
2025/07/05 sta
2025/07/09 wed
前回の章
相手にされなくなったと思っていた川端里代から久しぶりに連絡があった。
しかし小川絵美関連のせいで、しばらく放っておいたのは確かである。
彼女からのメール内容は素っ気ないものだった。
メールのやり取りじゃ埒が明かない。
熱を示せ。
俺は出勤前、彼女の働く熟女パブへ意気揚々と向かう。
自身で浅はかな行為と分かりつつも、先日の里菜の一件や小川絵美から突然の連絡不通などで淋しかったのである。
里代なら顔もタイプだし、淋しさを紛らわせるにはちょうどいい相手だった。
「久しぶり、里よん」
「何が里よんよ! しばらく連絡一つくれなかったじゃないの」
シングルマザーであり昼間は美容師、夜は熟女パブと多忙な里代。
前の旦那に裏切られたせいか、中々気の強い性格をしている。
「仕事が忙しかったんだよー」
「ふん、男はそれで誤魔化すからね」
「本当に俺は忙しい立場なの。八月なんて七日と十九日しか休めていないんだよ。あとは仕事漬けの日々」
「口先じゃ何とでも言えるからね」
「どうしておまえはそう棘のある言い方をするの? せっかく仕事前に、お気に入りの里よんの顔を見に来たというのにさ」
「どうせ色々な人に言ってんでしょ」
「そんな事ないよ。俺の口から軽く言葉が聞けるのは里よんだけさ」
「はいはい、そういう事にしておきます」
「あ、ねえねえ…、俺ね、そういえば二十七日休みもらえたの」
「ふーん、良かったね」
「里よんが暇あるならデートしようよ」
「え、デート?」
「そんな重そうに取らないでよ。美味しいもの一緒に食べに行こうよ」
「二十七日って、明後日? あ、日が明けているから明日か……」
「都合悪い? 里よんが駄目なら部屋でオナニーして、枕を涙で濡らしながら寝るからいいよ」
「馬鹿じゃないの? やめてよ、そんな品の無い事言うのは」
「昼間なら空いているかな……」
「夜は?」
「私も忙しいって言ってるでしょ?」
「さては他の男と同伴で出勤だな? 里よん美人だからなー」
「違うわよ! ヘアーメイクの仕事もたまに入るのよ。キャバクラ行って女の子たちのヘアーメイクする予定なの」
「じゃあ、昼間だけでいいからさ、美味しいもの食べに行こうよー」
「ほんとに昼間しか無理だけどいいの?」
「いいよー! 少しの時間でも君と時間を共有したいんだ」
「ほんと軽薄なんだから……」
久しぶりの再会は、いきなりデートという形に持っていけた。
昼から夕方四時までの短い時間だが、絵美、里菜と不作続きだった俺にとっていい心の休息になるだろう。
これから仕事へ行って、次の日も仕事に行ったら里代とデート。
下陰さん、休みをくれてありがとうございますとお礼を伝えたい気持ちでいっぱいだった。
俺は張り切って職場へ向かった。
女とデートという約束が、こうも心を浮き浮きにさせるとは。
まあ俺は元々モチベーションのみで生きているような単純な生物である。
仕事中の時間帯も優しい心を保った状態で接客できた。
客が引き、平田がニヤニヤしながらキャッシャー室から出てくる。
「岩上さん、何かいい事でもあったんですか?」
「平田さんに仕事明けたらイタリーノのリーノランチでもご馳走したいなあと」
「何ですか、それは! 俺は糖尿だから色々制限しなきゃならないって何度も言ってんじゃないですか!」
俺は平田に里代と明後日デートする事を伝えた。
本来なら十八番のフレンチワイズが理想だ。
しかし今月頭に小川絵美を連れていっているのに、今度は別の女である里代を連れていくのは料理長にも失礼である。
どこへ連れて行ったらいいかいまいち分からず、何かいいアイデアはないか聞いてみた。
「そういう時こそ、インターコンチ使えばいいじゃないですか」
「うーん、そしたらせっかく関係がうまく切れているのに借りを作ってしまい、元の木阿弥になる可能性が出てくるんですよ」
「うーん、それなら横浜駅の高層階のレストランとか、中華街とか……」
「それだ! 中華街、いいっすねー!」
「岩上さん、今日は妙にテンション高いでさよね」
俺は先日昔抱いた女が会いたいと群馬から横浜まで来た話をざっくりする。
部屋に招こうとしたら車から赤ん坊が出てきて二万渡して返した事まで正直に言うと、平田は腹を抱えて大笑い。
