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全国紙新聞コラム集 (例:平成20年5月16日号:朝刊)

2008-09-17 03:09:24 | Weblog
高大連携情報誌 『大学受験ニュース』(ブログ版)


NIE=

新聞のコラム:参考文献のいろいろ コラムニストは俳句好き!


全国紙新聞コラム集 (例:平成20年5月16日号:朝刊)
【 新聞コラム】名文のオンパレード!!!

問題  【マスコミ(新聞】』への道!
     マスコミ志望者必携書「月刊新聞ダイジェスト:2008 No547(4月号)他:800円
     定価=840円(本体800円)
     発行日=2008年3月10日
     発行人=唐澤壮一
     発行人=佐々木健一
     発行所=㈱新聞ダイジェスト社


    朝日・「①■■■■」
    日経・「③■■」
    読売・「⑧■■■■」
    毎日・「⑭■■」(四川大地震と情報公開)
    産経:【⑱■■■】
    東京:「⑳■■」
    〒112-0005
    東京都文京区水道2-17-1
    ブラザーハイツ小日向南201号
    電話 03-3818-8011
    FAX 03-3818-8010
    E-mail shimbun@crocus.ocn.ne.jp



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その他
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出典:2008年4月号211P





























朝日・「①■■■■」
風薫る5月だが、明治の俳人②正岡■■は毎年、この月がめぐると不安にかられた。脊椎(せきつい)カリエスで長く伏し、5月にはきまって病気が悪化したからだ▼自らを励まそうとしてか、1902(明治35)年5月から、随筆『③■■(びょうしょう)■■』の新聞連載を始める。苦痛に耐えてつづった中に、「悟り」をめぐる一節がある。悟りとは、いつでも平気で死ぬことだと思っていたのは誤解だった、と②■■は言う。逆に〈如何(いか)なる場合にも平気で生きて居る事であつた〉と境地を述べている▼寝たきりの②■■は、母と妹の献身的な介護をうけた。自宅で「平気で生き」ながら、35歳で没するまで、病床から盛んな筆をふるった。現代のお年寄りに置き換えれば、母妹に代わる在宅福祉のささえは、訪問介護ということになるのだろう▼だが、②■■の心境で過ごすのは難しい時代になっている。在宅サービスの中心になる訪問介護の事業所が、減っているという。介護保険制度の崩壊を招きかねないと、心配する声も聞こえてくる▼2年前に介護報酬が引き下げられた。経営が悪化し、ヘルパーの賃金が減り、離職が増える。使える金の限られる中、負の循環が「安心」を細らせているようだ。だれもがいつかは老いるし、病む。そのときのために、医療も含め、手を打つには今しかない▼手厚い支えもあってだろう、②■■は明るさとユーモアを失わなかった。〈枝豆ヤ三寸飛ンデ口ニ入ル〉などと病床で詠んでいる。平気で生きられる――。その穏やかさが、だれの日々にも必要なのは言うまでもない。




日経・「③■■」
本紙日曜文化面に「江戸の風格」を連載する④■■武彦さんの近著「⑤■■不戦派軍記」は「世にも太平楽な」下級幕臣4人を狂言回しに使い、⑤■■維新の「もうひとつの“真実の”物語」を書いている。第二章「彰義隊の巻」は1868年の江戸の市街戦が舞台だ。

▼「彰義隊が立て籠(こも)る上野山へ官軍が総攻撃を掛け」「上野の空は真っ赤で」「至るところに地獄の光景が出現していた」というその出来事を、日本最初の⑥■■「別段 中外新聞」が速報した。新暦になおすと7月5日になるが「別段」の日付・戊辰(ぼしん)5月16日が⑥■■発祥の日とされている。

▼横浜にある日本⑦■■■■館に行くと、展示ケースに入った現物が見られる。今の新聞と違い、和紙を半折りにしてとじた冊子形なのが珍しい。別のところで探した史料集を繰って記事の内容を確かめると「不戦派軍記」に出てくる場面も現れ、取材の網を広げ、集めた情報を評価、整理する腕前に感心させられる。

▼⑦■■■■館には以後百数十年の間に発行された⑥■■の主なものが並ぶ。「人類ついに月到達」のような明るいニュースは少なく、ほとんどは戦争や事件、事故、天災だ。改めて、歴史は災厄に満ちていると痛感し、戊辰戦争の戦場をたどる不戦派の4人と同じやり場のない怒りを覚える。「誰のせいでこんな目に」




読売・「⑧■■■■」
江戸⑨■■に、〈串(くし)といふ字を蒲焼(かばやき)と無筆(むひつ)よみ〉とある。無筆は読み書きができない人をいう。一句に注釈は要るまい◆庶民の文芸が無筆を笑ってみせたのも裏返せば、それだけ多くの人が「串」の字を読めた証しだろう。紛らわしい漢字も昔の人は、〈⑩■(うり)に⑪■(つめ)あり、爪に爪なし〉等々の識別法を工夫して学んできた◆漢字を用いる目安となる常用漢字表(1945文字)に「串」や「爪」は入っていない。「無筆が増えたわけでもあるめえに…」と、江戸から怪訝(けげん)な声が聞こえそうである。声に応えて、でもないが、⑫■■審議会が常用漢字表の見直しを進めている◆このほど公表された追加候補の素案(220字)には「串」「爪」「噂」「匂」「叱」などが並んでいる。「しかられる」よりも「叱られる」ほうが心なしか身にこたえる。この微妙な差も日本語がもつ文化の豊かさだろう。追加漢字の選定は“⑬■き門”がいい◆〈書くたびに鬱(うつ)の字をひく春時雨〉(恩田侑布子)。たしかに毎度毎度、辞書のお世話になる字だが、これも「憂うつ」では雰囲気が伝わらない。「鬱」の字も追加の候補に含まれている。

注:⑫のヒント:2008年5月16日発行の産経新聞 コラム 産経:【⑱■■■】 



毎日・「⑭■■」(四川大地震と情報公開)
 ローマの⑮■人ウェルギリウスには中世から伝わる奇妙な伝承がある。彼の家には各地方を表す木像が置かれ、地方に災いがあれば木像が⑯■■をならした。同時に回転する青銅製の騎士が災いの方向を指し示した▲この遠隔地の災い探知装置の話のルーツは中国だといわれる。2世紀に張衡という人が作った地動儀という仕掛けは、八方に出た竜の口から落ちる玉で地震の方向を知る地震計だった。この装置の話がはるかシルクロードを横断したらしい▲史書はこの地動儀の竜の一つの玉が落ちた数日後、都を遠く離れた今の甘粛省西部から地震の報が届いたと伝えている。おそらく偶然だろうが、遠い地の災害をいち早く知って対策を講じるのは、古代の専制国家にすら求められた(P・ジェームズ他著「⑰■■の発明」東洋書林)▲四川大地震の現地からは生き埋め現場の惨状や被災者の嘆き、なおも刻一刻増え続ける被害が報じられている。中国政府は日本からの救援要員受け入れも決めた。被災の実情は内外のメディアによってこれまでになく生々しく伝えられている▲遠い地の災いに敏感に感応する世界中の人々の心を、被災者救援に結びつける情報公開である。それがあれば四川省の山奥の人々の苦しみも、直ちにローマの市民の心の⑯■■を鳴らす。中国国内でも震災報道を受け義援金募金など民間の支援活動がかつてない広がりを見せている▲指導部の指示を受けた中国メディアは被災者の声より首相の慰問や軍の救援の報道を優先しているという。だがおよそ五輪を開こうという国である。国民と世界の人々の心をつなぐ情報公開の回路は細めることのないよう願いたい。





産経:【⑱■■■】
作家の⑲■■■■さんが、故夏目雅子さんの心をつかんだきっかけは、目の前で「憂鬱(ゆううつ)」と漢字でさらさら書いてみせたことだという“伝説”がある。正直言って、いきなり「鬱」の字を手で書けといわれたら自信がない。
 ▼そもそも天下の美女相手に、漢字能力を披露する機会が訪れるわけもないのだが、この字が、常用漢字になる可能性が出てきた。改定作業を進めている⑫文化審議会の漢字小委員会が、現在の1945字に、新たに加える候補として発表した220字のなかに入っていた。
 ▼なるほどこのコラムを含めて、コンピューターを使った文書作りは、今やごく当たり前のこととなっている。うつという読み方を知っていれば、キーを押すだけで出てくるのだから、常用漢字に加えることには異議がない。
 ▼ただ、ほかの候補の漢字を見ると、首をかしげるばかりだ。「岡」「奈」「阪」「韓」や「脇」「謎」など、地名や日常的に使われているこんな漢字まで、含まれていなかった。常用漢字は、漢字使用の目安というが、もとになっているのは、終戦直後に、漢字の使用を制限する目的で制定された当用漢字だ。
 ▼最近、洋画の字幕さえ持て余す若者が急増していることから、吹き替え版にシフトする動きがあるそうだ。知的レベルがそこまで落ちたのは、戦後の間違った国語政策のせいだとする批判も根強い。漢字使用の拡大もけっこうだが、常用漢字という制度そのものを見直す時期ではないだろうか。
 ▼漢字学者の白川静さんの研究成果が広く知られるようになったこともあり、漢字文化復興の機運も高まっている。小欄は、お上の決めた目安に関係なく、必要と思われる漢字を、極力ルビを振った上で使っていくつもりだ。


東京:「⑳■■」
「ロボット」という言葉は、チェコの作家カレル・チャペックによる造語である。元になったのは強制労働や農奴を意味するチェコ語▼だが、先日、ホンダの二足歩行ロボットASIMO(アシモ)がやったのは、それとはかなり趣の違う仕事だ。米国のデトロイト交響楽団を相手にタクトを振ってみせた。楽員の一人が評して曰(いわ)く、「滑らかで優雅な指揮」と(共同)▼ロボットの活躍の場は広がっていきそうで、できる仕事をどんどん任せていくと、二〇二五年には、国内で三百五十二万人分の労働力になるとの試算もある。だが、あそこでは、できるものなら今すぐにでも手を借りたい。中国・四川大地震の被災地だ▼救助の手は到底足りず、子どもといわず、お年寄りといわず、まだ数知れぬ人が生き埋めになっている。口惜しいが、生死を分ける目安ともされる発生後「七十二時間」はきのう午後、過ぎてしまった▼ロボット研究に打ち込みながら阪神大震災で亡くなった神戸大大学院生の竸(きそい)基弘さん=名古屋市出身。竸さんと、その遺志を継いだ恩師の「夢」が、災害現場で不明者を捜す実用的な救助ロボの開発だ。この分野の研究者を顕彰する「竸基弘賞」も設けられ、取り組みが続いている▼ASIMOが指揮したのは、人気ミュージカルからの一曲、「見果てぬ夢」。いや、竸さんたちの夢は、きっとかなう。






朝日・「天声人語」
風薫る5月だが、明治の俳人正岡子規は毎年、この月がめぐると不安にかられた。脊椎(せきつい)カリエスで長く伏し、5月にはきまって病気が悪化したからだ▼自らを励まそうとしてか、1902(明治35)年5月から、随筆『病牀(びょうしょう)六尺』の新聞連載を始める。苦痛に耐えてつづった中に、「悟り」をめぐる一節がある。悟りとは、いつでも平気で死ぬことだと思っていたのは誤解だった、と子規は言う。逆に〈如何(いか)なる場合にも平気で生きて居る事であつた〉と境地を述べている▼寝たきりの子規は、母と妹の献身的な介護をうけた。自宅で「平気で生き」ながら、35歳で没するまで、病床から盛んな筆をふるった。現代のお年寄りに置き換えれば、母妹に代わる在宅福祉のささえは、訪問介護ということになるのだろう▼だが、子規の心境で過ごすのは難しい時代になっている。在宅サービスの中心になる訪問介護の事業所が、減っているという。介護保険制度の崩壊を招きかねないと、心配する声も聞こえてくる▼2年前に介護報酬が引き下げられた。経営が悪化し、ヘルパーの賃金が減り、離職が増える。使える金の限られる中、負の循環が「安心」を細らせているようだ。だれもがいつかは老いるし、病む。そのときのために、医療も含め、手を打つには今しかない▼手厚い支えもあってだろう、子規は明るさとユーモアを失わなかった。〈枝豆ヤ三寸飛ンデ口ニ入ル〉などと病床で詠んでいる。平気で生きられる――。その穏やかさが、だれの日々にも必要なのは言うまでもない。


読売・「編集手帳」
江戸川柳に、〈串(くし)といふ字を蒲焼(かばやき)と無筆(むひつ)よみ〉とある。無筆は読み書きができない人をいう。一句に注釈は要るまい◆庶民の文芸が無筆を笑ってみせたのも裏返せば、それだけ多くの人が「串」の字を読めた証しだろう。紛らわしい漢字も昔の人は、〈瓜(うり)に爪(つめ)あり、爪に爪なし〉等々の識別法を工夫して学んできた◆漢字を用いる目安となる常用漢字表(1945文字)に「串」や「爪」は入っていない。「無筆が増えたわけでもあるめえに…」と、江戸から怪訝(けげん)な声が聞こえそうである。声に応えて、でもないが、文化審議会が常用漢字表の見直しを進めている◆このほど公表された追加候補の素案(220字)には「串」「爪」「噂」「匂」「叱」などが並んでいる。「しかられる」よりも「叱られる」ほうが心なしか身にこたえる。この微妙な差も日本語がもつ文化の豊かさだろう。追加漢字の選定は“広き門”がいい◆〈書くたびに鬱(うつ)の字をひく春時雨〉(恩田侑布子)。たしかに毎度毎度、辞書のお世話になる字だが、これも「憂うつ」では雰囲気が伝わらない。「鬱」の字も追加の候補に含まれている。


毎日・「余録」(四川大地震と情報公開)
 ローマの詩人ウェルギリウスには中世から伝わる奇妙な伝承がある。彼の家には各地方を表す木像が置かれ、地方に災いがあれば木像がベルをならした。同時に回転する青銅製の騎士が災いの方向を指し示した▲この遠隔地の災い探知装置の話のルーツは中国だといわれる。2世紀に張衡という人が作った地動儀という仕掛けは、八方に出た竜の口から落ちる玉で地震の方向を知る地震計だった。この装置の話がはるかシルクロードを横断したらしい▲史書はこの地動儀の竜の一つの玉が落ちた数日後、都を遠く離れた今の甘粛省西部から地震の報が届いたと伝えている。おそらく偶然だろうが、遠い地の災害をいち早く知って対策を講じるのは、古代の専制国家にすら求められた(P・ジェームズ他著「古代の発明」東洋書林)▲四川大地震の現地からは生き埋め現場の惨状や被災者の嘆き、なおも刻一刻増え続ける被害が報じられている。中国政府は日本からの救援要員受け入れも決めた。被災の実情は内外のメディアによってこれまでになく生々しく伝えられている▲遠い地の災いに敏感に感応する世界中の人々の心を、被災者救援に結びつける情報公開である。それがあれば四川省の山奥の人々の苦しみも、直ちにローマの市民の心のベルを鳴らす。中国国内でも震災報道を受け義援金募金など民間の支援活動がかつてない広がりを見せている▲指導部の指示を受けた中国メディアは被災者の声より首相の慰問や軍の救援の報道を優先しているという。だがおよそ五輪を開こうという国である。国民と世界の人々の心をつなぐ情報公開の回路は細めることのないよう願いたい。


日経・「春秋」
本紙日曜文化面に「江戸の風格」を連載する野口武彦さんの近著「幕末不戦派軍記」は「世にも太平楽な」下級幕臣4人を狂言回しに使い、幕末維新の「もうひとつの“真実の”物語」を書いている。第二章「彰義隊の巻」は1868年の江戸の市街戦が舞台だ。

▼「彰義隊が立て籠(こも)る上野山へ官軍が総攻撃を掛け」「上野の空は真っ赤で」「至るところに地獄の光景が出現していた」というその出来事を、日本最初の号外「別段 中外新聞」が速報した。新暦になおすと7月5日になるが「別段」の日付・戊辰(ぼしん)5月16日が号外発祥の日とされている。

▼横浜にある日本新聞博物館に行くと、展示ケースに入った現物が見られる。今の新聞と違い、和紙を半折りにしてとじた冊子形なのが珍しい。別のところで探した史料集を繰って記事の内容を確かめると「不戦派軍記」に出てくる場面も現れ、取材の網を広げ、集めた情報を評価、整理する腕前に感心させられる。

▼新聞博物館には以後百数十年の間に発行された号外の主なものが並ぶ。「人類ついに月到達」のような明るいニュースは少なく、ほとんどは戦争や事件、事故、天災だ。改めて、歴史は災厄に満ちていると痛感し、戊辰戦争の戦場をたどる不戦派の4人と同じやり場のない怒りを覚える。「誰のせいでこんな目に」


産経:【産経抄】
作家の伊集院静さんが、故夏目雅子さんの心をつかんだきっかけは、目の前で「憂鬱(ゆううつ)」と漢字でさらさら書いてみせたことだという“伝説”がある。正直言って、いきなり「鬱」の字を手で書けといわれたら自信がない。
 ▼そもそも天下の美女相手に、漢字能力を披露する機会が訪れるわけもないのだが、この字が、常用漢字になる可能性が出てきた。改定作業を進めている文化審議会の漢字小委員会が、現在の1945字に、新たに加える候補として発表した220字のなかに入っていた。
 ▼なるほどこのコラムを含めて、コンピューターを使った文書作りは、今やごく当たり前のこととなっている。うつという読み方を知っていれば、キーを押すだけで出てくるのだから、常用漢字に加えることには異議がない。
 ▼ただ、ほかの候補の漢字を見ると、首をかしげるばかりだ。「岡」「奈」「阪」「韓」や「脇」「謎」など、地名や日常的に使われているこんな漢字まで、含まれていなかった。常用漢字は、漢字使用の目安というが、もとになっているのは、終戦直後に、漢字の使用を制限する目的で制定された当用漢字だ。
 ▼最近、洋画の字幕さえ持て余す若者が急増していることから、吹き替え版にシフトする動きがあるそうだ。知的レベルがそこまで落ちたのは、戦後の間違った国語政策のせいだとする批判も根強い。漢字使用の拡大もけっこうだが、常用漢字という制度そのものを見直す時期ではないだろうか。
 ▼漢字学者の白川静さんの研究成果が広く知られるようになったこともあり、漢字文化復興の機運も高まっている。小欄は、お上の決めた目安に関係なく、必要と思われる漢字を、極力ルビを振った上で使っていくつもりだ。


東京:「筆先」
「ロボット」という言葉は、チェコの作家カレル・チャペックによる造語である。元になったのは強制労働や農奴を意味するチェコ語▼だが、先日、ホンダの二足歩行ロボットASIMO(アシモ)がやったのは、それとはかなり趣の違う仕事だ。米国のデトロイト交響楽団を相手にタクトを振ってみせた。楽員の一人が評して曰(いわ)く、「滑らかで優雅な指揮」と(共同)▼ロボットの活躍の場は広がっていきそうで、できる仕事をどんどん任せていくと、二〇二五年には、国内で三百五十二万人分の労働力になるとの試算もある。だが、あそこでは、できるものなら今すぐにでも手を借りたい。中国・四川大地震の被災地だ▼救助の手は到底足りず、子どもといわず、お年寄りといわず、まだ数知れぬ人が生き埋めになっている。口惜しいが、生死を分ける目安ともされる発生後「七十二時間」はきのう午後、過ぎてしまった▼ロボット研究に打ち込みながら阪神大震災で亡くなった神戸大大学院生の竸(きそい)基弘さん=名古屋市出身。竸さんと、その遺志を継いだ恩師の「夢」が、災害現場で不明者を捜す実用的な救助ロボの開発だ。この分野の研究者を顕彰する「竸基弘賞」も設けられ、取り組みが続いている▼ASIMOが指揮したのは、人気ミュージカルからの一曲、「見果てぬ夢」。いや、竸さんたちの夢は、きっとかなう。










【 新聞コラム】名文のオンパレード!!!

2008-09-17 03:08:58 | Weblog
高大連携情報誌 『大学受験ニュース』(ブログ版)


NIE=

新聞のコラム:参考文献のいろいろ コラムニストは俳句好き!


全国紙新聞コラム集 (例:平成20年5月16日号:朝刊)
【 新聞コラム】名文のオンパレード!!!

