スカパー漂流記

CS放送「スカパー」で放送されている番組について語れればいいなぁと思う次第でございまして・・・

File-063 天上天下/~#18 (for AT-X)

2005年07月24日 | Weblog
 あざとい(笑)。
 しかし本作の「あざとさ」は、前回ご紹介した「奥さまは魔法少女」のそれとは少しばかり趣が違います。
 物語的には「無意味」ながら、マーケティング的(笑)には「意味」のある「露出過多」路線をとる両作。
 戦略思想では根幹を同じくするこの二つの作品の決定的な違いは、一体どこにあるのか?(あ、そこの方、「ンなコトどーでもいいじゃん!」とか言わないように。それを言われると、プチヲタは一言も返せませんから・・・。^_^;)

 結論からズバリ言ってしまうと、これらの作品は「見せ方」、すなわち視聴者に対する「露出過多」演出のスタンスが異なります。
 具体的に言うなら、「奥さまは魔法少女」が「おら、テメーらはコレが見たいんだろ!見せてやっから好きなだけ見ろよ!」的な、ある種「投げやり」気味なお色気演出であるのに対し、「天上天下」のそれは「ほら、見て見て!好きなだけ見てね!」的主体性(笑)というか、ぶっちゃけ作者自身が「(命令されたからではなく)自分が好きだから描いてる」といった意志が垣間見えるように感じるワケです。

 何故そのように思うのかと言うと、これはもう単純に「天上天下」の(原作漫画の)作者の作品が、ほとんど例外なく「露出過多」な作風だからです。
 もっとも、PTAの偏屈オバハンよろしく、そのテの「読者サービス」を「悪い」などという気はプチヲタには毛頭ありません(てか、「悪い」はずがありません。笑)。
 漫画家の中でもトップクラスであろう作者の画力で「読者サービス」をされたら、そりゃ読者は嬉しくてタマらんでしょうし、ね(笑)。

 ただ反面、プチヲタは本作の作者が、「読者サービス」としてお色気シーンを描いているのか、お色気シーンが描きたくて「物語」を創っているのかが分からなかったりもします。
 今回取り上げた「天上天下」は、表面的には「格闘・武術モノ」と「伝奇モノ」をツッパリ・テイストで混ぜ合わせた体裁をとっていますが、正直なところ「月並みなストーリー」「薄っぺらい人物描写」「寒すぎるギャグ」の三重苦に嫌気し、もはや「観賞打ち切り」目前モードです。

 中でも一番問題だと思えるのが「薄っぺらい人物描写」で、登場人物は誰も彼も含みありげに登場するワリにはその実「バカ」か「キチガイ」のどちらかで、(プチヲタ的には)マトモと思えるキャラが一人もいません。
 端的な例を挙げれば、自分の両親を殺した「兄」と普通に生活しているヒロインの一人などがその象徴で、作者としては「親殺し」という事例で「兄」の狂気を描写したつもりなのでしょうが、プチヲタからすると、そのような「兄」と何事もなかったかのように同居しているヒロインも、やはりどこか「壊れている」人間にしか見えないわけです。

 こういうズサンとも思えるほど適当な「キャラ作り」や、「練られている」様子の全くない「月並み」な物語を眺めていると、先に述べた「ひょっとしたら作者はサービスシーンが描きたいがためにマンガを描いているのでは?」という疑念が頭を過ぎる、と・・・。
 「アダルト」作品ならともかく、本作のような少年(青年?)マンガにおいて「サービスシーン」はあくまで「サービス」であって、物語の本質とは基本的に「別枠」と目されて然るべきものだとプチヲタなどは思うのですが・・・。

 もっとも、プチヲタのこの「見解」を、そのテの「サービスシーン」満載のアホ作品を見倒して「食傷気味」になっている「腐れアニヲタ」の、我が身を省みない恥知らずな戯れ言だと言われてしまえば、それはそれで反論のしようも無かったりするのですけど・・・(苦笑)。

File-062 奥さまは魔法少女/~#02 (for キッズステーション)

2005年07月22日 | Weblog
 あざとい!
 頭から尻尾の先まで「あざとさ」で溢れまくっていますナ、コレ(笑)。
 でもって、製作者はその「あざとさ」を充分認識した上で、「本作はあざといだけじゃなく、キチンと面白い物語も考えてありますよ!」と主張している気配が濃厚で、その甚だしい勘違いっぷりが「痛々しさ」も醸し出していたりします(^_^;)。

 いや、ホント、プチヲタの大好きな「あずまんが大王」を監督された方の作品ですのであまり厳しいコトは言いたくないのですが、ぶっちゃけ観ていて「情けなく」なってきましたよ、この作品は・・・。
 そんなに「大きいお友達」に媚びることが大事なのか~!ンなコトは「あかほりさとる」のヤローにやらせとけ~!・・・って叫びたくなりましたから、マジで(笑)。

 プチヲタも「ヲタ」の端クレですから、「萌えアニメ」がダメ!嫌い!許せない!・・・ってワケでは全然ないのですが、こうも次から次へと「優しいということだけしか取り柄のない平凡な主人公が、意味もなくモテる」という理解不能なクソ話ばかり観させられた日にゃ、もういい加減にしてくれって気分にもなろうというもの。
 てか、実際なりまくりです!(T.T)ハァー。

 以前、ネット上で「GONZO(アニメの製作スタジオ)の作品は、絵はスゴく良いけど話がツマラない」という意見を読み、プチヲタも激しく共感した覚えがあるのですが、業界全体がこうも「ハーレム系クソ・ラブコメ」に傾倒しまくってしまうと、「話がツマラなくても、オリジナリティを大事にしているGONZO作品の方がナンボかマシ」と思えるようになってくる今日この頃・・・。
 まったくこの「腐った」風潮は一体いつまで続くのでしょうかねぇ。

 そもそも、プチヲタが一番ムカつくのは、前述した「優しいということだけしか取り柄のない平凡な主人公が、意味もなくモテる」というアフォ丸出しのシチュエーションです。
 アニメと言わずマンガや映画でも、「主人公」というのは観ている側が最も感情移入するキャラクターなのですが、昔のそれは「成績は悪くても、正義感が強くてケンカも強い」とか、「背が低くてもスポーツ万能」とか、観る側に素直な「憧憬」を持たせる人物であるのが常(なので、人を見る目がある「賢くて美人」なヒロインだけが主人公に好意を寄せる、と)でした。
 それがいつの頃からか(おそらく「めぞん一刻」の五代クンあたりからではないかと思われるのですが)、主人公は「観る側の人間と等身大の、平凡なキャラ」でも良いということになり、いまや特にラブコメ系アニメの主人公は「凡人に非ずば主人公に非ず」といったトレンドに覆われつくす始末。

 これは「ヒネくれ者」特有の穿った見方かもしれませんけど、現在主流の「平凡主人公ハーレム」作品って、思いっきりユーザーを小馬鹿にしているとしか思えないんですよ。
 敢えてダイレクトな表現をさせてもらえば、「これだけお前らキモいアホヲタどもの願望に沿った作品をリリースしてやったんだ。四の五の言わずキャラクター商品とDVD買え!そしたらまた次の作品を作ってやるからよ。もっともキャラを変えるだけで、ストーリーとかはほとんど同じだがな。ま、お前らアホヲタにゃストーリーなんて関係ないだろ?魔女っ娘・メイド・妹あたりをルーチンで出しときゃ、それで満足する連中だからな」・・・てなカンジでしょうか。

 で、本作はそういう「悪意」が具現化されたとおぼしき「あざとさ」で覆われています。
 てか、プチヲタには本作のヒロインが「えろ~く」変身するたび、BGMとして「DVD買え!」という呪文が聞こえてきます(笑)。

 ヲタの皆さん!もうそろそろこのテのクソ作品に「NO!」と言っても良い頃合いではありませんか?
 でないと業界全体が、マジで修復不可能な地盤沈下に陥りそうで、プチヲタとしてはとっても不安なのですけど・・・。

File-061 ガイアの夜明け/サイバー攻撃との闘い (for 日経CNBC)

2005年07月19日 | Weblog
 添付画像は「反韓サイト」から拾ってきた記事(同サイトでは「朝日新聞のサイバーテロの容認・礼賛記事」と紹介)です。
 前回の「閑話休題」の話題と併せると、まるでウチが「反韓キャンペーン」を張っているように思われるかも知れませんが、実のところあまり深い意味はありません(そんなコトしなくても、朝鮮人はそのうち自爆してドン底まで凋落すると思ってますから。笑)。

 てか、煽るように記事を添付しておいて言うのも何ですが、プチヲタはこの記事を読んで、取りたてて腹立たしいとは感じませんでした。
 むしろ「17歳の子供」の主張として、微笑ましいほど「純真で真っ当」だとさえ思いました。
 「日本の政治は腐りきっている!もはや我慢できない。政治家や役人どもを絞首台に引きずり上げ、奴らを皆殺しにすべきだ!」
 日本の高校生も、このくらいのことをガンガン言えばいいんですよ。だって、高校生なんですから。若いうちにこういう無茶を言わずして、何の「青春」でしょうか(笑)。
 そして、そういう子供に対して大人は「世の中の現実」を諭せばいいのです。
 「社会というのは、そんなに単純なものでは無いのだよ」・・・と。
 
