goo blog サービス終了のお知らせ 

【情報の達人】は 【ランキング】⇒【検索の達人】から

「99%のゴミ情報」に踊らされない為に、
【①~⑩】を[コピー&ペースト]でチェック⇒【論述・穴埋め問題】で情報を入手

[ 野坂昭如] 旧制新潟高校に編入。高校の上級生に丸谷才一がいた

2008-07-09 12:40:01 | 13 用語集:①人物一覧   
ポータルサイト 検索の達人 http://www.shirabemono.com/
高大連携情報誌「大学受験ニュース」
調べもの新聞編集室 中村惇夫


野坂昭如

文学



①■■■■(のさか あきゆき、1930年10月10日 - )は日本の作家、歌手、作詞家、政治家。元参議院議員。放送作家としての別名は「阿木由紀夫」、シャンソン歌手としての別名は「クロード野坂」。現在は脳梗塞のリハビリを続けており、『新潮45』に連載中の『女嫌い』は休載していたが、2007年4月号より近況を綴った「だまし庵日記」、毎日新聞にリハビリをメインとした連載をしている。

目次 [非表示]
1 経歴
2 家族・親族
3 放送作家・野坂昭如
4 歌手・野坂昭如
4.1 アルバム
5 作詞家・野坂昭如
6 タレント・野坂昭如
7 自身が出演の有名なCM
8 政治活動
9 著書
10 関連人物
11 脚注
12 外部リンク



[編集] 経歴
内務官僚で新潟県副知事を務めた野坂相如(すけゆき)、ぬいの子として②■奈■県■■市小町に生まれる。父は府立一中、一高、東大を出た秀才であり、内務省都市計画技師として活躍、都市計画の技術者として初めて道府県土木部長(富山県)や副知事になり、戦後NHKラジオの人気番組だった③「■ん■教室」のレギュラーも務め、④『父相如と子ども ■■■■との対話』、『笑わせ屋入門 みんなにモテる人』などの著書がある。祖父は警視庁勤務後、骨董を扱った。兄はジャズ評論家野坂恒如。曽祖父は、身分は不明だが福井藩主松平慶永の家臣だった。野坂の姓は福井県に発するという。母ぬいは熊本から台湾へ渡った山師の長女。[1]

生後半年で神戸の張満谷(はりまや)家の養子となる。野坂はこの時暮らしていた神戸を「故郷」と思っており、現在の住宅を購入するまでは、いつかは神戸に住みたいと言う気持ちがあり、ずっと借家住まいだった。なお、この時代の友人は現在でも当時のあだ名「ハリマン」と呼んでいる。

11歳の時、戸籍謄本を偶然に見て、自分が⑤■子であることを知り、後には妹2人も別々に⑤養■として入る。その後、上の妹を病気で、1945年の神戸大空襲で養父を、下の妹を疎開先の福井県で栄養失調で亡くした。後に福井県で妹を亡くした経験を贖罪のつもりで⑥『■垂るの■』を記した。つまり清太のモデルが彼自身で、節子のモデルは下の妹ということである。妹思いのよい兄に自分を投影することで、実際には「骨と皮になり、成長過程を逆にしたように、最後は首もすわらず、泣声すら出なくなって、ぼくの留守にたった一人で死に、その骨を拾うにも焼けば粉しか残らなかった」[2]妹へのせめてもの⑦■魂を表現した。17歳の時、下宿先の親戚の家で窃盗を働いて多摩少年院東京出張所に送致されるが、実父が保証人となり釈放され、⑧■制■■高校に編入。なお、高校の上級生に⑨■■才一がいた。

旧制高校在学中に⑩■■改革が起き、1949年に⑪■制■■大学に入学するも3日で退学。「多くの同級生が東京の大学へ入り、夏休みに戻って来ても、相手にしてもらえない、後で知ったのだが、酒に溺れて気が狂ったという噂が立っていた」(『赫奕たる逆光』)。上京し果物屋でアルバイトをするが、1950年、⑫■ャ■■ン歌手を志して⑬■■■大学■文科に入学。三木鶏郎事務所で経理として勤務するが、度々計算が合わずクビになる。その後、在学中から放送作家やCMソング作詞家として活躍し、大学は中退。