人の不幸は蜜の味というが、いつかこの男にはリーノランチ二人前を食わせ糖尿病を悪化させてやると心に誓う。
中華街ならいい店がたくさんあるから、里代と一緒に歩きながら行きたい店を決めてもいいか。
「それにしても岩上さんは次から次へとよくそんな女と知り合えますよね?」
俺は小川絵美との誕生日祝いデートの話をした。
翌日から一度も連絡が無くなった事も赤裸々に話す。
「俺だって全部がうまくいっている訳じゃないんですよ」
また腹を抱えて大笑いの平田。
コイツは本当に酷い奴だ。
こうなったらフィリピン狂いの平田を羨ませがらせるよう、里代とのデートを楽しい思い出にする為張り切らないといけない。
仕事を終え帰り道を歩いていると、携帯電話が鳴る。
一原からだった。
そういえば何日も彼からの連絡を無視する形になっていたな。
どうせ出てもまたいきなり語尾を強く言われるだけ。
それなら高橋ひろしへ連絡を取り、新宿の話は今どうなっているのかを先に聞き状況を把握しておいたほうがいい。
向こう陣営も目の前で千五百万の現金を用意したぐらいだ。
早々俺の引き抜きを諦めるなんて事は無いだろう。
たまには高橋のバチカへ昼食を取りに行くか?
いや、またあのボスが店にいたら厄介だ。
部屋に戻ってから落ち着いた状態で、高橋に電話を掛ける。
それが一番いい気がした。
それにしても本当に暑い。
早く俺の誕生日である九月が来ないかな。
浦木ペットショップへ寄り、粟の穂や鳥の餌を買う。
「お兄さん、本当に鳥を大事にしてくれるから私も嬉しいよ」
「何を言ってんですか。俺の家族というか、子供みたいなもんですからね。いくらだって可愛がりますよ。相変わらず卵は産んでくれませんけどね」
帰ったらヨーロピアン十姉妹のポーポが落ちて亡くなっていたなんて思いは二度としたくない。
お互いの意思疎通はできないにしろ、こまめに餌や水を変えたり、好物を用意するくらいはできる。
産まれたてでなければ手乗りにならないと聞いたが、それには常に餌を毎日あげ続けなければならないようだ。
独り身の俺に四六時中餌を与える時間は無い。
俺にも家族が入ればなあ……。
今回のデートで里代も俺を見直し、一気に絆が深まったりして……。
いや、彼女はシングルマザー。
つまりコブ付きなのだ。
以前岩上整体開業時まで二年半付き合った百合子で、コブ付きは懲りている。
子供か……。
俺が自分の子を産むなど想像できなかった。
過去に百合子との子をおろしてしまった業があるのだ、俺には。
百合子との過去の思い出を振り返る事は無い。
しかし過去にしでかした愚行を忘れる事はできないし、あの思いは生涯背負い続ける。
「愛に苦しむか……」
このまま俺は、無駄に年だけ重ねて生きていくだけなのだろうか?
落ち込むなよ。
前を向け。
どんな状況に置かれても、自分らしく生きなきゃいけない。
あの時誓ったはずだ、自分自身に。
とりあえず一原をこのまま放置という訳にもいかない。
部屋へ戻ると俺は高橋ひろしへ電話を掛けた。
「高橋さん、何かいつの間にか俺が千五百万を出資してもらうみたいな流れになっていますが、それっておかしくないですか?」
「あー、それは何か一さんが全部担当する事になって」
しどろもどろな感じの高橋。
話し方に妙な違和感を覚える。
「高橋さんのボスにあの時強引に引き抜きの話を持っていかれましたけど」
「岩上さん! その事は一さんと直接話してほしいんですよ」
少し整理しよう。
始めは高橋が引き抜きの話を出してきた。
次に彼のボスが出てきた。
レシエンの優美の店でナンバーツーの小島というオヤジが、うちに来たいんだってと湾曲した形で俺に話し掛けてきた。
それから一原までが加わってくる。
金を積まれてからは、一原が俺に関わってくるようになった。
今、高橋に連絡すると、それは一原の案件だと言う。
つまり高橋ひろしとこの事について話したところで埒が明かない。
面倒だが、一原と話し合うしかないようだ。
部屋で寛いでいる内に寝てしまう。
魑魅魍魎とまでいかないまでも、俺を取り囲む状況がきな臭くなっている。
一日置いて仕事を終えてから一原へ連絡を入れた。
何故高橋ひろしから始まった引き抜き話の担当が一原になり、事業計画書の作成を俺に迫り、千五百万円の出資をするかどうかという話になっているのか?
