お父上と織田君の話になり
「信長さまの子孫って、なんで生きてるん?」
って話が出たので、今日は織田家を行ってみようかと思います!!
ってか、家のサイトって、大鳥サイトでも明治サイトでも幕末サイトでもなくしのサイトらしいので、好きなものを好きなだけ書いちゃえば良いらしいですよ~
じゃあ、下から『その後の織田家』
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
まず本能寺の変の時に信長さまと、嫡男の信忠君(実はこの時点ではもう信忠君が織田の当主なんだけどね)が亡くなってます。
場所は信長さまは本能寺で、信忠君は二条御所(後の二条城)。
その後、織田家を継いだのは信忠君の長男の三法師君、元服後は秀信と名乗ります。
三法師君は最初安土城に入りますが、翌年信長の次男信雄も安土城入り、そしてその翌年に秀吉と喧嘩して負けます。
6歳になった三法師君は秀吉に岐阜を貰うのでそっちにお引越ししてボーっと過ごすのですがで秀吉の死後、光成方につき、しかも関ヶ原より前に降伏…。
出家して高野山に入るんですが、追放…、僧を切ったとか、乱行を働いたとか、諸説ありますが詳しくは分からないようです。
信忠のにはもう一人秀則という男子もいたのですが、秀吉に仕えて京都で静かに暮らしてたらしいです、子供もいなかったそうなので、嫡流は断絶。
しかし、4.5.7.9男の家は現在まで続いています。
四男信良の系統は、上野小幡藩を経て出羽高畠藩、天童藩に。
五男高長の系統は、大和宇陀松山藩、丹羽柏原藩に。
4.5男の系統は、それぞれ二万石の小藩ながら信長の末裔って知名度は抜群のため、幕府からは、国主並みの待遇を受け、明治に入ってからも子爵位を与えられています。
七男信高・九男信貞の系統も江戸時代は高家旗本として続いています。
フィギュアの織田君は、七男信高の直系の子孫(信長から17代目)です。
「信長さまの子孫って、なんで生きてるん?」
って話が出たので、今日は織田家を行ってみようかと思います!!
ってか、家のサイトって、大鳥サイトでも明治サイトでも幕末サイトでもなくしのサイトらしいので、好きなものを好きなだけ書いちゃえば良いらしいですよ~

じゃあ、下から『その後の織田家』
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まず本能寺の変の時に信長さまと、嫡男の信忠君(実はこの時点ではもう信忠君が織田の当主なんだけどね)が亡くなってます。
場所は信長さまは本能寺で、信忠君は二条御所(後の二条城)。
その後、織田家を継いだのは信忠君の長男の三法師君、元服後は秀信と名乗ります。
三法師君は最初安土城に入りますが、翌年信長の次男信雄も安土城入り、そしてその翌年に秀吉と喧嘩して負けます。
6歳になった三法師君は秀吉に岐阜を貰うのでそっちにお引越ししてボーっと過ごすのですがで秀吉の死後、光成方につき、しかも関ヶ原より前に降伏…。
出家して高野山に入るんですが、追放…、僧を切ったとか、乱行を働いたとか、諸説ありますが詳しくは分からないようです。
信忠のにはもう一人秀則という男子もいたのですが、秀吉に仕えて京都で静かに暮らしてたらしいです、子供もいなかったそうなので、嫡流は断絶。
しかし、4.5.7.9男の家は現在まで続いています。
四男信良の系統は、上野小幡藩を経て出羽高畠藩、天童藩に。
五男高長の系統は、大和宇陀松山藩、丹羽柏原藩に。
4.5男の系統は、それぞれ二万石の小藩ながら信長の末裔って知名度は抜群のため、幕府からは、国主並みの待遇を受け、明治に入ってからも子爵位を与えられています。
七男信高・九男信貞の系統も江戸時代は高家旗本として続いています。
フィギュアの織田君は、七男信高の直系の子孫(信長から17代目)です。