2024/09/30 mon
前回の章
翌日俺はメロンでもノートパソコンを持ち込み、仕事の準備を済ませると、題名も考えず、小説を書き始めた。
パソコンのワードを起動し、横書き四十×四十字に設定する。
出だしはどうするか?
淡々と始めたいものだ。
裏ビデオを買いに来る客の相手をしつつ、俺は小説の執筆に没頭した。
《日本の景気?
そんなもん、世の中、不況だろうが好況だろうが俺にはどうでもいい。
今日もやる事がなく、家でただテレビをつけて横になっている。
何かのドキュメンタリー番組で、やらせかどうかは分からないが、歌舞伎町特集をやっていた。本当、派手な街だ。ボーッと俺は、画面を眺める。
二十四時間灯りが消えない街。新宿歌舞伎町。
「俺には関係ないことだ……」
独り言をつぶやいて布団に横になる。すっかり肌寒くなってきた。もう十二月に入ろうとしている。
現在、仕事もしていない状況で、わずかに貯めておいた金は、どんどん目減りしていく日々……。
今の自分の現状が、嫌で堪らなくなる。
目を閉じると、頭には昨日のことが思い出されてくる。》
うん、なかなかいい感じだ。
実際テレビなど俺は見ないからでっち上げだけど、確かこんな番組をやっていたとフィールドの誰かが言っていたっけな。
いいところがなくまるで駄目な主人公を作りたい。
ついでにいきなり彼女にふられさせようじゃないか。
作者である俺だって、春美にふられているのだから……。
そうするとヒロイン登場って形になるが、名前はどうする?
高校時代にふられた『いずみ』という女を思い出した。
今頃いい女になっているかな。
よしヒロイン名は『いずみ』でいこう。
俺は過去お袋に受けた虐待の一部を思い出し、主人公である赤崎へ想いを託す。
親父はどうするか……。
面倒だ。
物語上長くなってしまうから、事故で死んでしまった事にしてしまえばいいか。
物語を要約すると、無職で女にふられた赤崎が勘違いから新宿歌舞伎町へ行き、ゲーム屋で働くというシンプルなストーリーである。
大まかな話の核になる部分を何個か考えてみた。
一つはお袋の虐待に遭っていたという過去。
幼少期に、自分の責任で妹を亡くしている。
この二点は赤崎隼人のこれまでの性格を形成させる上で必要だろう。
妹の件は作り話で、お袋の件は本当にあった事。
虚と実が入り混じる事により、作品はリアルさを出してくれるはずだ。
そんな妙な確信があった。
次は歌舞伎町へ行く訳だから、歌舞伎町について分かり易く説明しなければいけない。
まず店長をどんなキャラクターにするか……。
俺が歌舞伎町に行くきっかけとなった金が無かったから。
昔からつるんでいる先輩の坊主さんが裕子さんと披露宴をする。
当時祝い金を包む余裕すら無かった俺は、川越駅西口にある洋食屋グリルTOGOで東スポを読みながらハンバーグを食べていた。
たまたま三行広告が目に入り、「喫茶 12」の日当に釣られて歌舞伎町へ行ったっけ。
当時歌舞伎町で喫茶といえば、ゲーム屋を指す。
そんな事も知らずに俺は呑気に新宿へ初めて向かい、現在に至る。
あの時のオーナーの鳴戸。
何も知らない俺に対し妙に関心を抱き、それは見ず知らずの奴との死闘、挙句の果てにヤクザ者の親分のところまで連れて行かれた。
プロレスは八百長ではないと言い張る俺の顔面を何度も殴ってくれたよな。
ベガを辞めて以来まったく会っていないが、まだこの街にいるのだろうか?