 ところが添付の記事には、その「大人の役目」の部分がごっそり欠落しています。
 この記事を書いた記者の頭が「房」と呼ばれるような子供だったのか、それとも「朝日新聞」というメディアの「国賊」的DNAが問題なのかは分かりませんが、とにかくこれでは「サイバーテロの容認・礼賛記事」と言われても仕方ありません(もっとも、元からそういう意図で書かれたという可能性もありますけどね。笑)。

 プチヲタみたいな輩が偉そうに言うのも何ですが、この記事には
「気に入らないから攻撃して破壊する、というのは社会のルールとしては通用しない。あるサイトの主張に異を唱えるのであれば、異論を掲げるサイトを立ち上げ、正々堂々と論戦を交わすのが筋である」
 という「大人」の一文(理屈)が決定的に欠けています。
 
 さて、前振りが長くなってしまいましたが、要は何が言いたいのかと申しますと、「サイバー攻撃」というヤツは、実は(添付記事の高校生が良い例であるように)「あまり深く考えないで、半ば面白半分でその行為に及ぶ者が多い」ということです。

 今回の「ガイアの夜明け」では「カカクコム」へのサイバー攻撃とその顛末が報じられていましたが、おそらくご覧になった方の大半は「どうしてカカクコムが攻撃の標的にされたのか?また、その攻撃に何の意味があるのか?」ということが理解できなかったのではないでしょうか。
 番組中「7月6日に容疑者と思われる大学生が逮捕された」というテロップが流れていましたが、プチヲタなどはそれを見て「きっと軽い気持ちでしでかした、愉快犯なんだろうなぁ」と感じました。
 しかし、番組の中で苦闘していた「カカクコム」の社員たちからすれば、その動機はともかく、犯人が「会社の存立さえ危うくするテロを仕掛けた憎むべきテロリスト」であることに変わりはありません。
 そしてこの「加害者と被害者の意識のギャップ」こそが、「サイバー攻撃」の最大の問題点であると言えます。

 極論すれば、反日教育を受けた中国のアホ高校生が、漫然と「日本憎し!」の思いに駆られ、日本の社会システムの基盤をハッキングし、結果を顧みずに攻撃を仕掛けて、日本社会に甚大な被害をもたらすことだって無いとは言い切れません。
 そうなった時、果たして「日本社会が大きな被害を受けました」→「中国で犯人の高校生が逮捕されました」→「一件落着」となるでしょうか?
 少なくとも上の公式が逆になったら、たとえ「高校生」の犯行だったとしても、中国政府は絶対に納得しないでしょう。

 もちろん、国の基盤を揺るがしかねない重要なシステムには厳重なセキュリティが講じられているとは思います。
 でも、ネットの安全性というか「堅牢性」は、実際のところ我々が思っているよりもはるかに脆弱なようです。
 だってこの「goo」ブログにしても、記事のアップ時にやたら「エラー」が出ますもん(て、最後は皮肉オチかよ・・・。^_^;)
    

閑話休題06 正気か?狂気か?サイワールド

2005年07月16日 | Weblog
 ちょっと前の話題になりますが、プチヲタ御用達の経済ニュース番組「WBS」で、韓国の「サイワールド」なるサイトのサービスが紹介されていました。
 そのサイトはココ「goo」と同じく無料HPなどを会員に提供しているらしいのですが、何と「原則として実名でHPを運営するサービス」とのこと。

 日本でも最近「SNS」という実名公開形式のサービスが流行しつつあるみたいですが、現行会員からの「招待」がないと新規入会できない「SNS」に対して、「サイワールド」は完全にオープンであり、爆発的に普及した韓国では国内に1200万人もの会員がいるとか・・・。

 ネット上に「実名」(その他に住所や電話番号なども普通に登録でき、言うまでもなく画像だって好きにアップできる)を晒している人間が1200万人!?
 そのニュースを見たとき、「このニュースに驚く自分がおかしい」のか、それとも「何の疑問も持たずプライバシーをネットに晒す隣国の国民1200万人がおかしい」のか、真剣に悩みましたよ。
 だって、フツー晒しますか、自分の実名や写真をネット上に?

 プチヲタは「変人」で「ヒネクレ者」ですが(笑)、ことプライバシーに対する感覚は「(日本人として)ノーマル」だと思っているので敢えて断言しちゃいますが、隣国の国民は明らかに「変」です。
 もし「変」という言葉が問題ならば、こう言い直しましょう。
 連中は間違いなく「バカ」です。
 ちょっともうバカの針が振り切れすぎていて、開いた口が塞がりません。

 このような暴言を耳にすれば、韓国人は必ずこう言い返すでしょう。
「オレたちは好きでやってるんだ!日本人のお前にとやかく言われる筋合いはねぇ!」・・・と。
 それはまったくもってその通りです。
 てか、プチヲタは別に韓国人に「アンタら、いくらなんでもネットに実名はヤヴァイよ。絶対に後々問題が起こってくるから、ヤメた方がいいって」と助言するつもりもありません。
 韓国人は韓国人で好きにやったらいいんですよ、ホントに。
 で、後で勝手にモメてください・・・ってカンジです。
 
 ここでプチヲタが問題にしたいのは、日本の一番近くにある隣国の国民が、ネット上に平気でプライバシーを晒すような「人種」であるということ。
 これを「フランク(気の良い)」な国民性と評する向きもあるようですが、プチヲタから見れば「浅慮」以外の何物でもありません。
 
 例えば皆さんの友人が実名でHPを作り、住所や電話番号をネット上にアップしたとします。
 ま、友人とはいえ他人のやることですから、原則それについてとやかく言うことはできませんよね?
 でも、その友人があなたとの「2ショット」写真をネットに貼るとなったら別問題です。
 仮に皆さんが学生だとして、友人が自分の学校名を晒した上で、「学校の友人○×君と」てなコメントを付けてその写真をネットに上げたら、その時点であなたの顔と在籍する学校の名が、「どんなヤツが見ているか分からない」ネット上に流れるわけです。
 そんなコトされて、皆さんは平気ですか?

 プチヲタはダメです。例え実害がなくても、ンなコトされた日にゃキレまくりですよ(^_^;)。
 んで、隣国にはプチヲタをキレさせる行為を「平気」でする人間が1200万人もいる、と。

 ちなみに「WBS」の取材班が、その「サイワールド」に登録していた韓国在住の日本人留学生の元にアポなし取材をしたところ(その留学生は本名の他に在籍している学校名も書き込んでいた)、相手はひどく驚き、すぐにネット上から自身の個人データを削除していました(ま、当然の反応というか、賢明な判断ですナ)。
 
 また番組中で印象的だったのは、サービス提供元社員(だったと思う)の次のような言葉です。
「本名を出すことで、ネット上の行動にも自ずとモラルが生まれる」
 けだし名言、見事な詭弁です。
 アメリカには銃規制を妨げる「銃規制反対理論」に以下のようなものがあります。
「銃を規制すれば、それに従う善良な市民からのみ銃が奪われ、悪党だけが銃を振り回すようになる。そうなれば不利益を被るのは善良な市民だけだ。だから銃の規制には賛成できない」
 これは詭弁ではありません(無論、必ずそうなるという「事実」でもありませんが・・・)
 そしてネット上での「匿名性」は「銃」と同じであり、それを「手放した」してしまえば、「匿名性」という「銃」を持った連中にいいように蹂躙されてしまう危険性は少なくないのです。

 さて、結論。
 人間同士「話せば分かる」と言いますが、その言葉を口にした歴史上の人物は、直後に「問答無用」の一言を受けて殺されました(・・・よね?)。
 ネットに進んでプライバシーを晒す国の国民と我々は果たして「話せば分かりあえる」のか?
 正直プチヲタは、「話してもムリかもなぁ」って気分になりかけていたりします(笑)。

File-060 あかほり外道アワー らぶげ/~#01 (for AT-X)

2005年07月12日 | Weblog
 「あかほりさとる」
 理性あるアニヲタ、また志あるクリエイターにとって、多分その名は禍々しくも忌々しいモノであることでしょう(笑)。
 以前プチヲタはこのブログで某超大物「企画屋」氏について、「金になるネタを嗅ぎ分けるコトに関しては天才的な才能を持つ卑劣漢」だと書いたことがありますが、アニメ業界においてまさにそのポジションにいるのがこの「あかほりさとる」氏です。

 ごく最近の作品で言えば、「サクラ大戦」(厳密にはマイナー作品の「バージンフリート」もパクってるかも)のテイストをまんま頂いちゃった感じ丸出しの「らいむいろ戦奇譚」なんてモノもありますが、とにかく同氏の手掛ける作品は中国人民も真っ青の「パクリ風味」が香ばしく漂っています(笑)。

 こと「創作」という意味合いにおいて、同氏の作品には「独創」の二文字は感じられません。
 おそらく本人にも自分が「クリエイター」であるという意識は無いのでしょう。
 プチヲタが知る限り、この方の作品はどれも「流行の絵を描く絵描きさんにエッチげな女の子キャラを描かせ、それに方々からパクってきた人気作品のエッセンスを加えて、どんなバカにでも理解できる下世話でお約束な安っぽいストーリーを付け足した」ようなモノばかりです。
 言っちゃなんですが、とても「クリエイター」を自負するような人間の「創る」作品には見えません。

