八代市妙見町)
「女子は衣服の雛形を作って供える」(大分県栄村五馬)
「女は色紙で着物をつくり、から竹にむすんで立てる」(鹿児島県財部町下大川原)

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その他として主なものを項目だけ紹介すると以下のようになる。

◎ 第17位 七夕船を作り、川(海)に流す(4ヵ所)

「茅で作った船を子供がかついで「たなばた様よ、来年ござれよ」と唱えて村を回り、船を海に流す」(新潟県粟島浦村)
「茅で舟を作り、ちょうちんと短冊で美しく飾りたて、ねり歩いたのち川へ流す」(新潟県神林村宿田)
「青年たちは、麦藁・竹・藤づるなどで6~7尺の舟を作った。舟には人形と馬形を各戸が作ってのせた。青年たちはこの舟をかついで神社にお参りしたのち、もみ合いをしたのち海に行き「七夕様ようーまた来年ござれようー」と唱えながらこの舟を海に流した」(新潟県築地村大字村松浜)
「七夕舟を流す」(香川県多度津町佐柳島)

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◎ 第17位  相撲をとる(4ヵ所)

「淡島宮祭礼、西番の淡島の宮跡(合社があった)で奉納相撲をする。この祭神は疫神とも女人ともいって男の裸を喜ばっしゃるとされ毎年する」(富山市太田)
「村相撲があり、子供たちが相撲をとったが約55年前になくなった」(大阪府岸和田市土生町)
「若者は相撲をとった」(大阪府熊取町和田)
「福智下宮に里組が集まって、宮司のお祓いの式があって、子供角力に興じた。現在は行っていない」(福岡県赤池町上野)

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◎ 第17位 稲田をほめてまわる、田ホメ(4カ所)

「この日に三部経祭りの土のだんごを受けて来て、これをくだいて、おのおの自分の田を回りながら田にまき、稲田のできがいいとほめて回る行事があった。田ホメは現在はしていない」(福岡県鞍手町長谷)
「たいへんよくできました、と田をほめにゆく」(大分県大田村上沓掛)
「浴衣がけで田のできぐわいを回りながら、稲の作柄をほめて回る。田ホメの行事という」(大分県山香町浦篠7)
「田ボメ」(大分県武蔵町吉広)

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◎ 第17位 奉公人の出がわり、下男が仕事から解放される(4カ所)

「下男は仕事から解放された」(神奈川県相模原市田名滝)
「奉公人の出かわり(契約のきりかわり)の日でもある」(和歌山県下津町大窪)
「奉公人のいれかわりの日」(和歌山県清水町杉野原)
「昔は奉公人の出替りもこの日であった」(和歌山県金屋町石垣)

以上


                    

日本の七夕行事 100選 

2019-03-01 21:04:57 | 日本の七夕行事 100選 
   日本の七夕行事 100選  

 このページは2003年に七夕文化研究会が選んだ日本の主な七夕行事の一覧です。。その後、2010年まで追加補充しましたが、七夕文化研究会は現在活動を休止しているため、現代の状況は把握できておりません。そのため、各行事の内容が現在と変化しているかもしれませんが、ご了承ください。

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北海道・東北
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<北海道>

おびひろ七夕まつり 8月上旬(7日を含む4日間) ◎北海道帯広市
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○ 北海道で一番歴史のある商店街七夕
 昭和29年、市内広小路商店街の商店主らが企画した子供たちのための七夕まつりが、予想以上の賑わいだったため、翌30年(1954)、広小路七夕まつりとしてスタートした。各商店の手作りで最初は素朴な飾りだったが、回を重ねるにつれて華やかさを競い合うようになり、市民の祭りとして定着した。2004年に50回を迎えた。(HPより)

 
七夕のローソクもらい 7月7日(◎函館周辺)、8月7日(◎函館以外の全域)
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○ 七夕のはやし歌をうたい家々をまわり、ローソクやお菓子をもらう子どもの行事
 北海道全域の市や町で行われている七夕の子どもの行事。函館では7月7日の夜に、子どもたちが近所の家々をまわり、玄関口で「竹に短冊 七夕まつり おおいや いやよ ローソク一本 ちょうだいな」などと七夕のはやし歌を歌い、ローソクやお菓子をもらう。函館以外の北海道各地では、8月7日前後にローソクもらいをする。海岸地域では「今年は豊年 七夕まつり」などと枕言葉がついているのに対し、内陸部の多くの地域では、すぐ「ローソク 出せ出せよ 出さないと カッチャク(ひっかく)ぞ おまけにくっつくぞ」などと歌う。家々ではこの日のために小さなローソクを用意して、回ってきた子どもたち一人ひとりに与えた。近年はローソクよりお菓子などをもらうほうが楽しみのようである。なお金銭をもらうようになり、学校から禁止されローソクもらいをとりやめた地域も多い。(小田嶋政子『北海道の年中行事』北海道新聞社より)
 なお北海道以外では、秋田県に「七夕さまのおくねりだ ローソク一本ちょうだいな」というはやし歌があり、新潟県では中条町村松浜で、「竹にたんざく 七夕様よ ローソクだせだせよ ださねどかっちゃくぞ ワー、ワー、ワー」と歌う。(畑野栄三「村松浜の七夕流しと武者人形と紙人形」)


<青森県>

八戸七夕まつり 7月中旬(第3金曜~月曜日の4日間)  ◎青森県八戸市
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○ 華やかな飾りと盛りだくさんな企画で、県南地方の人々に親しまれている
 昭和28年から始まり、半世紀に渡り広く県南地方の人々に親しまれている七夕。八戸市の中心部、表通りを中心に華やかな飾りと盛りだくさんな企画で親しまれ、毎年30万人の人出がある。(HPより)


<秋田県>

七夕絵どうろう祭り 8月5日~7日  ◎秋田県湯沢市
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○ 美人画の絵どうろうが大小数百飾られ、優美であでやか 
 江戸時代に湯沢の領主であった佐竹南家に、京都の鷹司家から嫁いだ姫が、京都の風習にならい、竹に五色の短冊を飾り、夜は意匠を凝らした灯籠を灯したのが始まりといわれる。後に美人画を描いた灯籠がたくさん飾られるようになった。夜を彩る大小数百の美人画絵どうろうは、優美であでやかである。(HPより)


能代役(やく)七夕(ねぶ流し) 8月6日・7日  ◎秋田県能代市
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○ 城郭をかたどった大灯籠が繰り出し市内を練り歩く江戸時代からの行事
 江戸時代から続く能代伝統の行事。8月6日に城郭をかたどった大若灯籠が繰り出し、勇壮な笛・太鼓で調子をつけ市内を練り歩く。7日は灯籠の最上部に取り付けられているシャチを米代川に運び、筏船に乗せ焼き流す。「役(やく)七夕」とは当番の役を仰せつかった町組がつくる大きな七夕灯籠を意味し、ひいてはこの祭りを言うようになった。能代役七夕は青森のねぶた祭りなどと同じく大灯籠が練り歩く「ねぶ流し」系の祭りである。
 なお、これに先立ち8月3日に子供会ごとに山車を引き回す「こども七夕」、4日に希望者の個人や団体が灯籠を曳く「観光七夕」がある。(『眠流し行事 能代役七夕』能代市教育委員会より)


小坂七夕祭  8月上旬(第一土曜・日曜日)  ◎秋田県小坂町
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○ 青森ねぶたの流れをくむ武者人形の山車などが町内を練り歩く
 明治の末頃が始まりといわれる小坂七夕は、町内の各自治会が製作した青森ねぶたの流れをくむ武者人形などの山車が独特の小坂囃子にのって町内を練り歩く。また2日目の夜はすべての山車の合同運行がある。(HPより)


<岩手県>

気仙町けんか七夕 8月7日  ◎岩手県陸前高田市気仙町
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○ 杉の丸太をくくりつけた山車と山車がぶつかりあう勇壮な祭り
 山車に若衆が乗り込み、笛や太鼓のお囃子で練り歩く。山から切り出した太い藤づるで杉の丸太を山車にくくりつけ、山車と山車をぶつけ合う勇壮な祭り。昼は長部漁港、夜は今泉町の路上でぶつかり合う。県指定無形文化財。(HPより)


高田町うごく七夕 8月7日  ◎岩手県陸前高田市高田町
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○ 七夕の飾り付けをした山車が町を練り歩く
 町内の12ある祭り組が、それぞれ思い思いに飾り付けた山車を出し、威勢のいいお囃子に合わせ勇壮に町を練り歩く。夜になると山車の飾りも変わって灯がともり、幻想的な山車がそれぞれに華やかさを競う華麗な七夕祭りとなる。(HPより)


海上七夕まつり 8月第一日曜日  ◎岩手県陸前高田市
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○七夕飾りを付けた船が海上を巡航する全国でも珍しい祭り
 別名「舟七夕」と呼ばれる海を舞台にした祭りである。高さ約20メートルの青竹に、数万枚の赤一色の短冊と吹き流しを飾り付け、甲板に立てた「短冊船」と呼ばれる飾り船が、バレンと呼ばれる花飾りをつけた「バレン船」、大漁旗や吹き流しを飾り付けた「随行船」を従え、広田湾を巡航する。(HPより)


土沢七夕まつり 8月6日~8日  ◎岩手県東和町
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○ 色鮮やかな吹き流しや絵とうろうが通りを飾る
 東和町の中心市街地である土沢商店街を中心に開催される七夕まつり。色鮮やかな吹き流しや絵とうろうが通りを飾り、人出も賑わう。7日夜は町民が参加して手踊りパレードが行われる。この地方では大正時代から家々の軒先に小竹に飾り付けていたが、昭和5年頃、現在の背の高い竹への飾りになったという。昭和63年からは、東和牛まつりも併催されている。(HPより)


<山形県>

東根の七夕祭り(動く七夕提灯行列) 8月10日 ◎山形県東根市 
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東根独特の子ども達の提灯行列が続く、動く七夕提灯
 東根の七夕祭は、江戸末期から明治初期に七夕の夜(旧暦7月6日)、各家で農作や家内安全等の願い事を長方形の田楽提灯に書き、養蚕の棚竹に付けて家の前に立てたものを、子供たちが持ち出して歩きまわったのが始まりと言われている。
 子供たちは短冊を青竹に下げて、自分で作った提灯に絵や字を書き、秀重院境内に祀られている天神様より灯をいただき提灯に移し、学問の向上、学芸の上達、五穀豊穣、家内安全を祈って町内を練り歩いた。田楽提灯のほかに星、扇、西瓜、胡瓜、茄子、唐辛子、焼麩の形をした提灯も作った。
 第二次大戦後は8月6日の夜に行なわれるようになり、東根小学校の校庭に集合し、一斉に提灯に灯をともし「竹に短冊七夕さまよ、一年一度の七夕さまよ」と斉唱し本町通りを練り歩く盛大なもので、小中学生だけで自主的に七夕祭りを行なっていた。
 その後、受験勉強やクラブ活動、少子化等で、七夕祭りに参加する子供が少なくなり継続が危ぶまれてきたので、昭和47年に七夕祭保存会を設立し、全面的に後援するようになった。それからは、先頭の山車としてお城や五重の塔、宝船、マンガのキャラクター等の大型提灯がトラックに搭載されて出るようになった。
 平成元年から東根まつりの一環として祭りの第一日目(8月10日)に開催されるようになった。参加者も東根地区の子供クラブだけでなく東根市全地区の子供クラブや東京東根会の会員も参加するようになり、さらに盛大な祭りとなっている。近年は和紙を使い昆虫や花をかたどった昔ながらの提灯も登場している。平成6年、東根市指定無形民俗文化財。(東根七夕保存会の説明文より)


<宮城県>

仙台七夕まつり 8月6日~8日  ◎宮城県仙台市
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○ 日本の商店街七夕のさきがけ
 仙台では江戸時代から七夕が盛んであったが、明治以後、五節句が廃止されるとともに年々衰微していった。昭和2年、市内大町5丁目の商店会が七夕飾りを復活させたところ好評で、翌3年、仙台協賛会と仙台商工会議所との共催で、8月6日を期して今日見られる七夕まつりが始まった。この行事は年々盛んとなり、昭和7年の人出は15万人となった。戦中戦後の中断期(昭和17~20年)を経て、昭和21年には再開、翌22年天皇が見学されたのを契機に本腰をいれて復活、今日の豪華絢爛たる七夕に成長した。本物の和紙から作られる洗練された飾りは日本一といわれ、毎年200万人を超える人出がある。
 仙台七夕は商店街が中心となって飾られるが、二十数カ所の商店街が参加しており、飾る場所は全市に及ぶ。メイン会場は市中心部のアーケード商店街で、薬玉やサイコロから下がる吹き流しのカーテンをくぐるように歩くさまは、仙台七夕の典型的な光景である。仙台七夕には昔から「七つ道具」を飾る風習がある。これは、吹き流し、短冊、折り鶴、紙衣、巾着、投網、屑籠の七つで、こうした飾りは仙台市街地に入る街道筋の荒町・南梶町・原町などの商店街の飾りに良く残っている。(『要説宮城の郷土誌』仙台市民図書館、三原良吉『仙台七夕と盆まつり』宝文堂出版より)

 
金津七夕 8月6日  ◎宮城県角田市
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○ 子供たちが七夕の古歌を唱和しながら提灯をもって練り歩く
 宿場町の名残をとどめる金津地区に、藩政時代から続く伝統的な七夕行事。旧宿場街道の商店街には手作りの七夕飾りが立ち並び、夕方から七夕飾りの町並みの中を、子供たちが拍子木にあわせ七夕の和歌を唱和しながら提灯を持って練り歩く。豊作、虫除け、子供の成長を祈願する民俗行事として貴重で、県指定無形民俗文化財になっている。(HPより)


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関 東
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<千葉県>

茂原七夕まつり 7月下旬の金・土・日曜日の3日間  ◎千葉県茂原市
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○ 昭和30年に夏枯れ対策として始まり、関東屈指の七夕まつりに成長
 昭和29年に榎町商工会が独自に夏枯れ対策として七夕祭りをしたのが始まりで、これが大成功をおさめたのを受け、翌30年に実行委員会が組織され、第1回茂原七夕まつりが開催された。その後、市民も参加して全市あげての祭典へと変わってゆき、回を重ねるたびに盛大となり、今では関東屈指の七夕まつりとして知られる。平成16年の人出は83万人。なお茂原市には、8月7日の朝、子供たちがかやかや馬とよばれるマコモ製の七夕馬を手製の車に乗せて引き回す習俗があった。(HPより)


<東京都>

阿佐ヶ谷七夕まつり 8月7日を含む5日間  ◎東京都杉並区阿佐谷南
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○ 東京名物として賑わう、天井からぶら下がる張りぼてが人気
 昭和29年、夏枯れ対策として阿佐ヶ谷商店街が始めた七夕が始まり。パールセンターと呼ばれる商店街は、七夕の時期、大勢の人出で賑わう。アーケードの天井からぶら下がる張りぼての人形が名物となっている。80万人から100万人が集まり、東京名物となっている。(HPより)


福生(ふっさ)七夕まつり 8月上旬(7日を含む週末)の4日間  ◎東京都福生市
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○ 商店街振興として始まり盛大な市民祭りに定着、壁面飾りが特徴
 昭和26年に商店街の振興を目的に始められた催しは、盛大な市民祭りとして定着し例年40万人以上の人出で賑わい、2005年で55回を数える。飾りは商店の壁面に足場を組んで飾り物を取り付けるのが特徴で、昭和30年代にこの壁面飾りが登場した。市内にある米軍横田基地の米兵らが担ぐ横田みこしも、この七夕に花を添える。当初、7月初めに行われていたが、梅雨を避けるため昭和43年から8月上旬に移った。(HPより)


<神奈川県>

湘南ひらつか七夕まつり 7月7日を含む週末の5日間   ◎神奈川県平塚市
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○人出は日本一、仙台七夕とならぶ日本の代表的七夕に成長
 平塚市は昭和20年7月の大空襲で壊滅的打撃を受け、全市が焼け野原と化したが、復興は早く昭和25年7月「復興まつり」が開催された。この時期は近隣農家の野上がり(野休み)とも重なり、非常に多くの人出を見たことから、平塚商工会議所・平塚市商店街連合会が中心となって、仙台七夕を範として七夕まつりを開くことが決まり、翌26年7月に第1回「平塚七夕まつり」が開催された。昭和30年の第5回には、人出が100万人を超え、昭和38年には200万人、さらに昭和45年には300万人を突破し、仙台七夕と並び日本を代表する商店街七夕に成長した。平成5年に「湘南ひらつか七夕まつり」と名称を変え、現在に至っている。(HPより)


西小磯の七夕 8月6・7日(西小磯東地区)、8月7・8日(西小磯西地区)
◎ 神奈川県大磯町西小磯
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竹飾りを地面に叩きつけてオハライをする子供たち(撮影:溝口政子氏)
○竹飾りを集めて龍のかたちをした竹御輿をつくり、大磯の海に流す
 子供たちが前日、各家で飾った竹飾りを持って集まり、地区内の神社や道祖神の前で唱え事をしながら竹飾りを地面に叩きつけてオハライをする。その竹飾りを束ねて龍をかたどった竹御輿を作り、夜に再び地区内の神社や道祖神を回りながらオハライをする。翌朝、竹御輿を大磯の浜へ担いでゆき、海に流す。神奈川県無形民俗文化財。(佐川和裕『大磯町西小磯の七夕』民俗学論叢16号より)


橋本七夕まつり 8月上旬(金、土、日曜日の3日間)  ◎神奈川県相模原市
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○ 30万人の人出がある県北有数の七夕行事
 昭和26年に始まった祭りで、橋本商店街通りほかを歩行者天国にして行われる。色とりどりの竹飾りがならび地域ぐるみの行事となっている。毎年30万人以上の人出がある県北有数の七夕行事。(HPより)


<埼玉県>

入間川七夕まつり 8月上旬の土・日曜日の2日間  ◎埼玉県狭山市
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○江戸時代からの伝統を持つ関東有数の七夕、笹の先端に魔よけの飾り
 狭山では江戸時代から七夕が行われていたが、昭和初期、入間川の通りに面した商店や問屋の人々が竹飾りをして縁台を並べ、もてなしを始めたことが、今日の七夕まつりに発展した。現在は狭山駅西口から七夕通り商店街を中心に約1.5キロの沿道が七夕飾りで埋め尽くされる。竹飾りは商店や市民の手作りで、笹の先端に魔よけの飾り(紙の投網)が付くのが特徴。関東地方有数の七夕祭りとして知られ、毎年約40万人前後の人出がある。(HPより)


小川町七夕まつり 7月の第4土・日曜日の2日間  ◎埼玉県小川町
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○昭和24年から始まった和紙の里の七夕、祇園祭と融合させた華やかな祭り
 武蔵の小京都といわれる小川町は昔から和紙の産地として知られるが、昭和24年、和紙不振の打開策として手漉き和紙を生かした七夕祭りとして始められ、もともと行われていた上小川神社の祇園祭りと融合させた形で行われている。小川町の市街地一円で立てられた北関東有数の盛大な竹飾りの中を、歴史ある屋台の引き回し、小川町祭ばやし、七夕よさこい踊りの列が続く。夕刻より夜空を彩る数百発の花火が次々と打上げられ、県内外から多くの観光客が訪れる。(HPより)


<群馬県>

前橋七夕まつり 8月上旬(7日を含む木~日曜日の4日間) ◎群馬県前橋市
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○ 市内の20の商店街が参加する北関東有数の七夕
 昭和26年から始まった商店街七夕。市内の中央商店街をはじめ20の商店街が参加し、それぞれ異なったユニークな七夕飾りを披露し、市の中心部が色とりどりの飾りで華やぎ北関東有数の祭りとなっている。露店もたくさん出るのが特徴で、植木市、ほおずき市等も出て盛り上がる。(HPより)


伊勢崎七夕まつり 7月中旬(第3土・日曜日の2日間)  ◎群馬県伊勢崎市
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○ 昭和25年から始まる、商店街手作りの七夕飾り
 古くから織物と関係が深い伊勢崎市で、昭和25年から始まった七夕祭り。商店街の人たちがこつこつと時間をかけた手作りの七夕飾りを競う。装飾コンクールは昭和30年から始まった。子供たちの笹飾りも飾られ、会場を盛り上げる。(HPより)

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中部・東海
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<長野県>

松本の七夕 8月6日・7日  ◎長野県松本市
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○ 七夕人形を飾る全国にも珍しい七夕習俗
 松本市を中心に塩尻市・大町市の3つの市と、安曇郡・東筑摩郡一体では、七夕に七夕人形を飾る習俗がある。飾られる人形は、板製の顔の下に腕木がついた男女一対の着物掛け型と呼ばれる人形と、同じく男女一対の紙製の吊し人形で紙雛型とよばれる人形の2種類。これら人形は男女とも初児の祝いに親戚などから贈られ、座敷の前の廊下などに贈られた人形すべてを吊して飾る。着物掛け型には、子どもの着物を着せて吊す。笹竹も廊下の庭先に立てて一緒に飾る。飾るいわれは、子どもの成長、健康を願うとともに、人形に着物を着せることによって、将来もっと着物が増えるようにという願いもある。七夕人形の習俗は江戸時代からあり、人形の種類も以前はもっと多かった。(石沢誠司『七夕の紙衣と人形』より)


上田七夕まつり 8月6日~8日  ◎長野県上田市
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○ 東信地方で最大の七夕まつり
 昭和33年に始まった商店街七夕。上田市中心部の海野町商店街通りで行われる。各商店手作りの七夕飾りが多数飾られ、七夕飾りコンテストやちびっこ花火大会などさまざまな催しが行われ、東信地方の七夕では最大の人出がある。(HPより)


踏入七夕まつり「天の川」 8月6日  ◎長野県上田市
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○ 井戸の横に砂文字で「天之川」を作り、まわりを笹竹や燈籠で飾る。
上田市踏入地区で井戸の横に砂文字で「天之川」を作り、まわりを笹竹等で飾る七夕まつり。地区を通る旧北国街道沿いにある古井戸は現在、使われていないが、昔は人や馬、牛などが喉を潤し、一休みする場所であった。ここで昭和25年ごろまで毎年行われてきた井戸替えの七夕行事が平成7年に復活し、それ以降、地元自治会・公民館分館・PTAなどが協力してこの伝統行事を継承している。
 千曲川から運んできた砂を用いて、子供たちと大人が協力して「天之川」の三文字を井戸の横に浮かび上がらせるように作る。井戸を覆う屋根の柱4本に短冊を付けた笹や灯籠が飾られる。夕暮れが迫ると、砂文字の上に子供たちによってたくさんの線香が立てられると、線香の火で天之川の文字が浮かび上がり、幻想的なクライマックスとなる。(石沢誠司『踏入七夕まつり「天の川」 長野県上田市に伝わる井戸替えの祭り』HP「七夕文化」より)


<山梨県>

山梨の七夕人形・オルスイさん 7月6日、7日  ◎山梨県山梨市、甲州市
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○笹竹に飾ったあと泥棒除けになったり、お留守番をするという言い伝えがある紙の七夕人形

 山梨県の笛吹川流域の市町で、昭和30年代まで色紙で人形を作り七夕笹に飾る風習が広く行われていたが、現在でも山梨市市川、甲州市勝沼町でわずかに残っている。七夕人形は地域で多少の違いはあるが、男女2体の紙人形でおおむね胴部と長い脚からなり、頭部はV字型の切り込みを起こして表している。
 笹竹に飾ったあと、山梨市市川では翌日、笹飾りを畑の入り口(以前は田の水口)に持って行き立てておく。泥棒除けになると言われている。甲州市勝沼町では笹から七夕人形を外し、小さく畳んで紙に包みタンスの中に入れて保存する。「家を守る」「お留守番をする」という言い伝えがある。これら紙の七夕人形は、「オルスイさん」と呼ばれることが多かった。(信清由美子『山梨の七夕人形』HP「七夕文化」より』)


<静岡県>

清水七夕まつり 7月上旬(7日を含む4~5日間) ◎静岡市清水
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○商店街七夕では50回を超える歴史を持ち、飾りは紙製で美しさと暖かみがある
 昭和28年に始まった商店街七夕で、50回を超える歴史を持つ。JR清水駅から駅前銀座、清水銀座の商店街で開催される。竹と紙を使用するという七夕本来の型を守っており、美しさと暖かみのある飾りに惹かれ、大勢の観光客が集まる。(HPより)


<愛知県>

安城七夕まつり 8月上旬(第一金・土・日曜日)の3日間  ◎愛知県安城市
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○ 昭和29年、商店の夏枯れ対策で始まったのが、100万人を超える人出に
 仙台七夕、平塚七夕の成功例を参考に、昭和29年、商店の夏枯れ対策という商業振興を目的に開始された。当初の人出は30~40万人であったが、昭和41年から50万人を超えるようになった。昭和53年、東京国立競技場で開かれた全国郷土祭に、仙台・平塚とともに参加したことにより、「日本三大七夕」と広報するようになり、昭和50年代後半から人出が急激な伸びを示すようになった。平成2年には100万人を超えて現在に至っている。なお、安城周辺の西三河南部地方には、明治時代から七夕に「額」と呼ばれる立版古を木枠の台に飾る習俗があり、安城七夕の前史となっている。(『日本の三大七夕 七夕「額」飾りの世界』安城市歴史博物館より)


一宮七夕まつり 7月下旬(7月最終日曜日を最終日とする4日間) ◎愛知県一宮市
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○ 織物の街で昭和31年から始まった七夕、毛織物を奉献する大行列が見もの
 古くから織物の街として知られる一宮市で、商店街が中心になって昭和31年から始まった七夕まつり。今では市民の夏の最大イベントとして定着し、本町アーケード街を中心に飾り付けされる七夕飾りは絢爛豪華で、毎年130万人を超える人出で賑わう。さまざまな催し物のなかで、一宮市特産の毛織物を奉納する御衣奉献大行列は延々500メートルにも及ぶ大行列である。(HPより)


