兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

白波五人男の盗賊・日本左衛門

2022年03月04日 | 歴史
白波五人男『問われて名乗るもおこがましいが、生まれは遠州浜松在、十四の年から親に放たれ、身の生業も白波の、沖を超えたる夜働き、盗みはすれども非道はせじ、人に情けを掛川から、金谷をかけて宿々で、義賊の噂、高札に・・・』と大見えを切った大泥棒「日本駄衛門」は実在の盗賊「日本左衛門」がモデルである。

日本左衛門は尾張藩遠州地区の七里役(藩専用の飛脚で、7里を走る)足軽・濱島富右衛門の子として生まれた。若い頃から放蕩を繰り返し、20歳のとき、親に勘当された。七里役は業務の邪魔たてする者は3人まで切り捨て御免の許しがあるほどの暴れん坊でもあった。

23歳頃から盗人稼業に入り、200名ほどの盗賊団の頭目になる。近隣諸国の裕福な商人、大地主に狙いを定めて荒らし回った。その被害は14件、2,622両余りと言われている。

容貌は、175cmほどの長身、鼻筋がとおり色白で、顔に5cmほどの切り傷があった。盗みに入るときには、周辺の家に見張りをたて、道筋には番人を手配して押し入り、支配者の異なる旗本知行地を転々と逃亡するという用心深さであったという。

押し込むときは、手下20~40人を使い、提灯30帳を灯し、押し入った家族全員を縛り上げ、金の置き場所へ案内させ、強奪した。時には嫁や下女たちまで狼藉したとあり、かなり荒っぽい盗賊団であった。

日本左衛門本人は直接に手を下さず、時には金箱を砕いて包みから、難儀ある者に施した。盗みはすれど非道はせずと手下に説いたとも言われている。

(本名)  濱島 庄兵衛
(生没年) 享保4年(1719年)月日不詳~延享4年(1747年)3月11日
      盗賊で全国指名手配、京都町奉行に自首、獄門。享年29歳

延享3年(1746年)9月、被害にあった遠州の庄屋が江戸北町奉行能勢頼一に訴訟する。老中堀田正亮の命により幕府から火付盗賊改方頭の徳山秀栄が派遣された。これにより盗賊団の幹部数名は捕縛されたが、頭目の日本左衛門は逃亡した。

被害者の庄屋は遠州大池町(現・掛川市)大百姓・宗右衛門。盗みだけならまだよかった。運のつきは当家の息子の若嫁を家人の前で強姦したこと。あまりの仕打ちに宗衛門は地元の役人に届け出る。地元役人は普請調達金の寄付を渋ったのを根に持ち取り上げない。覚悟を決めて、江戸の奉行所に直接訴え出た。

この騒動で、地元掛川藩城主の小笠原長恭は城下治安の責任を問われ、福島県の棚倉へ転封、近隣の相楽藩の本多忠如も福島県の泉に移された。

日本左衛門は、伊勢国古市で自分の手配書が出回っている噂を聞き、さらに遠国の安芸国宮島まで逃亡を図る。しかし宮島でも自分の手配書を目にして、もう逃げ切れないと観念した。当時、手配書は親殺し、主殺しの重罪に限られ、盗賊としては日本初の手配書であった。

自首を決意すると、伊勢に戻り、馴染の遊女「奴の小万」に別れを告げる。女に金の包みを渡し、自分の亡き後の弔いを頼んだ。その後、内宮、外宮を詣で、京都に向かった。

日本左衛門は延享4年(1747年)1月7日、京都町奉行永井丹波守尚方(大坂町奉行牧野信貞の説もある)に自首した。その時の装束は、三条の床屋で月代をあたらせ、上着は繻子の小袖、下着は羽二重の白無垢、印籠は金蒔絵、脇差は銀細工と言う。

大坂町奉行牧野に自首したとき、今日は休日だから明日来いと言われ、翌日、自首したとも言われている。捕縛後、江戸に送られ、北町奉行によって小伝馬町の牢に繫がれた。

お裁きは市中引き回しの上、獄門とされ、仲間の中村左膳(左膳は京都の公家に仕える元武士であった。)6名とともに処刑された。処刑は同年3月11日、遠州鈴ケ森(三本松)刑場で、その首は遠江国見附(現・磐田市付近)に晒された。

その首を愛人「お万」が盗み出し、金谷宿、川会所跡の南にある宅円庵に葬った。今も宅円庵には日本左衛門の首塚がある。その地には「月の出るあたりは弥陀の浄土かな」の句碑が残っている。

日本左衛門が盗賊を働いたときは八代将軍吉宗の時代。当時は享保の改革が進められ、庶民に倹約と重税が求められ、息苦しい生活が余儀なくされていた。そのため、表立って権力に反する日本左衛門が義賊として庶民に持て囃されたのであろう。

辞世の句 「押し取りの人の思いは重なりて、身に首縄かかる悲しさ」

ブログ内に下記関連記事があります。よろしければ閲覧ください。

義賊・鼠小僧次郎吉


下の写真は島田市金谷の大井川鉄道・新金谷駅近く「宅円庵」にある日本左衛門の首塚。
大井鉄道新金谷駅の横に立派な藤棚がある。4月下旬から見頃を迎える。


下の写真は磐田市内の見性寺にある日本左衛門の墓。さらし首が盗まれた後の身体、衣服が埋められた。



写真は日本左衛門が処刑され、首が晒された刑場。「三本松の仕置き場」である。江戸の鈴ケ森にならい「遠州鈴ケ森刑場」と呼ばれた。
現在は横を通る国道1号線拡張工事で道路の下に埋まってしまった。



下の写真は刑場の案内看板。見附宿は東海道の浜松宿の一つ江戸寄りの宿場。番所、国分寺があり、行政の中心だった。
京からきて最初に富士山が見えたため「見附」と呼ばれた。


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