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■国神社検定①【■=愛・好・靖・天】
■国神社(■國神社、やすくにじんじゃ)は、東京都千代田区にある神社である。旧称は東京招魂社。東京の九段に鎮座することから、単に九段、九段下[要出典]とも称される。
2008年現在の宮司は、南部利昭。戦前は内務省が人事を、大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍が祭事を統括した[1]。
祭神は近代以降の日本が関係した国内外の事変・戦争において、朝廷側及び日本政府側で戦役に就き戦没した軍人・軍属ら。慰霊・顕彰・崇敬などを目的として祀っている。
単一宗教法人であり、神社本庁には加盟していない東京都知事認証の単立神社(単立宗教法人)である。
桜の名所としても知られる。最重要の祭儀は合祀を行う例祭(旧称:招魂祭)[2] [3]。
集] 祭神
■国神社本殿に祀られている「祭神」は「天皇・朝廷・政府側の立場で命を捧げた」戦没者、英霊(死霊の美称)である。神話に登場する神や天皇などではない。計246万6532柱(2004年10月17日現在)が祀られている。当初は祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていたが、日露戦争(1904-05年)後に新たに「英霊」と称されるようになった。この語は直接的には幕末の藤田東湖の漢詩「文天祥の正気の歌に和す」の「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、とこしえに天地の間にあり」の句が志士に愛唱されていたことに由来する [4]。
本殿での祭神の神座(しんざ、祭神・神体を安置する場所)は、当初は一座であった。戦後に、台湾神宮および台南神社に祀っていた北白川宮能久親王と、蒙彊神社(張家口)に祀っていた北白川宮永久王とを遷座合祀して一座を新たに設けた。従って現在の神座は、皇族の一座とその他一般戦没者の一座の、あわせて二座である。
対象となる人物の国籍については、日本国民及び死亡時に日本国民であった(日本領であった台湾・朝鮮半島などの出身者を含む)者に限られている。
[編集] 施設の概要
摂末社(付属する神社):元宮(もとみや)、鎮霊社
その他施設:遊就館(宝物遺品館)、■国偕行文庫、など
創建建築設計実務者:伊東忠太
敷地面積:93,356平方メートル[5]
交通案内 最寄り駅:東京地下鉄(東京メトロ)半蔵門線・東西線、東京都交通局(都営地下鉄)新宿線、「九段下駅」下車「1番出口」より徒歩1分。
[編集] 社号の由来
現在の社号は、春秋左氏伝』第六巻僖公二十三年秋条の「吾以■国也」(吾以つて国を■んずるなり)を典拠として明治天皇が命名した。■国神社自身は、■國神社(資格は靖の正字であり、「■」の旁の「青」の下部が「円」の、国は正字体)と表記する。
1879年6月16日の「社号改称・社格制定ノ祭文」には「赤き直き真心を以て家を忘れ身を擲(なげう)ちて各(おのおの)も各も死亡(みまかり)にし其(その)高き勲功に依りて大皇国をば安国と知食(しろしめ)すが故に■国神社と改称(あらためとなえ)」 [6]とある。
旧社号の「招魂社」は「在天の神霊を一時招祭するのみなるや聞こえて万世不易神霊厳在の社号としては妥当を失する」[7]可能性があるために廃されたという。ただし社号変更後も「招魂祭」(しょうこんさい)は続けられた。
[編集] 沿革
明治2年6月29日(新暦1869年8月6日)に戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、大村益次郎の献策により「東京招魂社」(とうきょうしょうこんしゃ)として創建された。
1879年に「■国神社」に改称。同時に別格官幣社となった。戦前においては神社行政を総括した内務省が職員の人事権を有し、陸軍省および海軍省によって共同管理される特殊な存在であり、国家神道の象徴として捉えられていた。運営の主導権は財政をになった陸軍省が有していた 。祭主は陸・海軍武官が勤めた[8]。
戦後は政教分離政策の推進により宗教法人となり、日本政府との直接的な関係はないとされている。一方で1961年、遊就館(当時「宝物遺品館」)に展示するBC級戦犯の遺書や顔写真の収集について、厚生省が遺族に出品を依頼、神社に便宜を図っていたことが、2006年7月に発覚[9]。
[編集] 祭神の内訳
祭神は、以下のようになっている。(2004年10月17日現在)
戊辰戦争・明治維新:7751柱
新政府軍側のみ。遊就館の■国の神々の一覧表では「明治維新」のみ。(彰義隊や新撰組を含む)旧幕府軍や奥羽越列藩同盟軍の戦死者は対象外となる。
西南戦争:6971柱
政府軍側のみ、西郷隆盛ら薩摩軍は対象外。
台湾出兵(別名「征台の役」):1130柱
遊就館の■国の神々の一覧表では、「台湾討伐」とある。
壬午事変:14柱[16]
江華島事件:2柱[17]
京城事変:6柱[18]
遊就館の「■国の神々の一覧表」では、壬午事変、江華島事件、京城事変はなぜか一覧表にない。
日清戦争:1万3619柱
義和団事件:1256柱
