五月二日、桜新町二丁目で保護した黒猫が病床にて永眠しました。
朝、塩村さんから電話を受け、待ち合わせをして二人で黒猫に会いに行くことにしました。
黒猫は、安らかな安らかな寝顔を私達に見せてくれました。
お花や、ねこちゃんごはんを供えて、黒猫の旅立ちを整えてくださり、慈恵院様にて荼毘に付す手配をしてくださったゆう動物病院に感謝しています。
塩村さんも私も黒猫に触れ、あふれる涙を拭き続けましたが、手を合わせ黒猫に別れを告げました。
帰り道、私が一度見失った黒猫を探す時にご協力くださった方々に御礼回りをしました。
放置自転車保管所のおじさん達にご報告すると、黒猫のために「御愁傷様でした。」と頭を下げてくださいました。
川信さんにも御礼に上がりました。おかみさん達は、私達に御礼を言ってくださり、お志をお包みくださいました。
桑名屋酒店さんも、紫光庵の常連さんの金子さんもお包みをくださいました。
黒猫を応援をしてくださった全てのみなさんに、心より感謝しています。
黒猫は、一歳くらいの男の子で、去勢手術をしてもらっていたことからして、どこかの地域猫としてかわいがられていたようです。皮膚病をきっかけに衰弱し、視力も無くなったようで迷子になったようです。
短い命を終えてしまいましたが、多くの人々に応援されて旅立った黒猫の死に様は、愛された生き様なんだと思います。
暖かい寝床の上で、お花畑に旅立てるお手伝いをさせてくれた黒猫に感謝しています。
「ごめんね。」ではなく、「ありがとう。」という言葉の花束を持たせて、お花畑に旅立たせたいと思います。
黒猫ちゃん、五月一日午前十時頃、桜新町二丁目(桜新町駅の北側)で、出会ってくれて、ありがとう。
朝、塩村さんから電話を受け、待ち合わせをして二人で黒猫に会いに行くことにしました。
黒猫は、安らかな安らかな寝顔を私達に見せてくれました。
お花や、ねこちゃんごはんを供えて、黒猫の旅立ちを整えてくださり、慈恵院様にて荼毘に付す手配をしてくださったゆう動物病院に感謝しています。
塩村さんも私も黒猫に触れ、あふれる涙を拭き続けましたが、手を合わせ黒猫に別れを告げました。
帰り道、私が一度見失った黒猫を探す時にご協力くださった方々に御礼回りをしました。
放置自転車保管所のおじさん達にご報告すると、黒猫のために「御愁傷様でした。」と頭を下げてくださいました。
川信さんにも御礼に上がりました。おかみさん達は、私達に御礼を言ってくださり、お志をお包みくださいました。
桑名屋酒店さんも、紫光庵の常連さんの金子さんもお包みをくださいました。
黒猫を応援をしてくださった全てのみなさんに、心より感謝しています。
黒猫は、一歳くらいの男の子で、去勢手術をしてもらっていたことからして、どこかの地域猫としてかわいがられていたようです。皮膚病をきっかけに衰弱し、視力も無くなったようで迷子になったようです。
短い命を終えてしまいましたが、多くの人々に応援されて旅立った黒猫の死に様は、愛された生き様なんだと思います。
暖かい寝床の上で、お花畑に旅立てるお手伝いをさせてくれた黒猫に感謝しています。
「ごめんね。」ではなく、「ありがとう。」という言葉の花束を持たせて、お花畑に旅立たせたいと思います。
黒猫ちゃん、五月一日午前十時頃、桜新町二丁目(桜新町駅の北側)で、出会ってくれて、ありがとう。
五月一日正午頃、紫光庵で一時預かっていた黒猫を病院に連れて行くため塩村さんが来てくれました。
私は、そこから後のことを、塩村さんにお任せしました。桑名屋酒店さんも駆け付けてくれ、病院まで同行できない私の代わりに案内してくれました。
私は「ねこちゃん、元気になりに行ってらっしゃい。」と、黒猫を見送りました。
猫が怖くて、猫を見るといつも「しゃー(=きゃー)」って言ってしまうみーちゃんも、黒猫には何も言わず見送りました。
黒猫は、桜新町駅から近い、ゆう動物病院に行きました。毛が抜けているのは「カイセン」という皮膚病だそうで、皮膚は治療により良くなるとの見立てでした。
しかし、それ以前に、衰弱が問題でした。飢餓と脱水で、かなり体力が無くなっていました。入院しての治療が始まりました。
私の日記などを読んだお客様方が、ご来店くださったり、お電話をくださったり、インターネットでメッセージを寄せてくださったりして、みなさん、黒猫を応援してくれました。
