
今年の冒頭より多忙を極め、そして、3月11日に起きた東日本大震災の甚大な被害状況に、こころを痛め49日まで喪に服し、結局、桜の花びらもじっくり見ることなく春が終わってしまい、初夏へ突入してしまった。
戦争の傷跡のような印象すら拭えない津波被害の惨劇に触れ、これほどまでに大勢の方々が亡くなるという意味、そして被害に遭いながらも、命を繋ぎとめた方の運命の線、ここに必然としてある人の生きる道標があることに気付く。
白梅学徒看護隊も66年前、56名もの少女達の内、生き残った者、亡くなった者と、命の選別が余儀なくされた。戦争と震災の被害は、大きく異なる悲劇である。しかし、大勢が一度に亡くなるという事の意味、その被害の中にある悲劇の差異はあっても、生き残った方々の宿命的な使命というものが、わたしはそこにあると感じている。生き残り、以降何かのために生きるという意義。そこへと自発的に気付くまでに時間は掛かるだろうと感じるが、それでも時間を掛け、死に至るまでにその意義に辿り着いて頂きたいとこころから願っている。生ききるとは、その意義を見つける側面があるからだ。
東日本大震災で感じた様々な視点から、生と死について深く考えていた。日々祈る戦没者への輪廻と、そして、変わらぬ天への陳情。聞き入れて頂けるような魂でなければ、祈りは受け入れて頂けないだろう。3月1日に参拝した伊勢神宮の寂しそうな雰囲気、あの時、もっと意識を傾注しておけばよかったと、今でも後悔している。そう思い、自分で決めた祈りの形で被災地の方々に対しても継続し行って来た。
5月1日に伊勢神宮へ参拝をし、おかげ横丁で小さなお地蔵様を購入し、この日廻ったお参り先でお地蔵様と共に祈りを捧げた。帰宅後は、お地蔵様を神棚に御祀りし、5月27日まで神様の傍で待機をしてもらった。
お地蔵様は、目印である。自力で想いを払拭出来ない戦没者は、祈り人の各々の力だけでは、なかなか旅立つ事は出来ない。亡くなった方々の想いを、この世からきれいに浄化させるために、祈り人は、天の力をお借りするためにお願いするしか方法はないと自負している。
天への今を生きる者の祈りの目印として、少女達のために、わたしはこれまで想いをお地蔵様に託してきた。今回、このお地蔵様で2体目となる。そして、初夏を迎える4月の終わりに予定を組み、白梅之塔へ行くことを決めた。その日は、5月28日。日帰りの慰霊の旅である。
前日には、台風が沖縄に接近しているというニュースが流れていた。この時期には珍しく大型の台風が近づいているというのに、動じないわたしがいた。淡々と持って行くべきものを用意し、バックに詰めていく。今年初めての半年振りの白梅之塔に思いを馳せながら。
「日々祈ってきた祈りは、天が聞き入れて下さっているだろうか。」
旅立ちの前の気がかりの根っこは、この部分だった。そして日帰りの沖縄滞在時間は約8時間。この内、移動と買い物の時間を差し引くと、実質白梅之塔に滞在出来る時間は、たった5時間である。
この5時間の間に、清掃、お参り、献歌を行う事。物理的に大変無理があるのだが、今回の慰霊の旅には、仲間が同行してくれた。ごくごく少人数で結束していた慰霊の行いを、改めて今年2月17日に正式に募集し「白梅慰霊の会」を立ち上げた。そのメンバーが今回、個人的に慰霊に行く事を告げた所、賛同があり二人の方が同行を快く引き受けてくれた。こころある有志である。有り難くお願いをさせて頂いた。
わたしを含め、三人で今回沖縄へ向う事になり、現地で午後3時に、白梅同窓会の会長である中山きくさんとも待ち合わせの約束をさせて頂いた。
半年振りの再会。再会までに、清掃を済ませる事を目標に定め、わたしは一足早く前日の夜に神戸へ向った。
(つづく)