goo blog サービス終了のお知らせ 

【情報の達人】は 【ランキング】⇒【検索の達人】から

「99%のゴミ情報」に踊らされない為に、
【①~⑩】を[コピー&ペースト]でチェック⇒【論述・穴埋め問題】で情報を入手

東国原英夫:専大経済卒、早大二文卒,早大政経中退。

2008-07-05 18:46:57 | 13 用語集:①人物一覧   
ポータルサイト 検索の達人 http://www.shirabemono.com/

東国原英夫

そのまんま東はこの項目へ転送されています。二代目そのまんま東についてはゾマホン・ルフィンをご覧ください。
このページのノートに、このページに関する質問があります。
質問の要約:
大学名の記載に対する編集合戦について
東国原英夫氏に対して一方的な偏見と見られる記事の記載について

非公開の個人情報、著名な活動を行っていない親族についての記述、特に存命人物に対する名誉棄損や侮辱は速やかに除去願います。詳しくは存命人物の伝記や削除の方針を参照してください。

東国原 英夫(ひがしこくばる ひでお、本名:同じ、1957年(昭和32年)9月16日 - )は、日本の政治家、知事(宮崎県知事・第17代)。 学歴は専修大学経済学部経済学科卒業、早稲田大学第二文学部卒業、早稲田大学政治経済学部中退。元お笑いタレント、 ビートたけし率いる芸人集団たけし軍団の一員でビートたけしの最初の弟子。俳優、作家。タレント時代の芸名は「そのまんま東(そのまんま ひがし)」「東英夫(ひがし ひでお)」。

宮崎県知事  東国原 英夫 生年月日 1957年(昭和32年)9月16日
出身地 宮崎県都城市
出身校 専修大学経済学部経済学科卒業
早稲田大学第二文学部卒業
早稲田大学政治経済学部中退
学位 経済学士
前職 タレント
世襲の有無 無
就任年月日 2007年(平成19年)1月23日
退任年月日 現職
当選回数 1回
所属(推薦)党派 無所属
ウェブサイト そのまんま東オフィシャルサイト

エフエム宮崎の公開録音のゲストとして出演した東国原英夫(2007年12月)目次 [非表示]
1 略歴
2 タレント“そのまんま東”として
2.1 作家活動
2.2 不祥事
3 政治の世界へ
4 知事「東国原英夫」として
5 人物エピソード
6 出演した番組など
6.1 タレント時代
6.2 知事就任後
7 著書
7.1 「そのまんま東」名義
7.2 「東国原英夫」名義
8 関連項目
9 外部リンク
10 脚注



[編集] 略歴
1957年(昭和32年)
9月16日:鹿児島県末吉町(現曽於市)にて出生。父は西村英次。母は西村の愛人タミ。後に都城市に移転。姉がいる。
1967年(昭和42年)
両親が離婚。母方の姓となる(その後、母が再婚し現在の「東国原英夫」となる)。
1976年(昭和51年)
3月:宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校全日制課程普通科を卒業。
1980年(昭和55年)
3月:専修大学経済学部経済学科卒業。
1980年(昭和55年)
12月:フジテレビ のお昼のバラエティ番組『笑ってる場合ですよ!』の「お笑い君こそスターだ!」のコーナーで漫才コンビ「オスカル・メスカル」で出場し、チャンピオンになる。
1982年(昭和57年)
3月:ビートたけし(ツービート)の最初のボーヤ(付き人)となる。
1983年 (昭和58年)
9月:『お笑いスター誕生!!』で「ツーツーレロレロ」として出場し、金賞を授賞。
1985年(昭和60年)
:フリーアナウンサー片平きみよ(現・片平夏貴)と結婚。
1986年(昭和61年)
12月9日:フライデー襲撃事件。
1989年(平成元年)
片平きみよと離婚。
1990年(平成2年)
3月:女優のかとうかずこと再婚。
2000年(平成12年)
4月:早稲田大学第二文学部入学。
2004年(平成16年)
3月:早稲田大学第二文学部卒業。
4月:社会人AO入試で早稲田大学政治経済学部政治学科入学。
2006年(平成18年)
2月3日:かとうかずこと離婚。
3月:早稲田大学政治経済学部政治学科中途退学
12月13日:オフィス北野(所属事務所)との契約を解消(事実上の芸能界引退)。
2007年(平成19年)
1月21日:第17回宮崎県知事選挙(無所属)当選。有効票数は266,807票。