問題  【マスコミ(新聞】』への道!
     マスコミ志望者必携書「月刊新聞ダイジェスト:2008 No547(4月号)他:800円
     定価=840円(本体800円)
     発行日=2008年3月10日
     発行人=唐澤壮一
     発行人=佐々木健一
     発行所=㈱新聞ダイジェスト社


    朝日・「①■■■■」
    日経・「③■■」
    読売・「⑧■■■■」
    毎日・「⑭■■」(四川大地震と情報公開)
    産経:【⑱■■■】
    東京:「⑳■■」
    〒112-0005
    東京都文京区水道2-17-1
    ブラザーハイツ小日向南201号
    電話 03-3818-8011
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出典:2008年4月号211P





























朝日・「①■■■■」
風薫る5月だが、明治の俳人②正岡■■は毎年、この月がめぐると不安にかられた。脊椎(せきつい)カリエスで長く伏し、5月にはきまって病気が悪化したからだ▼自らを励まそうとしてか、1902(明治35)年5月から、随筆『③■■(びょうしょう)■■』の新聞連載を始める。苦痛に耐えてつづった中に、「悟り」をめぐる一節がある。悟りとは、いつでも平気で死ぬことだと思っていたのは誤解だった、と②■■は言う。逆に〈如何(いか)なる場合にも平気で生きて居る事であつた〉と境地を述べている▼寝たきりの②■■は、母と妹の献身的な介護をうけた。自宅で「平気で生き」ながら、35歳で没するまで、病床から盛んな筆をふるった。現代のお年寄りに置き換えれば、母妹に代わる在宅福祉のささえは、訪問介護ということになるのだろう▼だが、②■■の心境で過ごすのは難しい時代になっている。在宅サービスの中心になる訪問介護の事業所が、減っているという。介護保険制度の崩壊を招きかねないと、心配する声も聞こえてくる▼2年前に介護報酬が引き下げられた。経営が悪化し、ヘルパーの賃金が減り、離職が増える。使える金の限られる中、負の循環が「安心」を細らせているようだ。だれもがいつかは老いるし、病む。そのときのために、医療も含め、手を打つには今しかない▼手厚い支えもあってだろう、②■■は明るさとユーモアを失わなかった。〈枝豆ヤ三寸飛ンデ口ニ入ル〉などと病床で詠んでいる。平気で生きられる――。その穏やかさが、だれの日々にも必要なのは言うまでもない。




日経・「③■■」
本紙日曜文化面に「江戸の風格」を連載する④■■武彦さんの近著「⑤■■不戦派軍記」は「世にも太平楽な」下級幕臣4人を狂言回しに使い、⑤■■維新の「もうひとつの“真実の”物語」を書いている。第二章「彰義隊の巻」は1868年の江戸の市街戦が舞台だ。

▼「彰義隊が立て籠(こも)る上野山へ官軍が総攻撃を掛け」「上野の空は真っ赤で」「至るところに地獄の光景が出現していた」というその出来事を、日本最初の⑥■■「別段 中外新聞」が速報した。新暦になおすと7月5日になるが「別段」の日付・戊辰(ぼしん)5月16日が⑥■■発祥の日とされている。

▼横浜にある日本⑦■■■■館に行くと、展示ケースに入った現物が見られる。今の新聞と違い、和紙を半折りにしてとじた冊子形なのが珍しい。別のところで探した史料集を繰って記事の内容を確かめると「不戦派軍記」に出てくる場面も現れ、取材の網を広げ、集めた情報を評価、整理する腕前に感心させられる。

▼⑦■■■■館には以後百数十年の間に発行された⑥■■の主なものが並ぶ。「人類ついに月到達」のような明るいニュースは少なく、ほとんどは戦争や事件、事故、天災だ。改めて、歴史は災厄に満ちていると痛感し、戊辰戦争の戦場をたどる不戦派の4人と同じやり場のない怒りを覚える。「誰のせいでこんな目に」




読売・「⑧■■■■」
江戸⑨■■に、〈串(くし)といふ字を蒲焼(かばやき)と無筆(むひつ)よみ〉とある。無筆は読み書きができない人をいう。一句に注釈は要るまい◆庶民の文芸が無筆を笑ってみせたのも裏返せば、それだけ多くの人が「串」の字を読めた証しだろう。紛らわしい漢字も昔の人は、〈⑩■(うり)に⑪■(つめ)あり、爪に爪なし〉等々の識別法を工夫して学んできた◆漢字を用いる目安となる常用漢字表(1945文字)に「串」や「爪」は入っていない。「無筆が増えたわけでもあるめえに…」と、江戸から怪訝(けげん)な声が聞こえそうである。声に応えて、でもないが、⑫■■審議会が常用漢字表の見直しを進めている◆このほど公表された追加候補の素案(220字)には「串」「爪」「噂」「匂」「叱」などが並んでいる。「しかられる」よりも「叱られる」ほうが心なしか身にこたえる。この微妙な差も日本語がもつ文化の豊かさだろう。追加漢字の選定は“⑬■き門”がいい◆〈書くたびに鬱(うつ)の字をひく春時雨〉(恩田侑布子)。たしかに毎度毎度、辞書のお世話になる字だが、これも「憂うつ」では雰囲気が伝わらない。「鬱」の字も追加の候補に含まれている。

注:⑫のヒント:2008年5月16日発行の産経新聞 コラム 産経:【⑱■■■】 



毎日・「⑭■■」(四川大地震と情報公開)
 ローマの⑮■人ウェルギリウスには中世から伝わる奇妙な伝承がある。彼の家には各地方を表す木像が置かれ、地方に災いがあれば木像が⑯■■をならした。同時に回転する青銅製の騎士が災いの方向を指し示した▲この遠隔地の災い探知装置の話のルーツは中国だといわれる。2世紀に張衡という人が作った地動儀という仕掛けは、八方に出た竜の口から落ちる玉で地震の方向を知る地震計だった。この装置の話がはるかシルクロードを横断したらしい▲史書はこの地動儀の竜の一つの玉が落ちた数日後、都を遠く離れた今の甘粛省西部から地震の報が届いたと伝えている。おそらく偶然だろうが、遠い地の災害をいち早く知って対策を講じるのは、古代の専制国家にすら求められた(P・ジェームズ他著「⑰■■の発明」東洋書林)▲四川大地震の現地からは生き埋め現場の惨状や被災者の嘆き、なおも刻一刻増え続ける被害が報じられている。中国政府は日本からの救援要員受け入れも決めた。被災の実情は内外のメディアによってこれまでになく生々しく伝えられている▲遠い地の災いに敏感に感応する世界中の人々の心を、被災者救援に結びつける情報公開である。それがあれば四川省の山奥の人々の苦しみも、直ちにローマの市民の心の⑯■■を鳴らす。中国国内でも震災報道を受け義援金募金など民間の支援活動がかつてない広がりを見せている▲指導部の指示を受けた中国メディアは被災者の声より首相の慰問や軍の救援の報道を優先しているという。だがおよそ五輪を開こうという国である。国民と世界の人々の心をつなぐ情報公開の回路は細めることのないよう願いたい。





産経:【⑱■■■】
作家の⑲■■■■さんが、故夏目雅子さんの心をつかんだきっかけは、目の前で「憂鬱(ゆううつ)」と漢字でさらさら書いてみせたことだという“伝説”がある。正直言って、いきなり「鬱」の字を手で書けといわれたら自信がない。
 ▼そもそも天下の美女相手に、漢字能力を披露する機会が訪れるわけもないのだが、この字が、常用漢字になる可能性が出てきた。改定作業を進めている⑫文化審議会の漢字小委員会が、現在の1945字に、新たに加える候補として発表した220字のなかに入っていた。
 ▼なるほどこのコラムを含めて、コンピューターを使った文書作りは、今やごく当たり前のこととなっている。うつという読み方を知っていれば、キーを押すだけで出てくるのだから、常用漢字に加えることには異議がない。
 ▼ただ、ほかの候補の漢字を見ると、首をかしげるばかりだ。「岡」「奈」「阪」「韓」や「脇」「謎」など、地名や日常的に使われているこんな漢字まで、含まれていなかった。常用漢字は、漢字使用の目安というが、もとになっているのは、終戦直後に、漢字の使用を制限する目的で制定された当用漢字だ。
 ▼最近、洋画の字幕さえ持て余す若者が急増していることから、吹き替え版にシフトする動きがあるそうだ。知的レベルがそこまで落ちたのは、戦後の間違った国語政策のせいだとする批判も根強い。漢字使用の拡大もけっこうだが、常用漢字という制度そのものを見直す時期ではないだろうか。
 ▼漢字学者の白川静さんの研究成果が広く知られるようになったこともあり、漢字文化復興の機運も高まっている。小欄は、お上の決めた目安に関係なく、必要と思われる漢字を、極力ルビを振った上で使っていくつもりだ。


東京:「⑳■■」
「ロボット」という言葉は、チェコの作家カレル・チャペックによる造語である。元になったのは強制労働や農奴を意味するチェコ語▼だが、先日、ホンダの二足歩行ロボットASIMO(アシモ)がやったのは、それとはかなり趣の違う仕事だ。米国のデトロイト交響楽団を相手にタクトを振ってみせた。楽員の一人が評して曰(いわ)く、「滑らかで優雅な指揮」と(共同)▼ロボットの活躍の場は広がっていきそうで、できる仕事をどんどん任せていくと、二〇二五年には、国内で三百五十二万人分の労働力になるとの試算もある。だが、あそこでは、できるものなら今すぐにでも手を借りたい。中国・四川大地震の被災地だ▼救助の手は到底足りず、子どもといわず、お年寄りといわず、まだ数知れぬ人が生き埋めになっている。口惜しいが、生死を分ける目安ともされる発生後「七十二時間」はきのう午後、過ぎてしまった▼ロボット研究に打ち込みながら阪神大震災で亡くなった神戸大大学院生の竸(きそい)基弘さん=名古屋市出身。竸さんと、その遺志を継いだ恩師の「夢」が、災害現場で不明者を捜す実用的な救助ロボの開発だ。この分野の研究者を顕彰する「竸基弘賞」も設けられ、取り組みが続いている▼ASIMOが指揮したのは、人気ミュージカルからの一曲、「見果てぬ夢」。いや、竸さんたちの夢は、きっとかなう。






朝日・「天声人語」
風薫る5月だが、明治の俳人正岡子規は毎年、この月がめぐると不安にかられた。脊椎(せきつい)カリエスで長く伏し、5月にはきまって病気が悪化したからだ▼自らを励まそうとしてか、1902(明治35)年5月から、随筆『病牀(びょうしょう)六尺』の新聞連載を始める。苦痛に耐えてつづった中に、「悟り」をめぐる一節がある。悟りとは、いつでも平気で死ぬことだと思っていたのは誤解だった、と子規は言う。逆に〈如何(いか)なる場合にも平気で生きて居る事であつた〉と境地を述べている▼寝たきりの子規は、母と妹の献身的な介護をうけた。自宅で「平気で生き」ながら、35歳で没するまで、病床から盛んな筆をふるった。現代のお年寄りに置き換えれば、母妹に代わる在宅福祉のささえは、訪問介護ということになるのだろう▼だが、子規の心境で過ごすのは難しい時代になっている。在宅サービスの中心になる訪問介護の事業所が、減っているという。介護保険制度の崩壊を招きかねないと、心配する声も聞こえてくる▼2年前に介護報酬が引き下げられた。経営が悪化し、ヘルパーの賃金が減り、離職が増える。使える金の限られる中、負の循環が「安心」を細らせているようだ。だれもがいつかは老いるし、病む。そのときのために、医療も含め、手を打つには今しかない▼手厚い支えもあってだろう、子規は明るさとユーモアを失わなかった。〈枝豆ヤ三寸飛ンデ口ニ入ル〉などと病床で詠んでいる。平気で生きられる――。その穏やかさが、だれの日々にも必要なのは言うまでもない。


読売・「編集手帳」
江戸川柳に、〈串(くし)といふ字を蒲焼(かばやき)と無筆(むひつ)よみ〉とある。無筆は読み書きができない人をいう。一句に注釈は要るまい◆庶民の文芸が無筆を笑ってみせたのも裏返せば、それだけ多くの人が「串」の字を読めた証しだろう。紛らわしい漢字も昔の人は、〈瓜(うり)に爪(つめ)あり、爪に爪なし〉等々の識別法を工夫して学んできた◆漢字を用いる目安となる常用漢字表(1945文字)に「串」や「爪」は入っていない。「無筆が増えたわけでもあるめえに…」と、江戸から怪訝(けげん)な声が聞こえそうである。声に応えて、でもないが、文化審議会が常用漢字表の見直しを進めている◆このほど公表された追加候補の素案(220字)には「串」「爪」「噂」「匂」「叱」などが並んでいる。「しかられる」よりも「叱られる」ほうが心なしか身にこたえる。この微妙な差も日本語がもつ文化の豊かさだろう。追加漢字の選定は“広き門”がいい◆〈書くたびに鬱(うつ)の字をひく春時雨〉(恩田侑布子)。たしかに毎度毎度、辞書のお世話になる字だが、これも「憂うつ」では雰囲気が伝わらない。「鬱」の字も追加の候補に含まれている。


毎日・「余録」(四川大地震と情報公開)
 ローマの詩人ウェルギリウスには中世から伝わる奇妙な伝承がある。彼の家には各地方を表す木像が置かれ、地方に災いがあれば木像がベルをならした。同時に回転する青銅製の騎士が災いの方向を指し示した▲この遠隔地の災い探知装置の話のルーツは中国だといわれる。2世紀に張衡という人が作った地動儀という仕掛けは、八方に出た竜の口から落ちる玉で地震の方向を知る地震計だった。この装置の話がはるかシルクロードを横断したらしい▲史書はこの地動儀の竜の一つの玉が落ちた数日後、都を遠く離れた今の甘粛省西部から地震の報が届いたと伝えている。おそらく偶然だろうが、遠い地の災害をいち早く知って対策を講じるのは、古代の専制国家にすら求められた(P・ジェームズ他著「古代の発明」東洋書林)▲四川大地震の現地からは生き埋め現場の惨状や被災者の嘆き、なおも刻一刻増え続ける被害が報じられている。中国政府は日本からの救援要員受け入れも決めた。被災の実情は内外のメディアによってこれまでになく生々しく伝えられている▲遠い地の災いに敏感に感応する世界中の人々の心を、被災者救援に結びつける情報公開である。それがあれば四川省の山奥の人々の苦しみも、直ちにローマの市民の心のベルを鳴らす。中国国内でも震災報道を受け義援金募金など民間の支援活動がかつてない広がりを見せている▲指導部の指示を受けた中国メディアは被災者の声より首相の慰問や軍の救援の報道を優先しているという。だがおよそ五輪を開こうという国である。国民と世界の人々の心をつなぐ情報公開の回路は細めることのないよう願いたい。


日経・「春秋」
本紙日曜文化面に「江戸の風格」を連載する野口武彦さんの近著「幕末不戦派軍記」は「世にも太平楽な」下級幕臣4人を狂言回しに使い、幕末維新の「もうひとつの“真実の”物語」を書いている。第二章「彰義隊の巻」は1868年の江戸の市街戦が舞台だ。

▼「彰義隊が立て籠(こも)る上野山へ官軍が総攻撃を掛け」「上野の空は真っ赤で」「至るところに地獄の光景が出現していた」というその出来事を、日本最初の号外「別段 中外新聞」が速報した。新暦になおすと7月5日になるが「別段」の日付・戊辰(ぼしん)5月16日が号外発祥の日とされている。

▼横浜にある日本新聞博物館に行くと、展示ケースに入った現物が見られる。今の新聞と違い、和紙を半折りにしてとじた冊子形なのが珍しい。別のところで探した史料集を繰って記事の内容を確かめると「不戦派軍記」に出てくる場面も現れ、取材の網を広げ、集めた情報を評価、整理する腕前に感心させられる。

▼新聞博物館には以後百数十年の間に発行された号外の主なものが並ぶ。「人類ついに月到達」のような明るいニュースは少なく、ほとんどは戦争や事件、事故、天災だ。改めて、歴史は災厄に満ちていると痛感し、戊辰戦争の戦場をたどる不戦派の4人と同じやり場のない怒りを覚える。「誰のせいでこんな目に」


産経:【産経抄】
作家の伊集院静さんが、故夏目雅子さんの心をつかんだきっかけは、目の前で「憂鬱(ゆううつ)」と漢字でさらさら書いてみせたことだという“伝説”がある。正直言って、いきなり「鬱」の字を手で書けといわれたら自信がない。
 ▼そもそも天下の美女相手に、漢字能力を披露する機会が訪れるわけもないのだが、この字が、常用漢字になる可能性が出てきた。改定作業を進めている文化審議会の漢字小委員会が、現在の1945字に、新たに加える候補として発表した220字のなかに入っていた。
 ▼なるほどこのコラムを含めて、コンピューターを使った文書作りは、今やごく当たり前のこととなっている。うつという読み方を知っていれば、キーを押すだけで出てくるのだから、常用漢字に加えることには異議がない。
 ▼ただ、ほかの候補の漢字を見ると、首をかしげるばかりだ。「岡」「奈」「阪」「韓」や「脇」「謎」など、地名や日常的に使われているこんな漢字まで、含まれていなかった。常用漢字は、漢字使用の目安というが、もとになっているのは、終戦直後に、漢字の使用を制限する目的で制定された当用漢字だ。
 ▼最近、洋画の字幕さえ持て余す若者が急増していることから、吹き替え版にシフトする動きがあるそうだ。知的レベルがそこまで落ちたのは、戦後の間違った国語政策のせいだとする批判も根強い。漢字使用の拡大もけっこうだが、常用漢字という制度そのものを見直す時期ではないだろうか。
 ▼漢字学者の白川静さんの研究成果が広く知られるようになったこともあり、漢字文化復興の機運も高まっている。小欄は、お上の決めた目安に関係なく、必要と思われる漢字を、極力ルビを振った上で使っていくつもりだ。


東京:「筆先」
「ロボット」という言葉は、チェコの作家カレル・チャペックによる造語である。元になったのは強制労働や農奴を意味するチェコ語▼だが、先日、ホンダの二足歩行ロボットASIMO(アシモ)がやったのは、それとはかなり趣の違う仕事だ。米国のデトロイト交響楽団を相手にタクトを振ってみせた。楽員の一人が評して曰(いわ)く、「滑らかで優雅な指揮」と(共同)▼ロボットの活躍の場は広がっていきそうで、できる仕事をどんどん任せていくと、二〇二五年には、国内で三百五十二万人分の労働力になるとの試算もある。だが、あそこでは、できるものなら今すぐにでも手を借りたい。中国・四川大地震の被災地だ▼救助の手は到底足りず、子どもといわず、お年寄りといわず、まだ数知れぬ人が生き埋めになっている。口惜しいが、生死を分ける目安ともされる発生後「七十二時間」はきのう午後、過ぎてしまった▼ロボット研究に打ち込みながら阪神大震災で亡くなった神戸大大学院生の竸(きそい)基弘さん=名古屋市出身。竸さんと、その遺志を継いだ恩師の「夢」が、災害現場で不明者を捜す実用的な救助ロボの開発だ。この分野の研究者を顕彰する「竸基弘賞」も設けられ、取り組みが続いている▼ASIMOが指揮したのは、人気ミュージカルからの一曲、「見果てぬ夢」。いや、竸さんたちの夢は、きっとかなう。










問題  【マスコミ(新聞】』への道!新聞のコラム:参考文献のいろいろ コラムニストは俳句好き!

2008-09-17 03:08:24 | Weblog
高大連携情報誌 『大学受験ニュース』(ブログ版)

【検索の達人  ■■■■】 ■■■■に文字を入力!


NIE=

新聞のコラム:参考文献のいろいろ コラムニストは俳句好き!


全国紙新聞コラム集 (例:平成20年5月16日号:朝刊)
【 新聞コラム】名文のオンパレード!!!