あのイケイケな性格だ。
長生きはできないよな……。
地元川越へ帰り、小腹も減っていたので中学時代の同級生である岩崎努に電話を入れる。
彼の仇名はゴリ、またはゴリッチョ。
あまり地元の人間とつるむ機会の無い俺ではあるが、ゴリとは妙な腐れ縁で不定期にちょくちょく会っていた。
ゴリが駅まで車で迎えに来てくれ、俺たちはステーキ宮へ向かう。
「何だよ、話って」
独特のダミ声で聞いてくるゴリ。
「いや、俺さ…。小説を書き始めようと思ってね」
「俺は活字読まないからどうでもいいよ」
「別におまえに読んでくれなんて言ってないだろ。新しい事を始めたから言っといただけだ」
「へー、じゃあ俺も作品に登場させてくれよ」
ニヤニヤしながらゴリはステーキにフォークを突き刺す。
「仇名で? 本名で?」
「そうだなー…、苗字だけで」
主人公の名前が赤崎隼人。
岩崎を出すと、崎がいきなり被るじゃねえかよ……。
説明するとゴリは「そんな細かい事はどうだっていいじゃねえかよ」と、どうしても岩崎で登場させろとうるさい。
「どういう役柄がいいのよ?」
「そうだなー、主人公のいい上司役としてがいいかな」
コイツは本当の馬鹿である。
そのままの性格で出すと、絶対に物語がおかしくなるだろう。
歌舞伎町初期で知り合った店長の高橋。
彼が俺に対して色々親切にしてくれた事などを思い出し、…と言っても彼は店の金を抜きまくっていたものを少しくれただけだが。
うん、高橋の行動をそのままゴリの名前で書けばいい。
物語はある程度頭の中でできあがっていた。
俺が新宿歌舞伎町へ初めて行った時の心境。
虚と実を混ぜるようだから、ゲーム屋の名前もそのままベガじゃマズいよな……。
もしこの作品が世に出た時に、あの鳴戸の目に止まると面倒臭い。
ゲーム屋の名前はどうするか。
昔対戦格闘ゲームでハマったヴァンパイアハンターに出てくる女性キャラのモリガン。
彼女の必殺技がダークネス・イルージョン。
うん、ダークネスなんて歌舞伎町らしいじゃん。
俺は岩崎をゲーム屋『ダークネス』の店長という設定にする。
寝て起きて歌舞伎町メロンへ。
客など来ないから、俺は早速ノートパソコンを広げ、ワードを起動する。
ゲーム屋のシステムなどを書く際、非常に面倒だった。
自分では分かりきっている事を文字だけで読者に分からせなければならないのだ。
登場人物の赤崎と岩崎。
この二人でうまく説明できるように会話形式にしてしまえばいい。
途中来る客の対応をしつつ、小説はじわりじわり進んでいく。
ここまで書きながら先の展開を考えていると、階段を降りる足音が聞こえてくる。
北中だった。
「おう、売り上げはどうだよ?」
「お疲れさまです」
「現状で五万円ですね」
「そうか。あと少ししたら倉庫に行って、野路さんを飯に行かせてくれ」
「分かりました」
執筆意欲が湧いているところを邪魔しやがって、この馬鹿が……。
俺は心の中でそう呟きながら、パソコンの電源を落とす。
まあいい。
どうせ俺が倉庫に行けば、野路は二時間ぐらい帰ってこない。
その間の時間を利用して小説を書けばいいか。
ちょっとした時間でも今は小説を書いていたかった。
通常の仕事なら考えられない事だが、裏稼業といういい加減な仕事のおかげでそれが可能なのである。
倉庫へ入ると相変わらず臭かった。
何度来てもこの倉庫の匂いに慣れる事はないだろう。
野路は自由になれる時間がやってきたと上機嫌である。
一日二時間程度の休憩時間を取れる事で、ここまで嬉しそうにはしゃぐ野路はある意味哀れだ。
「それじゃ飯に行ってくるけど、お願いね」
「ええ、ゆっくり行ってきて下さい」
「あ、そういえば最近ピアノ、持ってきてないじゃん。もう辞めちゃったの?」
「ああ、キーボードの事ですか。別に辞めた訳ではないですよ」
「いや、前にメロンの階段降りていくと、いい音色の曲が聴こえるなあって思ってたからさ。まだ辞めた訳じゃないのね」
「ええ、ただあれを毎日持ってくるって、結構大変な作業じゃないですか」
ピアノの先生との経緯からレッスンへ行っていない事を説明するのが面倒だったので、適当に言い訳をしておく。
「そりゃあそうだ」
「ゆっくり食事へ行ってきて下さいよ」
「ありがとう」
「そういえば野路さんって休みとかまったくないんですか?」