[編集] タレント“そのまんま東”として
1980年、フジテレビの『笑ってる場合ですよ!』の「お笑い君こそスターだ!」というオーディションに、「オスカル・メスカル」という漫才コンビで出場した際に、同番組に出演していたビートたけしの楽屋を訪ねて弟子入りを願い出て、1982年3月に付き人となる。デビュー当初の芸名は「東英夫」であった。

その直後、コンビの相棒が芸能界入りする目的であった当時の人気アイドル歌手河合奈保子を生で見たことで満足し、芸能界を辞めるということでコンビは解散、やむなく京都産業大学の学生だった丸山昭範と3か月だけという約束で、コンビを結成。師匠たけしのコンビ名「ツービート」の「ツー」をもらって「ツーツーレロレロ」と名乗った。3か月後、芸能界を辞める丸山に、たけしに黙って失踪したという事にしてもらい、東国原は当時テレビ局でADをしていた大森うたえもん(当時の芸名は大森クンタ)とコンビを組んで「ツーツーレロレロ」を続ける。[1]人気漫才師ビートたけしの弟子と言うことで注目され、関東の有名大学をコキおろすネタを主にやっていた。1983年にたけし軍団の一員となり、「ツーツーレロレロ」のコンビを解消した。

「そのまんま東」の名前の由来は、たけし軍団メンバー全員の芸名を変えるという宴席で、名前を決める順番がたけし軍団の新しいほうから順番に決めていくことになっていた。そのため一番最後で、全員が泥酔してしまっていたために自分だけ新しい芸名が与えられなかった東国原が「師匠。私は名前はどうなるのでしょうか?」と聞くと、芸名を思いつかなかったビートたけしが「お前はそのまんま、“東”だよ」と言ったのを書記係だったラッシャー板前がメモしてしまい、これがそのまま芸名となったという。

加賀まり子の頭に自分の局部をのせて「ちょんまげ」と言い放ったことがあるエピソードが、2003年の夏に放送された壮絶バトル花の芸能界でせんだみつおに暴露される。加賀はまったく怒らずに呆れ顔で「はい、はい」といいながら頭から下ろしたらしい。

テレビ番組で細木数子に「テレビに向いてない」と言われたことがある。

日本テレビのお笑いバラエティ番組『ビートたけしの全日本お笑い研究所』(1988年4月~1988年9月)で ニュースキャスター 「東国原英夫」として出演していた(出演者クレジットは「そのまんま東」)。

上岡龍太郎に誘われ、石田純一らとマラソンに打ち込んだ時期があり、それが現在にも生かされている。


[編集] 作家活動
不祥事で芸能活動を自粛していた1987年に書いた推理小説『ビートたけし殺人事件』がベストセラーになり、翌1988年にはTBSでドラマ化され、東国原自身もたけし軍団の面々と共に出演。後に結婚することになる、かとうかずこもヒロイン役で出演した。


[編集] 不祥事
1986年12月9日、ビートたけしに率いられ、たけし軍団と共に講談社を襲撃し、暴行罪で現行犯逮捕される。→詳細はフライデー襲撃事件を参照。

1998年10月13日、東京都内のイメージクラブ店が未成年の従業員を使っていたことで、児童福祉法違反並びに東京都の青少年健全育成条例 違反の容疑で経営者が逮捕された。その当時16歳であった少女が、性的なサービスをした客として東国原の名前を供述したことで、警察から任意の事情聴取を数回受けたが、「18歳未満とは知らなかった」と話した。 東国原本人と当時の妻のかとうもそれぞれマスコミを通じ、謝罪の文書を発表した。以後芸能活動を5か月間自粛した。東国原自身は法的に罪に問われることはなかったが、倫理的な性質の問題からマスコミでは「淫行事件」として大々的に報道され、社会の激しい批判を浴びることとなった。なお東は後に著書の中でタレントがいかがわしい施設で遊興をすること自体慎むべきだという意見は否定しない、としながらも自らは未成年である事は知らなかったし風俗そのものは違法ではなく謹慎する必要はなかった、仲間のタレントからももらい事故のようなものだと言われた云々記しているが実際には客の前で裸になる行為自体が風俗営業法で禁止されておりこの認識は事実誤認である[要出典]。

1999年11月22日、オフィス北野の忘年会で、たけし軍団の後輩タレントの側頭部を蹴り、頭部打撲等のけがを負わせたとして、傷害容疑で書類送検された。東国原は暴行の事実を認め、略式起訴で罰金を払い、そのことで一時芸能活動を再度自粛した。東国原の公式ウェブサイトでの説明によると、その後輩は普段からその言動が大変問題視されていたため、先輩として規律を正す意味で蹴ったが、暴行を加えたことを正当化するつもりはないとしている。このタレントは、現在は芸能活動をしていないと称しながらも、フライデーを刊行している講談社の雑誌である「週刊現代」の東国原知事追求キャンペーンの一環で登場、サイトでの説明に対して反論した。


