津城寛文・匡徹の徒然草Shiloh's Blog

時事問題や世間話その他に関して雑感を記し、著書その他の宣伝、関係者への連絡も載せています。

高位の者は高い基準で裁かれる

2017年06月13日 | 日記
「国」という言葉は、悪知恵や猿知恵があって悪用しようとする人、あるいは頭が悪くて自分勝手に使う人によっては、有害な結果になります。

 国民の全体、国土の全体を指すのか、歴史的な連続体を指すのか、あるいは匿名の官僚組織を指すのか、総体的・絶対的に優位な与党を指すのか、束の間の政権をさすのか、それらの中の一部の利益集団を指すのか、文脈によって異なり、範囲に伸縮があります。

 どこかの統制国家では、「国家反逆罪」というのは、指導者(単数、複数)の気に入らないこと(方針に逆らったとか、忖度をしなかったとか、演説中に居眠りをしたとか)があっただけで、適応されます。

 社会の自由度は、権力者の批判(的外れでも)や、風刺(過度でも)が自由にできるかどうか、で計られます。

 しばしば指摘されるように、「風刺」は、力のない者が力のある者を、言葉や表現によって攻撃する、せめてもの精神的自由です。対等な力関係での表現による攻撃は、「侮辱」です。力ない者を力ある者が、言葉や表現で攻撃するのは、「弾圧」として、区別するべきでしょう。相手からの批判を、「侮辱」と受け取るのは、相手を対等とみなした証拠で、高い地位にある人としては、恥ずかしい行為です。お釈迦様やイエス様が、誰かの批判を「侮辱」と受け取ることが、あり得るでしょうか?

 どこぞの自由・平等・博愛を標榜する国のジャーナリストが、「我々には侮辱する権利がある」といったのは、この区別からみると、お話にならないくらい稚拙な知性です。

 力関係が圧倒的に異なる場合、同じやりとりをしても、一方は風刺になり、他方は弾圧になります。子供から怒鳴られても、同じように怒鳴り返す親は、落語の世界以外では、あまりいませんね。

 並み以上に優位な立場にある人は、その優位さの度合いに応じて、並み以上の品性が求められます。それが「高貴な者には多くが求められるnobles oblige」ということです。高い地位にある(あろう)と思う者は、並み以上に高い品性を持っていなければなりません。すくなくとも、そのように努めなければなりません。

 「背に腹は代えられぬ」「役得を活用する」「親類縁者を厚遇する」とは下々の人情、「武士は食わねど高楊枝」「李下に冠を正さず」「泣いて馬謖を斬る」のが、品性を高めようと務める者の、座右の銘でなければなりません。人情、まして私情に流される者は、高い地位に就く資格を欠いています。自ら降りなければ、思いもかけないときに、天の配剤によって、落とされるでしょう。

 






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