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【天野貞祐】=5300字⇔4924字  2010-2-27

2010-02-27 10:35:57 | Weblog
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【天野貞祐】=5300字⇔4924字  2010-2-27

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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天野 貞祐(あまの ていゆう、1884年9月30日 - 1980年3月6日)は、大正・昭和期の日本の哲学者・教育者・文学博士。京都帝国大学名誉教授。第二次世界大戦後は第一高等学校校長・文部大臣(第3次吉田内閣)を務めた後に獨協大学を創立した。文化功労者。

目次 [非表示]
1 来歴
2 補注
3 参考文献
4 関連項目
5 外部リンク


来歴 [編集]
神奈川県津久井郡鳥屋村(現在の相模原市)の豪農の出身、父・藤三は自由民権運動に参加して後に村長・衆議院議員を務めた。ちなみに実兄は尾崎行雄の妹婿にあたる。父は教育熱心な人物であり、天野も将来医師になる事を嘱望されて13歳の時に獨逸学協会学校中学校(旧制中学、獨協学園の前身)に入学した。そこで野球と出会い、野球部の選手として活躍したが足を痛めて退部、更に追い討ちをかけるように母をチフスで失い、4年生の時に退学してしまう。

だが、21歳の時に内村鑑三の『後世への最大遺物』を読んで、自分の人生を見つめなおした天野は獨協の5年生として復学して翌年には首席で卒業した。当時の獨協の校長であった大村仁太郎に憧れて教育者へと志望を転向して第一高等学校に入学、内村から直接教えを受け、また九鬼周造・岩下壮一とは親友になった。その後京都帝国大学文科大学・同大学院に進学して桑木厳翼らの下でカント哲学を専攻した。在学中にカントの『プロレゴーメナ』(『哲学序説』)の日本語訳に取り組み、東亜堂後に岩波書店から刊行された。

1913年、『カント学者としてのフィヒテ』を発表、同年には西田幾多郎の推挙で智山派勧学院大学講師となり、翌年には第七高等学校のドイツ語教師として赴任した。更に西田幾多郎らの推挙を受けて学習院教授、続いて1926年からは桑木厳翼・朝永三十郎の推挙によって母校・京都帝国大学助教授を務める。この間1922年から翌年にかけてドイツのハイデルベルク大学に留学して哲学研究に打ち込み、1930年にはイマヌエル・カントの代表作『純粋理性批判』を初めて日本語訳する事に成功した。

1931年、京都帝国大学文学部教授となった天野であったが、1937年に出した『道徳の感覚』が台頭する軍部と軍国主義に対する批判が含まれていたことから、軍部や右翼、マスコミが天野を糾弾、自主絶版という事で不問に付されたものの、その後も『学生に与ふる書』(1939年)を著すなど、時流に流される世の中に警鐘を発し続けた。

1944年、京都帝国大学を定年退職した天野は甲南高校(現在の甲南大学)校長在任中に終戦を迎えた。翌年天野は母校・第一高等学校校長に就任、その後は安部磯雄の急死にともなって日本学生野球協会会長・日本育英会会長を歴任、1950年には吉田茂に乞われて2年間文部大臣を務めた。ただし、後述のように、当時は再軍備と逆コースを巡って揺れていた時期と重なり、戦前と同様に時流に流されない教育という自身の信念に基づく教育行政を推進しようとした事が、予想もしない政治問題を惹き起こし、結果的には天野にとっては不本意な時期となる。

大臣退任直後、天野は青春時代を過ごした母校・獨逸学協会学校の後身である獨協学園が戦後日本の国家スタイルがドイツ型からアメリカ型に移行するに伴って衰微している事を知ると、母校再建のために校長就任要請を受諾して、自らが信条とする「学問を通じての人間形成」の精神に則った「獨協再建」に尽くす事になる。やがて、遅ればせながら獨協にも大学を創設すべきだと言う声に支えられて1964年に獨協大学を創立して初代学長に就任、続いて国立教育会館の初代館長に就任するのである。

