goo blog サービス終了のお知らせ 

AAAA快適生活研究所

いろんなことに上手になったり、不便を軽減したりすることをお手伝いする「処」

ロシアのウクライナ侵攻

2022-03-03 07:28:38 | 日記

ロシアがウクライナに侵攻したこと、もともとどちらが悪いかかなどは私の持つ情報では軽々にはいえないが、何かの解決策として暴力を行使することは絶対に許されない。

特に、今回のウクライナ侵攻でのプーチンさんの言行は、暴力団のそれと変らず、超大国の元首のそれではない。

まるで駄々っ子である。

国を中立化するか、非武装化するかどうかは、当事国の問題である。外国に言われる筋合いはない。当該国の中立化、非武装化を望むなら話し合いで相手に伝えるべきである。

ロシアは直ちに兵器の使用を止め、非を認め、停戦交渉に臨むべきである。

というか、私は、ロシアは直ちウクライナにいる軍隊を撤収し、攻撃による被害の賠償に応じるべきである、と考えている。


ロバート会議規則(1)

2022-03-02 20:24:58 | 日記

それでは、ロバートとはどんな人なのか?以下、英語版のWikipediaを要約・編集して示します。

ーーーーーーーーーー

ヘンリー・マーティン・ロバート(Henry Martyn Robert。以下、ロバート)は、1837年5月2日 にサウスカロライナ州ロバートヴィルで生を受け、オハイオ州で育った。彼は成長して、陸軍士官学校に入学し、1857年にクラス4位の成績でそこを卒業した。陸軍では工科部隊に属し、多くの成果をあげ、旅団将軍(Brigade General)に任ぜられ、1901年5月2日に退役した。1923年5月11日に没している。

ロバートはマサチューセッツ州の第一バプティスト教会で教会の会合の議事進行をおこなったが、地元を守ることへの懸念から、会合はあからさまな対立に発展した。ロバートは、教会の会合での自分の力のなさを痛感し、他の会合に出席する前に、議会手続きについて学ぶことを決意した。この経験に基づいてロバートは、1876年にPocket Manual of Rules of Order for Deliberative Assemblies(審議を行う会合のための議会規則携帯マニュアル)を出版した。このマニュアルは後にRobert’s Rules of Order(ロバート会議規則)と呼ばれる。この規則は、米国下院で使用されている手続きを緩やかに基にしているが、国や州の議会で使用することを意図したものではない。Robert’s Rules of Orderは、今日でも米国で最も一般的な会議運営法である。

ーーーーーーーーーー

ロバートさんは、軍人であり然も技術者なんですね。ちょっとびっくりです。

ロバート会議規則は日本でも青年会議所が会議運営に使っていると聞いています。

さて次からはロバート会議規則の内容に入ります。


また始めます

2022-02-28 09:54:41 | 日記

前回投稿から6か月半たちました。

どうもさぼり癖が抜けない。

そこで、シリーズものを始めようと思います。

最初のシリーズは、ロバート会議法(Robert’s Rules of Order)を中心にした会議法について書いていこうと思います。

会議は、多くの場合何となく理解している方法で進められていますが、参加者全員に発言の機会が公平に与えられている進め方ではないように思います。参加者の上下関係がはっきりしている会議であれば、それに沿って会議は進められ、それでよいのかもしれません。しかし、上下関係のない、あるいははっきりしない会議ではその進め方は難しいものになります。このとき会議の進め方に関する明確なルールがあれば、会議をスムーズに進め、会議参加者の満足度も高いと思います。ロバート会議法は、このような会議で参加者全員に公平な会議の進め方を示しています。

詳細は次の投稿から。


感動、する、与える

2021-08-17 13:53:30 | 日記

最近、「感動を与える、与えたい」という言い回しをよく聞く。なんとも気持ちが悪い。感動は、個人の感情であり、他人が意図的に与えられるようなものではない。だから同じことを見聞きしても、人によって感動したり、しなかったりする。

辞書によれば(goo辞書(デジタル大辞泉))、感動とは「ある物事に深い感銘を受けて強く心を動かされること」だそうである。

この定義の『ある物事』がどのようなものであるかは、一括りに言いうことはできない。

人が感動することを数式風に表すと次のようになると思う。

M = f(O, E, P)

ここで、

 M:感動

 O:感動を引き起こした事象

 E:事象の環境

 P:感動を受けた人の経験、考え方

「感動を与えたい」という言葉をよく見聞きするスポーツの世界で言えば、Oはスポーツの種目であり、Eはその種目をどのような機会にどのように実践したかということであろう。多くの人が似たような経験を持ち、似たような考え方をするのであれば、多くの人が感動することになるのだろう(P)。

「事象の環境」の中で最も重要なものが「一生懸命、あるいは、一心不乱に、無心に」ということであろう。

だから、「感動を与えたい」というのではなく、「全力で一生懸命やる」というのが正しい言い方のように思う。その結果が人々の「感動」であると考える。「感動を与える」というのは、ある意味おこがましいのであり、できないことである。

似たような意見をフリーアナウンサーの小島慶子さんがSNSに書いていた。


オリンピック報道

2021-07-31 15:54:08 | 日記

「オリンピック開催を反対してきたメディアが、オリンピックを開催した途端にオリンピック競技内容を報道している、けしからん。」という論調を時々見かける。

両者(オリンピック開催反対報道とオリンピック競技報道)は別次元の話であり、矛盾はしていない。

オリンピック開催の是非は、社会的、経済的判断であり、コロナ禍の下では社会的に許容できないというのが、オリンピック開催反対のメディアや個人の理由である。競技者一人一人に何か問題があるから反対ということではない(中にはそういう反対者のいるかもしれないが主流ではない)。

オリンピック競技報道は、競技者の見せ場を報道しているものであり、ある意味競技者個人(団体)に対する応援のようなものである。特に無観客で行われている今回のオリンピックは、自分の晴れ舞台を見てもらっているということを競技者に知らせ、モチベーションを上げるという意味でも重要であると思う。

また、人々の知る権利を満たすためには重要であろう。特に日本人はオリンピックを開催するための費用を負担している税金の納税者であるから、どのように税金が使われているかを知る権利もある。

ということで、「今まで散々反対していたメディアが競技が始まったとたん手のひらを反すように競技を中継している。」という論は的外れである。

とはいいつつ、私は熱心なスポーツ支援者ではないため、オリンピックの競技報道は殆ど見ていない。開会式も、妻が見ていたものを横目で眺めていたくらいで、ほとんど見てはいない。私が開会式の録画を見ないと言ったので、妻は今日、録画を消したようである。