そこをハッキリさせない限り、この話はキチンと断ればいい。
何日も無視をした形になった一原は、始めからかなり気が荒立っている。
俺は冷静に淡々と質問をした。
「一さん、何故高橋さんが今まで俺に話をしてきたのに、担当が一さんになっているんですか? それに俺はそっちから強引に引き抜かれようとされただけで、来る条件を言ったら千五百万を目の前に積まれただけです。別に一円ももらってないし、それから今度は事業計画書を作れと…。それで出資するかどうか決めるとか、俺から見たらおかしな流れになっているんですよ。何故こうなっているのか、それをハッキリ教えて下さい」
「とりあえず岩上さん、事業計画書を作ったのなら、一度会って話し合いましょうよ」
「一さん…、その前に何故今のように一さんが引き抜きの話で出てきたのか? 何故俺が出資を受けるという展開になっているのか? それをまず教えて下さい」
「んー…、分かりました。とりあえず会って話します。いつなら時間ありますか?」
「明日…、二十七日の夜なら時間取れます」
「分かりました。ではその時事業計画書も作ったんですよね? それも持って来て下さい。何でこうなったのかすべて話しますから」
宙ぶらりんになっていた引き抜き話。
これはいつまでも放置している問題ではないので了承した。
里代とのデートが終わってからでいい。
休みの時に面倒な事はすべてケリをつけておきたかった。
少しでもおかしな事を言い出したら引き抜きの件は断ればいいだろう。
話が違うと……。
平凡に過ごせていた横浜での生活。
違う流れが押し寄せてくるのを感じる。
俺は下陰さんの元で働き、ストレスを感じず自由に生きているだけで幸せを実感しているのだ。
こちらでの給料がだいたい毎月三十万後半から四十数万くらい。
酒井さんからのポイントの副収入が月に十数万から四十数万と、売上によって開きはあるものの、いい時で百万近い金額が手元に入ってくるのである。
このまま普通に生活していれば黙っていても金は貯まっていく。
千五百万の金は魅力的ではあるが、当然リスクも伴う。
自分の人生だ。
一原との話し合いは、慎重に慎重を重ねるぐらいでちょうどいい。
選択を間違え、とんでもない状況に転ぶのだけは避けたい。
グレンリベットを飲みながら仲のいいゲンとこの話をしたかったが、インカジ業界の事を分からない人間に相談したところであまり意味が無いと気付く。
どっちみち今日出勤すれば、明日は休み。
マゲとチッチとの時間を増やし、大人しく仕事時間まで部屋で過ごそう。
そういえば新品なのにいきなり故障したテレビのクレームをアマゾンにしなきゃ。
それと壊れてしまった前のテレビも、このままじゃ本当に場所を取るだけで邪魔だ。
俺は窓を開け、目の前にあるレンガ状の壁との隙間へテレビを置いた。
今日出勤すれば明日は休み。
里代とは寝ずにデートとなるから、眠れるだけ休んでおこう。
鳥の簡易プールの水を入れ替えると、俺は布団へ横になった。
待望の里代との中華街デートがやってくる。
関内駅で待ち合わせをした。
職場から駅まで徒歩五分。
一時になると店の施錠は平田に任せ、颯爽と伊勢佐木モールへ向かう。
早歩きで駅前に来ると彼女の姿が見える。
真面目な里代は先に来て待っていた。
「里よーん、お待たせ! 仕事終わったよー。待たせちゃったかな?」
「ちょっと人前で里よんは止めてよ! 恥ずかしいでしょ」
「二人きりの時なら問題ないって事?」
「もー、まったくー」
「暑いからタクシーで中華街行こ」
横浜球場を曲がってすぐ先に横浜中華街。
入口で降りてから彼女に声を掛けた。
「何か食べたいものある?」
「うーん…、中華街だから中華料理になるもんね…。特に私は何でも。好き嫌いあまり無いし」
「今日は何時頃まで大丈夫なの?」
「四時半には関内駅に着きたいかな。そのくらいで仕事時間にちょうどいいかも」
「…て事は約三時間って感じか。よし、好き嫌いないんじゃ、高価なコース料理みたいな店へ入ろう」
「そんな高いお店じゃなくて大丈夫だよ」
「美味しいものを食べて喜んだ君の笑顔が、俺は見たいの」
「また馬鹿な事ばかり言って」
市場通りへ入ると、コックと色々な料理が皿に乗ったオブジェの店が目に入る。
これ、老朽化して落ちてきたらヤバいんじゃないの?