⑭■■陳平と⑮「ワセダ■退・落■」として新宿の⑯■■文化演芸場で週刊誌漫才をやった事がある。

27歳でテレビ工房の責任者になり、阿木由紀夫の筆名でコントを量産。

また、アルバイトとして、ブルーフィルムを自宅で放映して見せる仕事などもしていた。その体験等をもとに1963年に小説⑰「■■事師たち」で文壇デビュー。猥雑な題材と、独特の饒舌な文体で注目される。また、軽妙なコラム類も多数発表し、一躍、時代の寵児となる。

1967年に『火垂るの墓』、⑱『■■■■ひじき』で直木賞受賞。戦後日本の繁栄を“焼け跡”を通して見つめ、社会の底辺にうごめく、しかし底抜けに明るい民衆を描き、⑲「焼跡■■派」といわれる。

その他『同心円』での吉川英治文学賞受賞、 『我が闘争 こけつまろびつ闇を撃つ』で講談社エッセイ賞受賞、『文壇』およびそれに至る文業で泉鏡花文学賞を受賞。作詞家としては『おもちゃのチャチャチャ』のレコード大賞作詞賞の受賞、放送局初のPRソング『OBCソング』の作詞。

1973年2月21日、編集長を務めていた月刊誌『面白半分』に掲載した『四畳半襖の下張』につき、刑法175条「猥褻文書の販売」違反に問われ、起訴される。1976年4月27日、東京地裁にて有罪判決(罰金刑)。1980年11月に最高裁は上告を棄却し、有罪が確定している。

文壇きっての犬猫好き、酒好きであり、酒に関しては『趣味の雑誌『酒』昭和47年新年特別号』の付録『文壇酒徒番附』において、東方横綱に立原正秋と共に列せられている。ちなみにその他のメンバーには、東方大関三浦哲郎、池波正太郎、西方横綱梶山季之、黒岩重吾、大関吉行淳之介、瀬戸内晴美などがいる。

全共闘を支持し天皇制の廃止を主張するなど強硬な左派として知られたが(ただし野坂は自身の立場について「ノンポリである」としている)、一方では解放同盟を非難する等の一面もあった。何度か展開された青少年向け有害図書規制に対し、時の政権が文化を規制する危険性について指摘し、抵抗の姿勢を見せている。

東京都知事になった青島幸男が当初の政治姿勢を崩し変節したと指摘し、激しく対立することになった。青島の都知事時代に大喧嘩をしその席上で青島に「てめえ(野坂)なんかホームレス以下だ。」と言われたエピソードがある。

映画監督大島渚の結婚30周年パーティーで挨拶を行う予定であったが、当初の進行予定時間より遅れてしまい、待ち時間に大量に飲酒し酩酊してしまった。その後、挨拶を終えると左後ろで野坂の挨拶を聞いていた大島にパンチを食らわし、怒った大島にマイクで殴り返されて掴み合いになる。後に大島が野坂に謝罪の手紙を書き、野坂も謝罪した。

2003年に脳梗塞で倒れて以来、闘病生活を送っていたが、2007年2月6日から毎日新聞朝刊で「七転び八起き」の連載が開始。4年ぶりに執筆活動を再開させる。


[編集] 家族・親族
妻・長女・次女は宝塚歌劇団卒業生[藍葉子(あいようこ)・花影美妃(はなかげ・みき)・愛耀子(あいようこ)]。これは野坂が文壇関係者でも阪田寛夫・矢代静一らと比肩の男性宝塚ヲタクで、藍を嫁にし、生まれた二人の娘もそんな父母に連れられて宝塚に親しむうち歌劇団へ入団してしまったのである。尚、野坂は過日、「ひいきのジェンヌは麻実れい」で、麻実が女優転進後も応援していることを公言。さるテレビ番組で「(妻・二人の娘に続き)俺も性転換して宝塚を受験してみせる」と言うジョークをとばした。
その後長女は退団後、本名の野坂麻央として小説・随筆家として活動している。
兄野坂恒如(故人)はジャズ評論家。