問題  【マスコミ(新聞】』への道!
     マスコミ志望者必携書「月刊新聞ダイジェスト:2008 No547(4月号)他:800円
     定価=840円(本体800円)
     発行日=2008年3月10日
     発行人=唐澤壮一
     発行人=佐々木健一
     発行所=㈱新聞ダイジェスト社


    朝日・「①■■■■」
    日経・「③■■」
    読売・「⑧■■■■」
    毎日・「⑭■■」(四川大地震と情報公開)
    産経:【⑱■■■】
    東京:「⑳■■」
    〒112-0005
    東京都文京区水道2-17-1
    ブラザーハイツ小日向南201号
    電話 03-3818-8011
    FAX 03-3818-8010
    E-mail shimbun@crocus.ocn.ne.jp



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出典:2008年4月号211P





























朝日・「①■■■■」
風薫る5月だが、明治の俳人②正岡■■は毎年、この月がめぐると不安にかられた。脊椎(せきつい)カリエスで長く伏し、5月にはきまって病気が悪化したからだ▼自らを励まそうとしてか、1902(明治35)年5月から、随筆『③■■(びょうしょう)■■』の新聞連載を始める。苦痛に耐えてつづった中に、「悟り」をめぐる一節がある。悟りとは、いつでも平気で死ぬことだと思っていたのは誤解だった、と②■■は言う。逆に〈如何(いか)なる場合にも平気で生きて居る事であつた〉と境地を述べている▼寝たきりの②■■は、母と妹の献身的な介護をうけた。自宅で「平気で生き」ながら、35歳で没するまで、病床から盛んな筆をふるった。現代のお年寄りに置き換えれば、母妹に代わる在宅福祉のささえは、訪問介護ということになるのだろう▼だが、②■■の心境で過ごすのは難しい時代になっている。在宅サービスの中心になる訪問介護の事業所が、減っているという。介護保険制度の崩壊を招きかねないと、心配する声も聞こえてくる▼2年前に介護報酬が引き下げられた。経営が悪化し、ヘルパーの賃金が減り、離職が増える。使える金の限られる中、負の循環が「安心」を細らせているようだ。だれもがいつかは老いるし、病む。そのときのために、医療も含め、手を打つには今しかない▼手厚い支えもあってだろう、②■■は明るさとユーモアを失わなかった。〈枝豆ヤ三寸飛ンデ口ニ入ル〉などと病床で詠んでいる。平気で生きられる――。その穏やかさが、だれの日々にも必要なのは言うまでもない。




日経・「③■■」
本紙日曜文化面に「江戸の風格」を連載する④■■武彦さんの近著「⑤■■不戦派軍記」は「世にも太平楽な」下級幕臣4人を狂言回しに使い、⑤■■維新の「もうひとつの“真実の”物語」を書いている。第二章「彰義隊の巻」は1868年の江戸の市街戦が舞台だ。

▼「彰義隊が立て籠(こも)る上野山へ官軍が総攻撃を掛け」「上野の空は真っ赤で」「至るところに地獄の光景が出現していた」というその出来事を、日本最初の⑥■■「別段 中外新聞」が速報した。新暦になおすと7月5日になるが「別段」の日付・戊辰(ぼしん)5月16日が⑥■■発祥の日とされている。

▼横浜にある日本⑦■■■■館に行くと、展示ケースに入った現物が見られる。今の新聞と違い、和紙を半折りにしてとじた冊子形なのが珍しい。別のところで探した史料集を繰って記事の内容を確かめると「不戦派軍記」に出てくる場面も現れ、取材の網を広げ、集めた情報を評価、整理する腕前に感心させられる。

▼⑦■■■■館には以後百数十年の間に発行された⑥■■の主なものが並ぶ。「人類ついに月到達」のような明るいニュースは少なく、ほとんどは戦争や事件、事故、天災だ。改めて、歴史は災厄に満ちていると痛感し、戊辰戦争の戦場をたどる不戦派の4人と同じやり場のない怒りを覚える。「誰のせいでこんな目に」




読売・「⑧■■■■」
江戸⑨■■に、〈串(くし)といふ字を蒲焼(かばやき)と無筆(むひつ)よみ〉とある。無筆は読み書きができない人をいう。一句に注釈は要るまい◆庶民の文芸が無筆を笑ってみせたのも裏返せば、それだけ多くの人が「串」の字を読めた証しだろう。紛らわしい漢字も昔の人は、〈⑩■(うり)に⑪■(つめ)あり、爪に爪なし〉等々の識別法を工夫して学んできた◆漢字を用いる目安となる常用漢字表(1945文字)に「串」や「爪」は入っていない。「無筆が増えたわけでもあるめえに…」と、江戸から怪訝(けげん)な声が聞こえそうである。声に応えて、でもないが、⑫■■審議会が常用漢字表の見直しを進めている◆このほど公表された追加候補の素案(220字)には「串」「爪」「噂」「匂」「叱」などが並んでいる。「しかられる」よりも「叱られる」ほうが心なしか身にこたえる。この微妙な差も日本語がもつ文化の豊かさだろう。追加漢字の選定は“⑬■き門”がいい◆〈書くたびに鬱(うつ)の字をひく春時雨〉(恩田侑布子)。たしかに毎度毎度、辞書のお世話になる字だが、これも「憂うつ」では雰囲気が伝わらない。「鬱」の字も追加の候補に含まれている。

注:⑫のヒント:2008年5月16日発行の産経新聞 コラム 産経:【⑱■■■】 



毎日・「⑭■■」(四川大地震と情報公開)
 ローマの⑮■人ウェルギリウスには中世から伝わる奇妙な伝承がある。彼の家には各地方を表す木像が置かれ、地方に災いがあれば木像が⑯■■をならした。同時に回転する青銅製の騎士が災いの方向を指し示した▲この遠隔地の災い探知装置の話のルーツは中国だといわれる。2世紀に張衡という人が作った地動儀という仕掛けは、八方に出た竜の口から落ちる玉で地震の方向を知る地震計だった。この装置の話がはるかシルクロードを横断したらしい▲史書はこの地動儀の竜の一つの玉が落ちた数日後、都を遠く離れた今の甘粛省西部から地震の報が届いたと伝えている。おそらく偶然だろうが、遠い地の災害をいち早く知って対策を講じるのは、古代の専制国家にすら求められた(P・ジェームズ他著「⑰■■の発明」東洋書林)▲四川大地震の現地からは生き埋め現場の惨状や被災者の嘆き、なおも刻一刻増え続ける被害が報じられている。中国政府は日本からの救援要員受け入れも決めた。被災の実情は内外のメディアによってこれまでになく生々しく伝えられている▲遠い地の災いに敏感に感応する世界中の人々の心を、被災者救援に結びつける情報公開である。それがあれば四川省の山奥の人々の苦しみも、直ちにローマの市民の心の⑯■■を鳴らす。中国国内でも震災報道を受け義援金募金など民間の支援活動がかつてない広がりを見せている▲指導部の指示を受けた中国メディアは被災者の声より首相の慰問や軍の救援の報道を優先しているという。だがおよそ五輪を開こうという国である。国民と世界の人々の心をつなぐ情報公開の回路は細めることのないよう願いたい。





産経:【⑱■■■】
作家の⑲■■■■さんが、故夏目雅子さんの心をつかんだきっかけは、目の前で「憂鬱(ゆううつ)」と漢字でさらさら書いてみせたことだという“伝説”がある。正直言って、いきなり「鬱」の字を手で書けといわれたら自信がない。
 ▼そもそも天下の美女相手に、漢字能力を披露する機会が訪れるわけもないのだが、この字が、常用漢字になる可能性が出てきた。改定作業を進めている⑫文化審議会の漢字小委員会が、現在の1945字に、新たに加える候補として発表した220字のなかに入っていた。
 ▼なるほどこのコラムを含めて、コンピューターを使った文書作りは、今やごく当たり前のこととなっている。うつという読み方を知っていれば、キーを押すだけで出てくるのだから、常用漢字に加えることには異議がない。
 ▼ただ、ほかの候補の漢字を見ると、首をかしげるばかりだ。「岡」「奈」「阪」「韓」や「脇」「謎」など、地名や日常的に使われているこんな漢字まで、含まれていなかった。常用漢字は、漢字使用の目安というが、もとになっているのは、終戦直後に、漢字の使用を制限する目的で制定された当用漢字だ。
 ▼最近、洋画の字幕さえ持て余す若者が急増していることから、吹き替え版にシフトする動きがあるそうだ。知的レベルがそこまで落ちたのは、戦後の間違った国語政策のせいだとする批判も根強い。漢字使用の拡大もけっこうだが、常用漢字という制度そのものを見直す時期ではないだろうか。
 ▼漢字学者の白川静さんの研究成果が広く知られるようになったこともあり、漢字文化復興の機運も高まっている。小欄は、お上の決めた目安に関係なく、必要と思われる漢字を、極力ルビを振った上で使っていくつもりだ。


東京:「⑳■■」
「ロボット」という言葉は、チェコの作家カレル・チャペックによる造語である。元になったのは強制労働や農奴を意味するチェコ語▼だが、先日、ホンダの二足歩行ロボットASIMO(アシモ)がやったのは、それとはかなり趣の違う仕事だ。米国のデトロイト交響楽団を相手にタクトを振ってみせた。楽員の一人が評して曰(いわ)く、「滑らかで優雅な指揮」と(共同)▼ロボットの活躍の場は広がっていきそうで、できる仕事をどんどん任せていくと、二〇二五年には、国内で三百五十二万人分の労働力になるとの試算もある。だが、あそこでは、できるものなら今すぐにでも手を借りたい。中国・四川大地震の被災地だ▼救助の手は到底足りず、子どもといわず、お年寄りといわず、まだ数知れぬ人が生き埋めになっている。口惜しいが、生死を分ける目安ともされる発生後「七十二時間」はきのう午後、過ぎてしまった▼ロボット研究に打ち込みながら阪神大震災で亡くなった神戸大大学院生の竸(きそい)基弘さん=名古屋市出身。竸さんと、その遺志を継いだ恩師の「夢」が、災害現場で不明者を捜す実用的な救助ロボの開発だ。この分野の研究者を顕彰する「竸基弘賞」も設けられ、取り組みが続いている▼ASIMOが指揮したのは、人気ミュージカルからの一曲、「見果てぬ夢」。いや、竸さんたちの夢は、きっとかなう。






朝日・「天声人語」
風薫る5月だが、明治の俳人正岡子規は毎年、この月がめぐると不安にかられた。脊椎(せきつい)カリエスで長く伏し、5月にはきまって病気が悪化したからだ▼自らを励まそうとしてか、1902(明治35)年5月から、随筆『病牀(びょうしょう)六尺』の新聞連載を始める。苦痛に耐えてつづった中に、「悟り」をめぐる一節がある。悟りとは、いつでも平気で死ぬことだと思っていたのは誤解だった、と子規は言う。逆に〈如何(いか)なる場合にも平気で生きて居る事であつた〉と境地を述べている▼寝たきりの子規は、母と妹の献身的な介護をうけた。自宅で「平気で生き」ながら、35歳で没するまで、病床から盛んな筆をふるった。現代のお年寄りに置き換えれば、母妹に代わる在宅福祉のささえは、訪問介護ということになるのだろう▼だが、子規の心境で過ごすのは難しい時代になっている。在宅サービスの中心になる訪問介護の事業所が、減っているという。介護保険制度の崩壊を招きかねないと、心配する声も聞こえてくる▼2年前に介護報酬が引き下げられた。経営が悪化し、ヘルパーの賃金が減り、離職が増える。使える金の限られる中、負の循環が「安心」を細らせているようだ。だれもがいつかは老いるし、病む。そのときのために、医療も含め、手を打つには今しかない▼手厚い支えもあってだろう、子規は明るさとユーモアを失わなかった。〈枝豆ヤ三寸飛ンデ口ニ入ル〉などと病床で詠んでいる。平気で生きられる――。その穏やかさが、だれの日々にも必要なのは言うまでもない。


読売・「編集手帳」
江戸川柳に、〈串(くし)といふ字を蒲焼(かばやき)と無筆(むひつ)よみ〉とある。無筆は読み書きができない人をいう。一句に注釈は要るまい◆庶民の文芸が無筆を笑ってみせたのも裏返せば、それだけ多くの人が「串」の字を読めた証しだろう。紛らわしい漢字も昔の人は、〈瓜(うり)に爪(つめ)あり、爪に爪なし〉等々の識別法を工夫して学んできた◆漢字を用いる目安となる常用漢字表(1945文字)に「串」や「爪」は入っていない。「無筆が増えたわけでもあるめえに…」と、江戸から怪訝(けげん)な声が聞こえそうである。声に応えて、でもないが、文化審議会が常用漢字表の見直しを進めている◆このほど公表された追加候補の素案(220字)には「串」「爪」「噂」「匂」「叱」などが並んでいる。「しかられる」よりも「叱られる」ほうが心なしか身にこたえる。この微妙な差も日本語がもつ文化の豊かさだろう。追加漢字の選定は“広き門”がいい◆〈書くたびに鬱(うつ)の字をひく春時雨〉(恩田侑布子)。たしかに毎度毎度、辞書のお世話になる字だが、これも「憂うつ」では雰囲気が伝わらない。「鬱」の字も追加の候補に含まれている。


毎日・「余録」(四川大地震と情報公開)
 ローマの詩人ウェルギリウスには中世から伝わる奇妙な伝承がある。彼の家には各地方を表す木像が置かれ、地方に災いがあれば木像がベルをならした。同時に回転する青銅製の騎士が災いの方向を指し示した▲この遠隔地の災い探知装置の話のルーツは中国だといわれる。2世紀に張衡という人が作った地動儀という仕掛けは、八方に出た竜の口から落ちる玉で地震の方向を知る地震計だった。この装置の話がはるかシルクロードを横断したらしい▲史書はこの地動儀の竜の一つの玉が落ちた数日後、都を遠く離れた今の甘粛省西部から地震の報が届いたと伝えている。おそらく偶然だろうが、遠い地の災害をいち早く知って対策を講じるのは、古代の専制国家にすら求められた(P・ジェームズ他著「古代の発明」東洋書林)▲四川大地震の現地からは生き埋め現場の惨状や被災者の嘆き、なおも刻一刻増え続ける被害が報じられている。中国政府は日本からの救援要員受け入れも決めた。被災の実情は内外のメディアによってこれまでになく生々しく伝えられている▲遠い地の災いに敏感に感応する世界中の人々の心を、被災者救援に結びつける情報公開である。それがあれば四川省の山奥の人々の苦しみも、直ちにローマの市民の心のベルを鳴らす。中国国内でも震災報道を受け義援金募金など民間の支援活動がかつてない広がりを見せている▲指導部の指示を受けた中国メディアは被災者の声より首相の慰問や軍の救援の報道を優先しているという。だがおよそ五輪を開こうという国である。国民と世界の人々の心をつなぐ情報公開の回路は細めることのないよう願いたい。


日経・「春秋」
本紙日曜文化面に「江戸の風格」を連載する野口武彦さんの近著「幕末不戦派軍記」は「世にも太平楽な」下級幕臣4人を狂言回しに使い、幕末維新の「もうひとつの“真実の”物語」を書いている。第二章「彰義隊の巻」は1868年の江戸の市街戦が舞台だ。

▼「彰義隊が立て籠(こも)る上野山へ官軍が総攻撃を掛け」「上野の空は真っ赤で」「至るところに地獄の光景が出現していた」というその出来事を、日本最初の号外「別段 中外新聞」が速報した。新暦になおすと7月5日になるが「別段」の日付・戊辰(ぼしん)5月16日が号外発祥の日とされている。

▼横浜にある日本新聞博物館に行くと、展示ケースに入った現物が見られる。今の新聞と違い、和紙を半折りにしてとじた冊子形なのが珍しい。別のところで探した史料集を繰って記事の内容を確かめると「不戦派軍記」に出てくる場面も現れ、取材の網を広げ、集めた情報を評価、整理する腕前に感心させられる。

▼新聞博物館には以後百数十年の間に発行された号外の主なものが並ぶ。「人類ついに月到達」のような明るいニュースは少なく、ほとんどは戦争や事件、事故、天災だ。改めて、歴史は災厄に満ちていると痛感し、戊辰戦争の戦場をたどる不戦派の4人と同じやり場のない怒りを覚える。「誰のせいでこんな目に」


産経:【産経抄】
作家の伊集院静さんが、故夏目雅子さんの心をつかんだきっかけは、目の前で「憂鬱(ゆううつ)」と漢字でさらさら書いてみせたことだという“伝説”がある。正直言って、いきなり「鬱」の字を手で書けといわれたら自信がない。
 ▼そもそも天下の美女相手に、漢字能力を披露する機会が訪れるわけもないのだが、この字が、常用漢字になる可能性が出てきた。改定作業を進めている文化審議会の漢字小委員会が、現在の1945字に、新たに加える候補として発表した220字のなかに入っていた。
 ▼なるほどこのコラムを含めて、コンピューターを使った文書作りは、今やごく当たり前のこととなっている。うつという読み方を知っていれば、キーを押すだけで出てくるのだから、常用漢字に加えることには異議がない。
 ▼ただ、ほかの候補の漢字を見ると、首をかしげるばかりだ。「岡」「奈」「阪」「韓」や「脇」「謎」など、地名や日常的に使われているこんな漢字まで、含まれていなかった。常用漢字は、漢字使用の目安というが、もとになっているのは、終戦直後に、漢字の使用を制限する目的で制定された当用漢字だ。
 ▼最近、洋画の字幕さえ持て余す若者が急増していることから、吹き替え版にシフトする動きがあるそうだ。知的レベルがそこまで落ちたのは、戦後の間違った国語政策のせいだとする批判も根強い。漢字使用の拡大もけっこうだが、常用漢字という制度そのものを見直す時期ではないだろうか。
 ▼漢字学者の白川静さんの研究成果が広く知られるようになったこともあり、漢字文化復興の機運も高まっている。小欄は、お上の決めた目安に関係なく、必要と思われる漢字を、極力ルビを振った上で使っていくつもりだ。


東京:「筆先」
「ロボット」という言葉は、チェコの作家カレル・チャペックによる造語である。元になったのは強制労働や農奴を意味するチェコ語▼だが、先日、ホンダの二足歩行ロボットASIMO(アシモ)がやったのは、それとはかなり趣の違う仕事だ。米国のデトロイト交響楽団を相手にタクトを振ってみせた。楽員の一人が評して曰(いわ)く、「滑らかで優雅な指揮」と(共同)▼ロボットの活躍の場は広がっていきそうで、できる仕事をどんどん任せていくと、二〇二五年には、国内で三百五十二万人分の労働力になるとの試算もある。だが、あそこでは、できるものなら今すぐにでも手を借りたい。中国・四川大地震の被災地だ▼救助の手は到底足りず、子どもといわず、お年寄りといわず、まだ数知れぬ人が生き埋めになっている。口惜しいが、生死を分ける目安ともされる発生後「七十二時間」はきのう午後、過ぎてしまった▼ロボット研究に打ち込みながら阪神大震災で亡くなった神戸大大学院生の竸(きそい)基弘さん=名古屋市出身。竸さんと、その遺志を継いだ恩師の「夢」が、災害現場で不明者を捜す実用的な救助ロボの開発だ。この分野の研究者を顕彰する「竸基弘賞」も設けられ、取り組みが続いている▼ASIMOが指揮したのは、人気ミュージカルからの一曲、「見果てぬ夢」。いや、竸さんたちの夢は、きっとかなう。










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NIE(■ewspaper■n ■ducation(教育に■■を))とは、学校等で■■を教材
2008-05-16 10:11:36 | WeblogNIE=(Newspaper in Education(教育に■■を)!!!