<岐阜県>

岐阜市の初七夕 8月7日(またはこの前後の日曜日)  ◎岐阜市周辺
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○ 切子灯籠を飾り、野菜を吊し、ナス馬を供えて初めての7歳を祝う
 初めての子が7歳になると、母親の実家から贈られた切子灯籠や提灯を縁側に飾り、軒下に立てた笹竹2本に渡した横竹にナス、キュウリ、トウモロコシなどの野菜を草紐で結んで吊す。また縁側に小机を置いてナスに脚を付けたナス馬などを作り供える。岐阜市やその東南の岐南町、各務原市などで行われる。(『岐阜市の年中行事―初七夕・山の子・同族祭祀―』岐阜市教育委員会より)


松ノ木の七夕まつり(七夕岩) 8月6日  ◎岐阜県高山市松ノ木町
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○ 川をはさんだ両岸の岩に七夕の大しめ縄を張り渡す勇壮な行事
 高山市郊外の松ノ木町で行われる七夕行事。町内を流れる大八賀川の両岸にそびえる男岩と女岩の七夕岩に、8月6日(以前は旧暦7月6日)に飾り提灯、藁馬、糸巻きを吊した大しめ縄を張り渡し、牽牛織女の二星を祀り、五穀豊穣を祈る。藁馬は男の子が生まれた家で、糸巻きは女の子が生まれた家で作る。8月6日の夜、しめ縄の提灯に灯がともり、地区の人たちによって縄が引き揚げられるさまは壮観である。(石沢誠司『高松市松ノ木町の七夕まつり(七夕岩)見学記』日本七夕文化研究所より)

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北 陸
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<新潟県>

村上七夕まつり 8月16日・17日  ◎新潟県村上市
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○町の各地区から山車が出て練り歩き、獅子舞を踊る
 村上市ではお盆のあとに七夕祭りが行われる。8月16日は宵祭りで、町の各地区が歴史の名場面などの押絵がついた山車を出す。山車は多くの提灯で飾られ、四隅に笹竹を立てる。中学生から二十代半ばまでの若者が、市域に散らばる地区と縁のある家々を回り獅子舞を踊る。また子どもの「ささらすり」による競演もある。17日は本祭りで、夜になると各地区の山車がメインストリートに集結し、祭りはクライマックスを迎える。(HPより) 


両津七夕・川開き   8月7日・8日  ◎新潟県両津市
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○子供山車などが出る佐渡島最大の祭典
 今から約120年前、両津港開港祝いに始まった子供の海の祭典。8月7日は鼓笛隊パレード、子供山車パレード、大民謡流しなど、8月8日は、人形芝居大会、鬼太鼓競演会、大花火大会などがある。佐渡島最大の祭典である。(HPより)


根知の七夕さま 7月7日~8月7日  ◎新潟県糸魚川市根知
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○ 人形やその他の飾りを綱に吊し、道を横切って飾る全国にもめずらしい七夕
 布や紙で「嫁さん・婿さん」と呼ばれる男女一対の人形、「腰元」「子守り」「荷かずき」と呼ぶお供の人形、それに嫁さん・婿さんを見物するたくさんの人形を他の飾りとともに綱に吊し、道を横切って張り渡す七夕行事。現在、根知の7地区で行われている。8月7日夜に飾りを下ろし、川の岸で燃やす。昔は川に流した。昔は子どもの行事だったが、現在は年寄り衆と婦人会が中心になって行われている。(石沢誠司『七夕の紙衣と人形』ナカニシヤ出版より)


藤塚浜の七夕祭り 8月12日  ◎新潟県紫雲寺町藤塚浜
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○夕方は子供たちが屋形船を引き回し、夜は青年たちが七夕船を担いで押し合い
 夕方近くになると子供たちが上町、下町の2台の木製屋形船を引き回す。七夕太鼓を打ち鳴らし、「タナバタサーマ マタライネンゴザレ」と歌いながら船を引く。夜には、上町、下町の青年団の若者たちが、それぞれ松の丸太と荒縄でつくった船を担ぎ、いたるところで押し合いをする。そして最後には海岸へ出て船を流す。夕方は子供の行事、夜は青年の行事と分かれているのが特徴。(小熊延幸『紫雲寺町藤塚浜の七夕祭り』高志路340号より)


村松浜の七夕まつり 8月7日  ◎新潟県中条町村松浜
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○男の子は武者人形、女の子は姉様人形を七夕船に乗せて流す
 地元小学校の体育館で、子供たちが大人の指導を受けながら、男の子は馬乗りの武者人形、女の子は姉様人形風の紙人形を作る。また大人は麦藁を主材料に七夕流しの船とおしょろ船と呼ばれる小舟を作る。できあがった七夕船とおしょろ船に武者人形と姉様人形をのせ、子供たちが校庭で「竹にたんざく七夕様よ ローソク出せ出せよ 出さねどかっちゃくぞ(ひっかくぞ) ワー、ワー、ワー」と囃しながら回り、浜へ出て流す。
 昭和30年代まで盛んに行われていたが以後、行われなくなり、近年復活した。以前は上通り、下通りの地区がそれぞれ七夕船を作り、その船を担いで神社にお参りしたのち、互いにもみ合いしてから海へ流していた。(畑野栄三『村松浜の七夕流しと武者人形と紙人形』郷玩文化135号より)


<富山県>

高岡七夕まつり 8月1日~7日  ◎富山県高岡市
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○日本海側で随一の規模、勇壮な七夕の川流しが特徴
 
江戸時代からの七夕のかたちを保ちつつ、昭和初期から商店街を中心に盛んになった祭りで、日本海側で随一の規模を持つ。基本となるのは、短冊・吹き流し・提灯を付けた笹竹飾り。特に長男が生まれた家では豪華に飾り付けをする家が多かった。高岡では女の子は雛祭りで祝うが、男の子は初七夕を豪華にした。嫁の実家の両親が初孫のために立派な七夕飾りを作る。竹を下で3本あわせ縄で括り、途中でさらに竹を足して括り全体を長くして巨大な笹竹を作る。そこに親戚知人が集まって短冊をいっぱいに付ける。しかし、こうした豪華な飾りは、最近、不況の影響もあり、あまり見られなくなった。
 高岡七夕の特徴は、最終日の7日夜に行われる「七夕の川流し」。「七夕飾りを取っておくと、ろくなことはない」といって飾りは全部流す。市内末広町通りから川流し会場の千保川にかかる鳳鳴橋までの約1キロを、七夕笹を引いたり担いでパレードする。大量の笹を流すところは、船形のみこしに組み替えて練り歩く。沿道には大勢の市民が訪れ、勇壮に進む七夕を見送り、祭りの最終日を楽しむ。この七夕流しは、昭和30年代に環境汚染の問題から中止されていたが、下流の神保橋たもとで笹を回収することで、十数年まえに復活した。(高岡市観光協会等から取材)


尾山の七夕流し 8月7日  ◎富山県黒部市尾山
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○男の子は船・行灯、女の子は姉様飾りを小川で流す子どもの七夕行事
 地区の子供たちが行う七夕行事。夏休みに入ると小学生の男の子は船、中学生の男の子は行灯、小・中学生の女の子は姉様をそれぞれ作っておき、8月7日になると、全員がそれらを持ち寄り、地区の中を流れる小川を流して歩く。女の子の姉様は胴体となる竹串を板にさし、板の四方などにさした別の竹串に紙の投網を付けるなどした華やかなもの。七夕船、七夕の灯籠、七夕人形が残っている貴重な行事。県指定無形民俗文化財。(石沢誠司『七夕の紙衣と人形』ナカニシヤ出版より)


上村木七夕祭り 8月6日・7日 ◎富山県魚津市上村木
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○屋形舟を担ぎ、ナマハゲのような人物が現れる七夕祭り
 JR北陸線の魚津駅に近い上村木地区で行われている七夕祭り。大正3年(1913)、上村木(当時の加積村)の少年たちが、入善町吉原の屋形船御輿をかつぐ祭りにヒントを得て始めたといわれる。8月6日の宵祭りをへて、8月7日は昼過ぎから太鼓を積んだリヤカーが祭太鼓を叩きながら町内を触れまわる。夜になると、触れ太鼓および屋形船を担いだ男たち、家庭で作った七夕飾りを持った人たちが行列を作って町内から魚津駅前を練り歩くが、この祭りの特徴は、天狗や狐などの仮面を付けた「あじろ」と呼ばれるナマハゲのような人物が多数、行列について歩くことである。彼らは色染めしたテープ状のカンナくずを、頭には頭髪のように、肩・腰には蓑のように付け、手には木刀や長刀を持って歩き、子供たちを見つけると厄を払い強い子になれるようにと抱いたりする。行列は最後に上村木町内の公園に戻り、花火が打ち上がるなか、屋形船や「あじろ」たちが、公園を走り回ってフィナーレとなる。屋形船は当初、竹・木の骨組みに杉の葉を付けていたが、軽量化のため緑色に染めたアジロ(カンナくず)を採用した。さらに平成17年からは舷に緑のシートをはり内側からライトアップする新型の屋形船を用いている。(HPより)


福光ねつおくり七夕祭り 7月の土用の3番 ◎富山県福光町
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○子どもたちが主体の虫送り系の七夕祭り
 7月の土用の3番(土用の入りから3日目)に行われるイモチなどの病虫害除けを祈願する虫送り系の七夕祭り。この日、イザナギ、イザナミの両神をかたどった「じじ」「ばば」と呼ばれる紙人形を高瀬舟(紙張子の舟)に乗せ、正午過ぎから威勢良く太鼓を打ち鳴らし、田んぼの間を練り歩く。子ども達が五色の短冊を飾った笹竹で稲田を払い、「おくるわ~い、おくるわ~い、熱おくるわ~い」と、はやしながら集落をくまなく回り、最後に豊作を祈って、人形を舟とともに小矢部川に流す。
 江戸時代から行われているこの「熱送り」は、貴重な民俗行事。全国的には「虫送り」と呼ばれることが多い。農村の行事であるが、祭りの主体は村部から町部へも拡がり、商店街では華やかな七夕飾りが行われ、各種の関連行事とともに祭りを盛り上げている。(HPより)



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近 畿
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<京都府>

冷泉家の乞巧奠(きっこうてん)  旧7月7日  ◎京都市上京区
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○ 星の座を前に雅楽の演奏、和歌が朗詠される京都・冷泉家の伝統行事
 藤原定家を祖先に持つ和歌の家・冷泉家が行う七夕の行事。歌の門人が中心となって行われる乞巧奠は、南庭に設けた祭壇(星の座)を前にして、雅楽の演奏が行われ、続いて和歌が朗詠される「披講の座」、天の川に見立てた白布をはさんで男女が和歌を即興で詠み交わす「流れの座」が行われる。祭壇には、海の幸、山の幸、琴や琵琶の楽器が置かれ、その周囲に灯台、五色の糸と布、梶の葉、秋の七草、角盥などが配置される。乞巧奠は明治時代に、冷泉家の21代当主・為紀氏によって平安王朝の行事そのままに復興された。一方、冷泉家では夜になると家族の七夕行事として、七口の火口がある手燭に灯心を入れ火を灯して、家族各人が七夕の和歌を詠む「二星(たなばた)」と呼ばれる行事が行われる。(冷泉為人『五節句の楽しみ 七草・雛祭・端午・七夕・重陽』淡交社、 藤本孝一『冷泉家の乞巧奠』文化財報98号より)


白峯神宮の小町踊り 7月7日  ◎京都市上京区
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○地元の少女たちが元禄風の衣装で七夕踊りを奉納
 白峯神宮で7月7日に行われる「精大明神例祭」で奉納される七夕踊り。この日、蹴鞠の奉納に続き、地元の5歳から12歳の少女が元禄時代風の衣装を身につけ、地域に伝わる小町踊りを奉納する。この踊りは江戸時代の元禄年間に京都の女児が七夕に踊り歩いたという伝承をもとに、1962年に白峯神宮が復活させた。江戸前期の京都の行事を記した『日次紀事』には、「今日、洛下の児女、帯を結び襷(たすき)と為し太鼓を打ち、踊躍(おどり)を催す」と書かれている。(京都新聞ほか)


北野天満宮の七夕祭 7月7日  ○京都市上京区
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○ 御手洗祭と称し道真遺愛の松風硯などを神前に並べ、古式による祭典を行う
 この日の午前、御手洗祭と称し、祭神・菅原道真遺愛と伝える松風硯・水差し・角盥を神前に並べ、左右に梶の葉7枚、茄子・胡瓜・みたらし団子などを供え、古式による祭典を行う。道真が七夕に歌を詠んだという伝承にちなみ、文芸上達を祈願する祭とされる。午後は氏子の七夕祭で、三光門に氏子の願いをしたためた短冊を飾った笹竹を立て、幼稚園児が七夕の歌の踊りを行う。江戸前期の京都の行事を記した『日次紀事』には、「北野神社御手水 今暁、北野松梅院、御手水を神前に献ず。松風の硯に穀葉(かじのは)を添え、之を供す」と書かれている。(『京都大事典』淡交社、他より)


<大阪府>

機物神社の七夕まつり 7月6・7日  ◎大阪府交野市倉治
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○ たなばた姫を祀る機物神社が、昭和54年に復活した七夕まつり
 機物神社は、5~6世紀の頃に養蚕・機織りの技術を持った秦氏が渡来し、これらの秦物(はたもの)たちが祀ったことから、この名称がついたとされる。祭神は「天棚機比売(あめのたなばたひめ)大神」ほかで、同神社の古文書には以前7月7日に例祭があったと書かれていたことから、昭和54年に復活された。当日、境内には高さ5~6メートルの笹竹が約40本立てられ、願い事を託した五色の短冊が飾られる。(HPより)


<兵庫県>

姫路の七夕紙衣 8月6・7日  ◎兵庫県姫路市の播磨灘沿岸の地域
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○初七夕の子どもを祝い、2本の笹竹に紙衣を通した細竹を渡して飾る
 姫路市南部の妻鹿から高砂市曽根にかけての播磨灘沿岸の地域に、初めて七夕を迎えた子どもを祝って、七夕に紙衣を飾る習俗がある。紙衣は、二つ折りの模様紙を着物のかたちに切り抜き、別の紙で帯をつけたもの。地元の人は、七夕さんの「着物」という。8月6日、座敷に面した庭に短冊をつけた笹竹2本を立て、これに紙衣を通した細竹を渡して飾る。翌日になると笹竹は海に流す(現在は流さず回収する)が、紙衣は保存し翌年も使う。(石沢誠司『七夕の紙衣と人形』ナカニシヤ出版より)


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中国・四国
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<島根県>

大東七夕祭り 8月6日  ◎島根県大東町
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○笹竹を手に七夕の歌を歌いながら町内を練り歩く、江戸時代から続く行事
 江戸時代、七夕の晩に寺子屋の師匠が、子供たちに笹竹に短冊や提灯をつけて持たせ、行列をして歩かせたところ、それが町中の評判になり、やがて大東の七夕行列となって続けられるようになったと云われている。8月6日の夕方、浴衣、ハッピなど、さまざまな衣装で着飾った子供たちは、短冊と提灯をつけた笹竹を手に、「さーい さーい さいさい てんてこさんの七夕さん てんてこさんの七夕さん 七夕さんを送くーわ 七夕さんを送くーわ」と声を張り上げて歌いながら、各地区で作る大提灯や山車とともに町内を練り歩く。これが終わると、町の裏側を流れる赤川堤防で打ち上げ花火をする。夏休みの子供たちの最大の行事である。(HPより)


久見の星祭り 8月7日  ◎島根県隠岐郡五箇村久見
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○ 子供たちが星形のアンドンを持って、村のなかをまわる
 8月7日の晩、地区の子供たちがあらかじめ作ったホシとよばれる星形のアンドンに、ろうそくの火を灯して村のなかを回る行事。これに太鼓たたきの子どもが続く。翌朝、もう一度村回りをしてから、破損したアンドンや供え物の残りが、子どもたちによって海上に流され、祭りは終わる。この星祭りには虫送りの要素も認められる。(天野武『子どもの歳時記』岩田書店より)


<山口県>
山口七夕ちょうちんまつり 8月6・7日  ◎山口市
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○ 夜は10万個の提灯にロウソクの火が灯され、街は紅い灯のトンネルになる
 山口市の繁華街を中心にくり広げられる七夕祭り。月遅れの8月6日・7日の両日、昼は色とりどりの短冊が飾られ、夜は約10万個の提灯にロウソクの火が灯され、街は紅い灯のトンネルになる。ローソクが燃え尽きるまでの約2時間が祭りのピーク。また7日には、市民総踊り「やまぐちMINAKOIのんた」で熱気あふれる踊りが披露され、大内御輿(殿御興1基、姫みこし1基)・新山笠が巡行する。毎年約10万人の観光客で賑う。
 この祭りの由来に、室町時代、先祖を祀った大内氏の盆提灯が、都ぶりを移した七夕の行事として、いつしか町の家々にひろまったという伝説がある。しかし大内氏の頃、細川幽斎が山口に立ち寄った時の紀行文『九州道の記』(天正15年・1587)には、「六日に舟来(舟木)という在所まで行て七日に山口に至りぬ。今夜は七夕のあふよ(夜)なりと思い出て、暁がたの寝覚に、七夕の別の袖にくらべみよ露なからかす旅のころも手(の一首を詠む)。翌八日所々寺社見めぐりて…」とあるのみで、提灯のことは書かれていない。また藩政期末、村々の様々な事柄を注進した史料『防長風土注進案』の山口の項にも七夕の行事についての記述は見当たらない。
 紅提灯の記述が見えるのは明治になってからで、明治18年8月18日の防長新聞に「一昨夜は旧暦七夕なれば当所には例年の通り軒別に七夕竹を立て、昼は短冊(でも一二丈ある)の風に翻(ひるがえ)るは銀河の流れかと思はれしも、夜の提灯は中々以て銀河の星の数どころではない。一本の笹に多くは百五十、少なくも三十に下らぬ提灯を釣るしたれば其の奇観はコレハコレハとも言われず、只(ただ)口を開いてながめる計りなりし」とあり、紅提灯が市街を彩った様子が記録されている。
 その後、商工会が山口繁栄策として七夕の笹飾りに力を入れ、本町筋が連合して軒毎に昼は短冊飾り、夜は紅提灯を吊した。第二次大戦を挿んで一時中止していたが、昭和25・6年頃から復興し、漸次その数を増し10年後の昭和35年頃には笹竹二千本、紅提灯七万個までに復興した。その後もいろんな趣向を加え現在に至っている。(HP、『山口市史 地区篇』、『図書館やまぐち 52号』他より)


<香川県>

金刀比羅宮の七夕鞠 7月7日  ◎香川県琴平町
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○表書院前の鞠場で華麗な技を参拝者に披露する
 「こんぴらさん」の愛称で親しまれる金刀比羅宮で、毎年7月7日に奉納される蹴鞠。これは5月5日の奉納蹴鞠、12月下旬の納め鞠とともに年3回おこなわれる奉納蹴鞠のひとつで「七夕鞠」と呼ばれている。当日は表書院前の鞠場で、金刀比羅宮蹴鞠会の奉納で華麗な技を参拝者に披露する。5月5日の奉納蹴鞠とともに一般公開されている。明治以降中断していたが、昭和7年に再興された。県指定無形民俗文化財。(HPより)


<愛媛県>

内子笹まつり 8月6日~8月8日  ◎愛媛県内子町
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○50回を超える四国を代表する七夕
 平成19年で第50回を迎えた四国を代表する七夕祭り。約100本の豪華な笹飾りが内子本町通りのおよそ1キロにわたって飾られ、笹飾りや笹踊りのコンクール、相撲大会、ちょうちん行列などの多彩なイベントが行われ、毎回約3万人の見物客でにぎわう。昔なつかしい佇まいを今に残す内子の町並みと商店街手作りの七夕飾りが訪れる人々の目を楽しませてくれる。(HPより)


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九 州
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<福岡県>

八幡古表神社の乾衣祭(おいろかし) 8月6・7日  ◎福岡県吉富町
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○ 「細男の舞」で傀儡子が身につける衣装を虫干しする行事

神衣の虫干し(大谷京子氏提供)
 4年に一度行われる夏季大祭・放生会に奉納される「細男(くわしお)の舞」で舞をする傀儡子が身につける衣装を虫干しする行事。江戸時代までは、着物は代々の中津藩主やその一族が奉納したが、明治以後は一般の氏子からも婚礼、誕生などの祝儀にあたって奉納されている。これら奉納された神衣が約1000着、社殿内で何段にも組まれた物干し棹に掛けられ虫干しされる光景は壮観である。(HPおよび、大谷京子『七夕の紙衣を連想させる「神衣の虫干し」行事』郷玩文化143号、より)




<大分県>

大分七夕まつり 8月最初の金・土・日曜日  ◎大分市
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○府内戦紙(ふないぱっちん)とよばれる山車が人気、近年急成長したまつり
 大分市では、昭和26年から商店街の七夕祭りが行われてきたが、昭和57年に市内4つの祭りを統一して新しい七夕祭りとして出発した。祭りの一環である市民ミコシの巡行に昭和60年、大分商工会議所青年部が電照をしつらえた山車を製作して参加したところ評判となり、以後、毎年参加するにつれ同じような山車での参加団体も増え、今では20基をこえる参加があり、この七夕まつりの最大の呼び物に成長した。この山車は「府内戦紙(ふないぱっちん)」と呼ばれる。「府内」とは大分の古い呼び名、「ぱっちん」とは「メンコ」の大分方言、山車の武者姿や昇龍が内部の照明により青森ねぶたのように鮮やかに浮かびあがり、ぱっちんの絵を連想させることから命名された。
初日に府内戦紙のパレード、2日目に「ちきりんばやし」の踊りと各神社ミコシの練り歩き、3日目は花火大会と盛りだくさんな行事があり、大勢の人出で賑わう。近年急成長した七夕祭りである。(HPより)


<熊本県>

木々子(きぎす)の七夕綱張り 8月6日  ◎熊本県坂本村中谷
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○ わら細工の飾り物を付けた40メートルの綱を中谷川に張り渡す
 坂本村中谷の木々子(きぎす)地区で、毎年8月6日に行われる七夕行事。長さ約40メートルの縄に、わら細工の卵、牛用のわらじ、たわし、タコなどの飾りと、布製の織姫・彦星の人形を付け、天の川に見立てた中谷川に張り渡す。綱張りは、9月1日の八朔(月遅れ)に取りはずして焼却する。(熊本日々新聞、2003年8月6日より)


下白木の七夕綱張り 8月6日  ◎熊本県芦北町下白木
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○ わら製の人形、牛の履き物、ツト入り卵などを吊した綱を天月川に張り渡す
 芦北町下白木地区で、毎年8月6日に行われる七夕行事。長さ約30メートルの縄に、わらで除虫ぼうき、わらじ、牛の履き物、ツト入りの卵、男根を強調した人形などを作って吊りさげる。それを6日の夜半に天の川に見立てた天月川にまたいで渡される。綱を伝って織姫と彦星が会うのだといい、また無病息災や豊作を祈願するのだともいう。かつては旧芦北郡内の30ヶ所ほどで見られたが、今では下白木地区に残るだけ。(熊本日々新聞、1997年8月8日より)

以上

七夕の参考文献(単行本・冊子・図録・絵本)

2018-11-07 23:00:24 | 参考文献
七夕の参考文献(単行本・冊子・図録)  2008年現在


<目次>

単行本・冊子・展覧会図録(発行年順)

絵本(発行年順)


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単行本・冊子・展覧会図録(発行年順)
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◆神宮司庁編『古事類苑 歳時部十七』吉川弘文館(五版) 1981年(初版1896年~1914年)
内容:江戸時代までの基本的文献を原文のまま引用した資料集。 七月七日(p1215~1248)

◆ラフカヂオ・ヘルン・著、花園兼定・訳『七夕物語』外語研究所 1933年

◆文化庁『日本民俗地図1 項目別民俗地図 解説書』国土地理協会 1969年
内容:七夕(行事名称)地図1枚  七夕(行事内容)地図1枚  七夕・行事内容解説(p247~281)

◆三原良吉『仙台七夕と盆まつり その由来と伝承』宝文堂出版 1971年

◆松本市立博物館『目録 民俗編1』松本市立博物館 24p 1972年
内容:七夕人形コレクション  同コレクション目録

◆米谷定一『東北の奇習 陸前高田けんか七夕の謎』陸前高田けんか七夕保存会 86p 1975年

◆『ひらつか七夕30年のあゆみ 平塚七夕まつり30周年記念誌』平塚七夕まつり実行委員会 1981年

◆『仙台七夕飾りをつくる』仙台市観光課 9p 1983年

◆松浪久子・岩瀬博編『七夕・鶴のそうし』(和泉書院影印叢刊54)和泉書院 1986年

◆富山新聞社編『富山の習俗 ふるさとの風と心』富山新聞社 1986年
内容:七夕舟・入善町吉原(p119~121) 七夕姉さま流し・黒部市尾山(p122~124)

◆『七夕のそうし』(専修大学図書館蔵古典籍影印叢刊)専修大学出版局 1988年

◆『いまは昔むかしは今1 瓜と龍蛇』福音館書店 1989年
内容:天稚彦の草子・天の瓜の謎・七夕と星空の伝説(p18~65) 七夕の雨七夕の水・七夕と棚機(p108~119) 

◆浦野慶吉『西上総の唐人凧、長南・一宮などの袖凧、千葉県の七夕馬』浦野慶吉発行 34p 1988年

◆『ひらつか七夕40年のあゆみ』平塚七夕まつり実行委員会 1990年

◆『岐阜市の年中行事 初七夕・山の子・同族祭祀』岐阜市教育委員会 1990年
内容:初七夕(p2~28)

◆川口弥之助『鹿島さん・七夕・遊山』秋田文化出版社 68p 1990年

◆小南一郎『西王母と七夕伝承』平凡社 1991年
内容:牽牛織女の物語り(第1章)  乞巧奠(第2章)  七夕と西王母(第3章)  人日と玉勝(第4章)  崑崙山(第5章)  陰陽の交会(第6章)  両性具有(第7章)  神話的原理とその人間化(第8章)