遊就館の「■国の神々」の一覧表では、「北清事変」とある。
日露戦争:8万8429柱
第一次世界大戦:4850柱
済南事件:185柱
霧社事件
中村大尉事件外19柱[19]
満州事変:1万7176柱
日中戦争:19万1250柱
大東亜戦争:213万3915柱
計:246万6532柱
[編集] 幕末から明治期
戊辰戦争の新政府軍側の戦没者を祀ったことが■国神社の起源だが、幕末の吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎、武市半平太、橋本左内、大村益次郎なども、『維新殉難者』として合祀した。これは、合祀対象の基準を、黒船来航までさかのぼって設けたため。
戊辰戦争で戦った旧幕府軍の兵士や、奥羽越列藩同盟の兵士、新選組や彰義隊などの旧幕臣の戦死者は祀らない。
ただし禁門の変で長州藩勢との戦いで戦死した会津藩兵らは、朝廷(天皇)を守護したとして祀る。
明治維新の功労者でも、その後に反乱を起こし、あるいは反乱に加担した西郷隆盛や江藤新平、前原一誠等は祀られていない。
慶応4年(1868年)2月15日に土佐の隊旗を奪ったフランス人水兵を殺害(堺事件)した土佐藩士のうち、堺の妙国寺で切腹をした11人は祀る。
明治期の軍人では、乃木希典、東郷平八郎、八甲田雪中行軍遭難事件の遭難者などは戦時の死没者でないため祀らない。
[編集] 女性
5万7千余柱を祀る。西南戦争、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争における軍病院、病院船の従軍・救護看護婦などである。沖縄戦での「ひめゆり」「白梅」等の7女学校の生徒、南樺太での真岡郵便電信局事件の女性[20]などを含む。
[編集] 学童
学徒動員中に軍需工場で爆死した学徒。輸送船「対馬丸」で沖縄から鹿児島への学童疎開中に敵潜水艦により撃沈された小学校児童達も祀る。
[編集] 戦後の合祀
シベリア抑留等での死者、戦争終了後に自決した者
いわゆるA級戦犯とされ刑死した者、BC級戦犯として刑死した者。(『昭和殉難者』として祀る)
なお戦後に殉職した自衛官、海上保安官、政府職員、報道人などに関しては祀らない(各県の■国神社では祀る場合がある)。
[編集] 鎮霊社の祭神
1965年7月に筑波藤麿宮司の発案で[21]、拝殿に向かって左奥に「鎮霊社」という小さな社が建てられた。嘉永6(1853)年以降の戦争・事変について、本殿においては合祀対象外となった御霊と、諸外国の戦没者の御霊の二座を祀る。毎朝神職によって御饌祭が奉仕されている。
■国神社では、「鎮霊社の御祭神は奉慰の対象だが、御本殿の御祭神は奉慰顕彰の対象」[22]としており、本殿祭神とは明確に区別している。
[編集] 正式参拝
正式参拝は神道の作法で行われるのが正しい。参集所から参入し、手水を取り、修祓(しゅばつ)を受けて本殿に昇り、玉串を奉げる。その後、二礼二拍手一礼し、退出の時に、御神酒を受け取る。社頭参拝は、鳥居をくぐり、手水を取り、拝殿前で二礼二拍手一礼をする。
なお、首相が参拝する時には、日本国憲法第20条で規定された政教分離(特定の宗教の流儀を実行すると国家がその宗教に援助を与えているとみなされるおそれがある)に配慮して、本殿に昇殿はしてもお祓いも受けず、二礼二拍手一礼も行わない場合がある。
[編集] 桜の名所
1870年開始の靖国神社競馬場(1898年廃止)の周囲に数十本の桜が植えられた [26]。現在では境内は東京都内でも有数の桜の名所となった。そのため毎年3月下旬から4月上旬にかけて多くの花見客で混雑し、屋台も多数出店されている。このように桜が境内に多く植えられるのは、散華した兵士を象徴であるとの指摘もある。
気象庁は境内にある3本のソメイヨシノを、東京都で桜の開花日を決定する標準木として指定している。そのため東京都の“桜の開花宣言”はこの標準木が咲いた時に行われている。
[編集] 歴史
[編集] 年表
<>内は関連事項。
1862年(文久2年)12月:<京都東山の神道葬祭場霊明社(現、霊山)で殉難志士の神葬祭(招魂祭)が初めて有志によって行なわれる。祭神は菊理媛神など3神。>
1868年(慶応4年/明治元年)1月:<戊辰戦争。1869年5月まで>
1868年(慶応4年/明治元年)閏4月20日:東海道先鋒総督府達で、死傷者の一覧作成を命じる
1868年(慶応4年/明治元年)閏4月28日:東海道先鋒総督府達で、招魂祭を行うことを示す
1868年(慶応4年/明治元年)5月10日:<太政官布告で、京都東山に戦死者を祭ること(のちの霊山護国神社)を示す>
1868年(慶応4年/明治元年)5月28日:<行政官達で、戦死者の一覧を神祇官に提出することを命じる>
1868年(慶応4年/明治元年)6月2日:招魂祭。江戸城西丸大広間にて。
1868年(慶応4年/明治元年)7月8日:<神祇官達で、招魂祭を行うことを示す>
1868年(慶応4年/明治元年)7月10日 - 11日:<招魂祭。京都の川東操錬場>
1869年(明治2年)6月12日:軍務官達で、東京招魂社を建てることを示す。
1869年(明治2年)6月29日:東京招魂社、創建。明治天皇は1万石の社領を「永代祭粢料」として与う。
1869年(明治2年)6月:第1回合祀祭。(新規合祀:3588柱)
