新宿クレッシェンド第6弾 新宿リタルダンド
新宿歌舞伎町浄化作戦……。
都知事が発動した馬鹿げたこの作戦は、歌舞伎町という街を本当にボロボロにしてしまった。その時代、歌舞伎町で生きた俺は思う。歌舞伎町浄化作戦とは、正義を語ったパフォーマンスに過ぎないと……。
私事で言わせてもらえば、「よくもこんなくだらない作戦をやりやがったな? この馬鹿都知事が!」とぶん殴ってやりたい。何故ならようやく手にしたチャンスを自分のドジもあるが、すべて台無しにしてしまったからである。
これまで十五年間、歌舞伎町では八月に入って捕まった店はない。何の確証もないが、おそらくお盆休暇などで警察もちゃんと休みがほしいからだろうと、歌舞伎町の住民たちは勝手な想像をしていた。裏稼業の人間は、いつもこんな感じでお気楽に考える人間が多い。もちろん俺もその内の一人だ。
俺の仕事といえば、組織の運営する裏稼業の店を統括する事だった。だからこんな浄化作戦みたいなものが始まるといい迷惑である。やる事が必要以上に増えるからだ。前までは従業員がちゃんと仕事をしているか抜き打ちでチェックしに行ったり、一日の売上を回収しに行ったりぐらいで、かなり楽なポジションにいた。それがこの浄化作戦のせいで、環境がガラリと変わる。覆面パトカーは年中うようよしているし、こっちは常に街中をチェックするようになった。
この浄化作戦の本気度は凄まじかった。まず某暴力団事務所から流れてくる情報。いついつにどの店がパクられるといった裏稼業に関わる人間には必須の情報源だが、急に情報が入らなくなったと言う。この情報を聞くにあたって、用意する金は入会金の五十万。それと月々に情報料として三十万の金が必要だった。パクられない安全を買っていると思えば安いものだ。
元々警察内部の奴が小遣い欲しさに流していた情報である。そんな小悪党が自粛するぐらい本格的に浄化作戦を始めるという事なのだろう。
しかし歌舞伎町の住民たちは、どこか呑気だった。
七月に入り、急激に検挙される店が増える。この頃は、警察も都知事に格好をつけたいから張り切っているだけだろうと、みんな高を括っていた。
八月に入り、初日から摘発が始まる。今まで十五年間やられないという秩序が壊された瞬間であった。最初にやられた三店の裏ビデオ屋の内、その一軒は俺が統括をしている店だったのだ。
通行人のふりをしながら、部下がパクられていく様子を見るのはとても辛い。何一つ打つ手がないのだ。四坪ほどの狭い店内には十名以上の刑事がいる。しばらくして覆面パトカーが二台、箱車と呼ばれるトラックが店のそばに停車し、部下が手錠を掛けられた状態で出てきた。左右にはガッチリとガードを固める刑事二人。残りの刑事たちは大きなダンボールに裏DVDを入れ、せっせと運んでいる。
俺ができる事といえば、用件が済んだ警察の車のあとをつけ、どこの警察署なのかを把握するぐらいだ。
場所が歌舞伎町なんだから検挙するのは新宿警察署だろうと、何も知らない人間はそう安易に思うだろう。しかし違うのだ。都内中の警察署が各店をパクりにやってくる。今回やられた三軒の店は、それぞれ池袋、八王子、駒込の警察署だった。
日本一の繁華街歌舞伎町の住民たちは、これで事の重大さが分かったようだ。
俺が統括する店の一つである裏ビデオ屋『フィッシュ』。四・五坪ほどの小さな店内に、十名以上の警官の姿が見える。
「まいったなぁ~」
遠くから『フィッシュ』を見ながらぼやくオーナーの村川。俺もその横でただ黙って見つめているだけだった。
「今まで八月だけは、やられる事なかったんだけどな……」
「村川さん、俺、客のふりして中へ行って、浜松を強引に連れ出してきましょうか?」
「馬鹿言え、神威。そんな事したら、おまえまでとっ捕まっちまうぞ」
「でも、このままジッと見てるだけなんて……」
何もできない自分が歯痒かった。
