スカパー漂流記

CS放送「スカパー」で放送されている番組について語れればいいなぁと思う次第でございまして・・・

File-041 プラトーン (for スターチャンネル・クラシック)

2005年05月28日 | Weblog
 「映画の歴史を変えた傑作!」
 そんな宣伝コピーを掲げる「恥ずかしい」映画は数多ありますが、本当に歴史を変えてしまうような作品というのは、当然ながらごく稀にしか生まれてきません。
 で、明らかにその「稀な」事柄を成し遂げた映画の一つに挙げられるであろう作品が、この「プラトーン」です。

 本作で一躍ハリウッドのトップへと駆け登ったオリバー・ストーン監督の半自伝的映画として有名なこの「プラトーン」は、観賞して楽しい作品ではありません。
 また、胸躍る高揚感も、胸のすく爽快感も、胸を締めつける情緒感もありません。
 あるのは、ただ胸の痛む悲壮感ばかりです。

 この「プラトーン」以後、戦争映画の流れは完全に変わりました。
 それまでの「勧善懲悪型娯楽戦争映画」はメインストリームから弾き出され、「写実主義型叙情戦争映画」が台頭。
 と同時に「戦争映画」自体が、映画の「人気ジャンル」から遠ざかりはじめます。
 これはある種、必然の結果でした。

 それまで戦争映画の「戦闘シーン」は、血沸き肉踊る戦争映画の「華」でしたが、「プラトーン」はこの伝統に冷や水を浴びせかけます。
 ストーン監督は自身の体験から徹底的にリアルな「戦闘シーン」を描き、そこにかかる枕詞を「血沸き肉踊る」から「血も凍る」へと変えてしまったのです。
 戦争映画が「観て楽しい」ものから「観て苦しい」ものへと変わった瞬間、とでも言うべきでしょうか。
 とにかく「プラトーン」から以後、「脳天気な戦争映画」は鳴りを潜め(例外的にヒットした脳天気戦争映画って多分「トップガン」くらいだと思う)、戦争を娯楽として描くのは「恥ずべきこと」という風潮が世界に蔓延し、今もその流れは変わっていません。

 この「戦争をリアルに描く」という発想、じつは「プラトーン」よりも以前に日本で花開いています。
 戦争を「人間同士の殺しあい」として生々しく描写し、一大ムーブメントを巻き起こしたアニメ「機動戦士ガンダム」がそれです。
 ただし、アニメの世界(=日本)では「ガンダム」以降も「脳天気な戦闘アニメ=恥ずべきモノ」とはなりませんでした。
 それは一体なぜなのか?

 「プラトーン」は反戦映画です。
 「現実に起きた」戦争をリアルに描写することで、戦争の理不尽と愚かさを世に問い示す作品です。
 この「現実に起きた」というところが肝心で、実際に「被害者(=戦傷者)」がいる戦争という過去の「現実」を、エンタテインメントとして「面白おかしく」映像化していいものか?・・・という心理を製作者と観客の双方に与えたという意味で「プラトーン」は画期的だったわけです。
 翻って日本の「戦闘」アニメは徹頭徹尾フィクションであり、しかも半世紀にわたって「戦争の犠牲者」を出していないがゆえに、「ガンダム」がリアルな戦争を描写して以後も、アニメで「戦闘シーン」を作品の華として描くことに誰も疑問を持ちませんでした。
 有り体に言えば、鮫に身内を食い殺された人間は「ジョーズ」を正視できないでしょうが、そのような経験の無い世の大部分の人々は、「ジョーズ」をパニック映画として楽しく観賞できるってコトです。

 アメリカはこの100年間に限って見ると、おそらく世界で最も数多く戦争(第1次大戦・第2次大戦・朝鮮・ベトナム・湾岸・アフガン・イラク等の「戦争」に加え、パナマやボスニアなどでも「侵攻」「紛争」などのプチ戦争をやってます)を経験している国です。
 いまの日本人にとって「戦争」は100%フィクションですが、アメリカ人には100%ノンフィクション(てか、実際いまもイラクで「戦争中」だし・・・。米政府は認めていないけどね)なわけで、「プラトーン」のような映画を見せられると、明日は我が身と考えて「脳天気な戦意高揚映画」なんぞに熱中できないと・・・。

 以上のような理由で、「プラトーン」以後、残念ながらハリウッドの「戦争映画」は面白くなくなりました(製作本数も激減しているはず)。
 戦争する物語を観て楽しむなんて低俗?品性下劣?
 そんなのは「アダルトビデオ」があるから「性犯罪」が起きる・・・って理屈と同じくらい的はずれで恥ずかしい「馬鹿理論」ですよ。
 戦争について記された文献は古くから残されているし、そもそも人間は「当事者」にならなければ「戦争」を含めた「戦い」ってヤツが大好きなんですから(え?男はともかく女は違うだろうって?いえいえ、女性だって「ロミオとジュリエット」とか好きでしょ?あれ、仲が悪いのを「家同士」から「国同士」に変え、二人の身分を王子と姫にすれば、きっと世界中に転がっている「戦争悲恋」物語になりますよ。こういうのって明らかに「女性向け」ですよね?)。

 てか、「非日常」の世界に感情移入して楽しむのが「映画」であり、また「創作物」の醍醐味なのですから、「戦争映画」が楽しめるのは、それだけこの国が平和だという証拠!とっても幸せなコトなんですヨ!!(半島北側のキチガイ国家のせいで、その平和にも陰が差し始めてるけど・・・)