[編集] 政治の世界へ
かとうとの離婚後に「前々から政治家になりたいと思っていた」と言っていたことが明かされ、本人の発言やブログの記事からも政治への強い関心を見せるなど、タレント時代から政界への進出を考えていたという。謹慎中に入学した早稲田大学第二文学部では、卒業論文のテーマとして選挙活動を扱ったほか、卒業後も同学政治経済学部に再入学して地方自治を専攻している。同学部入試において出題された小論文の「入学後に学んだことをどのように社会に還元するか?」との課題に対して、「地方自治を学び、それを実践する」という主旨の論述を明確に展開しており、この頃までに地方自治への進出志向が確固たるものとなっていた。

2006年には本人を代表とする政治研究会「そのまんま会」を設立、同12月4日には故郷宮崎県の県選挙管理委員会に政治団体としての届け出を行い、地元での事務所開きにおいて、支援者を前に自らの出馬にかける思いを語った際には過去の不祥事についても自ら切り出し語った。その数日後には所属していたオフィス北野を退社。官製談合事件で当時の現職知事安藤忠恕が逮捕されたことに伴う宮崎県知事選挙へ無所属で立候補。当初は過去の問題行動や言動などのイメージもあって出馬を疑問視する声も多かった。

東国原は、選挙活動において、タレント候補にありがちなタレントの選挙応援を一切受けないことで、「脱タレント」を印象付ける選挙活動を展開した。遊説や立会演説では宮崎弁を使い、早稲田大学出身をアピールし、選挙活動最終日にはマラソンをしながら活動した。宮崎再建・宮崎自立のための具体策を打ち出したそのまんまマニフェストや無所属であることの「しがらみのなさ」を強調しての県政批判などは、政治に無関心な無党派層の関心を呼び起こしただけではなく、現状に不満を持つ政党支持層へも支持を拡大していくこととなった。

東国原をサポートする政務秘書には元たけし軍団のクロマニヨン吉川が就任して、多忙な東国原の生活面を助けている。

こうして、「しがらみのなさ」や「宮崎を変える」という期待感が県民に好印象を与えたことに加え、保守陣営の分裂という追い風も幸いして、県民の圧倒的な票を得て当選した。各マスコミによる出口調査では無党派層だけでなく各政党支持層からも一定の票を獲得したことが伺える。小学校の卒業文集に「夢は政治家とお笑い芸人」と書いていたが、図らずもその夢を2つとも叶えることとなった。


[編集] 知事「東国原英夫」として
この節には現在進行中のことを扱っている文章が含まれています。性急な編集をせず事実を確認の上投稿してください。

選挙活動は芸名の「そのまんま東」で行ったが、県知事に就任してからは本名の東国原英夫(ひがしこくばる ひでお)で活動している。

作業服で初登庁したり、「椅子をパイプ椅子に変える」「こんな立派な机もいらない」「退職金は出来高払い。議会がいらないと言えばいらない」などの言動が地元では好意的に受け止められている。知事専用の公用車について、当初は「廃止する」と述べていたが、燃費や他の手段を使った場合のコストなどの問題を考え、車種をトヨタ自動車の「トヨタ・センチュリー」から、ハイブリッドカーである「トヨタ・クラウンセダン」へ乗り換え、これにより年60万円の公費削減となった。似たような理由で知事公舎にも住んでいない(置き換えられたセンチュリーは競売に掛けられ、255万円で譲渡された)。

報道番組やワイドショーに連日報道されたり多くの特集が組まれるようになったとともに、積極的にマスメディアに出演して宮崎県の宣伝を行っており、自らを「宮崎県のセールスマン」と呼んでいる。バラエティー番組への出演も多いことから、「テレビに出演しすぎだ」「知事になってもタレントのつもりでいる」などの批判も挙がっているが、本人は効果的な宮崎県の全国に対するPR活動として重点を置いている。

2007年1月23日の知事就任直前に清武町で、そして直後には日向市、新富町で鳥インフルエンザが発生した。この状況に素早く対処すべく、1月29日には中央省庁を訪れ、国からの財政支援などを要請した。また、県内の民放局で流す、県内産の鶏肉や鶏卵の安全性を訴えるCMに自ら出演したり、宮崎県の巨人軍キャンプとソフトバンクの練習場を訪れ、宮崎県産地鶏などを贈呈するなど、風評被害対策のため、鶏肉の安全性を盛んにアピールしている。これらの努力の甲斐もあり、宮崎の地鶏の消費量は、発生前より4割も増加した(その他にも県内特産品のPRも積極的に行っている)。ソフトバンクのキャンプでは監督の王貞治と会って、「王監督の手は神のようだ」と言っていた。

