Shige's Blog

約4年お世話になっていたBroachの閉鎖に伴いgooブログさんに引っ越してきました。皆様、よろしくお願いします。

東日本大震災・・・(5)

2011年04月16日 | 東日本大震災
読書をしているうちに・・・・なんともう午前3時ではないですか!!
ブログチェックだけと思ってPCを立ち上げましたが、今日の出来事をちょっとだけ記事に残しておきます。
仕事の合間に近所の被災した行きつけの床屋さんで3カ月切れなかった髪(震災の影響だけか??)をバッサリとやってきました。
仕事の合間というよりは・・・ぶっちゃけバリバリ仕事中でした・・・。でも、本当に切りに行く暇がなくて、今しかない!!と朝イチで・・・。
ファミレスの店長たるもの、やはりフードビジネスマンらしくアピアランスは常に維持しておかなければなりませんし。
その帰り、実家により母とプチ家族会議。
家に突っ込んだ例の中型バスの撤去には、なんとお隣秋田県の自動車解体業者さんが担当されるとか・・・。
しかも、家の解体と同時でないと撤去出来ないとの事。前回ブログの記事を見てもお分かりの通り、おそらくこのバスを引っこ抜けば、家の2階部分は脆くも崩れ去るでしょう・・・。それを嫌っての家屋の解体と同時に撤去するとの事。それは、業者さんにも危険というリスクと隣り合わせで仕事はさせたくありませんしね。
納得しました。
しかしながら、自宅の解体の日付は未だ決まっておりません。行政も頑張ってくれていると思うので、自分の主張だけも言ってられませんし、気長に待つ事にします。

東日本大震災・・・(4)

2011年04月06日 | 東日本大震災
東日本大震災から25日が経過しました・・・・。

結局母の安否が確認できたのは、前回のブログ記事にて実家を撮影した直後の3月12日、地震発生の翌日でした。
最寄りの避難所 宮古市立磯鶏小学校に立ち寄ったところ、普段避難時には絶対にクルマを使わない母が、しっかり小学校の校庭の一番奥(つまり早いうち避難してきた)にクルマを停めているではないですか・・・。
めずらしい・・・。
取りあえず、顔は見ていないが一安心。その後、体育館にて再会。ほっとしました。
どうしてクルマで避難したか?を問い詰めると、
「一度、徒歩で家を離れたが、近所の人がみんなクルマで避難していたみたいだったから、戻ってクルマで逃げてきた・・・」との事。
このような曖昧な判断で家に戻り、津波に飲み込まれたという人が近所にも数名・・・。非常に危険な行為です。
その後、避難所には毎日のように差し入れを持って訪れ、母の様子を見に通う日々となりました。
私のアパートに引っ越して来い!と話すも、実家が心配だから、取りあえず2週間程度ここ(避難所)で生活をするとの回答。
まぁ、母がそう望むなら・・・。そこで今後の日程を家族会議し、来週より実家の片付けを開始する事で意思統一。実家の建物は例の大型バスの影響で家が傾いており、住み続けるには危険で使い物にならない為、最終的には解体することで話がまとまった。
そこから地獄の2週間がスタートしました。
まずは、家の中の瓦礫・ヘドロ・家具・家電製品・家業である民宿で使用していた膨大な什器(一般家庭の約20倍はあったでしょう・・・)の撤去作業。最初は母と二人でスタートした撤去・掃除も、近所で被害に遭っていない皆様が日替わりボランティアで手伝いに来て頂き、日に日に綺麗になって行きました。


【玄関 津波直後】


【玄関 復興後】


【座敷 津波直後】


【座敷 復興後】


【奥座敷 津波直後】


【奥座敷 復興後】

当然、これだけの瓦礫・家具を外に運び出せば、外は大変な事になります・・・。















ここまでで約7日間の作業日数を要しました。電気の復旧が遅れている為、日没前には実家を離れないと辺りは真っ暗になり大変な事になってしまいます・・・。普段。ファミレスのキッチンでフライパンばかり振っている私にとっては、10年ぶりの現場作業的な日々。筋肉痛と腰痛に見舞われる毎日。でもこれが、長~い復興のほんの一部の始まりにしか過ぎないのでしょう・・・。

東日本大震災・・・(3)

2011年04月03日 | 東日本大震災
今回から、撮影した画像を少しづつUPして行きたいと思います。
今の自分の住まいは幸い海から遠い為幸い被害はありませんでしたが、問題は海から500mの場所にある実家。
同じ宮古市内の磯鶏 石崎(ソケイ イシザキ)地区にあり、家業である民宿を営んでおります。
屋号は”民宿 みかわ”
今、実家に住んでいるのは、私の62歳の母一人のみ。
同じ市内に住んでいたものの、私は3年前に所帯を持ち新居(アパート)を構えたばかりで、母とはここ3年程別居状態でした。
私も仕事を持っていた為、母が一人で家業の民宿を切り盛り状態。

3月11日の地震発生時、職場を離れた私は、母の安否ばかりが気がかりで・・・。
当日夜、停電の状態で震度5強の余震が続くなか、不安がる嫁と息子を家に残し、実家の磯鶏にクルマを走らせました。
あと2キロ程で実家到着というところで検問。「これ以上は進入禁止です」と警察が検問中。
「母が一人家に取り残されているかも知れない・・・」
と告げると、しぶしぶ通してくれました。
しかし、そこから先さらに1キロ程進んだあたり、国道45号線沿いの宮古市民文化会館付近。
見るも無残な光景・・・。停電中の町内は当然真っ暗・・・。闇夜に浮かび上がるのは、私のクルマのライトに照らされた道路を覆い尽くす材木と瓦礫の残骸・・・。徒歩で歩くにもリスクが大きすぎる。その日は諦めて家に帰る事に。
翌日、改めて実家に向けて出発。通行規制は一時的に解除されていた。
実家まであと100m・・・相変わらずクルマでは近づけなかった。
路駐したまま走って実家へ・・・。

以下、実家付近の画像です。

<<3月12日現在の画像>>

【実家裏のJR山田線陸橋より】 観光バスが実家を直撃・・・


【表側から先ほどのバスの裏側を撮影】


【実家の表通り】


【玄関ドア・・・何処へ行ったのやら・・・】


【手前のこたつ・・家の中を約5m流されていました】


【さらにその奥】


【ひどい・・・】


【足の踏み場が無い・・・とはまさにこの事だと思う・・・】


【先ほどのバスを家の中から…】

どこから、どう手をつけていいのやら・・・
気が遠くなります・・・。