ゆう動物病院から、ごはんを食べたとの連絡が伝わってきましたが、最期に振り絞っている力なのか、回復に向かっている力なのかまだ分からないとのことでした。
夕方、紫光庵の常連さん島崎さんとみーちゃんと私は、塩村さんと合流して黒猫の面会に行きました。昼には川信の松井さんも面会に行ってくださいました。
私には元気に見えました。私は、みなさんの応援に支えられた黒猫が、元気になると祈って眠りに就きました。
私は、そこから後のことを、塩村さんにお任せしました。桑名屋酒店さんも駆け付けてくれ、病院まで同行できない私の代わりに案内してくれました。
私は「ねこちゃん、元気になりに行ってらっしゃい。」と、黒猫を見送りました。
猫が怖くて、猫を見るといつも「しゃー(=きゃー)」って言ってしまうみーちゃんも、黒猫には何も言わず見送りました。
黒猫は、桜新町駅から近い、ゆう動物病院に行きました。毛が抜けているのは「カイセン」という皮膚病だそうで、皮膚は治療により良くなるとの見立てでした。
しかし、それ以前に、衰弱が問題でした。飢餓と脱水で、かなり体力が無くなっていました。入院しての治療が始まりました。
私の日記などを読んだお客様方が、ご来店くださったり、お電話をくださったり、インターネットでメッセージを寄せてくださったりして、みなさん、黒猫を応援してくれました。
ゆう動物病院から、ごはんを食べたとの連絡が伝わってきましたが、最期に振り絞っている力なのか、回復に向かっている力なのかまだ分からないとのことでした。
夕方、紫光庵の常連さん島崎さんとみーちゃんと私は、塩村さんと合流して黒猫の面会に行きました。昼には川信の松井さんも面会に行ってくださいました。
私には元気に見えました。私は、みなさんの応援に支えられた黒猫が、元気になると祈って眠りに就きました。
五月一日午前十時頃、桜新町二丁目(桜新町駅の北側)にて、黒猫に出会いました。
体の半分の毛が抜け、目が見えていない様子の黒猫は、うつむき、うずくまっていました。
たまたま通り掛かった私は、足を止め、「ねこちゃん」と話し掛けました。
他の通行人さんや向かいの店の従業員さんとも「でも、なんともできないね。」とお話しました。
その場を後にして家に帰った私は、それでもなんだか心に残り、友人(教え子)塩村さんに連絡しました。
塩村さんから「病院と、その後のことは私がしますから、美奈子さん、保護してください。」という電話がありました。
私は、その一言で家から飛び出し、あの黒猫を迎えに行きました。
途中、スーパーに寄って、空き箱をもらって、走って元の場所に戻りました。
しかし、そこに、あの黒猫の姿はありません。周りにいた方々にお聞きすると、「あっち行ったよ。」と教えてくださいました。
指の先の方に進み、植え込みの下など探しましたが、黒猫は見えません。時間がたっぷりある訳ではない私は途方に暮れました。
ふと、私やみーをいつもかわいがってくださる鰻屋の松井さんを思い出し、駅前の鰻屋に行ってみました。
松井さんは、「今は行けないけど後で私ができることはするからね。」とおっしゃって、猫餌をたくさん持たせてくれました。
猫餌を持ち、また黒猫探しを始めましたが、なかなか見つかりません。
一人で這いつくばる私を見るに見かねた自転車保管所や駐輪場のシルバーのおじさん達が一緒に探し始めてくださいました。
「あっちに行ったよ。」という声で、私とおじさん達は、その方向に進んでみました。
一時間ぶりに、あの黒猫に、再会しました。変わらず、体の半分の毛が抜けた黒猫は、うつむき、うずくまっていました。
松井さんが持たせてくれた鶏肉を顔の前に出すと、黒猫は、その匂いに近づいてきて、私に抱かれて箱に入りました。
それから、みなさんに御礼を言いながら、私の店で預かるために桜新町一丁目(桜新町駅の南側)のサザエさん通りを歩きました。
私が抱える箱の中に毛の無い猫がいるのを見て、どなたとも知らない方々が「元気になるといいですね。」などと声援を掛けてくださいました。
こうして、桜新町二丁目で保護した黒猫は、紫光庵に来ました。
体の半分の毛が抜け、目が見えていない様子の黒猫は、うつむき、うずくまっていました。
たまたま通り掛かった私は、足を止め、「ねこちゃん」と話し掛けました。
他の通行人さんや向かいの店の従業員さんとも「でも、なんともできないね。」とお話しました。
その場を後にして家に帰った私は、それでもなんだか心に残り、友人(教え子)塩村さんに連絡しました。