NIE(■ewspaper■n ■ducation(教育に■■を))とは、学校等で■■を教材にして勉強する学習である。アメリカで1930年代にニューヨークタイムズが■■の教材としてのハイスクールでの利用を考え、始めたもので、NIEを教育上利用している国家は、現代では世界で52か国にのぼっている。日本■■教育文化財団が推進している。

[編集] 概要
①■■を1面から最終面まで、記事や写真、広告までを読み解く
②複数の■■を読み比べる
③読んだ結果について、ディベートを行う

これらの事を主軸とする。記事の切抜きや一部を使用する今までの■■を用いた教育とは違い、学習に対する自主的で積極的なアプローチや情報の自己判断力の向上を促進させるものである。また活字離れを食い止める効果があるとされる。ディベートを行う場合、よく読み込まなくてはならないため、読解力も付けられる。

特に複数の■■を読み比べる事で■■のウソや偏向報道を見抜く目を養うことはメディア・リテラシーにも通じ、現代の子供にとってとても重要な意味合いを持つ。これは、松本サリン事件の時にも言われた事だが、こういったNIEを受けてきた子供達が将来大人になった時に報道被害を食い止められるのでは、とされる。

また、近年の大人にまで及んでいる政治に対する無関心(これは日本に限ったことではない)を打破する事にも繋がる。実際、今までの授業での社会科などでの政治に対する扱いは、概念的なことが中心で、今のホットな政治の動きについてはあまり扱わない事が多い。そのため、今の政治の動きを知ることで、関心を持つきっかけになる。

教育界と■■界が協力し、推進することで家庭や学校に負担をかけずにNIEを行うことができるようになっている。具体的には、一定期間複数の■■を供与すること等が上げられる。


[編集] 問題点
■■社は私企業であり、結局のところは、近年の■■の売り上げの落ち込みのテコ入れ策でしかない。また、そういった■■の売り込みそのものを教育の現場に持ち込む事に対する批判。
■■界において、昔から延々と発生し続ける記事の捏造や冤罪報道といった報道被害の情報は伏せられてしまい、結局意味が無いのでは。
■■社が協力するのであれば、既存の権力構造から抜け出した考えをもち、偏向報道を見抜く事は不可能なのでは。
■■紙面の文章の言い回しは、一般社会ではありえないか、あるいは非常に抽象的かつ曖昧な表現が多い。そのうえ最近の■■は、固有名詞を除けば、文字の表記を常用漢字に限定したり、必要以上に開いた表記(話す→はなす)を採用しており、文章の読解力向上に特に効果があるとは言い難い。
教師が意識して、特定の■■のみ教材として用意することによる、恣意的な教育の可能性。
そもそも、日本の■■は諸外国のそれと比較して、出版部数や価格の割に、内容が非常に薄い(欧米の日刊紙の半分程度しかない)。

[編集] 関連書籍
NIEの20年―教育に■■を 妹尾 彰 ISBN 4893802976
ニュースがまちがった日 高校生が追った松本サリン事件報道、そして十年 ISBN 4811807146
オトナのメディア・リテラシー 渡辺真由子 リベルタ出版

[編集] 外部リンク
NIE (日本■■教育文化財団)
中日■■社コンクール
この「NIE」は、教育に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆、訂正などして下さる協力者を求めています。(P:教育)

"http://ja.wikipedia.org/wiki/NIE" より作成

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アメリカ教育使節団報告書の中で、■■ローマ字化が勧告されたことを受けてのものであった
、■■審議会が改組された。■■審議会令では、「■■の改善に関する事項」「■■の教育の振
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NIE(■ewspaper■n ■ducation(教育に■■を))とは、学校等で■■を教材にして勉強する学習である。アメリカで1930年代にニューヨークタイムズが■■の教材としてのハイスクールでの利用を考え、始めたもので、NIEを教育上利用している国家は、現代では世界で52か国にのぼっている。日本■■教育文化財団が推進している。

[編集] 概要
①■■を1面から最終面まで、記事や写真、広告までを読み解く
②複数の■■を読み比べる
③読んだ結果について、ディベートを行う

これらの事を主軸とする。記事の切抜きや一部を使用する今までの■■を用いた教育とは違い、学習に対する自主的で積極的なアプローチや情報の自己判断力の向上を促進させるものである。また活字離れを食い止める効果があるとされる。ディベートを行う場合、よく読み込まなくてはならないため、読解力も付けられる。

特に複数の■■を読み比べる事で■■のウソや偏向報道を見抜く目を養うことはメディア・リテラシーにも通じ、現代の子供にとってとても重要な意味合いを持つ。これは、松本サリン事件の時にも言われた事だが、こういったNIEを受けてきた子供達が将来大人になった時に報道被害を食い止められるのでは、とされる。

また、近年の大人にまで及んでいる政治に対する無関心(これは日本に限ったことではない)を打破する事にも繋がる。実際、今までの授業での社会科などでの政治に対する扱いは、概念的なことが中心で、今のホットな政治の動きについてはあまり扱わない事が多い。そのため、今の政治の動きを知ることで、関心を持つきっかけになる。

教育界と■■界が協力し、推進することで家庭や学校に負担をかけずにNIEを行うことができるようになっている。具体的には、一定期間複数の■■を供与すること等が上げられる。


[編集] 問題点
■■社は私企業であり、結局のところは、近年の■■の売り上げの落ち込みのテコ入れ策でしかない。また、そういった■■の売り込みそのものを教育の現場に持ち込む事に対する批判。
■■界において、昔から延々と発生し続ける記事の捏造や冤罪報道といった報道被害の情報は伏せられてしまい、結局意味が無いのでは。
■■社が協力するのであれば、既存の権力構造から抜け出した考えをもち、偏向報道を見抜く事は不可能なのでは。
■■紙面の文章の言い回しは、一般社会ではありえないか、あるいは非常に抽象的かつ曖昧な表現が多い。そのうえ最近の■■は、固有名詞を除けば、文字の表記を常用漢字に限定したり、必要以上に開いた表記(話す→はなす)を採用しており、文章の読解力向上に特に効果があるとは言い難い。
教師が意識して、特定の■■のみ教材として用意することによる、恣意的な教育の可能性。
そもそも、日本の■■は諸外国のそれと比較して、出版部数や価格の割に、内容が非常に薄い(欧米の日刊紙の半分程度しかない)。

[編集] 関連書籍
NIEの20年―教育に■■を 妹尾 彰 ISBN 4893802976
ニュースがまちがった日 高校生が追った松本サリン事件報道、そして十年 ISBN 4811807146
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[ 文学館・ランキング①~⑩]

文学館 の検索結果 約 79万5000 件


堂々の首位!!!
文学館リスト
はじめに 全国にある日本の近代作家関係を中心とした文学館のリストです。生家や旧居で一般公開しているところ、図書館・博物館のコーナー ..... 鳥羽みなとまち文学館(岩田準一と乱歩・夢二館/乱歩館・鳥羽文学ギャラリー), 三重県, 鳥羽市鳥羽2-5-2 ...
www.shokoku.ac.jp/~nakazawa/bungaku.html - 48k - キャッシュ - 関連ページ



2位   頑張れ!「3位:日本近代文学館のホームページ」・8位神奈川近代文学館/(財)神奈川文学振興会


山梨県立文学館ようこそ山梨県立文学館へ。あなたは 番目のお客様です。 山 梨 県 立 文 学 館 〒400-0065 山梨県甲府市貢川1丁目5番35号 TEL:055-235-8080 FAX:055-226-9032.
www.bungakukan.pref.yamanashi.jp/ - 12k - キャッシュ - 関連ページ



3位
日本近代文学館のホームページ
東京都目黒区。明治以降の日本の文学に関する図書、雑誌、新聞、原稿等。有料。閲覧可、貸出不可。
www.bungakukan.or.jp/ - 1k - キャッシュ - 関連ページ



4位
仙台文学館青葉区。施設紹介、交通案内、文学館カレンダー、企画展示・催し情報、友の会の案内。
www.lit.city.sendai.jp/ - 16k - キャッシュ - 関連ページ



5位
鎌倉文学館鎌倉にゆかりの文学者は川端康成、夏目漱石、芥川龍之介、与謝野晶子ら300人以上います。鎌倉文学館で鎌倉ゆかりの文学者の直筆原稿や手紙、愛用品などを収集保存し、展示しています。
www.kamakurabungaku.com/ - 11k - キャッシュ - 関連ページ



6位
文学館 - Wikipedia文学館は個人作家の記念館などが先行してあり、1967年の日本近代文学館の開館をきっかけに「文学館」の呼称が一般化し、作品の肉筆原稿や構想メモ、掲載誌や初版本、書簡など文学資料の散逸を危惧した要請を受け各地に文学館が建設されている。 ...
ja.wikipedia.org/wiki/文学館 - 73k - キャッシュ - 関連ページ



7位
北海道立文学館ホームページ中央区。北海道にゆかりのある文学作品、雑誌を収蔵。行事案内、収蔵作品紹介。
www.h-bungaku.or.jp/ - 2k - キャッシュ - 関連ページ



8位
神奈川近代文学館/(財)神奈川文学振興会|HOME神奈川近代文学館の公式ホームページ 閲覧室ミニ展示 特集 桃太郎の世界―滑川道夫文庫資料を中心に― 常設展「文学の森へ 神奈川と作家たち」展 生誕80年 澁澤龍彦回顧展 ここちよいサロン 渋沢龍彦 渋沢竜彦 出口裕弘「生身の澁澤龍彦」 文学館交流展 ...
www.kanabun.or.jp/ - 10k - キャッシュ - 関連ページ



9位
さいたま文学館ホームページさいたま文学館の利用に関する情報、施設の紹介、講座やイベントなど 【ご利用についての情報】 ... 一部資料で、閲覧準備中の場合もございますが、どうぞご了承ください ■文学館・博物館・図書館・関連サイトへのリンク集 ■小・中学生のみなさんへ ...
www.mmjp.or.jp/saibun/ - 10k - キャッシュ - 関連ページ


10位

姫路文学館公式ホームページ姫路文学館公式ホームページ。施設のご案内、交通案内、年間行事予定、特別展、イベント、和辻哲郎文化賞、主な収蔵資料、館発行の刊行物・図録、友の会などを紹介。
www.city.himeji.lg.jp/bungaku/ - 12k - キャッシュ - 関連ページ



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アメリカ教育使節団報告書の中で、■■ローマ字化が勧告されたことを受けてのものであった

2008-09-17 03:00:40 | Weblog
【国語審議会】

高大連携情報誌 『大学受験ニュース』(ブログ版)

目次 [非表示]
1 略史
1.1 改組前の時代
1.1.1 戦前の活動
1.1.2 当用漢字表と現代かなづかい
1.2 改組後の時代
1.2.1 当初の活動
1.2.2 ローマ字化政策論議
1.2.3 路線対立
1.2.4 方針転換
1.2.5 常用漢字表と現代仮名遣い
1.2.6 文化審議会へ
2 関連項目
3 外部リンク



[編集] 略史

[編集] 改組前の時代

[編集] 戦前の活動
1934年、それまでの臨時■■調査会に代わって、■■審議会官制が公布された。会長は元逓信大臣の南弘であった。1935年に第1回総会が開かれた。

活動は■■政策全般にわたったが、わけても漢字の字体・字数および仮名遣いに関する議論が中心となった。漢字字体については、1937年に「漢字字体整理案」を採決した。漢字字数については、1942年6月、「標準漢字表」案2528字を議決、12月に文部省から修正発表された。この漢字表はなお実効性を持たず、戦後に引き継がれた。また、仮名遣いについては、1939年に諸案の集成を発表し、1942年に漢字の字音について「新字音仮名遣表」を議決、答申したが、これもすぐには実効性を持たなかった。

このほか、1942年に「■■ノ横書ニ関スル件」を議決、答申した。


[編集] 当用漢字表と現代かなづかい
1945年に第二次世界大戦が集結した後、11月に「標準漢字表」の再検討が始まった。また、仮名遣いの改訂作業も進んだ。1946年9月に「現代かなづかい」が、11月に「当用漢字表」が、それぞれ議決、答申された。この2つは、11月、日本国憲法発布の直後に内閣告示・訓令された。

現代かなづかいは、歴史的仮名遣いを改めて表音式に近づけたものである。当用漢字表は、日常使用する漢字を原則として1850字に制限し、新字体を採用するというものである。これらが公布されたことによって、日本語の表記基準は大きな転換期を迎えた。社会的にも議論が起こり、それぞれの立場が鋭く対立することになった。

なお、「当用漢字表」の告示後、1948年に「当用漢字別表」(教育漢字)および「当用漢字音訓表」が、1949年に「当用漢字字体表」が内閣告示・訓令された。


[編集] 改組後の時代

[編集] 当初の活動
1949年、文部省設置法制定に伴って、■■審議会が改組された。■■審議会令では、「■■の改善に関する事項」「■■の教育の振興に関する事項」のほか、「ローマ字に関する事項」を調査審議し、建議することが定められた(ローマ字に関する議論は次節で述べる)。その年の7月には、「中国地名・人名の書き方の表」を採択、建議した。

1951年には「人名用漢字別表」92字を議決した(同年、内閣告示・訓令)。その後、■■審議会は人名用漢字について議論をすることが少なく、1970年代以降、字数追加作業の中心は法務省に移った。なお、同じ1951年には「公用文作成の要領」も発表されている。

1952年には「これからの敬語」を決定した。敬語に関しては、ずっと後の2000年、最後となる第22会委員会で「現代社会における敬意表現」を答申し、TPOを含めた広い意味での敬意表現について考えを示した。

送り仮名については、1946年に文部省■■調査室から「送りがなのつけ方」が出ていたが、■■審議会でも1958年「送りがなのつけ方」を可決し、翌1959年、内閣告示・訓令された。ところが、これは一般には評判が悪く、後の1972年に「送りがなのつけ方」の改定について答申が出された。翌1973年に、改訂版に当たる「送り仮名の付け方」が内閣告示・訓令された。

改組後の■■審議会の重要課題として、当用漢字表および現代かなづかいの見直しがあった。1954年には、28字の入れ替えを含む「当用漢字補正資料」を決議した。ただし、この資料は1960年の総会で再検討が必要とされるなど、たなざらしが続いた。


[編集] ローマ字化政策論議
改組後は、国語審議会令に明記されているとおり、■■のローマ字化政策が正面から議論されるようになった。これは、アメリカ教育使節団報告書の中で、■■ローマ字化が勧告されたことを受けてのものであった。第1期から第5期までの会長を務めた土岐善麿(任期1949年~1961年)自身もローマ字論者であった。1950年には、ローマ字調査分科審議会が置かれた(1962年に廃止)。結果的には、今日に至るまで■■がローマ字化されることはなかったが、学校教育は影響を受けることとなった。

1953年に「ローマ字つづり方の単一化について」が建議された。ヘボン式・日本式・訓令式を一本化すべき必要が述べられ、1954年、訓令式を中心とする「ローマ字のつづり方」の内閣告示・訓令に至った。

学校でのローマ字教育は、1947年から小学4年生以上に行われていたが、「ローマ字のつづり方」の告示を受けて、1955年度から学校教育の場で訓令式ローマ字を用いるようになった。1958年告示の「小・中学校学習指導要領■■科編」では、ローマ字学習は40時間行うこととされたが、1968年告示の「小学校学習指導要領」では、ローマ字学習が縮小されることとなった。


[編集] 路線対立
戦後の■■審議会は、■■ローマ字化論者、または、漢字を廃止し仮名文字化しようとする論者(カナモジ論者)の発言力が大きかった。会長の土岐がローマ字論者であったほか、松坂忠則(カナモジカイ理事長)・伊藤忠兵衛らカナモジ論者の顔ぶれが並んだ。審議内容としても、「地名・人名のかな書きについて」(1961年報告)など、国語表記の仮名文字化に関する議論が行われていた。

ローマ字論者・カナモジ論者らの改革派(表音派)と、表音化に疑問を呈する慎重派(表意派)とは、ことごとく対立した。第5期に当たる1961年3月の総会で、■■審議会委員等推薦協議会のありかたをめぐって、対立は決定的となった。委員の推薦にあたって、毎回、同じ顔ぶれの多数の改革派が選出されることに反対するとして、慎重派の宇野精一・成瀬正勝・山岸徳平・塩田良平・舟橋聖一が退席・脱退した。荒木萬壽夫文部大臣は翌々日の記者会見で、審議会委員の選出方法・国語改革の実施方法を再検討したいと語った。この経緯は社会的に大きな反響を呼んだ。

6月開かれた推薦協議会で、緒方信一文部次官は、審議会のあり方についての基本問題を次期(第6期)審議会で検討するよう要望した。第6期審議会委員の人事は難航し、宇野のほか井上靖・時枝誠記の名も挙がったが辞退された。

1962年、内閣は「■■審議会令の一部を改正する政令」を公布した。■■審議会は文部大臣の諮問に応ずる機関となり、同時に、委員の推薦方式廃止・ローマ字調査分科審議会の廃止・会議の原則公開の廃止などが決められた。かくして、■■審議会においては、■■の表音化についての議論は鎮静した。

第6期の審議会では、「■■の改善について」が可決された。文中、「過去における伝統的なものと、将来における発展的創造的なもののいずれをも尊重する立場に立ちながら、各方面の要求を考慮して、適切な調和点の発見に努めなければならない」とあるとおり、審議会は融和的な方向へ向かうこととなった。


[編集] 方針転換
1966年の総会で、中村梅吉文部大臣から「■■改善の具体策について」の諮問があった。その挨拶で、中村大臣は「今後のご審議にあたりましては、当然のことながら■■の表記は、漢字かなまじり文によることを前提とし、……」と述べ、ここに■■審議会の方針は大きく転換した。以後の活動は、(1)当用漢字表の取り扱い(音訓・字体の検討を含む)(2)送り仮名(3)仮名遣いの検討を中心とすることになった。つまりは、従来の「当用漢字表」「現代かなづかい」「送りがなのつけ方」の見直しということであった。

その後、1968年に文化庁が発足し、■■審議会はその所轄に入った。

1971年、「当用漢字改定音訓表」がまとめられた(翌年答申、1973年内閣告示・訓令)。これは、旧「音訓表」に357の音訓を追加し、本表と合わせて「明日(あす)」「小豆(あずき)」「海女(あま)」など例外的な読みを認める「付表」を添えるものである。前文には「一般の社会生活における、良い文章表現のための目安として設定された」とあり、旧「音訓表」にあった制限的な色合いが緩和されている点が特色である。

送り仮名については、前述のように1973年に「送り仮名の付け方」が内閣告示・訓令されて一応の解決を見た。しかし、漢字表の見直しと仮名遣いについては、その後も議論が難航した。


[編集] 常用漢字表と現代仮名遣い
1970年代以降の■■審議会の方針は、「制限から目安へ」という方向へ移行した。漢字表の改訂は、文字を制限するのではなく、緩和する方針がとられた。

1977年には、「新漢字表試案」が公開され、当用漢字表の文字に83字を追加・33字を除外した1900字が示された。その後、字数が増え、1979年には「常用漢字表」1926字が中間答申された。結局、1981年10月に「常用漢字表」1945字として内閣告示・訓令された。

これに先立つ1981年7月には、改訂「現代仮名遣い」が内閣告示・訓令された。

「常用漢字表」の前書きには「一般の社会生活において、現代の■■を書き表す場合の漢字使用の目安を示すものである」とある。また、「現代仮名遣い」の前書きには「一般の社会生活において、現代の■■を書き表すための仮名遣いのよりどころを示すものであるとある。目安・よりどころとはいえ、公文書をはじめ一定の拘束力はあったが、かつての制限色は見られなくなった。


[編集] 文化審議会へ
1991年、「外来語の表記」が内閣告示・訓令された。これが■■審議会の答申により内閣告示・訓令された最後の施策となった。

中央省庁再編の動きに伴い、審議会の数を削減することが決定された。■■審議会は、2000年に、「現代社会における敬意表現」「表外漢字字体表」などを答申して、翌年廃止された。以後は、文化審議会■■分科会が内容を引き継いでいる。


[編集] 関連項目
■■国字問題

[編集] 外部リンク
■■施策情報システム(文化庁)

カテゴリ: 審議会 | ■■政策

最終更新 2007年12月18日 (火) 13:25。Wikipedia®









国語審議会


目次 [非表示]
1 略史
1.1 改組前の時代
1.1.1 戦前の活動
1.1.2 当用漢字表と現代かなづかい
1.2 改組後の時代
1.2.1 当初の活動
1.2.2 ローマ字化政策論議
1.2.3 路線対立
1.2.4 方針転換
1.2.5 常用漢字表と現代仮名遣い
1.2.6 文化審議会へ
2 関連項目
3 外部リンク



[編集] 略史

[編集] 改組前の時代

[編集] 戦前の活動
1934年、それまでの臨時国語調査会に代わって、国語審議会官制が公布された。会長は元逓信大臣の南弘であった。1935年に第1回総会が開かれた。

活動は国語政策全般にわたったが、わけても漢字の字体・字数および仮名遣いに関する議論が中心となった。漢字字体については、1937年に「漢字字体整理案」を採決した。漢字字数については、1942年6月、「標準漢字表」案2528字を議決、12月に文部省から修正発表された。この漢字表はなお実効性を持たず、戦後に引き継がれた。また、仮名遣いについては、1939年に諸案の集成を発表し、1942年に漢字の字音について「新字音仮名遣表」を議決、答申したが、これもすぐには実効性を持たなかった。

このほか、1942年に「国語ノ横書ニ関スル件」を議決、答申した。


[編集] 当用漢字表と現代かなづかい
1945年に第二次世界大戦が集結した後、11月に「標準漢字表」の再検討が始まった。また、仮名遣いの改訂作業も進んだ。1946年9月に「現代かなづかい」が、11月に「当用漢字表」が、それぞれ議決、答申された。この2つは、11月、日本国憲法発布の直後に内閣告示・訓令された。

現代かなづかいは、歴史的仮名遣いを改めて表音式に近づけたものである。当用漢字表は、日常使用する漢字を原則として1850字に制限し、新字体を採用するというものである。これらが公布されたことによって、日本語の表記基準は大きな転換期を迎えた。社会的にも議論が起こり、それぞれの立場が鋭く対立することになった。

なお、「当用漢字表」の告示後、1948年に「当用漢字別表」(教育漢字)および「当用漢字音訓表」が、1949年に「当用漢字字体表」が内閣告示・訓令された。


[編集] 改組後の時代

[編集] 当初の活動
1949年、文部省設置法制定に伴って、国語審議会が改組された。国語審議会令では、「国語の改善に関する事項」「国語の教育の振興に関する事項」のほか、「ローマ字に関する事項」を調査審議し、建議することが定められた(ローマ字に関する議論は次節で述べる)。その年の7月には、「中国地名・人名の書き方の表」を採択、建議した。

1951年には「人名用漢字別表」92字を議決した(同年、内閣告示・訓令)。その後、国語審議会は人名用漢字について議論をすることが少なく、1970年代以降、字数追加作業の中心は法務省に移った。なお、同じ1951年には「公用文作成の要領」も発表されている。

1952年には「これからの敬語」を決定した。敬語に関しては、ずっと後の2000年、最後となる第22会委員会で「現代社会における敬意表現」を答申し、TPOを含めた広い意味での敬意表現について考えを示した。

送り仮名については、1946年に文部省国語調査室から「送りがなのつけ方」が出ていたが、国語審議会でも1958年「送りがなのつけ方」を可決し、翌1959年、内閣告示・訓令された。ところが、これは一般には評判が悪く、後の1972年に「送りがなのつけ方」の改定について答申が出された。翌1973年に、改訂版に当たる「送り仮名の付け方」が内閣告示・訓令された。

改組後の国語審議会の重要課題として、当用漢字表および現代かなづかいの見直しがあった。1954年には、28字の入れ替えを含む「当用漢字補正資料」を決議した。ただし、この資料は1960年の総会で再検討が必要とされるなど、たなざらしが続いた。


