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怪談 黒の森 5

2020年03月12日 | 怪談 黒の森(全30話完結)
 人心地の着いたおくみは囲炉裏の前に座った。何の肉かは聞かぬことと言われたが、食べた後、なんだか力が湧いてくるようだった。歩き回った疲れも、迷ってしまっていた時の不安も、すべて流れ出して無くなってしまったような気がする。最後に坊様から渡された竹筒の水筒の水を飲むと、正に生き返った感じだった。
「……何ともさ、霊験あらたかなお肉とお水でござんした」
 おくみが言うと、坊様は笑った。
「お前さん、なかなか愉快なお人だな」坊様は言う。「ま、どんな事情を抱えていたかは聞かないが、これからは上手く行くだろうよ」
「……だと良いんですけどねぇ……」おくみは亭主の留吉を思い浮かべた。酔って着物の裾から手を入れてくるあのいやらしい顔と酒臭くて荒っぽい息遣い、殴りつけてくる時の凶暴な顔と暴言の数々…… おくみは思わず背筋を震わせた。「でもね、当分は男はこりごりで……」
「男だけが世の中ではあるまいさ」坊様はそう言うと、自らも串焼きを手に取って齧り付いた。「うむ、美味い、六根清浄、六根清浄……」
「お坊様、ちと悪ふざけが過ぎますぜ」新吉がからかうように言う。「肉を食いながら美味い美味い六根清浄六根清浄も無ぇもんだ。……言いたか無ぇですが、お坊様はとんだ破戒僧でやすね」
「何を言うか。わしは空腹を満たしておるだけじゃ。お侍のように高楊枝とはいかんのだよ」
「へいへい、そう言う事にしておきやしょう。……まったく困ったお坊様だ、ねえ、藤島様」
 新吉は藤島へ笑顔を向けた。藤島は返事をせず、じろりと坊様を睨みつけた。
「藤島様、そんな怖い顔をしちゃあ、いけません」新吉が慌てたように言う。「それでなくても、十分に怖いんですから……」
「ふん」藤島は鼻を鳴らす。「腐れ坊主めが……」
「そんな事を言うんなら、お前様だって、腐れ武士じゃないですか!」今まで黙って様子を見ていたお千加が突然叫んだ。「刀を持って偉そうにしてらっしゃるけど、刀が無きゃ、百姓仕事も出来やしない、厄介者のじゃないですか!」
「なんだと! この女!」藤島は刀を抜いて立ち上がった。「そこに直れ!」
「はいそうですかと首を出すと思いますか?」整った顔立ちに怒りが張り付いていて凄惨な趣きだ。「わたしは、刀なんかちっとも怖かぁないんですよ!」
 おくみも新吉もどうして良いやら分からず、藤島とお千加の顔を交互に見比べるだけだった。
「……これこれ」坊様が口の中の肉を飲み込んでから言った。「二人ともやめなさい。それよりも、串焼きを食べると良い。ここへ辿りついてからの藤島さんは丸二日、お千加さんは丸一日、何も口にしていない。それはいけないな。腹が減ると、人は悪い事を言ったり考えたりするものだ」
 坊様は言うと、串焼きを左右の手で一本ずつ引き抜き、一方を藤島へ、もう一方をお千加へと差し出した。しばらくためらった後、二人はほぼ同時に手を伸ばして串焼きを受け取り、黙々と齧り付いた。
「そうそう、それで良い、それで良い……」坊様はうなずく。「ささ、遠慮せずに、もっと食べなさい。……新吉さんも、おくみさんも食べることだ。さて、もう少し仕込んでくるか。……あ、水もあるから飲みなさい」
 坊様は言うと小屋の外へ出て行った。坊様が席を外すと急にしんとなった。木のはぜる音、肉が焼けて脂が燃える音と香りとがあるばかりだった。


つづく

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