◆『星まつり・日本の七夕 天の川にかける夢』安城市歴史博物館 1993年
内容:平成5年に行われた同名の展覧会図録。七夕の行事(竹田 旦)  万葉集の七夕歌(津之地直一)  乞巧奠(冷泉貴実子)  七夕の伝承(斎藤卓志)  図版・展示資料一覧  参考文献
 
◆藤井旭『七夕星まつり 夏7月の星』ポプラ社 1993年

◆吉田栄司編『七夕和歌集』古典文庫 1993年

◆冷泉為人『五節供の楽しみ 七草・雛祭・端午・七夕・重陽』淡交社 1996年
内容:七夕の節供(乞巧奠)  冷泉家の乞巧奠  七夕の歌会・床飾り・料理・お菓子ほか 

◆『中世百首歌・七夕御会和歌懐紙』(冷泉家時雨亭叢書34)朝日新聞社 1996年
内容:正中二年七夕御会和歌懐紙  元徳二年七夕御会三首和歌懐紙  解題(三村晃功)

◆平林章仁『七夕と相撲の古代史』白水社 1998年
内容:古代中国の七夕(第3章)  龍の伝来(第4章)  宮廷の五節句と暦(第5章)  オトタナバタ考(第6章)

◆『草で作ったウマとウシ 1・2 ~七夕行事を中心に~』千葉県立房総のむら 1998年
内容: 平成9・10年度の特別展の内容をまとめたもの。 
 千葉県における草で作ったウマとウシ 
 草で作ったウマの分布図  
 上総地方の事例  
 下総地方の事例  
 安房地方の事例  
 カヤカヤ馬の作り方について  
 展示協力者一覧

◆『眠流し行事 能代役七夕』能代市教育委員会 1998年
内容:平成九年の役七夕(第2章)  役七夕行事の構成(第3章)  七夕行事の変遷(第4章)

◆『新聞集成「七夕論」』(能代市史資料 第26号) 能代市史編さん室 1998年 300p
内容:大正5年から昭和63年までに、地元新聞の「北羽新報」に掲載された能代七夕の記事を集めて一冊としたもの。

◆『ねぶたと七夕』青森県立郷土館 1999年 34p
内容:青森県立郷土館で1999年7月30日~8月22日まで開催された「ねぶたと七夕 ー東北の夏まつり展ー」の展示解説書。

◆『季節を祝う 京の五節句』京都文化博物館 2000年
内容:平成12年に開催された同名展の図録。  七夕(石沢誠司)  乞巧奠・七夕(図版)  資料解説  参考文献

◆『千葉県の七夕馬 草で作ったウマとウシ 3・4』千葉県房総のむら 2000年
内容:平成11・12年度の特別展の内容をまとめたもの。 
資料編(平成11・12年度収集資料) 
解説編  
 草でウマやウシを作る習俗(立名和啓人)  
 七夕と盆行事(渡辺善司)  
 千葉県の七夕馬(榎 美香)  
 商品としての七夕馬(榎 美香)  
 七夕馬の語るもの・課題と展望(米谷 博)   
 千葉県立房総のむら所蔵「千葉県の七夕馬」資料一覧  
参考文献  協力者一覧

◆『湘南ひらつか七夕まつり 50周年記念誌』湘南ひらつか七夕まつり実行委員会 2000年
第1部 願いの碑 ~写真でみる七夕~
 第1回~第50回
第2部 願いの足跡 ~資料でみる七夕~
 年表 湘南ひらつか七夕まつり50年の歩み
 第50回湘南ひらつか七夕まつり功労者
 湘南ひらかた七夕まつり歌集
 開催実施要項 昭和32年(第7回)、平成12年(第50回)
第3部 願いの懸け橋 ~七夕への想い~
 七夕を産み育ててこられた方々からのお言葉

◆『交野ケ原と七夕伝説』天の川七夕星まつりの会 2000年
内容:
 七夕の由来と交野ヶ原(牧野住人) 
 交野ヶ原の降星伝説(佐々木久裕) 
 星田の妙見さん(大塚日出男) 
 天田神社と七夕(奥野平次) 
 機物神社の由来と七夕まつり復活(中村武三) 
 かささぎ橋と天の川(中島三佳) 
 中山観音寺と牽牛石(桜井敬夫) 
 桓武天皇と交野ヶ原(片山長三) 
 名所図会にみる渚の院跡(古倉弥太郎) 
 七夕のルーツと百済王一族(佐藤博文) 
特別寄稿:
 乞巧奠と七夕(冷泉為人) 
 交野と道教思想(高橋徹) 
 宇宙の記憶(木内鶴彦) 
 七夕と香道(山中欣治)  
資料編  子供編

◆菊池ひろ子・菊池節子『仙台七夕浪漫 由来と七夕飾りの作り方』(株)キクチ 51p 2001年

◆京都大学文学部国語学国文学研究室編『むろまちものがたり7 ぶん正、たなばた、たまものへ』臨川書店 2002年
内容:たなばた

◆みやざきじゅん編『七夕祭り資料集 高山市松ノ木町の民俗行事』岐阜県民俗行事研究会 2002年

◆石沢誠司『高山市松ノ木町の七夕まつり(七夕岩)見学記』日本七夕文化研究所 8p 2002年

◆『日本の三大七夕 七夕「額」飾りの世界』安城市歴史博物館 2003年
内容:平成15年に開催された同名の特別展図録。 
 七夕とは  
 仙台の七夕  
 平塚・湘南の七夕  
 安城七夕まつりの誕生 
 「額」ー安城七夕まつりの原像ー 
インタビュー
 「宿」に飾った七夕の「額」(細井平司) 
 寺の参道に飾った七夕の「額」(鈴木和雄) 
 父が指導した七夕の「飾りもん」(石原光郎)  
 小学校の運動場での七夕祭り(鈴木清市・沢田坂男・磯村守・鈴木正明)  
 運動場と納屋に飾った七夕の「作りもん」(榊原 功)
 刈谷・正木新道での「額行燈」(古橋知次)  
 安城七夕まつりはこうして始まった(稲垣甚作) 
 安城七夕まつりの誕生とその原像(斎藤弘之)

◆秋田市民俗芸能伝承館編『秋田の竿燈 七夕祭り 眠り流し行事 調査報告書』秋田市民俗芸能伝承館 2003年

◆井上重義(監修)『ちりめん細工 季節のつるし飾り 雛祭り・端午・七夕・お正月』雄鶏社 2004年
内容:七夕のつるし飾り(p16~17,58~62)

◆石沢誠司『七夕の紙衣と人形』ナカニシヤ出版 2004年
第1章 七夕の小史
 絵本のなかの織姫と牛飼い
 貴族の七夕から庶民の七夕へ
第2章七夕の紙衣
 七夕紙衣の始まり
 京都の紙衣「七夕さん」物語
 姫路の七夕紙衣
 仙台七夕祭りに紙衣を求めて 
第3章七夕の人形
 松本地方の七夕人形
 松本七夕人形の源流
 糸魚川市根知谷の七夕人形
 近世越後の七夕人形
 黒部市にもあった七夕人形
 七夕人形はなぜ生まれたか

◆安城七夕まつり協賛会『第五十回記念 安城七夕まつり』安城七夕まつり協賛会 2004年
内容:写真とデータで振り返る七夕(1~49回) 全国七夕サミット 七夕ソング

◆安城市歴史博物館編『たなばたのほんじ:七夕之本地絵巻』 安城市歴史博物館 95p;21×30センチ 2004年10月 複製および翻刻

◆松山博子『みやぎの七夕さま』丸善仙台出版サービスセンター 32p 2004年
内容:宮城県南部 亘理町周辺に伝わる七夕さまの物語。

◆松本市立博物館編『七夕と人形』郷土出版社 122p 2005年
第1章 七夕の紙衣と人形
 石沢誠司「七夕の紙衣と人形」
第2章 七夕行事と人形
 木下 守「七夕行事の諸相 ー人形を中心としてー」
 窪田雅之「文献に記された七夕人形など」
第3章 全国の七夕人形
 尾崎織女「兵庫県市川流域に伝わる紙衣」
 木下 守「仙台七夕まつりの紙衣」
 竹内祥泰「青森のねぶた」
 木下 守「山梨市周辺の七夕人形ーオルスイさん」
 小原 稔「中条町村松浜の七夕舟と人形」
 木下 守「糸魚川市根知のお七夕」
 木下 守「滑川のネブタ流しと黒部市尾山の七夕流し」
 竹原 学「入善町舟見の七夕」
 石沢誠司「京都の紙衣・七夕さん」
 窪田雅之「熊本県南部の七夕綱と宮崎県日之影町の精霊着物」
第4章 松本の七夕と人形
 竹原 学「コレクションにみる七夕人形のかたち」
 「重要有形民俗文化財七夕人形コレクション(全45点写真およびデータ)」
 窪田雅之・山岸弥生「人形を飾る松本の七夕」

◆『里に降りた星たち』 平塚市博物館 2006年
内容:平成18年に開催された同名の特別展図録。 七夕(p23~42)

◆近江恵美子『仙台七夕 伝統と未来』大崎大神宮(仙台市) 70p 2008年 
内容:1七夕の歴史 2江戸の七夕 3仙台藩の七夕 4明治の七夕 5大正の七夕 6仙台商人と七夕 7戦後の七夕 8七夕の現在 9未来へ向けて


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絵 本
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◆熊谷元一さく・え『たなばたまつり』(月刊予約絵本 こどものとも172号)福音館書店 1970年7月
内容:松本地方の七夕祭りを題材としたもの

◆君島久子・再話、初山滋・画『たなばた』福音館書店 1976年
内容:中国の七夕説話を再話したもの

◆吉村淑甫・文、赤坂三好・絵『たなばたてんにょ』小峰書店 1978年
内容:高知県の民話から題材をとったもの

◆梶山俊夫・作『かやかやうま 上総のたなばたまつり』童心社 1978年
内容:千葉県の七夕馬の習俗をテーマにしたもの

◆大川悦生・作、石倉欽二・絵『たなばたむかし』ポプラ社 1979年

◆たけざきゆうひ・文、原ゆたか・絵『たなばたひめ』フレーベル館 1979年

◆田辺聖子訳『お伽草子 たなばた物語』集英社 1982年
内容:室町時代の「天稚彦絵巻」に田辺聖子氏が口語訳をつけたもの

◆住井すゑ・文、滝平二郎・きり絵『たなばたさま』河出書房新社 1982年
 
◆岩崎京子・文、鈴木まもる・絵『たなばた』フレーベル館 1984年

◆矢部美智代・文、新野めぐみ・小熊康司・絵『おりひめとひこぼし 七夕に読む絵本』世界文化社 1987年

◆間所ひさこ・文、藤川秀之・絵『たなばたてんにょ』チャイルド本社 1987年

◆谷真介・文、赤坂三好・絵『天人にょうぼう』佼正出版社 1991年

◆武鹿悦子・作、新野めぐみ・絵『ほしにおねがい たなばたのおはなし』教育画劇 1993年

◆李美愛『七夕のお星さん』(韓国民話絵本)ポリム 1997年

◆船崎克彦・文、二俣英五郎・絵『たなばたものがたり』教育画劇 2001年


             


七夕の参考文献(地域別)

2018-11-07 22:43:03 | 参考文献
七夕の参考文献(地域別)  2006年現在

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北海道・東北
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<北海道>
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◆木村誠一「松前総社堂の七夕と七日盆 北海道漁師町ぐらし」
『民間伝承』32(3) p148~152 1968年10月

◆永平利夫「合歓の木の葉ごしもいとへ 松前の七夕との出会い」
『短歌研究』29(7) p110~111 1972年7月

◆小田嶋政子「七夕 八月七日 ローソクもらい」
小田嶋政子『北海道の年中行事』所収 p165~171 北海道新聞社 1996年

◆尾形 彰「北海道の七夕 道東の町・遠軽からの報告」
 HP『七夕文化・調査報告』所収 日本七夕文化研究会 2006年8月

<青森県>
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◆『ねぶたと七夕』青森県立郷土館 1999年 34p
内容:青森県立郷土館で1999年7月30日~8月22日まで開催された「ねぶたと七夕 ー東北の夏まつり展ー」の展示解説書。

<秋田県>
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◆ 川口弥之助『鹿島さん・七夕・遊山』秋田文化出版社 68p 1990年

◆『眠流し行事 能代役(やく)七夕』能代市教育委員会 1998年
内容:平成九年の役七夕(第2章)  役七夕行事の構成(第3章)  七夕行事の変遷(第4章)

◆『新聞集成「七夕論」』(能代市史資料 第26号) 能代市史編さん室 1998年 300p
内容:大正5年から昭和63年までに、地元新聞の「北羽新報」に掲載された能代七夕の記事を集めて一冊としたもの。

◆鎌田幸男「秋田の眠り流し考ー七夕・盆行事の視点からー」
『秋田市史研究』12号 p65-77 2003年8月

◆秋田市民俗芸能伝承館編『秋田の竿燈 七夕祭り 眠り流し行事 調査報告書』秋田市民俗芸能伝承館 2003年

<岩手県>
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◆米谷定一『東北の奇習 陸前高田けんか七夕の謎』 陸前高田けんか七夕保存会 86p 1975年

<宮城県>
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◆三原良吉『仙台七夕と盆まつり その由来と伝承』宝文堂出版 1971年

◆近江恵美子「仙台七夕の伝統と継承 七夕ゼミナール報告」
『紀要(東北生活文化大学他)』13号 p73~81 1977年

◆「仙台七夕の由来」
仙台市民図書館編『要説宮城の郷土誌』所収 p31~37 宝文堂出版 1980年

◆『仙台七夕飾りをつくる』仙台市観光課 9p 1983年

◆沼崎一郎「日本のなかのフィリピン、フィリピンのなかの日本 仙台七夕祭の「多文化化」についての覚書」
『東北文化研究室紀要(東北大学)』41号 p75~86 1999年

◆菊池ひろ子・菊池節子『仙台七夕浪漫 由来と七夕飾りの作り方』(株)キクチ 51p 2001年

◆高橋綾子・初沢敏生「仙台七夕まつりの変容に関する一考察」
『福島大学地域創造』15(1) p4937~4944 2003年9月

◆石沢誠司「仙台七夕祭りに紙衣を求めて」
石沢誠司『七夕の紙衣と人形』所収 p78-98 ナカニシヤ出版 2004年

◆「仙台七夕まつり」「東北各地の七夕」
『週刊朝日百科 日本の祭り8』所収 p2~13 朝日新聞社 2004年7月

◆松山博子『みやぎの七夕さま』丸善仙台出版サービスセンター 32p 2004年 
内容:宮城県南部 亘理町周辺に伝わる七夕さまの物語。

◆近江恵美子「仙台七夕の伝統と継承」
『東北生活文化大学・東北生活文化大学短期大学部紀要』35号 p37~46 2004年

◆近江恵美子『仙台七夕 伝統と未来』大崎大神宮(仙台市) 70p 2008年 
内容:1七夕の歴史 2江戸の七夕 3仙台藩の七夕 4明治の七夕 5大正の七夕 6仙台商人と七夕 7戦後の七夕 8七夕の現在 9未来へ向けて

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関 東
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<茨城県>
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◆逆井萬吉「七夕」(茨城県猿島郡七郷村・現岩井市)
逆井萬吉『こっちの水はにーがいぞ 菅生沼の四季、昭和二十年代の子どもたち』所収 p58~66 文芸社 2003年

<千葉県>
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◆押尾孝「七夕の真菰馬(房総)」
『旅と伝説』14(7) p9~11 1941年7月

◆浦野慶吉『西上総の唐人凧、長南・一宮などの袖凧、千葉県の七夕馬』浦野慶吉発行 34p 1988年

◆『草で作ったウマとウシ 1・2 七夕行事を中心に』千葉県立房総のむら 1998年
内容:平成9・10年度の特別展の内容をまとめたもの。 千葉県における草で作ったウマとウシ  草で作ったウマの分布図  上総地方の事例  下総地方の事例  安房地方の事例  カヤカヤ馬の作り方について  展示協力者一覧

◆『千葉県の七夕馬  草で作ったウマとウシ 3・4』千葉県房総のむら 2000年
内容:平成11・12年度の特別展の内容をまとめたもの。 資料編(平成11・12年度収集資料)  解説編  草でウマやウシを作る習俗(立名和啓人)  七夕と盆行事(渡辺善司)  千葉県の七夕馬(榎 美香)  商品としての七夕馬(榎 美香)  七夕馬の語るもの・課題と展望(米谷 博)  千葉県立房総のむら所蔵「千葉県の七夕馬」資料一覧 参考文献 協力者一覧

◆石原重男「多古町の七夕馬行事」
『町と村調査研究(千葉県立房総のむら)』3号 p45~51  2000年3月

◆渡辺善司「千葉県における明治時代後期の七夕行事 『郡誌』の記述を頼りとして」
『千葉県立中央博物館研究報告人文科学』8(2) p43~48 2004年3月

<東京都>
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◆鮎貝久仁子「甦える七夕祭(東京)」
『短歌研究』29(7) p120~123 1972年7月

◆江口智子「子どもたち生き生き七夕の支度―子宝五節遊」
鈴木章生編『江戸東京歴史探検1 年中行事を体験する』所収 p62~63 中央公論社 2002年

◆石山秀和「初秋の風物詩今に伝えるー風流五節句之内 七夕」
鈴木章生編『江戸東京歴史探検1 年中行事を体験する』所収 p64~65 中央公論社 2002年

<神奈川県>
________________________________________
◆得能誠「神奈川県中郡大磯町西小磯の七夕祭」
『民俗と歴史』第5号 1977年

◆後藤淑「大磯町の七夕祭」
『神奈川県文化財図鑑 補遺編』神奈川県教育委員会 1987年

◆佐川和裕「大磯町西小磯の七夕」
『民俗学論叢(相模民俗学会)』16号 p91~115 2001年4月

◆『ひらつか七夕30年のあゆみ 平塚七夕まつり30周年記念誌』平塚七夕まつり実行委員会 1981年

◆『ひらつか七夕40年のあゆみ』平塚七夕まつり実行委員会 1990年

◆『湘南ひらつか七夕まつり 50周年記念誌』湘南ひらつか七夕まつり実行委員会 2000年
第1部 願いの碑 ~写真でみる七夕~
 第1回~第50回
第2部 願いの足跡 ~資料でみる七夕~
 年表 湘南ひらつか七夕まつり50年の歩み
 第50回湘南ひらつか七夕まつり功労者
 湘南ひらかた七夕まつり歌集
 開催実施要項 昭和32年(第7回)、平成12年(第50回)
第3部 願いの懸け橋 ~七夕への想い~
 七夕を産み育ててこられた方々からのお言葉

◆『里に降りた星たち』 平塚市博物館 2006年
内容:平成18年に開催された同名の特別展図録。 七夕(p23~42)

◆澤村泰彦「平塚七夕まつり」
『里に降りた星たち』所収 p24~29 平塚市博物館 2006年

◆澤村泰彦「幻の七夕人形ー二宮町山西の七夕」
『里に降りた星たち』所収 p30~35 平塚市博物館 2006年

◆澤村泰彦「伝統を継ぐー大磯町西小磯の七夕」
『里に降りた星たち』所収 p36~42 平塚市博物館 2006年
 
<埼玉県>
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◆「埼玉の七夕とお盆特集」『埼玉民俗』2号 1972年7月 埼玉民俗の会

◆内田賢作「埼玉の七夕について」
『埼玉民俗』2号 p11-21 1972年7月 埼玉民俗の会

◆井上 浩「たなばたの日の雨」
『埼玉民俗』2号 p22-31 1972年7月 埼玉民俗の会

◆坂上昭夫「坂上家の七夕とお盆」
『埼玉民俗』2号 p51-58 1972年7月 埼玉民俗の会

◆板垣時夫「旧南埼玉郡北部の七夕習俗」
『八潮市史研究』8号 1991年 八潮市立資料館

◆石川博行「七夕行事の一考察」
『埼玉民俗』19号 1996年 埼玉民俗の会

◆石沢誠司「埼玉県上尾市の真菰馬を飾る七夕まつり見学記」
『郷玩文化』146号 p313~319 2001年9月

◆柳 正博「埼玉の七夕習俗ー七夕飾りと農耕儀礼をめぐって」
『埼玉県立歴史資料館研究紀要』27号 p91~106 2005年


<群馬県>
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◆清水基美「聖なる乙女信仰 主として上州の七夕について」
『短歌研究』29(7) p116~119 1972年7月

◆「お盆と七夕の習俗 板倉町の民俗行事その1」
 『板倉町史基礎資料(群馬県)』48号 80p 1977年1月

◆熊野卓司「前橋七夕まつり(群馬・前橋市) 町全体の取り組みが生む飾りと催しのハーモニー」
『商業界』52(10) p25~28 1999年10月

________________________________________
中部・東海
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<山梨県>
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◆小沢秀之「甲州の七夕祭り」
『民間伝承』15(10) p28~30 1951年10月

◆上野晴朗「七夕」
上野晴朗『やまなしの民俗ー祭りと芸能ー 下巻』所収 p20~31 光風社書店 1973年
内容:甲斐の七夕人形についての記述がある。

◆木下守「山梨市周辺の七夕人形 ーオルスイさん」
松本市立博物館編『七夕と人形』所収 p62~63 郷土出版社 2005年

◆信清由美子「山梨の七夕人形」
 HP『七夕文化・調査報告』所収 日本七夕文化研究会 2005年10月

◆信清由美子「山梨の七夕人形」
『天界』971号 p198~205 2006年4月

◆石沢誠司「山梨の七夕人形 オルスイさん」
『郷玩文化』176号 p37~47 2006年9月

<長野県>
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◆信濃教育会南安曇郡部会「七夕 七夕様、供え物・食物、七夕送り」
信濃教育会南安曇郡部会『南安曇郡郷土調査叢書1 年中行事篇』所収 p221~232 郷土研究社 1935年 

◆田中磐「松本地方の七夕人形の系統」
一志茂樹先生還暦記念会編『地方研究論叢』所収 一志茂樹先生還暦記念会 1954年

◆田中磐「信州松本地方の七夕人形の源流」
『日本民俗学』6号 1959年3月
田中磐『信濃・松本平の民俗と信仰』所収p143-148 安筑郷土誌料刊行会 1964年

◆熊谷元一さく・え『たなばたまつり』(月刊予約絵本 こどものとも172号)福音館書店 1970年7月
内容:松本地方の七夕祭り

◆松本市立博物館『目録 民俗編1』松本市立博物館 24p 1972年
内容:七夕人形コレクション 同コレクション目録

◆田中磐「七夕人形コレクション」
 『信州の民俗コレクション』所収 p9~36 信濃毎日新聞社  1982年

◆岩城邦子「七夕人形考 長野県松本市の七夕人形を中心に」
 『歴史研究』335号 p28~48 1989年3月

◆石沢誠司「松本地方の七夕人形」「松本七夕人形の源流」
石沢誠司『七夕の紙衣と人形』所収 p100-159 ナカニシヤ出版 2004年

◆「松本・軒端に揺れる、七夕の雛」写真=小林庸浩
『銀花』142号 p 50~58 2005年6月

◆木下 守「七夕と人形 ー松本の愛すべき風習」
『銀花』142号 p 59~61 2005年6月

◆松本市立博物館編『七夕と人形』郷土出版社 122p 2005年
第4章 松本の七夕と人形
 竹原 学「コレクションにみる七夕人形のかたち」p82~87
 「重要有形民俗文化財 七夕人形コレクション(全45点写真およびデータ)」p88~100
 窪田雅之・山岸弥生「人形を飾る松本の七夕」p101~115

◆石沢誠司「『踏入七夕まつり『天の川』」(長野県上田市)
 HP『七夕文化・調査報告』所収 日本七夕文化研究会 2005年8月

<岐阜県>
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◆『岐阜市の年中行事 初七夕・山の子・同族祭祀』岐阜市教育委員会 1990年
 内容:初七夕(p2~28)

◆みやざきじゅん編『七夕祭り資料集 高山市松ノ木町の民俗行事』岐阜県民俗行事研究会 2002年

◆石沢誠司『高山市松ノ木町の七夕まつり(七夕岩)見学記』日本七夕文化研究所 8p 2002年

<愛知県>
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◆森銑三「愛知県三河の七夕」
 『森銑三著作集 続編』第15巻 p316~318 1995年

◆『星まつり・日本の七夕 天の川にかける夢』安城市歴史博物館 1993年
内容:平成5年に行われた同名の展覧会図録。七夕の行事(竹田 旦)  万葉集の七夕歌(津之地直一)  乞巧奠(冷泉貴実子)  七夕の伝承(斎藤卓志)  図版・展示資料一覧  参考文献

◆『日本の三大七夕 七夕「額」飾りの世界』安城市歴史博物館 2003年
内容:平成15年に開催された同名の特別展図録。 七夕とは  仙台の七夕  平塚・湘南の七夕  安城七夕まつりの誕生 「額」ー安城七夕まつりの原像ー  インタビュー・「宿」に飾った七夕の「額」(細井平司)  寺の参道に飾った七夕の「額」(鈴木和雄)  父が指導した七夕の「飾りもん」(石原光郎)  小学校の運動場での七夕祭り(鈴木清市・沢田坂男・磯村守・鈴木正明)  運動場と納屋に飾った七夕の「作りもん」(榊原 功)  刈谷・正木新道での「額行燈」(古橋知次)  安城七夕まつりはこうして始まった(稲垣甚作)  安城七夕まつりの誕生とその原像(斎藤弘之)

◆斎藤弘之「七夕「額」飾りの世界 ー七夕に立万古を飾る西三河南部地方の習俗ー」
『安城市歴史博物館研究紀要』10・11合併号 p133~165 2004年2月

◆安城七夕まつり協賛会『第五十回記念 安城七夕まつり』安城七夕まつり協賛会 2004年
内容:写真とデータで振り返る七夕(1~49回)  全国七夕サミット  七夕ソング