2007年2月15日、「オール野党」とも評される県議会で所信表明演説を行った。その様子はMRT(宮崎放送)で午前9時55分から生中継(所信表明演説の中継は県議会史上初)され、普段は埋まることのない60の傍聴席を求めて93人の市民が訪れるなど、異例づくめの所信表明演説となった。その際に発した「宮崎をどげんかせんと(どうにかしないと)いかん」というフレーズは幾度となくマスコミに取り上げられ、注目を集めた。この言葉は流行語大賞にも選ばれた。

2003年に4億9600万円の公費を費やして建設された知事公舎を批判し、選挙前から住んでいるマンションに知事に当選後も住んでいたが、当選後は自宅マンションや近隣住民への悪戯が多く迷惑を掛けているとの理由で勤務先の県庁に歩いて行ける近場のマンションをローンで購入し、2007年3月29日から住んでいる。

知事選で争った、自民党推薦の持永哲志を副知事に迎えるという人事構想を抱くが、「脱・官僚」を期待して東国原に投票した県民の反発を招き、起用を断念した。だが、2007年2月15日の、自身として初の議会において、やはり官僚の河野俊嗣(総務省から宮崎県に出向中)の起用を正式に表明した。

2007年4月16日の定例記者会見において、「特に発表することがない場合は(会見を)カットしてもよいのではないか」、「毎日取材に答えているので、改めて話す内容はない。それでもやる意義はあるのか」などとして、各社の記者と20分間にわたり問答を繰り返した。後に出演した『サンデープロジェクト』(テレビ朝日)4月29日放送分でも「特に発表することがない場合でも、わざわざ12時まで会見時間を設けるのは効率が悪く、浮いた時間を公務に回すべき」(通常の定例記者会見が11:00~12:00の1時間で行われるため)と発言したが、かつての長野県知事である田中康夫のように記者クラブを撤廃させようというものではなく、あくまでも県政の効率化のための提案であることを述べている。その際は一部保守系メディアから非難を受けた。

2007年4月に宮崎日日新聞社が行った世論調査では、支持86.7%、不支持1.1%という高い支持率を示している。

2008年1月20日に、「新しい日本をつくる国民会議」(21世紀臨調)を母体とする「地域・生活者起点で日本を洗濯(選択)する国民連合」(通称:せんたく)の立ち上げに発起人として参加。

道路特定財源問題では「暫定税率維持」の方針を明確に打ち出し、「暫定税率撤廃」を主張する民主党議員を連日テレビで批判することを繰り返した。この姿からネット上では2007年の流行語を改変した「宮崎を土建化せんといかん!」という皮肉も聞かれた。


中略

[編集] 出演した番組など

[編集] タレント時代
ドラマ
『誰にも言えない』(1993年、TBS系)-栗林俊治・役
『ビートたけし殺人事件 失われた魔人の伝説』(1989年10月、TBS系)
世にも奇妙な物語 『死後の苦労』(1990年、フジテレビ系)
世にも奇妙な物語 『死神』(1991年、フジテレビ系)
金田一少年の事件簿(2001年、日本テレビ系)
VICTORY! ~フットガールズの青春~ (2003年11月22日、フジテレビ系)
バラエティ
風雲!たけし城(TBS系)2代目家老 東国原英夫守三太夫Jr.(ひがしこくばる ひでおのかみ さんだゆう じゅにあ)
号外版 風雲!たけし城(TBS系)
そのまんま東のバーチャル情報局
そのまんま東のバーチャルZ
オールスター感謝祭-3回総合優勝した。知事就任後は毎回ゲストで出演。
カジノザウルス-数回、島田紳助の代行司会を担当した。
クイズ$ミリオネア レギュラー放送最後の一千万円挑戦者。1問目から13問目までライフライン未使用で14問目まで正解するも15問目で不正解、百万円獲得。
笑っていいとも!-木曜レギュラー、また知事就任後の2007年4月30日放送分にもゲスト出演。
ラジオ
ビートたけしのオールナイトニッポン(1990年ごろ、たけしの代理 ニッポン放送系)
情報
2時ワクッ! 火曜(関西テレビ)※終了
アサデス。KBC 金曜、月一回(九州朝日放送)
CM
丸大食品(適塩食生活)
霧島酒造(宮崎県都城市にある焼酎などの醸造メーカー)
中部ハウス工業(そのまんま貼る「スーパーガード」)
PV
FUNKY MONKEY BABYS 「そのまんま東へ」 (CDジャケットにもそのまんま東のアップ写真が起用されている)