塩村さんから「病院と、その後のことは私がしますから、美奈子さん、保護してください。」という電話がありました。
私は、その一言で家から飛び出し、あの黒猫を迎えに行きました。
途中、スーパーに寄って、空き箱をもらって、走って元の場所に戻りました。
しかし、そこに、あの黒猫の姿はありません。周りにいた方々にお聞きすると、「あっち行ったよ。」と教えてくださいました。
指の先の方に進み、植え込みの下など探しましたが、黒猫は見えません。時間がたっぷりある訳ではない私は途方に暮れました。
ふと、私やみーをいつもかわいがってくださる鰻屋の松井さんを思い出し、駅前の鰻屋に行ってみました。
松井さんは、「今は行けないけど後で私ができることはするからね。」とおっしゃって、猫餌をたくさん持たせてくれました。
猫餌を持ち、また黒猫探しを始めましたが、なかなか見つかりません。
一人で這いつくばる私を見るに見かねた自転車保管所や駐輪場のシルバーのおじさん達が一緒に探し始めてくださいました。
「あっちに行ったよ。」という声で、私とおじさん達は、その方向に進んでみました。
一時間ぶりに、あの黒猫に、再会しました。変わらず、体の半分の毛が抜けた黒猫は、うつむき、うずくまっていました。
松井さんが持たせてくれた鶏肉を顔の前に出すと、黒猫は、その匂いに近づいてきて、私に抱かれて箱に入りました。
それから、みなさんに御礼を言いながら、私の店で預かるために桜新町一丁目(桜新町駅の南側)のサザエさん通りを歩きました。
私が抱える箱の中に毛の無い猫がいるのを見て、どなたとも知らない方々が「元気になるといいですね。」などと声援を掛けてくださいました。
こうして、桜新町二丁目で保護した黒猫は、紫光庵に来ました。
昨日桜新町二丁目で保護した猫くん、先程、病床にて永眠しました。
応援してくださったみなさまに感謝いたします。
これから塩村さんと私でお迎えに行ってきます。
応援してくださったみなさまに感謝いたします。
これから塩村さんと私でお迎えに行ってきます。
今朝、桜新町駅に近い住宅街で、痛ましい猫ちゃんを見つけました。
桜新町駅に向かう人通りの多い場所で、どなたかなんとかしてくださらないかなと見過ごして帰りました。
家に帰り、相談メールを何人かに送っていたら、「病院に連れて行き、その後のこともするから、美奈子さん保護だけお願いします!」と一通の返事が届きました。
すぐさま、スーパーで箱をもらい、猫ちゃんがいた場所に駆け付けました。
…ら、いない!
…ので、駅前のお店やさんの猫好きさんに、猫餌をもらいに行き、また猫ちゃんがいた場所に戻りました。
それから、通行人の方々や駐輪場の管理人さんなどなど大勢の方々にお声掛けをしながら餌をちらつかせながらの大捜索の後、何とか再発見!
みなさん、温かいご声援をくださる中、箱入り猫ちゃんとサザエさん通りを歩いてきて紫光庵にて、預かりました。
そして、今しがた、私の大好きな猫好き友人(教え子)塩村ちゃんが、迎えに来てくれ、病院に向かいました。
今日、ここに至るまでにご協力くださいました全てのみなさま、ありがとうございました。
これから、この猫ちゃんがこれから健やかに幸せに生きられますよう、どうぞお祈りください!
桜新町駅に向かう人通りの多い場所で、どなたかなんとかしてくださらないかなと見過ごして帰りました。
家に帰り、相談メールを何人かに送っていたら、「病院に連れて行き、その後のこともするから、美奈子さん保護だけお願いします!」と一通の返事が届きました。
すぐさま、スーパーで箱をもらい、猫ちゃんがいた場所に駆け付けました。
…ら、いない!
…ので、駅前のお店やさんの猫好きさんに、猫餌をもらいに行き、また猫ちゃんがいた場所に戻りました。
それから、通行人の方々や駐輪場の管理人さんなどなど大勢の方々にお声掛けをしながら餌をちらつかせながらの大捜索の後、何とか再発見!
みなさん、温かいご声援をくださる中、箱入り猫ちゃんとサザエさん通りを歩いてきて紫光庵にて、預かりました。
そして、今しがた、私の大好きな猫好き友人(教え子)塩村ちゃんが、迎えに来てくれ、病院に向かいました。
今日、ここに至るまでにご協力くださいました全てのみなさま、ありがとうございました。
これから、この猫ちゃんがこれから健やかに幸せに生きられますよう、どうぞお祈りください!