________________________________________
北 陸
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<新潟県>
________________________________________
◆小熊延幸「神林村塩谷地区のタナバタまつり」
『高志路(新潟県民俗学会)』338号 p13~17 2000年11月

◆小熊延幸「紫雲寺町藤塚浜の七夕祭り」
『高志路(新潟県民俗学会)』340号 p6~11 2001年7月

◆畑野栄三「村松浜の七夕流しと武者人形と紙人形」
『郷玩文化』135号 p142~146 1999年10月
 
◆小熊延幸「中条町村松浜のタナバタまつり」
『高志路(新潟県民俗学会)』348号 p37~44 2003年5月

◆石沢誠司「糸魚川市根知谷の七夕人形」
石沢誠司『七夕の紙衣と人形』所収 p160~180 ナカニシヤ出版 2004年

◆石沢誠司「近世越後の七夕人形」
石沢誠司『七夕の紙衣と人形』所収 p181-185 ナカニシヤ出版 2004年

◆小熊延幸「新潟町の七夕祭り(湊祭)」
『高志路(新潟県民俗学会)』355号 p1~12 2005年3月

◆小原 稔「中条町村松浜の七夕舟と人形」
松本市立博物館編『七夕と人形』所収 p64~65 郷土出版社 2005年

◆木下 守「糸魚川市根知のお七夕」
松本市立博物館編『七夕と人形』所収 p66~67 郷土出版社 2005年

<富山県>
________________________________________
◆芳賀日出男「高岡の七夕祭」
『俳句』12(7) p138~145 1963年7月

◆富山新聞社「七夕舟 入善町吉原」
富山新聞社編『富山の習俗 ふるさとの風と心』所収 p119~121 富山新聞社 1986年

◆富山新聞社「七夕姉さま流し 黒部市尾山」
富山新聞社編『富山の習俗 ふるさとの風と心』所収 p122~124 富山新聞社 1986年

◆石沢誠司「黒部市にもあった七夕人形」
石沢誠司『七夕の紙衣と人形』所収 p186-211 ナカニシヤ出版 2004年

◆木下 守「滑川のネブタ流しと黒部市尾山の七夕流し」
松本市立博物館編『七夕と人形』所収 p68~71 郷土出版社 2005年

◆竹原 学「入善町舟見の七夕」
松本市立博物館編『七夕と人形』所収 p72~73 郷土出版社 2005年

________________________________________
近 畿
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<京都府>
________________________________________
◆佐々木秀子「大呂の七夕祭」
『史窓』14号 p73~75 1959年4月
内容:京都府中郡峰山町大呂の安達家で行われている七夕行事の紹介

◆細谷福太郎「日本の夏 郷土の七夕(京都)」
『短歌研究』29(7) p128~129 1972年7月

◆荒尾須賀子・小寺比出子「七夕」
 『冷泉家の歳時記』所収 p137~143 京都新聞社  1987年

◆冷泉為人『五節供の楽しみ 七草・雛祭・端午・七夕・重陽』淡交社 1996年
内容:七夕の節供(乞巧奠) 冷泉家の乞巧奠 七夕の歌会・床飾り・料理・お菓子ほか 

◆冷泉布美子「冷泉家雅の十二カ月1 七夕 星に歌を手向けて」
 『太陽(平凡社)』1997年7月号 p110~114

◆藤本孝一「冷泉家の乞巧奠 七夕祭の史料を中心に」
 『文化財報』98号 p3~10 1997年8月

◆冷泉布美子「七夕 星に願いを」
『冷泉布美子が語る 京の雅 冷泉家の年中行事』所収 p114~121 集英社  1999年

◆『季節を祝う 京の五節句』京都文化博物館 2000年
内容:平成12年に開催された同名展の図録。 七夕(石沢誠司)  乞巧奠・七夕(図版)  資料解説  参考文献 

◆石沢誠司「花洛十二か月 七月 七夕」(内容 京都の七夕)
『茶道雑誌』65(7) p103~110 2001年7月

◆石沢誠司「京都の紙衣「七夕さん」物語」
石沢誠司『七夕の紙衣と人形』所収 p49-65 ナカニシヤ出版 2004年

◆「冷泉家の乞巧奠」「京都の七夕あれこれ」  
『週刊朝日百科 日本の祭り4』所収 p14~21 朝日新聞社  2004年6月


<奈良県>
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◆上田正昭「古代飛鳥の七夕信仰」
 『半島と列島・接点の研究』所収 p144~149 青丘文化社  2002年

<大阪府>
________________________________________
◆『交野ケ原と七夕伝説』天の川七夕星まつりの会 2000年
内容:七夕の由来と交野ヶ原(牧野住人) 交野ヶ原の降星伝説(佐々木久裕) 星田の妙見さん(大塚日出男) 天田神社と七夕(奥野平次) 機物神社の由来と七夕まつり復活(中村武三) かささぎ橋と天の川(中島三佳) 中山観音寺と牽牛石(桜井敬夫) 桓武天皇と交野ヶ原(片山長三) 名所図会にみる渚の院跡(古倉弥太郎) 七夕のルーツと百済王一族(佐藤博文) 特別寄稿:乞巧奠と七夕(冷泉為人) 交野と道教思想(高橋徹) 宇宙の記憶(木内鶴彦) 七夕と香道(山中欣治)  資料編  子供編

◆中田仁公「わが市を語る 交野市(大阪府) 七夕伝説のロマンと豊かな自然に次代の夢を紡ぐまち かたの」
『市政』53(12)p124~127 2004年12月

<兵庫県>
________________________________________
◆神戸新聞学芸部「七夕 姫路市白浜町宇佐崎・飾磨郡夢前町神種、資料編(兵庫県内各地)」
 『兵庫探検 民俗編』所収 p218~222 神戸新聞社  1972年

◆井上重義「七夕人形(姫路市)」
井上重義『兵庫の郷土玩具』神戸新聞出版センター p118~122 1981年

◆今井登子「播州姫路の七夕人形」
 『女性と経験』8号 p31~35 1983年

◆石沢誠司「姫路の七夕紙衣」
石沢誠司『七夕の紙衣と人形』所収 p66-77 ナカニシヤ出版 2004年

◆尾崎織女「『室津の七夕飾り』聞き書き」
 HP『七夕文化・調査報告』所収 日本七夕文化研究会 2004年12月

◆尾崎織女「兵庫県市川流域に伝わる紙衣」
『郷玩文化』170号 p281~291 2005年9月

◆尾崎織女「兵庫県市川流域に伝わる紙衣」
松本市立博物館編『七夕と人形』所収 p42~57 郷土出版社 2005年

◆尾崎織女「復活をめざす生野七夕」
 HP『七夕文化・調査報告』所収 日本七夕文化研究会 2006年7月

________________________________________
中国・四国
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<鳥取県>
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◆ 大原俊二「星のメルヘン 米子の七夕祭りと宇気河口(うけ・かわぐち)神社」
『伯耆文化研究』7号 p59~75 2005年

<島根県>
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◆ 「星祭り 島根県隠岐郡五箇村久見」
天野 武『子どもの歳時記 ―祭りと儀礼―』所収 p104~105 岩田書店 1996年

<高知県>
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◆ 高木啓夫「土佐の七夕習俗と伝承」
『日本民俗学』17号 1961年4月

________________________________________
九 州
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<佐賀県>
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◆中原勇夫「佐賀平野の七夕まで」
『短歌研究』29(7) p134~137 1972年7月

<熊本県>
________________________________________
◆奥野広隆「七夕の綱張り行事 熊本県南部の特殊な分布」
『日本民俗学』151号 p36~53 1984年1月

◆窪田雅之「熊本県南部の七夕綱と宮崎県日之影町の精霊着物」
松本市立博物館編『七夕と人形』所収 p76~80 郷土出版社 2005年

<大分県>
________________________________________
◆佐藤悌「七夕と農村儀礼 大分県速見郡日出町」
『民間伝承』13(11) p36 1949年11月

<鹿児島県>
________________________________________
◆村田煕「甑島の七夕とトビサゴ」
『民間伝承』15(10) p18~19 1951年10月

◆真鍋隆彦「地域社会における民俗芸能の伝承組織2 市来町大里七夕踊りの事例」
『経済学論集(鹿児島大学)』8号 p235~266 1972年2月

◆小野重朗「七夕踊り」
小野重朗『南日本の民俗文化4 祭りと芸能』所収 第一書房 1993年



七夕の参考文献(論文)

2018-11-07 22:23:26 | 調査報告
七夕の参考文献(論文) 2006年現在

<目次>                         
七夕伝説(刊行年順)
七夕の歴史・民俗(刊行年順)
七夕歌(刊行年順)

________________________________________
七夕伝説(刊行年順)
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◆藤沢衛彦「七夕二星の伝説 天界神話 鵲橋考」
藤沢衛彦『日本伝説研究5』所収 六文館 1932年

◆杤尾武「張騫説話と七夕説話」
西尾光雄先生還暦記念会編『日本文学叢攷』所収 東洋法規出版 1968年

◆出石誠彦「牽牛織女説話の考察」
出石誠彦『支那神話伝説の研究』所収 中央公論社 1973年

◆大久間喜一郎「七夕説話伝承考」
『明治大学教養論集』75号 p1~22 1972年12月

◆柳田国男「犬飼七夕譚」
『柳田国男全集第13巻 年中行事覚書』所収 筑摩書房 95~106p 1973年

◆小南一郎「西王母と七夕伝承」
『東方学報(京都大学)』46号 p33~81 1974年3月

◆鈴木美恵子「日本古代文芸における七夕伝説受容をめぐって」
『金城国文(金城学院大学)』52号 p19~28 1976年3月

◆桂芳久「古代日本神話伝承の基層1 タナバタツメとアマテラスと」
『北里大学教養部紀要』20号 p194~178 1986年3月

◆鈴木陽一「七夕の伝説と祭祀習俗」
『人文研究(神奈川大学)』112号 p47~70 1992年3月

◆吉井美弥子「浮舟物語における七夕伝説」
早稲田大学大学院中古文学研究会編『源氏物語と平安文学』所収 早稲田大学出版部 1998年

◆茶園麻由「天人女房譚と七夕起源伝説」
『日本文学論集(大東文化大学)』23号 p1~12 1999年3月

◆金谷信之「七夕伝承考」
『関西外語大学研究論集』71号 p247~260 2000年2月

◆小松和彦「天界への通路 ―『天稚彦草子絵巻』」
小松和彦『異界と日本人』所収 p92~104 角川書店 2003年

◆呉 艶「時代の変遷に伴う神話・伝説の受容 七夕伝説をめぐって」
『同志社国文学』58号 p115~123 2003年3月

◆李 琳「牛郎織女の故事と七夕伝説」
『文明の科学』2号 p21~43 2003年3月

◆奥 真紀子「宇治十帖における七夕伝説ー大君・中の君から浮舟へ」
『立教大学大学院日本文学論叢』4号 p26~38 2004年6月

◆池田美桜・松本 学「七夕行事と絵本に関する一考察」
『国際学院埼玉短期大学研究紀要』26号 p77~81 2005年

◆舘入靖枝「七夕夜の隠し絵ー七夕伝説と末摘花・雲居雁」
『物語研究』5号 p55~67 2005年3月

◆大西美和「地方劇に見る七夕伝承」
『愛知県立大学大学院国際文化研究科論集』6号 p131~153 2005年

◆杉本妙子「七夕伝説の比較文化ー中国、日本、韓国朝鮮、ベトナムの比較」
『コミュニケーション学科論集』19号 p101~118 2006年3月

◆勝俣 隆「七夕伝説の起源と変化」
(その1)なぜ七月七日か
『天界』87(975) p504~506 2006年8月
(その2)なぜ鵲の橋を渡るのか
『天界』87(976) p565~567 2006年9月
(その3)なぜ牽牛織女が天の河を挟んで向かい合うのか
『天界』87(977) p604~606 2006年10月
(その4)牛から犬へ…羽衣伝説との融合
『天界』87(978) p686~689 2006年11月
(その5)七夕と乞巧奠、織女と瓜
『天界』87(979) p749~751 2006年12月

______________________________________
七夕の歴史・民俗(刊行年順)
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◆折口信夫「七夕祭りの話」
『旅と伝説』3(7) p108~116 1930年7月
『折口信夫全集15』所収 中央公論社 1967年

◆信濃教育会南安曇郡部会「七夕  七夕様  供え物・食物  七夕送り」
信濃教育会南安曇郡部会『南安曇郡郷土調査叢書1 年中行事篇』所収 p221~232
郷土研究社 1935年 

◆押尾孝「七夕の真菰馬(房総)」
『旅と伝説』14(7) p9~11 1941年7月

◆佐藤悌「七夕と農村儀礼 大分県速見郡日出町」
『民間伝承』13(11) p36 1949年11月

◆村田煕「甑島の七夕とトビサゴ」
『民間伝承』15(10) p18~19 1951年10月

◆小沢秀之「甲州の七夕祭り」
『民間伝承』15(10) p28~30 1951年10月
 
◆貞方春野「七夕の料理」
『家庭科教育』26(7) p56~59 1952年7月

◆中塩清臣「七夕まつり構造論」
『富山大学文理学部文学紀要』2号 p29~51 1952年11月

◆田中磐「松本地方の七夕人形の系統」
一志茂樹先生還暦記念会編『地方研究論叢』所収 一志茂樹先生還暦記念会 1954年

◆酒井卯作「七夕と農耕」
 『稲の祭り』岩崎書店 p215~226 1958年

◆田中磐「信州松本地方の七夕人形の源流」
 『日本民俗学』6号 1959年3月

◆佐々木秀子「大呂の七夕祭」
『史窓』14号 p73~75 1959年4月
内容:京都府中郡峰山町大呂の安達家で行われている七夕行事の紹介

◆高木啓夫「土佐の七夕習俗と伝承」
『日本民俗学』17号 1961年4月

◆大井ミノブ「中世における立花成立の基盤 とくに七夕花合について」
『日本女子大学紀要(文学部)』11号 1962年7月

◆芳賀日出男「高岡の七夕祭」
『俳句』12(7) p138~145 1963年7月

◆田中磐「信州松本地方の七夕人形の源流」
田中磐『信濃・松本平の民俗と信仰』所収 p143-148 安筑郷土誌料刊行会 1964年

◆木村誠一「松前総社堂の七夕と七日盆 北海道漁師町ぐらし」
『民間伝承』32(3) p148~152 1968年10月

◆神戸新聞学芸部「七夕  姫路市白浜町宇佐崎・飾磨郡夢前町神種、資料編(兵庫県内各地)」
『兵庫探検 民俗編』所収 p218~222 神戸新聞社  1972年

◆清水基美「聖なる乙女信仰 主として上州の七夕について」
『短歌研究』29(7) p116~119 1972年7月

◆鮎貝久仁子「甦える七夕祭(東京)」
『短歌研究』29(7) p120~123 1972年7月

◆細谷福太郎「日本の夏 郷土の七夕(京都)」
『短歌研究』29(7) p128~129 1972年7月

◆中原勇夫「佐賀平野の七夕まで」
『短歌研究』29(7) p134~137 1972年7月

◆永平利夫「合歓の木の葉ごしもいとへ 松前の七夕との出会い」
『短歌研究』29(7) p110~111 1972年7月

◆真鍋隆彦「地域社会における民俗芸能の伝承組織2 市来町大里七夕踊りの事例」
『経済学論集(鹿児島大学)』8号 p235~266 1972年2月

◆「埼玉の七夕とお盆特集」『埼玉民俗』2号 1972年 埼玉民俗の会

◆内田賢作「埼玉の七夕について」
『埼玉民俗』2号 p11-21 1972年 埼玉民俗の会

◆井上 浩「たなばたの日の雨」
『埼玉民俗』2号 p22-31 1972年 埼玉民俗の会

◆坂上昭夫「坂上家の七夕とお盆」
『埼玉民俗』2号 p51-58 1972年 埼玉民俗の会

◆鳥越憲三郎「七夕祭りの変遷」
鳥越憲三郎『歳時記の系譜』所収 p201~215 毎日新聞社  1977年

◆近江恵美子「仙台七夕の伝統と継承 七夕ゼミナール報告」
『紀要(東北生活文化大学他)』13号 p73~81 1977年

◆得能誠「神奈川県中郡大磯町西小磯の七夕祭」
『民俗と歴史』第5号 1977年

◆「お盆と七夕の習俗 板倉町の民俗行事その1」
 『板倉町史基礎資料(群馬県)』48号 80p 1977年1月

◆守屋毅「つくりもの考7 七夕竹」
『日本美術工芸』478号 p94~99 1978年7月

◆ 「仙台七夕の由来」
 仙台市民図書館編『要説宮城の郷土誌』所収 p31~37 宝文堂出版 1980年

◆井上重義「七夕人形(姫路市)」
井上重義『兵庫の郷土玩具』所収 p118~122 神戸新聞出版センター  1981年

◆田中磐「七夕人形コレクション」
『信州の民俗コレクション』所収 p9~36 信濃毎日新聞社  1982年

◆今井登子「播州姫路の七夕人形」
『女性と経験』8号 p31~35 1983年

◆田中宣一「七夕まつりの原像」
『日本民俗研究大系 第3巻』所収 國學院大學  1983年

◆奥野広隆「七夕の綱張り行事 熊本県南部の特殊な分布」
『日本民俗学』151号 p36~53 1984年1月

◆蛸島 直「ローソク出せ出せよー民俗のひとり歩きー」
『日本民俗学』166号 1986年7月

◆荒尾須賀子・小寺比出子「七夕」
 『冷泉家の歳時記』所収 p137~143 1987年 京都新聞社

◆ 後藤淑「大磯町の七夕祭」
『神奈川県文化財図鑑 補遺編』所収 神奈川県教育委員会 1987年

◆鈴木晋一「素麺と七夕」
 『たべもの史話』所収 p117~121 1989年 平凡社

◆岩城邦子「七夕人形考 長野県松本市の七夕人形を中心に」
 『歴史研究』335号 p28~48 1989年3月

◆吉成直樹「七夕、盆行事にみる水神祭祀としての性格」
『日本民俗学』187号 p31~66 1991年8月

◆板垣時夫「旧南埼玉郡北部の七夕習俗」
『八潮市史研究』8号 1991年 八潮市立資料館

◆土屋京子「子供の行事食について 七夕の場合」
『東京家政大学研究紀要』32号 p39~44 1992年2月

◆小笠原一「七夕考 用字を中心に 織女から七夕へ」
『学芸国語国文学(東京学芸大学)』24号 p37~46 1992年3月

◆小野重朗「七夕踊り」
小野重朗『南日本の民俗文化4 祭りと芸能』所収 第一書房 1993年

◆正道寺康子「『うつほ物語』における七夕ー琴との関係を中心にー」
『現代社会文化研究(新潟大学)』1号 p1~30 1994年12月

◆桜井満「七夕の古典」
桜井満『節供の古典 花と生活文化の歴史』所収 p123~143 1993年 雄山閣
桜井満『桜井満著作集9 花の民俗学』所収 おうふう 2000年

◆倉石忠彦「タナバタ伝承の禁忌に見る地域性」
『国立歴史民俗博物館研究報告』52号 p161~183 1993年11月

◆斎藤達次郎「柳田国男・七夕と洪水の昔話・世界観」
鈴木正・山領健二編『日本思想の可能性』所収 五月書房 1994年

◆森銑三「愛知県三河の七夕」
『森銑三著作集 続編』第15巻 p316~318 1995年

◆塚本宏「『七夕の草紙』考」
『和洋国文研究(和洋女子大学)』30号 p47~73 1995年3月

◆小田嶋政子「七夕 八月七日 ローソクもらい」
小田嶋政子『北海道の年中行事』所収 p165~171 北海道新聞社 1996年

◆石川博行「七夕行事の一考察」
『埼玉民俗』19号 1996年 埼玉民俗の会

◆冷泉布美子「冷泉家雅の十二カ月1 七夕 星に歌を手向けて」
 『太陽(平凡社)』1997年7月号 p110~114

◆藤本孝一「冷泉家の乞巧奠 七夕祭の史料を中心に」
 『文化財報』98号 p3~10 1997年8月

◆沼崎一郎「日本のなかのフィリピン、フィリピンのなかの日本 仙台七夕祭の「多文化化」についての覚書」
『東北文化研究室紀要(東北大学)』41号 p75~86 1999年

◆冷泉布美子「七夕 星に願いを」
『冷泉布美子が語る 京の雅 冷泉家の年中行事』所収 p114~121 集英社 1999年

◆熊野卓司「前橋七夕まつり(群馬・前橋市) 町全体の取り組みが生む飾りと催しのハーモニー」
『商業界』52(10) p25~28 1999年10月

◆畑野栄三「村松浜の七夕流しと武者人形と紙人形」
『郷玩文化』135号 p142~146 1999年10月

◆上田正昭「七夕の伝流」
日本風俗史学会編『日本の風と俗』所収 p6~21 つくばね舎 2000年

◆石原重男「多古町の七夕馬行事」
『町と村調査研究(千葉県立房総のむら)』3号 p45~51  2000年3月

◆小熊延幸「神林村塩谷地区のタナバタまつり」
『高志路(新潟県民俗学会)』338号 p13~17 2000年11月

◆稲葉継陽「荘園政所の七夕と夏麦納法」
『日本歴史』630号  26~31 2000年11月

◆産経新聞取材班「七夕」
産経新聞取材班『祝祭日の研究―「祝い」を忘れた日本人へ』所収 p102~111 角川書店  2001年

◆佐川和裕「大磯町西小磯の七夕」
『民俗学論叢(相模民俗学会)』16号 p91~115 2001年4月
 
◆石沢誠司「花洛十二か月 七月 七夕」(京都の七夕)
『茶道雑誌』65(7) p103~110 2001年7月

◆小熊延幸「紫雲寺町藤塚浜の七夕祭り」
『高志路(新潟県民俗学会)』340号 p6~11 2001年7月

◆石沢誠司「埼玉県上尾市の真菰馬を飾る七夕まつり見学記」
『郷玩文化』146号 p313~319 2001年9月

◆上田正昭「古代飛鳥の七夕信仰」
上田正昭『半島と列島・接点の探求』所収 p144~149 2002年

◆中山真知子「七夕の立花」
『いけばなの起源 立花と七支刀』人文書院 p96~104 2002年

◆石沢誠司『高山市松ノ木町の七夕まつり(七夕岩)見学記』日本七夕文化研究所 8p 2002年

◆江口智子「子どもたち生き生き七夕の支度―子宝五節遊」
鈴木章生編『江戸東京歴史探検1 年中行事を体験する』所収 p62~63 中央公論社 2002年

◆石山秀和「初秋の風物詩今に伝えるー風流五節句之内 七夕」
鈴木章生編『江戸東京歴史探検1 年中行事を体験する』所収 p64~65 中央公論社 2002年

◆逆井萬吉「七夕」(茨城県猿島郡七郷村・現岩井市)
逆井萬吉『こっちの水はにーがいぞ 菅生沼の四季、昭和二十年代の子どもたち』所収 p58~66 文芸社 2003年

◆小熊延幸「中条町村松浜のタナバタまつり」
『高志路(新潟県民俗学会)』348号 p37~44 2003年5月

◆鎌田幸男「秋田の眠り流し考ー七夕・盆行事の視点から」
『秋田市史研究』12号 p65-77 2003年8月

◆高橋綾子・初沢敏生「仙台七夕まつりの変容に関する一考察」
『福島大学地域創造』15(1) p4937~4944 2003年9月

◆斎藤弘之「七夕「額」飾りの世界 ー七夕に立万古を飾る西三河南部地方の習俗ー」
 『安城市歴史博物館研究紀要』10・11合併号 p133~165 2004年2月

◆渡辺善司「千葉県における明治時代後期の七夕行事 『郡誌』の記述を頼りとして」
『千葉県立中央博物館研究報告人文科学』8(2) p43~48 2004年3月

◆林 和生「中国伝統文化中的七夕ー七夕源流探討」
『常磐国際紀要』8号 p1~17 2004年3月

◆「冷泉家の乞巧奠 京都の七夕あれこれ」
『週刊朝日百科 日本の祭り4』朝日新聞社 p14~21 2004年6月

◆「仙台七夕まつり 東北各地の七夕」
『週刊朝日百科 日本の祭り8』朝日新聞社 p2~13 2004年7月

◆「特集 七夕にお茶会を」
『淡交』58(7) p 12~31 2004年7月
内容 岡崎宗澄「七夕にお茶会を」、小澤宗誠「七夕の趣向に向くお道具」、「七夕の趣向を彩るお菓子」