1870年:競馬開始。
1872年(明治5年)5月10日:本殿、造営。
1874年(明治7年)2月:<台湾出兵>
1874年(明治7年):明治天皇の参拝。以後、天皇の参拝は1975年まで断続的に行われる。
1874年(明治7年)8月:第2回合祀祭(新規合祀:192柱)
1874年(明治7年)11月:第3回合祀祭(新規合祀:16柱)
1875年(明治8年)2月22日:臨時祭
1875年(明治8年)2月:第4回合祀祭(新規合祀:12柱)
1875年(明治8年)7月:第5回合祀祭(新規合祀:1柱)
1876年(明治9年)1月:第6回合祀祭(新規合祀:1柱)
1877年(明治10年)1月:第7回合祀祭(新規合祀:131柱)
1877年(明治10年)2月:<西南戦争>
1877年(明治10年)11月14日:臨時祭
1877年(明治10年)11月:第8回合祀祭(新規合祀:6505柱)
1878年(明治11年)7月:第9回合祀祭(新規合祀:160柱)
1878年(明治11年)11月:第10回合祀祭(新規合祀:4柱)
1879年(明治12年)6月4日:別格官幣社に列格。靖国神社に改称。(太政官達)
1879年(明治12年)6月:第11回合祀祭(新規合祀:266柱)
1882年(明治15年)2月 : 遊就館(世界最古の軍事博物館)、開館。
1882年(明治15年)11月:第12回合祀祭(新規合祀:12柱)
1883年(明治16年)5月:第13回合祀祭(新規合祀:80柱)
1884年(明治17年)11月:第14回合祀祭(新規合祀:47柱)
1885年(明治18年)5月:第15回合祀祭(新規合祀:6柱)
1888年(明治21年)5月:第16回合祀祭(新規合祀:607柱)
1888年(明治21年)11月:第17回合祀祭(新規合祀:18柱)
1889年(明治22年)5月:第18回合祀祭(新規合祀:1460柱)
1889年(明治22年)11月:第19回合祀祭(新規合祀:61柱)
1891年(明治24年)11月:第20回合祀祭(新規合祀:1272柱)
1893年(明治26年)11月:第21回合祀祭(新規合祀:80柱)
1894年(明治27年)8月:<日清戦争。翌年4月まで>
1895年(明治28年)11月17日:臨時大祭
1895年(明治28年)11月:第22回合祀祭(新規合祀:1496柱)
1896年(明治29年)5月6日:臨時大祭
1896年(明治29年)5月:第23回合祀祭(新規合祀:143柱)
1896年(明治29年)11月:第24回合祀祭(新規合祀:97柱)
1898年(明治31年)11月5日:臨時大祭
1898年(明治31年)11月:第25回合祀祭(新規合祀:1万1383柱)
1898年(明治31年):競馬場廃止。
1899年(明治32年)5月:第26回合祀祭(新規合祀:340柱)
1899年(明治32年)11月:第27回合祀祭(新規合祀:83柱)
1900年(明治33年)5月:第28回合祀祭(新規合祀:35柱)
1900年(明治33年)5月:<義和団事変。9月まで>
1901年(明治34年)10月31日:臨時大祭
1901年(明治34年)10月:拝殿、造営。
1901年(明治34年)11月:第29回合祀祭(新規合祀:1282柱)
1904年(明治37年)2月:<日露戦争。翌年9月まで>
1904年(明治37年)5月:第30回合祀祭(新規合祀:89柱)
1905年(明治38年)5月3日:臨時大祭
1905年(明治38年)5月:第31回合祀祭(新規合祀:3万883柱)
1906年(明治39)5月2日 : 臨時大祭
1906年(明治39年)5月:第32回合祀祭(新規合祀:2万9960柱)
1907年(明治40年)5月3日:臨時大祭
1907年(明治40年)5月:第33回合祀祭(新規合祀:2万4657柱)
1908年(明治41年)5月5日:臨時大祭
1908年(明治41年)5月:第34回合祀祭(新規合祀:1943柱)
1909年(明治42年)5月5日:臨時大祭
1909年(明治42年)5月:第35回合祀祭(新規合祀:817柱)
1910年(明治43年)5月5日:臨時大祭
1910年(明治43年)5月:第36回合祀祭(新規合祀:141柱)
1911年(明治44年)5月5日:臨時大祭
1911年(明治44年)5月:第37回合祀祭(新規合祀:631柱、計:11万8499柱)
1914年(大正3年)7月:<第一次世界大戦。1918年11月まで>
1919年(大正8年)5月:鎮座五十年記念祭
1923年(大正12年)9月:<関東大震災>
1931年(昭和6年)3月:福羽家の招魂祠を元宮として境内に移動。
1938年(昭和13年)4月:新招魂斎庭、造営。
1937年(昭和12年)7月7日:<日中戦争。1945年まで>
1941年(昭和16年)12月8日:<太平洋戦争。1945年まで>
1945年(昭和20年)8月15日:<敗戦の詔、日本軍無条件降伏>
1945年(昭和20年)10月:GHQ、靖国神社存続を決定。
1945年(昭和20年)11月19日:臨時大招魂祭
1945年(昭和20年)12月:神道指令
1946年(昭和21年)5月1日:第67回合祀祭(新規合祀:2万6969柱)
1946年(昭和21)9月 : 宗教法人に登記。