[編集] ローマ字化政策論議
改組後は、国語審議会令に明記されているとおり、国語のローマ字化政策が正面から議論されるようになった。これは、アメリカ教育使節団報告書の中で、国語ローマ字化が勧告されたことを受けてのものであった。第1期から第5期までの会長を務めた土岐善麿(任期1949年~1961年)自身もローマ字論者であった。1950年には、ローマ字調査分科審議会が置かれた(1962年に廃止)。結果的には、今日に至るまで国語がローマ字化されることはなかったが、学校教育は影響を受けることとなった。

1953年に「ローマ字つづり方の単一化について」が建議された。ヘボン式・日本式・訓令式を一本化すべき必要が述べられ、1954年、訓令式を中心とする「ローマ字のつづり方」の内閣告示・訓令に至った。

学校でのローマ字教育は、1947年から小学4年生以上に行われていたが、「ローマ字のつづり方」の告示を受けて、1955年度から学校教育の場で訓令式ローマ字を用いるようになった。1958年告示の「小・中学校学習指導要領国語科編」では、ローマ字学習は40時間行うこととされたが、1968年告示の「小学校学習指導要領」では、ローマ字学習が縮小されることとなった。


[編集] 路線対立
戦後の国語審議会は、国語ローマ字化論者、または、漢字を廃止し仮名文字化しようとする論者(カナモジ論者)の発言力が大きかった。会長の土岐がローマ字論者であったほか、松坂忠則(カナモジカイ理事長)・伊藤忠兵衛らカナモジ論者の顔ぶれが並んだ。審議内容としても、「地名・人名のかな書きについて」(1961年報告)など、国語表記の仮名文字化に関する議論が行われていた。

ローマ字論者・カナモジ論者らの改革派(表音派)と、表音化に疑問を呈する慎重派(表意派)とは、ことごとく対立した。第5期に当たる1961年3月の総会で、国語審議会委員等推薦協議会のありかたをめぐって、対立は決定的となった。委員の推薦にあたって、毎回、同じ顔ぶれの多数の改革派が選出されることに反対するとして、慎重派の宇野精一・成瀬正勝・山岸徳平・塩田良平・舟橋聖一が退席・脱退した。荒木萬壽夫文部大臣は翌々日の記者会見で、審議会委員の選出方法・国語改革の実施方法を再検討したいと語った。この経緯は社会的に大きな反響を呼んだ。

6月開かれた推薦協議会で、緒方信一文部次官は、審議会のあり方についての基本問題を次期(第6期)審議会で検討するよう要望した。第6期審議会委員の人事は難航し、宇野のほか井上靖・時枝誠記の名も挙がったが辞退された。

1962年、内閣は「国語審議会令の一部を改正する政令」を公布した。国語審議会は文部大臣の諮問に応ずる機関となり、同時に、委員の推薦方式廃止・ローマ字調査分科審議会の廃止・会議の原則公開の廃止などが決められた。かくして、国語審議会においては、国語の表音化についての議論は鎮静した。

第6期の審議会では、「国語の改善について」が可決された。文中、「過去における伝統的なものと、将来における発展的創造的なもののいずれをも尊重する立場に立ちながら、各方面の要求を考慮して、適切な調和点の発見に努めなければならない」とあるとおり、審議会は融和的な方向へ向かうこととなった。


[編集] 方針転換
1966年の総会で、中村梅吉文部大臣から「国語改善の具体策について」の諮問があった。その挨拶で、中村大臣は「今後のご審議にあたりましては、当然のことながら国語の表記は、漢字かなまじり文によることを前提とし、……」と述べ、ここに国語審議会の方針は大きく転換した。以後の活動は、(1)当用漢字表の取り扱い(音訓・字体の検討を含む)(2)送り仮名(3)仮名遣いの検討を中心とすることになった。つまりは、従来の「当用漢字表」「現代かなづかい」「送りがなのつけ方」の見直しということであった。

その後、1968年に文化庁が発足し、国語審議会はその所轄に入った。

1971年、「当用漢字改定音訓表」がまとめられた(翌年答申、1973年内閣告示・訓令)。これは、旧「音訓表」に357の音訓を追加し、本表と合わせて「明日(あす)」「小豆(あずき)」「海女(あま)」など例外的な読みを認める「付表」を添えるものである。前文には「一般の社会生活における、良い文章表現のための目安として設定された」とあり、旧「音訓表」にあった制限的な色合いが緩和されている点が特色である。

送り仮名については、前述のように1973年に「送り仮名の付け方」が内閣告示・訓令されて一応の解決を見た。しかし、漢字表の見直しと仮名遣いについては、その後も議論が難航した。


[編集] 常用漢字表と現代仮名遣い
1970年代以降の国語審議会の方針は、「制限から目安へ」という方向へ移行した。漢字表の改訂は、文字を制限するのではなく、緩和する方針がとられた。

1977年には、「新漢字表試案」が公開され、当用漢字表の文字に83字を追加・33字を除外した1900字が示された。その後、字数が増え、1979年には「常用漢字表」1926字が中間答申された。結局、1981年10月に「常用漢字表」1945字として内閣告示・訓令された。

これに先立つ1981年7月には、改訂「現代仮名遣い」が内閣告示・訓令された。

「常用漢字表」の前書きには「一般の社会生活において、現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安を示すものである」とある。また、「現代仮名遣い」の前書きには「一般の社会生活において、現代の国語を書き表すための仮名遣いのよりどころを示すものであるとある。目安・よりどころとはいえ、公文書をはじめ一定の拘束力はあったが、かつての制限色は見られなくなった。


[編集] 文化審議会へ
1991年、「外来語の表記」が内閣告示・訓令された。これが国語審議会の答申により内閣告示・訓令された最後の施策となった。

中央省庁再編の動きに伴い、審議会の数を削減することが決定された。国語審議会は、2000年に、「現代社会における敬意表現」「表外漢字字体表」などを答申して、翌年廃止された。以後は、文化審議会国語分科会が内容を引き継いでいる。


[編集] 関連項目
国語国字問題

[編集] 外部リンク
国語施策情報システム(文化庁)

カテゴリ: 審議会 | 国語政策

最終更新 2007年12月18日 (火) 13:25。Wikipedia®


、■■審議会が改組された。■■審議会令では、「■■の改善に関する事項」「■■の教育の振

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国語審議会


目次 [非表示]
1 略史
1.1 改組前の時代
1.1.1 戦前の活動
1.1.2 当用漢字表と現代かなづかい
1.2 改組後の時代
1.2.1 当初の活動
1.2.2 ローマ字化政策論議
1.2.3 路線対立
1.2.4 方針転換
1.2.5 常用漢字表と現代仮名遣い
1.2.6 文化審議会へ
2 関連項目
3 外部リンク



[編集] 略史

[編集] 改組前の時代

[編集] 戦前の活動
1934年、それまでの臨時■■調査会に代わって、■■審議会官制が公布された。会長は元逓信大臣の南弘であった。1935年に第1回総会が開かれた。

活動は■■政策全般にわたったが、わけても漢字の字体・字数および仮名遣いに関する議論が中心となった。漢字字体については、1937年に「漢字字体整理案」を採決した。漢字字数については、1942年6月、「標準漢字表」案2528字を議決、12月に文部省から修正発表された。この漢字表はなお実効性を持たず、戦後に引き継がれた。また、仮名遣いについては、1939年に諸案の集成を発表し、1942年に漢字の字音について「新字音仮名遣表」を議決、答申したが、これもすぐには実効性を持たなかった。

このほか、1942年に「■■ノ横書ニ関スル件」を議決、答申した。


[編集] 当用漢字表と現代かなづかい
1945年に第二次世界大戦が集結した後、11月に「標準漢字表」の再検討が始まった。また、仮名遣いの改訂作業も進んだ。1946年9月に「現代かなづかい」が、11月に「当用漢字表」が、それぞれ議決、答申された。この2つは、11月、日本国憲法発布の直後に内閣告示・訓令された。

現代かなづかいは、歴史的仮名遣いを改めて表音式に近づけたものである。当用漢字表は、日常使用する漢字を原則として1850字に制限し、新字体を採用するというものである。これらが公布されたことによって、日本語の表記基準は大きな転換期を迎えた。社会的にも議論が起こり、それぞれの立場が鋭く対立することになった。

なお、「当用漢字表」の告示後、1948年に「当用漢字別表」(教育漢字)および「当用漢字音訓表」が、1949年に「当用漢字字体表」が内閣告示・訓令された。


[編集] 改組後の時代

[編集] 当初の活動
1949年、文部省設置法制定に伴って、■■審議会が改組された。■■審議会令では、「■■の改善に関する事項」「■■の教育の振興に関する事項」のほか、「ローマ字に関する事項」を調査審議し、建議することが定められた(ローマ字に関する議論は次節で述べる)。その年の7月には、「中国地名・人名の書き方の表」を採択、建議した。

1951年には「人名用漢字別表」92字を議決した(同年、内閣告示・訓令)。その後、■■審議会は人名用漢字について議論をすることが少なく、1970年代以降、字数追加作業の中心は法務省に移った。なお、同じ1951年には「公用文作成の要領」も発表されている。

1952年には「これからの敬語」を決定した。敬語に関しては、ずっと後の2000年、最後となる第22会委員会で「現代社会における敬意表現」を答申し、TPOを含めた広い意味での敬意表現について考えを示した。

送り仮名については、1946年に文部省■■調査室から「送りがなのつけ方」が出ていたが、■■審議会でも1958年「送りがなのつけ方」を可決し、翌1959年、内閣告示・訓令された。ところが、これは一般には評判が悪く、後の1972年に「送りがなのつけ方」の改定について答申が出された。翌1973年に、改訂版に当たる「送り仮名の付け方」が内閣告示・訓令された。

改組後の■■審議会の重要課題として、当用漢字表および現代かなづかいの見直しがあった。1954年には、28字の入れ替えを含む「当用漢字補正資料」を決議した。ただし、この資料は1960年の総会で再検討が必要とされるなど、たなざらしが続いた。


[編集] ローマ字化政策論議
改組後は、国語審議会令に明記されているとおり、■■のローマ字化政策が正面から議論されるようになった。これは、アメリカ教育使節団報告書の中で、■■ローマ字化が勧告されたことを受けてのものであった。第1期から第5期までの会長を務めた土岐善麿(任期1949年~1961年)自身もローマ字論者であった。1950年には、ローマ字調査分科審議会が置かれた(1962年に廃止)。結果的には、今日に至るまで■■がローマ字化されることはなかったが、学校教育は影響を受けることとなった。

1953年に「ローマ字つづり方の単一化について」が建議された。ヘボン式・日本式・訓令式を一本化すべき必要が述べられ、1954年、訓令式を中心とする「ローマ字のつづり方」の内閣告示・訓令に至った。

学校でのローマ字教育は、1947年から小学4年生以上に行われていたが、「ローマ字のつづり方」の告示を受けて、1955年度から学校教育の場で訓令式ローマ字を用いるようになった。1958年告示の「小・中学校学習指導要領■■科編」では、ローマ字学習は40時間行うこととされたが、1968年告示の「小学校学習指導要領」では、ローマ字学習が縮小されることとなった。


[編集] 路線対立
戦後の■■審議会は、■■ローマ字化論者、または、漢字を廃止し仮名文字化しようとする論者(カナモジ論者)の発言力が大きかった。会長の土岐がローマ字論者であったほか、松坂忠則(カナモジカイ理事長)・伊藤忠兵衛らカナモジ論者の顔ぶれが並んだ。審議内容としても、「地名・人名のかな書きについて」(1961年報告)など、国語表記の仮名文字化に関する議論が行われていた。

ローマ字論者・カナモジ論者らの改革派(表音派)と、表音化に疑問を呈する慎重派(表意派)とは、ことごとく対立した。第5期に当たる1961年3月の総会で、■■審議会委員等推薦協議会のありかたをめぐって、対立は決定的となった。委員の推薦にあたって、毎回、同じ顔ぶれの多数の改革派が選出されることに反対するとして、慎重派の宇野精一・成瀬正勝・山岸徳平・塩田良平・舟橋聖一が退席・脱退した。荒木萬壽夫文部大臣は翌々日の記者会見で、審議会委員の選出方法・国語改革の実施方法を再検討したいと語った。この経緯は社会的に大きな反響を呼んだ。

6月開かれた推薦協議会で、緒方信一文部次官は、審議会のあり方についての基本問題を次期(第6期)審議会で検討するよう要望した。第6期審議会委員の人事は難航し、宇野のほか井上靖・時枝誠記の名も挙がったが辞退された。

1962年、内閣は「■■審議会令の一部を改正する政令」を公布した。■■審議会は文部大臣の諮問に応ずる機関となり、同時に、委員の推薦方式廃止・ローマ字調査分科審議会の廃止・会議の原則公開の廃止などが決められた。かくして、■■審議会においては、■■の表音化についての議論は鎮静した。

第6期の審議会では、「■■の改善について」が可決された。文中、「過去における伝統的なものと、将来における発展的創造的なもののいずれをも尊重する立場に立ちながら、各方面の要求を考慮して、適切な調和点の発見に努めなければならない」とあるとおり、審議会は融和的な方向へ向かうこととなった。


[編集] 方針転換
1966年の総会で、中村梅吉文部大臣から「■■改善の具体策について」の諮問があった。その挨拶で、中村大臣は「今後のご審議にあたりましては、当然のことながら■■の表記は、漢字かなまじり文によることを前提とし、……」と述べ、ここに■■審議会の方針は大きく転換した。以後の活動は、(1)当用漢字表の取り扱い(音訓・字体の検討を含む)(2)送り仮名(3)仮名遣いの検討を中心とすることになった。つまりは、従来の「当用漢字表」「現代かなづかい」「送りがなのつけ方」の見直しということであった。

その後、1968年に文化庁が発足し、■■審議会はその所轄に入った。

1971年、「当用漢字改定音訓表」がまとめられた(翌年答申、1973年内閣告示・訓令)。これは、旧「音訓表」に357の音訓を追加し、本表と合わせて「明日(あす)」「小豆(あずき)」「海女(あま)」など例外的な読みを認める「付表」を添えるものである。前文には「一般の社会生活における、良い文章表現のための目安として設定された」とあり、旧「音訓表」にあった制限的な色合いが緩和されている点が特色である。

送り仮名については、前述のように1973年に「送り仮名の付け方」が内閣告示・訓令されて一応の解決を見た。しかし、漢字表の見直しと仮名遣いについては、その後も議論が難航した。


[編集] 常用漢字表と現代仮名遣い
1970年代以降の■■審議会の方針は、「制限から目安へ」という方向へ移行した。漢字表の改訂は、文字を制限するのではなく、緩和する方針がとられた。

1977年には、「新漢字表試案」が公開され、当用漢字表の文字に83字を追加・33字を除外した1900字が示された。その後、字数が増え、1979年には「常用漢字表」1926字が中間答申された。結局、1981年10月に「常用漢字表」1945字として内閣告示・訓令された。

これに先立つ1981年7月には、改訂「現代仮名遣い」が内閣告示・訓令された。

「常用漢字表」の前書きには「一般の社会生活において、現代の■■を書き表す場合の漢字使用の目安を示すものである」とある。また、「現代仮名遣い」の前書きには「一般の社会生活において、現代の■■を書き表すための仮名遣いのよりどころを示すものであるとある。目安・よりどころとはいえ、公文書をはじめ一定の拘束力はあったが、かつての制限色は見られなくなった。


[編集] 文化審議会へ
1991年、「外来語の表記」が内閣告示・訓令された。これが■■審議会の答申により内閣告示・訓令された最後の施策となった。

中央省庁再編の動きに伴い、審議会の数を削減することが決定された。■■審議会は、2000年に、「現代社会における敬意表現」「表外漢字字体表」などを答申して、翌年廃止された。以後は、文化審議会■■分科会が内容を引き継いでいる。


[編集] 関連項目
■■国字問題

[編集] 外部リンク
■■施策情報システム(文化庁)

カテゴリ: 審議会 | ■■政策

最終更新 2007年12月18日 (火) 13:25。Wikipedia®









国語審議会


目次 [非表示]
1 略史
1.1 改組前の時代
1.1.1 戦前の活動
1.1.2 当用漢字表と現代かなづかい
1.2 改組後の時代
1.2.1 当初の活動
1.2.2 ローマ字化政策論議
1.2.3 路線対立
1.2.4 方針転換
1.2.5 常用漢字表と現代仮名遣い
1.2.6 文化審議会へ
2 関連項目
3 外部リンク



[編集] 略史

[編集] 改組前の時代

[編集] 戦前の活動
1934年、それまでの臨時国語調査会に代わって、国語審議会官制が公布された。会長は元逓信大臣の南弘であった。1935年に第1回総会が開かれた。

活動は国語政策全般にわたったが、わけても漢字の字体・字数および仮名遣いに関する議論が中心となった。漢字字体については、1937年に「漢字字体整理案」を採決した。漢字字数については、1942年6月、「標準漢字表」案2528字を議決、12月に文部省から修正発表された。この漢字表はなお実効性を持たず、戦後に引き継がれた。また、仮名遣いについては、1939年に諸案の集成を発表し、1942年に漢字の字音について「新字音仮名遣表」を議決、答申したが、これもすぐには実効性を持たなかった。

このほか、1942年に「国語ノ横書ニ関スル件」を議決、答申した。


[編集] 当用漢字表と現代かなづかい
1945年に第二次世界大戦が集結した後、11月に「標準漢字表」の再検討が始まった。また、仮名遣いの改訂作業も進んだ。1946年9月に「現代かなづかい」が、11月に「当用漢字表」が、それぞれ議決、答申された。この2つは、11月、日本国憲法発布の直後に内閣告示・訓令された。

現代かなづかいは、歴史的仮名遣いを改めて表音式に近づけたものである。当用漢字表は、日常使用する漢字を原則として1850字に制限し、新字体を採用するというものである。これらが公布されたことによって、日本語の表記基準は大きな転換期を迎えた。社会的にも議論が起こり、それぞれの立場が鋭く対立することになった。

なお、「当用漢字表」の告示後、1948年に「当用漢字別表」(教育漢字)および「当用漢字音訓表」が、1949年に「当用漢字字体表」が内閣告示・訓令された。


[編集] 改組後の時代

[編集] 当初の活動
1949年、文部省設置法制定に伴って、国語審議会が改組された。国語審議会令では、「国語の改善に関する事項」「国語の教育の振興に関する事項」のほか、「ローマ字に関する事項」を調査審議し、建議することが定められた(ローマ字に関する議論は次節で述べる)。その年の7月には、「中国地名・人名の書き方の表」を採択、建議した。

1951年には「人名用漢字別表」92字を議決した(同年、内閣告示・訓令)。その後、国語審議会は人名用漢字について議論をすることが少なく、1970年代以降、字数追加作業の中心は法務省に移った。なお、同じ1951年には「公用文作成の要領」も発表されている。

1952年には「これからの敬語」を決定した。敬語に関しては、ずっと後の2000年、最後となる第22会委員会で「現代社会における敬意表現」を答申し、TPOを含めた広い意味での敬意表現について考えを示した。

送り仮名については、1946年に文部省国語調査室から「送りがなのつけ方」が出ていたが、国語審議会でも1958年「送りがなのつけ方」を可決し、翌1959年、内閣告示・訓令された。ところが、これは一般には評判が悪く、後の1972年に「送りがなのつけ方」の改定について答申が出された。翌1973年に、改訂版に当たる「送り仮名の付け方」が内閣告示・訓令された。

改組後の国語審議会の重要課題として、当用漢字表および現代かなづかいの見直しがあった。1954年には、28字の入れ替えを含む「当用漢字補正資料」を決議した。ただし、この資料は1960年の総会で再検討が必要とされるなど、たなざらしが続いた。


[編集] ローマ字化政策論議
改組後は、国語審議会令に明記されているとおり、国語のローマ字化政策が正面から議論されるようになった。これは、アメリカ教育使節団報告書の中で、国語ローマ字化が勧告されたことを受けてのものであった。第1期から第5期までの会長を務めた土岐善麿(任期1949年~1961年)自身もローマ字論者であった。1950年には、ローマ字調査分科審議会が置かれた(1962年に廃止)。結果的には、今日に至るまで国語がローマ字化されることはなかったが、学校教育は影響を受けることとなった。

1953年に「ローマ字つづり方の単一化について」が建議された。ヘボン式・日本式・訓令式を一本化すべき必要が述べられ、1954年、訓令式を中心とする「ローマ字のつづり方」の内閣告示・訓令に至った。

学校でのローマ字教育は、1947年から小学4年生以上に行われていたが、「ローマ字のつづり方」の告示を受けて、1955年度から学校教育の場で訓令式ローマ字を用いるようになった。1958年告示の「小・中学校学習指導要領国語科編」では、ローマ字学習は40時間行うこととされたが、1968年告示の「小学校学習指導要領」では、ローマ字学習が縮小されることとなった。


[編集] 路線対立
戦後の国語審議会は、国語ローマ字化論者、または、漢字を廃止し仮名文字化しようとする論者(カナモジ論者)の発言力が大きかった。会長の土岐がローマ字論者であったほか、松坂忠則(カナモジカイ理事長)・伊藤忠兵衛らカナモジ論者の顔ぶれが並んだ。審議内容としても、「地名・人名のかな書きについて」(1961年報告)など、国語表記の仮名文字化に関する議論が行われていた。

