プチヲタがここ最近で一番ハマった作品の「総集編」の登場です!
今回放映される総集編の正式タイトルは「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX The Laughing Man」 Σ( ̄□ ̄;)長っ!。
で、面倒なので以後は本作を「SAC」と表記します。
「攻殻機動隊」は士郎正宗の漫画が原作ですが、その名を広く世に知らしめたのは、あの押井守が監督した劇場版アニメ「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」でした。
この作品がアメリカで「(月間?)ビデオ・セールス第1位」に輝いたことがちょっとしたニュースになり、多くの人間が「攻殻機動隊」という作品の存在を知ることになったのです。
ただ、「攻殻機動隊」という作品は「ヲタクがヲタクに向けて描いたヲタクの書」であり、あの「トップをねらえ」の原作者にして今は中途半端な「文化人もどき」に成り下がってしまった岡田斗司夫をして「自分より頭の良い人間が描いたマンガを初めて見た」と言わしめた、ヲタたち絶賛の欄外解説(漫画の「コマ」の外に、内容に関する考証や解説がびっしりと書き込まれている)などは、「一般人」はもとよりプチヲタのような「なんちゃってヲタ」さえも拒絶するのに十分なものでした(笑)。
で、その「小難しくクセのある」原作を、話を難解にすることで有名(笑)な押井監督が映像化した「GHOST IN THE SHELL」は、予想に違わず思いっきり「パンピー排斥」な方向に突っ走っていて、プチヲタも見事に弾き出されたクチです(T_T)。
とにかくこの時までの「攻殻機動隊」のスタンスは、原作も映画も「ついて来られるヤツだけついて来い!」という姿勢丸出しで、とても「一般的」な作品とは呼べないシロモノでした。
しかし、そこは世界に冠たる「アニメ大国・日本」です。
プロダクションI.Gの若手スタッフたちが、この「ヲタクの書」をキチンとしたエンタテインメントへと作りかえてくれました。
それが本作「SAC」です。
ではここから、プチヲタが考える「劇場版」と「SAC」の違いについて述べていきましょう(原作漫画は読み始めて数分で速攻ギブしたので、プチヲタには何も語る資格がありません。^_^;)。
まず物語の「主題」ですが、「劇場版」の難解なそれをプチヲタなりに解釈すると、「人の魂(思考)を電脳化によって電気的に存在させることが可能ならば、血の通った肉体を持つことにどれほどの意味があるのか?」といった、かなり「哲学的」なものだったような気がします。
でも人間は自分の意志で、即ち「主体的」に肉体へ魂を置いているわけではありませんから、この問いかけはまさに観念的な「哲学」であって、同様の疑念なり思索なりを持っている者以外には、「だからどうした?」程度の感想しか与えることができません。
対して「SAC」は主題を「笑い男事件」という事象に置き、「観念」ではなく「現実」に物語の足場を築いています。
つまり「劇場版」が「人間劇」であるのに対し、「SAC」は「政治劇」というスタンスなのです。
そして物語の舞台を「現実」に据えることで、更に「攻殻機動隊」の「最大の長所」にして「最大の短所」をストーリーに組み込みやすくしました。
「攻殻機動隊」の長所にして短所。
これがあるがゆえに「ヲタク」は本作を讃え、これがあるがために「一般人」が本作を忌避するモノ。
それは「精緻なSF考証の上に構築された、(ある意味)見事な世界観」です。
劇場版は明らかにこの「世界観」を偏重する形で作られていましたが、「SAC」では「世界観はあくまでも背景でしかない」という基本に立ち返り、その上で「精巧な設定は描写としてビジュアル的に活用する」との手法をとりました。