◆尾崎織女「『室津の七夕飾り』聞き書き」
 HP『七夕文化・調査報告』所収 日本七夕文化研究会 2004年12月

◆中田仁公「わが市を語る 交野市(大阪府)七夕伝説のロマンと豊かな自然に次代の夢を紡ぐまち かたの」
『市政』53(12)p124~127 2004年12月

◆近江恵美子「仙台七夕の伝統と継承」
『東北生活文化大学・東北生活文化短期大学部紀要』35号 p37~46 2004年

◆木下 守「書評 石沢誠司著『七夕の紙衣と人形』」
『信濃』57(1) p 75~79 2005年1月

◆小熊延幸「新潟町の七夕祭り(湊祭)」
『高志路(新潟県民俗学会)』355号 p 1~12 2005年3月

◆石沢誠司「日本人と七夕 ー『日本民俗地図』に見る20世紀前半の七夕行事ー」
 HP『七夕文化』所収 日本七夕文化研究会 2005年3月

◆勝俣 隆「仙台市博物館所蔵『七夕』の翻刻並びに解題」
『長崎大学教育学部紀要 人文科学』70号 p1~16 2005年3月

◆「松本・軒端に揺れる、七夕の雛」写真=小林庸浩
『銀花』142号 p 50~58 2005年6月

◆木下 守「七夕と人形 ー松本の愛すべき風習」
『銀花』142号 p 59~61 2005年6月

◆丘 桓興「祭りの歳時記(7)星を祭り、子授けを祈るー七夕節」
『人民中国』625号 p72~75 2005年7月

◆金田文男「七夕行事」
『高志路』356号 p19~33 2005年7月

◆柳 正博「埼玉の七夕習俗ー七夕飾りと農耕儀礼をめぐって」
『埼玉県立歴史資料館研究紀要』27号 p91~106 2005年

◆尾崎織女「兵庫県市川流域に伝わる紙衣」
『郷玩文化』170号 p281~291 2005年9月

◆尾崎織女「兵庫県市川流域に伝わる紙衣」
松本市立博物館編『七夕と人形』所収 p42~57 郷土出版社 2005年

◆信清由美子「山梨の七夕人形」
HP『七夕文化』所収 日本七夕文化研究会 2005年10月

◆大原俊二「星のメルヘン 米子の七夕祭りと宇気河口(うけ・かわぐち)神社」
『伯耆文化研究』7号 p59~75 2005年

◆信清由美子「山梨の七夕人形」
『天界』87(971) p198~205 2006年4月

◆尾崎織女「復活をめざす生野七夕」
 HP『七夕文化・調査報告』所収 日本七夕文化研究会 2005年7月

◆石沢誠司「山梨の七夕人形 オルスイさん」
『郷玩文化』176号 p37~47 2006年9月

◆尾形 彰「北海道の七夕 道東の町・遠軽からの報告」
 HP『七夕文化・調査報告』所収 日本七夕文化研究会 2005年7月

◆澤村泰彦「平塚七夕まつり」
『里に降りた星たち』所収 p24~29 平塚市博物館 2006年

◆澤村泰彦「幻の七夕人形ー二宮町山西の七夕」
『里に降りた星たち』所収 p30~35 平塚市博物館 2006年

◆澤村泰彦「伝統を継ぐー大磯町西小磯の七夕」
『里に降りた星たち』所収 p36~42 平塚市博物館 2006年

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七夕歌(刊行年順)
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◆山崎馨「憶良の七夕歌二題」
『語文(大阪大学)』11号 p18~21 1954年3月

◆池宮正治「万葉集における文学の場としての宴 七夕・月人壮士を中心に」
『琉球大学法文学部紀要 人文篇』13号 p69~92 1969年4月

◆後藤重郎「建礼門院右京大夫集七夕歌に関する一考察」
『名古屋大学文学部研究論集』52号 p31~51 1971年3月

◆久米常民「山上憶良の七夕宴の歌」
『愛知県立大学説林』22号 p1~10 1973年12月

◆戸谷高明「万葉の天象 星と七夕の歌」
『早稲田大学教育学部学術研究 国語・国文学編』23号 p1~17 1974年12月

◆辛島武雄「万葉集 七夕の歌一首 短歌を併せたり 独唱曲」
『別府大学紀要』18号 p37~48 1977年2月

◆片岡智子「七夕の歌にみる「天の河」のイメージの変遷1」
『ノートルダム清心女子大学紀要 国語・国文学編』4(1) p1~8 1980年

◆高野正美「万葉集の七夕歌」
『古代文学』20号 p103~117 1980年

◆岩崎礼太郎「新古今集・新勅撰集における七夕の歌」
『日本文学研究』16号 p91~101 1980年11月

◆井出至「万葉集七夕歌の配列と構造」
『萬葉』111号 p1~30 1982年9月

◆竹村則之「洪昇の七夕詩と長生殿」
『東方学』68号 p76~90 1984年7月

◆江口 洌「人麻呂歌集七夕歌の構成 表記の面から」
『千葉商大紀要』22(4) p74~104 1985年3月

◆月野文子「懐風藻の七夕詩 製作時期と「同用某字」の法」
『桜美林大学中国文学論叢』10号 p156~180 1985年

◆福田俊昭「懐風藻の七夕詩」
『日本文学研究(大東文化大学)』25号 p15~28 1986年1月

◆吉川栄治「平安朝七夕考説 詩と歌のあいだ」
和漢比較文学会編『和漢比較文学叢書3 中古文学と漢文学』所収 汲古書院 1986年

◆下西善三郎「万葉七夕歌・二星逢会の表現」
『金沢大学語学・文学研究』16号 p1~7 1987年1月

◆大島信生「万葉集七夕歌訓詁2題」
『皇學館論叢』21(1) p21~35 1988年2月

◆江口 洌「大伴家持と山上憶良「七夕歌」 表記時点への序論」
『千葉商大紀要』26(4) p72~48 1989年3月

◆月野文子「山田三方の七夕詩における日本的発想 「衣玉」と「彩舟」をめぐって」
『上代文学』63号 p97~110 1989年11月

◆江口 洌「大伴家持と山上憶良「七夕歌」 その表記者と表記時点」
『千葉商大紀要』27(3) p72~44 1989年12月

◆渡瀬昌忠「人麻呂歌集の七夕歌群 冒頭歌と末尾歌」
『実践女子大学文学部紀要』33号 p125~137 1991年3月

◆菊池威雄「万葉七夕歌の場と表現」
『国文学研究』105号 p11~22 1991年10月

◆吉川栄治「平安朝七夕再説」
和漢比較文学会編『和漢比較文学叢書11 古今集と漢文学』所収 1992年

◆渡瀬昌忠「人麻呂歌集の七夕歌群2 牽牛星と月人壮士との対詠6首」
『実践女子大学文学部紀要』34号 p13~23 1992年3月

◆渡瀬昌忠「人麻呂歌集非略体歌の七夕歌2首 「告げてし思へば」と「吾等が恋ふる」 
『実践国文学』41号 p35~52 1992年4月

◆菊池威雄「万葉集と集宴 万葉巻10を中心に」
『国文学研究』107号 p1~11 1992年6月

◆渡瀬昌忠「人麻呂歌集非略体歌七夕歌群 七夕以前の十数首について」 
『萬葉』146号 p42~58 1993年4月

◆浜田弘美「人麻呂歌集七夕歌の表現 語り手・配列・典型化」
『日本文学誌要』48号 p72~84 1993年12月

◆丹和浩「往来物における七夕の歌 類題和歌集の利用」
『学芸国語国文学(東京学芸大学)』26号 p128~136 1994年3月

◆渡瀬昌忠「人麻呂歌集七夕歌群前半の論 その第4群4首について」
『実践国文学』46号 p1~12 1994年10月

◆大浦誠士「万葉七夕歌と七夕語彙 タナバタツメ・ヒコホシの形成と定着」
『上代文学』73号 p23~37 1994年11月

◆中西進「七夕歌群の形成」
中西進『中西進万葉論集2』所収 講談社 1995年

◆宇野直人「歴代七夕詩の変容と柳永の「二郎神」詩」
宋代史研究会編『宋代の規範と習俗』所収 汲古書院 1995年

◆中西進「万葉集の七夕歌」
中西進『中西進万葉論集3』所収 講談社 1995年

◆渡瀬昌忠「人麻呂歌集の七夕歌群 立場上の歌い手と歌の作り手」
『言語と文芸』111号 p5~24 1995年1月

◆渡瀬昌忠「人麻呂歌集七夕歌群第5群4首の論 七夕当夜の相会以前」
『実践国文学』47号 p174~186 1995年3月

◆内藤明「人麻呂歌集七夕歌」
『国文学 解釈と教材の研究』43(9) p49~55 1998年8月

◆上林由貴子「人麻呂歌集の七夕歌 歌群構成が示唆するもの」
『成蹊国文』32号 p64~75 1999年3月

◆渡瀬昌忠「人麻呂歌集七夕歌群の構造 その第三十一首まで」
『萬葉(萬葉学会)』169号 p30~42 1999年4月

◆品田悦一「憶良の七夕歌十二首」
神野志隆光・坂本信幸企画編集『セミナー万葉の歌人と作品5』所収 和泉書院 2000年

◆高橋六二「家持の七夕歌」
神野志隆光・坂本信幸企画編集『セミナー万葉の歌人と作品9』所収 和泉書院 2000年

◆西條勉「人麻呂歌集七夕歌の劇的構造」
戸谷高明編『古代文学の思想と表現』所収 新典社 2000年

◆大浦誠士「憶良の七夕歌」
『椙山国文学』24号 p25~51 2000年3月

◆月野文子「家持の七夕歌「まそ鏡清き月夜に雲立ち渡る」考 「まそ鏡」と「月鏡」
『国文学研究(早稲田大学国文学会)』130号 p47~58 2000年3月

◆渡瀬昌忠「七夕伝承と人麻呂歌集七夕歌群 天武朝の天文知識を前提として」
『文学・語学(全国大学国語国文学会)』166号 p1~17 2000年3月

◆遠藤寛一「七夕説話と「長恨歌」について 長恨歌の研究7」
『江戸川女史短期大学紀要』15号 p18~39 2000年3月

◆上平真由美「古今集の七夕歌」
『人文学科論集(茨城大学)』34号 p107~114 2000年10月

◆田坂憲二「織女は立秋から牽牛を待つのか 『古今和歌集』七夕歌瞥見」
『香椎潟』46号 p13~23 2000年12月

◆西原能夫「万葉七夕歌と山上憶良の七夕長歌」
『昭和学院国語国文』34号 p1~8 2001年3月

◆北山円正「更級日記の七夕歌」
『神女大国文』12号 p12~24 2001年3月

◆工藤力男「人麻呂歌集七夕歌解読法」
『国語と国文学』78(11) p101~113 2001年11月

◆佐藤美知子「七夕歌と天官書的世界」
佐藤美知子『万葉集と中国文学受容の世界』所収 2002年

◆大濱眞幸「七夕歌の「霞」」
関西大学国文学会編『片桐洋一教授古稀記念国文学論集』所収 関西大学国文学会 2002年

◆大濱眞幸「七夕歌の「霞」 憶良作巻八・一五二八番歌をめぐって」
『国文学(関西大学)』83・84号 p29~39 2002年1月

◆鉄野昌弘「後期万葉歌人の七夕歌」
説話と説話文学の会編『説話論集13 中国と日本の説話1』)所収 清文堂出版 2003年

◆山崎健司「人麻呂歌集の七夕説話」
説話と説話文学の会編『説話論集13 中国と日本の説話1』)所収 清文堂出版 2003年

◆加藤有子「〔カン〕と〔ボ〕 人麻呂七夕歌の一用字と黄帝神話」
『日本文学研究(大東文化大学)』42号 p9~22 2003年2月

◆津田克巳「古代和歌における七夕」
『日本文理大学紀要』31(1) p43~53 2003年3月

◆森 斌「大伴家持七夕歌の特質」
『広島女学院大学日本文学』13号 p27~47 2003年7月

◆酒井茂幸「国立民俗学博物館蔵高松宮家伝来禁裏本『七夕廿首和歌』について」
『研究と資料』50号 p79~88 2003年12月

◆山崎健司「人麻呂歌集七夕歌の表記ー用字法から見た歌群意識」
『熊本県立大学文学部紀要』10(2) p 103~122 2004年3月

◆久保卓哉「陳後主の七夕詩と六朝の侍宴七夕詩」
『福山大学人間文化学部紀要』5号 p37~50 2005年3月

◆舘入靖枝「続・七夕夜の隠し絵 ー末摘花から浮舟へ(七夕伝説を紐帯として)ー」
源氏物語を読む会編『新典社研究叢書193 源氏物語<読み>の交響』)所収 p201~226 新典社 2008年11月






淡島信仰と流し雛 ~流し雛は雛人形の源流か?~ 下:石沢誠司

2018-11-06 17:34:12 | ひな祭り
淡島信仰と流し雛 ~流し雛は雛人形の源流か?~ 下:石沢誠司

淡島願人の活動
 女性信者をターゲットにした神社の活動を側面から支援したのが、淡島願人(がんにん)あるいは淡島坊主と呼ばれる下級宗教家であった。広辞苑によると、淡島願人は「淡島神社のお札を入れた箱を負って、その由来を語りながら門付けをした遊行者」と書かれ、また小学館の『日本国語大辞典』には、「淡島明神の小宮をたずさえたり、背負ったりして、その由来を語り、『紀州名草の郡、加太淡島さまへ代僧代参り』などと言って門付けをして歩いた行者」とある。 

『上方演芸辞典』(東京堂出版)は、『けいせい飛馬始』(寛政元年・1789)を引用して、「淡島さまへ代僧代参り、分けて女中は櫛・笄(こうがい)・簪(かんざし)・耳掻・たぼ留・前差し・両差・後差し、其うち似せ物は値打ちがない。本鼈甲(べっこう)を上げよとの御誓願でござる」と、淡島殿(淡島願人)の言草(語りの内容)の一例を紹介している。これをみると淡島願人は女性に代わって淡島神社に代参し、その際、櫛や笄(こうがい)・簪(かんざし)など女の装身具などを「淡島さんに納めるから」と供出させていたようである。しかも本鼈甲(べっこう)などの本物を出せと言っているところをみると、恐らく供出させた装身具をどこかに売り飛ばしていたのであろう。

 また『大阪ことば事典』(講談社)には、「アワシマハン」の説明に、「元禄の頃から、あわしまという一種の乞食があって、淡島明神を祀った小さい神棚に紅・紫とりどりの小布を結びつけたものを手に持ち、淡島の縁起めいたものを声高に唱えて、白帯下に悩む婦人に、祈願して病苦をのがれよと勧進した。上方では僧侶の風をなし、江戸では神主めいた扮装をしたという」とある。「縁起めいたものを声高に唱えて」というのが、先に示した『続飛鳥川』(19世紀中頃)に述べられている内容であろう。

 一方、奥野鉄夫氏は、先に引用した論文「島の流し雛」のなかで出典を明示していないが、「役の行者が開創したといわれる紀州伽蛇寺は、淡島様を強力に支援する寺であった。毎年3月には修験のため、諸国から300人あまりの行者がこの寺に集まったが、この行者たちが全国に淡島様を宣教して歩き、女性の頭のもの(くし、かんざし、かもじ)を供えて祈願すると霊験のあらたかであると説いて、衣類や米、銭を受けたという」と、修験の行者が淡島願人となって全国を宣教したと述べている。

淡島願人の図が示すもの

『人倫訓蒙図彙』(元禄3年刊・1690年)に描かれた淡島願人

 この淡島願人を描いた図が『人倫訓蒙図彙』(元禄3年刊・1690年)にある。編み笠を被った人物が、柄の先に小型のお宮を付けたものを手に持ち歩く姿である。小宮の中には立雛や這子らしきものが描かれており、宮の周囲からいくつも細い布が垂れ下がっている。この説明に「淡嶋殿、かれが向上、一から十まで皆誤りなれども、それをたゞす者もなし。女の身にとっては第一気の毒の病をまもり給ふといえば、愚なる心から、おしげなくとらする也。夫(それ)粟嶋は紀伊国名草郡蚊田(かだ)にあり。其神は陽躰(ようたい)にして女躰にはあらず。然(しかる)を、はり才天女の宮といふ也。わろうべしわろうべし」とある。 『人倫訓蒙図彙』の著者にとっても、淡島願人は荒唐無稽なことを言って婦女をたぶらかし、施しを受けるとんでもない者に見えたようである。


『絵本御伽品鏡』(享保15年刊・1730年)に描かれた淡島願人図
 それから40年後に出版された『絵本御伽品鏡』(享保15年刊・1730年)にも淡島願人が描かれた図が出てくる。そこには僧の姿をした願人が、右手に鈴を持ち、左手に小宮の柄を持ちながら、通りかかった晒木綿の束を頭上にのせた女に声をかけている。小宮のなかには立雛が見え、小宮の床の回りからやはり布きれが垂れ下がっている。絵の題歌に「曝嚊(さらしかかあ) 血の道の出たらば恥や 晒(さらし)かゝ 淡島様を兼て祈らん」と書かれている。意味は、「晒しを運んでいるかかあさん、下の病で血がでたら恥ですよ、淡島さんにお祈りしませんか」というほどのものである。

 これら淡島願人の図を分析してみると非常に興味深いことがわかってくる。まず淡島願人は両方とも小宮をたずさえている。小宮の中には立雛が見える。『人倫訓蒙図彙』のほうには這子らしきものも描かれている。立雛は社家の言い伝えにあるように、神功皇后手ずから作ったという少彦名命の神像、すなわち淡島明神を表現している。(しかし立ち雛は男女1対である。これについて現在の淡島神社は、立ち雛を少彦名命と神功皇后の男女一対の御神像であると説明している。)

 また這子は『紀伊国名所図会』に、「天児といへるも少彦名命の御神像にして」とあり、天児は這子とも言ったことから、これも少彦名命を表現している。こうしてみると、淡島願人は淡島の神さまを小宮の中に携えていることになる。なお小宮の下方から垂れ下がっている細い布は、『大阪ことば事典』に、「紅・紫とりどりの小布を結びつけ」と記し、布の色が赤や紫などであるこがわかるが、この布が何を意味しているのか定かでない。

 さて『人倫訓蒙図彙』(元禄3年刊・1690)の小宮に描かれた立雛図であるが、これが意外に古いのである。現在までに知られている立雛図のなかで古いものとしては、『女用訓蒙図彙』(貞享四年・1687)の「雛(ひいな)」の図、『日本歳時記』(貞享五年・1688)の雛飾りに描かれている立雛図が私の知るところであるが、『人倫訓蒙図彙』の小宮内の立雛図はこれらと刊年において2~3年の違いしかなく、ほとんど同時代といってよい。すなわち淡島神社は世の中にひいな遊びが普及しはじめた1600年代の後半にはすでに淡島の神として立雛をとりこんでいたことになる。

 平安時代から「ひいな遊び」と言われていた人形遊びが、三月三日に収斂してくるのは、俳諧歳時記の『俳諧初学抄』(寛永18年・1641)や『山之井』(正保5年・1648)の三月三日に「ひいな遊び」の詞(ことば)が見える1640年代のころと考えられている。それから40~50年後にひいなである立雛を神社の祭神として祭り上げているのは、世の中の動きを先取りした英断であったといえよう。なぜなら、ひいな遊びはその後、雛まつりへと発展して各地に普及し、淡島神社の信仰もそれに伴うように全国に拡がるからである。

淡島信仰の繁栄
 『紀伊続風土記』の著者が「索強付会(こじつけ)」とよび、『人倫訓蒙図彙』の著者も「一から十まで皆誤りなれども」と批判した淡島信仰は、しかし時代を経るにつれて拡がっていった。それは江戸時代の女性から圧倒的な支持を得たからであった。お布施を包み願掛けの品々を託せば、紀州の淡島明神に代参してくれるという淡島願人の活動は、病んだ女性たちにとって救いの神であったことだろう。まさに淡島信仰はこの下級宗教家が拡げたものいえる。

 この淡島願人の活動は歌舞伎のなかにも残っている。淡島物とよばれる一群の作品がそれである。平凡社の百科事典によれば、淡島物は淡島願人の風俗が歌舞伎にとりいれられて成立した一群の作品で宝暦9年(1759)閏7月、江戸市村座上演の「粟島園生竹」がその最初とされる。市村亀蔵演じる関東小六が淡島願人となって郭に入り込み、遊女大岸と恋の所作をする内容という。続いて明和7年(1770)秋、市村座で上演された「関東小六後雛形」で、市村亀蔵の丹波屋七郎兵衛が淡島願人となって郭に入り込み、遊女音羽と恋を語る。この後も淡島物は文化4年(1804)江戸中村座で、安政4年(1859)市村座で上演されている。これらの芝居は淡島願人が郭の遊女に信仰されていたことを示している。

 また淡島信仰が拡がるにつれて、神社も各地に増えていった。神社の境内に末社として勧請されたり、寺の境内に淡島堂として建てられた。また個人の民家の屋敷内に邸内社として一家の鎮守となっているものも多い。今も各地に残る淡島神社の多くは、こうして江戸時代以降、淡島願人の活動と平行して建てられ拡がっていったものである。

淡島信仰の流し雛はなぜ発生したのか
 こうして広まった淡島信仰の流れにさらに新しい動きが加わった。流し雛である。先に述べたように鳥取や用瀬では流し雛は淡島信仰と関連をもちながら江戸末期に鳥取城下で始められたのではないかと推定されている。また和歌山県粉河や奈良県五条の流し雛も江戸時代にその起源があると考えられる。いったい流し雛はどんな役割をもってなぜ始められたのだろうか。

 鳥取県の各地に古くから伝わる流し雛は先にも述べたように、水に浮かんで流れてゆく流し雛に手を合わせて、「女の病を病みませんように」「帯から下の病いを治してつかんせい」「長血・白血を病まんように」と、以前は女の帯の下の病気に限っていう場合が多く、そうしたところでは「アワシマサンに行ってつかんせい」と唱えていた(坂田友宏氏「因幡の雛送り」)。

 岡山県笠岡市北木島の流し雛行事でも、「当地の旧暦三月三日は、正午頃が満潮で潮流が東に向くので、この潮流に乗せれば舟が早く紀州加太の浦へ着くだろうという発想からである。遅れる雛のないよう隣近所誘い合って海岸へ揃う。家内安全、健康、安産など、女性のあらゆる欲ばった願いをこめて、『どうぞ無事に淡島さんへいんでおくれ』と各家庭で手作りした紙雛を麦わら製のウツロ船に乗せ、祈りながら海へ流す」(奥野鉄夫氏「島の流し雛」)。また奈良県五條市の流し雛は紀ノ川の川口に近い淡島まで流れて行き、女の下の病気にかからぬと信ぜられている(『五条市史』)。このように流し雛は、淡島さまに願い事が届くようにと紙雛に託して代参してもらうという役割を果たしており、純粋な祓いのヒトガタではない。こうした流し雛はなぜ生まれたのであろうか。

 俳諧歳時記の『滑稽雑談』(正徳3年・1713)には、加太淡島神社に関わる俗説のひとつとして、「此の神ことに婦人の病をすくふ因縁ある故に、是を祈る婦女、雛を作りて奉るならし」と、参拝する婦女が病治癒のため雛を作って奉納する習俗を紹介している。こうした雛を作って淡島さんに奉納し病の治癒を祈願する習俗がもとになって、神社まで直接参拝できない紀ノ川流域の女たちが、淡島さんに届くようにと川に雛を流すようになったのが始まりではないかとわたしは推測している。

 流し雛の代参機能はもともと淡島願人が担っていたものである。のちに雛祭りの時期に行商人によって流し雛が売りさばかれたり、また各家庭で手作りされることもあったのは、日本の各地をまわって淡島さんの信仰を普及してきた淡島願人が築き上げた土壌があったからこそといえる。まさに流し雛は淡島願人の耕した土壌の上に開いた文化であるといえよう。

流し雛はいつから始まったか
 流し雛がいつごろから行われたのか。これを調べるひとつの方法として、各時代の俳諧歳時記の季語を比較分析する手法がある。俳諧歳時記は俳諧の季語(詞)を分類して解説や例句をつけた書であるが、その季語は発行された時代の社会風俗がかなり反映されている。そこで江戸初期から後期までの俳諧歳時記の三月三日の季語のうち、雛祭りに関連する言葉を抜き出してみたのが別表である。

         
 この表を見ると、江戸初期から1700年代までの歳時記には「流し雛」の詞(ことば)はでてこない。19世紀に入り『俳諧歳時記』(1803年)に初めて「流シ雛」がでてくる。その15年後に刊行された『季引席用集』(1818年)にも「流し雛」が出てくることから、この頃には流し雛の言葉が定着したようである。

 しかしそれまでの1600年代から1700年代の200年間の歳時記に「流し雛」はまったく見あたらない。歳時記の詞は、その時代に必ず行われていた事柄が書かれているわけではない。例えば「曲水の宴」はどの歳時記にも登場するが、江戸時代を通じて実際にどの程度行われていたか疑問である。しかし三月三日に欠かすことのできない古代からの伝統ある言葉として俳諧の詞に採用されているのである。一般的にいうと、いったん採用された詞は実体がなくなっても消えにくい傾向がある。

 これと逆に新しい詞が採用されるときは、社会にその詞が表す現象が現れたからであると考えられる。例えば、これまで「草餅」「蓬餅」という詞だけだった3月3日の餅に、『華実年浪草』(1783)から以降に「菱餅」が加わる。またそれまで「桃の酒」だけだった酒に、「白酒」が同じく『華実年浪草』から加わっている。これは江戸中期頃から菱餅と白酒が広く用いられるようになり、ついにこの言葉が歳時記に採り上げられたと考えられる。

 こうしてみるとき、「流し雛」は江戸後期の新しい現象として世の中に広まったものと考えられる。では歳時記にとりあげられた「流し雛」は何を表しているのだろうか。ひとつ考えられるのは古い雛や壊れた雛を流す雛流しの行事である。江戸後期に入り、雛祭りが盛んになり作られる雛人形の数が多くなるとともに、古雛や壊れた雛の処分という社会問題が発生してくる。これらの雛は神社などに納める「捨て雛」や、川や海に流す「雛流し」「雛送り」などの方法で処分される。これらの中で流される雛人形にたいして、「流し雛」という言葉が使われるようになってきたのではないかと考えられる。

 『嬉遊笑覧』(文政13年・1830)には「相模(神奈川県)愛甲郡敦木(厚木)の里にて、年毎に古びなの損したるを児女共持出て、さがみ河に流し捨ることあり。白酒を入、銚子携えて河辺に至れば、他の児女もここに来り、互いにひなを流しやることを惜みて、彼白酒をもて離杯を汲かはして、ひなを俵の小口などに載て流しやり、一同に哀み泣くさまをなすことなり。此あたりのひな、内裏ひなに異なることなし、其外に藤の花かつげる女人形多し」とあるのは、古い雛を流す様子を物語っている。『紀伊続風土記』(天保10年・1839)に加太淡島明神で三月三日に「雛ならびに雛の其婦人の手道具を奉納する事夥しくして、神殿中に充満す」とあるのは、江戸後期におびただしい雛が神社に奉納されたことを物語っている。

 もうひとつの「流し雛」は、もちろん淡島信仰の流し雛である。この淡島代参機能をもつ簡素な紙雛も、『俳諧歳時記』(1803年)が編集された江戸後期には始まっていたものと考えられる。