[編集] 放送作家・野坂昭如
本邦のテレビ黎明期において放送作家として活躍していた。放送作家としての筆名は阿木由紀夫。一度だけ『シャボン玉ホリデー』の台本を書いたが、いくつかの歌の曲名と「板がズラッと並んでいる。これがホントのイタズラ」といったつまらない駄洒落を3つ4つ並べただけで全く使い物にならないため、仕方なく青島幸男が書き直したという。

放送作家として活動していた時期は、青島幸男の他、永六輔・大橋巨泉・前田武彦・野末陳平などが同業者として一斉にテレビで活躍していた。このうち、前田以外の各人とはいずれも⑳■■■大学に籍を置いていた時期がある、いわば「同窓」の間柄であった。また、この時期より野坂は黒サングラスを着用していたが、同じように黒サングラスを愛用していた野末と共に「黒メガネ族」と呼ばれていた事がある。


[編集] 歌手・野坂昭如
作家・野坂昭如は、歌手活動もしている。歌手名は「クロード野坂」。『黒の舟歌』『マリリン・モンロー・ノー・リターン』が代表曲。『バージンブルース』は戸川純のカバーでも知られている。また、同題名で藤田敏八監督により映画化もされ、内容は歌とはあまり関係ないが、野坂も「歌を歌う自身の役」で出演している。
永六輔・小沢昭一と中年御三家を名乗り、不定期に舞台に立っている。
独特のダンディズムを持った唄世界には定評があった。
西城秀樹の『YOUNG MAN (Y.M.C.A.)』が大ヒットした時、それに対抗して『YWCA』なるカバー曲を発表。しかしライブ版にもかかわらず歌詞を間違えるわ、歌を女性コーラスに任せっぱなしにするわ、本人はただ喚いているだけなどやりたい放題。後にこの歌がラジオ番組『コサキン』で紹介され、リスナーの爆笑を誘う。
クレイジーケンバンドからリスペクトされており、2000年に発表された彼らのライブアルバム『青山246 深夜族の夜』では野坂自身が登場し、『マリリン・モンロー・ノー・リターン』『バージンブルース』『黒の舟歌』を歌っている(現在は廃盤)。

[編集] アルバム
『躁と鬱』
『分裂唄草子』
『不浄理の唄』
『辻説法』
『絶唱!野坂昭如』
『ザ・平成唱歌集 巻之一』
『ザ・平成唱歌集 巻之二』
など多数。


[編集] 作詞家・野坂昭如
作詞活動の実績もある。特に50年代後半から60年代前半にかけてCMソングを多く作詞した。

『おもちゃのチャチャチャ』(吉岡治補作・越部信義作曲)
『文化放送QRソング』(サウンド・ロゴ、いずみたく作曲)
『ラジオ大阪』(サウンド・ロゴ、いずみたく作曲)
『ハトヤCMソング』(いずみたく作曲)
『ハウス・バーモントカレーの唄』 ハウス食品「バーモントカレー」CMソング(1963年 いずみたく作曲)

[編集] タレント・野坂昭如
『EXテレビ木曜日』(よみうりテレビ)、『ビートたけしのTVタックル』、『朝まで生テレビ』(共にテレビ朝日系)などにテレビ出演。しばしば酩酊した状態で出演することもあった。NHK『人間講座終戦日記を読む』

『オールナイトフジ』(フジテレビ)の生放送スタジオに突然乗り込み、同番組レギュラーで当時人気上昇中だったとんねるずらに説教をし、石橋貴明を軽く平手打ちしたことがある。現行風営法などが成立する以前('80年代半ば)、世相もテレビ番組もエログロナンセンスを極めていた時期であり、浮かれた若い衆に苦言を呈したかったのではと言われている。石橋らは黙って耐えていたが、後日「先生の得意なラグビーで決着をつけましょう」と野坂に提案した。野坂は「あのときは酒に酔って調子に乗っていた。君たちのような若者と争って勝てるはずもない」と、年齢と体力を理由にこれを辞退している(当時、野坂は50代半ば、とんねるずは20代半ば)。この件に関しては、とんねるずのブレーンだった秋元康が仲介に入り、お互いの顔が立った形で手打ちとなったと言われている(ラグビーで決着をつけようという提案自体が、秋元の発案による冗談という意見もある)。