閑話休題04 プチヲタ的趣味考<1> 「飛行機」

2005年05月27日 | Weblog
 プチヲタは「飛行機」が大好きでした。
 高校時代などは、大阪から福岡の実家に帰省する際、「新幹線」派の家族と袂を分かち、プチヲタ一人「飛行機」で帰ったこともありました。
 また、その福岡から大阪に戻る時は、「YS-11」(国産のプロペラ機)に乗りたくて福岡→北九州を陸路で移動し、北九州→大阪の便に乗るなんてこともしました(もちろん、これも家族とは別行動・・・^^;)。

 そういう涙ぐましい努力(笑)の甲斐あって、エアバス「A-320」やボーイング「B-777」が投入される直前には、「あとB-737に乗れば、国内航空会社の現用ジェット旅客機完全制覇!」というトコロまでいっていたのですが、そのころを境にして「飛行機熱」は一気に冷め、今では完全な「新幹線」派に・・・。
 
 元々プチヲタには「鉄ちゃん」こと「鉄道ヲタク」の素養(「Nゲージ」とか集めてました。ただ、資金が続かずにすぐハングアップしましたが・・・T_T)もあったりするのですが、かくも急激に「新幹線」派に転向した直接の原因は、国内線航空機の「劣悪な」客室環境と新型新幹線(おそらく200系あたり)の劇的な「快適性」向上の双方を同時期に経験したことに尽きます。

 まず国内線航空機の「劣悪」な客室環境について書きますと、現在世界最大の旅客機として知られる「ジャンボ・ジェット」ことB-747。
 この機体には様々なバリエーションがありますが、「SR(短距離仕様の意)」と呼ばれる定員500人超の機体を採用しているのは、日本のJALとANAの2社だけです。
 国土の狭い日本は飛行時間が短いので、少し窮屈でも客は我慢するだろうという発想で作られたこの「SR」は、本来の目的に沿って、国内の幹線を飛ぶだけなら特に悪い機体ではありません。
 しかし、日本の航空会社はこれらの機体を、国際線としては「短距離」の部類に入る「グアム/サイパン路線」にも投入し、プチヲタは不幸にしてこれに乗ってしまいました。
 世に「エコノミー症候群」なる病気がありますが、B-747SRの座席間隔はその「エコノミー」より更に劣悪です。
 国内幹線での1時間~1時間半程度なら我慢もできますが、4~5時間(グアムに行く場合、サイパン経由と直行の2パターンがあるので、それによって搭乗時間が大きく変わる)乗るとなると、SRの座席はかなり辛いものがあります。
 てか、ぶっちゃけ「メチャ辛かった!」です。

 こうして飛行機に対する不信感が芽生えた直後、今度は久々に新幹線に乗ると、なんと自由席で足が伸ばせるではありませんか!
 B-747SRなどは、前の席を少し倒されただけで膝が当たる(ちなみにプチヲタの身長は180cmです)ほどの狭さなので、この新幹線の余裕ある座席間隔にカンドーを覚え、以後はすっかり「新幹線」派となったワケです。

 加えて、上の出来事と同じ頃に確信したある「現実」が、プチヲタの「飛行機」離れを加速させました。
 その現実とは「プチヲタが元気に動き回れる年齢にあるうちは、飛行機のデザインは今とほとんど変わらない」・・・ということ。
 添付した画像は、先日「初飛行」したばかりのエアバスA-380(の合成CG)ですが、今後30年にわたり大型旅客機の主役になるであろう機体のデザインがコレでは、このさき半世紀の旅客機デザインに大きな変化があるとは思えません(ボーイングの次世代機B-787のデザインなど、プチヲタ的には噴飯モノのヒドさです・・・)。
 おまけに、「未来」を感じさせてくれる唯一の機体(ホントはかなり古い機体なんだけど)であった「コンコルド」が引退するに至り、プチヲタの「飛行機」に対する情熱はもはやストップ安状態。

 大半の自動車が「燃料電池」車に変わっているかもしれない半世紀先の未来。
 その時、車のデザインがどうなっているかなんて誰にも分かりません。
 技術やデザインといったトレンドに変化があるからこそ、人々の車に対する興味は尽きないのです。
「(中身は違うけど)50年後も今日とほとんど変わらないデザインの車が走ってるよ!」
 こう言われて快哉を叫ぶのは、バカ・ブッシュらの「ネオコン」だけでしょうね(「保守」の意味が違う?こらまた失礼しますた・・・^^;)。  

File-040 バジリスク/#01 (for AT-X)

2005年05月22日 | Weblog
 マウスを新調したらPCが突然「挙動不審」に・・・(980円という安物にしたのが悪かった)。
 おかげでフリーズする度に書きかけの原稿が飛び、その虚脱感から更新ストップ(T_T)。
 なので、今回は激短めにいく予定ッス(今度「飛んだら」立ち直れんですヨ)。

 さて、お題の「バジリスク」ですが、原作「山田風太郎」と聞くと、プチヲタは「香港映画」を思い浮かべます(いえ、読んだことは無いんですが、何かそういうイメージが・・・。かつて映画化された「魔界転生」の影響?)。
 で、実際「映像」になった本作を観てみたら、第1話はマンマ「香港映画」でした。
 もうストーリーの整合性とかそういうのは無視で、「見た目」のインパクトに全力投球というか、有無を言わせぬ「視覚攻撃」で理屈を組み伏せるというか、とにかく「力技系」の作品であることは確かです。
 ただ、それは確信犯的な演出意図によるものなので、そのことを納得して観れば、かなりイケてると評価してもよろしいかと・・・。

 絵的にはほとんど文句はありません。
 てか、このレベルをどこまで維持できるのか、「一ヲタク視聴者」として心配になるほどです(ただし「絵柄」は観る人間を選ぶ可能性大。^^;)。