「巳の日の祓い」と「流し雛」の関係
 なおここでひとつ確認しておきたいことがある。それは「巳の日の祓い」のことである。歳時記の「三月」の項目にこの言葉はよく登場する。具体例は次のとおりである。

『はなひ草』(1636)の三月の詞に、「巳の日の祓」
『俳諧初学抄』(1641)の末春に、「須磨の御祓(みそぎ)、三月上ノ巳也」
『増山井』(1667)の三月に、「巳の日のはらへ 上巳。三月上の巳の日、水辺にてはらへして疾病を除くわさとかや。是、周の代にはしまれりを、魏の時よりのち只三月三日を用て、巳の日を不用云々。(中略) 須磨の御祓 是は光源氏須磨浦に左遷のとき、三月一日に出来たる巳の日、陰陽師におほせてみそきし給へり。舟に人かたをつくりてながせし事など彼物語にあり」
『滑稽雑談』(1713)の三月之部に、「巳日のはらへ」と題して中国文献の説明や源氏物語の須磨の御祓を説明している。
『俳諧手挑灯』(1744)の三月に、「巳の日御祓 上ノ巳日、川辺にて疫神除の祓なり、 須磨の祓 上に同 源氏」
『華実年浪草』(1783)の三月に、「巳日祓」として中国文献の解説、「須磨御祓」として源氏物語の須磨の御祓を説明している。
『俳諧歳時記』(1803)の三月に、「巳の日の禊」として中国文献の解説、「須磨御祓」として源氏物語の須磨の御祓を説明している。

 このように「巳の日の祓い」は、江戸期を通じて一貫して歳時記に登場する。しかしこの祓いは江戸時代に実際に行なわれた習俗なのであろうか。この点については今後、調査してゆきたいが、各種の俳諧歳時記は、中国での由来と源氏物語の須磨の御祓(みそぎ)を載せているのみである。

 江戸期に巳の日の祓いが行なわれていたとしても、これは三月の初めての巳の日の行事であって、三月三日の行事ではない。巳の日が三日と重なるときだけ、三月三日になるのである。さらに雛人形と異なるのは祓いの人形の名称である。それは古代においてヒトガタ(人形)あるいはカタシロ(形代)と呼ばれており、ヒイナ(雛)という呼び方はなされていない。

 こうしたことから、はっきり言えるのは、「流し雛は巳の日の祓いの人形ではない」ということである。源氏が須磨で御祓に用いたのは、「人かた」であって「ひいな」ではない。流し雛の源流を源氏物語の須磨の御祓に求めるのは、筋違いもはなはだしい。流し雛は淡島信仰を源流として発生したものであって、この人形は女性の祈りや願いが込められた奉納人形の性格をもっており、身のケガレを移して流し去るヒトガタ・カタシロとは基本的に異なっている。

明治以降の淡島信仰と流し雛
 明治以降の淡島信仰はどうなったのであろうか。淡島信仰を広めた淡島願人について近代の目撃証言がいくつか残っているので、それらのいくつかを紹介してみたい。

「昭和七、八年頃、私は何回か淡嶋願人が笈(おい)(背に負う箱)のような仏壇のようなものを背負い六部(巡礼)姿で家々を回って歩くのを見た。その中には髪の束や、赤い布切れなどがぶらぶら下がっていて薄気味悪く、何かお経のようなものを唱えていた。家々では米や、お金を供え拝んでいた。(秋田県横手市)」(川越雄助『押絵』秋田文化出版社)

「大坂ことば事典」の淡島願人図(模写)
「幼少のころ、「淡島はん」という背に祠(ほこら)を負い、きたない風体で門づけに来た人物がいました。祠から赤い布や髪などがのぞいていて、異様な感じがした記憶があります。よくごんたを言ったり(だだをこねる)、やんちゃをすると、大人から「淡島はんがくんど(来るぞ)」と言われ、恐怖をおぼえたものです。その淡島はんも戦後しばらくして、その姿を見かけなくなりました。(奈良県田原本町)」(ウエブサイト「田原本町に伝わる昔話」)

「年配の方は知っておられると思うが、当地(岡山県笠岡市)でも昭和12年頃までは、袖の違った着物で小箱を背負い、鉦をたたきながら、ときおり淡島願人がきた。背中の箱には黒髪が下がり、不気味であった記憶がある。(奥野鉄夫「島の流し雛」)

「因幡においては、淡島願人の活動は近代に入ってからも見ることができた。前述した(流し雛を売り歩いた)国府町三代寺の松坊主などもその一派であったと思われるが、八頭郡船岡町志子部などでは、昭和の始めごろまでその姿を見かけることができたという。彼らは俗にアワシマサンと呼ばれ、背中に背負った大きな箱(逗子)の中に神像を入れ、もっぱら婦人病の効験を説いて回ったようである。願掛けや願開きの際に納める櫛や笄・簪、それに髪などを背中の箱に飾り付けて歩いていた。(鳥取県因幡地方)」(坂田友宏『神・鬼・墓 因幡・伯耆の民俗学的研究』)

 以上の事例から、淡島願人は近代に入ってから昭和初期、場所によっては戦後まもなくまでその姿を見かけることができたようである。『大阪ことば事典』(講談社)のアワシマハンの項に、願人の図が載っているが、江戸期のような小宮でなく、背に祠を背負っており開いた戸に髪の束が下がっていることから、近代の証言に出てくる淡島願人に近い。

 ところで東北地方では淡島像といって右手に粟の穂を持った石像が、福島県を中心に分布しているが、これを調査した小坂泰子氏は「福島県中通り(福島市・郡山市を中心とした地域)の淡島像の造立年を調べてみると、他の石仏たちの造立がやや弱まった頃、江戸末期から淡島像の造立がなされ、昭和に至る現在まで、むしろ、昭和に入ってからの方が多く造立されている。(中略)女の日といわれる二月八日の針供養、三月三日の雛祭りなどもこの淡島信仰にまつわる俗信の名残りといわれ、現在もこの日を淡島講と呼んでささやかに、この講を続けている少数の村がある」(「東北地方の淡島様とその信仰」・『日本の石仏9 東北篇』所収 昭和59)と述べて、福島県では淡島信仰をかたちで示す淡島像の造立は江戸末期からなされ、昭和に入ってむしろ多くなったと分析されている。

 こうした状況をみると、今川花織氏が「流し雛」(「郷玩文化」121号)の中で紹介した、福島県大沼郡金山町西谷及び同県三島町高清水地区の流し雛の行事は、近代になってこれらの地方に伝わった可能性も考えられる。

おわりに
 流し雛の隆盛にともなってますます勢いを増す「流し雛は雛人形の源流」説。以前からこの説に違和感を持っていたわたしは、今回、これに対して正面から反論を挑んでみた。資料を求めて「流しびなの館」に問い合わせをさせていただくとともに、図書館にも足繁く通った。また今年にはいって奈良県五條市、鳥取県用瀬町、岡山県北木島へと現地調査もおこなった。その結果、以前から伝承されている流し雛のほとんどが淡島信仰の影響を受けていること、江戸時代の俳諧歳時記に「流し雛」の詞(ことば)は江戸後期からしか出てこないことなどがわかってきた。こうした事実をもとに流し雛は雛人形の源流でなく、淡島信仰を源流として江戸後期以降に発生した習俗であると結論を出したのが本稿である。今回、流し雛について荒削りではあるが、一定の方向を示せたと考えている。今後、みなさんのご意見をうかがってより内容を深めて行きたいと思いますので、忌憚のないご意見をお寄せいただければ幸いです。
  (本稿は『郷玩文化』171号 2005年10月刊 郷土玩具文化研究会発行、に掲載された論文を転載したものです)


淡島信仰と流し雛~流し雛は雛人形の源流か?~ 上:石沢誠司

2018-11-03 23:34:39 | ひな祭り
淡島信仰と流し雛 ~流し雛は雛人形の源流か?~ 上
                          石沢誠司


はじめに
 昭和の末から平成の現在にかけて流し雛がブームになっている。以前から行われているのは(戦後復活されたところも含めて)鳥取市用瀬町、鳥取市、広島県大竹市、岡山県笠岡市北木島、和歌山県の粉河町、奈良県五條市などがある。新しく始めたところは、昭和47年に地元の宮崎さんという方が鳥取県の用瀬でおこなっている流し雛に倣って俳句仲間と始めた福岡県柳川市を嚆矢として、鳥取県倉吉市(昭和60年開始)、東京の隅田川(昭和61年開始)、埼玉県岩槻市(昭和62年開始)のように今年で20回を超えたところもあるが、平成に入ってからも京都の下鴨神社(平成元年開始)、兵庫県龍野市(平成5年開始)、また開始年は不詳だが、山口県下関市など、さまざまな場所でおこなわれている。

 新しく始めたところは、雛祭りを彩る話題の行事としてこのイベントを始めたと思われるが、私はこうした流し雛のブームが雛祭り本来の歴史をゆがめてしまわないかと恐れている。それは流し雛の隆盛にともなって、雛祭りの成立を流し雛と結びつける次のような説明がよくなされるからである。「雛人形の本来の姿は流し雛。災厄を人形に託し、穢れを祓い流し去る雛祭りの原型です。流し雛の風習は今日まで受け継がれており、鳥取の流し雛など古俗を色濃く残しています」(あるウェブサイトの説明)。はたしてこの説明は正しいのだろうか。流し雛は本当に雛人形の源流たり得るのだろうか。

日本で最も有名な流し雛の里・用瀬
 
桃の花や菜の花を添えられた流し雛
(用瀬の「流しびなの館」で)



地元の小学生による雛流し(用瀬で)

 現在、日本で行われている流し雛で最も知られているのは、鳥取市用瀬町の流し雛であろう。山あいの町でひっそりと続けられていた流し雛の行事は、昭和30年代中頃に週刊誌や月刊誌等で取り上げられて紹介されるようになり、その後、テレビの普及とともに映像でも紹介され、現在では全国的に知られるようになっている。鳥取県では昭和60年、この行事を県指定無形文化財に指定した。また地元の用瀬町では「流しびなの館」という展示施設を作り、観光振興を図っている。今年(平成17年)の流し雛がおこなわれた4月11日(月)、わたしは用瀬を訪れ、この伝統ある行事を見学するとともに、流しびなの館の田中倫明氏と綾木弘氏のご協力をえて流し雛に関する資料を収集することができた。

 まず用瀬の流し雛が昭和60年に鳥取県の無形民俗文化財に指定されたときの資料を紹介させていただく。これをみると流し雛の民俗的位置づけが把握できる。

(鳥取県教育委員会告示第十号  昭和60年6月25日)
名 称 用瀬のひな送り
特 徴 旧暦の三月三日の夕方に、男女一対の紙びなを桟俵などに載せ、川に流す行事。用瀬町を中心に県東部に広く伝わっており、本来女性の無病息災の祈願であったものが、今日では一切の災厄を払い流すことを祈願するようになったと考えられている。
所在地 八頭郡用瀬町
保護団体 用瀬民俗保存会

 なおこの資料には、県指定文化財の候補物件として申請されたときの説明資料も付属しており、こちらにはさらに詳しい説明がなされている。

名 称 用瀬のひな送り
所在地 八頭郡用瀬町
説 明
 市販されている男女一対の紙びなを買い求め、それを内裏びななどといっしょにひな檀に飾り、3月3日の夕方、桟俵や藁苞(わらづと)などに載せ、別に菱餅・アラレ・タニシ・桃の花・線香・ローソクなどを添えて千代川に流す行事である。
 紙びなは立びな形式で流しびなと呼ばれている。竹の骨に白い花模様をあしらった赤紙を貼り、土を丸めた小さな頭をつけて胡粉を塗り、それに目・鼻・口などを描き、男びなには金紙の冠をつけ、女びなは髪を黒く塗った簡素なものである。
(由来)
 この行事は、江戸時代末期に鳥取城下の都市民の間で始められてものが、しだいに周辺の農村へ伝わっていったものと推定されるが、ひなを送る際の唱え言などからすれば、この行事には明らかに淡島信仰の影響が認められ、その成立の動機としていわゆる淡島願人の関与が想定される。従ってこの行事の目的も、本来は女の病の祈願であったと思われるが、しだいに拡大され、今日見られるように一般的に無病攘災を祈願し、一切の災厄を払い流すことを意味するようになったと考えられる。
※以前は新潟県から鹿児島県にわたってその風習が残っていたが、現在は不祥。指定物件としては笠岡市(岡山)「北木島の流し雛」(S55.3.27市指定)がある。

 以上が指定の文書である。なお流し雛に淡島信仰の影響が認められる点については、地元・鳥取県の民俗研究者である坂田友宏氏は、その論文「因幡の雛送り(流し雛)」(『神・鬼・墓』所収 米子今井書店)の中で「水に浮かんで流れてゆく流し雛に手を合わせて以前はいろいろ唱え言をした。(中略)そうした中で、『女の病を病みませんように』『帯から下の病いを治してつかんせい』『長血・白血を病まんように』というように、祈願の内容を女の帯下の病気に限っていう場合が多いことが注目される。実はそうしたところでは唱え言と同時に、多くのところで『アワシマサンに行ってつかんせい』と唱えているのである」と述べて、雛送りと淡島信仰の関係を指摘している。

鳥取の流し雛の始まりは江戸末期
 この指定時の資料によると、用瀬の流し雛は江戸末期に鳥取城下の都市民のあいだで始められていたものが、次第に周辺の農村へ伝わっていったと推定されている。先に挙げた論文「因幡の雛送り」のなかで著者の坂田氏は流し雛のルーツを、「鳥取城下の武家や商人といった都市民のあいだで始められた習俗のように思われ、流し雛もはじめは武家の家内などの手で作られていたものが、しだいに商品化され、周囲の農村に伝わっていったと考えられ、その時期も明治以前のそう遠くない時代ではなかったか」と想像している。

 この点について流しびなの館で展示解説をされ、古老の聞き取りもおこなっておられる綾木弘氏は、地元の明治31年生まれの女性が、「わたしの母も祖父も昔から雛を流していたと言っていました」という事例を紹介して、用瀬でも江戸末期まで遡れるのはほぼ間違いないとおっしゃっている。

 また坂田友宏氏は同じ論文のなかで、「因幡地方において雛送りが行われていたのは、岩美町・福部村を除いては、すべてが千代川(鳥取市で日本海に注ぐ)とその支流に沿った村々であり、ほぼ一水系に限ってこれだけの広がりを見せる民俗はきわめて珍しく、その意味で雛送りは千代川の生んだユニークな文化である。雛送りに使われた雛は、ほとんど例外なく市販されたものであった。以前は流し雛を売る店が鳥取市・河原町・船岡町・用瀬町・若桜町などにあったが、鳥取市以外でそういう店ができたのは比較的あたらしかった。それ以前は、多くの主に鳥取からやってくる行商人を通して購入したのであって、行商人たちは一軒一軒回って流し雛を売り歩いていた。」と因幡地方の流し雛の製作と流通の特徴を説明している。

 しかし流しびなの館の綾木弘氏は坂田論文とは少し異なった見解を持っておられた。綾木氏は、「用瀬では鳥取や河原町から売りにきた行商人から流し雛を買ったこともあるが、明治のころから地元でも作っていました。明治10年頃、海老十郎という旅役者が用瀬に住みついて流し雛を作り、お菊さんという女の人がそれを売って歩いてまわったという話を古老がしていました。また明治中頃、津山から来た伊賀さんという男の人が、明治後期の頃には矢部さんという人がいずれも用瀬で流し雛を作っていたという話も古老がしています。これを見て地元の女性も見よう見まねで作るようになり、戦時中も絶えることなく流し雛を続けられたのは、自分たちで作れたからです」と言われ、用瀬が流し雛の伝統を守り続けられたのは、自分たちで流し雛を作ることができたことが大きいと強調されていた。

 いずれにしても、用瀬および鳥取市を含む千代川水系の流し雛は江戸時代末期まで遡ることが明らかになった。しかし日本の雛祭りは江戸時代初期にはそのかたちができている。用瀬や鳥取の流し雛に限っていえば江戸初期からの伝承はなく、この地方の流し雛が雛人形の源流でないことは明らかである。

北木島に見る淡島信仰の影響 
 岡山県笠岡市の北木島は、瀬戸内海にうかぶ小島であるが、ここでおこなわれる流し雛はさらに淡島信仰との関連をはっきりと示している。わたしは用瀬を訪問した前日の4月10日(日)にここを訪れて調査をおこなった。(本来は用瀬と同じく旧暦の3月3日である4月11日に行なわれるのだが、最近は島外に出ている子どもや孫などが参加しやすいように日曜日に開催している。)北木島の流し雛は昭和55年に笠岡市の重要無形民俗文化財に指定されている。調査でご協力いただいた北木島の流し雛保存会長の天野秀範氏から提供いただいた指定書の文面をまず紹介したい。

(笠岡市指定第55号)
1 名 称 北木島の流し雛
2 種 別 重要無形民俗文化財
3 内 容 
 小麦わら、板、紙箱等を利用して小舟を作り、その中に紙雛12体、閏年には13体を作り乗せる。紙雛は千代紙を工夫して作る。内裏1対、官女9体(閏年には1人増える)、船頭1体を1組とする。その外に、菱餅、アサリ貝を主とした料理、桃の花の小枝を添えて、満潮を期して海へ流す行事である。
4 行われる時期及び場所
 毎年旧暦3月3日、正午前に満潮を期して北木島大浦地区一帯において行われる。
5 由 来
 この行事は、和歌山県加太の浦に鎮座する淡島明神の信仰にもとづくもので、北木島地方に元禄年間(1688~1704)淡島願人(遊行僧侶)によって伝えられたという伝承がある。行事の目的は、本来婦人病の病気祈願であったが、近年では家庭内の一切の災厄を払い流すことを意味するようになっている。
6 その他参考となる事項
 淡島神社は、和歌山県海草郡加太にあり、世俗婦人病の神とされ、近世には淡島願人が各地を回って婦人たちから衣類や髪等を集めて歩く風があった。淡島願人が建てたという淡島堂が諸所にあり、周辺の婦人たちの信仰を集めている。
 紀州の淡島神の由来については、天照大神の第6の姫宮が16歳で住吉神の一の后となったが、女の病にかかったため、綾の巻物12の神宝をとりそろえ、空ろ船に乗って堺から流され、3月3日に淡島に着いたという伝説が近世にあった。3月3日の雛祭に形代を諸方から流す習俗に乗じて発展したらしい。(歴史大辞典より)
 昭和55年2月15日付けで、北木島流し雛保存会(会長 河田千里)から市指定文化財について指定申請がなされた。
7 指定理由
 流し雛行事は、全国各地に残されているが、中国地方では鳥取用瀬のものが全国的に知られている。しかし岡山県には北木島大浦地区以外にその例を見ない珍しい民俗行事であるので、永く保存するため笠岡市の無形民俗文化財に指定するものとする。
 昭和55年3月27日

大浦の浜から流されるうつろ舟
 
流し雛が乗せられたうつろ舟
(雛壇の前に置かれる)

 このように指定書には淡島信仰の影響がはっきりと書かれている。わたしが当日、流し雛作り体験教室が開かれている会場で、うつろ舟を製作実演していた奥野さんという年配の女性に流し雛の由来を尋ねたところ、「むかし住吉明神へ嫁いだお姫さまが婦人病にかかって離縁されて、堺からうつろ舟に乗せられ12の宝物と一緒に流された。流れ着いた先が加太の淡島さんで、旧3月3日だった。淡島でお姫さんは女性を守る神さんになった。そこで旧3月3日に、病気にならず健康に過ごせますようにと願って、淡島さんに流れ着くようにと雛をいれたうつろ舟を流します」とすらすら話してくれた。この話は淡島願人がこの島へ伝えたのだそうである。 

 なお指定書は北木島の流し雛の始まりを、「元禄年間(1688~1704)淡島願人(遊行僧侶)によって伝えられたという伝承がある」としているが、これについては疑問がある。確かに元禄のころ淡島願人はこの島に来たと思われるが、その時に流し雛を伝えたのかどうか定かでない。後述するように流し雛は淡島願人が日本の各地をまわって築いた淡島信仰のうえに成立したものであるが、最初からあったものでなく淡島神社への代参機能のひとつとして後に発生したというのがわたしの考えである。

 地元笠岡市の郷土史家で民俗研究家でもある奥野鉄夫氏は、論文「島の流し雛 瀬戸内北木島に今も残る雛祭り習俗」(「ふるさと展望」2号・昭和53年1月)のなかで、「北木島の大浦では旧二月二八日に雛を取りだして雛段に飾る。この日から三月三日の祭りの前夜までのあいだに、雛段の前に家族が集まり、祖母や母親から作り方を教わりながら流し雛用の紙雛をつくる。つくった雛はボール箱か重箱に入れて雛段のかたわらに飾っておく。三月三日の当日は、正午近くなると流し雛を、あらかじめ作っておいたうつろ舟に乗せ、雛に供えておいた菱餅、あさり飯等を弁当としていっしょに積む。うつろ舟は正午に流すことになっている。当地の旧暦三月三日は、正午頃が満潮で潮流が東に向くので、この潮流に乗せれば舟が早く紀州加太の浦へ着くだろうという発想からである。遅れる雛のないよう隣近所誘い合って海岸へ揃う。家内安全、健康、安産など、女性のあらゆる欲ばった願いをこめて、『どうぞ無事に淡島さんへいんでおくれ』と祈りながら流す」と紹介している。北木島の流し雛は、まさに淡島信仰と直接結び付いた習俗なのである。

各地の流し雛の伝承
 それでは日本の各地に伝わる流し雛にはどんな伝承があるのだろうか。今川花織氏は「流し雛」(「郷玩文化」121号・平成9年6月)の中で、福島県大沼郡金山町西谷の流し雛行事を紹介し、小学生の女児がいる家ではお雛様とよばれる紙の人形を一~二体(以前は一家の女の数)作り宿元に持って集まり、淡島様に無事送り届けるようにと宿元が作る紙の船頭人形を一緒に舟に乗せ、只見川に流しに行くと報告している。また同県三島町高清水地区の流し雛でも、流し雛をする理由は、「女性の幸せを願って身の汚れや不幸を紙雛に移しかえ流し去る、遠くて参ることのできない淡島様に幸せや願い事を紙雛に託して代参してもらうためといわれる」と報告している。

雛を板に貼りつけた大竹の流し雛
 また広島県大竹市では市内を流れる河川のあちこちで各家庭で「雛去なし」「雛送り」と呼ばれる行事が明治・大正時代は盛んにおこなわれたが、そのとき古くなった雛人形・壊れた雛人形も流しており、「手足の取れ壊れたり古くなった雛は淡島様に流れ行き、元通りの姿に直って帰ってくる」と言い伝えられていたことも報告されている。大竹市では戦後になりこの行事が復活したが、現在、青少年育成市民会議が主体となって流し雛行事を推進している。紙粘土、ようじ、色紙などで作った流し雛を折敷(おしき)とよばれる板に貼り付け、桟俵に供物とともに乗せて小瀬川に流すが、頭と折敷は青少年育成市民会議が作成し、女子児童のいる家庭に配布し、桟俵は当日会場で配布されるという。この折敷に雛を貼り付けた流し雛は、市民会議で販売もしており、大竹の流し雛として郷土玩具になっている。

 日本の各地では、流し雛の習俗が行われている地域で市販される流し雛が郷土玩具となって存在している。先に挙げた地域のなかでは、鳥取・用瀬・大竹の流し雛が郷土玩具として売られている。これ以外の郷土玩具の流し雛の伝承はどうなっているのだろうか。

粉河の流し雛(北村芙美代氏提供)

粉河の流し雛(北村英三氏提供)

粉河の流し雛(北村英三氏提供)

 和歌山県粉河町の粉河の流し雛は、「この地方では古くから、身の穢れや不治の病をこの紙雛にうつして紀ノ川を利用して作った水路小田井に流す風習があった。旧三月節句の雛人形と並べてこれを雛壇に飾り、節句の済んだあと、これを付け木や竹の皮の舟に乗せて流せば、紀ノ川の川口、加太浦に着き淡島明神の加護があると伝えられる」(斎藤良輔『郷土玩具辞典』)と書かれ、やはり淡島信仰が反映されている。
 

竹皮の舟に雛が乗った五條市南阿田の流し雛

吉野川で雛流しをする南阿田の子供たち

 奈良県五條市の流し雛は、「五条付近では、世間普通の雛飾りもするが、また別に千代紙や色紙で三・四寸位の人形を家族中の女の数だけ作り、竹の皮の船に倒れぬように一つ一つ糸でくくりつけて雛壇の下に飾って、菱餅を供える。この人形は出来るだけ早く祭る方がよい、というので、旧三月三日(今は四月)の朝早くから祭る。四日の朝は、女の子は、この竹の皮に載せた人形を吉野川に流す。この日、広い吉野川の川原は、この紙人形を流す人で一ぱいになる。この流し雛の盛んにおこなわれた頃は、売りに来る商人もあったが、今では大抵自分の家で作る。ソラ豆を水に浸し、それに細い棒をさして、ソラ豆を顔に見立て、千代紙などで着物を作る。この人形は、紀ノ川の川口に近い淡島まで流れて行く。こうしておくと、女の下の病気にかからぬと信ぜられている。」(『五條市史 下巻』昭和33年刊)と書かれており、淡島信仰の影響が指摘されている。
 
 五条の流し雛は、戦中戦後は途絶えていたが、昭和44年に歌人の亀多亀雄氏が中心となって南阿田で復活された。現在は4月の第一日曜日に地元の女性たちが作った流し雛が源龍寺で供養されたのち、少女たちによって近くの吉野川に流される。地元の手作りの流し雛は一般の人も入手でき郷土玩具となっている。


広島の淡島堂から領布された「おんたちめんたち」(昭和初期)

 このように郷土玩具として我々に親しまれている流し雛も淡島信仰と深い関係がある。なお第二次大戦前まで広島市木挽町にあった淡島堂から、俗に「おんたちひいな」あるいは「おんたちめんたち」と呼ばれる紙雛が領布されていた。これは白い小さな頭に紙の着物を着せたもので、大小一対が紙帯で括られている。これは淡島雛の一種で、流し雛に使われたかどうかわからないが、淡島信仰にもとづく紙雛である。北村英三氏所蔵のものを参考までに写真掲載させていただいた。