「そういえば、おまえがうちの系列に来てからは、警察にやられるの初めてか」
「ええ……」
俺がこの系列グループに入って数ヶ月が過ぎていた。命まで狙われた事もあった。それを思えば平和な日々を過ごしている。
俺が北方のところを辞めた件は、一気に歌舞伎町内で広まった。
池袋や上野の裏稼業から誘いが掛かる。みんな、俺の持つコネクションや、パソコンのスキルがほしいのだろう。条件も北方のところより数倍いい。
しかし違うのだ。俺の目的は金じゃない。生き方なのである。もちろん金は多くもらうに越した事はない。だけどそんな事よりも、俺はまた新宿歌舞伎町へ戻らないと駄目なのだ。何のプラスにもならない事を分かっていながらも、この部分にこだわりたかった。
これは北方に対する意地でもあり、自分のプライドでもある。条件や待遇よりも、主戦場が歌舞伎町でなければ何の意味もない。
誘ってくれた組織には丁重に断り、新宿で商売をする人間からの連絡を待った。
その時、裏本を作っていた業者の坂本から電話があり、新宿の裏ビデオを経営するグループを紹介したいという話が来る。
早速俺は歌舞伎町へ戻った。
坂本が紹介した組織は、複数の裏ビデオ屋オーナーがまとまったもので、各店を統括する人間がほしかったようだ。名義人をするという訳じゃないので、俺はありがたくその誘いを受ける事にした。
裏稼業に身を落として十年近く。未だ前科も何もないのは俺が名義人を一切引き受けなかったという部分が強いと思う。裏稼業は元々警察に捕まる商売である。捕まるという事は、誰かしらが責任を負わねばならない。名義人は一番罪が重いので、まず前科者になってしまうのだ。その代わり、毎月名義料といった形で毎月十万から二十万円の金をもらえるメリットはある。オーナーの身代わりに捕まり、自分が社長だと裁判でも通せば、謝礼として二百万円をあとで受け取る。
裏ビデオの場合、ほとんど店の売り子がそのまま名義人となっており、店も又貸しとして本人がちゃんと契約をする。警察に捕まった際、自分で商売をしたという証明にもなるからだ。名義料込みで一ヶ月の給料が五十万になるので、売り子を引き受ける人間は多い。車の免許もなければ、特別何かをできる訳じゃない人間にしてみれば、破格の条件に見えるのだろう。
捕まるまで毎月五十万の給料と、捕まった時自分が社長でしたと身代わりの二百万円。俺は金額うんぬんでなく前科者になる訳にはいかない。各店の統括。これなら警察に踏み込まれる可能性も低いし、小説のネタとして申し分ないだろう。俺の給料は一ヶ月四十万だった。
各店の名義人を紹介してもらい、店のシステムを覚える。
今の世の中、ビデオよりDVDが主流になりつつあるので、ビデオを置いていない店もあった。DVD一枚だと三千円。二枚で五千円。五枚で一万円という料金システム。
俺が見るのは全部で五店舗。オーナーは全部で三人。各オーナーが数万円ずつ出し合って、俺の給料を払っているという訳だ。仕事内容といえば、各店の売上計算と歌舞伎町内の見回り。警察がいつ来るか分からない。色々な店と仲良くなり、情報交換のやり取りをしていた。
他のビデオ屋がやられている時に、すぐそばで素知らぬ顔で営業をしていたりすると、たまに捕まるケースもある。俺らの業界では、それを『とばっちり』と呼んでいた。
「神威さん、駅前のあの店が今やられてます」
そんな情報が入ると、俺は自分の系列の店すべてをすぐ閉めさせる。そのあとで知り合いにも「今やられてるよ」と情報を流すのだ。
例え一週間店を閉め、売上がなかろうと、警察に捕まりすべてを失う事に比べたら全然マシである。店内のDVDをすべて押収されるより、捕まった名義人に対する保障の二百万と弁護料が痛い。その間、店自体も営業できず、高額の家賃だけが消えていくのだ。