 ストーリーはケレン味たっぷりで、きっと好きな人にはタマラないでしょう。
 でも、ハッキリ言って「斬新さ」はありません。
 プチヲタは本作を観て、大昔の時代劇OVA「妖刀伝」を思い出しました。

 本作を愉しむには心構えというか、ある種の「お約束」を受け容れることが必要です。
 要するに「枝葉末節にこだわらず、映像として表現された物語世界を愉しめ」・・・と(コレって結構カンタンなようで、じつは難しかったりします。結局は感性の問題なのでしょう)。
 プチヲタ的にはそこそこ気に入りましたが、最後に一言だけツッこませてもらいますね。

 日本人がコレを作ったら、一昔前に流行ったハリウッド産忍者映画(ショー・コスギのヤツとか)を笑えねぇよ!

PS)この原稿をアップしようとしたら「いま混みあってるので後にして!」とのエラー表示が!過去、このエラーで何度も煮え湯を飲まされ、バックアップを取るようにしていたので助かったが、送信エラーで原稿が消えるブログってドーヨ?
 いくら無料とはいえ、ちょっとお粗末すぎじゃねぇ?(ちなみに他の無料ブログでこのような経験は無し。多少時間はかかっても、ほぼ確実にアップされます)

File-039 ジパング (for アニマックス)

2005年05月17日 | Weblog
 なんか唐突に終わってしまいましたね、この「ジパング」(原作がまだ雑誌連載中なので、キレイに完結することはハナから期待していませんでしたが・・・)。
 ただ、今回の終わり方は、何とも「かわぐちかいじ」作品らしいなと思いました。

 「ジパング」の作者かわぐちかいじの代表作と言えば「沈黙の艦隊」になるのでしょうが、こちらの作品もアニメ化(TVシリーズではありませんでしたけど)され、ちょうど今回と同じようなパターンで幕が閉じられていました。
 具体的には、「戦闘シーンの多いエピソードが終了したところでバッサリ終了、アッサリ完結!」ってカンジです。

 かわぐちかいじという人は「政治」や「歴史」、また「正義」や「大義」などといった事柄に関し、明らかに一家言を持った人物で、作品中の端々でそのことを表しています。
 プチヲタ個人としては、かわぐちかいじの理念は嫌いじゃありません。
 しかし、この方の主張は「夢想」にも近い理想主義的なモノ(「沈黙の艦隊」の場合で言うと、「諸外国から独立し、独自の指揮権を有する、核をも装備した常設国連軍の創設」という主張)であるため、皮肉にも「リアリティ重視」が売りの「かわぐち作品」では、その作者の主張のみが作品の中で「浮いている」という奇妙キテレツな「ねじれ現象」引き起こし、結果として物語が尻窄みになってしまっています(「沈黙の艦隊」も、前半から中盤までの「戦闘編」は社会的にも話題になったけど、中盤以降の「政治編」になると徐々に人気が・・・。作者が本当に世に問いかけたかったテーマは後半の方に置かれているハズなのに)。

 原作を未読のため(てか、ホント最近マンガ「すら」読んでいない。ネットがあると本の重要度って極端に落ちるなぁ。出版不況って話も納得ですワ)、アニメ版だけで一応の評価を出したいと思うんだけど、正直なかなか甲乙つけ難い作品です。

 まず構成的に見ると、前作「沈黙の艦隊」でプチヲタが「欠点では?」と思った部分が改善されていたのが目に付きました。
 その「欠点」というのは、主人公(=作者の分身)の海江田があまりにも前に出過ぎていること。
 「沈黙の艦隊」では、作者の主張の代弁者としての海江田があり、物語から「独善さ」を消すための中和剤として、一般論を振りかざすライバルの深町が用意されていたように思うのですが、作者の意思が強く出過ぎるあまり、半ば海江田の「一人称」的な作品になっていたような気がします。
 その点「ジパング」では、海江田的存在の日下(字、あってる?)と深町的存在の角松の立場がイーブンに描かれ、きちんとバランスが保たれていました。

 次に設定面ですが、護衛艦に巡航ミサイル「トマホーク」が搭載されていることに疑問(作品中では空母に対する攻撃に使われていましたが、普通そのような用途に用いられるのは対艦ミサイルであって、「トマホーク」のように「対地」攻撃がメインの巡航ミサイルを護衛艦に積むのは、「専守防衛」を掲げる自衛隊的にはあり得ないように思う次第)を感じたこと以外は、プチヲタとしては特に気になるところはありませんでした。
 プチヲタより格段に「ミリヲタ」の友人などは、護衛艦に装備された各種ミサイルについて色々言っていましたが、ンなコト分からなければ気にもなりません。なので、気にしません(笑)。

 で、肝心のストーリーについては、アニメ版全26話だけで結論を下すと、やっぱ「並」(1回くらいなら観ても損はしないってレベル)どまりではないかと・・・。
 いかに原作が未完で、あそこで話を切るしかなかったとはいえ、どうにも消化不足の感が否めません。
 特にラスト数話の「日本上陸」編はいらなかったと思います。

 僭越ながら言わせてもらえば、プチヲタなら日本に到着する直前で話を終えていたでしょう。
 本作中にあったシーンをそのまま使い、遠くに横須賀の夜景を望みながら、艦長と角松の
「あそこは我々の知る日本ではない」
「・・・しかし、帰るしかないでしょう。船には港が要ります」
 という会話の後、横須賀の街の灯に向かって進む護衛艦のシルエットを後方から遠望してエンドロール。
 これだって中途半端な終わり方には違いありませんが、どうせ未完が確定しているのなら、一番余韻の残りそうな場面で幕を引いたほうがイクないですか?
 