「俺はないよ」
「一年中まったくですか?」
「ああ、おまえはまだ入って半年も経ってないから知らないのか。俺さ、実はフィリピンに嫁さんと子供がいるんだよね」
「え、本当ですか?」
この野路のような男が結婚していたという事実。
予想もしていなかったので正直ビックリした。
「嘘ついたってしょうがねえじゃん」
「そ、そうですね……」
「一年に一度、二週間ぐらいはフィリピンへ行っているよ」
「一年に一度だけですか?」
「ああ…、昔は一ヶ月行っては、一ヶ月こっちにいてって生活だったんだけどなあ~」
野路は遠くを見るような視線でしみじみと呟いていた。
この人もこの人なりの人生があるのだ。
この台詞が本当なら、昔はかなり羽振りが良かったという事になる。
いまいち信じられないが……。
「まあ、飯に行ってくるよ。あとよろしくね」
始めは本当に無愛想だった野路も、ようやく俺という人間に対し慣れてきたようだ。
以前ならこんな普通に会話するなど考えられなかった。
今度ゆっくり酒でも飲みながら、彼の過去を聞いてみるか。
野路が倉庫を出ると俺は部屋の窓を全開にして、自腹で買っておいた芳香剤を部屋の隅に二袋分バラ撒く。
少しはこれで匂いも浄化するだろう。
俺はテーブルの上にダンボールを引いて、その上にパソコンを乗せた。
さて小説の続きだ。
今はこの作品を一日でも早く完成させたい気持ちでいっぱいだった。
北中から配達の注文が来ない事を祈りつつ、俺は小説をまた書き始める。
文字を書くという作業が、こんな面白い事だなんて思いもしなかった。
ピアノとはまた違った面白さ。
それが執筆というものにはある。
自分の好き勝手に作り上げたキャラクターを動かせ、様々な形で考えを持たせる事ができるのだ。
文字を書いていく上で俺は、頭の中でそのイメージを映像化してみる。
俺の文章を読んだ読者がいたと仮定して、勝手に映像が頭の中にイメージ化できるよう心掛けた。
だいたい小説って、原稿用紙で何枚ぐらい書くものなんだろうか?
今まで小説を読んだ事はあるが、原稿用紙で何枚なんて気に掛けた事もない。
出版されている小説を思い出し、本の厚さを考えてみた。
三百枚ぐらい書ければ少なくても一冊の本になるだろう。
文学というものについて、何の知識もない俺。
無知ではあるが、この熱き魂を文章に投影すれば遜色のないものができあがるという何の根拠もない自信だけはあった。
本当に面白い小説って、読み出すと時間がまったく気にならないもの。
俺が読み手だった時そうだった。
そんな本に出会えると幸せすら感じたものである。
俺もそういった感じの本を作りたかった。
書く上で気に掛けなきゃいけない事。
あとは読みやすさだろう。
俺は登場人物たちに、不自然さを感じさせないように会話をできるだけ増やすようにした。
背景描写など退屈なものは必要な事以外排除し、心の中の葛藤などをクローズアップさせるようにする。
人間の考えている事をメインに物語を進めさせよう。
倉庫に行って二時間。
その間に配達が三回あったが、それ以外は執筆に集中できた。
仕事帰りに行きつけのJAZZBARスイートキャデラックへ寄る。
そこでもパソコンを引っ張り出し、小説の続きを書いた。
いきなり小説を書き出した俺にマスターはビックリしていたが、そんな事はどうでもいい。
俺の横では以前揉めた事のある水野が、小説について一人でブツブツ何かを語っていた。
こういう輩は自分では何もしないくせに、物事を偉そうに語るのが好きなのだ。
音楽にしてもそう。
ザナルカンドを俺が弾いた際、絶賛していたくせにゲームの曲と分かった途端手のひら返しをする人間。
相手にしている時間がもったいないので、俺はグレンリベットを飲みながらひたすら作品を書き続けた。
ウイスキーをストレートで飲んだあと、続けてチェイサー代わりにアイスコーヒーを流し込む。
ここのアイスコーヒーは本当にうまい。
本当は一度でいいから春美をこのジャズバーへ連れてきたかった。
そしてこのアイスコーヒーを飲ませて、「おいしい!」と微笑んでほしかった。
あの百万ドルの笑顔がまた見たい。
今となっては叶わぬ願いではあるが……。
この俺が小説を書いているなんて聞いたら、春美はどんな顔をするだろうか?