ビデオ屋のタイプは大きく分けて二つ。店置きと運びに分かれる。要はDVDをそのまま店に置いたまま販売するスタイルか、ファイルのみを店に置き、客が買った時点で倉庫から運び屋がDVDを店まで持ってくるスタイルかの違いである。
店置きの場合、ものが店内にある訳だから警察に踏み込まれたら一発で逮捕。運びの場合は倉庫まで内定が入らないと逮捕とはいかない。ただ運びの場合、運び屋の給料など経費が倍は掛かってしまうデメリットも。捕まった時痛いのは運びの店でもある。何故ならば、倉庫と店同時に捜査が入るので捕まる人数も倍なのだ。弁護料も保証料も当然倍掛かる計算となる。
そもそも裏ビデオ屋の場合、捕まると猥褻図画という罪状がつく。これはショウベン刑と呼ばれる軽いもので実刑一年三ヶ月となるが、初犯だと執行猶予三年で済む。分かり易く言えば、初犯で捕まっても三年間大人しくしていれば、それで罪が消えるのだ。前科はつくが刑務所へ行かずに済む。だから月五十万の給料と、保証金二百万ほしさに名義人をする人間はあとを絶たない。
真面目にサラリーマンをしている人種から見れば、狂気の沙汰にしか見えないだろう。しかし彼らと違って歌舞伎町に流れる住人のほとんどは、コツコツと真面目に積み重ねてこなかったのだ。俺も含め、そんな人種にまともでいい条件の職などそうそうない。だからみんな、手っ取り早く金になる裏稼業へと流れていく。
俺の今の立ち位置は各店舗を掌握して管理する統括。昼間は情報を集め、名義人たちがサボらず仕事をしているか見回る。夜は売り上げの計算などをし、たまに裏ビデオのDVDジャケットをもっと売れるようにセンス良くデザインした。ゲーム屋の『ワールド』で言えば、番頭の浅田さんのようなものだ。
この立場のいいところは、まず俺がパクられる事がほぼないという部分。各オーナーたちと会う際は必ず外で会い、喫茶店などを利用する徹底ぶり。事務所という概念がないのである。
それに浄化作戦が始まる前までは、暗くなると漫画喫茶に向かい、ひたすら小説を書いているだけでよかった。ビデオ屋なんてほとんど問題など起きない仕事なので、気楽に自分の好きな事をしていられた。
浄化作戦が始まる前に、俺は過去必死で取り組んだプロレス時代の想いをかぶせた『打突』というタイトルの作品に取り組んだ。執筆期間三ヶ月弱。原稿用紙八百六十一枚で、俺のやるせない想いと強さを淡々と語った作品は完成する。ずいぶんと長くなったものだ。『新宿クレッシェンド』の約二倍の分量。まあいいや。この作品は俺にとって究極のマスターベーション的な作品だ。誰の理解なんていらない。ただまだ心のどこかにくすぶっている想いを文字に投影したかったのである。『新宿クレッシェンド』第三弾として執筆したのもあり、事実だけではなく途中で『でっぱり』の岩崎らと関わりがあるよう内容を少しだけいじってみた。
続けて俺は第四弾として『フェイク』を書き始めていた。シリーズで見ると偶数なので、主人公は『でっぱり』同様二人の主人公を考える。処女作に使った主人公の赤崎隼人を一人目に決め、二人目は光太郎という新キャラクターを考えた。
コマ劇場裏側にある通称『ビデオ村』と呼ばれる場所があった。ほとんど裏ビデオ屋のみしかないところである。ちょっと前まではビデオでなくゲーム屋だった。そのビデオ村の一軒の店が警察にやられたという情報が入る。
俺は五店舗に指令を出し閉めさせ、ビデオ村へ向かう。
野次馬のほとんどが各ビデオ屋のオーナーや名義人たちばかりだ。俺の顔を見ると、「まったく商売にならないよね~」と愚痴をこぼしてくる。とばっちりが怖いから、みんな自分の店を閉めるようだった。
そんな時、北方の姿が見えた。手に札束を持っている。
「いや~、みんな店を閉めてるのか。おかげで俺のところは客がわんさか来るだよ」
そう言うと北方は、持っている札束を嫌味たっぷりに数えだす。