 でも、悲しいかなウケてしまうんですナ、そういう作品が。
 実際、同氏の収入はスゴいらしいです(「あかほりさとるは都内にビルを持っている」みたいなコトを、某大物ヲタク評論家がTVで妬ましそうに言っていましたから。笑)。
 前述したような、ほろ酔い気分でハナクソでもほじくりながら書いてるような作品で大金を稼がれた日には愚痴の一つも言いたくなるのが人情ってモノでしょうが、「あかほり」ブランドのパチモノ商品がかなりの利益を生み出しているのは厳然たる事実。
 これはもう認めるしかありません。

 てか、実はコレってかなりスゴいことなのです。
 だって「エッチ系萌えキャラ+パクり+下世話な三流ストーリー」という、ある種だれにでも真似できそうな「売れる方程式」を使って稼いでいるのに、他の何者の追随も許さず、あまつさえ今もそのワンパターンな作風で稼ぎ続けているのですから・・・。
 やはりこの方には、尋常ならざる「金になるネタを嗅ぎ分ける」嗅覚というか才能が備わっているとしか思えません。

 今回とり上げた「らぶげ」は、まさに「あかほりワールド」全開というか、観ているこちらが恥ずかしくなるほど「パロディの皮を被った」パクりのオンパレードで、ほとんど一片の「オリジナリティ」も感じられませんでした。
 プチヲタ的には、「もはやクソ作品と呼ぶのも馬鹿馬鹿しい!」と吐き捨てた「こいこい7」と並ぶ激烈駄作にしか見えないのですが、「あかほり」ブランドの神通力は侮れません。
 ひょっとしたらまた「プチブレイク」(元がパチモンなので、さすがにあかほり作品に「大ブレイク」は無い様子)して、マトモなクリエイターたちが僻みの涙を流すことになるやも・・・。

 ホント、考えたくはないですが、もしこの激烈駄作がブレイクするようなら、「あかほりさとる」氏はマジで天才だと認めるしかありませんナ。  

File-059 まかせてイルか (for キッズステーション)

2005年07月07日 | Weblog
 アニヲタではあるけれど、プチヲタは「おじゃ魔女ドレミ」とかには全く興味がありません。
 てか、どうして「ドレミ」に「大きいお友達」があれほど熱狂するのか理解できない人種です。
 なので、本作もその絵柄から完全に「ノーマーク」でした。

 ところが昨日、ホント偶然に本作を観てしまいました。
 プチヲタは「(観るべき価値のある作品は)とりたてて意識しなくても、必然として観る運命にある」という持論を持っているのですが、これはまさにその典型でした。
 そして本作はおそらく、プチヲタ以外の人にとっても「観るべき価値」のある作品だと思います。
 
 それでは、本日はいつもと異なり、物語の順を追って本作を紹介していきましょう。

 まず冒頭は、水上バイクに乗った小学生の女の子(主人公の一人「海」)が漁船を追いかけているシーンから始まります。
 あり得ないシチュエーションではありますが、ここの「作画」は気合いが入っており、プチヲタはフツーに見入ってしまいました(ここがツマらなかったら、おそらくプチヲタはチャンネルを変えていたでしょう)。
 で、立て続けに残る主人公「空」と「碧」に関する紹介的エピソードがチャチャっと「見事に」織り込まれ、開始から3分後、オープニングのクレジットが画面に流れます。
 そして、そのクレジットの最初に刻まれていたのが、当ブログでも絶賛した「フルーツバスケット」の監督「大地丙太郎」氏でした。
 この方の作品には面白いものが多く、プチヲタは「へぇ、大地さんが原作もしてるんだ。だったら面白いかもな」と考え、とりあえず観続けることに・・・。

 オープニングの後、小気味よいギャグを取り混ぜながら、主人公3人組は学校にも行かず「何でも屋」稼業をやってお金を稼いでいるということが「巧みに」紹介され、その主人公たちのもとに「彼女たちが名目上在籍している小学校のクラスメイト(学級委員)」が訪ねてくることで、まず最初の山場が訪れます。
 やって来た「学級委員」は、主人公たちに「学校に行くこと」の素晴らしさや意義を滔々と語りかけますが、主人公たちは「(仕事が)忙しいから学校には行けない」と取りあいません。
 して、そんな折りもおり、主人公たちの「何でも屋」に客がやって来ます。
 主人公たちはニコやかに「お客様」を迎え入れますが、その客の依頼内容は何と「登校拒否の息子を学校に行くようにして欲しい」というもの。
 話の流れから何となくそんな予感はしていたのですが、実際にそうだと分かったら分かったで「たしかにネタとしては面白いけど、大地さんも難しい題材を選んだもんだなぁ」と思わずにはいられませんでした。
 「イジメ」や「登校拒否」といったことは、問題が深刻かつ複雑なので、軽々には扱いにくい題材です。
 しかもここまで観た限りにおいて、本作は「シリアス」物には見えません。
 どう考えてもミスマッチな題材に思えました。

 かようなプチヲタの不安をよそに、しかし物語は進行していきます。
 後に「リク」というあだ名の付く「登校拒否」少年は、主人公たちの説得(言うまでもなく、その内容は先般の「学級委員」が語った内容そのものです。笑)を「教科書に書いてあるコトしか教えない学校なんかに行って何の意味がある」という、これまたよくある論法で一笑に付し、おそらくほとんどの方が予想していると思いますが(笑)、学校を「否定」して自立している主人公たちの仲間に加えてほしいと言い出します。
 で、快諾とはいかないまでも、とりあえず主人公たちは「リク」を受け容れるコトに・・・。

 ここから終盤までの展開はもう100%「お約束」通りです。
 ただ「学校に行くのがイヤ」という甘ったれ少年は、「生活」という現実を背負って生きる主人公たちの日常に圧倒され、ついにはそれに耐えきれず、「こんな生活を続けるくらいなら学校に行ったほうがマシだ!」とケツをまくります。
 この時プチヲタは、「それって単に楽な生き方に戻るって主張やん。こんな結末でホンマにええと思ってるんかな、大地サンは・・・」と訝りました。
 話の結論としてはあまりに安易で、しかも陳腐です。
 でも、やはり大地監督は違いました。ラストのラストで、ちゃんとした結末を用意していたのです。

 リクが家に戻る別れ際、主人公たちが彼に言います。
「俺たちはハミ出しちまったけど、お前は学校にいけるじゃん、普通に。・・・幸せじゃん」と。
「俺たちはコレが幸せなのよ。毎日が楽しいのよ」と。
 その言葉を聞いてリクは少し驚き、やがて項垂れたまま母親とともに家路につきますが、プチヲタが思うにこの描写の中には、賢いリクが主人公たちの言葉の中に「彼女たちの本音」を見たという意味合いが込められているのでしょう。

 本当はどれだけ彼女たちが「ハミ出したくなどなかったか」
 本当はどれだけ彼女たちが「学校に行きたいか」
 本当はどれだけ彼女たちが「普通であることに憧れているか」
 そして「俺達はコレが幸せなのよ」と言った笑顔の裏に、どれだけの「涙」と「虚勢」が隠されているのかを・・・。

 人を「泣かせる」物語を作るのは、比較的簡単なことです。
 物語の中の登場人物に「悲劇」や「苦難」を与えて涙を流させれば、大体において観る側にも涙させるコトができます。
 けれど、登場人物が笑っているのに、観る者の涙を誘う物語はなかなか創れません。
 それができるのは本当の「クリエイター」だけです。
 そして大地監督は間違いなく、本物の「クリエイター」です。

 もちろん上の解釈はプチヲタ個人のモノであって、全ての人に共通するものでは無いでしょう。
 「学校」が嫌いで仕方がなかったヒトから見れば、主人公たちの生活はまさしく理想なのかもしれません。
 でも、少なくとも学校に「ネガティブ」な印象を持ってないヒトには、子供時代から「学校」というものの存在を奪われることがいかに悲劇的なことか、ご理解いただけるのではないでしょうか。
 
 さて、では最後にもう一言だけ。
 本作を観てかなり「ウルウル」きた(笑)プチヲタは、「さーて来週のサザエさんは?」とばかりに予告を待っていました。
 ところが、ついに予告を拝むことはできませんでした。
 そうです。この作品は30分オンリーの短編だったのです。
 創るのが難しい「短編」(「短編」はホントーに難しいです。皆さんだって単に「読書感想文を書け」と言われるのと、「読書感想文を200文字以内で簡潔に書け」と言われるのだったら、後者の方が圧倒的に難しく感じるでしょ?)でこれほどの作品を書き上げるとは・・・。
 やはり大地監督は「要チェックや!」です(←もうじき「スラムダンク」が始まるもんで、つい・・・^_^;)

File-058 アルマゲドン (for ムービープラス)

2005年07月05日 | Weblog
 プチヲタ得意の「迎合」・・・いや「時事」ネタつーコトで、今回は「アルマゲドン」を取り上げます(笑)。
 てか、「時事ネタならディープ・インパクトの方だろう!」というツッコミもあるかとは思いますが、ぶっちゃけプチヲタは「ディープ・インパクト」の内容に関してほとんど覚えていません(タイトルに反して「ノー・インパクト」な映画だった、と・・・。^_^;)。
 もっとも映画としての「出来の悪さ」ならどちらも五十歩百歩なのですが、キャスティングの差がそのままインパクトの差になったってカンジです(やはり「腐ってもB・ウィリス」ってコトですナ)。