「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」(日本テレビ)内で、「野坂昭如が人生を語る」という主旨のコーナーに出演したが、実際は、ダウンタウンが野坂に対して何発つっこみ等を入れられるかという企画であった。これを知らされていない野坂は、頭を叩くなどした浜田雅功を睨みつけ、頭を叩き返し、頭の叩き合いに発展した。この番組の収録直後も、浜田と野坂の間に不穏な空気がながれていたことを松本人志が後に自身のラジオで語っている。

広末涼子が⑳■■■大学に入学して騒動になった際に出演したTV番組では、「今週の話題」というテーマに対して、「スエヒロが入るなんて⑳■■■も地に落ちた」とフリップに書いて、⑳■■■の学生と共に、広末涼子を批判している。


[編集] 自身が出演の有名なCM
野坂自身が出演し「(野坂)ソ・ソ・ソクラテスかプラトンか。ニ・ニ・ニーチェかサルトルか。みんな悩んで大きくなった。(女性 声のみ)大きいわ、大物よ(野坂)俺もお前も大物だ。」と歌うサントリーウイスキー「ゴールド900」のCMが1975年頃にあった。尚60秒枠の同CMではさらに「シェ・シェ・シェークスピアか西鶴か。ギョ・ギョ・ギョエテかシルレルか。みんな悩んで大きくなった。(以下同じ)」というフレーズが続く。なおCM最後には「とんとんとんがらしの宙返り」というフレーズが入っていた。

このCMの反響は大きく、次のような続編が作られた。上記前作と同様、野坂自身の歌と女性コーラスによるものである。 「(野坂)今日も朝から金庫の掃除。札束はたいて埃を払い、金の延棒虫干しにする。(女性 声のみ)キラキンキラキンキラキン。(野坂)あ~あホントに疲れる。一杯飲もう。」

殺虫剤「ダニアース」のCMでは巨大な畳の被り物をかぶって「死んだ、死んだ、ダニダニダニ♪」と歌っていた。このCMはプランナーに自分から演出を提案するなど、本人の意気込みと思い入れがあったと著書に記している。なおCM中に「ダニさん、すんまへんな」と純粋な大阪弁のイントネーションで被り物をした本人が語るシーンがあり、戦前戦後と神戸・大阪に育った野坂らしく、印象深い。


[編集] 政治活動
1974年7月 第10回参院選に東京地方区から無所属で出馬、落選。
1983年6月 第13回参院選に比例代表区から出馬(第二院クラブ)、初当選。
1983年12月 参議院議員を辞職し、第37回衆院選に田中角栄元首相と同じ新潟3区から出馬したが、落選。
この選挙運動中に長岡市で野坂昭如をナイフで襲おうとした男が、同候補秘書に取り押さえられる。
選挙後、新潟3区の中心は大票田の長岡市ではなく南魚沼郡六日町(現南魚沼市)であるとして六日町に居を構えて活動したが、自宅が熊に襲われるなどの経緯もあり、新潟3区での政治活動を断念。
2001年7月 第19回参院選に比例代表区から出馬(自由連合・落選)。

[編集] 著書
『エロ事師たち』 (1963) - 今村昌平によって映画化された。主演 小沢昭一。英訳も出版されている。
『火垂るの墓』 (1968) 文藝春秋 - 1945年の神戸を舞台に戦災孤児となった兄妹を描いた。1988年、スタジオジブリによってアニメーション映画化された。2005年、テレビドラマ化。
『死屍河原水子草』 (1971) 文藝春秋
『マリリン・モンロー・ノー・リターン』 (1972) 文藝春秋
『一九四五・夏・神戸』 (1977) 中公文庫(絶版)
『科学文明に未来はあるか』 (1983) 岩波新書
『妄想老人日記』(2000) 新潮社
『ウミガメと少年』 (2001) 講談社 - 30 年ぶりの戦争童話集
『文壇』 (2002) 文藝春秋
『八月の風船』 (2002) 日本放送出版協会
『死刑長寿』 (2004) 文藝春秋
『「終戦日記」を読む』 (2005) NHK出版
『最後の林檎』 (2005) 阪急コミュニケーションズ
など