1947年(昭和22年):合祀祭(新規合祀:5万9337柱)
1947年(昭和22年)7月13日:初のみたま祭。
1951年(昭和26年)10月18日:戦後初の例大祭。
1952年(昭和27年)4月28日:<サンフランシスコ講和条約発効>
1955年(昭和30年)8月14日:終戦時自決者540柱の慰霊祭
1955年(昭和30年)10月17日:臨時大祭。
1956年(昭和31年):合祀祭(新規合祀:11万2609柱)
1957年(昭和32年):合祀祭(新規合祀:47万10柱)
1958年(昭和33年):合祀祭(新規合祀:21万7536柱)
1959年(昭和34年)4月8日:臨時大祭。
1959年(昭和34年)4月:合祀祭(新規合祀:346柱)※BC級軍事裁判刑死者
1959年(昭和34年)10月4日:合祀祭(北白川宮能久親王・北白川宮永久王)
1959年(昭和34年)10月:合祀祭(新規合祀:479柱)※BC級軍事裁判刑死者
1959年(昭和34年)11月5日:創立90周年記念大祭
1960年(昭和35年)8月15日:アジア・太平洋戦争殉国者顕彰慰霊祭
1964年(昭和39年)8月15日:政府主催の全国戦没者追悼式が行われる。(翌年より、日本武道館で開催)
1965年(昭和40年)7月:鎮霊社を境内に建立
1965年(昭和40年)10月19日:臨時大祭。
1969年(昭和44年)10月19日:創立100周年記念大祭
1972年(昭和47年)3月13日:霊璽簿奉安殿、造営。
1975年(昭和50年)11月21日:天皇による最後の参拝。
1976年(昭和51年)6月22日:「英霊にこたえる会」結成。
1978年(昭和53年)10月17日:合祀祭(新規合祀:14柱)※極東国際軍事裁判刑死者および関連死亡者。この年より靖国神社は「昭和殉難者」との呼称を用いる。
1980年(昭和55年)11月16日:靖国神社奉賛会、設立。
1985年(昭和60年)9月:日露戦役80年慰霊顕彰祭
1989年(平成元年)1月:創立120年記念大祭
1998年(平成10年)12月:靖国神社奉賛会、解散。靖国神社崇敬奉賛会に再組織。
2001年(平成13年)7月18日:同日付の朝日新聞が「大韓民国政府が、靖国神社に合祀されている朝鮮人の位牌の返還を求めている。」と報じた。※しかし、靖国神社にあるのは「霊璽簿」(旧称「祭神簿」。英霊の籠もるもの。)であり、「位牌」は存在しない。
2002年(平成14年)7月13日:現在の「遊就館」、落成。
2004年(平成16年)9月:新参集殿、落成。
2005年(平成17年)1月5日:2004年9月よりウェブサイトが攻撃を受けていると神社が発表した。この攻撃は中華人民共和国ドメインから行われたもので、首相の靖国神社参拝等に反発した中華人民共和国人のネット利用者による行為と考えられている。
2005年(平成17年)6月4日:「北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)」を政府が韓国へ返還する方向で検討に入った、というニュースが報道される。
2005年(平成17年)6月14日:靖国神社に合祀されている中華民国人の遺族ら約50人が、魂を取り戻すための伝統儀式を行うため訪問。神社側は拒否しなかったが、儀式に反対する政治団体の街宣車による抗議行動などのため、遺族らは警察の要請を受け中止した。
2006年(平成18年)10月12日:元宮と鎮霊社の一般参拝を再開。(午前9時~午後4時まで)
2007年(平成18年)5月:青年会議所によって、靖国神社礼賛、大東亜戦争礼賛のDVD「誇り」が制作され、全国の中学校に流されかけた。
2007年(平成19年)7月13日:国会議員が奉納した「みたままつり」の提灯のうち、参議院選挙比例代表の立候補者のものについて、「選挙区が全国であり、公職選挙法に抵触するおそれがある」として撤去することとなった[27]。
[編集] 靖国神社を舞台・モデルにした作品
[編集] 歌謡
「九段の母」(塩まさる、二葉百合子ほか)
「東京だョおっ母さん」(島倉千代子)
[編集] 舞台
「同期の桜」
[編集] 小説
「靖国への帰還」(内田康夫著 講談社刊)
[編集] ドキュメンタリー
映画「靖国」 中国人監督李纓によるドキュメンタリー作品
[編集] 諸外国の国立墓地・戦没者慰霊施設
多くは日本と違い、無宗教の墓苑とされているが、国教やそれに相当するものが存在し、事実上国教による墓苑となっているケースもある。
大韓民国: 国立顕忠院、5・18墓地(光州市)
中華民国: 忠烈祠
中華人民共和国: 八宝山革命公墓
朝鮮民主主義人民共和国: 革命烈士陵(平壌市大城山)、愛国烈士陵(平壌市兄弟山)
インドネシア: カリバタ英雄墓地
アメリカ合衆国: アーリントン国立墓地
ドイツ: ビットブルク墓地(コルメス丘顕彰墓地)、ノイエ・ヴァッヘ(戦没者国立中央追悼施設)、ボン北墓地追悼所、「白バラ」抵抗運動記念碑
フランス: 凱旋門 (ただし、一人の無名戦士をたたえるという扱いになっている。)
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 東京都の神社 | 別格官幣社 | 勅祭社 | 単立神社 | 明治維新 | 日本の軍事 | 慰霊施設 | 靖国問題 | 千代田区