とばっちりを恐れ、みんなが閉めているのに北方の店だけは気にせず営業をしていた。無数にある店が一斉に閉めているから、北方の店は一人勝ち状態である。捕まるのは自分じゃない。そんな不条理な感覚でやっているから平気でそう言えるのだろう。
各オーナー連中は、煙たそうに北方を見るだけで何一つ言い返そうとしない。
「ん、神威…。おまえ、よくこの街にいられるな」
俺に気づいた北方は近づき、脅すように言ってきた。
あの時よくも人の命を消そうとしたな? このクズが……。
「天下の往来歩くのに、何でおまえの許可がいるんだ? ヤクザ者に俺を消せって言ったらしいじゃねえか。どこも動かなかったようだけどよ。いつまでも余裕こいてんじゃねえぞ!」
これ以上何か言ってくるようなら顔面に一発お見舞いしてやる。俺は右拳をギュッと硬く握り締めた。トレーニングをやめしばらく経つが、まだまだ一般人離れした俺の肉体。こういう悪に対抗できるように、俺はこれまで体を鍛え抜いてきたのだ。
他のオーナー連中は、俺と北方のやり取りを見てニヤニヤしている。
「おまえ、誰に向かって口を利いて……」
「おまえだよ、北方。おまえに向かって口を利いているつもりだけどな?」
「くっ、覚えてろ」
北方が逃げるように消えると、オーナー連中は俺を見て拍手してきた。
「いやー、神威ちゃん。見ててスッキリしたよ」
「いつもあの馬鹿、偉そうにしやがってね」
「いい気味だ。一昨日きやがれってんだ」
みんな、北方にはストレスを感じていたのだろう。今まで背後に見え隠れするヤクザのせいで何も言えなかったが、俺がハッキリと北方へ言ったせいでスッとしたようだ。
しかしこんなもんじゃ俺の恨みは消えやしない。いずれあの時の借りはちゃんと返してやる。俺は北方が消えた路地の向こうを睨みつけた。
「おい、神威。どうした? ボーっとして」
オーナー村川の声で現実に引き戻される。ちょうど数ヶ月前の出来事を思い出していた。
「いえ、何でもないです」
「お、出てきたぞ。あいつ、余計なを事喋らなければいいけどな」
ビデオ屋『フィッシュ』の名義人、浜松が手錠を掛けられた状態で出てくるのが見える。両脇には警官がガッチリガードを固め、今にも泣き出しそうな顔で辺りを不安そうにキョロキョロとしながら、パトカーへ強引に乗せられた。
「浜松……」
「よせ、それ以上は近づくな。おまえまでパクられるぞ。捕まる時はこんなもんだ。それよりあいつ、警察に情報を謳わなきゃいいけどな」
「それは大丈夫ですよ」
名義人はビデオ屋の売り子をする前に、簡単な対警察シミュレーションをする。実際に捕まった時、あの手この手を使って警察は名義人を事情聴取するのだ。警察だって馬鹿じゃない。裏稼業の名義人を使ったからくりなどお見通しなのである。要は名義人が警察の策に引っ掛からず、どこまで自分がすべてやったと言い切れるかなのだ。
言ったら保証金として二百万円。すべて喋った瞬間、二百万円はパー。損得勘定が普通にできる人間なら、まず警察に謳う者はいないだろう。
刑事たちが二台の覆面パトカーと箱車へ乗り込むと、俺はカメラをすぐシャッターが押せる状態なのを確認して、あとをつけた。どこの警察署が浜松を捕まえたのかを調べ、すぐ弁護士を手配しないといけない。
歌舞伎町で働く住人たちの多くは見得を張る。「俺は昔何々をしていた」「前にあったあの事件で俺は何々しててな」と必要以上に自分を大きく見せようとする傾向があった。数年この街にいる俺も、様々な人と出会い接してきた。裏稼業は特別難しい商売ではない。むしろ簡単で楽な商売である。
働く上で一番大切な事。遅刻せずキチンと来る事は当たり前だが、それ以上に対警察、ヤクザが来た時に初めて真価が問われるだろう。
予めしておいたシミュレーション通りにちゃんと接する事ができるか。それが大事なのだ。