君が喜んでくれるなら、喜んで俺はこの題名のない作品を捧げようじゃないか。
彼女との初デートを思い出す。
あの時は本当に幸せだった。
帰りに撮ったプリクラは、未だ大事にいつも持っている。
何で俺じゃ駄目なんだろうか……。
どんなに努力しても振り向いてくれない春美。
せつなかった。
そして悲しかった。
一度だけでいいんだ。
俺のザナルカンドを聴いてくれ。
そして微笑んでほしい。
今までこんなにも一人の女を愛した事などあるだろうか?
過去、気になった子は何人もいる。
好きなんだと自覚した優しい子だっていた。
金にものを言わせ、たくさんの女を抱く度その崇高な想いは薄汚れていった。
あの歌舞伎町の街並みのように。
それからはどんな女に会っても抱きたいというだけで、本当に求めた女なんていない。
何故俺は春美なんだろう。
確かに彼女の誕生日前日にデートをした。
何度かメールでやり取りした。
しかしそれだけなのだ。
抱いた訳ではない。
それ以上の何かがある訳でもない。
ここまで春美にこだわる理由。
いくら考えても分からなかった。
理屈なんかじゃない。
おそらく俺の本能があの子を求めているのだ。
生涯春美じゃなければ俺は納得する事なんかないだろう。
そのぐらいの確立で、俺と春美は出逢ってしまったのだ。
春美の為に絵を描きだした。
春美の為にピアノを弾きだした。
そして今、春美の為に小説を書きだしている……。
これらは三十歳になってからすべてやったものだ。
二十代の頃を思うと、考えられない自分がいた。
全日本プロレス上がりの俺は、どこへ行っても力の対象として、みんなから支持された。
何らかの力仕事があると、いつも「岩上さんに頼めばいいじゃない」、そう言われ続けてきた。
力を頼られるのはいい。
人より多くの時間を費やし鍛えてきたのだから。
しかし俺は力だけを鍛えてきた訳じゃない。
内心、複雑な気持ちだったのだ。
自分を変えたかった。
力としての対象としてじゃなく、様々な意味で変えたかった。
だから絵を描き、ピアノも弾き、小説もやり始めている。
春美の為と思ってはいるが、本当はきっかけに過ぎないのかもしれない。
俺はもがき続けている、今も……。
いけない、いけない……。
過去を振り返る時間があるなら、今は小説の続きを書こう。
北中がいきなり旅行に行くと言い出した。
店は完全に俺と野路に任せ、十日間ほど行くと言う。
俺の休みはどうなるのか聞いてみた。
「そんなのある訳ないだよ。その分稼げるんだから、稼いでおけ」
偉そうに話す北中。
自分の都合で人を勝手に振り回し、それに対し何の感謝もない男。
まあいいか。
ここにいれば、小説を書いたりピアノを弾いたりできる自由だけはある。
不満を言ったらキリがない。
「あ、そうそう。この店の名義人って誰なんです? 俺、今まで聞いた事もないですけど。教えといてもらえません。最悪警察が来たら、対処のしようがないじゃないですか」
「浦安だよ」
「え、だって浦安さんって飛んだんじゃ……」
「浦安の名前で大丈夫だよ」
「そういう問題じゃ。その辺をちゃんとしてもらえませんか? パクられる商売じゃないですか」
歌舞伎町の裏ビデオ屋は、月に二、三軒パクられていた。
ゲーム屋はもっと酷いものだ。
どちらかといえば警察はゲーム屋を躍起になって検挙していた。
ゲーム屋は徐々に減り、空いた店舗にはビデオ屋が増えていく現実。
そろそろビデオ屋に対する取締りが増えていくような気がした。