最終更新 2008年4月11日 (金) 07:33。 wikipedia®
■国神社検定①【■=愛・好・靖・天】
■国神社(■國神社、やすくにじんじゃ)は、東京都千代田区にある神社である。旧称は東京招魂社。東京の九段に鎮座することから、単に九段、九段下[要出典]とも称される。
2008年現在の宮司は、南部利昭。戦前は内務省が人事を、大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍が祭事を統括した[1]。
祭神は近代以降の日本が関係した国内外の事変・戦争において、朝廷側及び日本政府側で戦役に就き戦没した軍人・軍属ら。慰霊・顕彰・崇敬などを目的として祀っている。
単一宗教法人であり、神社本庁には加盟していない東京都知事認証の単立神社(単立宗教法人)である。
桜の名所としても知られる。最重要の祭儀は合祀を行う例祭(旧称:招魂祭)[2] [3]。
集] 祭神
■国神社本殿に祀られている「祭神」は「天皇・朝廷・政府側の立場で命を捧げた」戦没者、英霊(死霊の美称)である。神話に登場する神や天皇などではない。計246万6532柱(2004年10月17日現在)が祀られている。当初は祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていたが、日露戦争(1904-05年)後に新たに「英霊」と称されるようになった。この語は直接的には幕末の藤田東湖の漢詩「文天祥の正気の歌に和す」の「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、とこしえに天地の間にあり」の句が志士に愛唱されていたことに由来する [4]。
本殿での祭神の神座(しんざ、祭神・神体を安置する場所)は、当初は一座であった。戦後に、台湾神宮および台南神社に祀っていた北白川宮能久親王と、蒙彊神社(張家口)に祀っていた北白川宮永久王とを遷座合祀して一座を新たに設けた。従って現在の神座は、皇族の一座とその他一般戦没者の一座の、あわせて二座である。
対象となる人物の国籍については、日本国民及び死亡時に日本国民であった(日本領であった台湾・朝鮮半島などの出身者を含む)者に限られている。
[編集] 施設の概要
摂末社(付属する神社):元宮(もとみや)、鎮霊社
その他施設:遊就館(宝物遺品館)、■国偕行文庫、など
創建建築設計実務者:伊東忠太
敷地面積:93,356平方メートル[5]
交通案内 最寄り駅:東京地下鉄(東京メトロ)半蔵門線・東西線、東京都交通局(都営地下鉄)新宿線、「九段下駅」下車「1番出口」より徒歩1分。
[編集] 社号の由来
現在の社号は、春秋左氏伝』第六巻僖公二十三年秋条の「吾以■国也」(吾以つて国を■んずるなり)を典拠として明治天皇が命名した。■国神社自身は、■國神社(資格は靖の正字であり、「■」の旁の「青」の下部が「円」の、国は正字体)と表記する。
1879年6月16日の「社号改称・社格制定ノ祭文」には「赤き直き真心を以て家を忘れ身を擲(なげう)ちて各(おのおの)も各も死亡(みまかり)にし其(その)高き勲功に依りて大皇国をば安国と知食(しろしめ)すが故に■国神社と改称(あらためとなえ)」 [6]とある。
旧社号の「招魂社」は「在天の神霊を一時招祭するのみなるや聞こえて万世不易神霊厳在の社号としては妥当を失する」[7]可能性があるために廃されたという。ただし社号変更後も「招魂祭」(しょうこんさい)は続けられた。
[編集] 沿革
明治2年6月29日(新暦1869年8月6日)に戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、大村益次郎の献策により「東京招魂社」(とうきょうしょうこんしゃ)として創建された。
1879年に「■国神社」に改称。同時に別格官幣社となった。戦前においては神社行政を総括した内務省が職員の人事権を有し、陸軍省および海軍省によって共同管理される特殊な存在であり、国家神道の象徴として捉えられていた。運営の主導権は財政をになった陸軍省が有していた 。祭主は陸・海軍武官が勤めた[8]。
戦後は政教分離政策の推進により宗教法人となり、日本政府との直接的な関係はないとされている。一方で1961年、遊就館(当時「宝物遺品館」)に展示するBC級戦犯の遺書や顔写真の収集について、厚生省が遺族に出品を依頼、神社に便宜を図っていたことが、2006年7月に発覚[9]。
[編集] 祭神の内訳
祭神は、以下のようになっている。(2004年10月17日現在)
戊辰戦争・明治維新:7751柱
新政府軍側のみ。遊就館の■国の神々の一覧表では「明治維新」のみ。(彰義隊や新撰組を含む)旧幕府軍や奥羽越列藩同盟軍の戦死者は対象外となる。
西南戦争:6971柱
政府軍側のみ、西郷隆盛ら薩摩軍は対象外。
台湾出兵(別名「征台の役」):1130柱
遊就館の■国の神々の一覧表では、「台湾討伐」とある。
壬午事変:14柱[16]
江華島事件:2柱[17]
京城事変:6柱[18]
遊就館の「■国の神々の一覧表」では、壬午事変、江華島事件、京城事変はなぜか一覧表にない。