ローマ字論者・カナモジ論者らの改革派(表音派)と、表音化に疑問を呈する慎重派(表意派)とは、ことごとく対立した。第5期に当たる1961年3月の総会で、国語審議会委員等推薦協議会のありかたをめぐって、対立は決定的となった。委員の推薦にあたって、毎回、同じ顔ぶれの多数の改革派が選出されることに反対するとして、慎重派の宇野精一・成瀬正勝・山岸徳平・塩田良平・舟橋聖一が退席・脱退した。荒木萬壽夫文部大臣は翌々日の記者会見で、審議会委員の選出方法・国語改革の実施方法を再検討したいと語った。この経緯は社会的に大きな反響を呼んだ。

6月開かれた推薦協議会で、緒方信一文部次官は、審議会のあり方についての基本問題を次期(第6期)審議会で検討するよう要望した。第6期審議会委員の人事は難航し、宇野のほか井上靖・時枝誠記の名も挙がったが辞退された。

1962年、内閣は「国語審議会令の一部を改正する政令」を公布した。国語審議会は文部大臣の諮問に応ずる機関となり、同時に、委員の推薦方式廃止・ローマ字調査分科審議会の廃止・会議の原則公開の廃止などが決められた。かくして、国語審議会においては、国語の表音化についての議論は鎮静した。

第6期の審議会では、「国語の改善について」が可決された。文中、「過去における伝統的なものと、将来における発展的創造的なもののいずれをも尊重する立場に立ちながら、各方面の要求を考慮して、適切な調和点の発見に努めなければならない」とあるとおり、審議会は融和的な方向へ向かうこととなった。


[編集] 方針転換
1966年の総会で、中村梅吉文部大臣から「国語改善の具体策について」の諮問があった。その挨拶で、中村大臣は「今後のご審議にあたりましては、当然のことながら国語の表記は、漢字かなまじり文によることを前提とし、……」と述べ、ここに国語審議会の方針は大きく転換した。以後の活動は、(1)当用漢字表の取り扱い(音訓・字体の検討を含む)(2)送り仮名(3)仮名遣いの検討を中心とすることになった。つまりは、従来の「当用漢字表」「現代かなづかい」「送りがなのつけ方」の見直しということであった。

その後、1968年に文化庁が発足し、国語審議会はその所轄に入った。

1971年、「当用漢字改定音訓表」がまとめられた(翌年答申、1973年内閣告示・訓令)。これは、旧「音訓表」に357の音訓を追加し、本表と合わせて「明日(あす)」「小豆(あずき)」「海女(あま)」など例外的な読みを認める「付表」を添えるものである。前文には「一般の社会生活における、良い文章表現のための目安として設定された」とあり、旧「音訓表」にあった制限的な色合いが緩和されている点が特色である。

送り仮名については、前述のように1973年に「送り仮名の付け方」が内閣告示・訓令されて一応の解決を見た。しかし、漢字表の見直しと仮名遣いについては、その後も議論が難航した。


[編集] 常用漢字表と現代仮名遣い
1970年代以降の国語審議会の方針は、「制限から目安へ」という方向へ移行した。漢字表の改訂は、文字を制限するのではなく、緩和する方針がとられた。

1977年には、「新漢字表試案」が公開され、当用漢字表の文字に83字を追加・33字を除外した1900字が示された。その後、字数が増え、1979年には「常用漢字表」1926字が中間答申された。結局、1981年10月に「常用漢字表」1945字として内閣告示・訓令された。

これに先立つ1981年7月には、改訂「現代仮名遣い」が内閣告示・訓令された。

「常用漢字表」の前書きには「一般の社会生活において、現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安を示すものである」とある。また、「現代仮名遣い」の前書きには「一般の社会生活において、現代の国語を書き表すための仮名遣いのよりどころを示すものであるとある。目安・よりどころとはいえ、公文書をはじめ一定の拘束力はあったが、かつての制限色は見られなくなった。


[編集] 文化審議会へ
1991年、「外来語の表記」が内閣告示・訓令された。これが国語審議会の答申により内閣告示・訓令された最後の施策となった。

中央省庁再編の動きに伴い、審議会の数を削減することが決定された。国語審議会は、2000年に、「現代社会における敬意表現」「表外漢字字体表」などを答申して、翌年廃止された。以後は、文化審議会国語分科会が内容を引き継いでいる。


[編集] 関連項目
国語国字問題

[編集] 外部リンク
国語施策情報システム(文化庁)

カテゴリ: 審議会 | 国語政策

最終更新 2007年12月18日 (火) 13:25。Wikipedia®


出典: http://blog.goo.ne.jp/admin.php?fid=newentry

2008-09-17 02:57:54 | Weblog
出典: http://blog.goo.ne.jp/admin.php?fid=newentry

自選百首です。歌集別に並べました。どの一首があなたの心に響くでしょうか。
右上とこのページの一番下に人気投票への入り口があります。
好きな歌に一票入れてお帰りください。
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砂浜のランチついに手つかずの卵サンドが気になっている(『サラダ記念日』)  

寄せ返す波のしぐさの優しさにいつ言われてもいいさようなら(『サラダ記念日』)

思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ(『サラダ記念日』)  

大きければいよいよ豊かなる気分東急ハンズの買物袋(『サラダ記念日』)

生ビール買い求めいる君の手をふと見るそしてつくづくと見る(『サラダ記念日』)

「また電話しろよ」「待ってろ」いつもいつも命令形で愛を言う君(『サラダ記念日』)

落ちてきた雨を見上げてそのままの形でふいに、唇が欲し(『サラダ記念日』)

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ(『サラダ記念日』)

愛人でいいのと歌う歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う(『サラダ記念日』)

たっぷりと君に抱かれているようなグリンのセーター着て冬になる(『サラダ記念日』)

潮風に君のにおいがふいに舞う 抱き寄せられて貝殻になる(『サラダ記念日』)

「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの(『サラダ記念日』)

母の住む国から降ってくる雪のような淋しさ 東京にいる(『サラダ記念日』)

手紙には愛あふれたりその愛は消印の日のそのときの愛(『サラダ記念日』)

万智ちゃんがほしいと言われ心だけついていきたい花いちもんめ(『サラダ記念日』)

我という三百六十五面体ぶんぶん分裂して飛んでゆけ(『サラダ記念日』)

今日までに私がついた嘘なんてどうでもいいよというような海(『サラダ記念日』)

パスポートをぶらさげている俵万智いてもいなくても華北平原(『サラダ記念日』)

いつもより一分早く駅に着く 一分君のこと考える(『サラダ記念日』)

愛してる愛していない花びらの数だけ愛があればいいのに(『サラダ記念日』)

シャンプーの香をほのぼのとたてながら微分積分子らは解きおり(『サラダ記念日』)

親は子を育ててきたと言うけれど勝手に赤い畑のトマト(『サラダ記念日』)

「クロッカスが咲きました」という書きだしでふいに手紙を書きたくなりぬ(『サラダ記念日』)

ゆく河の流れを何にたとえてもたとえきれない水底(みなそこ)の石(『サラダ記念日』)

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日(『サラダ記念日』)

白菜が赤帯しめて店先にうっふんうっふん肩を並べる(『サラダ記念日』)

なんでもない会話なんでもない笑顔なんでもないからふるさとが好き(『サラダ記念日』)

さくらさくらさくら咲き初め咲き終りなにもなかったような公園(『サラダ記念日』)

思いきり愛されたくて駆けてゆく六月、サンダル、あじさいの花(『サラダ記念日』)

自転車のカゴからわんとはみ出してなにか嬉しいセロリの葉っぱ(『サラダ記念日』)

「スペインに行こうよ」風の坂道を駆けながら言う行こうと思う(『サラダ記念日』)

愛された記憶はどこか透明でいつでも一人いつだって一人 (『サラダ記念日』)

はなび花火そこに光を見る人と闇を見る人いて並びおり(『かぜのてのひら』)

ここからは海となりゆく石狩の河口に立てば、立てば天啓(『かぜのてのひら』)

ひかれあうことと結ばれあうことは違う二人に降る天気あめ(『かぜのてのひら』)

お互いの心を放し飼いにして暮らせばたまに寂しい自由(『かぜのてのひら』)

今何を考えている菜の花のからし和えにも気づかないほど(『かぜのてのひら』)

男には首のサイズがあることの何か悲しきワイシャツ売場 (『かぜのてのひら』)

散るという飛翔のかたち花びらはふと微笑んで枝を離れる(『かぜのてのひら』)

母と娘のあやとり続くを見ておりぬ「川」から「川」へめぐるやさしさ(『かぜのてのひら』)

恋という遊びをせんとや生まれけん かくれんぼして鬼ごっこして(『かぜのてのひら』)

「風よりも火だね」と我を呼びし人葉桜のした火を抱かず行く(『かぜのてのひら』)

チューリップの花咲くような明るさであなた私を拉致せよ二月(『かぜのてのひら』)

多義的な午後の終わりに狩野派の梅だけがある武蔵野の春(『かぜのてのひら』)

かすみ草にいたるやさしさ花束のできあがりゆくさまを見ており(『かぜのてのひら』)

さみどりの葉をはがしゆくはつなつのキャベツのしんのしんまでひとり(『かぜのてのひら』)

「うちの子は甘えんぼうでぐうたらで先生なんとかしてくださいよ」(『かぜのてのひら』)

なんとなくわかったような気になって「登校拒否」とその子を呼べり (『かぜのてのひら』)

古文漢文の解答欄の余白には尾崎豊の詞を書いてくる(『かぜのてのひら』)

四万十(しまんと)に光の粒をまきながら川面をなでる風の手のひら(『かぜのてのひら』)

水平線を見つめて立てる灯台の光りては消えてゆくもの思い(『かぜのてのひら』)

四国路の旅の終わりの松山の夜の「梅錦」ひやでください (『かぜのてのひら』)

我という銀杏やまとに散りぬるを別れた人からくるエア・メール(『かぜのてのひら』)

折りたたみ傘をたたんでゆくように汽車のりかえてふるさとに着く(『かぜのてのひら』)

定期券を持たぬ暮らしを始めれば持たぬ人また多しと気づく(『かぜのてのひら』)

『あい』という言葉で始まる五十音だから傷つくつくつくぼうし(『かぜのてのひら』)

いくつかのやさしい記憶 新宿に「英(ひで)」という店あってなくなる(『かぜのてのひら』)

やわらかな秋の陽ざしに奏でられ川は流れてゆくオルゴール(『かぜのてのひら』)

海荒れしのちに鎮まりきらぬもの我が少女期のように内灘 (『かぜのてのひら』)

早春のアンビバレンス日記にはただ〈∞(無限大)〉の記号をしるす (『かぜのてのひら』)

「もし」という言葉のうつろ人生はあなたに一度わたしに一度(『かぜのてのひら』)

明治屋に初めて二人で行きし日の苺のジャムの一瓶終わる(『チョコレート革命』)

眠りつつ髪をまさぐる指やさし夢の中でも私を抱くの(『チョコレート革命』)

日曜はお父さんしている君のため晴れてもいいよ三月の空(『チョコレート革命』)

優等生と呼ばれて長き年月をかっとばしたき一球がくる(『チョコレート革命』)

「勝ち負けの問題じゃない」と諭されぬ問題じゃないなら勝たせてほしい(『チョコレート革命』)

愛することが追いつめることになってゆくバスルームから星が見えるよ(『チョコレート革命』)

幾千の種子の眠りを覚まされて発芽してゆく我の肉体(『チョコレート革命』)

地ビールの泡(バブル)やさしき秋の夜ひゃくねんたったらだあれもいない(『チョコレート革命』)

蛇行する川には蛇行の理由あり急げばいいってもんじゃないよと(『チョコレート革命』)

この星のオアシスとしてゆるやかに眠れる水を湿原と呼ぶ (『チョコレート革命』)

資本主義のとある街角必要に応じて受けとるティッシュペーパー(『チョコレート革命』)

昨日逢い今日逢うときに君が言う「久しぶりだな」そう久しぶり(『チョコレート革命』)

年下の男に「おまえ」と呼ばれていてぬるきミルクのような幸せ(『チョコレート革命』)

水蜜桃(すいみつ)の汁吸うごとく愛されて前世も我は女と思う(『チョコレート革命』)

深く厳しく我を愛せよ「地獄の門」刻んでいたるロダンの手より(『チョコレート革命』)

肉じゃがの匂い満ちればこの部屋に誰かの帰りを待ちいるごとし(『チョコレート革命』)

別れ話を抱えて君に会いにゆくこんな日も吾は「晴れ女」なり(『チョコレート革命』)

きつくきつく我の鋳型をとるように君は最後の抱擁をする(『チョコレート革命』)

星をもぐ女が夢にあらわれてマンゴスチンひとつ置いてゆきたり(『チョコレート革命』)

まっすぐな棒を一本刺してくれ脳のだるさにねじれるぼくに(『チョコレート革命』)

そそり立つなめらかな木のその下で泣くなよな傷ついたからって(『チョコレート革命』)

さりげなく家族のことは省かれて語られてゆく君の一日(『チョコレート革命』)

ブーゲンビリアのブラウスを着て会いにゆく花束のように抱かれてみたく(『チョコレート革命』)

「愛は勝つ」と歌う青年 愛と愛が戦うときはどうなるのだろう(『チョコレート革命』)

葉月里緒菜(はづきりおな)になれぬ多数の側にいて繰り返し読むインタビュー記事(『チョコレート革命』)

男ではなくて大人の返事する君にチョコレート革命起こす(『チョコレート革命』)

妻という安易ねたまし春の日のたとえば墓参に連れ添うことの(『チョコレート革命』)

響き合う土の昔や君という鈴を盗むに耳を掩わず(『チョコレート革命』)

「です・ます」で話し続けている君の背景にあるファミリーランド(『チョコレート革命』)

家族にはアルバムがあるということのだからなんなのと言えない重み(『チョコレート革命』)

焼き肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのお父さんが好き(『チョコレート革命』)

ぶらんこにうす青き風見ておりぬ風と呼ばねば見えぬ何かを(『チョコレート革命』)

ポン・ヌフに初夏(はつなつ)の風ありふれた恋人同士として歩きたい(『チョコレート革命』)

シャンプーを選ぶ横顔見ておればさしこむように「好き」と思えり(『チョコレート革命』)

二週間先の約束嬉しくてそれまで会えないことを忘れる(『とれたての短歌です。』)

何層もあなたの愛に包まれてアップルパイのリンゴになろう(『とれたての短歌です。』)

「今いちばん行きたいところを言ってごらん」行きたいところはあなたのところ(『とれたての短歌です。』)

まっさきに気がついている君からの手紙いちばん最後にあける(『とれたての短歌です。』)

一枚の葉書きを君に書くための旅かもしれぬ旅をつづける(『もうひとつの恋』)

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牧野富太郎  馬鈴薯とジャガイモ

2008-09-17 02:56:42 | Weblog
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牧野富太郎




●目次

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百合とユリ
キャベツと甘藍
藤とフジ
ヤマユリ
アケビと※[#「くさかんむり/開」、目次1-6]
アカザとシロザ
キツネノヘダマ
紀州高野山の蛇柳
無花果の果
イチョウの精虫
茶樹の花序
二十四歳のシーボルト画像
サルオガセ
毒麦
馬糞蕈
昔の草餅、今の草餅
ハナタデ
イヌタデ
ボントクタデ
婆羅門参
茶の銘玉露の由来
御会式桜
贋の菩提樹
小野蘭山先生の髑髏
秋海棠
不許葷酒入山門
日本で最大の南天材
屋根の棟の一八
ワルナスビ
カナメゾツネ
茱萸とグミ
アサガオと桔梗
ヒルガオとコヒルガオ
ハマユウの語原
バショウと芭蕉
オトヒメカラカサ
西瓜――徳川時代から明治初年へかけて
ギョリュウ
万葉歌のイチシ
万葉歌のツチハリ
万葉歌のナワノリ
蓬とヨモギ
於多福グルミ
栗とクリ
アスナロノヒジキ
キノコの川村博士逝く
日本の植物名の呼び方・書き方
オトコラン
中国の椿の字、日本の椿の字
ノイバラの実、営実
マコモの中でもアヤメ咲く
マクワウリの記
新称天蓋瓜
センジュガンピの語原
片葉のアシ
高野の万年草
コンブとワカメ
『草木図説』のサワアザミとマアザミ
ムクゲとアサガオ
冬とフキ
薯蕷とヤマノイモ
ニギリタケ
パンヤ
黄櫨、櫨、ハゼノキ
ワスレグサと甘草
根笹
菖蒲とセキショウ
海藻ミルの食べ方
楓とモミジ
蘭と
製紙用ガンピ二種
インゲンマメ
ナガイモとヤマノイモ
ヒマワリ
シュロと椶櫚
蜜柑の毛、バナナの皮
梨、苹果、胡瓜、西瓜等の子房
グミの実
三波丁子
サネカズラ
桜桃
種子から生えた孟宗竹
孟宗竹の中国名
紫陽花とアジサイ、燕子花とカキツバタ
楡とニレ
シソのタネ、エゴマのタネ
麝香草の香い
狐ノ剃刀
ハマカンゾウ
イタヤカエデ
三度グリ、シバグリ、カチグリ、ハコグリ
朝鮮のワングルとカンエンガヤツリ
無憂花
アオツヅラフジ
ゴンズイ
辛夷とコブシ、木蘭とモクレン
万年芝
オリーブとホルトガル
冬の美観ユズリハ
 序文に代う

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植物一日一題

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  馬鈴薯とジャガイモ

 ジャガタライモ、すなわちジャガイモ(Solanum tuberosum L.)を馬鈴薯ではないと明瞭に理解している人は極めて小数で、大抵の人、否な一流の学者でさえも馬鈴薯をジャガイモだと思っているのが普通であるから、この馬鈴薯の文字が都鄙を通じて氾濫している。が、しかしジャガイモに馬鈴薯の文字を用うるのは大変な間違いで、ジャガイモは断じて馬鈴薯そのものではないことは最も明白かつ確乎たる事実である。こんな間違った名を日常平気で使っているのはおろかな話で、これこそ日本文化の恥辱でなくてなんであろう。
 昔といっても文化五年(1808)の徳川時代に小野蘭山(おのらんざん)という本草学者がいて、ジャガタライモを馬鈴薯であるといいはじめてから以来、今日にいたるまでほとんど誰もこれを否定する者がなく、ジャガタライモは馬鈴薯、馬鈴薯はジャガタライモだとしてこれを口にし、また書物や雑誌などに書き、これをそう肯定しているのが常識となっているが、それは大きな間違いであって、馬鈴薯はけっしてジャガタライモではないぞと今日大声で疾呼し喝破したのは私であったが、しかし蘭山がジャガタライモを馬鈴薯だといった後五年しての文化十年(1813)に大槻玄沢(おおつきげんたく)は、この蘭山の考えている馬鈴薯をジャガタライモの漢名とするの説を疑い、これを栗本丹洲(くりもとたんしゅう)に質問したが丹洲もまたその説を疑ったということが白井光太郎(しらいみつたろう)博士の『改訂増補日本博物学年表』に出ている。
 元来馬鈴薯というものは中国の福建省中の一地方に産する一植物の名で、それが『松溪県志(しょうけいけんし)』(松溪県は福建省地方の地名)と題する書物に僅かに載っているが、それがどんな植物であるのかは中国人でさえもこれを知らず、またかろうじての右の県志のほか、ありとあらゆる中国の文献には敢て一つもこれが出ていない。すなわち得体の分らぬ一辺境の中国土産の品で、中国人でさえも一向に知らないオブスキュアの植物である。
 しかるにジャガタライモは元来外国産、すなわち南アメリカのアンデス地方の原産のもので、四三三年前の西暦一五六五年に初めて欧州に入り、後ち欧州から東洋に持ち来たされ、ついに我が日本におけると同様に中国にも入りこんだものである。この事実からみても、それが元来の中国植物である馬鈴薯ではあり得ない理屈ではないか。そして中国人はこの外来植物に対して適切な新命名の洋芋(洋とは海外から来た渡り者を意味する)あるいは荷蘭薯(オランダイモの意)などと称えていて、けっしてこれを馬鈴薯などと間違った名では呼んでいない。その間違いを敢てしているものはひとり日本人だけである。これはちょうど馬を指して鹿だといい、人を指して猿だといっているようなものであるから、この馬鈴薯をジャガイモと呼ぶことは躊躇なく早速に廃すべく、したがって馬鈴薯の名は即刻放遂すべきものだ。
 さて馬鈴薯そのものの形状は、上の『松溪県志』によれば、


馬鈴薯ハ葉ハ樹ニ依テ生ズ、之レヲ掘リ取レバ形チニ小大アリテ略ボ鈴子ノ如シ、色ハ黒クシテ円ク、味ハ苦甘シ(漢文)