 さて、冒頭でいきなり結論を言ってしまいましたが、この作品、ハッキリ言って内容はヒドいです。
 ハリウッド得意の「誇大宣伝」で客を集め、「1800円も払ったんだから感動しなきゃ損!」と考えてくれる、映画会社のとっては本当に「神様」みたいな「お客様」にはそれなりにウケたようですが、プチヲタのように「神ならざる凡庸の徒」である客からは悪評フンプンでした。

 ちなみに本作の内容を知らない方のためにストーリーを悪意に満ちて(笑)要約すると・・・
 ある日、地球に「こっそり」接近してくる小惑星が発見され、その大きさから「この小惑星が地球にぶつかったら、人類はあぼーんだ!」という結論に到達。
 そこで「偉大なる」アメリカ政府はグレートな人々を結集して事態の打開策を検討。
 最初こそ「地球上で最強の破壊力を持つ核ミサイルを撃ち込んでも、小惑星が大きすぎて表面を焦がす程度のダメージしか与えられない。破壊するなら、小惑星の地下深くに核爆弾を埋め込み、内部から崩壊させるしかない!」とマトモな議論を繰り広げるものの、会議の途中で酒が入ったのか、それとも素でバカなのか、「地中に核を埋め込むなら穴掘りのプロが必要だな。そうだ!石油採掘の職人で一番ウデの良いヤツをシャトルに乗せて小惑星に送り込もう!」というあり得ない結論に辿り着く(この時点ですでに物語は破綻)。
 そこでグレート・アメリカン政府に選ばれたのがB・ウィリス演じる採掘屋のオヤジ。
 で、このオヤジが、娘にちょっかい出した部下にショットガンを向けるような「キチガイ」・・・否「ナイスガイ」なんですワ。
 ここからはもう説明は不要でしょう。
 オヤジ以下「娘にちょっかい出した部下」を含めた穴掘り職人軍団が宇宙に飛び出し、最後は件の部下を娘のためにオヤジが助け、オヤジ自身はついで(笑)に地球も救うため、その身を犠牲にして小惑星とともに宇宙のチリとなって消える・・・と。

 いや~、ヘドが出るくらい感動的って言うか、マジでヘドしか出ませんな、この物語は。
 え?良い話じゃないかって?
 ま、単純に観ればそうかもしれませんね(実際、感動していた人間も少なからずいたみたいだし・・・)。

 でも、プチヲタ的にはやっぱ「ヘドが出る」映画です。
 「こういう風に作っとけば、アホな観客は感動して大泣きしよるな、ガハハ!」といった、製作側の客を小馬鹿にした姿勢がアリアリと見て取れて、本気でムカつきます。
 いくら「分かりやすい」ことがハリウッド映画の身上とはいえ、「分かりやすい」ことと「デタラメ」は全然違うのですから・・・。

 穴を掘るには「穴掘りのプロ」がいる?
 だったら核爆弾を扱うには「核爆弾のプロ」が必要でしょうに。
 ところがその部分は「簡単に扱える装置にしたから、そこは素人でも大丈夫」みたいな設定をこじつけて、とにかく重要なのは「穴掘りのプロ」ってトコだけ(その穴を掘るのも実質的には「機械」がやってるつーの!)。
 これはどういうコトかと言うと、早い話が「ブルーカラー」、即ちこの映画の「コア・ユーザー」になるであろう人々に媚びてるだけのことなんですよ。
 極論すれば「アメリカ人であれば穴掘り職人でも世界を救うことが出来る!オー、素晴らしきかなアメリカ。アメリカ万歳!」って話です。

 これは別に穿った見方じゃありません。
 だって普通に考えれば、「穴掘り職人」なんてマイナーなことこの上ない職種の人間に「人類の命運を託す」って話の方が甚だ不自然じゃないですか?
 そもそもこの物語の主張に従えば、宇宙ステーション建設のために必要なのはNASAの宇宙飛行士じゃなくて、建設会社の作業員ってコトになりますよね?

 普通の人間が、普通に本作の基本設定を元にストーリーを考えたら、「穴掘り職人」が宇宙に行くという発想はまず出てこないでしょう。
 また、才能ある脚本家がシナリオを書いても、このように「ふざけた」物語にはならないと思います。
 この映画のクソみたいなストーリーは、客をナメてる製作者が、その客に媚びようとしたがゆえに生まれたモノとしか考えられません。
 だからヘドが出るのです。

 ここからはプチヲタの戯れ言になりますが、もしプチヲタがこの「ふざけた」プロットのまま脚本を書かざるを得なくなったとしたら、少なくとも次の点は以下のように変更するでしょう。

 まず、政府が「三顧の礼」をもって主人公を迎えるということはしません。
 地球の危機をニュースで知った主人公が、「小惑星を破壊するには内部から崩壊させるしかない」と聞き、「だったら世界一ウデの良い俺に穴を掘らせろ!」と自ら政府に売り込むようにします(もちろん政府は相手にしません。でも主人公を「主体的」に物語へ関わらせるのは大事なことですし、何より「この先どうやって主人公が希望を叶えていくのか?」という興味を観客に持たせることができます)。

 次に、政府が選抜したNASAのエリート宇宙飛行士たちが小惑星破壊の為に宇宙に出向き、小惑星には到着したものの、穴を掘るのに手間取り、それが原因で全員が殉職します(これにより「穴を掘る」という行為自体に価値を持たせることができます)。

 作戦の失敗によってシャトルが失われ、アメリカは打つ手をなくしますが、ロシアに「極秘開発されたスペースシャトルのコピー機」があることが発覚。アメリカはロシアに共同作戦を持ちかけますが最初は拒否され、苦肉の策として「アメリカの宇宙技術の全面供与」を約束して交渉が成立(これにより「アメリカだけが世界を救える」という傲慢さが打ち消されます)。

 最初の作戦の失敗を受け、政府は「作戦のキモは穴を掘る作業にある!」と考えるようになり、かつて門前払いした主人公に助力を求め、主人公はこれを快諾します。

 そして、ロシアの宇宙飛行士&アメリカの(理想を言えば「世界の」)穴掘り職人が「いがみ合い」ながらタッグを組み、やがて一致団結して作戦に臨み、小惑星を見事破壊する。

 別に取りたてて斬新な要素も無いですし、意表をつく展開もありません。
 だとしても、オリジナルのそれよりは「真っ当」な、少なくとも破綻の少ない筋書きになっていると思うのですが・・・(^_^;)。

 もっとも「真っ新」な状態で脚本を一任されたら、プチヲタはめっちゃ破天荒なドラマを書きますよ!
 例えば小惑星破壊の方法として、軍の「生体兵器研究所」で生み出された「怪獣」(キングギドラみたいな、凶悪そうなヤツ)を使うとか。
 で、この怪獣が自由奔放なキャラクターで、小惑星より先にニューヨークを火の海にしたりして、役に立つ(=人類の味方になる)のかどうか全然分からない、と。
 もちろん言うまでもなく、この映画の監督は「R・エメリッヒ」で決まりですよ(爆笑)。

File-057 勇者王ガオガイガーFINAL GGG/~#02 (for AT-X)

2005年07月03日 | Weblog
 以前にも取り上げた「勇者王ガオガイガー」ですが、今回はAT-Xで絶賛放送中のOVA版「ガオガイガーFINAL」をご紹介!

 ・・・と思っていたら、違いました。コレって「FINAL」じゃありません。 
 「FINAL」をベースにしてTV用に再編集した作品、その名も「勇者王ガオガイガーFINAL・GRAND GLORIOUS GATHERING」でした。 Σ( ̄□ ̄;)今回も長っ!

 しかし、ま、どうでもいいんです、そんなことは。
 それよりも次回の、来週の第3話(OVA版の第2話に該当)ですよ!
 もしTV版「ガオガイガー」のファンで、けれど「FINAL」は観ていないという方がいらしたら(「FINAL」を置いてないレンタルビデオ屋って多かったみたいだから、結構たくさんいるのでは?)、とにかく第3話は必見です!

 主人公・ガイが乗る新型機「ガオファイガー」と、ダブルキャスト(同格主役)たるマモルの操る旧型機「ガオガイガー」が京都の地で激突する場面は、近年のロボットアニメの中では出色の出来映えで、中でも双方が「同時に合体」するシーンは、プチヲタ個人としては間違いなく「今まで観た中で最高にカッキー合体シーン」だったと断言できます!
 てか、ファンなら100%「燃え」ます!