日清戦争:1万3619柱
義和団事件:1256柱
遊就館の「■国の神々」の一覧表では、「北清事変」とある。
日露戦争:8万8429柱
第一次世界大戦:4850柱
済南事件:185柱
霧社事件
中村大尉事件外19柱[19]
満州事変:1万7176柱
日中戦争:19万1250柱
大東亜戦争:213万3915柱
計:246万6532柱
[編集] 幕末から明治期
戊辰戦争の新政府軍側の戦没者を祀ったことが■国神社の起源だが、幕末の吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎、武市半平太、橋本左内、大村益次郎なども、『維新殉難者』として合祀した。これは、合祀対象の基準を、黒船来航までさかのぼって設けたため。
戊辰戦争で戦った旧幕府軍の兵士や、奥羽越列藩同盟の兵士、新選組や彰義隊などの旧幕臣の戦死者は祀らない。
ただし禁門の変で長州藩勢との戦いで戦死した会津藩兵らは、朝廷(天皇)を守護したとして祀る。
明治維新の功労者でも、その後に反乱を起こし、あるいは反乱に加担した西郷隆盛や江藤新平、前原一誠等は祀られていない。
慶応4年(1868年)2月15日に土佐の隊旗を奪ったフランス人水兵を殺害(堺事件)した土佐藩士のうち、堺の妙国寺で切腹をした11人は祀る。
明治期の軍人では、乃木希典、東郷平八郎、八甲田雪中行軍遭難事件の遭難者などは戦時の死没者でないため祀らない。
[編集] 女性
5万7千余柱を祀る。西南戦争、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争における軍病院、病院船の従軍・救護看護婦などである。沖縄戦での「ひめゆり」「白梅」等の7女学校の生徒、南樺太での真岡郵便電信局事件の女性[20]などを含む。
[編集] 学童
学徒動員中に軍需工場で爆死した学徒。輸送船「対馬丸」で沖縄から鹿児島への学童疎開中に敵潜水艦により撃沈された小学校児童達も祀る。
[編集] 戦後の合祀
シベリア抑留等での死者、戦争終了後に自決した者
いわゆるA級戦犯とされ刑死した者、BC級戦犯として刑死した者。(『昭和殉難者』として祀る)
なお戦後に殉職した自衛官、海上保安官、政府職員、報道人などに関しては祀らない(各県の■国神社では祀る場合がある)。
[編集] 鎮霊社の祭神
1965年7月に筑波藤麿宮司の発案で[21]、拝殿に向かって左奥に「鎮霊社」という小さな社が建てられた。嘉永6(1853)年以降の戦争・事変について、本殿においては合祀対象外となった御霊と、諸外国の戦没者の御霊の二座を祀る。毎朝神職によって御饌祭が奉仕されている。
■国神社では、「鎮霊社の御祭神は奉慰の対象だが、御本殿の御祭神は奉慰顕彰の対象」[22]としており、本殿祭神とは明確に区別している。
[編集] 正式参拝
正式参拝は神道の作法で行われるのが正しい。参集所から参入し、手水を取り、修祓(しゅばつ)を受けて本殿に昇り、玉串を奉げる。その後、二礼二拍手一礼し、退出の時に、御神酒を受け取る。社頭参拝は、鳥居をくぐり、手水を取り、拝殿前で二礼二拍手一礼をする。
なお、首相が参拝する時には、日本国憲法第20条で規定された政教分離(特定の宗教の流儀を実行すると国家がその宗教に援助を与えているとみなされるおそれがある)に配慮して、本殿に昇殿はしてもお祓いも受けず、二礼二拍手一礼も行わない場合がある。
[編集] 桜の名所
1870年開始の靖国神社競馬場(1898年廃止)の周囲に数十本の桜が植えられた [26]。現在では境内は東京都内でも有数の桜の名所となった。そのため毎年3月下旬から4月上旬にかけて多くの花見客で混雑し、屋台も多数出店されている。このように桜が境内に多く植えられるのは、散華した兵士を象徴であるとの指摘もある。
気象庁は境内にある3本のソメイヨシノを、東京都で桜の開花日を決定する標準木として指定している。そのため東京都の“桜の開花宣言”はこの標準木が咲いた時に行われている。
[編集] 歴史
[編集] 年表
<>内は関連事項。
1862年(文久2年)12月:<京都東山の神道葬祭場霊明社(現、霊山)で殉難志士の神葬祭(招魂祭)が初めて有志によって行なわれる。祭神は菊理媛神など3神。>
1868年(慶応4年/明治元年)1月:<戊辰戦争。1869年5月まで>
1868年(慶応4年/明治元年)閏4月20日:東海道先鋒総督府達で、死傷者の一覧作成を命じる
1868年(慶応4年/明治元年)閏4月28日:東海道先鋒総督府達で、招魂祭を行うことを示す
1868年(慶応4年/明治元年)5月10日:<太政官布告で、京都東山に戦死者を祭ること(のちの霊山護国神社)を示す>
1868年(慶応4年/明治元年)5月28日:<行政官達で、戦死者の一覧を神祇官に提出することを命じる>
1868年(慶応4年/明治元年)6月2日:招魂祭。江戸城西丸大広間にて。
1868年(慶応4年/明治元年)7月8日:<神祇官達で、招魂祭を行うことを示す>
1868年(慶応4年/明治元年)7月10日 - 11日:<招魂祭。京都の川東操錬場>
1869年(明治2年)6月12日:軍務官達で、東京招魂社を建てることを示す。
1869年(明治2年)6月29日:東京招魂社、創建。明治天皇は1万石の社領を「永代祭粢料」として与う。
