Shige's Blog

約4年お世話になっていたBroachの閉鎖に伴いgooブログさんに引っ越してきました。皆様、よろしくお願いします。

実家の解体

2011年11月17日 | 東日本大震災
東日本大震災から8カ月余り・・・。
宮古市 磯鶏の実家は先月10月末に建物基礎の解体も終わり、盛り土をしてもらった状態で現在に至ります。
盛り土までは行政に面倒見てもらえるそうで、要するに復興財源からの支援にて整備してくれるとの事。
被災者にとってはありがたい事です。
しかし、ここから先は、被災者が個々に既存の土地にマイホームの建築、もしくは別の高台等の住宅地を新たに求めて住宅の再建の選択を迫られる。
幼い頃から慣れ親しんだ、先祖から引き継いだ土地に再建したいという人、近所のお知り合いが近所で津波に流されて亡くなったので、この近所に住むのは抵抗がある・・・等々。対応は様々な様子。
もちろん自分もその選択を迫られた訳だが、自分の意見というよりは母の意見を尊重した。母はこの土地から離れたくないとの事だった。
それは自分も同じ考えであった。
先祖代々受け継いできた唯一の財産は、いまやもうこの土地しか残っていない。津波で建物が破壊されたとしても、土地はそのまま残る。だったら、残された我々子孫は、やはりその土地を守っていかなければならない訳で・・・。
その証拠に、町内のシンボル的になっていた庭の松の木をそのまま残して建物のみ解体。


広い土地に松の木1本しか立っていないという、滑稽な画像。


この松の木も先祖代々伝わるもので、先代の私の祖父も良く手入れしていた大事な松。
(バックの山とかぶってしまいました・・・素人)。


ちなみに解体前の画像・・・(正面)


解体後・・・(正面)


解体前(側面)


解体後(側面)


裏側より。

何もかもなくなるとすっきりするものです。
実はこの更地の風景、見るのは人生で2度目。初めて見たのは、自分が幼稚園の年長 6歳の頃でした。今回解体した家はその時に建てたもので、築31年になります。
先日、この画像を撮影しに実家に赴いた時、その幼い頃に見た同じ光景を目の当たりにし、当時の記憶が走馬灯のように蘇ってきたのでした。
今後の予定はと言うと、取りあえず津波で浸水した土地は地盤が弱っているとかで1年は寝かせなければならないとの事。また、盛り土した土地が落ち着くまで更に最低半年・・・(と、業者さん談)。
最短で来年2012年10月に着工(したい)という事になります。
その間にゆっくり建築業者さんと、融資先の銀行をゆっくり選定しようと思います。
(しかし、仕事も忙しいし・・・時間取れるかな・・・)。

東日本大震災・・・(6)

2011年07月02日 | 東日本大震災
震災からもうすぐ4カ月が過ぎようとしております。
床上1mまで浸水した我が家も解体の順番待ち・・・となっておりましたが、いよいよ解体の時期が迫って参りました。
母から連絡が入り、今現在、襖や畳、窓枠・天井を剥がし始めたとの事で実家に行ってみると、綺麗にしたはずの外周に窓枠やら襖が並んでおりました。

窓枠が取り払われただけで、一見廃墟と勘違いされそうな面持ちで、いざ廃墟の中へ・・・。


「う、うわぁぁぁぁぁぁ~~っ!!出た!!」と思ったら、先行して家の中に入っていた我が愛しの嫁でした・・・。


正面より・・・


バスの撤去も近いらしいです。
37年の想い出がいっぱいつまったこの家も、このWEBページにデジタルとしての記録を残して、そして我々家族の胸に想い出を沢山詰め込んで、間もなく解体を迎えます。
50年間お疲れさまでした。
そして、ありがとう。

東日本大震災・・・(5)

2011年04月16日 | 東日本大震災
読書をしているうちに・・・・なんともう午前3時ではないですか!!
ブログチェックだけと思ってPCを立ち上げましたが、今日の出来事をちょっとだけ記事に残しておきます。
仕事の合間に近所の被災した行きつけの床屋さんで3カ月切れなかった髪(震災の影響だけか??)をバッサリとやってきました。
仕事の合間というよりは・・・ぶっちゃけバリバリ仕事中でした・・・。でも、本当に切りに行く暇がなくて、今しかない!!と朝イチで・・・。
ファミレスの店長たるもの、やはりフードビジネスマンらしくアピアランスは常に維持しておかなければなりませんし。
その帰り、実家により母とプチ家族会議。
家に突っ込んだ例の中型バスの撤去には、なんとお隣秋田県の自動車解体業者さんが担当されるとか・・・。
しかも、家の解体と同時でないと撤去出来ないとの事。前回ブログの記事を見てもお分かりの通り、おそらくこのバスを引っこ抜けば、家の2階部分は脆くも崩れ去るでしょう・・・。それを嫌っての家屋の解体と同時に撤去するとの事。それは、業者さんにも危険というリスクと隣り合わせで仕事はさせたくありませんしね。
納得しました。
しかしながら、自宅の解体の日付は未だ決まっておりません。行政も頑張ってくれていると思うので、自分の主張だけも言ってられませんし、気長に待つ事にします。