 ま、アニメの製作現場には「ミリヲタ」な方々もたくさんいるので、戦闘シーンを山ほど描けただけで満足なのかもしれませんケドね・・・(^^;)。

File-038 ガイアの夜明け/日本映画の逆襲 (for 日経CNBC)

2005年05月15日 | Weblog
 当ブログとしては、もう絶対に外せないネタですね、コレは(笑)。
 「日本映画の逆襲」・・・。胸のすく、心地よいタイトルです。
 もし本当の話ならば、ですが・・・。

 以前、友人がプチヲタにこう言いました。
「最近のハリウッド映画ってリメイク物ばっかやな。もうあそこもアカンのとちゃう?」と。
 この認識は、ハッキリ言って間違いです。
 リメイクの多い理由が「創作性の低下」であるなら上の意見は正しいでしょう。
 しかし、ハリウッドがリメイク作品を量産する理由は、決して「創作性が低下」したからではありません。
 アメリカの映画業界が隆盛を極め、映画会社や製作会社の「生産能力」が著しく強化されたがゆえに「題材不足」が生じ、その結果として他国から「創作物」を買わざるを得ないのです。

 例えば、日本が生んだ最も有名なキャラクターと言われる「ゴジラ」。
 以前、東宝はこのドル箱キャラクターを、アメリカの映画会社にレンタルしました(で、あの「GODZZILA」が作られたワケです)。
 利益を生み出す自社の「看板作品」を他社に貸し出すなど、常識的にはあり得ない話です。
 しかし、「ワールドワイド」な市場を確保する術を持たぬ東宝は、世界的なキャラクター・ビジネスを展開することを目論んで、「看板作品」をハリウッドにレンタルしました(この目論見は見事に失敗し、現在「ゴジラ」は日本のローカル・ヒーローに逆戻りしていますが・・・)。

 このように、いかに人気のあるキャラクターを持っていようと、純粋な映画ビジネスでハリウッドと互して戦うことのできる者はいません。
 フランス映画やイタリア映画は言うに及ばず、製作本数だけなら世界一と言われるインド映画にしたって、ハリウッドには微塵の脅威すら与えていないでしょう。
 であるからこそ、世界中の映画会社や製作会社が、自社の「ドル箱」作品のリメイク権をハリウッドに売り渡すのです(自分でやって稼げるなら、わざわざ他者に飯の種を譲らんでしょ?)。
 つまりハリウッドは、「アカン」どころか「史上最強」の黄金期にあるってコトなのですよ。
 
 表題の番組タイトルでは、あたかも「日本映画」がハリウッドに負けない評価と実力を手にしつつあるかのような錯覚を覚えますが、番組本編で描かれていた内容の「半分」は、今後、日本の才能あるクリエイターがハリウッドに流出していくことの「予見」にさえ見えました。
 まるで、花形選手を次々とメジャーリーグに奪われ、急速に人気を失いつつある「日本プロ野球」界と同じことが、この先「日本映画」界にも起こるであろうと言わんばかりに・・・。

 実際、日本の映画界はダメダメです。
 邦画の興業記録は「日テレ」が後ろ盾の宮崎アニメが持ち、実写の興業記録を持っているのも「フジテレビ」製作の「踊る大捜査線2」とくれば、映画業界のダメっぷりは明らかでしょう。
 てか、日本の映画会社って、ほとんど映画を撮っていません。
 リスクを恐れ、TV局や製作会社が撮った映画に「スクリーン(映画館)」を提供するだけの「興業屋」に堕しつつあります。
 加えて、ボケていてもおかしくない「高齢監督」がいつまでも一流面してメガホンを握る、反吐が出るような「年功序列」体質(例えば今年公開予定の「男たちの大和」の某監督なんて1932年生まれの73歳ですよ。ま、薬物中毒のホモ親父が製作する映画なんで、誰が監督しても文句はありませんけど・・・)。

 こんな有り様でハリウッドに「逆襲」など、夢のまた夢どころか、ヘソで茶を沸かすってレベルの戯言です。
 政治屋や経済学者などが「コンテンツ産業」の育成と発展が今後の日本経済には重要などと偉そうにヌカしてやがりますが、このままだと育てたクリエイターの中で「飛び抜けて優秀」な連中は、片っ端からハリウッドに持っていかれるでしょう(そもそもクリエイターを目指す者の動機など、「自分の作り上げたモノを多くの人に見て欲しい」ということに尽きるのですから、全世界の人々がその視野にあるハリウッドというのは、誘われる以前に「究極の目標」でもあるわけです)。
 つまり、逆襲どころか「存亡の危機」にも陥りかねない、と。
 
 また本番組では、日本人クリエイターのハリウッド進出と平行して、「角川書店」のアジア戦略にもスポットが当てられていました。
 この「アジア戦略」、方向性としては間違っていません。
 映画の興業において、観客の「人種」というのは無視できないファクターです(アメリカにさえ「黒人向け映画」というカテゴリーが存在するくらいですから)。
 金額的な面はともかく、アジアは数十億の有色人種がいる巨大マーケットであり、「アジア有数の映画会社」というプロセスを経て欧米市場を狙おうとする計画は(かなり遠大ではあるが)指向としては真っ当なものでしょう。