大口を叩く人間に限って、いざとなると本性を曝け出す。以前俺に対抗意識を持っていた奴がいた。何かにつけて張り合ってくる。仕事にそんな事まるで関係ないのにと思うが、そいつは必要以上に自分をよく見せたいのだろう。たまたま店にヤクザ者が二人やってきた。するとその男は顔を真っ青にさせて隅っこでガタガタ震える事しかできなかった。
警察が来た時もそうだ。錯乱状態になり、「俺だけは絶対に捕まりたくないんですよ」と必死に訴えだす。警察になんか誰だって捕まりたくない。みんな同じなのだ。それを表に出すか出さないかで、その人間の中身が見える。大抵は警告しにくるだけで、パクリに来た訳ではない。それを必要以上にビビリ、怯える姿を見るのは滑稽である。
要はどんな時でも、平常心を保つという事が大切なのだ。
裏稼業は法に違反し、捕まる仕事をしている。だから警察が来るのは当たり前。ヤクザ者が嫌がらせに来るのも日常茶飯事。そんな事で取り乱すぐらいなら、真面目にサラリーマンをすればいい。
理屈では分かっていても、仲間が目の前で捕まっていく様子を見るのは辛かった。
今の俺にできる事。それは浜松をパクった警察署がどこかを突き止める事。覆面パトカーが走り出すと、俺は見失わないようにあとをつけた。
浜松が捕まった先は池袋警察署だった。そこの留置所へ送られる訳である。
自分の身代わりになって捕まったオーナーの村川は、何度もこういう事を経験しているせいか落ち着き冷静だ。
「弁護士料で二百万か…。まいったな」
大金を払わねばならない村川の気持ちも分からないでもないが、もう少し捕まった浜松の事を考えてほしいものだ。彼にしてみれば、初めて警察に捕まったのである。いくら事前にシミュレーションをしていたとはいえ、しょせん仮想に過ぎない。どれだけ不安で怖い思いをしているかと想像すると、俺はやりきれない気持ちになる。
池袋警察署と分かると、組織お抱えの弁護士に早速手配をした。浜松は警察の中にいるので、俺たちは誰一人接する事ができないのだ。
留置所へ面会しに行く時、弁護士だけは一対一で話す事ができた。普通に面会へ行ったとしても、必ず横に警官が一人ついた状態で何を話したかメモを取りながらの面会となる。
俺は村川に命じられ、浜松に送る為の差し入れを買い出しに行った。
あいつはマイルドセブンを吸うので、まずタバコをワンカートン。パンツや靴下、ティーシャツ。歯ブラシなどの洗面用具。そしてジャージを三着。ズボンについている紐やゴムは、すべてこちらで切っておく必要があった。何故なら留置所内では、中で自殺をする事ができないように首を吊る為の紐などが差し入れ禁止なのである。だいたいこのようなものを用意した。
多少の金は持っているだろうが、弁護士に差し入れ品と共に五万円を手渡す。中で金を使う事といったら、タバコに土日祝日を除いた平日の自弁代。通常毎日三食出るが、平日の昼だけは金を払う事で、業者の作る自弁を任意で注文する事ができた。タバコは一日二本しか吸えないので、そんな金を使う事もない。
「先生、浜松をよろしくお願いします」
俺は差し入れの品と金を渡しながら、深々と頭を下げた。
浜松の接見禁止が解けたら面会へ行っていいかと、オーナーの村川に聞いてみる。
「気持ちは分かるけど、こっちからは一切行っちゃ駄目だ。おまえまで万が一やられたら、組織が命取りになるからな」
関係者は面会にもいけない。歯痒いが仕方ないのだ。
パトカーへ乗り込む前に辺りをキョロキョロ見回し、泣き出しそうな浜松の表情を思い出す。これから自分がどんな目に遭うのか不安でしょうがないのだろう。顔だけでも見せて、少しは安心させてやりたかった。
それさえも叶わない現実。俺は浄化作戦を発動させた都知事を恨んだ。
様々な手配をしながら動き回る俺。この日俺はほとんど徹夜で家に戻ったのは朝だった。
ドッと疲れながら家に帰る俺。
八月二日。今日は待ちに待った念願のデートだった。
俺が出逢った女の中で、どうしても手に入れたかった女、大崎秋奈……。