だが、戦後の日本は「オールド・リベラリスト」の天野にとっては意に沿うことばかりではなかった[1]。一高校長時代には大学制度改革に際して「東京帝国大学(東京大学)を一般の大学と同じにしてしまった場合には、東大を頂点とした大学の格付けが生まれて受験競争が発生してしまう」として学部を置かない大学院大学にする事を提案したものの退けられ[2]、文部大臣時代には戦後の人心の荒廃と受験競争の激化を憂慮して1953年に『国民実践要領』を作成[3]して道徳教育の必要性を唱えたところ、日本社会党などの野党や日教組から「反動的な修身教育の復活だ」と糾弾された[4]。獨協大学創立にはこうした時流に対する天野の抵抗の意味もあったとされている。だが、やがて学生運動の嵐が獨協大学にも及ぶようになると、学生達から天野の方針を批判する声が高まってきた。これを受けて1969年、天野は学長退任に追い込まれた。

その後も獨協学園の学園長として学校運営に関わる一方で、1973年には教育面で勲一等旭日大綬章を、学生野球の面で野球殿堂(特別表彰)が贈られた。1980年に96歳で死去した時には従二位と銀杯一組が贈られている。

墓は尊敬する大村仁太郎の眠る雑司ヶ谷霊園と故郷の天野家の墓に分骨されて、後に妻のタマ(1990年に102歳で死去)も同じようにして葬られた。

補注 [編集]
^ これは、獨協学園に対しても言えることで、戦後の1947年に民主化政策に則して「独立協和」を略したものとする「独協」に校名表記を改めたが、6年後に保守的なOBらの反発で元に戻される事になった。この時、再改称に反対した少数派の中に校長の天野がいた。天野は古い戦前の日本には戻りえないこと、国家との過度のつながりが学校そのものの経営危機を招いた原因であることから、その再出発の証として「独協」の名称に拘っていたのである。そのため、再改称後も天野は「獨協」という字は用いず、終生「独協」と表記した。
^ しかも、東京大学側は一高の統合を画策し、天野の抵抗にも関わらず、1950年に統合されることとなる。
^ ただし、実際に作成したのは高坂正顕・西谷啓治・鈴木成高であり、天野はこれをまとめたに過ぎない。3名はいずれも西田幾多郎の系統をひく京都学派の中心的存在であったが、作成当時は公職追放中であったために極秘に執筆された事情があり、それが公表された場合の反響を考慮して、天野の単独著作の体裁を取ったとされている。
^ 天野は戦前の国家のみを重んじて個人の尊厳を踏みにじった軍国主義的な愛国心は強く否定したが、同時に戦後の個人のみを重んじて国家を省みない愛国心否定論に対しても強く反発した。天野は国家を自己存在の母胎と自覚して、自己の使命・理想に邁進させるのが愛国心の本来の役目であるとして、その代表的愛国者として内村鑑三・夏目漱石・西田幾多郎・福澤諭吉などを挙げている。なお、1950年には公立学校での日の丸・君が代を国旗・国歌として掲揚及び斉唱を最初に命じた天野通達を出している。
参考文献 [編集]
『天野貞祐全集』全9巻 日本図書センター 1999年
蝦名賢造『天野貞祐伝』西田書店 1987年 ISBN 4888660654
新宮譲治『獨逸学協会学校の研究』校倉書房 2007年 ISBN 4751738405
唐沢富太郎編著『図説 教育人物事典 日本教育史のなかの教育者群像 下』ぎょうせい 1984年
『天野貞祐 わたしの生涯から』日本図書センター[人間の記録 152] 2004年
関連項目 [編集]
キリスト教
無教会主義
内村鑑三
森戸辰男
外部リンク [編集]
天野貞祐記念室
先代:
高瀬莊太郎 文部大臣
第72代:1950年 - 1952年 次代:
岡野清豪
[表示]表・話・編・歴 歴代の文部科学大臣(文部大臣・科学技術庁長官)

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カテゴリ: 日本の教育者 | 日本の哲学者 | 日本の閣僚経験者 | 日本の野球殿堂 | 文化功労者 | 神奈川県出身の人物 | 1884年生 | 1980年没


最終更新 2010年2月19日 (金) 03:12










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