1869年(明治2年)6月:第1回合祀祭。(新規合祀:3588柱)
1870年:競馬開始。
1872年(明治5年)5月10日:本殿、造営。
1874年(明治7年)2月:<台湾出兵>
1874年(明治7年):明治天皇の参拝。以後、天皇の参拝は1975年まで断続的に行われる。
1874年(明治7年)8月:第2回合祀祭(新規合祀:192柱)
1874年(明治7年)11月:第3回合祀祭(新規合祀:16柱)
1875年(明治8年)2月22日:臨時祭
1875年(明治8年)2月:第4回合祀祭(新規合祀:12柱)
1875年(明治8年)7月:第5回合祀祭(新規合祀:1柱)
1876年(明治9年)1月:第6回合祀祭(新規合祀:1柱)
1877年(明治10年)1月:第7回合祀祭(新規合祀:131柱)
1877年(明治10年)2月:<西南戦争>
1877年(明治10年)11月14日:臨時祭
1877年(明治10年)11月:第8回合祀祭(新規合祀:6505柱)
1878年(明治11年)7月:第9回合祀祭(新規合祀:160柱)
1878年(明治11年)11月:第10回合祀祭(新規合祀:4柱)
1879年(明治12年)6月4日:別格官幣社に列格。靖国神社に改称。(太政官達)
1879年(明治12年)6月:第11回合祀祭(新規合祀:266柱)
1882年(明治15年)2月 : 遊就館(世界最古の軍事博物館)、開館。
1882年(明治15年)11月:第12回合祀祭(新規合祀:12柱)
1883年(明治16年)5月:第13回合祀祭(新規合祀:80柱)
1884年(明治17年)11月:第14回合祀祭(新規合祀:47柱)
1885年(明治18年)5月:第15回合祀祭(新規合祀:6柱)
1888年(明治21年)5月:第16回合祀祭(新規合祀:607柱)
1888年(明治21年)11月:第17回合祀祭(新規合祀:18柱)
1889年(明治22年)5月:第18回合祀祭(新規合祀:1460柱)
1889年(明治22年)11月:第19回合祀祭(新規合祀:61柱)
1891年(明治24年)11月:第20回合祀祭(新規合祀:1272柱)
1893年(明治26年)11月:第21回合祀祭(新規合祀:80柱)
1894年(明治27年)8月:<日清戦争。翌年4月まで>
1895年(明治28年)11月17日:臨時大祭
1895年(明治28年)11月:第22回合祀祭(新規合祀:1496柱)
1896年(明治29年)5月6日:臨時大祭
1896年(明治29年)5月:第23回合祀祭(新規合祀:143柱)
1896年(明治29年)11月:第24回合祀祭(新規合祀:97柱)
1898年(明治31年)11月5日:臨時大祭
1898年(明治31年)11月:第25回合祀祭(新規合祀:1万1383柱)
1898年(明治31年):競馬場廃止。
1899年(明治32年)5月:第26回合祀祭(新規合祀:340柱)
1899年(明治32年)11月:第27回合祀祭(新規合祀:83柱)
1900年(明治33年)5月:第28回合祀祭(新規合祀:35柱)
1900年(明治33年)5月:<義和団事変。9月まで>
1901年(明治34年)10月31日:臨時大祭
1901年(明治34年)10月:拝殿、造営。
1901年(明治34年)11月:第29回合祀祭(新規合祀:1282柱)
1904年(明治37年)2月:<日露戦争。翌年9月まで>
1904年(明治37年)5月:第30回合祀祭(新規合祀:89柱)
1905年(明治38年)5月3日:臨時大祭
1905年(明治38年)5月:第31回合祀祭(新規合祀:3万883柱)
1906年(明治39)5月2日 : 臨時大祭
1906年(明治39年)5月:第32回合祀祭(新規合祀:2万9960柱)
1907年(明治40年)5月3日:臨時大祭
1907年(明治40年)5月:第33回合祀祭(新規合祀:2万4657柱)
1908年(明治41年)5月5日:臨時大祭
1908年(明治41年)5月:第34回合祀祭(新規合祀:1943柱)
1909年(明治42年)5月5日:臨時大祭
1909年(明治42年)5月:第35回合祀祭(新規合祀:817柱)
1910年(明治43年)5月5日:臨時大祭
1910年(明治43年)5月:第36回合祀祭(新規合祀:141柱)
1911年(明治44年)5月5日:臨時大祭
1911年(明治44年)5月:第37回合祀祭(新規合祀:631柱、計:11万8499柱)
1914年(大正3年)7月:<第一次世界大戦。1918年11月まで>
1919年(大正8年)5月:鎮座五十年記念祭
1923年(大正12年)9月:<関東大震災>
1931年(昭和6年)3月:福羽家の招魂祠を元宮として境内に移動。
1938年(昭和13年)4月:新招魂斎庭、造営。
1937年(昭和12年)7月7日:<日中戦争。1945年まで>
1941年(昭和16年)12月8日:<太平洋戦争。1945年まで>
1945年(昭和20年)8月15日:<敗戦の詔、日本軍無条件降伏>
1945年(昭和20年)10月:GHQ、靖国神社存続を決定。
1945年(昭和20年)11月19日:臨時大招魂祭
1945年(昭和20年)12月:神道指令
1946年(昭和21年)5月1日:第67回合祀祭(新規合祀:2万6969柱)