 で、その「至高の合体」から「小競り合い」を経て、両者が互いの「究極奥義」をぶつけ合うクライマックスまでは、ファンを惹きつけてやまないガオガイガー的「燃えエッセンス」が凝縮されており、絶対無敵(笑)に良いカンジ。
 暑苦しいまでにベタな展開は、好きな人間にはタマらないと思いますヨ。
 
 ただ「FINAL」、即ちOVA版の方は、この序盤のエピソードを頂点にして物語は尻すぼみ的にツマらなくなっていきます。
 再編集をしているとはいえ、話の骨子は変えることはできないでしょうから、たぶん本作も来週の第3話以降はダメっぽくなっていくことでしょう・・・(TへT)。

 だから尚更、未見のファンの方には来週の第3話を、「ガオガイガー」最後の輝きを観て欲しいと・・・。
 またファンでない方にも、「ガオガイガー」の暑苦しい魅力を分かって欲しいと・・・(笑)。
 そしてこの作品以後なぜか「迷走」を続け、最近トンと見かけなくなった本作の演出家には、ノッてた時代の自分を思いだして欲しいと・・・(^_^;)。

 二体の「勇者王」が雌雄を決する瞬間、主人公・ガイが叫ぶ台詞。
「最後に勝つのは勇気ある者だああああぁぁぁぁぁ~~~~~~~~!!!!」
 大袈裟な絵を用い、半ばギャグ化して表現しているケド、これらは照れ隠しで、製作者は明らかにマジ!
 でも、マジだからこそ暑苦しい演出も心地良い。

 結局「ヲタ」であれ「一般人」であれ、なんだかんだ言ってもこういうシチュエーションが好きなんだよね、男って(笑)。 

File-056 攻殻機動隊S.A.C総集編 (for スカパー183ch)

2005年07月01日 | Weblog
 プチヲタがここ最近で一番ハマった作品の「総集編」の登場です!
 今回放映される総集編の正式タイトルは「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX The Laughing Man」 Σ( ̄□ ̄;)長っ!。
 で、面倒なので以後は本作を「SAC」と表記します。

 「攻殻機動隊」は士郎正宗の漫画が原作ですが、その名を広く世に知らしめたのは、あの押井守が監督した劇場版アニメ「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」でした。
 この作品がアメリカで「(月間?)ビデオ・セールス第1位」に輝いたことがちょっとしたニュースになり、多くの人間が「攻殻機動隊」という作品の存在を知ることになったのです。

 ただ、「攻殻機動隊」という作品は「ヲタクがヲタクに向けて描いたヲタクの書」であり、あの「トップをねらえ」の原作者にして今は中途半端な「文化人もどき」に成り下がってしまった岡田斗司夫をして「自分より頭の良い人間が描いたマンガを初めて見た」と言わしめた、ヲタたち絶賛の欄外解説(漫画の「コマ」の外に、内容に関する考証や解説がびっしりと書き込まれている)などは、「一般人」はもとよりプチヲタのような「なんちゃってヲタ」さえも拒絶するのに十分なものでした(笑)。
 
 で、その「小難しくクセのある」原作を、話を難解にすることで有名(笑)な押井監督が映像化した「GHOST IN THE SHELL」は、予想に違わず思いっきり「パンピー排斥」な方向に突っ走っていて、プチヲタも見事に弾き出されたクチです(T_T)。
 とにかくこの時までの「攻殻機動隊」のスタンスは、原作も映画も「ついて来られるヤツだけついて来い!」という姿勢丸出しで、とても「一般的」な作品とは呼べないシロモノでした。

 しかし、そこは世界に冠たる「アニメ大国・日本」です。
 プロダクションI.Gの若手スタッフたちが、この「ヲタクの書」をキチンとしたエンタテインメントへと作りかえてくれました。
 それが本作「SAC」です。

 ではここから、プチヲタが考える「劇場版」と「SAC」の違いについて述べていきましょう(原作漫画は読み始めて数分で速攻ギブしたので、プチヲタには何も語る資格がありません。^_^;)。
 まず物語の「主題」ですが、「劇場版」の難解なそれをプチヲタなりに解釈すると、「人の魂(思考)を電脳化によって電気的に存在させることが可能ならば、血の通った肉体を持つことにどれほどの意味があるのか?」といった、かなり「哲学的」なものだったような気がします。
 でも人間は自分の意志で、即ち「主体的」に肉体へ魂を置いているわけではありませんから、この問いかけはまさに観念的な「哲学」であって、同様の疑念なり思索なりを持っている者以外には、「だからどうした?」程度の感想しか与えることができません。

 対して「SAC」は主題を「笑い男事件」という事象に置き、「観念」ではなく「現実」に物語の足場を築いています。
 つまり「劇場版」が「人間劇」であるのに対し、「SAC」は「政治劇」というスタンスなのです。
 そして物語の舞台を「現実」に据えることで、更に「攻殻機動隊」の「最大の長所」にして「最大の短所」をストーリーに組み込みやすくしました。

 「攻殻機動隊」の長所にして短所。
 これがあるがゆえに「ヲタク」は本作を讃え、これがあるがために「一般人」が本作を忌避するモノ。
 それは「精緻なSF考証の上に構築された、(ある意味)見事な世界観」です。
 劇場版は明らかにこの「世界観」を偏重する形で作られていましたが、「SAC」では「世界観はあくまでも背景でしかない」という基本に立ち返り、その上で「精巧な設定は描写としてビジュアル的に活用する」との手法をとりました。
 
 例えば大量のデータを処理するシーンだと、「○×テラバイトの伝達速度を持つ回線が・・・」と説明するのではなく、何体ものオペレーター・アンドロイドが複数のコンピュータを立ち上げ、目まぐるしくモニター上を流れる文字列や、次々に開くウインドゥを処理する姿を描写することで「超高速回線」の存在を「物語世界の中の現実」として観る者に「直観的」に理解させるわけです(ここを台詞で説明してしまうと「テラバイト」の意味が分からずにフェードアウトする視聴者とかが出てくる可能性もある)。

 ちなみに余談ですが、「ザ・コア」という映画の劇中、通信回線の容量が足りない云々の話が出る場面で、主人公がヲタクな助手に向かい(容量が足りないなら)「普段お前がセーラームーンを観ている回線があるだろう。アレを使え」みたいな台詞(英語で本当に「セーラームーン」って言ってます)を吐き、プチヲタ的には大ウケでした(たしかにヲタクが満足できる画質で動画を観るなら「ブロードバンド」しかない。笑)。

 さて、話を戻しましょう。
 上で説明したように、「SAC」では原作が確立した「世界観」を主にビジュアルを用いて表現しているため、「一般人」でもほぼストレスフリーで物語を楽しめます。
 で、そのストーリーもごくごくオーソドックスなものなので、ほとんどの人が素直についていけるでしょう。
 
 では最後に、本作「SAC」が劇場版と異なりえた理由について、プチヲタなりの私見をひとつ。
 思うにこれは「テクノロジー」に対する「製作者」サイドの「認識」の差ではないかと。
 つまり原作者や押井監督の世代にとって、現在のテクノロジーとは未来からやってきた「注視すべき興味の対象」であり、故にそれに固執してしまう。
 他方、若手クリエイターにとっての「現代テクノロジー」とは、物心ついたときから傍らにある、取りたてて執着すべきものでもない存在であって、どのようなテクノロジーも所詮は人間の営みの「背景」でしかないという認識。
 
 ま、手っ取り早い言い方をすれば、「ビデオが出来てTVの視聴スタイルが変わった!まったくビデオとは何と素晴らしい発明であることか!」と思ってる世代と、「ビデオ?単なる録画の機械でしょ?」としか思わない世代の「差」ってコトです(所謂ジェネレーション・ギャップってヤツですナ)。

File-055 ラストサムライ (for スターチャンネル・プラス)

2005年06月27日 | Weblog
 邦画の大作時代劇「天と地と」に続き、今回は洋画の大作時代劇「ラストサムライ」を紹介(T・クルーズと渡辺謙、ご両人の新作も話題となっていて、取り上げるタイミングとしてもグーですナ。笑)。

 さて、この「ラストサムライ」ですが、プチヲタの周囲では非常に評判が良く、観た人間の大半が「すごく面白かった!」と絶賛していました。
 ヲタ属性のない「一般」の方々の映画評というのはおしなべて「甘い」ので、普段のプチヲタなら「ふーん」てなカンジでそのままスルーするのですが、多くの人が異口同音に賛辞の言葉を述べるのを聞くと、さすがにヒネくれたプチヲタでも気になります。
 
 で、観てみました。
 いや~、プチヲタは自分が本当に「逸般人」(←この当て字を考えたヒト、スゴいと思いません?)なのだと痛感しましたよ。
 この作品の一体どこがそんなに面白いのでしょう?
 言っちゃなんですが、月並みなコトこの上ない凡作ですよ、コレ。

 たしかに物語としてキチンと一貫した流れがあり、特に文句をつけるような「不具合」は見当たりませんが、逆説的に言うと本作には「物語に破綻がない」ということ以外に評価すべき点がありません。
 
 「(これまでのハリウッド映画とは違い)日本人の姿が尊厳を持って描かれている」みたいな評価もあったようですけど、それは「文化の相違」に対する理解度の話であって、映画自体の評価に組み入れるなとは申しませんが、「日本人が良く描かれている=良い映画」という図式を振り翳すのはハッキリ言ってみっともないです。
 「ハリウッドが日本人をカッコよく描いてくれた。嬉しい!」みたいなノリは、ぶっちゃけ「負け犬」や「奴隷」並みのメンタリティですよ(ま、「実際に日本の立場なんてそんなモノだろう」と考えているなら、それはそれで仕方ないですけど)。

 とにかくプチヲタ的には、本作の「映画」としての出来に対する評価は「最高でも並。最低でも並」です(いや、タワラちゃんがTVで会見してたもんで、つい・・・・^_^;)
 てか、ホントにそういう感想しか出てきません。
 泣けもせず、笑えもせず、感動もせず。さりとて大いなる不満も無く・・・。
 まさしく凡作の見本のようにプチヲタには思えるのですが・・・。

 だから、今回はもう「ネタ切れ」です(・・・て、まだ作品の内容に全く言及してへんがな。笑)。
 暇で暇でしょうがないなら観ても損はありませんが、積極的に観るべき作品でもないでしょう。
 ただ、これだけは覚えておいてください。