みなさま、今年のゴールデンウィーク、いかがお過ごしでしょうか。
紫光庵の、みー(みなみ)と美奈子は、お仕事に励んでいます。
(4月29日営業・4月30日振替休日
5月6日営業・5月7日振替休日
とさせていただきます。)
ゴールデンアイのみーちゃん、のんびりながら、お仕事がんばっています。
紫光庵の、みー(みなみ)と美奈子は、お仕事に励んでいます。
(4月29日営業・4月30日振替休日
5月6日営業・5月7日振替休日
とさせていただきます。)
ゴールデンアイのみーちゃん、のんびりながら、お仕事がんばっています。
今日は、世田谷文学館に「上を向いて歩こう展」を観に行ってきました。
永六輔作詞・中村八大作曲・坂本九歌唱の「上を向いて歩こう」は、1961年に発売され、1963年には全米で一位を獲得し、世界で愛される歌となりました。
2011年の東日本大震災の後、この歌を思い出し励まされた人は多く、2013年は、全米一位獲得から50年の記念すべき年です。
館内では、坂本九さんの懐かしい歌声が流れ、永六輔さんらによるテレビ番組「夢であいましょう」の台本や中村八大さんの自筆楽譜・坂本九さん笑顔の写真や、忌野清志郎さんの自転車など貴重な品々を観ることができました。
坂本九さんの素敵な言葉が展示されていたので、メモしてきました。
「幸せとは一体何だろう、
なんて、オーバーなものでなく、
例えば、一刻でも、苦しみ、
悲しみを忘れさせてくれるもの、
それが映画でも、芝居でも、
オモチャ、人でも何でもいい、
その忘れさせてくれるもの、
それを僕は幸せのお使いと呼びます。
坂本九」
上を向いて歩こう展
~奇跡の歌から希望の歌へ~
2013年4月20日~2013年6月30日
世田谷文学館
http://www.setabun.or.jp/
涙がこぼれないように、上を向いて自転車で走って帰りました。
永六輔作詞・中村八大作曲・坂本九歌唱の「上を向いて歩こう」は、1961年に発売され、1963年には全米で一位を獲得し、世界で愛される歌となりました。
2011年の東日本大震災の後、この歌を思い出し励まされた人は多く、2013年は、全米一位獲得から50年の記念すべき年です。
館内では、坂本九さんの懐かしい歌声が流れ、永六輔さんらによるテレビ番組「夢であいましょう」の台本や中村八大さんの自筆楽譜・坂本九さん笑顔の写真や、忌野清志郎さんの自転車など貴重な品々を観ることができました。
坂本九さんの素敵な言葉が展示されていたので、メモしてきました。
「幸せとは一体何だろう、
なんて、オーバーなものでなく、
例えば、一刻でも、苦しみ、
悲しみを忘れさせてくれるもの、
それが映画でも、芝居でも、
オモチャ、人でも何でもいい、
その忘れさせてくれるもの、
それを僕は幸せのお使いと呼びます。
坂本九」
上を向いて歩こう展
~奇跡の歌から希望の歌へ~
2013年4月20日~2013年6月30日
世田谷文学館
http://www.setabun.or.jp/
涙がこぼれないように、上を向いて自転車で走って帰りました。
今日は、寒かったですね。
桜新町商店街のさくらまつり2013を無事に終え、反省会から帰りました。
準備段階では濡れねずみでしたが、開始時間には雨が上がり、良かったです。
ご来場のお客様方、お楽しみいただけましたでしょうか。
警察庁・消防局や世田谷区、町会をはじめとする地域の皆様、そして商店街の皆、お疲れ様でした。
我等がチータ(チーターじゃないよ)=水前寺清子さんも晴れて舞台に上がれて良かったです。
夕方、倉敷の父から、「寒かったろう」とメールが届きました。
寒かったけど、とっても寒かったけど、その言葉で、心がぬくぬくしました。
今年も何とかさくらまつりを終えました。
桜新町商店街のさくらまつり2013を無事に終え、反省会から帰りました。
準備段階では濡れねずみでしたが、開始時間には雨が上がり、良かったです。
ご来場のお客様方、お楽しみいただけましたでしょうか。
警察庁・消防局や世田谷区、町会をはじめとする地域の皆様、そして商店街の皆、お疲れ様でした。
我等がチータ(チーターじゃないよ)=水前寺清子さんも晴れて舞台に上がれて良かったです。
夕方、倉敷の父から、「寒かったろう」とメールが届きました。
寒かったけど、とっても寒かったけど、その言葉で、心がぬくぬくしました。
今年も何とかさくらまつりを終えました。