加太淡島神社とは

 ではどうして流し雛は淡島信仰と関連があるのだろうか。それは和歌山市にある加太淡島神社の成立とその後の歴史に深く関わっている。
 全国にある淡島神社の総本社である加太淡島神社は和歌山市加太に鎮座する。この神社は平安中期の延喜式神名帳に記載されている由緒ある神社で、祭られている神は、少彦名命(すくなひこなのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)の三柱である。少彦名命は体が小さくて敏捷、忍耐力に富み、医薬・まじないなどの法を創めたとされ、大己貴命は大国主命の別名で少彦名命と協力して天下を経営したとされる。息長足姫尊は神功皇后である。

 江戸後期に和歌山藩によって編纂され天保10年(1839)に成稿した『紀伊続風土記』により簡単にまとめると、神社の由来は次のとおりである。「神社は上古、加太の沖にある友ヶ島(淡州または淡島また粟島とも言う。沖ノ島・地ノ島・神島・虎島の4つの島からなる)の神島に鎮座していた。当時は少彦名命と大己貴命の二座を祀っていた。神社の社家では次のように伝えている。神功皇后が筑紫から凱旋するとき、皇子を竹内宿禰に託して紀伊国に赴かせ、皇后が難波の方に至ると海上でにわかに風波の難にあった。皇后は自ら苫(葦や茅でできた舟の覆い)を海に投げ入れて神の助けを祈り、苫の流れゆくままに舟を漕がせてゆくと、淡島(神島)に着いた。これは神の擁護によれるなりと韓国で得た宝物を神殿に納めた。その後、仁徳天皇が淡路島に遊猟されたとき、この社を加太の地に遷し、神功皇后の崇敬された神社であるので、皇后を合わせ祀り、一宮三坐の神とし加太神社と称した。」

江戸初期にひいな遊びを神社の由来に取り込む
 以上が加太淡島神社の由来であるが、続いて『紀伊続風土記』は奇妙な文を続けている。それは「寛文記に、淡島明神は天照大神の姫宮で住吉明神の后という。俗信には天照大神の第六の姫宮という、(中略)何れも索強付会(無理にこじつけた)の説にて信じかたし」という内容である。

 寛文記とはどんな書物か特定しかねるが、寛文(1661-1672)というと江戸前期である。この頃、淡島神社の由来にこじつけ(索強付会)と『紀伊続風土記』の著者が呼んだ俗説が登場したのである。どんなこじつけなのか。江戸後期の風俗見聞集である『続飛鳥川』(19世紀中頃刊)にこじつけの典型的な内容が残っているので紹介してみよう。

 「淡島明神、鈴をふる願人、天照皇大神宮第六番目の姫宮にて渡り給ふ。御年十六歳の春の頃、住吉の一の后そなはらせ給う神の御身にも、うるさい病をうけさせ給ふ。綾の巻物、十二の神楽をとりそへ、うつろ船にのせ、さかひ(堺)は七度の浜より流され給ふ。あくる三月三日淡島に着給う。巻物をとり出し、ひな形をきざませ給ふ。ひな遊びのはじまり、丑寅の御方は、針さしそまつにせぬ供養、御本地は福一まんこくぞう、紀州なぎさの郡加太淡島明神、身体堅固の願折針をやる」

 これは淡島神社の御利益を語って各地をまわった淡島願人(特殊な乞食)が話す内容を記録したものである。それによると、「淡島の神は天照大神の六番目の姫宮として生まれ、十六歳のとき住吉明神の一の后となった。しかしうるさい病(白血・長血などの下の病)にかかったので、綾の巻物および十二の神楽とともにうつろ船(中が空になった船)に乗せられ堺の七度の浜から流された。翌三月三日に淡島に着いた。巻物を取り出してひな形を切り出した。これがひな遊びのはじまりである。(以下略)」となっている。

 なんと淡島の神は天照皇大神宮の姫宮で、しかも下の病を患い船で淡島に流されたという民間伝承が広まったのである。しかも淡島に流れ着いたのが三月三日で、そこでひな形をきざんだことから、これがひいな遊びのはじまりであるという俗説まで成立した。しかしこれはあくまでも民間の俗説である。

加太淡島神社の御守雛
(昭和初期・北村英三氏提供)


加太淡島神社御守雛の縁起。由来を簡単に記し、常に懐中に持てば武運長久・海上安全・腰より下の病に苦しむ事なしと説いている。(昭和初期・北村英三氏提供)

 神社の社家の言い伝えでは、「今の世に例年三月三日、九月九日、女子雛祭りの遊戯あることは、往古神功皇后手ずから少彦名命の御神像を作りて、当社に奉納なしたまひしより事起れり。其後仁徳天皇の御宇、神託によつて天下婦女幼児の病苦を払除のため宇礼豆玖物(うれつくりもの)とて雛がたを製してこれを玩遊ばしめ玉へり。また天児といへるも少彦名命の御神像にしてこれをまつること雛遊ひの巻に見えたり。」(『紀伊国名所図会』文化9年・1812)とあって、神功皇后がみずからが少彦名命のかたちを作って神社に納めたのが、雛遊びの始まりと説明している。なお現代の加太淡島神社は、この由来を「御祭神の小彦命、神功皇后の男女一対の像が男雛女雛の始まりであると言われる」としている。淡島神社が領布している御守雛は、御祭神の小彦命、神功皇后の男女一対の像をかたどったものである。

 ともかく淡島神社は江戸時代に入ると急速に「雛遊び」を神社のいわれに取り込み、三月三日を祭礼とし、女性を対象に信者獲得に走りはじめたのである。室町時代の例祭が四月二十日(『式内社調査報告』第23巻)と書かれているのみで、三月三日がいつから祭礼となったのか定かでないが、江戸時代にはいると「四時祭礼三月三日、四月八日、九月九日、十一月十三日」(紀伊国名所図会)と、四つの例祭のひとつとなり、さらに『紀伊続風土記』では「祭礼三月三日を大祭とす」とあり、淡島神社の最も大きな祭りとなったのである。

 加太淡島神社が三月三日の例祭に何をしていたかについては、『紀伊続風土記』に「祭礼三月三日を大祭とす。御輿神幸所に渡御あり。神幸所は飽等浜にあり。児獅子舞、面かつき等あり。又村中の旧家、皆素襖を着て御輿供奉をなす。其式頗る賑はし。又加太浦は三月三日潮乾の名所なれば、国中の貴賤、他邦の男女船を泛(うか)へて群衆す。(中略)しん紳家(身分の高い人)諸侯方及び諸国の士庶(一般の民)より、雛ならびに雛の其婦人の手道具を奉納する事夥しくして、神殿中に充満す」とあり、飽等浜にあった神幸所へ御輿の渡御が行われ、子供の獅子舞や面かつき等があったこと、この日は干潮になるので諸国から大勢の人が船で訪れ潮干狩りを楽しんだこと、また雛人形や婦人の手道具の奉納がおびただしくて社殿中に充満している様子を記している。

 現在の加太淡島神社では、雛人形や婦人の諸道具などの奉納は当時と同じように行われているが、御輿渡御や子供獅子舞などはおこなわれていない。神社に問い合わせたところ、これらの行事は現在、近くの加太春日神社で「えび祭り」として五月に行われているという。当時、春日神社と淡島神社とは宮司が兼務していたため、春日神社の行事が淡島神社の例祭のように書かれたのではないかというのが、前田光穂宮司のお話である。

 ところで現在の加太淡島神社の三月三日は、雛流しが行われている。全国から奉納されたひな人形などが白木造りの船に載せられ海に流される。この雛流しは『紀伊続風土記』に書かれていない。いつから始まったのだろうか。この点について前田宮司にうかがうと、昭和37年(1962)からだそうである。それまでは神社で祈祷を受けたひとがたや人形を個人の方がそれぞれ海へ流していたという。それを神社の行事として昭和37年から行うようになったのだそうである。この有名な行事も起源は以外に新しいのである。
(本稿は『郷玩文化』169号 2005年6月刊 郷土玩具文化研究会発行、に掲載された論文を転載したものです) 
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東根七夕まつり (動く七夕ちょうちん行列): 笹部いく子

2018-10-16 14:45:08 | 調査報告
 東根七夕まつり (動く七夕ちょうちん行列):笹部いく子

1.はじめに
七夕提灯との出会い ~東の杜資料館~
 山形県東根市に明治初期から100年以上の歴史を持つ全国でも珍しい「動く七夕提灯行列」があることを初めて知ったのは、娘婿の転勤で彼らの一家が北海道から山形県東根市に引っ越した2006年のことです。

 その年の3月、私は娘婿の家を拠点に雛巡りをするため、会場のひとつであった東の杜資料館を訪ねました。この資料館は旧東根城三の丸跡地に位置する横尾家の酒蔵を改造した歴史資料館で、昭和62年に開館、毎年3月末~4月3日まで横尾家をはじめ市内の旧家に残るお雛さまを展示公開しています。

 雛人形を見学して隣りの蔵へ移ると、そこは七夕展示室で「東根の七夕祭」と書かれた解説板があり、その前には七夕まつりの笹飾りと田楽提灯や大型提灯が展示されていました。 解説板には東根の七夕祭りについて説明が書かれていました。その内容を見出しをつけて紹介させていただくと以下のようになります。

  東根の七夕祭(動く七夕提灯行列)
東根七夕の由来
 古老の話によれば、江戸の末期頃から明治初期に、七夕の夜(旧暦7月6日)各家で豊作や家内安全等の願い事を田楽提灯に書いて、養蚕の棚竹につけて家の前に立てたものを、子供たちが持ち出して石油缶等を叩きながら歩きまわったのが始まりと言われている。明治38年、日露戦争が終わり凱旋兵士を迎えるために大太鼓・小太鼓・笛等で編成された音楽隊を七夕行列に利用するようになり、それに七夕祭独特の太鼓・ラッパも加わって提灯行列が一層にぎやかになったと伝えられている。

祭の特徴
 東根の七夕祭は子供達のまつりで、願いを託した短冊を青竹に下げて、自分で作った提灯に絵や字を書き、一日町の秀重院境内に祀られている天神様(菅原道真公)より灯をいただき提灯に移し、学問の向上、学芸の上達、五穀豊穣、家内安全を祈って町内を練り歩く動く七夕提灯行列が、明治以来、今日まで絶えることなく続いている全国でも類のないまつりです。子供達の発想は素晴しく、田楽提灯のほかに星・扇・西瓜・胡瓜・茄子・唐辛子・焼麩(やきふ)の形をした提灯まで作ったものです。

戦中から戦後にかけての七夕
 七夕祭の長い歴史の中で第二次世界大戦中は、提灯の絵や願い事も戦時色となり、行列の最初には必勝を祈願して八幡神社に詣でたものです。戦後は新暦の8月6日の夜に行うようになり、東根小学校校庭に全員集合し、一斉に提灯をともし、「竹に短冊七夕さまよ、一年一度の七夕さまよ」と斉唱し、本町通りを練り歩く盛大なものになりました。

七夕祭保存会の設立
 これまで小中学生だけで自主的に七夕祭を行ってきましたが、「受験勉強やクラブ活動・少子化」等で七夕祭に参加する子供が少なくなり、継続が危ぶまれてきたので、子供クラブ育成会と東根地区民とで、昭和47年に「七夕祭保存会」を設立し、全面的に後援することになりました。その後、提灯も大型化し、お城や、五重塔、宝船、マンガのキャラクター等がトラックに搭載されるようになりました。

東根まつりの一環として
 平成元年、東根市役所庁舎落成時より、東根まつりの一環として共催するようになり、東根地区の子供クラブだけでなく、東根市全地区の子供クラブ、東京中央区の子供達、東京東根会の会員も参加するようになり、益々盛大なまつりとなっております。尚この東根七夕祭は、平成6年1月1日に東根市指定無形民俗文化財(伝統芸能)の指定を受けております。
 東根七夕保存会・東根公民館・市商工会東根支部


東の杜資料館展示の東根七夕まつりの提灯

おなじく大型提灯
         
調査のきっかけ
 このようなきっかけで東根七夕祭のことを知ったわたしは、2007年、当時小学校6年生だった孫が神町地区から七夕提灯行列に初参加したのを機に初めてこの祭を見学しました。また、2009年は二つ違いの孫娘が、転居した小林地区から七夕まつりに初参加したので見学し、二つの地区の七夕祭の様子をつぶさに見ることができました。そこで、二人の孫に付き添って体験した事柄を中心にレポートするとともに、地元の新聞記事も引用させていただき、東根七夕の概要を報告します。

東根市の概要
 東根市は山形県中央部、山形盆地の北部に位置し、山形盆地で最大の乱川扇状地の扇端に市街地があります。市の東部は奥羽山脈で宮城県境、西に最上川を挟んで谷地町と隣接、南北は天童市と村山市に接しています。さくらんぼ「佐藤錦」の誕生地として生産高日本一を誇り、りんご、ラ・フランスなどの果樹園も多く「果樹王国ひがしね」として知られています。

 江戸時代には、紅花・たばこ等の換金作物の生産が盛んで、市の南北を貫く羽州街道が整備されると六田宿が設けられ、参勤交代によって江戸の文化が直接入りました。現在は羽州街道に平行して奥羽本線と平成11年に延伸した山形新幹線が走り「さくらんぼ東根」駅が誕生。さらに西に平行する国道13号線沿いの南部の神町には山形空港があり、大森地区に工業団地を誘致して人口も年々増加し、新興都市として発展しています。

2.七夕祭の準備
◆田楽提灯をつくる
 子ども会が中心となって行われる「動く七夕提灯行列」に欠かせないのが、田楽提灯です。夏休みになると、七夕行列に参加する子どもたちは、各こども会で定められた田楽提灯用の用紙に、好みの絵や願い事を描いて自分が持つ提灯を作ります。田楽提灯の作り方は地区によって違います。

A 神町地区
東根市南部、山形空港東方の神町地区では30の子ども会が結集しているため子供の数が多く、七夕行列に参加できるのは6年生だけです。神町地区の「でんがく提灯」は、長い1枚の紙を長方形の枠の左側面・正面・右側面・裏面の4面に巻き、上面と下面には別に切った紙をはります。

  でんがく提灯の作り方の図


神町地区の田楽提灯行列(2007年)

B 小林地区
「さくらんぼ東根駅」の東方にある大森緑地公園近くの小林地区は、ここ数年、新しく開発された住宅地で子どもが少ないため、子ども会の親子で七夕行列に参加します。
 田楽提灯用に渡されたA3用紙2枚に家で正面と裏面用に好みの絵や願い事を描きます。七夕まつりの前日に集会所に集まったとき、側面用の「小林育成会」と「団結」の文字がプリントされた紙(A3タテ2分の1)を貰って木枠に貼り、ローソクを立てて田楽提灯を仕上げます。
 田楽提灯は手作りの花を付けたり、棒を紅白の布で巻いたりして各子ども会で特色があり、シンボルマークを付ける地区もあります。

◆山車を飾る
 七夕まつりには、提灯行列の他に山車が参加します。七夕まつりの前日には親子で集会場に集まって田楽提灯を作るだけでなく、山車を飾る花や笹竹に吊す飾りや短冊などを一日がかりで準備します。笹は当日の朝に切り、短冊を下げて山車に載せ、丸い提灯や手作りの紙の花、電飾で飾り付けをします。
午後3時ごろ、完成した山車と子供達が地区内を回ります。

紙を木枠に貼ると完成

提灯と花で飾った小林育成会の山車

3.第40回ひがしね祭  動く七夕ちょうちん行列 
・2009年、第40回を迎える「ひがしね祭」は8月10日(金)・11日(土)の二日間、
・東根市役所周辺および東根本町通りを会場として開催されました。
・第一日目の10日のプログラムに「動く七夕提灯行列」と「七夕フィナーレ」が組まれています。
・第1スタート地点から出発する参加者は「JAさくらんぼ東根」の駐車場に集合。
・本部山車を先頭に三日町交差点を18:30にスタート。
・29号線を東へ→334号線との交差点で右折→白水川にかかる柳橋→最初の交差点で右折。
五間町交差点に向かい、第・スタート地点で集合の参加者と合流。
・参加人数、約3、100人、山車約60基の七夕提灯行列は東根市役所に向かって約2時間半
続きました。

七夕ちょうちん行列・出発地点とコース
◆七夕行列のスタート地点
・三日町交差点スタート● 18:30 → プログラム1番~17番、 26番~39番 
・五間町交差点スタート● 18:50 → プログラム18番~25番、 40番  

地図 七夕ちょうちん行列出発点とコース
 
◇音楽隊を持つ子ども会
「東根の七夕まつり」について東の杜資料館に展示されている東根七夕保存会の解説によると明治38年日露戦争が終り凱旋兵士を迎えるために大太鼓、小太鼓、笛で編成された音楽隊を七夕行列に利用するようになり、それに七夕祭独特の太鼓、ラッパも加わって提灯行列が一層賑やかになったと伝えられています。
 その伝統はいまも受け継がれ、田楽提灯行列に子ども会の音楽隊が参加している地区があります。
原方子供クラブの伝統の横笛の音楽隊、温泉町音楽隊、宮崎こどもクラブ音楽隊、一日町子供クラブ音楽隊などです。「竹に短冊七夕さまよ、年に一度の七夕さまよ」の唄も、古くから七夕まつりを行ってきた地区の子供達に伝えられています。
                                             ◇民俗芸能を伝える子ども会
 東根七夕まつりでは七夕提灯行列の他に、東根市指定無形民俗文化財を見ることが出来ます。

小田島地区 「小田島田植踊」の衣裳で参加
 小田島地区の「小田島田植踊」は江戸時代に飢饉に見舞われた時に五穀豊穣を祈願して奉納されたのが始まりで、300年以上伝承されています。保存会では、平成2年から小田島小学校の5・6年生児童を対象に「小田島田植踊子供伝承会」をつくり伝承活動が続けられ、七夕提灯行列には田植踊の衣裳で参加。行列途中の数ヶ所や、パレード終了後のステージで田植踊が披露されました。


東方子供クラブ「東根城」  
 長瀞地区は東根城型の灯籠の山車に続いて無形民俗文化財の「長瀞猪子踊」の猪子頭が火を噴いて登場。猪子踊の起源年代は不詳で慈覚大師に感謝の念を捧げるために猪子踊りを組織したと伝えられています。ほかにも大林子供クラブの花笠音頭や、神町地区「桜桃元気太鼓」、高崎地区「黒伏太鼓」東郷地区「東郷太鼓」六田子供倶楽部 「六田龍太鼓」など地元太鼓の民俗芸能がでます。

◇子ども会の大型山車
 各地区で工夫を凝らした山車には大型提灯に縁起物や漫画のキャラクターを描いたものがあり、電飾などで華やかに飾られます。1地区では数台の山車が出るところもあります。
       
 孫が参加した小林地区の出番は40番中の35番で終わりに近く、ゴールの東根市役所前に着いたときは、夜9時を過ぎていました。参加のこども達はトップから1時間以上遅いゴールにお疲れさまでした。そして、七夕行列の最後まで雨が止んでいたことが幸いでした。

◇公共・企業団体の山車
 本部山車 ・市長と実行委員が乗った本部の山車をはじめとして、東根市議会、東根公民館、東根市企業連絡協議会、企業連号、果樹王国ひがしね、などの山車がでました。

4.「Look for 伝承文化」こども教室の七夕提灯
 2005年から文化庁の助成を受けて、「Look for 伝承文化子ども教室」で大富中学校の生徒達が、地区の大人の指導で竹で骨組みを作り、手作り和紙を貼って製作して七夕提灯行列に参加しています。

◆七夕提灯のテーマ
2007年「昔の七夕提灯&イバラトミヨと水中生物」。
2008年 市制50周年を記念して「果樹王国ひがしね」のキャラクター・タント君にも挑戦。
2009年「果樹王国ひがしね不思議な樹」


07年の七夕提灯「昔の七夕提灯&イバラトミヨと水生動物」

 東根の七夕まつりの提灯行列で私が最も注目しているのが、昭和30年頃まで続いていた昔ながらの野菜や果物を模った提灯です。今年は復元されて5年目になります。「Lookfor伝承文化こども教室」の約15人の生徒達は、七夕の一ヶ月前から週に一度集まって七夕提灯の製作にとりかかっていたそうです。

09年の七夕提灯「果樹王国ひがしね不思議な樹」サクランボ・胡瓜・リンゴの樹
 
七夕提灯教室の新聞記事
 「Look for伝承文化こども教室」の2年目となる「七夕提灯」教室の様子を取材した山形新聞の記事を引用させていただきます。
   
今年は手作り和紙使用 2年目「七夕提灯」教室開く
 「東根の伝統七夕提灯づくり教室」が7日夜、東根市の藤助新田地区で開講した。近年、提灯の形は画一化してきたが、昔の七夕行列で用いたように野菜や虫などをかたどったバラエティーに富む形を再現する。(中略)同市の伝統文化の継承発展に取り組む「Look for伝承文化こども教室」子供教室が文化庁の助成を受け企画。七夕提灯行列は明治時代から続くといわれる。(中略)関係者によると、七夕提灯は昭和33(1958)年ごろまで五穀豊穣の願いを込めた野菜の形や、害虫を追い払うという意味で虫の形をしていたという。

 昨年の第一回提灯づくり教室では、大富中の生徒たちが、ナスやキュウリ、サクランボなどの形の9種類を制作、立体的な枠に張る紙は、昨年は市販の和紙だったが、今年は市内の子どもたちが山林で採ったコウゾをたたいて繊維状にし、すき上げた和紙を使う。2,3年生9人が参加し、1カ月かけてそれぞれ1基を完成させる。講座初日は、図鑑などを参考にしながらデザインに取り掛かった。9人は完成した提灯にろうそくの火をともし、浴衣とげた履き姿でパレードに臨む。(山形新聞2006年7月9日付記事)

昭和20年代後半の七夕提灯行列
 山形新聞2009年1月5日号に「東根・七夕提灯行列 祭りの中心は子どもたち」という見出しで昭和20年代後半の七夕提灯行列の様子が紹介されているので、その記事の一部を引用させていただきます。

 旧暦7月7日の晩は特別だった。手作りの田楽ちょうちんを掲げて東根市中心部を練り歩いた後、子どもだけで最上川まで電灯もない道のりを歩く。七夕の短冊が付いた笹竹の枝を背負って。笹の葉を川に流し、五穀豊穣(ほうじょう)を祈るのだ。天野禎二さん(72)=東根市、会社役員=は「夏休みの一大行事だった」と話す。
 天野さんの時代は中学3年生が主体になって、祭りの準備をした。ちょうちん作りのための作業場「宿」の確保、制作のための寄付金集めもすべて子どもたちでこなした。宿や寄付金の確保の仕方は先輩から教えられた。資金を確実に集めるため「たくさん出してもらえる家からもらいに行け」という教えもあったという。ちょうちん作りと並行し、楽隊の練習も行った。作業が進まないと宿に泊まることも。「それが楽しみだった」と天野さん。

 地区の子どもたちのきずなは強かった。「ほかの地区がどんな音楽を練習しているかのぞいたり、宿荒らしをしたりすることもあった」と天野さんは笑う。それほど当時の子どもたちは、祭りに熱中していた。
 祭りの当日は、夕方早くから地区を1周。その後、ちょうちんにろうそくをともして大通りに移り、午後10時近くまで練り歩く。年下の子どもはここで解散だが、年上の子どもには、笹の葉を最上川に流す「竹流し」という一大イベントが待っている。天野さんの地区では、中学生10人ほどが村山市の碁点橋を目指した。笹竹の枝を背負って2時間以上。おにぎりを持ち、ちょうちんを提げて、はしゃぎながら真っ暗な夜道を歩いた。
 碁点橋に着き、最上川に笹の葉を流すのは深夜。当時は交通量が少なく、橋の上の車道でない部分で眠り、夜が明けてから帰途に就いた。天野さんは「大人に規制されずに自分たちだけで取り組めるのが最高だった」と話す。
                                             
5.終わりに
 2006年の春に「東の杜資料館」で初めて東根七夕祭の存在を知り、その見学を望んでいた私に翌年さっそく見学のチャンスが訪れました。2007年に孫が神町地区の提灯行列に参加。続いて2年後に孫娘が転居した小林地区から参加して、違う地区だったということも七夕調査にとっては幸運でした。孫達の七夕祭の記録として、日本七夕文化研究会の調査報告として、写真と資料をようやく1冊にまとめることが出来ました。 
 七夕行事は一般的に笹竹に飾りをつけるだけの地方が大部分です。しかし、ここ東根市では提灯をもち行列を作って練り歩く七夕行列というかたちに発展しました。これは、七夕の一種である東北地方の「ねぶた」に通じるものがあります。こうした視点からみると、東根七夕は東北地方にあって「ねぶた」との接点をもつ民俗的に貴重な祭りといえると思います。
2009年(平成21年)9月





北海道の七夕 ~道東の町・遠軽からの報告~ : 尾形 彰

2018-10-14 21:06:14 | 調査報告
 北海道の七夕 ~道東の町・遠軽からの報告~ : 尾形 彰

■追憶の七夕行事

北海道東部、遠軽町周辺の地図(Yahoo!地図情報より)

 ローソク出せ 出せよ
   出さぬと かっちゃくぞ
   おまけにくいつくぞ

 うとうと、まどろんでいると、脳裏に70年前の風景が廻り灯篭のように浮かび、かつ消える。8月7日、七夕の宵の景である。浴衣を着た子供たちが打ち連れて、小さな提灯に火をともし、唄いながら近所を何軒か廻るのである。家々では用意しておいた小ローソクを一本ずつ呉れる。

 私が育った北海道の遠軽(えんがる)は、明治31年(1898)に開拓の鍬が入ったオホーツク海から20キロほど内陸に入った小さな町である。私は昭和6年(1931)、3歳の時から戦後、成人するまで遠軽の町内で過ごした。北海道では、ほとんど8月7日に、いわゆる月遅れで七夕をするが、夏休みには当然、夏の行事として全戸で行われていたように思う。