彼女の為に絵を描き、ピアノを奏で、小説を書いた。ピアノ発表会へ来てくれなかった秋奈。俺はその日、部屋で一人寂しく膝を抱えて泣いた。
しかしやはり諦める事はできなかった。
初めて執筆した小説『新宿クレッシェンド』を俺は、何度も時間と金を掛けてプリントアウトした。最初の一ヶ月は、うまく方法を思いつかずインク代を十一万円も使う。一冊の本という形にするまで、まずプリントアウトで二時間掛かり、液状の糊を塗って乾かすのに約半日という工程を踏まねばならない。
何日も掛けて何冊も本という形に仕上げ、その度自分で満足いくよう手直しをする。
どのくらい本を作ったのか数も分からなくなったぐらい作り、ようやく満足の行く形として完成した。
俺は完成した初めの一冊を秋奈に贈りたいが為に、メールを打ってみた。ピアノ発表会すら来てくれなかったのだ。返事など何も期待はしていない。しかしそれでも秋奈へ俺が、今度は小説を書いて一つの物語を完成させたという事実を知っておいてほしかった。
《久しぶり。小説というものに挑戦してみる事にした。自分の中にある暗い闇、それを少し主人公へプレゼントする形で、処女作『新宿クレッシェンド』は完成した。クレッシェンドとはピアノの音楽用語でだんだん強くなる。または成長するという意味なんだ。文学の勉強など何一つしていないけど、魂込めて、ピアノを弾いた時と同じように熱を込めて作品を完成させたんだ。秋奈、君にぜひ読んでほしい。迷惑じゃなかったらでいいんだ。何をしたって君の事が忘れられない。こんなメールばかりでゴメンね。 神威》
自分が何をしたからこうしてくれた。自分がこう言ったから、相手がこう言ってくれた。そんな見返りなど何もいらない。俺はまだ秋奈の事が好きだから、ただこうしてしつこく自分の気持ちをメールで書いているだけ。本当はまだまだいくらでも書けた。でもあまり長くなり過ぎても向こうにとって迷惑にしかならないから、あえてこのようにまとめただけだった。
非常に女々しい俺。だけどしょうがない。まだ彼女の事が好きなのだから……。
すぐ秋奈から返事が届く。信じられないような現実に、俺はドキドキしながらメールを見た。
《お久しぶりです。発表会観に行けなくてごめんなさい。神威さんの小説、ぜひ読んで見たいです。 秋奈》
そして彼女は、自分の住所までメールに書いてあった。
俺はすぐ『新宿クレッシェンド』を丁寧に包み、秋奈の元へ贈る事にした。
数日後、秋奈からメールが再び届いた。
《『新宿クレッシェンド』読ませていただきました。何ていうか、すごく良かったです。こんなありきたりな表現じゃなく、えっと、今度逢いませんか? 直に逢って感想を言いたいなあと思っています。 秋奈》
あの秋奈が俺と逢いたい? 俺はしばらくメールをボーっと眺めていた。何をしても駄目だと思っていた。相手にされず、泣いた事もあった。でも諦めず頑張る事で報われる事だってある……。
俺は携帯電話を握り締めながら、静かに泣いた。
秋奈を自分の女にとかそういう事でなく、実際に逢って話をする事ができる。彼女との時間の共有。これでピアノをザナルカンドを捧げる事ができる。
彼女と逢ったらどうしよう? いきなり抱き締めちゃうか? いや、そんなんじゃない。秋奈のあの笑顔を見られるだけで幸せなんだ。今、彼女の心が少しかもしれないが、俺の方向を向いてくれているという事実。それが何よりも嬉しかった。
この『新宿クレッシェンド』を書き終え、自分の心の奥底にあった何かの黒い歪み、それがスッと消え、楽になった気分がした。おそらく書く事で、自分の一部分を浄化したのだろう。それと同時に彼女の心も再びこちらへ向かせる事ができたのだ。こんな幸せな事ってない。
そして俺と秋奈は何度かメールのやり取りをして、逢う日にちを決める。
八月の二日。
俺と秋奈の運命の再会の日。
捕まってしまった浜松には悪いが、必然と俺の心はウキウキしていた。