東日本大震災・・・(4)

2011年04月06日 | 東日本大震災
東日本大震災から25日が経過しました・・・・。

結局母の安否が確認できたのは、前回のブログ記事にて実家を撮影した直後の3月12日、地震発生の翌日でした。
最寄りの避難所 宮古市立磯鶏小学校に立ち寄ったところ、普段避難時には絶対にクルマを使わない母が、しっかり小学校の校庭の一番奥(つまり早いうち避難してきた)にクルマを停めているではないですか・・・。
めずらしい・・・。
取りあえず、顔は見ていないが一安心。その後、体育館にて再会。ほっとしました。
どうしてクルマで避難したか?を問い詰めると、
「一度、徒歩で家を離れたが、近所の人がみんなクルマで避難していたみたいだったから、戻ってクルマで逃げてきた・・・」との事。
このような曖昧な判断で家に戻り、津波に飲み込まれたという人が近所にも数名・・・。非常に危険な行為です。
その後、避難所には毎日のように差し入れを持って訪れ、母の様子を見に通う日々となりました。
私のアパートに引っ越して来い!と話すも、実家が心配だから、取りあえず2週間程度ここ(避難所)で生活をするとの回答。
まぁ、母がそう望むなら・・・。そこで今後の日程を家族会議し、来週より実家の片付けを開始する事で意思統一。実家の建物は例の大型バスの影響で家が傾いており、住み続けるには危険で使い物にならない為、最終的には解体することで話がまとまった。
そこから地獄の2週間がスタートしました。
まずは、家の中の瓦礫・ヘドロ・家具・家電製品・家業である民宿で使用していた膨大な什器(一般家庭の約20倍はあったでしょう・・・)の撤去作業。最初は母と二人でスタートした撤去・掃除も、近所で被害に遭っていない皆様が日替わりボランティアで手伝いに来て頂き、日に日に綺麗になって行きました。


【玄関 津波直後】


【玄関 復興後】


【座敷 津波直後】


【座敷 復興後】


【奥座敷 津波直後】


【奥座敷 復興後】

当然、これだけの瓦礫・家具を外に運び出せば、外は大変な事になります・・・。















ここまでで約7日間の作業日数を要しました。電気の復旧が遅れている為、日没前には実家を離れないと辺りは真っ暗になり大変な事になってしまいます・・・。普段。ファミレスのキッチンでフライパンばかり振っている私にとっては、10年ぶりの現場作業的な日々。筋肉痛と腰痛に見舞われる毎日。でもこれが、長~い復興のほんの一部の始まりにしか過ぎないのでしょう・・・。

東日本大震災・・・(3)

2011年04月03日 | 東日本大震災
今回から、撮影した画像を少しづつUPして行きたいと思います。
今の自分の住まいは幸い海から遠い為幸い被害はありませんでしたが、問題は海から500mの場所にある実家。
同じ宮古市内の磯鶏 石崎(ソケイ イシザキ)地区にあり、家業である民宿を営んでおります。
屋号は”民宿 みかわ”
今、実家に住んでいるのは、私の62歳の母一人のみ。
同じ市内に住んでいたものの、私は3年前に所帯を持ち新居(アパート)を構えたばかりで、母とはここ3年程別居状態でした。
私も仕事を持っていた為、母が一人で家業の民宿を切り盛り状態。

3月11日の地震発生時、職場を離れた私は、母の安否ばかりが気がかりで・・・。
当日夜、停電の状態で震度5強の余震が続くなか、不安がる嫁と息子を家に残し、実家の磯鶏にクルマを走らせました。
あと2キロ程で実家到着というところで検問。「これ以上は進入禁止です」と警察が検問中。
「母が一人家に取り残されているかも知れない・・・」
と告げると、しぶしぶ通してくれました。
しかし、そこから先さらに1キロ程進んだあたり、国道45号線沿いの宮古市民文化会館付近。
見るも無残な光景・・・。停電中の町内は当然真っ暗・・・。闇夜に浮かび上がるのは、私のクルマのライトに照らされた道路を覆い尽くす材木と瓦礫の残骸・・・。徒歩で歩くにもリスクが大きすぎる。その日は諦めて家に帰る事に。
翌日、改めて実家に向けて出発。通行規制は一時的に解除されていた。
実家まであと100m・・・相変わらずクルマでは近づけなかった。
路駐したまま走って実家へ・・・。