こういう商売をしているのだ。
その辺はしっかりさせてもらわないと、捕まった時に俺が困る。
「あと、ここのケツモチです。教えといて下さい。もちろんヤクザ者が嫌がらせに来た場合を想定してですけどね」
「〇〇会と〇〇連合だろ」
「それは上の事務所じゃないですか。あそこの二つにケツモチ料払っているんですか?」
「いや、違うだよ」
「じゃあ、どこなんですか?」
「真庭組に橘川一家、西台、富士見興業…。大丈夫だ。全部俺は顔が利くだよ」
「だからそういう事を聞いてんじゃなくてですね……」
「今、俺は明日のフィリピンへ行く準備で忙しいだよ。今度ゆっくり話してやる」
そう言って、北中はメロンを出て行ってしまった。
本当にいい加減なオヤジだ。
フィリピンとか行っていたが、どうせ女を買いに行くだけだろうが……。
入れ替えにフィールドの大阪が入ってきた。
「また北中さん、うちに来ましたよ。飯行ってきますって、うまく抜け出してきたんですけどね」
「またゲームを打ってんですか?」
「多分。今、締め用紙眺めながら、INOUT差をチェックしてましたからね」
「何でもフィリピンに行くとか言ってましたよ」
「ああ、うちの店長の小泉も行くらしいです」
「え、あの小泉さんも?」
あの店で唯一まともそうに見えた店長の小泉。
彼は貯金もしっかりしていると聞いていたが、そんな小泉ですら女を買いに行くのか。
ちょっとショックだった。
北中がフィリピンに旅行へ行ってから、俺は最後まで仕事をするハメになる。
仕事自体暇なので、何時間働いても疲れる事はない。
小説を書くという目的がなければ冗談じゃないが、まあプラス思考でとらえておく。
逆にあの臭い倉庫へ行く事もなくなるし、人使いの荒い北中がいないのだ。
伸び伸びと仕事ができる。小説に没頭する事も可能だ。
俺に慣れてきた野路は、仕事が終わると嬉しそうな表情で「いや~、昨日は久しぶりに酒を飲んだよ~」と声を掛けてきた。
「どこかへ飲みに行ったんですか?」
俺はスナックを連想させた。
そういえば俺もしばらく行っていないな。
「馬鹿言えよ。フィリピンに十万ずつ毎月送っているんだ。どこにそんな金があるんだよ」
家族と離れ離れの毎日。どんな思いで過ごしているのだろう。
「だって飲みにって……」
「部屋で発泡酒二つ買って、飲んだだけだよ」
この業界が長そうな野路。
居酒屋へ飲みに行く金もないと言うのだろうか?
そういえば倉庫では、いつも店にある缶コーヒーか、二リットルのペットボトルの烏龍茶をラッパ飲みしていたな。
とても贅沢をしているようには見えない。
「でも十万円を毎月送金してるって言っても、残りの分は貯金でもしてるんですか?」
「できる訳ないじゃん。俺の給料は二十万だからな」
「え~! ほんとっすか?」
俺よりも金をもらっていないなんて、一体どうなってんだ?
訳が分からない。
「金を送って、飯を食ったら何も残りゃしないって」
確かに毎日三食を外食で済ませていたら、十万円なんてあっという間になくなるだろう。
哀れに感じた俺は、自分の財布から千円札を三枚出して「野路さん、たまにはビールでも飲んで下さいよ」と手渡した。
「え、いいの? ありがとう、ありがとう」
野路は上機嫌で倉庫へ戻っていった。
翌日客の注文をして商品を運ぶ野路は、メロンへ来ると「昨日はご馳走さまでした」と礼儀正しくお礼を言ってきた。
あの程度でそこまで感謝されるなんて、今までどんな生活をしてきたんだ、この人は?