中華料理『彩香』。
広東中華料理の店らしい。
「あ、コース料理もあるみたい」
「六千五百円、結構高いね」
「シェフおすすめコースだし、里よんが嫌じゃなかったら、ここにしようよ」
「もっと安いところでも……」
「今日は里よんがそんな時間無いでしょ。だから早く店決めたいの」
「うーん、ごめんねー」
俺たちは彩香へ入り、コース料理をお願いした。
コースに含まれていない餃子と白いご飯も追加する。
まずは冷菜の盛り合わせが運ばれてきた。
俺は食べられそうもない冷菜を里代の皿へ移し始める。
「ちょっと何をしてんのよ?」
「残すの失礼でしょ。だから予め里よんにね」
「まったくー」
フカヒレ姿煮のキヌガサダケ添え。
こんな鮫のスープを有難がって飲む人間多いんだよな。
帆立のXO醤炒め。
貝じゃなく、肉にしてくれればいいのに……。
帆立を里代の皿に入れる。
「またこれも食べられないの?」
「うん、里よん好き嫌い無いんでしょ。お願いねー」
伊勢海老のチーズバター炒め。
またヤバいのが来たな。
海老の身を里代の皿へ置く。
北京ダック。
こんなものより、グリルトーゴーの味噌焼きチキンのほうがいいなあ。
ショートリブの黒胡椒炒め。
何とか食べられそうなものが続く。
二種特製点心。
餃子のほうがいいけど、まだ来ないのかな?
蟹肉とレタスの炒飯。
蟹を拾い里代に移そうとすると、彼女が「こんなに食べられない」と半分俺に渡してきた。
「食べるけど、蟹だけ頼むよ」
「ほんと好き嫌い多いのねー」
中華料理定番のデザート杏仁豆腐。
「里よん、デザートは別腹でしょ?」
「もー」
ようやく餃子が出てくる。
今まで忘れてやがったな……。
素材も味付けも中々で、いいお店に入れたようだ。
会計を済ませ外へ出る。
「ご馳走様でした。ごめんね、結構払ったでしょ?」
「俺は里代との空間代として金を払ったのさ。だから問題ないよ」
「ほんと一言多いんだから」
通りを歩いていると、手相占いの店が見えてくる。
値段も千円だし、俺は里代へ勧めてみた。
「えー、私はいいよー」
「だって四時半までまだ時間あるでしょ? 時間潰しにもちょうどいいんじゃない」
俺に促され仕方なく椅子へ腰掛ける彼女。
「お客さん、今日運いい。今日凄い先生いる。今呼んでくる」
目の細い蚊蜻蛉みたいな中国人が奥へ行く。
顔面に平手打ちしたら、ジャッキーチェンの映画に出てくる雑魚役のように「アイヤー」と大声を出しながら派手に倒れそうだ。
馬鹿な事を考えていると、中々恰幅のいい中年女性を連れてきた。
生年月日や名前を聞かれ、両手の手相を見ながら始まる。
話してもいないのに里代がシングルマザーだという事を当て、何気に凄い人なのかと思う。
話している途中「あ、値段の事言ってなかったね、四柱占いだから値段が四千円になるのよね…」と後付けで突然金額を四倍上げてきた。
何だか胡散臭い人にしか見えなくなってくる。
「手相も見てあげるよ。あ、ついでにこの人との相性も見てあげるね」
まあいきなり四倍の金額を取られるのだ。
俺も一緒に見てもらってもいいだろう。
「うーん…、あなたは本当に色々な事をやってきたのですね……」
ひょっとしてこの人、群馬の先生級レベルなのか?
いや、まだこのぐらいじゃ簡単に信じてはいけない。
「ねえ、新宿で出そうとしている新しいお店の事聞いてみたら?」
里代が口を挟んできた。
余計な事を……。
先に相手へ情報を言ったんじゃ、審議の程が分からなくなるじゃん……。
「こちらではなく東京の新宿ですか…。ちょっと待って下さいね……」
占い師は目の前の四柱何とかの本をペラペラめくり、一人で勝手に頷いている。
そして俺の手相と見比べながら、頭の中で考えて整理しているように見えた。
「あなたにはいろいろな人が寄ってきますね。うん…、新しいお店、いいんじゃないかしら」
「いや、まだ本決まりという訳じゃなくて」
「あなたの人生における分岐点の時期でもあるのですね。風水的にも場所はいいと思いますよ」
何だ、この新宿の話を受けた方がいいという流れは?