 本作は、「一般」の方々の間では極めて評価の高い作品でした。

 あとの判断は皆さんにお任せします(うーん、我ながら姑息な「逃げ」だなぁ。笑)。  

File-054 天と地と (for 日本映画専門チャンネル)

2005年06月26日 | Weblog
 セクハラ騒動や麻薬所持などをしまくって「角川書店」を追われたヤク中の御曹司が、まだ同社の「将軍様」としてブイブイいわせていた頃に撮った超大作時代劇(たしか制作費50億とか・・・)の本作。
 個人的には元「将軍様」に対してネガティブな感情しか持ち合わせていないプチヲタですが、この作品の「ある部分」の演出に関しては、実は高く評価していていたりします。

 その「ある部分」というのは、本作の「キモ」でもある「川中島の合戦」シーンにおいて、上杉軍と武田軍を「赤」と「黒」の二色に、まさに言葉の通り「色分け」し、彼我の違いがビジュアル的に一目瞭然になるよう工夫したことです(正確には「緑」の軍勢も出てきたりするのですが、今回はあえて無視します)。

 一見すると単純な事のようですが、ことさら「無駄」にリアリティを追求しようとする「悪癖」のある邦画界において、これは画期的な試みだったと言ってよいでしょう(単に「将軍様」がクスリでラリっていただけかもしれませんが・・・。笑)。
 というか、本来「合戦」のような場面を大がかりなモブシーン(群衆シーン)として撮る場合、激突する両者に何らかの差異を付けておかなければ、乱戦になった時に双方の見分けがつきません。
 しかし、これまでの邦画(特に時代劇)では、常に「同じような格好をした」者同士による、視覚的には分かりづらいことこの上ない合戦シーンばかりでした。

 その原因を探っていけば、おそらく「生真面目」(ゆえにリアリティを重んじる)で「均質性を尊ぶ」(ゆえにいつの時代も皆が同じ様な格好をしていた)という日本人の民族的特質に辿り着くのでしょうが、だとしても(実写)邦画界における「病的」なまでの「リアリティ追求癖」は、映画という「娯楽作品」を作る上で大きなマイナス要因になっていると、もういいかげん気付くべきです!

 その点ハリウッドは流石ですよ。
 あのSF超大作「インディペンデンス・デイ」を思い出してみてください。
 月の1/4の大きさという「チョー巨大UFO」が地球のすぐ真横に来るまで発見されないとか、その格段に進んだ文明を持つUFO同士が地球の人工衛星を使って互いに交信するとか、まぁツッコミ始めたらやめられない止まらない(笑)。
 「SF」のクセに一片の「サイエンス」要素も含まれないという、徹底した「娯楽性」の追求ぶりには脱帽しました(ま、劇場で観た時には監督のローランド・エメリッヒに本気で殺意を抱きましたけどネ。笑)。

 でも、そんなクソ映画でも、世界の市場で結構稼いだんですよね、コレが。
 ハリウッドの理屈は単純明快!
 「リアリティ?そんなモノに拘ってたら、世界の誰が観ても即座に内容が理解できる作品なんて撮れねぇよ!」・・・ってコトです。
 全ての映画がハリウッド流になるなんてのいうのはゾッとしませんが、いつまで経ってもハリウッドの「ハ」の字も学ばない邦画界の姿勢は更に俗悪です。

 カンヌで賞を取ったとか、ベルリンで絶賛されたとか、そういうオタメゴカシで自分を偽り、慰めるのはもう終わりにしないと。
 そもそも国内で評価されてない(=客が入らない)作品が評価されて、本気で嬉しいの?
 「世界のキタノ」?・・・冗談でしょ?
 あのヒトが正統な評価を受けたのは、ハリウッドで撮った「BROTHER」だけ。映画の聖地に行けば、「世界のキタノ」もゴミ監督の一人でしかない(もちろん、先述のバカ映画を撮ったエメリッヒ監督にすら遠く及ばない)。
 それが事実であり、それが現実。

 さて、物語としての「天と地と」は平凡で、おそらく多くの人はこの作品に何の感慨も持たないはず。
 でもラストの合戦シーンだけは、冒頭に挙げた理由から観てもらいたいような気もしたり・・・。
 特に大画面TVなんかを持ってらっしゃるお大尽サマなどにあらせられましては、その威力を試すには打ってつけですヨ!(笑)

File-053 機動戦士ガンダムSEED DESTINY/~#12 (for キッズステーション)

2005年06月23日 | Weblog
 やれ「パクリ!」だの「回想ばかりで話が冗長!」だのと、ネット上で叩かれてますね、この作品。
 でもプチヲタ的には、その批判に対して「?」です。

 「パクリ」ということに関しては、どこをどうパクっているのかプチヲタには分からないので触れませんが、「話が冗長(=展開が遅い)」という批判については、「そんなん前作の時からそうだったやんか」ってカンジです(実際、「SEED」のレビューに「長いプロローグの後、いきなり終わりが来たみたいな話」といった感想を書いてますし・・・)。
 ま、純粋な「ガンダム」ファンにしてみれば「間延びした物語も最初の1回なら新鮮味があって許せるが、2回となると我慢できん!」というコトなのかもしれませんが・・・(笑) 

 その点、ヒネくれ者でガンダム・ファンでもないプチヲタなどは本作(前作も)を「ガンプラの販促番組」として見ていますので、「次回も観てみよ」と思えるだけのクオリティを維持してくれていれば特に文句はありませんし、また最新の第12話までは十分にその期待に応えてくれていると思います(てか、「中途半端」だった前作を引き継ぎ、物語をキチンとした「完結」へと導いてくれるのでは?との思いもあったり・・・。ちょっと期待しすぎでしょうか?)
 
 ただ、敢えて「作品としての完成度には過大の期待を抱いていない」本作にもの申すとすれば、もうちょっと物語の「軸線」が定まった、視点にブレのない「語り口」にしてほしいものだと・・・。
 つまり、ぶっちゃけ早い話が、第12話まで観ても誰が「本当」の主人公なのか分からんぞ!・・・と(^_^;)。  

 上のコトについて、具体的なキャラクター名を挙げながら、少し解説してみましょう。
 まず「キラ」(前作の主人公)ですが、このキャラが話を引っ張るなら、本作は前作の「正統なる続編」ということになりますが、このヒト、現時点では「廃人」です(笑)。
 では物語後半に主人公に踊り出せるかと言うと、12話まで「廃人」やってて後半から主役という展開には無理があります。出だし1クールを丸々「呆けて」いたキャラが突如「ヤル気」になっても、観ている側からすれば「何を今さら」感でいっぱいになるだけでしょう。

 次に「アスラン」(前作の準主役)。こちらは第1話から重要なポジションをキープしていますが、キャラとしてのベクトルがあまりにも「ネガティブ」に傾きすぎです。このナーバスさで「ガンプラ販促番組」の主演は無理でしょう。
 てか、やっちゃいけません(^_^;)オイオイ。

 で、「シン」です。物語冒頭の流れだけを見ると、本作の主人公は名前通り「新」キャラのこの人物以外に考えられないのですが、こういう場で主人公云々と言うのも気が引けるほど出番が少ないです。
 さらに、その少ない登場シーンでも大半が「怒ってる(毒づいてる)」か「鬱ってる」かのどちらかなので、微塵も感情移入できません。
 プチヲタ的には、もはや「登場した理由」さえ理解できないキャラです。

 そして最後に「カガリ」。このキャラは「主演男優賞争い」(笑)には関係ありませんが、現時点で最も「目立っている」彼女が今後も物語の中で重い地位を占めれば、本作の主人公は必然的にその「相方」であるアスランになる可能性が高くなります。
 でも、この「ネガティブ・カップル」が主役を張るという展開は、プチヲタ的にはノーサンキューというか、勘弁してほしいというか(←同じや、同じ。笑)。

 こうして改めて主要キャストを眺めてみても、本作にはズバリ「あんたが大将!」的なキャラがいません。
 つまり、「このキャラの視点に立って物語を見渡す」というコトが難しいのです(ん?ひょっとしてコレこそが「叩かれる理由」なのか?)。

 ま、今回あえて取り上げなかった「シャアの声」と「ワザとらしいまで正体バレバレのマスクマン」が物語をブン取るという「期待」・・・もとい「可能性」も無きにしも非ずですが、ただの「ガンプラ販促番組」にそういうトリッキーな大業を望むのは酷というモノでしょう(笑)。

File-052 F1GP/第9戦・アメリカ (for フジテレビ721)

2005年06月22日 | Weblog
 まずは左の添付画像をご覧下さい。
 手前の道を走っているのが、レースを「ボイコット」するためピットに戻る7チーム14台のF1マシン(の一部)、奥にある道を走るのはレースに「参加」する3チーム6台のマシン(の一部)でございます。

 いや、まったくもって本当に「しでかして」くれましたよ、F1界の連中は・・・。
 先日の「閑話休題」で、プチヲタは「最高のレース」として「92年モナコGP」を紹介しましたが、今回のアメリカGPは間違いなく「最低のレース」の筆頭候補になるでしょう。

 でも、プチヲタは全然怒ってなどいません。
 それどころか、もうスゴくワクワクしています。
 だって、「レース」よりも「F1界のドロドロとした裏側」をチェックするのが好き(笑)でF1ファンになったプチヲタにとって、件の出来事は最高にエキサイティングな状況なのですから!