 ただ、残念ながら「メディアミックス」という名の「企画物映画」しか生み出せない角川書店にそれを成し遂げるに足る実力があるとは思えません。
 例えば今回の番組で取り上げられていた角川映画は「着信アリ2」でしたが、これなどは「企画物映画」の典型です。
 原作者の「秋本康」がヤリ手であることは間違いありませんが、このヒトは「企画屋」に属するクリエイターであって、良く言えば「時流を見極める達人」、悪く言えば「ウケてるモノなら何でもパクりまくる卑劣漢」です。
 「着信アリ」にしたところで、ぶっちゃけ「リング」などによる昨今のホラーブームに便乗しただけのもの(ただ、パクって結果を出すのがこのヒトの凄いところ。創作者としてはゴミみたいな人間ですが、企画屋としては当代随一の人物かもしれません)。
 そんな中途半端な作品で市場が確保できるなら、それこそハリウッドは海外に映画の題材を探しに行ったりしませんよ。

 角川書店がどれだけ本気で映画に取り組むつもりかは知りませんが、今までと同様「角川文庫の宣伝用」みたいな映画しか撮らないのであれば、アジア市場どころか日本市場においてすら、ハリウッド製映画の牙城を切り崩すことなど不可能だと申し上げておきましょう。

 さて、つまるところの結論としては、「日本映画の逆襲」なんざあり得ない、と。
 それどころか、人材面で言えばハリウッドが「日本映画(界)を襲撃」してると、こう言いたかったワケなのですが、伝わりましたでしょうか? 

File-037 エレメンタル・ジェレイド/~#3 (for AT-X)

2005年05月14日 | Weblog
 創作の世界において最大の「禁忌(タブー)」とされながら、常にその傍らに在り続けるもの。
 それが「模倣(パクり)」です。
 特許などの知財からブランド品などにおける意匠、果ては漫画・アニメの同人活動に至るまで、人間の創出したモノの多くには「正規品」と「模倣品」が存在します。

 特に漫画・アニメの世界では、同人という「模倣品」の多寡が人気のバロメータにもなっているというか、ぶっちゃけ「同人世界」のヲタクを敵に回すということは、最大の「消費者団体」にケンカを売るに等しいので、著作権者も迂闊にその「模倣」を摘発できない様子。(ただ、さすがに「純粋に子供向け」のキャラクターを「アダルト」な用途で使われてはかなわんと、任天堂が「ポケモン」キャラをパクった18禁の同人にクレームをつけたようなことはありましたが・・・。ま、賢明な判断でしょう。笑)

 プチヲタは「同人活動」に関して、大いなる容認派です(もっとも、あの薄くペラペラな同人誌を1000円前後などという法外な値段で売るのはいかがなものかと・・・。買い手が納得しているのであれば文句を言う筋合いはありませんが、少なくともプチヲタは買いませんね)。
 「同人」は「ファン活動」の一環という主張は正当なもので、そこに金銭の授受があるからといって、即座にそれを「著作権を侵害した経済行為」と見なすのは間違いだと思っています。

 と言うか、偉そうに「著作権者」を名乗る側の方にこそ、実は言いたいことがあります。
 「同人」は露骨に「正規品」のパクりですが、それ故に「陽の下」には出てきません。
 「同人」はアングラに生まれ、アングラで花開き、そしてアングラの中で朽ちていきます。
 「同人」には少なくともその「節度」だけはあるのです。
 しかし、陽の下を堂々と歩いている「メジャー」はどうでしょう?

 ある漫画家(たしか江川達也だったような気がするのですが)が、某TV番組の中でこう言ってました。
「(漫画雑誌の)編集者はね、人気のある漫画を他の漫画家のところに持っていって、こういう漫画を描け!って言ったりするんですよ」
 同様の話は以前からあり、漫画界でコレは事実上「公然の秘密」みたいなものです。
 「同人」の原則は「好きだから真似をする」ですが、上の話は明らかに「金になるから真似をする」という話であり、これでは悪質な同人(最近は多いみたいだけど)と変わらないどころか、まんま「悪質コピー」の行動原理ではありませんか。

 で、「エレメンタル・ジェレイド」です。
 この作品を悪意に満ちた、商売優先の「不正コピー品」扱いするつもりは毛頭ありませんが、しかしそれにしても、あまりにお粗末な内容だと苦言を呈することは許されると思います。
 「空賊」を名乗る主人公と、物語世界を飛び回る「飛行機械(名前忘れました)」を観て、宮崎駿の作品を思い浮かべない人間が一体どれほどいるのでしょう? 
 無口で物憂げ、人間だか機械だか解らない謎の少女・・・。
 こう書いただけで、「なんかありがちなキャラ」って気、しませんか?

 とにかく第1話を観ただけで、この作品は「作者がこれまで観てきて気に入った作品の設定をそのまま流用し、自分で継ぎ接ぎして話を作った」って臭いがプンプンです。
 そしてこれこそ、紛うことなき「同人」の手法なのです。
 
 世の中に創作物が溢れかえる現代では、オリジナリティに富んだ「誰も見たことのない世界」を構築するのが困難なことは確かです(不可能と言い切ってもいいでしょう)。
 あの「ルパン三世」だって厳密に言えば「怪盗ルパン」のパクりですし、「銀河鉄道999」にしたって宮沢賢治の作品から何のヒントも得なかったと言えば嘘にしか聞こえません。
 ですがこれらの作品は、発想の出発点に他者からアイディアがあったとしても、物語の展開にはそれなりの独自性がありました。
 故にこれらは「ルパン」とか「銀河鉄道」という言葉を冠しながらも、一つの「独創的創作物」と認められてきたのです。