例えば大量のデータを処理するシーンだと、「○×テラバイトの伝達速度を持つ回線が・・・」と説明するのではなく、何体ものオペレーター・アンドロイドが複数のコンピュータを立ち上げ、目まぐるしくモニター上を流れる文字列や、次々に開くウインドゥを処理する姿を描写することで「超高速回線」の存在を「物語世界の中の現実」として観る者に「直観的」に理解させるわけです(ここを台詞で説明してしまうと「テラバイト」の意味が分からずにフェードアウトする視聴者とかが出てくる可能性もある)。
ちなみに余談ですが、「ザ・コア」という映画の劇中、通信回線の容量が足りない云々の話が出る場面で、主人公がヲタクな助手に向かい(容量が足りないなら)「普段お前がセーラームーンを観ている回線があるだろう。アレを使え」みたいな台詞(英語で本当に「セーラームーン」って言ってます)を吐き、プチヲタ的には大ウケでした(たしかにヲタクが満足できる画質で動画を観るなら「ブロードバンド」しかない。笑)。
さて、話を戻しましょう。
上で説明したように、「SAC」では原作が確立した「世界観」を主にビジュアルを用いて表現しているため、「一般人」でもほぼストレスフリーで物語を楽しめます。
で、そのストーリーもごくごくオーソドックスなものなので、ほとんどの人が素直についていけるでしょう。
では最後に、本作「SAC」が劇場版と異なりえた理由について、プチヲタなりの私見をひとつ。
思うにこれは「テクノロジー」に対する「製作者」サイドの「認識」の差ではないかと。
つまり原作者や押井監督の世代にとって、現在のテクノロジーとは未来からやってきた「注視すべき興味の対象」であり、故にそれに固執してしまう。
他方、若手クリエイターにとっての「現代テクノロジー」とは、物心ついたときから傍らにある、取りたてて執着すべきものでもない存在であって、どのようなテクノロジーも所詮は人間の営みの「背景」でしかないという認識。
ま、手っ取り早い言い方をすれば、「ビデオが出来てTVの視聴スタイルが変わった!まったくビデオとは何と素晴らしい発明であることか!」と思ってる世代と、「ビデオ?単なる録画の機械でしょ?」としか思わない世代の「差」ってコトです(所謂ジェネレーション・ギャップってヤツですナ)。
今回放映される総集編の正式タイトルは「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX The Laughing Man」 Σ( ̄□ ̄;)長っ!。
で、面倒なので以後は本作を「SAC」と表記します。
「攻殻機動隊」は士郎正宗の漫画が原作ですが、その名を広く世に知らしめたのは、あの押井守が監督した劇場版アニメ「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」でした。
この作品がアメリカで「(月間?)ビデオ・セールス第1位」に輝いたことがちょっとしたニュースになり、多くの人間が「攻殻機動隊」という作品の存在を知ることになったのです。
ただ、「攻殻機動隊」という作品は「ヲタクがヲタクに向けて描いたヲタクの書」であり、あの「トップをねらえ」の原作者にして今は中途半端な「文化人もどき」に成り下がってしまった岡田斗司夫をして「自分より頭の良い人間が描いたマンガを初めて見た」と言わしめた、ヲタたち絶賛の欄外解説(漫画の「コマ」の外に、内容に関する考証や解説がびっしりと書き込まれている)などは、「一般人」はもとよりプチヲタのような「なんちゃってヲタ」さえも拒絶するのに十分なものでした(笑)。
で、その「小難しくクセのある」原作を、話を難解にすることで有名(笑)な押井監督が映像化した「GHOST IN THE SHELL」は、予想に違わず思いっきり「パンピー排斥」な方向に突っ走っていて、プチヲタも見事に弾き出されたクチです(T_T)。
とにかくこの時までの「攻殻機動隊」のスタンスは、原作も映画も「ついて来られるヤツだけついて来い!」という姿勢丸出しで、とても「一般的」な作品とは呼べないシロモノでした。
しかし、そこは世界に冠たる「アニメ大国・日本」です。
プロダクションI.Gの若手スタッフたちが、この「ヲタクの書」をキチンとしたエンタテインメントへと作りかえてくれました。
それが本作「SAC」です。