俺からの情報は一切言わず、あと何を言ってくるのか。
隣りで里代は俺の顔を見ながら黙っている。
「他には何か?」
「そうねえ…、あなたの片腕…、そんな感じの親しい人がきっと力になるんじゃないでしょうかね。心当たりは無いですか?」
「……」
俺が店をやるなら名義人を引き受けてもいいと言った伊達の顔が思い浮かぶ。
第二次歌舞伎町時代からの付き合いであるが、裏稼業の人間関係では確かに親しくはある。
今日このあと一原と会い、新宿の店の話になるだろう。
向こうは俺を引き抜きやらせたいという考え。
俺は世話になっている下陰さんの元で、このまま働いて恩返しすればいいと思っていた。
一原の話次第で、仮に俺の新宿の店が本決まりになったら、人生における分岐点ではある。
「ねえ、智君。私、そろそろ行かなきゃいけないから、残って見てもらったら?」
時間を確認すると、里代が仕事へ行くタイミングがそろそろ近付いていた。
「あ、すみません。彼女がこのあと用事ありまして…。この辺で……」
本当はもう少し何を言うか聞きたかったが、里代を一人で帰す訳にはいかない。
「分かりました」
俺は財布から四千円を取り出そうとする。
「えーと、彼女の占いとあなたの分の手相も入るので……」
ブツブツ小声で何か独り言を話す占い師。
「合計一万円になります」
「えっ! 一万円?」
ただの金目当ての守銭奴占い師じゃん……。
鋭く思えた台詞もすべてが胡散臭く感じた。
俺は一万円札を投げ捨てるように放り投げ、里代を促して席を立つ。
こういう金に走る奴って、ロクなもんじゃない。
もうここへ来る事は二度と無いだろう。
市場通りの真ん中ぐらいにある店。
インチキ占いの場所だけは覚えておかないと。
「ごめんね、智君。無駄なお金使わせちゃって……」
「俺が里よんに占い見てもらえばって最初に言ったんだ。そんな事気にするなよ」
「でも……」
「悪いと思っているなら、俺のほっぺにチューしてよ」
「まったくすぐあなたはそうやって……」
プリプリ怒る里代をタクシーに乗せ、俺たちは関内駅へ向かった。
一度部屋へ戻り、鳥の世話をする。
風呂へ入り、一呼吸置いてから一原へ電話を掛けた。
「あ、岩上さん悪い。まだ新宿での仕事少し残ってて八時…、うーん、そっちに着くの九時過ぎになってしまうかもしれないんですが、大丈夫ですか?」
「まあ休みだし予定も無いから問題ないですよ」
「すみません。なるべく急いで向かうようにしますから」
まだ六時、三時間くらいどうするか……。
最近行っていないから、永井聡の店シュールにでも顔を出してみよう。
「ちょっと出掛けてくるね、マゲにチッチ」
俺は着替えを済ませ、部屋を出てシュールへ向かった。
歩きながら色々と考えてみる。
とりあえずは何故引き抜きの話が、高橋ひろしから一原に変わったのか。
それと事業計画書を作り、それから出資の了承を得るみたいな流れになった事。
まずはその二点を聞いてからだな。
それで俺が納得しなければ、この話を断ればいいだけ。
シュールのドアを開ける。
「あら、岩上さんいらっしゃい」
永井聡と澄ちゃんが出迎える。
「岩上さん、グレンリベットでいいんですか?」
「うん」
カウンター席へ腰掛け、酒が出てくるまでタバコに火をつけようとした時思わず声を出す。
「ちょっと澄ちゃん!」
「はい、何でしょう?」
「俺はストレート! 水割りじゃないって」
「あ…、ごめんなさい……」
お通しを用意していた永井が来て頭を下げてくる。
「うーん…、じゃあその水割りはチェイサー代わりに飲むから伝票つけて下さい。別にショットグラスにストレートでリベット下さい」
少し抜けた澄ちゃん。
分からないなら最初に確認してくれればいいのになあ。
「岩上さん、うちの澄ちゃんがすみません。水割りの方の代金は結構ですから」
「いやいや、そういう訳にはいかないでしょ」
場の雰囲気が悪くなったので、昼間中華街で見てもらったインチキ臭い占い師の話をしてみた。
「え、岩上さん、新宿行くんですか?」