と書いてあるにすぎない。今この文についてみると、馬鈴薯なるものは一つの蔓草で樹木に攀じのぼり、その根を掘ってみると根に大小があって、その形がほぼ鈴のように円く、そしてその色が黒くてその味は苦甘いものだというだけで、その葉の形状もその花の様子もいっさい不明であるが、小野蘭山はこの漫然たる疎漏至極な文に基づいてその馬鈴薯をジャガタライモだとよくも言えたものだ。ジャガイモの茎は誰でも知っているようにけっして樹木に攀じのぼるような蔓ではなく、またその薯は黒色ではなく、また味も苦甘いものではない。だから馬鈴薯の草状は少しもジャガタライモの形状とは一致していない。世人は上の蘭山の謬説に惑わされてほとんど皆が盲となっているのはまことに笑止千万なことで、そのおめでたさを祝する次第である。
 今この『松溪県志』の馬鈴薯を想像してみると、まず考えに浮かぶのはマメ科のホドイモ(Apios Fortunei Maxim.)で、あるいはこれを指していっているのではないかと思われんでもない。このホドイモはまた中国にも産するから全く縁がない訳ではない。そしてこのホドイモは中国で九子羊と称しているものと同じであろうと信ずる。この九子羊は呉其濬(ごきしゅん)の『植物名実図考(しょくぶつめいじつずこう)』巻之十九、蔓草類にその図説が出ているので、今ここにそれを転載してみよう。その解説は「九子羊ハ衡山ニ産シ、蔓生細緑茎、葉ハ峨眉豆葉ノ如ク一枝ニ或ハ三葉或ハ五葉、秋ニ淡緑花ヲ開クコト豆花ノ如ク、而シテ内ニ郭アリテ人耳ノ如シ、短角ヲ結ブ、根ハ円クシテ卵ノ如ク数本同ジク生ズ、秋時ニ掘取レバ輒チ多クヲ得、俚医之レヲ用ウ」(漢文)である。またなお中国に土※[#「囗<欒」、7-5]児というものがあって『救荒本草(きゅうこうほんぞう)』巻之六に出ているが、これはおそらく右の九子羊と同種で単にその名称を異にしているが同じくホドイモであろうと信ずる。そして右『救荒本草』のその文は「土※[#「囗<欒」、7-7]児、一名ハ土栗子、新鄭山野ノ中ニ出ヅ、細茎ハ蔓ヲ延テ生ズ、葉ハ豆葉ニ似テ微シク尖、三葉毎ニ一処ニ攅生ス、根ハ土瓜児根ニ似テ微シク団(マル)ク、味ハ甜シ、救飢ニシ根ヲ採リ煮熟シテ之レヲ食フ」(漢文)である。
 右から推想してみると、まずまず九子羊ならびに土※[#「囗<欒」、8-3]児がいわゆる馬鈴薯にあたるように感ずる。もし果たしてそうだとすれば、とにかく、上の「葉ハ樹ニ依テ生ズ」[葉のある蔓が樹木に寄りすがって登っているの意]の意味とも吻合する。九子羊の根塊は円形で濃褐色だから、それを漫然と黒味がかった色と書いたのだと言えば通らんこともなかろうし、また苦甘はそれを噛んでの腥さい味を不手際に形容して書いたのだと評せば許しておけないこともあるまい。こんなわけで、馬鈴薯は九子羊および土※[#「囗<欒」、8-8]児すなわちホドイモであるようだとして、疑を存しておくよりほか今別に致し方もあるまい。つまり福建省の松溪県からその土地でいう馬鈴薯の実物が出て来てくれさえすれば、この問題はたちまち解決せられるのであるが、それは中国の学者の研究に期待したい。
 ジャガタライモは、今世間一般の人が呼んでいるようにジャガイモと仮名で書けばよろしい。もしこれを漢字で書きたければそれを爪哇芋か爪哇薯かにすればよい。なにも大間違いの馬鈴薯の字をわざわざ面倒くさく書く必要は全くない。いったい植物の日本名すなわち和名はいっさい仮名で書くのが便利かつ合理的である。漢名を用いそれに仮名を振って書くのは手数が掛り、全くいらん仕業だ。例えばソラマメはソラマメでよろしく、なにも煩わしく蚕豆と併記する必要はない。キュウリはキュウリ、ナスはナス、トウモロコシはトウモロコシ等々で結構だ。胡瓜、茄、玉蜀黍等はいらない。
 今日中国の書物に、ジャガイモに対し往々馬鈴薯の名が使ってあるが、これはその誤りを日本から伝え、中国人が無自覚にそれを盲従しているにすぎないのである。こんなわけであるから、たとえ、今の中国人が馬鈴薯の字を使っていても、なにもそれは信頼するには足りないことを十分に承知していなければならない。ジャガイモを馬鈴薯だとする誤認は日本でも中国でも敢て変わりはない。


【牧野富太郎】  植物一日一題  馬鈴薯とジャガイモ

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藤とフジ
ヤマユリ
アケビと※[#「くさかんむり/開」、目次1-6]
アカザとシロザ
キツネノヘダマ
紀州高野山の蛇柳
無花果の果
イチョウの精虫
茶樹の花序
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毒麦
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婆羅門参
茶の銘玉露の由来
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日本で最大の南天材
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ワルナスビ
カナメゾツネ
茱萸とグミ
アサガオと桔梗
ヒルガオとコヒルガオ
ハマユウの語原
バショウと芭蕉
オトヒメカラカサ
西瓜――徳川時代から明治初年へかけて
ギョリュウ
万葉歌のイチシ
万葉歌のツチハリ
万葉歌のナワノリ
蓬とヨモギ
於多福グルミ
栗とクリ
アスナロノヒジキ
キノコの川村博士逝く
日本の植物名の呼び方・書き方
オトコラン
中国の椿の字、日本の椿の字
ノイバラの実、営実
マコモの中でもアヤメ咲く
マクワウリの記
新称天蓋瓜
センジュガンピの語原
片葉のアシ
高野の万年草
コンブとワカメ
『草木図説』のサワアザミとマアザミ
ムクゲとアサガオ
冬とフキ
薯蕷とヤマノイモ
ニギリタケ
パンヤ
黄櫨、櫨、ハゼノキ
ワスレグサと甘草
根笹
菖蒲とセキショウ
海藻ミルの食べ方
楓とモミジ
蘭と
製紙用ガンピ二種
インゲンマメ
ナガイモとヤマノイモ
ヒマワリ
シュロと椶櫚
蜜柑の毛、バナナの皮
梨、苹果、胡瓜、西瓜等の子房
グミの実
三波丁子
サネカズラ
桜桃
種子から生えた孟宗竹
孟宗竹の中国名
紫陽花とアジサイ、燕子花とカキツバタ
楡とニレ
シソのタネ、エゴマのタネ
麝香草の香い
狐ノ剃刀
ハマカンゾウ
イタヤカエデ
三度グリ、シバグリ、カチグリ、ハコグリ
朝鮮のワングルとカンエンガヤツリ
無憂花
アオツヅラフジ
ゴンズイ
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万年芝
オリーブとホルトガル
冬の美観ユズリハ
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植物一日一題

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  馬鈴薯とジャガイモ

 ジャガタライモ、すなわちジャガイモ(Solanum tuberosum L.)を馬鈴薯ではないと明瞭に理解している人は極めて小数で、大抵の人、否な一流の学者でさえも馬鈴薯をジャガイモだと思っているのが普通であるから、この馬鈴薯の文字が都鄙を通じて氾濫している。が、しかしジャガイモに馬鈴薯の文字を用うるのは大変な間違いで、ジャガイモは断じて馬鈴薯そのものではないことは最も明白かつ確乎たる事実である。こんな間違った名を日常平気で使っているのはおろかな話で、これこそ日本文化の恥辱でなくてなんであろう。
 昔といっても文化五年(1808)の徳川時代に小野蘭山(おのらんざん)という本草学者がいて、ジャガタライモを馬鈴薯であるといいはじめてから以来、今日にいたるまでほとんど誰もこれを否定する者がなく、ジャガタライモは馬鈴薯、馬鈴薯はジャガタライモだとしてこれを口にし、また書物や雑誌などに書き、これをそう肯定しているのが常識となっているが、それは大きな間違いであって、馬鈴薯はけっしてジャガタライモではないぞと今日大声で疾呼し喝破したのは私であったが、しかし蘭山がジャガタライモを馬鈴薯だといった後五年しての文化十年(1813)に大槻玄沢(おおつきげんたく)は、この蘭山の考えている馬鈴薯をジャガタライモの漢名とするの説を疑い、これを栗本丹洲(くりもとたんしゅう)に質問したが丹洲もまたその説を疑ったということが白井光太郎(しらいみつたろう)博士の『改訂増補日本博物学年表』に出ている。
 元来馬鈴薯というものは中国の福建省中の一地方に産する一植物の名で、それが『松溪県志(しょうけいけんし)』(松溪県は福建省地方の地名)と題する書物に僅かに載っているが、それがどんな植物であるのかは中国人でさえもこれを知らず、またかろうじての右の県志のほか、ありとあらゆる中国の文献には敢て一つもこれが出ていない。すなわち得体の分らぬ一辺境の中国土産の品で、中国人でさえも一向に知らないオブスキュアの植物である。
 しかるにジャガタライモは元来外国産、すなわち南アメリカのアンデス地方の原産のもので、四三三年前の西暦一五六五年に初めて欧州に入り、後ち欧州から東洋に持ち来たされ、ついに我が日本におけると同様に中国にも入りこんだものである。この事実からみても、それが元来の中国植物である馬鈴薯ではあり得ない理屈ではないか。そして中国人はこの外来植物に対して適切な新命名の洋芋(洋とは海外から来た渡り者を意味する)あるいは荷蘭薯(オランダイモの意)などと称えていて、けっしてこれを馬鈴薯などと間違った名では呼んでいない。その間違いを敢てしているものはひとり日本人だけである。これはちょうど馬を指して鹿だといい、人を指して猿だといっているようなものであるから、この馬鈴薯をジャガイモと呼ぶことは躊躇なく早速に廃すべく、したがって馬鈴薯の名は即刻放遂すべきものだ。
 さて馬鈴薯そのものの形状は、上の『松溪県志』によれば、


馬鈴薯ハ葉ハ樹ニ依テ生ズ、之レヲ掘リ取レバ形チニ小大アリテ略ボ鈴子ノ如シ、色ハ黒クシテ円ク、味ハ苦甘シ(漢文)


と書いてあるにすぎない。今この文についてみると、馬鈴薯なるものは一つの蔓草で樹木に攀じのぼり、その根を掘ってみると根に大小があって、その形がほぼ鈴のように円く、そしてその色が黒くてその味は苦甘いものだというだけで、その葉の形状もその花の様子もいっさい不明であるが、小野蘭山はこの漫然たる疎漏至極な文に基づいてその馬鈴薯をジャガタライモだとよくも言えたものだ。ジャガイモの茎は誰でも知っているようにけっして樹木に攀じのぼるような蔓ではなく、またその薯は黒色ではなく、また味も苦甘いものではない。だから馬鈴薯の草状は少しもジャガタライモの形状とは一致していない。世人は上の蘭山の謬説に惑わされてほとんど皆が盲となっているのはまことに笑止千万なことで、そのおめでたさを祝する次第である。
 今この『松溪県志』の馬鈴薯を想像してみると、まず考えに浮かぶのはマメ科のホドイモ(Apios Fortunei Maxim.)で、あるいはこれを指していっているのではないかと思われんでもない。このホドイモはまた中国にも産するから全く縁がない訳ではない。そしてこのホドイモは中国で九子羊と称しているものと同じであろうと信ずる。この九子羊は呉其濬(ごきしゅん)の『植物名実図考(しょくぶつめいじつずこう)』巻之十九、蔓草類にその図説が出ているので、今ここにそれを転載してみよう。その解説は「九子羊ハ衡山ニ産シ、蔓生細緑茎、葉ハ峨眉豆葉ノ如ク一枝ニ或ハ三葉或ハ五葉、秋ニ淡緑花ヲ開クコト豆花ノ如ク、而シテ内ニ郭アリテ人耳ノ如シ、短角ヲ結ブ、根ハ円クシテ卵ノ如ク数本同ジク生ズ、秋時ニ掘取レバ輒チ多クヲ得、俚医之レヲ用ウ」(漢文)である。またなお中国に土※[#「囗<欒」、7-5]児というものがあって『救荒本草(きゅうこうほんぞう)』巻之六に出ているが、これはおそらく右の九子羊と同種で単にその名称を異にしているが同じくホドイモであろうと信ずる。そして右『救荒本草』のその文は「土※[#「囗<欒」、7-7]児、一名ハ土栗子、新鄭山野ノ中ニ出ヅ、細茎ハ蔓ヲ延テ生ズ、葉ハ豆葉ニ似テ微シク尖、三葉毎ニ一処ニ攅生ス、根ハ土瓜児根ニ似テ微シク団(マル)ク、味ハ甜シ、救飢ニシ根ヲ採リ煮熟シテ之レヲ食フ」(漢文)である。
 右から推想してみると、まずまず九子羊ならびに土※[#「囗<欒」、8-3]児がいわゆる馬鈴薯にあたるように感ずる。もし果たしてそうだとすれば、とにかく、上の「葉ハ樹ニ依テ生ズ」[葉のある蔓が樹木に寄りすがって登っているの意]の意味とも吻合する。九子羊の根塊は円形で濃褐色だから、それを漫然と黒味がかった色と書いたのだと言えば通らんこともなかろうし、また苦甘はそれを噛んでの腥さい味を不手際に形容して書いたのだと評せば許しておけないこともあるまい。こんなわけで、馬鈴薯は九子羊および土※[#「囗<欒」、8-8]児すなわちホドイモであるようだとして、疑を存しておくよりほか今別に致し方もあるまい。つまり福建省の松溪県からその土地でいう馬鈴薯の実物が出て来てくれさえすれば、この問題はたちまち解決せられるのであるが、それは中国の学者の研究に期待したい。
 ジャガタライモは、今世間一般の人が呼んでいるようにジャガイモと仮名で書けばよろしい。もしこれを漢字で書きたければそれを爪哇芋か爪哇薯かにすればよい。なにも大間違いの馬鈴薯の字をわざわざ面倒くさく書く必要は全くない。いったい植物の日本名すなわち和名はいっさい仮名で書くのが便利かつ合理的である。漢名を用いそれに仮名を振って書くのは手数が掛り、全くいらん仕業だ。例えばソラマメはソラマメでよろしく、なにも煩わしく蚕豆と併記する必要はない。キュウリはキュウリ、ナスはナス、トウモロコシはトウモロコシ等々で結構だ。胡瓜、茄、玉蜀黍等はいらない。
 今日中国の書物に、ジャガイモに対し往々馬鈴薯の名が使ってあるが、これはその誤りを日本から伝え、中国人が無自覚にそれを盲従しているにすぎないのである。こんなわけであるから、たとえ、今の中国人が馬鈴薯の字を使っていても、なにもそれは信頼するには足りないことを十分に承知していなければならない。ジャガイモを馬鈴薯だとする誤認は日本でも中国でも敢て変わりはない。











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牧野富太郎 植物一日一題 ●目次 馬鈴薯とジャガイモ

2008-09-13 13:35:04 | Weblog
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牧野富太郎




植物一日一題●目次

[#改ページ]


馬鈴薯とジャガイモ
百合とユリ
キャベツと甘藍
藤とフジ
ヤマユリ
アケビと※[#「くさかんむり/開」、目次1-6]
アカザとシロザ
キツネノヘダマ
紀州高野山の蛇柳
無花果の果
イチョウの精虫
茶樹の花序
二十四歳のシーボルト画像
サルオガセ
毒麦
馬糞蕈
昔の草餅、今の草餅
ハナタデ
イヌタデ
ボントクタデ
婆羅門参
茶の銘玉露の由来
御会式桜
贋の菩提樹
小野蘭山先生の髑髏
秋海棠
不許葷酒入山門
日本で最大の南天材
屋根の棟の一八
ワルナスビ
カナメゾツネ
茱萸とグミ
アサガオと桔梗
ヒルガオとコヒルガオ
ハマユウの語原
バショウと芭蕉
オトヒメカラカサ
西瓜――徳川時代から明治初年へかけて
ギョリュウ
万葉歌のイチシ
万葉歌のツチハリ
万葉歌のナワノリ
蓬とヨモギ
於多福グルミ
栗とクリ
アスナロノヒジキ
キノコの川村博士逝く
日本の植物名の呼び方・書き方
オトコラン
中国の椿の字、日本の椿の字
ノイバラの実、営実
マコモの中でもアヤメ咲く
マクワウリの記
新称天蓋瓜
センジュガンピの語原
片葉のアシ
高野の万年草
コンブとワカメ
『草木図説』のサワアザミとマアザミ
ムクゲとアサガオ
冬とフキ
薯蕷とヤマノイモ
ニギリタケ
パンヤ
黄櫨、櫨、ハゼノキ
ワスレグサと甘草
根笹
菖蒲とセキショウ
海藻ミルの食べ方
楓とモミジ
蘭と
製紙用ガンピ二種
インゲンマメ
ナガイモとヤマノイモ
ヒマワリ
シュロと椶櫚
蜜柑の毛、バナナの皮
梨、苹果、胡瓜、西瓜等の子房
グミの実
三波丁子
サネカズラ
桜桃
種子から生えた孟宗竹
孟宗竹の中国名
紫陽花とアジサイ、燕子花とカキツバタ
楡とニレ
シソのタネ、エゴマのタネ
麝香草の香い
狐ノ剃刀
ハマカンゾウ
イタヤカエデ
三度グリ、シバグリ、カチグリ、ハコグリ
朝鮮のワングルとカンエンガヤツリ
無憂花
アオツヅラフジ
ゴンズイ
辛夷とコブシ、木蘭とモクレン
万年芝
オリーブとホルトガル
冬の美観ユズリハ
 序文に代う

[#改丁]


植物一日一題

[#改丁]

  馬鈴薯とジャガイモ

 ジャガタライモ、すなわちジャガイモ(Solanum tuberosum L.)を馬鈴薯ではないと明瞭に理解している人は極めて小数で、大抵の人、否な一流の学者でさえも馬鈴薯をジャガイモだと思っているのが普通であるから、この馬鈴薯の文字が都鄙を通じて氾濫している。が、しかしジャガイモに馬鈴薯の文字を用うるのは大変な間違いで、ジャガイモは断じて馬鈴薯そのものではないことは最も明白かつ確乎たる事実である。こんな間違った名を日常平気で使っているのはおろかな話で、これこそ日本文化の恥辱でなくてなんであろう。
 昔といっても文化五年(1808)の徳川時代に小野蘭山(おのらんざん)という本草学者がいて、ジャガタライモを馬鈴薯であるといいはじめてから以来、今日にいたるまでほとんど誰もこれを否定する者がなく、ジャガタライモは馬鈴薯、馬鈴薯はジャガタライモだとしてこれを口にし、また書物や雑誌などに書き、これをそう肯定しているのが常識となっているが、それは大きな間違いであって、馬鈴薯はけっしてジャガタライモではないぞと今日大声で疾呼し喝破したのは私であったが、しかし蘭山がジャガタライモを馬鈴薯だといった後五年しての文化十年(1813)に大槻玄沢(おおつきげんたく)は、この蘭山の考えている馬鈴薯をジャガタライモの漢名とするの説を疑い、これを栗本丹洲(くりもとたんしゅう)に質問したが丹洲もまたその説を疑ったということが白井光太郎(しらいみつたろう)博士の『改訂増補日本博物学年表』に出ている。
 元来馬鈴薯というものは中国の福建省中の一地方に産する一植物の名で、それが『松溪県志(しょうけいけんし)』(松溪県は福建省地方の地名)と題する書物に僅かに載っているが、それがどんな植物であるのかは中国人でさえもこれを知らず、またかろうじての右の県志のほか、ありとあらゆる中国の文献には敢て一つもこれが出ていない。すなわち得体の分らぬ一辺境の中国土産の品で、中国人でさえも一向に知らないオブスキュアの植物である。
 しかるにジャガタライモは元来外国産、すなわち南アメリカのアンデス地方の原産のもので、四三三年前の西暦一五六五年に初めて欧州に入り、後ち欧州から東洋に持ち来たされ、ついに我が日本におけると同様に中国にも入りこんだものである。この事実からみても、それが元来の中国植物である馬鈴薯ではあり得ない理屈ではないか。そして中国人はこの外来植物に対して適切な新命名の洋芋(洋とは海外から来た渡り者を意味する)あるいは荷蘭薯(オランダイモの意)などと称えていて、けっしてこれを馬鈴薯などと間違った名では呼んでいない。その間違いを敢てしているものはひとり日本人だけである。これはちょうど馬を指して鹿だといい、人を指して猿だといっているようなものであるから、この馬鈴薯をジャガイモと呼ぶことは躊躇なく早速に廃すべく、したがって馬鈴薯の名は即刻放遂すべきものだ。
 さて馬鈴薯そのものの形状は、上の『松溪県志』によれば、