[編集] 知事就任後
いつみても波瀾万丈(2007年5月6日、日本テレビ系)
サンデージャポン(TBS系)就任後より、不定期ながら密着取材を受けている。ただし、宮崎県を含む九州・沖縄圏では未放送。
朝まで生テレビ!(2008年3月28日25:20~ テレビ朝日系)パネラー
~日本をどげんかせんといかん!~東国原英夫のオールナイトニッポン(2007年3月9日 ニッポン放送系)

[編集] 著書

[編集] 「そのまんま東」名義
『ビートたけし殺人事件』(太田出版、1988年2月) ISBN 4900416371
『明石家さんま殺人事件』(太田出版、1989年4月) ISBN 4900416592
『伝言ダイヤル殺人事件』(太田出版、1990年12月) ISBN 4872330102
『そのまんま東のそんなバカな!?』(海越出版社、1993年5月) ISBN 4876971552
『東国原家の夏休みinダーウィン』(碧宙出版、1999年5月) ISBN 4921104026
『どん底』(音羽出版、2000年5月) ISBN 4901007106
『ゆっくり歩け、空を見ろ』(新潮社、2001年2月) ISBN 4104439010
『芸人学生:僕が学びつづける理由』(実業之日本社、2004年11月) ISBN 4408106143
『60歳を人生ピークにもっていく法:今日からできる、誰にでもできる!』(KKロングセラーズ、2005年12月) ISBN 4845420910

[編集] 「東国原英夫」名義
『宮崎発 日本を変えんといかん』(集英社、2007年4月) ISBN 9784420310178
『宮崎で生まれた改革の波は、そのまんま~東へ!』(ベストセラーズ、2007年4月) ISBN 9784584130018
『そのまんま日記』(角川書店、2007年4月) ISBN 9784048839815
※オフィシャルサイト(後述)で書かれていた日記をまとめたもの
『ニッポンを繁盛させる方法』(角川書店、2007年11月) ISBN 9784047101210
※お笑い芸人の島田紳助との対談
『絆 佐賀のがばいばあちゃんと宮崎のてげなかあちゃん』(徳間書店、2008年3月) ISBN 9784198624958
※お笑い芸人の島田洋七との対談

[編集] 関連項目
ビートたけし
たけし軍団
オフィス北野
フライデー襲撃事件
かとうかず子
片平夏貴
ゾマホン・ルフィン(二代目そのまんま東)
クロマニヨン吉川(元たけし軍団・現宮崎県知事政務秘書)
武井俊輔
AO入試
宮崎県出身の有名人一覧
宮崎弁
愛みやざき
タレント政治家
地域・生活者起点で日本を洗濯(選択)する国民連合
山寺宏一(アニメ「ヤッターマン(2008年版)」第11話にて東国原知事の声を担当)

[編集] 外部リンク
元気じゃひか?東国原です(宮崎県サイト)
そのまんま東オフィシャルサイト(公式サイト)
そのまんま会オフィシャルサイト(後援会サイト)

[編集] 脚注
^ そのまんま東『60歳を人生ピークにもっていく法』KKベストセラーズ
宮崎県知事
第16代
安藤忠恕 第17代
2007 ‐ 現職 第18代
-

[表示]表・話・編・歴宮崎県知事(公選)
安中忠雄 - 田中長茂 - 二見甚郷 - 黒木博 - 松形祐堯 - 安藤忠恕 - 東国原英夫
先代:
関根勤 オールスター感謝祭チャンピオン
5代
1994年秋 次代:
ヨネスケ
先代:
野際陽子 オールスター感謝祭チャンピオン
10代
1997年春 次代:
東幹久
先代:
東幹久 オールスター感謝祭チャンピオン
12代
1997年年末特番 次代:
三村マサカズ
先代:
織田無道 赤坂5丁目ミニマラソン優勝
9-10代
1997年春・秋 次代:
泉川正幸


カテゴリ: 質問があるページ | 出典を必要とする記事 | 節現在進行 | 都道府県知事・市町村長 | 宮崎県の政治家 | 日本の俳優 | たけし軍団 | 1957年生 | 過去の太田プロ所属者


最終更新 2008年4月16日 (水) 18:49。 Wikipedia®