驚く永井。
占いの笑い話のつもりが、引き抜きの話を知らない人間からすれば、そういう反応になるよな。
俺はこれから新宿の店を出すかどうかの話し合いが待っている事を話す。
「ちょっと岩上さん、手相見せてもらってもいいですか?」
「え? 永井さん、占いなんてできたんですか?」
「まあ…、ちょっと……」
こういった類の事が嫌いではないので両手を開く。
「生年月日とかも聞いていいですか?」
何だか本格的だな……。
まあ彼女になら教えても問題は無いか。
「方位学的にも岩上さん、かなり良いですよ。うーん…、この間うちに来た伊達さんでしたっけ? できたらあと信用置ける人間がもう一人…、うーん、いい感じの結果が見えるんですよね」
「ほんとですか?」
「ええ、まあ岩上さんが横浜からいなくなるのは寂しくなりますけどね」
「……」
中華街の胡散臭い占い師だけでなく、永井聡まで似たような事を……。
たまたま時間潰しに寄っただけのはずが、この流れ。
もうじき俺も四十三歳になる。
眠らない街、新宿歌舞伎町へ?
新宿でインカジをするとして一番重要なものは、金の管理を任せられる従業員がいる事。
裏稼業では金に汚い人間が多い。
伊達は俺に金をタカるが、店の金を持ち出して逃げるような人間ではない。
横浜と違い、当然二十四時間営業。
もう片方の番に信用できる人がいれば……。
渡辺が俺の店に来てくれたら。
気付けば店をやる方向で考えている自分に驚く。
そろそろ横浜へ来て丸二年。
俺が望んでもいないのに、こうした流れになっている。
ひょっとして人生の変換期?
時流の流れに沿って……。
考え事をしていると身体が重く感じる。
酒を飲んでいる場合じゃないか。
それにそろそろ一原も横浜へ到着するだろう。
「永井さん、悪いけどチェックいいですか」
「え、どうかしました?」
「いや…、これからその話し合いじゃないですか。一人でそれまでちょっと考えたいなと」
「それはそうですよね。分かりました」
シュールを出てタバコに火をつけたタイミングで、電話が鳴る。
一原からだった。
「あ、岩上さん。あのさ、これから少ししたら新宿出るんで、あと一時間くらい掛かります」
少しシュールを出るタイミングが早かったか。
すぐ近くにタイマッサージの店が見える。
「大丈夫ですよ。マッサージでも受けてますから」
「どこへ行きます? 店決めといてくれれば、そこへ向かいますよ」
「うーん…、ちょっと待って下さい」
ここから近くで落ち着いて話ができるところ。
昼間の五百円ランチしか行った事のない和洋創作ダイニングの匠。
あそこならちょうどいいんじゃないか?
夜の営業も行ってみたかったし。
俺は一原へ匠の説明をして、タイマッサージの店へ入った。
タイ古式マッサージ『花』。
随分ベタな名前をつけたものだ。
まあ一原が来るまでの時間潰し。
一時間コースを頼む。
施術を受けて感じたのが、自分で思ったよりも身体に疲れが溜まっていた事。
新宿で受けた店よりも、タイ人女性の腕が良かった。
期待していなかった分、より感動を覚えたほどだ。
たまにはここへ来て、身体のメンテナンスも必要だな。
寝ずにデートをしていたせいからか、いつの間にか睡魔に引きずり込まれる。
暗い道を歩く俺。
目の前には二手に分かれる道がある。
まるで今の俺の現状だな。
どちらへ進むか。
その場に立ち止まったまま選択が中々できない。
後ろから何かが迫ってきている。
早くどっちか決めないと……。
身体を譲られ起こされた。
「お客さん、電話鳴ってる」
一原からだった。
もう近くにいるようだ。
俺は慌てて支度をして、匠へ向かう。
階段を降りて歩いていて気付いた事。
かなり身体が軽くなっている。
中々の腕前だったな、あのタイ人。
さて、これからある意味人生の正念場の話し合いが待ち受けているのだ。
横浜へ残留か。
もしくは新宿へ舞い戻るのか。
究極の二択。
なるようにしかならない。
セブンスターを口にくわえ、火をつけた。