まあお礼を言われて気持ちいいことはいいので、笑顔で応対をしておく。
今度野路がフィリピンの家族へ行ける日というのは、一体いつ頃になるのだろうか。
俺にはさっぱり分からないが、もっとこの人は幸せに生きないといけないような気がした。
人見知りでなかなか心を開かない人ではあるが、根はいい人なんだろう。
不潔なだけと思っていた野路に対し、俺はちょっとした親近感を覚えていた。
十日後、北中は上機嫌で帰ってきて、紙袋からおみやげを店内で広げだした。
何かくれるのかと期待したが、高そうな香水を渡され「上の〇〇会と〇〇連合の事務所に、俺からだって渡してこい」と言われただけで、従業員たちへのおみやげなど何もなかった。
いくら仕事とはいえ、ヤクザの事務所へ行くなんて嫌だった。
まあこんな商売をしているのだ。
上のヤクザはたまに暇なのか、顔を出し世間話をしてくる。
狭い階段を登り、二階の〇〇会のドアをノックする。
「はい」
短い返事が聞こえたので、ドアを開けた。
組員が近づいてくる。
「お、岩上ちゃんか。どうした?」
「これ、うちの北中から、フィリピンに行ったおみやげです」
「おう、どうも。うちのオジキも喜ぶよ。北中さんによろしく言っといて」
「分かりました。それでは失礼します」
ドアを閉め、三階へ向かう。
今度は〇〇連合だ。同じようにノックをする。
「おう、何や」
ドアを開け、一礼する。
「何や、岩上はんやないけ。どないしたんや?」
組長の岡村が直々に出てきた。
「これ、うちの北中から、フィリピンへ旅行へ行ったおみやげだそうです。どうぞ」
「おう、おおきに。お礼言うといてや」
「分かりました」
「あ、岩上はん。お願いあるんでっけど」
「何でしょう?」
「知り合いでな、SM物を欲しがっている奴おるんや。十本ほど用意できんかな」
「十本もあるかどうかは分かりませんが、調べておきますよ。あとでまた連絡します」
「あと一時間ぐらいでワイ、用事あるんや。その時メロン寄らせてもらいますわ」
「分かりました。それではそれまでに何とかしておきますよ」
「おおきに」
店に戻ると、北中は携帯で撮ったフィリピン人女性の画像を何人も見せてきて、「どうだ? 俺はこんなにモテるだよ」と自慢げに語っていた。
おみやげでなく、おみやげ話を繰り返し話す北中。
間違いなく日本人を代表するクズ野郎である。
こういう奴が金をつかむから、日本はおかしくなるんだ。
北中は喋り飽きると、「上に行ってくるだよ」と出掛けてしまう。
勝手な奴だ。
いないほうが清々するが……。
一時間ほどして〇〇連合の組長である岡村がメロンに来た。
俺は用意しておいたSM物の裏ビデオを手渡す。
「おおきに、岩上はん。ちょっと一服してもいい?」
「ああ、どうぞどうぞ。缶コーヒーしかないですけど、飲みますか?」
「おおきに」
岡村はとても人柄の良さそうな笑顔をする。
組長だと聞かなければ一般人でも通用するんじゃないかと思うぐらい愛想がいい。
「そうそう、北中はんいるやろ」
「ええ、どうかしたんですか?」
「結構うちらの耳に、エグい事しとるって耳に入ってくるんや」
北中は、歌舞伎町の住人たちへ、個人的に金を貸している商売をしていた。
自分でヤクザ者に顔が利くと思い込んでいる北中は、金貸しに関してだけはケツモチをつけていないようだった。
確かにヤクザ者からしたら面白くないだろう。
「確かにエグいですからね、あの人は」
「まあ、うちらの目の届かないところでやっとる分には、まだいいけど、目の届く範囲でやらかしたら、ケジメとらなあきまへん」
「それはそうですね」
「まあ、岩上はんにこんな事言うの、愚痴に聞こえますかいのう。つまらん話はやめときまひょ」
「いえいえ、そんな事ないですよ」
「そんじゃ、そろそろ行きますわ。コーヒー、おおきに」
「どういたしまして」
組長の岡村が出て行くと、俺は小説の続きを書いた。