以下、実家付近の画像です。

<<3月12日現在の画像>>

【実家裏のJR山田線陸橋より】 観光バスが実家を直撃・・・


【表側から先ほどのバスの裏側を撮影】


【実家の表通り】


【玄関ドア・・・何処へ行ったのやら・・・】


【手前のこたつ・・家の中を約5m流されていました】


【さらにその奥】


【ひどい・・・】


【足の踏み場が無い・・・とはまさにこの事だと思う・・・】


【先ほどのバスを家の中から…】

どこから、どう手をつけていいのやら・・・
気が遠くなります・・・。

東日本大震災・・・(2)

2011年03月25日 | 東日本大震災
東日本大震災から2週間が経ちました。
日々の岩手県宮古市内の状況をブログアップできれば良かったのですが、ネット環境はおろか、一般電話回線も不通状態となっていた事から、残念ながら毎日のアップは出来ませんでした。
当ファミレスは震災時3月11日PM14:48分、30名程度のお客さまが店内にいらっしゃいました。
地震の直後は私はキッチンに居り、ディナー前のスタンバイをしておりました。


激しい地なりと共に襲った激しい揺れ、震度5強の揺れにキッチン内の什器は次々と床に叩きつけられるように棚から落下し、激しい音を立て割れていきました。
天井に埋め込んだエアコンのフィルターは次々と落下し、キッチンの側面を覆うように設置されたステンレス製のダクトフードも、その激しい揺れに同調するようにバコンバコンと激しい音をたてていました。
ホールのお客様の避難誘導は当時ホールに居たO副店長に任せ、私は11か所あるガスの元栓を落下物を交わしながら必死に締めてまわりました。つーか、死ぬかとおもいました。
全員避難したかと思いきや、なんと休憩室に従業員が居るではありませんか!!「早く出て!!」と叫び、従業員も避難完了。その後、お客様用のトイレを確認し、全員の避難を確認してから、最後に店舗を出ました。
「これは津波が来るな・・・」と思っていた数分後、市内の防災無線から「大津波警報が発令されました。直ちに避難して下さい・・・」
生まれて37年、そのうちの27年宮古に住んでいて、初の「大津波警報」、これは街がどうにななってしまうという何とも言えない不安に襲われました。
外に避難して頂いたお客様には一時店内に入ってもらい、お会計できるお客様にはお会計してもらって直ぐに帰宅して頂きました。その後、火のもとを再度確認してからブレーカーを落とし、鍵をかけて我々も避難する事に・・・。
それから1週間近く顔を見ない従業員もいました。私はアパートに戻り、妻と子供に身支度をさせて家族3人で近所の団地(高台)へ2時間程避難しました。
しかし、その時点で街があんな事になっていたとは、当時は知るよしもありませんでした・・・。
次回に続きます。

東日本大震災・・・(1)

2011年03月23日 | 東日本大震災

shigeの住む街・・・岩手県宮古市は、この度の東日本大震災にて多大な損害を被りました。
まさに、生と死の境・・・。
平成23年3月11日(金) 午後14:46分 その悪夢は始まりました。
当時、ファミレスにて通常業務であったshigeは、ちょうどランチのピークが終わり、同系列の別の飲食店に移動しようとしている矢先でした。
グラグラグラグラ・・・・。
ゴゴゴゴゴゴーー
という地鳴りと同時に立って居られなくなるくらいの強い地震 震度5強に見舞われました。
今回の揺れはいわゆる”横ゆれ”というやつで、建物には被害が少ないが、横揺れの場合建物内部の家具や什器の被害が多い場合が多いですが、当方ファミレスも例外ではなくかなりの数の什器(食器)が被害に合いました。

もっと早くにブログアップしたかったのですが、本日3月23日(水) 地震発生から12日後、ようやく電話回線が復旧しブログアップと相成りました。

今後、この震災における市内の被害状況や復興していく様子をこのブログを通じてアップしていければと考えております。
皆さんに伝えたい事は沢山ありますが、まずはこの度お見舞い頂きました皆様にこの場をお借りしてお礼申し上げます。

また、この度の震災において、被災されお亡くなりになった方、愛しい家族・肉親を亡くされた方、家屋が倒壊され住む場所さえ失った方々・・・・心よりお悔やみ申し上げます。


shige