korou's Column

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早すぎる訃報

2018-01-06 | 人物評伝

星野仙一氏が亡くなった。

70歳、あまりに突然で驚くほかない。

先月あたり、公の場での姿を映像で見たばかりというのに。

 

当ブログのプロフィールでは

自分の出身県を明記していないが

私は星野さんと同県人である。

仕事上の知人に

星野さんの盟友にあたる人もいた。

その関係で

2008年頃に

かなり遠くからではあるが

直接、その姿を拝見したことがあった。

全身からのオーラが

はるか遠くにいる私のほうまで伝わってきた。

そのオーラは、決して「厳しい」ものではなく

むしろ「優しさ」に満ちていたのを覚えている。

オンとオフがきっちり切り替えられていた。

素顔は「優しい」方だったに違いない。

 

星野さん(以下、記述の簡略のため敬称は随時とします)は

高校時代に甲子園に出場していない。

同時期の岡山県高校野球界には

昭和40年の春の選抜で優勝した平松政次(岡山東商業のエース)が居て

その頃の星野さんの知名度は

県内でさえ低かったと思う。

昭和41年には

東映フライヤーズ(現・日ハム)からドラフト1位で指名された森安敏明が

岡山県の関西高校出身ということで県内で有名になり

しかも森安は高卒1年目からエース格で活躍したため

平松に並ぶほどの知名度を岡山県内では得ていた。

その点、当時の星野さんは

いくら進学先の明治大学で活躍したとしても

もはや当時の東京六大学の人気は

プロ野球の人気と比べてぐっと落ちていたため

知名度は県内でもごく限られたものになっていたのである。

昭和42年には、平松政次が大洋ホエールズ(現・DeNA)に入団。

シーズン途中の入団であったが

岡山県を代表する野球選手の動静は

県内の誰もが注目していて

同時期の星野仙一の動静など

今のような情報過多な時代でないこともあって

誰もチェックしていなかったといってもいいくらいだった。

 

昭和43年のドラフトで

星野が巨人との約束を反故にされて打倒巨人を誓った、というのは

今では有名なエピソードになっているが

当時の印象でいえば

そんなに注目を集めた事件ではなかったのである。

やはり注目選手、それもONクラスの超大物とされたいた田淵を

本人の希望を無視して阪神タイガースが強行指名したということが

連日、新聞等マスコミを賑わしていた。

来る日も来る日も「阪神」「田淵」の活字が躍っていた。

「星野」とか「巨人」とか「島野」などの活字は

それほど見かけなかった。

そして、当時の世の中の空気としては

今のようにドラフト制度を「選手の人権無視」として考える者など

ほとんど居らず

いつ田淵が指名を納得して阪神に入団するかという点に

興味が集中していた。

だから

当時の印象としては

いつのまにか星野さんは中日に居た、という感じが強い。

 

当時の私は

V9巨人に対抗できる球団は中日だろうと踏んでいた。

本当は、村山、江夏を擁する阪神が最有力だったのだが

当時の阪神は、あまりにも貧打で歯がゆい限りだった。

その点、中日には、ちゃんとした4番(江藤慎一)が居て

何でもできる万能選手も3人(中暁生、一枝修平、高木守道)そろっていて

強打の捕手(木俣達彦)まで居た。

しかも球場は狭いことで有名なナゴヤ球場だから

ここぞというときに強打が炸裂するのが

まだ子供だった私には

見ていていかにも痛快だった。

そこへ、監督交代があって

あの水原茂が采配を振ることになったのだから

もう気分は最高だった。

この打撃陣に加えて

投手のほうも、豪傑・小川健太郎と

西鉄から移籍の田中勉、かつての大毎の大投手である小野正一という

超ベテラントリオが

それぞれ30代でありながら年間200イニングを投げることが可能であり

この3人だけでもフルに稼動できたとしたら

相当の勝ち星が計算できるはずだった。

そこへ大学野球界の大物らしい星野という人が加わるのである。

(当時の私は星野さんが同県人であることを知らなかった)

水原新監督で中日の優勝も夢でない、そう確信したのだが・・・

 

昭和45年に日本プロ野球史上最大の汚点ともいうべき

「黒い霧事件」が勃発。

この事件で一番痛手をこうむったのは

稲尾和久が率いていた西鉄ライオンズだったが

その次にヒドい目に遭ったのが中日ドラゴンズだった。

当事者ともいえる小川、田中の両エースを失い

疑惑をかけられて憤慨した小野は

そのまま引退してしまった。

突然「そして、誰もいなくなった」中日投手陣。

 