[編集] 関連人物
大島渚
中島らも
小林信彦
阿修羅原
TBS「いのちの響」

[編集] 脚注
[ヘルプ]^ 『赫奕たる逆光』94頁
^ 野坂昭如『五十歩の距離』より

[編集] 外部リンク
野坂昭如オフィシャルホームページ
『五十歩の距離』(天津外国語学院の問題集より)
この「野坂昭如」は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作家・随筆家)に関連した書きかけ項目です。この項目を加筆、訂正等して下さる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。


カテゴリ: 日本の小説家 | 日本の国会議員 | 直木賞受賞者 | 神奈川県の政治家 | 1930年生 | 文人関連のスタブ



最終更新 2008年4月15日 (火) 08:13。 Wikipedia®



















ポータルサイト 検索の達人 http://www.shirabemono.com/
高大連携情報誌「大学受験ニュース」
調べもの新聞編集室 中村惇夫


野坂昭如

文学

ポータル
各国の文学
記事総覧
出版社・文芸雑誌
文学賞
作家
詩人・小説家
その他作家

野坂 昭如(のさか あきゆき、1930年10月10日 - )は日本の作家、歌手、作詞家、政治家。元参議院議員。放送作家としての別名は「阿木由紀夫」、シャンソン歌手としての別名は「クロード野坂」。現在は脳梗塞のリハビリを続けており、『新潮45』に連載中の『女嫌い』は休載していたが、2007年4月号より近況を綴った「だまし庵日記」、毎日新聞にリハビリをメインとした連載をしている。



[編集] 経歴
内務官僚で新潟県副知事を務めた野坂相如(すけゆき)、ぬいの子として神奈川県鎌倉市小町に生まれる。父は府立一中、一高、東大を出た秀才であり、内務省都市計画技師として活躍、都市計画の技術者として初めて道府県土木部長(富山県)や副知事になり、戦後NHKラジオの人気番組だった「とんち教室」のレギュラーも務め、『父相如と子ども 野坂昭如との対話』、『笑わせ屋入門 みんなにモテる人』などの著書がある。祖父は警視庁勤務後、骨董を扱った。兄はジャズ評論家野坂恒如。曽祖父は、身分は不明だが福井藩主松平慶永の家臣だった。野坂の姓は福井県に発するという。母ぬいは熊本から台湾へ渡った山師の長女。[1]

生後半年で神戸の張満谷(はりまや)家の養子となる。野坂はこの時暮らしていた神戸を「故郷」と思っており、現在の住宅を購入するまでは、いつかは神戸に住みたいと言う気持ちがあり、ずっと借家住まいだった。なお、この時代の友人は現在でも当時のあだ名「ハリマン」と呼んでいる。

11歳の時、戸籍謄本を偶然に見て、自分が養子であることを知り、後には妹2人も別々に養子として入る。その後、上の妹を病気で、1945年の神戸大空襲で養父を、下の妹を疎開先の福井県で栄養失調で亡くした。後に福井県で妹を亡くした経験を贖罪のつもりで『火垂るの墓』を記した。つまり清太のモデルが彼自身で、節子のモデルは下の妹ということである。妹思いのよい兄に自分を投影することで、実際には「骨と皮になり、成長過程を逆にしたように、最後は首もすわらず、泣声すら出なくなって、ぼくの留守にたった一人で死に、その骨を拾うにも焼けば粉しか残らなかった」[2]妹へのせめてもの鎮魂を表現した。17歳の時、下宿先の親戚の家で窃盗を働いて多摩少年院東京出張所に送致されるが、実父が保証人となり釈放され、旧制新潟高校に編入。なお、高校の上級生に丸谷才一がいた。