インク代を十一万も掛けただけあり、本はたくさん手元にあった。近所やビデオ屋『マロン』の常連客で欲しがる人には『新宿クレッシェンド』を配り歩く。
そうなると当然中学時代の友人ゴッホにも本を渡そうとした。物語の準主役の『岩崎』。元はと言えばゴッホの苗字の『岡崎』から変化してああなったのである。それに彼の生き方を何とか格好悪く表現しようとホモの設定を思いつけた。それについては勝手に少しばかりの感謝を感じている。ゴッホを食事へ誘い、自家製で作った『新宿クレッシェンド』を目の前に出す。
「おい、ゴッホ。前に言ってた小説が完成したぜ、ほら」
目の前で本にした『新宿クレッシェンド』を渡そうとすると、ゴッホは「別にいらないよ」と受け取ろうとしない。
「おまえの苗字がこの物語に入っているんだぞ? せっかく三時間掛けてこの本を作ったのにいらねえのかよ?」
これを作るのにどれだけの時間が掛かったと思っているのだ。カチンとした俺は怒鳴り口調で言う。感謝の印と記念として、友人にこの本をプレゼントしておきたかったのだ。
「ああ、いらない。前に言ったろ? 俺は活字を読まないって」
よく恥ずかしげもなくそんな台詞を言えたものだ。飲み屋の女からのメールは、隅から隅まで読み尽くすくせに……。
「おまえさ…、俺がどれだけの思いをしてこれを書いたと思ってんだ?」
「それはしょうがねえだろう。俺とおまえはタイプが違う。それぞれ価値観だって違うんだ。無理に人に自分の考えを押し付けるのはよくないぜ」
「くっ……」
これ以上話をしてもイライラするだけと分かり、俺は本を渡さずゴッホと別れた。秋奈にはプレゼントできたし、こんなクズ野郎なんて別にいいか。
秋奈と逢う約束を決めた俺は、仕事帰り最近行きつけのスナックへ向かう。ずっと一人でいた寂しさからか、俺はこのスナックで一人の女を口説いていた。その子に断らないといけない事があったからである。
名は『百合子』。
秋奈と似ている点は、どこかしらある陰りの部分。顔立ちの整った奇麗な女だった。付き合った訳ではないが、店が終わると食事へ行き、別れ際にキスをするぐらいの仲になっていた。彼女は俺の書いた作品『新宿クレッシェンド』や『でっぱり』を読み、絶賛してくれた。第四弾として執筆していた『フェイク』を完成させ見せると、この作品だけは「う~ん、ちょっとこれは読める事は読めるけど、内容的にすごい矛盾あるんじゃない?」と言われ、『フェイク』は俺の中でお蔵入りさせた。
この頃新しいジャンルのものを書いてみたかった俺は、中学時代の友人ゴッホとその後輩出川をそれぞれ主人公とした物語『歯車 一章 ゴッホ』と『歯車 二章 出川』を連続で完成させた。先日ゴッホにせっかく『新宿クレッシェンド』をあげようと思ったのに、くだらない理由で本を受け取る事さえしなかったゴッホ。それを恨みに感じた俺は、一気に彼のくらだない生き様を書き上げる事ができたのである。ついでに出川も行っちゃえという感じで書けた。しかし出川自身の生き様は、ほぼ愚痴りだけだ。ゴッホほどドラマ性はない。その為ゴッホの作品は原稿用紙で百四十二枚に対し、出川作品は原稿用紙で六十四枚という半分にも満たない短さだった。
彼らの駄目っぷりをそのまま小説という形で正直に書いた作品。執筆時、自分で書きながら何度も吹き出した。小説を書いていて自分で笑ってしまったのは、この忌々しい駄作が初めてである。彼らの今までをまとめれば、自然とテーマはブラックジョークになるのだ。百合子に完成した『歯車』の二作品を見せると涙を流しながら大笑いしてくれた。
自信を持った俺は集英社のヤングジャンプ編集部に電話を掛け、『歯車 一章 ゴッホ』を送り、漫画の編集者に読んでもらった。漫画の原作に使ってもらおうと思ったのだ。