馬鈴薯ハ葉ハ樹ニ依テ生ズ、之レヲ掘リ取レバ形チニ小大アリテ略ボ鈴子ノ如シ、色ハ黒クシテ円ク、味ハ苦甘シ(漢文)


と書いてあるにすぎない。今この文についてみると、馬鈴薯なるものは一つの蔓草で樹木に攀じのぼり、その根を掘ってみると根に大小があって、その形がほぼ鈴のように円く、そしてその色が黒くてその味は苦甘いものだというだけで、その葉の形状もその花の様子もいっさい不明であるが、小野蘭山はこの漫然たる疎漏至極な文に基づいてその馬鈴薯をジャガタライモだとよくも言えたものだ。ジャガイモの茎は誰でも知っているようにけっして樹木に攀じのぼるような蔓ではなく、またその薯は黒色ではなく、また味も苦甘いものではない。だから馬鈴薯の草状は少しもジャガタライモの形状とは一致していない。世人は上の蘭山の謬説に惑わされてほとんど皆が盲となっているのはまことに笑止千万なことで、そのおめでたさを祝する次第である。
 今この『松溪県志』の馬鈴薯を想像してみると、まず考えに浮かぶのはマメ科のホドイモ(Apios Fortunei Maxim.)で、あるいはこれを指していっているのではないかと思われんでもない。このホドイモはまた中国にも産するから全く縁がない訳ではない。そしてこのホドイモは中国で九子羊と称しているものと同じであろうと信ずる。この九子羊は呉其濬(ごきしゅん)の『植物名実図考(しょくぶつめいじつずこう)』巻之十九、蔓草類にその図説が出ているので、今ここにそれを転載してみよう。その解説は「九子羊ハ衡山ニ産シ、蔓生細緑茎、葉ハ峨眉豆葉ノ如ク一枝ニ或ハ三葉或ハ五葉、秋ニ淡緑花ヲ開クコト豆花ノ如ク、而シテ内ニ郭アリテ人耳ノ如シ、短角ヲ結ブ、根ハ円クシテ卵ノ如ク数本同ジク生ズ、秋時ニ掘取レバ輒チ多クヲ得、俚医之レヲ用ウ」(漢文)である。またなお中国に土※[#「囗<欒」、7-5]児というものがあって『救荒本草(きゅうこうほんぞう)』巻之六に出ているが、これはおそらく右の九子羊と同種で単にその名称を異にしているが同じくホドイモであろうと信ずる。そして右『救荒本草』のその文は「土※[#「囗<欒」、7-7]児、一名ハ土栗子、新鄭山野ノ中ニ出ヅ、細茎ハ蔓ヲ延テ生ズ、葉ハ豆葉ニ似テ微シク尖、三葉毎ニ一処ニ攅生ス、根ハ土瓜児根ニ似テ微シク団(マル)ク、味ハ甜シ、救飢ニシ根ヲ採リ煮熟シテ之レヲ食フ」(漢文)である。
 右から推想してみると、まずまず九子羊ならびに土※[#「囗<欒」、8-3]児がいわゆる馬鈴薯にあたるように感ずる。もし果たしてそうだとすれば、とにかく、上の「葉ハ樹ニ依テ生ズ」[葉のある蔓が樹木に寄りすがって登っているの意]の意味とも吻合する。九子羊の根塊は円形で濃褐色だから、それを漫然と黒味がかった色と書いたのだと言えば通らんこともなかろうし、また苦甘はそれを噛んでの腥さい味を不手際に形容して書いたのだと評せば許しておけないこともあるまい。こんなわけで、馬鈴薯は九子羊および土※[#「囗<欒」、8-8]児すなわちホドイモであるようだとして、疑を存しておくよりほか今別に致し方もあるまい。つまり福建省の松溪県からその土地でいう馬鈴薯の実物が出て来てくれさえすれば、この問題はたちまち解決せられるのであるが、それは中国の学者の研究に期待したい。
 ジャガタライモは、今世間一般の人が呼んでいるようにジャガイモと仮名で書けばよろしい。もしこれを漢字で書きたければそれを爪哇芋か爪哇薯かにすればよい。なにも大間違いの馬鈴薯の字をわざわざ面倒くさく書く必要は全くない。いったい植物の日本名すなわち和名はいっさい仮名で書くのが便利かつ合理的である。漢名を用いそれに仮名を振って書くのは手数が掛り、全くいらん仕業だ。例えばソラマメはソラマメでよろしく、なにも煩わしく蚕豆と併記する必要はない。キュウリはキュウリ、ナスはナス、トウモロコシはトウモロコシ等々で結構だ。胡瓜、茄、玉蜀黍等はいらない。
 今日中国の書物に、ジャガイモに対し往々馬鈴薯の名が使ってあるが、これはその誤りを日本から伝え、中国人が無自覚にそれを盲従しているにすぎないのである。こんなわけであるから、たとえ、今の中国人が馬鈴薯の字を使っていても、なにもそれは信頼するには足りないことを十分に承知していなければならない。ジャガイモを馬鈴薯だとする誤認は日本でも中国でも敢て変わりはない。


植物一日一題 牧野富太郎 馬鈴薯とジャガイモ

2008-09-13 13:34:18 | Weblog
【調べもの文芸文庫】

高大連携情報誌 『大学受験ニュース』(ブログ版)

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牧野富太郎




植物一日一題●目次

[#改ページ]


馬鈴薯とジャガイモ
百合とユリ
キャベツと甘藍
藤とフジ
ヤマユリ
アケビと※[#「くさかんむり/開」、目次1-6]
アカザとシロザ
キツネノヘダマ
紀州高野山の蛇柳
無花果の果
イチョウの精虫
茶樹の花序
二十四歳のシーボルト画像
サルオガセ
毒麦
馬糞蕈
昔の草餅、今の草餅
ハナタデ
イヌタデ
ボントクタデ
婆羅門参
茶の銘玉露の由来
御会式桜
贋の菩提樹
小野蘭山先生の髑髏
秋海棠
不許葷酒入山門
日本で最大の南天材
屋根の棟の一八
ワルナスビ
カナメゾツネ
茱萸とグミ
アサガオと桔梗
ヒルガオとコヒルガオ
ハマユウの語原
バショウと芭蕉
オトヒメカラカサ
西瓜――徳川時代から明治初年へかけて
ギョリュウ
万葉歌のイチシ
万葉歌のツチハリ
万葉歌のナワノリ
蓬とヨモギ
於多福グルミ
栗とクリ
アスナロノヒジキ
キノコの川村博士逝く
日本の植物名の呼び方・書き方
オトコラン
中国の椿の字、日本の椿の字
ノイバラの実、営実
マコモの中でもアヤメ咲く
マクワウリの記
新称天蓋瓜
センジュガンピの語原
片葉のアシ
高野の万年草
コンブとワカメ
『草木図説』のサワアザミとマアザミ
ムクゲとアサガオ
冬とフキ
薯蕷とヤマノイモ
ニギリタケ
パンヤ
黄櫨、櫨、ハゼノキ
ワスレグサと甘草
根笹
菖蒲とセキショウ
海藻ミルの食べ方
楓とモミジ
蘭と
製紙用ガンピ二種
インゲンマメ
ナガイモとヤマノイモ
ヒマワリ
シュロと椶櫚
蜜柑の毛、バナナの皮
梨、苹果、胡瓜、西瓜等の子房
グミの実
三波丁子
サネカズラ
桜桃
種子から生えた孟宗竹
孟宗竹の中国名
紫陽花とアジサイ、燕子花とカキツバタ
楡とニレ
シソのタネ、エゴマのタネ
麝香草の香い
狐ノ剃刀
ハマカンゾウ
イタヤカエデ
三度グリ、シバグリ、カチグリ、ハコグリ
朝鮮のワングルとカンエンガヤツリ
無憂花
アオツヅラフジ
ゴンズイ
辛夷とコブシ、木蘭とモクレン
万年芝
オリーブとホルトガル
冬の美観ユズリハ
 序文に代う

[#改丁]


植物一日一題

[#改丁]

  馬鈴薯とジャガイモ

 ジャガタライモ、すなわちジャガイモ(Solanum tuberosum L.)を馬鈴薯ではないと明瞭に理解している人は極めて小数で、大抵の人、否な一流の学者でさえも馬鈴薯をジャガイモだと思っているのが普通であるから、この馬鈴薯の文字が都鄙を通じて氾濫している。が、しかしジャガイモに馬鈴薯の文字を用うるのは大変な間違いで、ジャガイモは断じて馬鈴薯そのものではないことは最も明白かつ確乎たる事実である。こんな間違った名を日常平気で使っているのはおろかな話で、これこそ日本文化の恥辱でなくてなんであろう。
 昔といっても文化五年(1808)の徳川時代に小野蘭山(おのらんざん)という本草学者がいて、ジャガタライモを馬鈴薯であるといいはじめてから以来、今日にいたるまでほとんど誰もこれを否定する者がなく、ジャガタライモは馬鈴薯、馬鈴薯はジャガタライモだとしてこれを口にし、また書物や雑誌などに書き、これをそう肯定しているのが常識となっているが、それは大きな間違いであって、馬鈴薯はけっしてジャガタライモではないぞと今日大声で疾呼し喝破したのは私であったが、しかし蘭山がジャガタライモを馬鈴薯だといった後五年しての文化十年(1813)に大槻玄沢(おおつきげんたく)は、この蘭山の考えている馬鈴薯をジャガタライモの漢名とするの説を疑い、これを栗本丹洲(くりもとたんしゅう)に質問したが丹洲もまたその説を疑ったということが白井光太郎(しらいみつたろう)博士の『改訂増補日本博物学年表』に出ている。
 元来馬鈴薯というものは中国の福建省中の一地方に産する一植物の名で、それが『松溪県志(しょうけいけんし)』(松溪県は福建省地方の地名)と題する書物に僅かに載っているが、それがどんな植物であるのかは中国人でさえもこれを知らず、またかろうじての右の県志のほか、ありとあらゆる中国の文献には敢て一つもこれが出ていない。すなわち得体の分らぬ一辺境の中国土産の品で、中国人でさえも一向に知らないオブスキュアの植物である。
 しかるにジャガタライモは元来外国産、すなわち南アメリカのアンデス地方の原産のもので、四三三年前の西暦一五六五年に初めて欧州に入り、後ち欧州から東洋に持ち来たされ、ついに我が日本におけると同様に中国にも入りこんだものである。この事実からみても、それが元来の中国植物である馬鈴薯ではあり得ない理屈ではないか。そして中国人はこの外来植物に対して適切な新命名の洋芋(洋とは海外から来た渡り者を意味する)あるいは荷蘭薯(オランダイモの意)などと称えていて、けっしてこれを馬鈴薯などと間違った名では呼んでいない。その間違いを敢てしているものはひとり日本人だけである。これはちょうど馬を指して鹿だといい、人を指して猿だといっているようなものであるから、この馬鈴薯をジャガイモと呼ぶことは躊躇なく早速に廃すべく、したがって馬鈴薯の名は即刻放遂すべきものだ。
 さて馬鈴薯そのものの形状は、上の『松溪県志』によれば、


馬鈴薯ハ葉ハ樹ニ依テ生ズ、之レヲ掘リ取レバ形チニ小大アリテ略ボ鈴子ノ如シ、色ハ黒クシテ円ク、味ハ苦甘シ(漢文)


と書いてあるにすぎない。今この文についてみると、馬鈴薯なるものは一つの蔓草で樹木に攀じのぼり、その根を掘ってみると根に大小があって、その形がほぼ鈴のように円く、そしてその色が黒くてその味は苦甘いものだというだけで、その葉の形状もその花の様子もいっさい不明であるが、小野蘭山はこの漫然たる疎漏至極な文に基づいてその馬鈴薯をジャガタライモだとよくも言えたものだ。ジャガイモの茎は誰でも知っているようにけっして樹木に攀じのぼるような蔓ではなく、またその薯は黒色ではなく、また味も苦甘いものではない。だから馬鈴薯の草状は少しもジャガタライモの形状とは一致していない。世人は上の蘭山の謬説に惑わされてほとんど皆が盲となっているのはまことに笑止千万なことで、そのおめでたさを祝する次第である。
 今この『松溪県志』の馬鈴薯を想像してみると、まず考えに浮かぶのはマメ科のホドイモ(Apios Fortunei Maxim.)で、あるいはこれを指していっているのではないかと思われんでもない。このホドイモはまた中国にも産するから全く縁がない訳ではない。そしてこのホドイモは中国で九子羊と称しているものと同じであろうと信ずる。この九子羊は呉其濬(ごきしゅん)の『植物名実図考(しょくぶつめいじつずこう)』巻之十九、蔓草類にその図説が出ているので、今ここにそれを転載してみよう。その解説は「九子羊ハ衡山ニ産シ、蔓生細緑茎、葉ハ峨眉豆葉ノ如ク一枝ニ或ハ三葉或ハ五葉、秋ニ淡緑花ヲ開クコト豆花ノ如ク、而シテ内ニ郭アリテ人耳ノ如シ、短角ヲ結ブ、根ハ円クシテ卵ノ如ク数本同ジク生ズ、秋時ニ掘取レバ輒チ多クヲ得、俚医之レヲ用ウ」(漢文)である。またなお中国に土※[#「囗<欒」、7-5]児というものがあって『救荒本草(きゅうこうほんぞう)』巻之六に出ているが、これはおそらく右の九子羊と同種で単にその名称を異にしているが同じくホドイモであろうと信ずる。そして右『救荒本草』のその文は「土※[#「囗<欒」、7-7]児、一名ハ土栗子、新鄭山野ノ中ニ出ヅ、細茎ハ蔓ヲ延テ生ズ、葉ハ豆葉ニ似テ微シク尖、三葉毎ニ一処ニ攅生ス、根ハ土瓜児根ニ似テ微シク団(マル)ク、味ハ甜シ、救飢ニシ根ヲ採リ煮熟シテ之レヲ食フ」(漢文)である。
 右から推想してみると、まずまず九子羊ならびに土※[#「囗<欒」、8-3]児がいわゆる馬鈴薯にあたるように感ずる。もし果たしてそうだとすれば、とにかく、上の「葉ハ樹ニ依テ生ズ」[葉のある蔓が樹木に寄りすがって登っているの意]の意味とも吻合する。九子羊の根塊は円形で濃褐色だから、それを漫然と黒味がかった色と書いたのだと言えば通らんこともなかろうし、また苦甘はそれを噛んでの腥さい味を不手際に形容して書いたのだと評せば許しておけないこともあるまい。こんなわけで、馬鈴薯は九子羊および土※[#「囗<欒」、8-8]児すなわちホドイモであるようだとして、疑を存しておくよりほか今別に致し方もあるまい。つまり福建省の松溪県からその土地でいう馬鈴薯の実物が出て来てくれさえすれば、この問題はたちまち解決せられるのであるが、それは中国の学者の研究に期待したい。
 ジャガタライモは、今世間一般の人が呼んでいるようにジャガイモと仮名で書けばよろしい。もしこれを漢字で書きたければそれを爪哇芋か爪哇薯かにすればよい。なにも大間違いの馬鈴薯の字をわざわざ面倒くさく書く必要は全くない。いったい植物の日本名すなわち和名はいっさい仮名で書くのが便利かつ合理的である。漢名を用いそれに仮名を振って書くのは手数が掛り、全くいらん仕業だ。例えばソラマメはソラマメでよろしく、なにも煩わしく蚕豆と併記する必要はない。キュウリはキュウリ、ナスはナス、トウモロコシはトウモロコシ等々で結構だ。胡瓜、茄、玉蜀黍等はいらない。
 今日中国の書物に、ジャガイモに対し往々馬鈴薯の名が使ってあるが、これはその誤りを日本から伝え、中国人が無自覚にそれを盲従しているにすぎないのである。こんなわけであるから、たとえ、今の中国人が馬鈴薯の字を使っていても、なにもそれは信頼するには足りないことを十分に承知していなければならない。ジャガイモを馬鈴薯だとする誤認は日本でも中国でも敢て変わりはない。


Ground Zeroとはもともと爆心地のこと、長崎や広島の原爆が投下された爆心地のこと

2008-09-13 13:32:40 | Weblog
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Ground Zeroとはもともと爆心地のこと、長崎や広島の原爆が投下された爆心地のこと言うのですが今は2001年に起こった米国同時多発テロで崩壊した、ニューヨークの世界貿易センタービル跡地のほうが有名になっちゃった感がありますね。現在は跡地に建設工事が急ピッチで進められていました。現場に踏み入れることはできませんでしたが、その当時の空気感を感じて思わず黙とう・・・しかし、テロは永遠に続きそうな気さえする、この虚しさ。。。
近くのメモリアルセンターのウインドウに貼ってあるポスターには「伝えよう人から人へ」みたいな言葉が書かれてあった。世界貿易センターより高いビルが出来るらしいが、何も建てないでそのままの形でとどめておいたほうが良かったのに・・・とおせっかいにも思ってしまう。ビルが建ってたら多分グランドZEROには行かなかったでしょう・・・

出典:http://www.gallery-sora-kuu.moo.jp/?cid=36967












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【サラダ記念日・ランキング①~⑩】サラダ記念日・短歌(うた)くらべ : YOMIURI ON

2008-09-13 13:31:08 | Weblog
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ウェブ サラダ記念日 の検索結果 約 8万3500 件



1位
万智の一人百首
「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの(『サラダ記念日』). 母の住む国から降ってくる雪 ... 「クロッカスが咲きました」という書きだしでふいに手紙を書きたくなりぬ(『サラダ記念日』). ゆく河の流れを何にたとえて ...
www.gtpweb.net/twr/sakuhin.htm - 21k - キャッシュ - 関連ページ



2位
サラダ記念日 - Wikipedia
また、『男たちのサラダ記念日』などの翻案・パロディー作品が出現した。12首からなる合唱作品『コメディア・インサラータ』が林光によって作曲された。現在、7月6日が「サラダ記念日」であるのは、表題作でもあるこの歌集に収められた短歌による。 ...
ja.wikipedia.org/wiki/サラダ記念日 - 21k - キャッシュ - 関連ページ



3位
河出書房新社|サラダ記念日
〈「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日〉――日常の何げない一瞬を、新鮮な感覚と溢れる感性で綴った短歌集。 ... 「八月の朝」で角川短歌賞を受賞。87年『サラダ記念日』で空前のブームを起こす。『よつ葉のエッセイ』『かぜの ...
www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309402499 - 33k - キャッシュ - 関連ページ



4位
松岡正剛の千夜千冊
『サラダ記念日』俵万智こうして、ぼくは小池さんの進言にはまり、俵万智の隠れファンになったのだが、ほんとうのところをいうと、俵万智は「カンチューハイ」を歌うより、すでに『サラダ記念日』に「夏の日」として収録された短歌群のうちの次のような歌を、これからはびしびし ...
www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0312.html - 51k - キャッシュ - 関連ページ



5位
サラダ記念日とは - はてなダイアリーサラダ記念日
- 歌人の俵万智が1987年に出した歌集。また、この歌集の中にある「『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」という短歌にちなんで7月6日は「サラダ記念...
d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B5%A5%E9%A5%C0%B5%AD%C7%B0%C6%FC - 30k - キャッシュ - 関連ページ



6位
Amazon.co.jp: サラダ記念日
(河出文庫―BUNGEI Collection): 俵 万智: 本Amazon.co.jp: サラダ記念日 (河出文庫―BUNGEI Collection): 俵 万智: 本. ... タイトルにもなった「サラダ記念日」の歌がそうである(サ行の繰り返しによる野菜の歯ざわりの表現が絶妙)。また、歌われる内容は四季折々の風景や人間の心情といった身近 ...
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7位
Amazon.co.jp: サラダ記念日
: 俵 万智,いで まゆみ: 本Amazon.co.jp: サラダ記念日: 俵 万智,いで まゆみ: 本.
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8位   選者はベストセラー『サラダ記念日』でおなじみの
サラダ記念日・短歌(うた)くらべ : YOMIURI ONLINE(読売新聞)サラダは野菜をおいしく、いっぱい食べられるだけではなく、食に関わるさまざまなシーンをさりげなく演出してくれる身近な存在。第3回目を迎える2008年、あなたはどんなサラダを詠みますか? 今年も選者はベストセラー『サラダ記念日』でおなじみの ...
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9位
7月6日 今日は何の日~毎日が記念日~歌人の俵万智さんが1987(昭和62)年に出した歌集『サラダ記念日』(河出書房新社)の中の一首 この味がいいねと君が言ったから 七月六 ... 「記念日」という言葉を一般に定着させた「サラダ記念日」に因む。当初は、「祝日法」が公布施行された7月20日だった ...
www.nnh.to/07/06.html - 28k - キャッシュ - 関連ページ



10位
『サラダ記念日』の言語学
俵万智のデビュー作は1987年の『サラダ記念日』だったが、このタイトルはシェイクスピアを踏まえていることは確かだ。詩人の長田弘にも『サラダの日々』という本があるが、英語で「サラダの日」というと「(未熟な)青年時代」を意味する。 ...
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