旧制高校在学中に学制改革が起き、1949年に新制新潟大学に入学するも3日で退学。「多くの同級生が東京の大学へ入り、夏休みに戻って来ても、相手にしてもらえない、後で知ったのだが、酒に溺れて気が狂ったという噂が立っていた」(『赫奕たる逆光』)。上京し果物屋でアルバイトをするが、1950年、シャンソン歌手を志して早稲田大学仏文科に入学。三木鶏郎事務所で経理として勤務するが、度々計算が合わずクビになる。その後、在学中から放送作家やCMソング作詞家として活躍し、大学は中退。

野末陳平と「ワセダ中退・落第」として新宿の松竹文化演芸場で週刊誌漫才をやった事がある。

27歳でテレビ工房の責任者になり、阿木由紀夫の筆名でコントを量産。

また、アルバイトとして、ブルーフィルムを自宅で放映して見せる仕事などもしていた。その体験等をもとに1963年に小説「エロ事師たち」で文壇デビュー。猥雑な題材と、独特の饒舌な文体で注目される。また、軽妙なコラム類も多数発表し、一躍、時代の寵児となる。

1967年に『火垂るの墓』、『アメリカひじき』で直木賞受賞。戦後日本の繁栄を“焼け跡”を通して見つめ、社会の底辺にうごめく、しかし底抜けに明るい民衆を描き、「焼跡闇市派」といわれる。

その他『同心円』での吉川英治文学賞受賞、 『我が闘争 こけつまろびつ闇を撃つ』で講談社エッセイ賞受賞、『文壇』およびそれに至る文業で泉鏡花文学賞を受賞。作詞家としては『おもちゃのチャチャチャ』のレコード大賞作詞賞の受賞、放送局初のPRソング『OBCソング』の作詞。

1973年2月21日、編集長を務めていた月刊誌『面白半分』に掲載した『四畳半襖の下張』につき、刑法175条「猥褻文書の販売」違反に問われ、起訴される。1976年4月27日、東京地裁にて有罪判決(罰金刑)。1980年11月に最高裁は上告を棄却し、有罪が確定している。

文壇きっての犬猫好き、酒好きであり、酒に関しては『趣味の雑誌『酒』昭和47年新年特別号』の付録『文壇酒徒番附』において、東方横綱に立原正秋と共に列せられている。ちなみにその他のメンバーには、東方大関三浦哲郎、池波正太郎、西方横綱梶山季之、黒岩重吾、大関吉行淳之介、瀬戸内晴美などがいる。

全共闘を支持し天皇制の廃止を主張するなど強硬な左派として知られたが(ただし野坂は自身の立場について「ノンポリである」としている)、一方では解放同盟を非難する等の一面もあった。何度か展開された青少年向け有害図書規制に対し、時の政権が文化を規制する危険性について指摘し、抵抗の姿勢を見せている。

東京都知事になった青島幸男が当初の政治姿勢を崩し変節したと指摘し、激しく対立することになった。青島の都知事時代に大喧嘩をしその席上で青島に「てめえ(野坂)なんかホームレス以下だ。」と言われたエピソードがある。

映画監督大島渚の結婚30周年パーティーで挨拶を行う予定であったが、当初の進行予定時間より遅れてしまい、待ち時間に大量に飲酒し酩酊してしまった。その後、挨拶を終えると左後ろで野坂の挨拶を聞いていた大島にパンチを食らわし、怒った大島にマイクで殴り返されて掴み合いになる。後に大島が野坂に謝罪の手紙を書き、野坂も謝罪した。

2003年に脳梗塞で倒れて以来、闘病生活を送っていたが、2007年2月6日から毎日新聞朝刊で「七転び八起き」の連載が開始。4年ぶりに執筆活動を再開させる。




広末涼子が早稲田大学に入学して騒動になった際に出演したTV番組では、「今週の話題」というテーマに対して、「スエヒロが入るなんて早稲田も地に落ちた」とフリップに書いて、早稲田の学生と共に、広末涼子を批判している。



カテゴリ: 日本の小説家 | 日本の国会議員 | 直木賞受賞者 | 神奈川県の政治家 | 1930年生 | 文人関連のスタブ



最終更新 2008年4月15日 (火) 08:13。 Wikipedia®