 プチヲタもまだ事態の詳細について完全に把握しているわけではありませんが、断片的に伝え聞いた話を総合して今回の騒動を解説すると、おおよそ次のような顛末らしいです。

 F1はレース本番当日より前に、「フリー走行」と言われる一種の「テスト走行」を行うのですが、その「フリー走行」において「ミシュラン」(フランスのタイヤメーカー)製のタイヤにトラブルが多発(11件ほどあったらしい)。
 そこで「ミシュラン」が自社のタイヤをチェックしたところ、アメリカGP用に持ち込んだ「新型タイヤ」は「耐久性」に問題があることが分かり、急遽、本国フランスから「別のタイヤ」を空輸させました。
 ところがF1の規則(レギュレーション)には、「持ち込んだタイヤを変更してはならない」という決まりがあります。
 なので、FIA(F1を管理・統括する組織)はミシュランに対し、「タイヤの変更はまかりならん!」と通達しますが、するとミシュラン側は「だったらタイヤの負担が減るように、コース上にシケインを作ってくれ」と言い出しました。
 自分たちのタイヤは耐久性がないので、タイヤの負担が減るように「コースの形を変えてくれ」というわけです。

 己のミスを棚に上げて「コースの形を変えろ」とはおこがましいにも程がありますが、F1の世界ではこういう「手前勝手な主張」は珍しいことではありません(ムチャでもとりあえず言ってみて、もし認められたらラッキーってな世界なのです)。
 今季これまで8戦全勝のミシュランは、F1の全10チーム中7チームを「ユーザー」として抱えており、これらのチームは当然ミシュランの提案を支持します。
 しかし、この主張はたった1チームの反対で頓挫させられました。
 そう、ミシュランのライバルである「ブリヂストン」を履く王者「フェラーリ」が、「寝言をぬかすな!」とばかりに、その戯れ言を一蹴したのです。

 これらは一見すると「単純」な対立の構図に思えますが、そこはF1、実はその裏側に根深い「怨念の図式」が隠れていたりするのですヨ。
 ちょっと長くなりますが、この図式を知っているのと知らないのとでは「昨今」のF1に対する理解が全然違ってくるので、簡単に説明しましょう。

 前述したように、F1は「FIA」という組織によって統轄されていますが、そのFIAはF1が生み出す利益(TVの放映権料など)の大半も吸い上げており、「もっと利益を分配しろ」と主張するチーム側と、若貴も真っ青な確執を年中無休で繰り広げています。
 ただ、FIAは自己の利益確保の方法を「法的」にガッチリと固めているので、チーム側がどれだけ騒ごうと、あまり意に介しませんでした。
 で、そんな状況に業を煮やした一部チーム(正確には、F1に参戦している「欧米」の自動車メーカー)が、「利益を分配しないなら、俺達は自分でF1に対抗する新しいグランプリ・シリーズを立ち上げる!」と言いだし、そのリーダー格として、F1誕生の瞬間から参戦し続けている唯一のチーム「フェラーリ」に白羽の矢が立ちます。
 「F1=フェラーリ」と言われ、「フェラーリなくしてF1なし」と自他共に認める超名門チームの造反となれば、いかなFIAといえど心中穏やかであろうはずがありません。
 FIAは表面上ではあくまで平静を装い、「やれるモンならやってみそ」というスタンスを保ちながらも、形勢逆転の機会を窺い続けます。
 
 そして、つい先日とも思える今年の春先のこと・・・・。
 一つのニュースが、F1界に激震を巻き起こします。
 「フェラーリがコンコルド協定更新に単独で署名!」
 それは、まさに青天の霹靂でした。

 「コンコルド協定」
 FIAと各チーム・オーナーが「合議」の上で定めたこの約定は、例えて言うならF1界の「憲法」です。
 レースの競技規定についてはいかなる独断専行も許されるFIAも、この協定に関しては何の裁量権も持っておらず、チーム側にとっては「唯一最大の武器」となる頼みの綱。
 その「コンコルド協定」の更新期日が08年に迫り、早く全チームから更新承認のサインを得て体制の安定を図りたいFIAと、前述した「新しいグランプリ・シリーズ」などをネタにギリギリまで交渉し、できる限り有利な条件(放映権料の分配比率なども、これで定められています)の「新協定」を発効させたいチーム側との綱引きが続く中、突然フェラーリが他の9チームを出し抜く形で更新承認のサインをしたのです。
 そしてそれは、フェラーリが今後もF1に参戦し続ける、即ち反乱軍(笑)が画策する「新しいグランプリ・シリーズ」とは袂を分かつとの意志表示でもありました。

 これは明らかな「裏切り」行為であり、各チームは激怒しますが、他方フェラーリにはフェラーリで、この「裏切り」に対する正当な理由がありました。
 というのも、ここ数年あまりに「無敵すぎる」フェラーリに対し、昨シーズンあたりから他の強豪チームが露骨な嫌がらせを仕掛け、中でも「タイヤに関する攻撃」は、王者フェラーリの逆鱗に触れました。
 フェラーリの強さの一因を「ブリヂストン」のタイヤが占めているというのは、もはや疑いようのない事実です。
 フェラーリ以外に「強豪チーム」を抱えていないブリヂストンは、まさに「フェラーリ」専用と言ってよいタイヤを作り、その勝利に貢献してきました。
 そこで他のチームは「タイヤをワンメイク(1社独占)にしよう」と言いだし、「ワンメイクにするなら使用チームの多いミシュランで決まり」などと勝手な主張を繰り広げます。
 加えて「テストの日数も制限したほうがいいんじゃね?」(テスト日数が減ると、フェラーリでしか「開発テスト」が行えないブリヂストンが圧倒的に不利になる)と宣うに至り、もはや「フェラーリvsその他9チーム」はガチンコ対立モードに突入!

 で、その確執を見て取った「妖艶な美女」(笑)FIAはフェラーリにしなだれかかり、耳元でこう囁きます(いや、知らないですケドね。おそらくこうではなっかたかとの勝手な推測です・・・・^_^;)。
「ねぇ~ん、アンタは世界のフェラーリなんだからぁ、あんなゴミみたいな程度の低い連中と本気でケンカなんかしてちゃダメよン。それより、アンタの力を世の中に示す良い方法があるわ。コンコルド協定に今すぐサインするの。そうしたら、あのゴミたち大騒ぎになるわよ。もちろん最初にサインしてくれたらアチキが色々便宜をはかってあげる。だってアンタは最高のF1チームなんだから・・・。正直アンタがいないと、アチキだって生きていけないわン」

 「種馬」・・・否、「跳ね馬」フェラーリ、一発でサインです(恐るべしFIA。笑)。
 端から、特に「和をもって尊しとなす」が身上の日本人の目から見ると、この一連の動きは不可解というより滑稽です。
 一方で「共闘」を誓い合いながら、もう一方で「盟友」の足を引っ張ろうとする。
 でも、それがF1なのです。
 そしてプチヲタは、F1の「そういう部分」が大好きなのですヨ(^_^;)。

 さて、以上のような構図から「ミシュラン」とその関係チームの提案は退けられたわけですが、時速300kmで競うF1に「欠陥タイヤ」で臨むことを望む(笑)者など誰もいません。
 なので「ミシュランとその仲間たち」は、「安全上の理由」という名目でアメリカGPをボイコット(正確には「フォーメーション・ラップ」という行為には参加しているため、「ボイコット」ではなく「リタイヤ」扱いですが・・・)するという前代未聞の事態に発展。
 出走台数6台、完走すれば入賞確定という、客がコースにペットボトルを投げ込むのも無理はないというレースになってしまったという次第。
 
 とはいえ、今回の「騒動」は、事が事だけにこのまま収まるとはとても思えません。
 きっと「FIA」「ミシュラン」「不参加チーム」の各々が「スケープゴート」を探して、醜い「責任転嫁」争いを繰り広げてくれることと思います。
 
 そう考えると、今から胸のワクワクが抑えられません(歪んでますか、私?)。

File-051 僕は妹に恋をする (for AT-X)

2005年06月20日 | Weblog
 個人的に「史上もっとも俗悪な最低最悪のアニメ」と感じたこの作品を当ブログで取り上げるべきか否か、プチヲタは少なからず悩みましたが、「スルー=容認」という図式が成り立ちかねないので、あえて取り上げることにしました。

 本作について語るにあたり、もはや理屈は存在しません。
 「実の兄妹が恋仲になる話のどこが悪い?」と問われれば、正直、理路整然とそれを「悪」もしくは「愚」とする理屈を、プチヲタは有してはいません(法律的に云々と言うつもりもありません)。
 ただ「実の兄妹が恋仲になる話など気持ち悪い」と思っているだけなのです。
 
 上のように書くと、
「アニメみたいな作り話にムキになるなよ。これだから現実と虚構の区別のつかないキモヲタは困るんだよ。マジでウゼぇ」
 なんて意見も出てくると思います。
 でも、そのような意見が「正論」としてまかり通るなら、「幼女を暴行する鬼畜を褒め称える話」も「快楽殺人に耽るキチガイを賞賛する話」も、フィクションであるとの「錦の御旗」を掲げれば全てが「公の場(ゴールデンタイムのTVなど)」に登場することが許されるようになってしまいます。
 「公序良俗」なんて陳腐な言葉を振りかざすつもりは毛頭ありませんが、プチヲタとしては「実の兄妹のラブストーリーなど気持ちが悪い」と感じる人間が「圧倒的大多数」だと信じたいだけなのです。

