結局母の安否が確認できたのは、前回のブログ記事にて実家を撮影した直後の3月12日、地震発生の翌日でした。
最寄りの避難所 宮古市立磯鶏小学校に立ち寄ったところ、普段避難時には絶対にクルマを使わない母が、しっかり小学校の校庭の一番奥(つまり早いうち避難してきた)にクルマを停めているではないですか・・・。
めずらしい・・・。
取りあえず、顔は見ていないが一安心。その後、体育館にて再会。ほっとしました。
どうしてクルマで避難したか?を問い詰めると、
「一度、徒歩で家を離れたが、近所の人がみんなクルマで避難していたみたいだったから、戻ってクルマで逃げてきた・・・」との事。
このような曖昧な判断で家に戻り、津波に飲み込まれたという人が近所にも数名・・・。非常に危険な行為です。
その後、避難所には毎日のように差し入れを持って訪れ、母の様子を見に通う日々となりました。
私のアパートに引っ越して来い!と話すも、実家が心配だから、取りあえず2週間程度ここ(避難所)で生活をするとの回答。
まぁ、母がそう望むなら・・・。そこで今後の日程を家族会議し、来週より実家の片付けを開始する事で意思統一。実家の建物は例の大型バスの影響で家が傾いており、住み続けるには危険で使い物にならない為、最終的には解体することで話がまとまった。
そこから地獄の2週間がスタートしました。
まずは、家の中の瓦礫・ヘドロ・家具・家電製品・家業である民宿で使用していた膨大な什器(一般家庭の約20倍はあったでしょう・・・)の撤去作業。最初は母と二人でスタートした撤去・掃除も、近所で被害に遭っていない皆様が日替わりボランティアで手伝いに来て頂き、日に日に綺麗になって行きました。
【玄関 津波直後】
【玄関 復興後】
【座敷 津波直後】
【座敷 復興後】
【奥座敷 津波直後】
【奥座敷 復興後】
当然、これだけの瓦礫・家具を外に運び出せば、外は大変な事になります・・・。
ここまでで約7日間の作業日数を要しました。電気の復旧が遅れている為、日没前には実家を離れないと辺りは真っ暗になり大変な事になってしまいます・・・。普段。ファミレスのキッチンでフライパンばかり振っている私にとっては、10年ぶりの現場作業的な日々。筋肉痛と腰痛に見舞われる毎日。でもこれが、長~い復興のほんの一部の始まりにしか過ぎないのでしょう・・・。