 しかし、表題作にはこれがありません。
 勝手な想像を書かせてもらえば、
「冒険活劇漫画を描きたいなぁ。あ、私ラピュタ好きだったから、あんな感じで。あと、ヒロインはやっぱミステリアスじゃないと。アヤナミ以降そういうのが流行だし、私エヴァ好きだったから。それから、メインの設定に漢字モノは外せないよね。アレすると、作者が頭良さそうにも見えるし、私、封神演義とか好きだったから・・・」
 と、このような軽い「同人ノリ」で、「好きだった」を理由に作者が悪意なく方々の作品をパクったようにしか見えないというか・・・。
 早い話が、拘りを持った「プロ」の作品には見えないワケなんですわ、ホントに。
 ま、本作だってそれなりにファンの方がいるからアニメ化までされたんでしょうが、作者の「絵」が好きという方以外にはこう申し上げておきましょう。

 世の中にはこの他にもアニメや漫画(もちろん映画や小説だって全然構いませんが)、たくさんあるんですよ?(うわっ、メッチャ敵作ってる予感。^^;)

File-036 24・シーズン2/~#10 (for FOX)

2005年05月13日 | Weblog
 ・・・意外です。
 面白いです、「24」シーズン2。
 全24話と長い話なので、「観るのがシンドそう」とレコーダの中にずっと寝かしておいたのですが、HDDがパンク寸前になってしまったので、GWを利用して一気に10話(現時点での最新エピソード)まで観たところ、プチヲタ的にはシーズン1よりかなりイケてると思いました。

 再々このブログで申し上げていることですが、大抵の場合、続編は「1」を超えることはありません。
 しかし、第10話までを観た限りでは、本作はそのジンクスの「稀な」例外となり得る可能性を秘めています。

 一体なにが本作をそこまで面白くしているのか?
 おそらく最大の要因は、前作の「受け身で語られるストーリー」から「(主人公たちが)主体的に行動するストーリー」へと、物語の展開方式を180度変更したことでしょう。

 即ち、シーズン1は「家族を人質に取られた主人公が、常に主導権を握られながら、相手の隙を見て機転(悪く言えば場当たり的)をきかせ、ピンチを乗り越えていく」という筋立てでした。
 これはサスペンスにおいてオーソドックスな手法であり、シーズン1を成功に導いた大きな要因であることは確かです。
 けれど、この物語展開には大きな「問題」もあります。
 それは、「物語のキーとなる転回点が、常に相手のミスにより生じる」ということ。
 簡単に言えば「相手の計画を完璧なものとして描いてしまうと、主人公は手も足も出せず、物語が成立しない」ってコトです。

 「ンなこと、当たり前じゃん」と思われるかもしれませんが、以前プチヲタはこうも書いていたハズです。曰く「ヒーロー物の成否を決めるのは、悪役の出来次第」だと・・・。
 仇役にどれほどの名優を起用しようと、それがポカばかりする人物だと、当然ながら観客はすぐに作品に対する興味を失います。
 しかし、全く隙のない完全無欠の悪党として描いてしまうと、今度は主人公の勝機がありません。
 これが「受け身型」ドラマの難しいところです。
 実際、シーズン1を観ていた時も、敵側の脇の甘さに辟易することが少なからずありました(ただ、全24話のTVシリーズならばそれも仕方のないという側面もあるので、目くじらを立てることはしませんでしたが・・・)。

 ところが、シーズン2では一転、主人公が「能動的」に動いて物語を進行させます。
 製作する側の、ここらへんの判断の的確さは、「さすがエンタテインメントの本場だけのことはある」と認めざるを得ません。
 設定的にも、前作は「受け身型」ドラマという作り自体が緊迫感を盛り上げるため、敵の標的は「大統領候補と主人公の命」という小さいモノでしたが、今回は相手の目標を「数百万ロサンゼルス市民の命」と大きくすることで、「ドラマの仕立て方」の部分で失った緊迫感を補っています。

 そして更に、プチヲタが「上手い!」と膝を叩いたのが、主人公の性格付けの巧みさ。
 ロスに持ち込まれた「核爆弾」を探す主人公が、前作で最愛の妻を失ったことで自暴自棄となった、いわば何時(精神的に)爆発するか分からない「もう一つの爆弾」として描かれていること。(これって「リーサルウェポン」のパクリっぽかったりしますが・・・。笑)
 その典型的な描写が、重要な手がかりを握るであろう「人物A」に近付くため、FBIが「人物Aを告発するために保護している証人」を主人公が射殺し、その「首」を手みやげに「人物A」に接触を試みるシーン。
 この「殺される」証人には、「極悪非道な変態ロリコンで、人物Aの犯罪について証言するかわりに、自身の子供に対する虐待行為を罷免させたクソ野郎」という人物設定が付いてはいましたが、それにしても有無を言わさず射殺してしまうとは・・・。(でも、主人公のこの「小気味よい」キレっぷりにプチヲタは「イイ!」と惚れ込みました。ちなみにアメリカの刑務所では、「小児性愛」がらみで入所した受刑者は、そのことがバレると他の受刑者からリンチを受けたりするとか・・・。もし事実なら、変なトコだけ「まとも」ですな、アメリカの受刑者って。笑)

 この主人公を筆頭に、とにかく今回のシーズン2は大半の登場人物がキレ気味に突っ走っていて、その危うさがすごく良いです(あたかもそれは、「核爆弾の爆発を是が非でも阻止する」という目的意識でかろうじて繋がっている「凧の糸」みたいな感じ)。

 ただ、唯一心配なのは、そのあまりの「走りっぷり」が災いして、物語の後半で息切れしないかということ(話的にはまだ半分もいっていないのに、プチヲタなどは早くも「満腹感」を感じていたりしますから)。
 ハリウッドの本領が発揮されれば、この心配は杞憂に終わるでしょうが、創作物はギャンブルと同様「水モノ」なので、ちょっぴり不安です。

PS)「FOX」の新しい「アイキャッチ」、アレは何?今までのヤツがスゴく良かったので違和感有りまくりだっちゅーの!元に戻せ、元に!!