ササの代わりに柳に飾りをつける

自宅に生えているコリヤナギの枝を用いて七夕飾り(7本)を再現してみた。(平成18年8月)

 北海道では道南の一部を除くと、本州のように竹に飾りをつけることはない。第一、竹は奥山に根曲り竹(チシマザサ)というのがあるが、根元が曲がっているので飾るのに都合が悪いし、どこにでも生えているわけでもない。手っ取り早いところ、川っぷちに叢生していて、竹に似ている葉を持ったヤナギの仲間が使われた。
 「北海道植物図鑑」によると、北海道には十数種のヤナギが生育しているが、七夕にはカワヤナギかネコヤナギそれにエゾヤナギなどが用いられたように思う。

  ささのは さらさら のきばにゆれる
  お星様 きらきら 金銀すなご
という唱歌を聞いて、内地ではササを飾るのか、ササといえばクマイザサしか知らぬ私は、奇異な感じを抱いていた。

 さて、柳の木は七夕前日の6日の午後に用意した。柳は街のほぼ中央を流れる湧別川の両岸に豊富に生えていた。私の幼少の頃は、父親が伐って来てくれたが、私が中学生になってからは、私の仕事になった。
 柳は根元で太さ3~4センチ、丈は1.5~2メートルくらい。私は腰鋸(こしのこ)という小型の鋸を用いたが、父親は鉈でスパッと一気に切っていた。
 ゆさゆさと肩にかついで来るのが、とても晴れがましい思いをしたものである。家の前庭に垂木(たるき)の長さ90センチほどのものを、先を鉈で削って、掛矢(かけや)という大きな木槌で打ち込んで、柳の枝を添わせ、縄のきれっぱしで上下二箇所を縛れば大人の仕事は終わりである。

 あとは子供のお楽しみ。7日の朝は、朝食もそこそこに飯台(一般にいうところのチャブダイ)をそのまま机代わりに、七夕飾り製作を始める。七夕飾りの材料は、文房具店で扱っていた。半紙半分くらいの白地に赤や黄や青など染料でさっと掃いたように彩色された紙であった。それを縦長に切って短冊とし、各自の願い事を墨で書いた。

 願い事は特に決まりはなかったが、同じ町内で育った小生の家内は、彼女の母親から先ず初めに、
  七夕や 机の上に瓜と茄子
  七夕や 竹に五色の花が咲く
  荒海や 佐渡に横たふ天の河
の3句をしたため、その後、自分の願い事を書くようにと言われていたそうで、私と一緒になって定住の家を持ち、七夕飾りをするようになって20年ほど、この3枚は毎度ぶら下げている。因みに彼女の母親は淡路島出身で、20歳まで南淡町で暮らしていた由。

 さて書きあがった短冊を、こよりで柳の小枝に結びつけるのだが、こよりを作るのは当時は日常のことで、書き物を綴じたり、紙袋(かんぶくろ)の口をしょっとしばったりと、必需品であったから和紙の端っこなどで折々作りためておいた。私も中学生になった頃、父親に教えてもらって今に忘れずこより作りはできる。
 短冊の他には、広告や包装紙で投網を切ったり、五色のテープ片で鎖にして飾ったが、デングリやいろいろの作り物が店頭に並ぶのは戦後もしばらくたってからだ。

ローソクもらい
 いよいよ7日も宵が迫ると、子供たちは待ち兼ねたように提灯に火をともしてローソクもらいに出かける。その時の唄が一般に「ローソク貰い唄」といわれているものだ。
 一番年かさの子が、
  ローソク出せ
と、始めると、皆一斉に、
  ‥出せよ
  出さぬと かっちゃくぞ
と続く。「かっちゃく」とは、標準語で「ひっかく」に当たる。この位まで唄っているうちに、もう隣の家の門口だ。すこし離れた家でも、
  おまけにくいつくぞ
  くいついたら はなさんぞ
位まで唄えば、いやでも着いてしまう。門口では、また最初から、
  ローソク出せ 出せよ
と唄い出す。

 どこの家でも、家人が小ローソクを一本ずつ渡してくれる。これがまた、何ともいえず嬉しいものだ。このローソクの丈は5センチのもの。こうして隣組の家々で一巡すれば、片手にいっぱいの頂き物である。わたしは、
  くいついたら はなさんぞ
までしか知らぬが、昭和7年生まれの私の家内は、この後にも続きがあったと力説する。
  はなさんかったら いーたいぞ
  いーたかったら 
  ローソク出せ 出せよ
と、なかなかしぶとく続くのである。

 ところで貰ったローソクだが、当時はいろんな使い道があった。我が家では、
(1)入浴の折に風呂釜のヘリに立てた。遠軽では、風呂のある家はあまり多くなかった。我が家は外風呂であったが、戸外に電灯を引いていないのでローソクを風呂釜のヘリに立てれば、ちょうど1本で一風呂浴びるのに十分である。風呂は内地から移入された五右衛門風呂ですべて鉄製であった。
(2)神棚や仏壇用にも使った。
(3)はじめに入っていた家では、便所に電灯がなかったので、板に釘を打って、それにローソクを立てて用足しに行った。勿論、懐中電灯もあったが、主に夜間の自転車用であった。
 ともかくローソクは貴重品であったから、大事な貰い物だったわけである。(ちなみに最近の「ローソク貰い」では、ローソクは姿を消して「お菓子」である由。) 

 さて「ローソク貰い唄」であるが、当地方では冒頭に掲げた唄のみが唄われているという事実である。ところが小田嶋政子「北海道の年中行事」(北海道新聞社)によれば道南の函館では、
  竹に短冊七夕まつり、オーイヤ、イヤヨ
  ローソク1本ちょうだいな
となる。
「ローソク一本 ちょうだいな」が、道北では、「ローソク出せ 出せよ」と変貌している。
ところが、函館の西に位置する松前では、
  今年豊年 七夕まつり オーイヤイヤヨ
  ローソク出せ 出せよ 出さねバ
  かっちゃくぞ おまけに くっつくぞ
と歌われており、石狩湾に面する港町・小樽でも、
  今年豊年 七夕まつり ローソク出せ 出せよ
  出さねば かっちゃくぞ おまけに くっつくぞ
  商売繁昌 出せ 出せ 出せよ
だそうであるから、「ローソク出せ 出せよ」は、枕の「今年豊年 七夕まつり」の有無はあるものの、北海道の広い地域にわたって共通した歌詞のようだ。

 さて、楽しい七夕の宵も、時過ぎれば幕切れとなる。8月の北海道も遠軽付近は午後6時半になればたそがれ時、ローソク貰いも15分もあれば、あたり近所廻り尽くす。柳のもとで線香花火などに打ち興じ「もう家に入れよう」と、家人に呼ばれれば、ちょっと名残惜しいが、家に入ってしまう。昔の子は早寝早起きだった。睡眠時間も大分長かった。寝る子は育ち、粗食ながらも丸々と太っていた。

ローソクもらいのアキカン提灯(追記)
 今年(2007年)5月、知人の佐藤弘憲氏がローソクもらいに使ったアキカン提灯を作ってくれたので、これを紹介しておこう。彼は大正13年7月、遠軽町生田原生まれの83歳。小生より五歳年長である。昭和10年頃、彼は小学校5,6年生だった。七夕の日、幼児や小学校低学年の生徒は、市販の七夕提灯に灯をつけてローソクもらいに参加したが、彼ら高学年や高等科の男子らは、缶詰のアキカンを用いて自作の提灯を作り、それを持って参加したという。

 そういえば小生の亡き兄(大正12年生れ)らも作っていたのを覚えているが、小生が高学年になった昭和14~15年には日支事変(日中戦争)も激しさを増し(16年には太平洋戦争に突入)、貧困層の我ら家庭には缶詰など手に入らぬものであったから、小生に缶詰の提灯を作った記憶はない。

 さて、佐藤氏が作ってくれたアキカン提灯とは、どんなものか。それはアキカンの胴や底に各自好きな模様を描いてから、三寸釘や五寸釘で模様の線に沿って3~4ミリ間隔で穴をあけ、上部に太い針金で提げ手をつけ、下部に釘を打ちローソク立てとしたものである。胴の模様は、船や魚、花などを、丸い底には自分の頭文字一字をカタカナで入れたという(出来上がった提灯は〇のなかにオが入っている)。

アキカン提灯(胴に釘で穴をあけて船の模様を入れてある)

缶の中のローソクに火を灯す。

模様が浮かび上がる。照らされた先はけっこう明るい。

 アキカンに釘で穴をあけるためには、缶にマルタンボ(丸太棒)をさし入れ、丸太に跨って動かないように固定してから釘を打ったという。また取っ手の針金には熱が伝わらないよう籐などを切って通した。
 暗いところでローソクに火をつけてみると、模様が浮き出てロマンチックだ。また提灯に照らされた前方は結構明るい。七夕の晩に、ちょっと得意気な男子上級生がローソクもらいの先頭に立って歩いているさまを想像して楽しくなった。

七夕飾りを川面に投げる
 8日の朝は結構忙しい。朝食もそこそこに各戸の年長の子は、七夕飾りをかついで年下の子を従えて、三々五々湧別川の方へ歩いていく。川べりから、或いは橋の上から、柳を川面に投げると、五彩を波間に漂わせ浮きつ沈みつ川下に流れてゆく。子供心にも敬虔という語が当てはまるような神妙な気持ちになる。この川を流れて行き、海に出て、それから先はどうなるんだろうと、考え込んでいた少年の頃の自分がいとおしいものに思えてくる。

■ 鉄道が運んだ七夕行事
七夕は農村地帯の行事でない
 私が所属する老人クラブで、60歳代から80代の会員30名ほどについて、幼少時代に居住していた町村・地区で七夕行事が行われていたか調査を試みた。
 会員の幼少時代の居住地は、網走管内のほぼ全域にわたっているが、幼時(大正末期から昭和10年代)すでに七夕が行われていたと回答があったのは、鉄道沿線の駅周辺市街地形成地区であり、市街地で七夕を行っていない箇所は1ヶ所もなかった。
 七夕を行っていないのは、
・ 市街地より遠距離で、山村である。
・ 純農村地帯で、家屋が散在している。
・ 小学校など文化的拠点がない。
・ 経済的ゆとりがない。
などが挙げられる。

 しかし、純農村でも市街地に近く、小学生を市街の学校に通学させている地区では、七夕が行われていた事実があり、七夕の行事が市街地区と密接なつながりを持っていることが判明した。北海道では七夕は決して農村地帯の行事でないということである。このことは七夕行事の北海道への流入を考えるとき、大きな意味をもつ。
 
鉄道の発達による文物の流入
 北海道への文物の流入は、大きく分けて2つある。ひとつは江戸時代から明治時代にかけて本州から海路を沿岸沿いに、東廻りは函館・室蘭・釧路・根室へと行くコース。北廻りは小樽・稚内・紋別と沿岸伝いに港町を中心に伝播するコースで、このコースを通じて文化は伝わり、さらに港町に注ぐ河川の流域を内陸部へと遡っていった。
 江戸時代末に七夕行事は本州から海路で松前・函館まで伝わっていたが、明治以降、ここから先の海路による伝播については、港町を中心にある程度、伝播して行ったと考えられる。

 もうひとつは、明治以降、鉄道の発達によってもたらされたものである。鉄道については余り詳しく判らぬので、当地方に限らせてもらう。
 中央から帯広へ。内陸を北へめざして野付牛(今の北見)へ、また釧路から斜里へと、大正時代以降、入植者は内地から一家で鉄道の貨車に家具を積んで、或いは単身で北海道での一発成功を夢見て陸続として入り込んできたのであった。

明治44年、池田~野付牛(北見)間が全通した当時の鉄道網(HP「北海道鉄道ワールド」を参照して作図)
 
昭和7年、新旭川~遠軽間が全通した当時の鉄道網(HP「北海道鉄道ワールド」を参照して作図)

 当地方の状況をいま少し詳述すると、道中央から十勝管内池田から北見(当時、野付牛)の開通は明治44年(1911)である。その後、次々と線をのばし最終的に旭川と遠軽が石北トンネルの開通によって繋がったのが昭和7年(1932)である。大正末から昭和の初めにかけては入植のラッシュ時だったと思う。たとえば北見地方のハッカ景気など。小生の幼時に覚えた唄の少しが脳裏にこびりついている。
  十勝平野を越えて来て
  釧路・・(北海道の地名が続く)・・
  ああ、黄金花咲くユートピア

 こういう唄にあおられて陸続として内地からの入植者が押し寄せた。かくいう私の父親も大正10年頃、東京は上野で周旋屋の口車に乗せられ単身渡道した者。各地の市街地は、大通りは大体商店が軒をつらね、裏通りは資財ある者たちは一寸しゃれた戸建を、そうでない者たちは家主による急ごしらえの柾屋根葺きのバラック長屋で生活を営んでいた。しかし子沢山で貧乏ながらも結構活気があったように思う。内地各地からの入り込み人で、わやわやの時世であった。

怒濤の如く拡がった七夕行事
 こういう、わやわやの時世にちょうど七夕祭りはうってつけの行事ではなかったか。半年に余る長い冬籠りから抜け出して春が来たと思ったら、瞬く間にかっと暑い夏となる。子供たちは夏休み。各人、出身地ごとの催し事をやろうと思っても出来ないが、七夕だと手軽で安上がりで、子供中心だが大人だって結構楽しい。ローソクを貰いに行った子供たちに一本一本配っている、おっかさんの顔付きを見ていたらよく判る。(そして七夕に続いて大人中心の盆踊りの行事にも繋がっていると考えている)

 私は鉄道の敷設によって形成された市街地で、七夕祭りは怒涛の如くというか、津波が押し寄せる如くというか、短い年の中に拡がっていったとみている。そうでなければ、この広大な北海道で各町各村まったく同じような飾りつけ、同じ「ローソク出せ、出せよ」という唄を唄いながら、ローソクを貰い歩くという行事が定着していったわけがない。
 私は、道北・道東の七夕祭りは明治末から大正・昭和の初めにかけ鉄道の敷設によって形成され、市街地に於いて爆発的に拡がったとみている。

 著名な札幌雪まつり。根元を本州東北に持ち、全道各地に拡がっている、あの冬の行事・雪まつり(処によって、冬まつり、氷まつり、氷ばくまつりと多彩)、さらに近年賑々しくもてはやされているヨサコイソーラン(これも内地のヨサコイ節と北海道の民謡ソーラン節とが結びついた夏の狂乱舞のフェスティバル。全道各地に団体ができていて、祭の時のみならず事ある毎にソレソレソレソレと踊り狂っている)。こんなものと軌を一にしていると私は考えている。
 
■戦後の七夕の衰退
 私は戦後、昭和22年の春から家を離れた。辺地の学校に勤める田舎教師だった。斜里の畑作地。網走の酪農を主とした僻地。ともにその集落では七夕の習慣はなかった。
 昭和46年の春、二十数年振りに故郷遠軽に帰ってきたが、市街の変貌はすさまじいものであった。市街地からすっかり七夕が影をひそめていたことである。
 遠軽の市街地で店舗を構える古川商店の女将・カツエ氏の証言。「終戦の年、昭和20年の時は小学校1年生。戦後、小学校卒業時、昭和25年の夏までは七夕飾りをした。小学校をおえると七夕をやめたが、他家ではずっと続けていた。」ここに七夕と子どもとの関係がわかる気がしないだろうか。
 道路は大通りでも未舗装であった。大通りは彼女が昭和32年、高校に通っていた時は砂利道だったが、卒業後、町を出て昭和36年に帰ったときには既に舗装されていた。この頃には、七夕祭りはだんだん姿を消して来たようである。

 以下、少しく七夕衰退の要因を考えてみることとする。
先に述べたように道路の舗装によって、従来の如く簡単に柳を立てることが出来なくなった事。これは隣町・上湧別町中湧別の市街地の大通りで文具商を営み、七夕の飾り物をも商っていた山本光文堂の女店主・山本佐喜子さんもはっきりと証言している。

 次に河川敷も整備されて、河岸は地ならしされ、コンクリートで固められ、自動車練習場とか野球場・サッカー場と次々新設されて、カワヤナギの自生地が市街地から消えていった事。時を同じくして、河川の汚染問題も浮上して河川にいかなる物も投棄できなくなった事。

 遠軽でも、戦前から8月20日、二十日盆の夜に灯篭を流す習俗があった。私の妻の証言。彼女の母は昭和44年に死亡、その年の初盆には4尺5寸の灯篭を流したという。随分数多くの灯篭が川面を埋めたとのことである。そして平成11年までは、細々ながらも灯篭流しが続いていたことが、遠軽町大通り品田商店の女主人。品田トヨ子氏の証言でわかった。

 彼女は講を主宰して灯篭流しを行なっていたが、(1)講の人々の老齢化に伴って会員の数が減少し、(2)湧別川の水位も年々下がり、灯篭がうまく流れない(これは建設用の砂利採取が主要因であり、後に禁止されている)。(3)川に物を流してはいけない、(4)たまたま川のそばにあって供養してくれた當福寺も無住となるなどで廃止を決めたという。
 七夕や灯篭流しなど、川に流す行事が廃絶していった背景には、こうした諸種の事情のあることがわかる。

■北海道の「七夕」の現況 ~遠軽を中心に~
 北海道の七夕は、8月7日に行われる処が多い。しかし函館や根室の七夕は7月7日である。この地域が7月のお盆、つまり旧盆が根強く残る地域であることが関係しているといわれる。

調査した佐呂間町、遠軽町、上湧別町周辺図(Yahoo!地図情報より)
 ところがオホーツク海に面した佐呂間町でも、平成18年7月8日付け北海道新聞に「佐呂間(さろま)で七夕祝う」と、7月7日の七夕のことを報じていた。さっそく佐呂間町役場に照会してみた。
 「‥あくまでも推測ですが‥佐呂間町内でも、一部の地区(浜佐呂間地区)では8月7日に七夕を行なっており、そのような地域については、7月7日が農漁業の繁忙期と重なるなどの理由から、8月7日に行なうようになったと思われますが、この辺りは梅雨もなく、7月の夜空に星が見える日も多いことから、大部分の地域では、改暦後も変わらず7月7日に七夕を行なっているものと考えられます」間もなく寄せられた回答の主要部分である。それにしても、なぜ佐呂間だけがという思いが残る。
 他の市町村は大体、いわゆる月遅れの8月7日であって、旧暦そのままの7月7日に行なっている処はないようである。

 小生は伝統行事の廃れるのを惜しみ、何とかして児童に七夕を伝えようと思い、昭和55年から63年に退職するまで、在職していた町内の丸瀬布(まるせっぷ)小学校で、低学年を担任した何年間、次のような実践を試みた。

 小宅の敷地に、生垣代わりにコリヤナギを植えていたので、7月7日(8月7日は、すでに夏休みに入っていて実施できない)学級の児童分のコリヤナギの枝を60センチほどに切って教室に持ち込み、図工や自由の時間を利用して、各自の希望や願い事を書かせ、紙の鎖や折り紙の提灯などを作らせ、柳の枝に飾りつけ、下校時に持たせて家庭で飾るように指導していた。(今回、当時を思い返して、コリヤナギの七夕飾りを作ってみた。冒頭の写真がそれである。)
 現在、教師の自主的な教育は極端に制約を受けているようで、このような事はできまいと思う。

 現在、どのようなところで七夕飾りがなされているか。平成16~18年にわたって少し調べてみた。遠軽では、保育園・幼稚園で、園の行事として実施している。
 その他の公の施設も廻ってみた。昨年開所したあるグループホームの玄関先に七夕飾りをしていたが、今年は見受けられない。上湧別町のケアハウスでも毎年ホールに飾っているとのこと、さっそく出かけてみた。職員の奉仕による大きな柳に、入所している人々が力を合わせて飾り付けをしているということである。

上湧別町のケアハウス内での七夕飾り

 それから本町生田原地区の「木のおもちゃワールド館」でも、毎年七夕飾りをしていると聞いていたので、平成18年8月7日、電話でたずねたところ「今年はしません」という話であった。
 上湧別町中湧別の市街地区で「七夕まつり」をしていて(今年で第19回)、10年程前に一度見に行ったことがある。旧中湧別駅の停車場通りに、仙台から取り寄せたという孟宗竹に飾りをつけた見事なものであった。
 今年6月のはじめ、中湧別に行った折、市街に一件ある岩井書店を訪れてみた。この店は7月中には七夕飾りを販売する。単品で100円くらいから。セットで5,000円位まで。停車場通り恒例の七夕祭りは商工会主催。飾りは岩井書店から一括して納品。今年は8月4,5日頃から開催の予定などなど。

 8月に入って新聞の広告をみて、ちと考えさせられた。七夕まつりは8月5日・6日とある。なんで7日が含まれないのか。土日にかけてのお客の入り込みが目当てなのか。
 6日の夜、10年ぶりに出かけてみて、先ず驚いたのは、あの竹飾りが1本もないことだ。柳の木すらない。名称は「七夕まつり」となっていたが、なんのことはない。ただ騒々しい平凡な「夏まつり」といったところ。であれば8月7日でなくてもよいわけ。聞くところによると、経費節減とのこと。

 以上、二、三の例で判るように、予算の都合や職員の意識の有り方で、七夕になったり、取りやめたりというわけのようである。
 僕らの七夕は、誰に言われるでもなく、金のあるなしでなく、子ども達が自然発生的に7月7日に行なったもの。そして、それは柳飾りと、浴衣を着て提灯をさげた子ども達のローソク貰いと一体のものであった。
 
 函館市、札幌市、旭川市などの都市の一部地域で、観光協会とか商店街の振興組合とかで主導して、七夕祭りに合わせ、子どもを対象としてローソク貰いを実施している処があるが、かつてのようにローソクを与えるのではなくて、袋菓子などに変わっているということである。

 平成18年8月16日北海道新聞の投書。旭川に来て7ヶ月、40歳女性。「夕方小5の息子に近所の友人から電話…『今晩、ローソク出せ、やるからコンビニ前に集まれ』…息子は友達との打ち合わせ通り、暗くなってきたころリュックを背負って飛び出して行きました。浴衣もちょうちんもなしです。近所の家を数人でまわり、お菓子や花火をいただいて来ました。何もないから『アイスでも買いなさいね』とおこずかいをくれた家もありました…」
 北海道の七夕の今の様子の一断面がうかがえる面白い記事だが、七夕にかこつけた集団による単なる「物貰い」のようで、余り芳しいことではないと思う。

遠軽町西町の七夕飾り(平成18年8月7日)

 遠軽では、西町1丁目の野上通り沿いで、七夕飾りを実施している。まとめ役をしている五十嵐建設での聞き書き(平成17年秋)。「この地区は20軒程のうち、10軒くらいで実施している。そもそもの初めは平成8年頃、五十嵐さんの娘さんが『遠軽って淋しい処だね、何かしようよ』と。それで冬にクリスマスツリーを戸外に飾った。それがだんだん拡がって、平成15年頃には西町以外の南町にも拡がって随分賑やかになっている。
それはさておいて、平成10年に『夏にもしようよ』ということになり、自宅の前に柳の木を立て、七夕飾りとした。たまたま近所の母子が願い事を書いた短冊を持って来て『これを付けさせてください』といって柳の枝につり下げた。

 その翌年から、五十嵐建設が主唱して近所の希望者の面倒をみてやることになる。車で柳の木を運んで来てあげる。もう街の中の川べりでは、柳の伐採はできぬので、1キロ程上流の清川地区の川原から伐り出す。柳を立てる台はコンクリート製の物干竿の台を用意した。七夕飾りの材料は町内の文房具店「旭屋」でセット物(2000円~5000円)を各自求め、投網を切ったり色紙短冊を下げる。提灯や「でんぐり」も下げる。不足分は包装紙を使うこともある。平成16年冬、旭屋が閉店したので、17年の夏は「どうしよう」と困ったが、隣町の上湧別町中湧別の岩井書店で扱っているというので、わざわざ隣町まで行って求めてきて飾った。ただ七夕飾りをするだけで、ローソク貰いはしていない。

 今年(平成18年)8月7日、西町2丁目を歩いてみた。七夕飾りは道路の左右、計11本であった。
 また、同じ遠軽町西町地区で、小学校教諭が「西町子ども会」の会長として十年余、その活動の一部として、夏休み中「ローソク貰い」の行事を実施していたが、退職後は中止になったという事を聞いた。

 現在の北海道の七夕は、(1)七夕飾り、(2)ローソク貰い、(3)両者の複合、の3つの型に分かれるが、いずれも戦後間もなく中断していたものが、子ども会、自治会、商工会、観光協会等の団体主導で、児童の生活指導の一環や、地域の活性化などの掛け声で生まれ出てきたといえる。古いようで案外新しい行事なのだ。こうした行事は、昔言った「お祭り馬鹿」的な人物が中心になって活動していることも判った。従ってその中心人物がいなくなり、後継者がなければ自然消滅するといった面もある。

 平成18年7月上旬、18年ぶりに遠軽町丸瀬布の「いずみや書店」に立ち寄って、昨年の残りの七夕提灯を求めたついでに、店主夫妻に、丸瀬布の七夕の様子をたずねてみた。「昭和の末頃、丸瀬布の天神地区では、住宅街の一本道路の両側の家ごとに七夕飾りがなされていて、とても懐かしい思いがしたものだが…。地区毎のことははっきりしないけれど、多分行なっていないようだ。ただお母さんが子どものために買っていく人や、それから何と言おうか、自分の趣味といったらいいか、そういう感じで飾っている人もいるし…」などと口々に語ってくれた。

 8月の七夕が終わったあと、また丸瀬布の「いずみや書店」へ電話を入れてみる。今年の七夕の様子や如何に。おかみさん曰く「今年は、孫のためにと求めて行った婦人が2人。自分のためにと買って行った未亡人が1人と、たった3人だけでした。去年までは、子どものためにと来店した若いお母さんが大分いたけど、今年はひとりもいないの。さみしいわ。」(2006年8月記)