小説を書き始めてから二週間が過ぎる。
執筆途中で何度も面倒臭くなり、投げ出しそうになった自分がいた。
自分で適当に三百枚ぐらい書けばいいと思っていたが、未だ百枚まで到達していない。
やっぱ小説家ってすごいよな……。
正直、あと二百枚以上書ける自信がなかった。
自分で想定していたクライマックスまでもう少しで到達してしまう。
それはそうだ。
俺は何の勉強もせず、いきなり小説を書いてみよう。
それだけで挑戦しているのだ。
いくら意気込んだところで、素人だとこの辺が限界なのかもしれない。
モチベーションがあきらかに落ちていた。
これだけ頑張って寝る間も惜しんで書いた作品。
執筆中止まらなくなり、メロンのテーブルの上で朝まで書き続けた日だってあった。
それなのにまだ百枚も書けていない現状……。
やる気だけじゃ駄目なのかもしれないな。
どうせ作品を完成させたって、春美は見てくれないさ。
そう考えると、あれほどあった執筆意欲がどんどん萎んでいく。
結局のところ俺なんて全部が中途半端なんだ。
だから全日本プロレスだって駄目。
浅草ビューホテルでバーテンダーしていましたと言ったところで今は関係ない。
ピアノだってザナルカンドだけ。
絵も過去の事を栄光と勝手に勘違い。
小説だって未熟なまま……。
自己嫌悪に陥っていた。
まだ金を稼げていたワールドワンの頃ならよかった。
有り余る金を使いながら、そういった事を誤魔化せたからだ。
今は違う。
誤魔化せるような遊び方をできるほど稼ぎだってない。
現状の俺は裏稼業の人間から「岩上さんってすごいですね」と、持ち上げられるだけの井の中の蛙と変わりがないのだ。
大学や大学院まで行って勉強をしている奴らとは、努力してきたものが極端に違うのである。
俺ら裏稼業の劣等生たち。
あきらかな人生の負け組。
一時、意地汚い真似をして金を稼げる時はあるが、そんなもの本当に一瞬である。
勝ち組は違う。
年数と共にどんどんいい給料を堂々ともらえ、警察の世話になる事なんてない。
いくら足掻いてみたところで、人生に逆転なんぞありはしないのだ。
これまで生きてきた過程をすべて打ちのめされた気がした。
俺が小説を書き出した事は、フィールドの客連中だって知っている。
中にはこんな俺に対し「岩上ちゃん、頑張って日の当たる世界に出てくれよ」と熱っぽく語る客だっていた。
どうやって日の当たる世界に行けというのだ。こんな状態で……。
もう一度鍛え直し、リングの上にでもあがるか。
そんな甘い世界じゃないのは、自分が一番知っているだろうが……。
寝る時間も惜しみトレーニングし、毎日寝ゲロをするまで胃に食い物をぶち込んだあの頃とは全然違うのだ。
感覚が研ぎ澄まされていた若き時代。
随分と昔の事のように思える。
体力だけが自慢だったあの頃。いつからこうなってしまったのだろう。
ピアノに没頭する余り、それと引き換えに体力はなくなっていった。
それはそうだ。
時間だけはどんな人間にも平等なのだから。腕立て伏せやスクワットをしていた時間をやめ、ピアノの鍵盤を叩いていたのだ。
今、こうして小説を書くという事にどれだけ意味がある?
考えれば考えるほど気分は落ち込んでいく。
そもそも何で小説なんて書こうと思ったのだろう。
春美に伝えたいというのもあるが、それ以前に坊主さんの化け物のようなスキルを別の形でいいから超えたかったからである。
正攻法ではなく亜流でという事。
要はズルと一緒だ。
そのズルですら、こうして息詰まっている。
そして妙なプライドだけが高くなり、どんどんくだらない人間になっているのだ。
もういい。
駄目なものは駄目。
降参だ……。
こんなんだから、俺は春美からも相手にされないのである。
今日はこのあと坊主さんと会う日。正直に今の心境を伝えよう。
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