 「観るだけ観ておいて、気持ち悪いとか言ってんじゃねぇよ、タコ!矛盾してんだろうが」
 このブログを読めば、必ずこういうツッコミが出てくるでしょう。
 その通りですが、プチヲタが本作を観るに至った経緯は次のようなものでした。

 昨日、ふと思い立って「スカパー」というキーワードでググってみたところ、2チャンネル(だと思う)で「AT-X」について語られている掲示板に辿り着きました。
 そこで話題となっていたのが本作だったのです。
 プチヲタが見た限りでは、大半が「否定的な」意見でしたが、しかしその「否定」の言葉というか表現は、「笑える」とか「ギャグだから」といった、一種オブラートに包んだようなモノばかりでした。
 プチヲタは以前キッズステーションで放送していた「恋風」なる兄妹恋愛物も躊躇無くスルーしていたクチなので、本作もタイトルだけでスルーを決め込んでいたのですが、こうして「笑える」などと書かれて盛り上がっているのを見ると、やはり気になります(本当に笑えるなら観てみたいでしょ?)。
 で、読み進んでいくうち、まさにその時間帯にリピート放送をやっていると知り、慌ててTVをつけました(なので、正確には本作を全部観たワケではありません。でも最初から観ていたら、おそらく最後まで観ていられなかったでしょう)。
 
 本作を数分観ただけで、多くの人間が「笑える」と書いた「意味」だけは理解できましたが、実際にはクスリとも笑えませんでした。
 もはや理解するとかしないとかいうのも慮外の次元で、ひたすら「おぞましい」と感じただけです。
 そして、こういうアニメがCSとはいえ、「昼日中」に大手を振って放送される「現実」に、大袈裟ではなく恐れを抱きました。
 
 「妹萌えで何が悪い!」
 その主張を「反論するのもバカバカしいし、好きなら好きで勝手にやっとれや、シスコン野郎!」と看過してきた結果が、たぶんコレなのです。
 本作に対する否定意見が「笑える」といった歪曲的表現に集約されたのも、本気で嫌悪感を示して「虚構にムキになるなよ、ヴォケ」とか「観といて文句言うな」などと非難されたら鬱陶しいからでしょう。
 ちなみにプチヲタは本作をチェックする人間の気持ちは理解できます。話がどれほど腐っていても、絵が素晴らしければ、それはヲタにとって「保存」の対象になりますから、とりあえずは録っておこうと思うのは「ヲタ的」には自然な行為です(もっとも本作は作画面でも最低でしたが・・・)。

 最初にも書きましたが、今回のブログに記していることは「理屈」ではありません。
 そして「妹萌え」に対する攻撃とも、実は違います。
 個人の趣味として「妹萌え」が存在するのは構わないのです。
 ただ、本来「日陰者」(←コレはプチヲタの主観であり、今回の感情論の根幹)であるべき「妹萌え」なる事象が、さも一般的な認知を得たかのごとき振る舞いをするのが「納得いかない」だけであり、そして「納得いかない」ならそのことを主張することもしておかないと、「妹萌えがOKなら弟萌え(兄と弟ね)だって無問題じゃん!」ってな具合に「負の連鎖」が起きかねないのではないかと・・・。
 
 上の主張などは「アンタ、杞憂って言葉しってる?本気で言ってるならマジ病院に行ったほうがイイよ」などと言われそうですが、少なくとも10年前は「実の兄妹の本気ラブ、マンセー!」と公言するアニメやマンガは(存在してても)一般的じゃなかったコトを考えると、あながち妄言だとも思えないワケで・・・。

 ま、感情論にゃ結論など無いので、判断は読み手の皆さんにしてもらうしかありませんけど、ね。

閑話休題05 嗚呼、モナコGPよ永遠なれ!

2005年06月18日 | Weblog
 前回は「50ファイル到達記念」というコトで、プチヲタの一番大好きな映画である「スターウォーズ/エピソード4」について書きましたが、その勢いを借り(笑)、今回の「閑話休題」はプチヲタの一番大好きなレースである「92年F1モナコGP」について書いてみようと思います。

 プチヲタは、新たに知り合いになった方などが「古くからのF1ファン」であると分かると、いつも真っ先に「今まで観たレースの中でベストバウトは何ですか?」と質問をします。
 すると、ほぼ例外なく「92年のモナコ」という答えが返ってきます。
 1992年に開催された「第50回F1モナコGP」は、それほどまでにファンにとっては「特別な」レースなのです。
 
 当時、プチヲタはまだ「新米」のF1ファンでした。
 それ以前のプチヲタは「WRC(世界ラリー選手権)」のファンで、「イカみたいな形をしたマシンがサーキットをグルグル回るだけ」のフォーミュラ・レースになどまるで興味は無く、それどころかF1ファンの同級生と「F1とWRCはどちらが素晴らしいか」などという、愚にもつかない口論を日々繰り返す有り様(笑)。
 で、ある時、お互いの愛読誌(「ラリーX」と「F1速報」だったような・・・)を交換して読んでみることになったのですが、手渡されたF1雑誌に書かれていた、半ば「ゴシップ記事」のような業界動向ニュースが、あろうことかプチヲタの琴線に触れまくってしまいます。

 以前ココでも書きましたが、F1社会は「ヒト・モノ・カネ」に関する契約問題などで、それこそ春夏秋冬オールシーズン、いつでも常にモメています。
 オバさま方が芸能人のゴシップを大好物とするが如く、プチヲタはこのドロドロとしたF1の「舞台裏」にすっかり魅せられ、アッサリF1の軍門にくだりました(笑)。

 こうして、かなり変則的な経緯でF1ファンの末席に身を置くことになったプチヲタでしたが、今まで小馬鹿にしていた「イカ車の単純競争」が、ファンになったからといって急に面白くなるワケはありません。
 なので、最初はかなり「ながら」モードでレースを観ていました(本を読んでて、気がついたらレースが終わってた・・・なんてコトも度々)。

 白状すると、92年のモナコGPも、終盤まではあちこちチャンネルを変えながら観ていたのです。
 だってこの年は「ウイリアムズ・ルノー」が最強マシンFW14B(添付画像参照)に「無冠の帝王」N・マンセルを乗せて「開幕5連勝」という破竹の快進撃を続けており、この第6戦モナコGPでもマンセルがトップを独走。
 ぶっちゃけ、観るのがアホらしいくらい「お決まりの展開」でした。

 しかしレース終盤、事態は一変します。
 快走していたマンセルが突如ピットイン(タイヤに異常があるとの警告が出たので、タイヤを交換しにピットへ戻ったらしい)し、その間に「マクラーレン・ホンダ」(92年はホンダF1第二期活動の最後の年でした)のA・セナがトップへ。
 そのセナを、タイヤ交換を終えたマンセルが猛追。
 多くのF1ファンが「ベストバウト」と認める闘いが、この瞬間から始まります。

 じつは今回このブログを書くにあたり、添付用の画像を探していて、とても良いブログを見つけました。
 92年モナコGPの、まさにこの「伝説の闘い」の部分の実況だけを文章化してくれているブログです(この実況もF1ファンの間では超有名で、F1ファンに「ここはモナコ、モンテカルロ」と言うと、まず間違いなく「絶対に抜けない!」と返してくれますヨ。笑)。
 プチヲタは「トラックバック」の仕方を知らないので(恥)、興味のある方は下のURLをコピペして訪ねてみてください。
 ttp://blogs.dion.ne.jp/hellowtown2/archives/1201869.html(あ、先頭に自分で「h」を付け足してネ)

 とにかく、本当に「手に汗握る」凄まじい攻防戦なのですよ。
 この闘いが始まった直後に、プチヲタをF1ファンに「転ばせた」(笑)前述の友人から電話が入り、マンセル派のプチヲタとセナ派の友人はお互いに相手を罵りながら、もう必死でTV画面を睨んでいました。
 明らかに「速い」マンセルがセナの真後ろについて、「どけ!」とばかりにマシンを左右に振ると、プチヲタも「どけよ、セナ!進路妨害やろ!」と電話に怒鳴り、それを受けて友人が「同一周回じゃ、ヴォケ!ここで譲ったらレーサーちゃうわ!」と返す。
 いや、感情移入度100%でしたから、マジで・・・。

 結果的にはセナがマンセルを抑えきり、「ウイリアムズ・ルノー」の開幕6連勝を阻止してレースは終わります。
 敗れたマンセルは、表彰台に座り込むほどヘトヘトになりながらも、しかし満足そうに笑っていました。
 今まで繰り広げていたバトルが、「選ばれしF1パイロット」という存在にとっても「特別な闘い」だったと言わんばかりに・・・。

 このレースでプチヲタは大事なコトを学びました。
 こういう「特別な一瞬」を味わうためには、つまらないと思える「レース」も真剣に観なければならない、と。
 いつ、如何なる時に、「退屈」が「特別な一瞬」に変わるかなど、誰にも予想がつかないのだ、と。

 ・・・などと偉そうに言ったモノの、さすがに10年以上もその「特別な一瞬」に巡り会えないと、せっかくの「戒め」つーか「教訓」も色褪せてきますナ(特にここ数年はフェラーリの独り舞台なんで、退屈なことこの上なし)。
 もうそろそろ新しい「伝説的な闘い」に出くわさないと、冗談抜きで「ながら観戦」が復活しそうな気配濃厚ですヨ。