「神威さん…、悪いけど、あなたの作品は小説であって、漫画の原作じゃないんですね。だからうちにこういうものを送られても困りますよ。それにゴッホって言うんですか? あなたは私に自信満々に見せましたが、何を言いたいのか分からないです」
確かにそれはそうだ。ゴッホの作品を見せた俺は、一体何をしたかったのか? せめて処女作の『新宿クレッシェンド』や『打突』辺りを読ませればよかったのだ。
「じゃあ柳田さん。俺の自信作を今度はちゃんと送りますから読んで下さいよ」
「あのですね……。こっちは本当に忙しいんです。そんなに自信作なら、小説の賞にでも送って下さいよ。うちはヤングジャンプ。漫画の編集部なんです!」
ふん、このケチめ。現実はシビアなものだ。もうヤンジャンなど買わないぞと言いたかったが、読めなくなるのが辛い俺は、歯を食い縛って屈辱に耐えた。「もう週間ジャンプなんて絶対に買わないからな」と言うのが精一杯の強がりだった。よくよくあとになって思えば、ヤングジャンプの編集者に向かって、違う部署の週間ジャンプを買わないと言っても、何の意味もないんじゃないのかと感じ、余計に悔しくなった。
百合子はそんな俺をいつも元気づけてくれる。
そんな百合子から八月二日は少しでいいから会えないかと事前に言われていた。もちろん了承していたが、そんな時に振って湧いた秋奈とのデート。
百合子には悪いと思ったが、俺は秋奈をどうしたって最優先してしまう。
酒を飲みながら頃合いを見て、俺は声を掛ける。
「百合子、悪いんだけどさ。八月の二日、この日どうしても仕事が入っちゃって…。悪いけど次の日にできないかな?」
「え、だって…、その日…、私の誕生日なんだけどな……」
そう言って下をうつむく百合子。
「……」
何というタイミングの悪さだろうか? 秋奈の為に色々頑張り、すべてを捧げようとした。それでも駄目で諦め掛けた時、出逢った百合子。
彼女は寂しかった俺を癒し、心の空洞を見事に埋めようとしている。感謝さえしていた。しかし秋奈は俺にとって特別な存在だった。だから秋奈を優先させ、今回百合子とのデートは断ろうと思っていたのだ。皮肉にも百合子の誕生日だったなんて……。
百合子は下をうつむいたまま、しばらく無言で寂しそうにしていた。
無理もない。彼女にとってその日は特別な日だったのだから。一緒に祝ってもらいたかったのだろう。
俺は時間を掛けてゆっくりタバコを吸った。一本吸い終わる間に酒を三回胃袋へ流し込み、無言のまま彼女が口を開くのを待つ。しかし終始彼女は黙ったままである。
自分の誕生日を一緒に祝ってもらえるつもりで、これまでいたのだ。悪いのは俺である。二人の女に対し、俺は失礼な事をしていた。
どうする? 秋奈との約束を断るなんてできっこない。しかしそれを優先させると百合子の誕生日が…。俺は秋奈と会ってどうしたい? 理由なんてない。ずっとあいつと逢ってみたいという一心で、ピアノを弾き、小説まで書き始めたのだ。
できれば百合子の想いも叶えたい。だけど秋奈との約束は反故にできない。
秋奈との待ち合わせ時刻は昼の十一時。長くなったとして夜中までにはなるまい……。
そう思った俺は申し訳ないと思いつつも、出来る限り優しく百合子へ声を掛けた。
「百合子、仕事で遅くなってしまうかもしれないけど、夜だったら時間は空いている。それで良かったら逢わないか?」
「ほんと?」
俺のつく嘘の誤魔化しに対し、嬉しそうに顔を上げる百合子。心が痛んだ。昼は秋奈と、そして夜は百合子とのデートである。ずいぶんと俺も調子のいい事をできるようになったものだ……。
こんな俺と逢うというだけで笑顔を見せる百合子。俺はクズだ。
しかし、それしか方法がなかった。百合子にはすまないと思いつつも、やはり俺は秋奈との時間を無下にできない。
そんな最中、七月になって新宿歌舞伎町浄化作戦は開始された。
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