西鉄はその後どうにもならなくなり

最終的に西武ライオンズとなって再スタートを切ることになり

そこからリーグ優勝を争うようになるまで

実に12年を要したのである。

ところが中日は

3人もローテ投手が居なくなったというのに

わずか4年でリーグ優勝を果たすという不死身ぶりを見せた。

打撃陣が投手陣をバックアップしたというわけではない。

昭和43年頃の”中、一枝、千原、江藤、葛城、木俣”という上位打線は

リーグ優勝(昭和49年)時の”高木、島谷、井上、マーチン、谷沢、大島”という

上位打線よりはるかに強力だった。

昭和49年の中日の優勝は

先発にリリーフに奮戦健闘した星野仙一の力によるところが

大きかったといえる。

星野さんがその両方をこなしたことで

先発の松本幸行、三沢淳などが安心してその役割に専念でき

好成績につながったのは間違いない。

こんな風に

その選手生活の大半で

先発とリリーフを両方兼ねたエース格の投手というのは

星野さんが最初で最後ではないかと思うのである。

大監督水原茂からも薫陶を受け

その後、与那嶺監督の時代になったとき

星野さんは投手陣の精神的支柱として

長く中日ドラゴンズで活躍。

しかし、そんなプライドの高さを疎ましく思ったのが

1981年に監督としてやってきた近藤貞雄だった。

星野さんは近藤監督と対立し

1982年にあっさりと引退してしまう。

 

その頃、岡山県出身の野球選手といえば

相変わらず平松政次の知名度が群を抜いていた。

平松の出身校の岡山東商業が

その頃まで甲子園出場の常連校だったため

岡山東商業出身ということそのものが

ブランド価値を生んでいたのである。

だから、平松と同じ経路をたどって

昭和46年に大洋入りした奥江英幸投手などは

一時期、星野を上回る知名度を地元では誇った。

星野の出身校である倉敷商業高校は

甲子園出場がないうえ

昭和42年にヤクルト入りした松岡弘投手以降

プロ野球選手を出していないこともあり

倉敷商業高校出身の選手は

どうしても地元の知名度の点で劣っていたのである。

奥江のように甲子園出場がないのに

岡山東商業→社会人野球→プロ野球という黄金コースを歩めば

地元では超有名人として扱われたのである。

1970年代半ばから

岡山東商業の姉妹校である岡山南高校の野球部が強くなり

特に1983年にエースの川相昌弘が

巨人からドラフト3位で指名されたことは

岡山県内でかなりの衝撃をもったニュースとして扱われた。

まだ巨人というブランドが絶大だった時代であり

岡山県出身で高校から巨人入りした選手は

それまで皆無であったこともあり

この時期から

岡山県出身のプロ野球選手の最大のヒーローは

平松から川相へバトンタッチされた。

相変わらず、星野さんは

その成し遂げた業績の大きさに比べれば

地元では不当に低い知名度しか得られていなかったのである。

 

星野仙一が岡山で妥当な知名度を得たのは

やはり自身が岡山でボランティア活動を始めて以来ではないか。

ある年から、地元の人脈の関係で

星野さんは

岡山県で最も有名な障がい児施設を

シーズンオフの時期に訪問して

子供たちと一緒に遊び、子供たちの家族も含めて

癒しの時間を作るボランティアを始めた。

どんなに忙しくても

星野さんは、毎年岡山市にやってきて

子供たちのために多くの時間を割いた。

気まぐれでやっているボランティアでないことは

すぐに周囲の人たちにも伝わり

その頃から、やっと

岡山県にはこんな素晴らしい人間、野球選手が居るのだ

という認識が広まった。

2001年のオフに

星野さんが阪神タイガースの監督になるのではないかと

噂が広まったときにも

星野さんはその障がい児施設を訪問していたはずである。

 

その阪神での業績は

いまや伝説の域になってきているのではないか。

1992年にまさかの快進撃を見せつつ、結局優勝を逃して以来

長い長い低迷の時期にあった阪神タイガースを

生き返らせたのは

ほかならぬ星野仙一その人だった。

あの阪神を蘇らせたということだけで

彼は野球界のレジェンドになり

地元倉敷でも

美観地区に「星野仙一記念館」が建てられ

ついに岡山県が生んだ最高の野球人というポジションに

たどり着いたのである。

偶然にも

星野さんの母校倉敷商業高校の野球部が

岡大海投手(現日本ハム選手)という大器の出現を機に

この頃から甲子園での常連校になり

その意味でも

星野さんの存在は神格化されたものになってきた。

 

極めつけは

楽天の監督として日本一を達成したあと

楽天の秋季キャンプの場所として

倉敷マスカット球場を選んでくれたことだろう。

プロ野球の試合は年に1回しか開催されず

関係行事の開催も皆無だった岡山県が

星野さんの尽力のおかげで

プロ球団のキャンプが毎年開催される場所になったのだから

これには岡山県の野球ファン誰もが

星野さんに感謝するほかなかった。

 

こういう流れもあって

岡山県在住のファンは皆

いつのまにか勝手に

星野さんという存在については

永遠不滅なものと勘違いするくらい

大きなものになっていた。

ゆえに、いまだに

訃報を現実のことと受け止めきれないのである。

もう少し哀悼の念に浸ろうと思っている。

 

コメント
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