File-035 WBS/5月10日 (for 日経CNBC)

2005年05月11日 | Weblog
 「WBS」こと「ワールド・ビジネス・サテライト」。
 地上波で午後11時から、CSでは午前12時15分から放送されている、TV東京の「看板ニュース番組」です。

 この番組、一見すると地味ですが、実はかなりの数のファンがいるらしく、最近のことに限ってみても「週刊アスキー」(パソコン雑誌)内の漫画でその名が出たり、番組内で扱った「農機具メーカーが作った有人ロボット」がネット上で話題になったりしていました(そういえば、先週は番組冒頭で「萌え」について取材してたな・・・)。
 もちろんプチヲタもかなり古くからの「WBS」ファンで、あの植草教授(手鏡で女子高生のスカート覗いたヒト。当時は「野村総研主任研究員」てな肩書きだったハズ)がコメンテーターをやっていた頃からずっとチェックしています。

 さて、今回この番組を取り上げたのは、昨日の放送で気になる特集を2つ組んでいたからです。
 まず最初のネタは、「好調な日本車メーカーと、不振にあえぐ米国車メーカー」について。
 この特集の中で、アメリカ(=世界)のトップ2のである「GM(ゼネラル・モータース)」と「フォード」の社債を、格付け会社が「ジャンク債」(「投機的債権」の意。平たく言えば「債務不履行などで損する可能性があるので、お金が大事なら買っちゃなんねぇよ!」ってコト)に格下げしたと伝えられていたけど、これを見てプチヲタはあることを思い出しました。

 今から7~8年ほど前だったでしょうか、「フォード」社製のSUV「エクスプローラー」が立て続けに横転事故を起こすという事件がありました。
 で、原因を究明していくと、事故は「エクスプローラー」と「ファイヤストーン」社製のタイヤの組み合わせでのみ発生していることが分かり、両社は賠償責任の矢面に立たされます。
 この時、「ファイヤストーン」社の親会社である日本の「ブリヂストン」は、「フォード」に対し「双方で話し合って原因の究明と補償に当たろう」と提案しますが、あろうことか「フォード」は「事故原因はファイヤストーン製タイヤの欠陥だ!」と一方的に決めつけ、さらにそれを同社の公式見解としてマスコミにも発表します。

 この話を読んでいて、何か思い出しませんか?
 悲惨な大事故を起こしながら、よく調べもせずに「事故原因は置き石かもしれない」と言い放った無責任な鉄道会社、日本にもありましたよね?

 上の事件では、一方的に悪役にされてはたまらんと、「ファイヤストン」側も「フォードはこちらが不適切だと指摘したタイヤ圧を強要(乗り心地をよくするため、タイヤの空気圧を下げるようにフォードは要求していた)してきた。それが事故の原因になった」と反撃。
 両社の関係は、取り引きを完全にやめてしまうほど悪化します。
 これ以後の経過についてはプチヲタも詳しく知らないのですが、「フォード」の業績悪化は「三菱自動車」と同様、ユーザーを軽視した天罰だとプチヲタは思ってるのですよ。(でも、「金に糸目を付けずに車を買うならどの車種にする?」と問われれば、迷わず「今年発売予定の新型フォード・マスタング!」と答えますケドね。笑)

 もう1つの特集は、このブログの「File-014」でも取り上げたアメリカの「軍産複合体」に関する話題。
 なんでもイラク侵略戦争の影響もあって、今年のアメリカの軍事関連支出は60兆円(!)にも届く勢いだとか・・・(60兆円って言ったら、日本が戦後最大の好況に沸いていたバブル期の国家歳入と同額ですよ。なに考えてんだ、あの国は・・・)。
 で、軍事産業最大手の「ロッキード・マーチン」社の工場を取材し、最新鋭戦闘機「F-35」(添付画像参照)の生産現場を写してましたが、同工場では生産コストを抑える手段としてトヨタの生産方式(「乾いた雑巾を更に搾るような」と形容される、世界最高の効率的生産法。「カンバン方式」の名でも有名)も取り入れる予定だとか。

 最近の米軍事産業は調子こいて1機2000億の爆撃機(B-2爆撃機。軍艦1隻分にも匹敵するその価格に、さすがの米軍も20機ほどしか買えなかった)とか、1機200億円の戦闘機(F-22戦闘機。こちらもそのあまりな値段に、購入機数を半減された)などと、常軌を逸した値札を製品に付けていましたが、ここに来てようやく自分たちの馬鹿さ加減に気付いた様子。
 ただ、件の「F-35」の開発担当者は「全世界でこの戦闘機を5000機売る!」と気の触れたようなことを宣っていましたので、馬鹿さ加減に気付いてもバカが治ったワケではなさそうです。(そんなクソ戦闘機なんざ売れねぇよ!byプチヲタ)。

 ちなみに日本の航空自衛隊は現在、次期戦闘機の選定作業に入ったばかり。
 それ系の雑誌では導入候補の機種についてあれこれ書いたりしていますが、たぶん運が良ければ安い「F-35」、運が悪ければ法外な価格の「F-22」を買わされることになるでしょう(アメリカ以外の機体を買うなど、親方メリケンが許すはずありません。ただし、それまでに日本の財政が破綻すれば話は別ですが・・・)。