ではここから、プチヲタが考える「劇場版」と「SAC」の違いについて述べていきましょう(原作漫画は読み始めて数分で速攻ギブしたので、プチヲタには何も語る資格がありません。^_^;)。
まず物語の「主題」ですが、「劇場版」の難解なそれをプチヲタなりに解釈すると、「人の魂(思考)を電脳化によって電気的に存在させることが可能ならば、血の通った肉体を持つことにどれほどの意味があるのか?」といった、かなり「哲学的」なものだったような気がします。
でも人間は自分の意志で、即ち「主体的」に肉体へ魂を置いているわけではありませんから、この問いかけはまさに観念的な「哲学」であって、同様の疑念なり思索なりを持っている者以外には、「だからどうした?」程度の感想しか与えることができません。
対して「SAC」は主題を「笑い男事件」という事象に置き、「観念」ではなく「現実」に物語の足場を築いています。
つまり「劇場版」が「人間劇」であるのに対し、「SAC」は「政治劇」というスタンスなのです。
そして物語の舞台を「現実」に据えることで、更に「攻殻機動隊」の「最大の長所」にして「最大の短所」をストーリーに組み込みやすくしました。
「攻殻機動隊」の長所にして短所。
これがあるがゆえに「ヲタク」は本作を讃え、これがあるがために「一般人」が本作を忌避するモノ。
それは「精緻なSF考証の上に構築された、(ある意味)見事な世界観」です。
劇場版は明らかにこの「世界観」を偏重する形で作られていましたが、「SAC」では「世界観はあくまでも背景でしかない」という基本に立ち返り、その上で「精巧な設定は描写としてビジュアル的に活用する」との手法をとりました。
例えば大量のデータを処理するシーンだと、「○×テラバイトの伝達速度を持つ回線が・・・」と説明するのではなく、何体ものオペレーター・アンドロイドが複数のコンピュータを立ち上げ、目まぐるしくモニター上を流れる文字列や、次々に開くウインドゥを処理する姿を描写することで「超高速回線」の存在を「物語世界の中の現実」として観る者に「直観的」に理解させるわけです(ここを台詞で説明してしまうと「テラバイト」の意味が分からずにフェードアウトする視聴者とかが出てくる可能性もある)。
ちなみに余談ですが、「ザ・コア」という映画の劇中、通信回線の容量が足りない云々の話が出る場面で、主人公がヲタクな助手に向かい(容量が足りないなら)「普段お前がセーラームーンを観ている回線があるだろう。アレを使え」みたいな台詞(英語で本当に「セーラームーン」って言ってます)を吐き、プチヲタ的には大ウケでした(たしかにヲタクが満足できる画質で動画を観るなら「ブロードバンド」しかない。笑)。
さて、話を戻しましょう。
上で説明したように、「SAC」では原作が確立した「世界観」を主にビジュアルを用いて表現しているため、「一般人」でもほぼストレスフリーで物語を楽しめます。
で、そのストーリーもごくごくオーソドックスなものなので、ほとんどの人が素直についていけるでしょう。
では最後に、本作「SAC」が劇場版と異なりえた理由について、プチヲタなりの私見をひとつ。
思うにこれは「テクノロジー」に対する「製作者」サイドの「認識」の差ではないかと。
つまり原作者や押井監督の世代にとって、現在のテクノロジーとは未来からやってきた「注視すべき興味の対象」であり、故にそれに固執してしまう。
他方、若手クリエイターにとっての「現代テクノロジー」とは、物心ついたときから傍らにある、取りたてて執着すべきものでもない存在であって、どのようなテクノロジーも所詮は人間の営みの「背景」でしかないという認識。
ま、手っ取り早い言い方をすれば、「ビデオが出来てTVの視聴スタイルが変わった!まったくビデオとは何と素晴らしい発明であることか!」と思ってる世代と、「ビデオ?単なる録画の機械でしょ?」としか思わない世代の「差」ってコトです(所謂ジェネレーション・ギャップってヤツですナ)。
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