1946年(昭和21)9月 : 宗教法人に登記。
1947年(昭和22年):合祀祭(新規合祀:5万9337柱)
1947年(昭和22年)7月13日:初のみたま祭。
1951年(昭和26年)10月18日:戦後初の例大祭。
1952年(昭和27年)4月28日:<サンフランシスコ講和条約発効>
1955年(昭和30年)8月14日:終戦時自決者540柱の慰霊祭
1955年(昭和30年)10月17日:臨時大祭。
1956年(昭和31年):合祀祭(新規合祀:11万2609柱)
1957年(昭和32年):合祀祭(新規合祀:47万10柱)
1958年(昭和33年):合祀祭(新規合祀:21万7536柱)
1959年(昭和34年)4月8日:臨時大祭。
1959年(昭和34年)4月:合祀祭(新規合祀:346柱)※BC級軍事裁判刑死者
1959年(昭和34年)10月4日:合祀祭(北白川宮能久親王・北白川宮永久王)
1959年(昭和34年)10月:合祀祭(新規合祀:479柱)※BC級軍事裁判刑死者
1959年(昭和34年)11月5日:創立90周年記念大祭
1960年(昭和35年)8月15日:アジア・太平洋戦争殉国者顕彰慰霊祭
1964年(昭和39年)8月15日:政府主催の全国戦没者追悼式が行われる。(翌年より、日本武道館で開催)
1965年(昭和40年)7月:鎮霊社を境内に建立
1965年(昭和40年)10月19日:臨時大祭。
1969年(昭和44年)10月19日:創立100周年記念大祭
1972年(昭和47年)3月13日:霊璽簿奉安殿、造営。
1975年(昭和50年)11月21日:天皇による最後の参拝。
1976年(昭和51年)6月22日:「英霊にこたえる会」結成。
1978年(昭和53年)10月17日:合祀祭(新規合祀:14柱)※極東国際軍事裁判刑死者および関連死亡者。この年より靖国神社は「昭和殉難者」との呼称を用いる。
1980年(昭和55年)11月16日:靖国神社奉賛会、設立。
1985年(昭和60年)9月:日露戦役80年慰霊顕彰祭
1989年(平成元年)1月:創立120年記念大祭
1998年(平成10年)12月:靖国神社奉賛会、解散。靖国神社崇敬奉賛会に再組織。
2001年(平成13年)7月18日:同日付の朝日新聞が「大韓民国政府が、靖国神社に合祀されている朝鮮人の位牌の返還を求めている。」と報じた。※しかし、靖国神社にあるのは「霊璽簿」(旧称「祭神簿」。英霊の籠もるもの。)であり、「位牌」は存在しない。
2002年(平成14年)7月13日:現在の「遊就館」、落成。
2004年(平成16年)9月:新参集殿、落成。
2005年(平成17年)1月5日:2004年9月よりウェブサイトが攻撃を受けていると神社が発表した。この攻撃は中華人民共和国ドメインから行われたもので、首相の靖国神社参拝等に反発した中華人民共和国人のネット利用者による行為と考えられている。
2005年(平成17年)6月4日:「北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)」を政府が韓国へ返還する方向で検討に入った、というニュースが報道される。
2005年(平成17年)6月14日:靖国神社に合祀されている中華民国人の遺族ら約50人が、魂を取り戻すための伝統儀式を行うため訪問。神社側は拒否しなかったが、儀式に反対する政治団体の街宣車による抗議行動などのため、遺族らは警察の要請を受け中止した。
2006年(平成18年)10月12日:元宮と鎮霊社の一般参拝を再開。(午前9時~午後4時まで)
2007年(平成18年)5月:青年会議所によって、靖国神社礼賛、大東亜戦争礼賛のDVD「誇り」が制作され、全国の中学校に流されかけた。
2007年(平成19年)7月13日:国会議員が奉納した「みたままつり」の提灯のうち、参議院選挙比例代表の立候補者のものについて、「選挙区が全国であり、公職選挙法に抵触するおそれがある」として撤去することとなった[27]。
[編集] 靖国神社を舞台・モデルにした作品
[編集] 歌謡
「九段の母」(塩まさる、二葉百合子ほか)
「東京だョおっ母さん」(島倉千代子)
[編集] 舞台
「同期の桜」
[編集] 小説
「靖国への帰還」(内田康夫著 講談社刊)
[編集] ドキュメンタリー
映画「靖国」 中国人監督李纓によるドキュメンタリー作品
[編集] 諸外国の国立墓地・戦没者慰霊施設
多くは日本と違い、無宗教の墓苑とされているが、国教やそれに相当するものが存在し、事実上国教による墓苑となっているケースもある。
大韓民国: 国立顕忠院、5・18墓地(光州市)
中華民国: 忠烈祠
中華人民共和国: 八宝山革命公墓
朝鮮民主主義人民共和国: 革命烈士陵(平壌市大城山)、愛国烈士陵(平壌市兄弟山)
インドネシア: カリバタ英雄墓地
アメリカ合衆国: アーリントン国立墓地
ドイツ: ビットブルク墓地(コルメス丘顕彰墓地)、ノイエ・ヴァッヘ(戦没者国立中央追悼施設)、ボン北墓地追悼所、「白バラ」抵抗運動記念碑
フランス: 凱旋門 (ただし、一人の無名戦士をたたえるという扱いになっている。)
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