AAAA快適生活研究所

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変な日本語:~になる

2021-06-21 18:41:47 | 日記

「なる」は、状態が変化した結果を表す言葉である。

例えば、「歩が金に『なる』」、「お金持ちに『なる』」、「貧乏に『なる』」等。

これ等は、「歩が金である」、「ぉ金持ちである」、「貧乏である」とは違う意味を持つ。

ところが、最近、「になる」を「だ、です、ます」と同じ意味で使う人が増えているように感じる。つまり、「お金持ちである」というべきところを「お金持ちになる」と言っているのである。

「こちらの席になります。」、「千円になります。」。これらは、「こちらの席です。」、「千円です。」に若干丁寧な響きを持たせて(たつもりになって)、同じ意味で使われている。この現象は、「の方」ときと同じである。

微妙なものもある。100円と500円と400円のものを買ったとき、「千円になります。」は、いろいろな買い物をした結果、千円になったということで、これは本来の「なる」の意味で用いられた例であろう。1個1000円は、「千円です。」である。「千円になります。」は状況によって、OKにもNGにもなる。もしかすると、これが一般化したのかもしれない。たんなる推測であるが。

昨今、この「~になります。」が跋扈している。「の方」のときと同じように気の弱い私は心の中で、「ならねえよ。」と毒づいている。

以上が今日の私のBlogになります。オッと。


変な敬語 No2

2021-06-20 13:07:16 | 日記

人間は、遠ざけることによって敬意を表現するようである。

例えば、昔、下々のものが偉い人に会うときは直接顔を見ることはできず、離れた位置から御簾(すだれ)越しに話をしたようである。

言葉も同じで、目的とする語にいろいろ付け加えることで、相手に対する敬意を表そうとするようだ。

例えば、「見る」が「ご覧いただく」になり、「あり」「おり」が「いまそかり」になるように(この2つ、言葉自身も変化しているが)。

最近あちこちで指摘されている語用法に「~の方」がある。

例えば、「お席を用意しました」が「お席の方を用意しました」など、なくてもよい「方」をやたらつける。

「お席の方角はどっちの方だ」などと内心毒づいている。

これは敬語をうまく使えない人たち(偉そうに言っている私もそうであるが)が、何とか敬意を表そうとして、冗長な「の方」という言葉を挟んでいるのではないかと思う。

「の方」を挟んでいる言葉の多くは、「の方」がなくても問題がない。

「の方」を多用している皆さん、一度、「の方」を付けづに話してみたらどうですか(結構心理的抵抗があると思いますいが)。

 

 


佐渡

2021-06-19 17:36:19 | 日記

下の写真は、一昨日(6月17日)、これ以上ないほどの晴天の日に午前6時頃撮った写真である。

写真ではわかりづらいかもしれないが、大佐渡、小佐渡がきれいに見えている。濃い青が海、その水平線の上に薄く青く写っているのが佐渡。

次の写真は、昨日(6月18日)、曇りの日にほぼ同じ地点から同じ時間に撮った写真である。佐渡は全く見えていない。

写真を撮った場所から、大佐渡の突端までは60㎞位であるが、天候によって見え方がこんなに違う。

佐渡は新潟から近いのであるが、これまで(70年の人生で)4回くらいしか訪ねたことがない。

佐渡は新潟と違う文化圏であり、興味深いのであるが、往復の時間と旅費でついおっくうになる。

東京から新幹線とジェットフォイルを乗り継ぐと運賃は1万5千円位になる。往復で3万円である。

カーフェリーを利用すれば1万3千円位であるが、その代わり時間がかかる。

もちろん格安ツアーもあると思うが、この料金構成ではなかなか東京方面のお客さんを呼び込めない(私だと二の足を踏む)。

特に東京圏は、スキーやスノボの関係で、湯沢あたりが新潟だと思っている(だから新潟は全域豪雪地帯だと思われている)のであるから、やはり割高感は否めないのではないか。

常々ジェットフォイルがカーフェリー並みの料金ならないかと思っている。

税金を使うことに賛否はあるが、県が補助金を出して、観光客を佐渡に呼び込むことはできないのか。多くの人が佐渡を訪れれば、佐渡汽船も潤うし、新潟と佐渡の観光業もうるおい、結果的に税収入が多くなり、チャラとまではいかないが、県財政の大幅赤字とならずに済むのではないか。

考えてみて欲しい(考えてはいると思うが)。

 


変な敬語 No.1

2021-06-12 08:03:28 | 日記

言葉は変化するものである。例えば、私が子供のころまでは、「ぜんぜん」は、「ない」と組であった(係受けていた)。いつ頃からかは判然としないが、「ぜんぜん」が独立した強調を表す言葉になり、「ない」と組でなくても使われるようになった。今では私もほぼ違和感なく「ぜんぜんきれい」などと使うようになった。

だから、私が違和感があるといって、言葉遣いにクレームをつけるのは、おかしいといえばおかしいのである。しかし、である。

今気になる言葉使いの1つに、「させていただく」というものがある。

例えば、「非常に努力させて頂きました。」などという。「非常に努力しました。」でいいのに。いやむしろこちらがいいのにである。

「させる」は、使役(誰かに何かをするように仕向けること)の動詞である。努力は自分がするものであり、誰かに強要されるものではない。

この「させる」が氾濫しまくっている。

原因は、メディアにあるように思う。

例えば、タレントや役者が、何かに出演したとき、「出演させていただきました」ということが多い。これは、本人の努力もさることながら、スポンサー、監督、スタッフなど、周りの皆の努力で出演することになったという気持ちが「出演させて」になるのだろう。このような言葉遣いがメディアを通して、四六時中流れる。そうすると、「させて」が丁寧な言葉遣いだと考えて、意味のないところで「させて」を多用するようになってきたのではないか。

言葉は変わる、とわかっていても、結構この言葉遣いにはイライラする。


オリンピック

2021-06-10 15:54:11 | 日記

オリンピックやめたら。

国内も国外も新型コロナの感染のただなかにある。

(外国の)国内感染状況により、選手団を送ってこれない国がある。

(日本)国内の感染が広がる可能性がある。

この状況で、「オリンピックをやってコロナ禍を克服したことを全世界に発信する」などとはとても言えない。

コロナに影響を受けずにオリンピックを実施できる可能性もある。そうなれば、歴史に残るだろう。

経済効果も小さくない。

しかし、逆にコロナ感染が拡大し、少なくない数の国民がコロナや関連することで命を落とす可能性もある。

オリンピックの実施はこの2つのトレードオフである。

命に代えられるものはないはずである。とすれば、このトレードの結論は決まっているように思う。

オリンピックを中止することで、オリンピック目指して一生懸命努力してきた選手が気の毒だとの意見もある。

確かにそれはそうだろうと思う。しかし、このコロナ禍で目指してものをあきらたり、最悪の場合命を落とした人は、他の分野にもたくさんいる。

オリンピックはそのように見れば、ある意味コップの嵐である。

今はオリンピックをあきらめ、捲土重来を目指すべきではないか。