 では、最後に蛇足を一つ。
 プチヲタは植草教授がコメンテーターをしている時からこの番組を観ていたと書きましたが、同氏の痴漢事件の一報を聞いたとき、すぐに納得できました。
 と言うのは、同氏は番組の中で論理的な良いコメントをするのですが、討論する場面などでは弱気な性格が災いしてか、よく相手に発言を遮られては、眉間に皺を寄せつつ言葉を呑み込んでいました。
 プチヲタはその様を見て、「うわぁ、このヒト絶対ストレス溜め込んでるわ」とずっと思っていたので、痴漢の話がでたときには「あぁ、やっぱり・・・」と。
 でも、痴漢は許されませんが、植草教授は頭のイイ人ですよ。「ミスター・yen」などと呼ばれて調子に乗ってる榊原某とかから比べれば、正味100倍は優秀です!(オイオイ、断言してるで・・・^^;)  

File-034 F-1GP/第5戦・スペイン (for フジテレビ721)

2005年05月09日 | Weblog
 もう来る、すぐ来ると言われ続けながら、なかなか来る気配の無かったF-1の「世代交代」。
 しかし、ついにその時が訪れたようです。
 昨日のスペインGPで優勝したキミ・ライコネン(マクラーレン・メルセデス所属/添付画像右側)と、2位のフェルナンド・アロンソ(ルノー所属/添付画像左側)。
 彼らは、「希望的観測」を抜きにした、正真正銘の「若き新王者候補」です。

 この2人は共に01年シーズンにデビューしました(ライコネンのチームメイトであるファン-パブロ・モントーヤも01年デビュー。同年はまさにドライバーの「当たり年」でした)。
 奇しくもそれは、現王者であり「F-1史上最強にして不世出の天才ドライバー」ミハエル・シューマッハの降臨から10年後、即ち「一時代」を経た時期でもあったのです。

 さて、それではこの「若き新王者候補」たちについて、簡単にそのキャリアを記しておきましょう。
 まずは今季第2戦から第4戦まで3連勝し、本年度チャンピオンの最右翼と目されるフェルナンド・アロンソから。
 彼は現在23歳ですから、デビューイヤーの時点では何と19歳(!)でした。
 しかし、その若さでありながら、アロンソは「F-3000」というF-1の下位カテゴリーを経験しており、ある意味「正統派」のキャリアを踏んでいます。
 デビューした年は「ミナルディ」(この「万年最下位」チームからデビューするのも、現在のF-1では「正統派」コースです)という、「F-1で勝つこと」より「参戦し続けること」に精力を傾けなければならないチーム(日本人の片山右京や中野信治もいたことがあります)に所属していたので、成績的には振るいませんでしたが、その才能は高く評価され、アロンソの個人マネージャーも務めるルノーの「チーム監督」フラビオ・ブリアトーレは「03年からレギュラー・ドライバーとなるための勉強」としてアロンソをルノーのテスト・ドライバーに抜擢。
 結果、1年間「実戦」から遠ざかることになりましたが、03年に強豪ルノーチームで再びレギュラー・シートを獲得したアロンソは、その年のマレーシアGPで「史上最年少のポールシッター(予選1位)」となり、22歳になったばかりの「ハンガリーGP」では「史上最年少ウィナー(優勝者)」の栄誉を掴み取ります。
 こうして顧みると、フェルナンド・アロンソのキャリアは、正に「王道中の王道」と言えるでしょう。

 これに対し、ライバルであるキミ・ライコネンのキャリアは「異例尽くし」です。
 そもそも、彼はF-1に来る以前のフォーミュラ・レースのキャリアは23レース(!)しかありません。
 しかもそれは「フォーミュラ・ルノー」というF-1から遙か遠いカテゴリー(F-1→F-3000→F-3と来て、更にその下)でのレースであり、「ザウバー」チームのオーナーであるペーター・ザウバーがライコネンの起用を決定した時、F-1の統括組織FIA(サッカーでいうFIFAみたいなもの)がF-1に参戦するための免許「スーパーライセンス」の発給に難色を示す(正確にはその発給資格をライコネンのキャリアがクリアしていなかった。野球なら現役中学生がプロ入りするような話なので、当然と言えば当然のことなのだが)ほど、ある種「常識外れ」の出来事だったのです。
 当然、多くのマスコミも、このペーター・ザウバーの「大英断」に疑問を投げかけましたが、デビューしたライコネンの走りは、シリーズ前半の内にこれらの声を黙らせました。
 ライコネンはフィンランド出身で、モーター・スポーツの世界では「速いフィンランド人ドライバー」のことを「フライング・フィン」と呼ぶ習わしがあるのですが、何と彼は先代「フライング・フィン」ミカ・ハッキネン(ミハエル・シューマッハ唯一のライバルと言われ、2度の王座を獲得したドライバー)の後継者として、「疑問視」されたデビューの翌年に、名門中の名門「マクラーレン」に移籍します(これも、慎重なことで有名な同チームの監督ロン・デニスの決断としては異例のことです)。

 このように、「若い王者候補」2人のキャリアは面白いほど好対照で、しかも性格的にもラテン特有の明るさを持つアロンソ、北欧のイメージそのままにおとなしげで「マスコミ泣かせ」との異名を持つほど無口なライコネン(ただし、酒を飲むとハメを外す癖があるようで・・・。笑)と、キャラクターとしても両極端。
 そんな両者のライバル争いは、必ずや沈滞気味のF-1に大きな魅力を与えてくれることでしょう(この両者の争いに佐藤琢磨が加わってくれれば、もう言うこと無しなんですが。ちなみに琢磨のデビューは2人より1年遅い02年です)。

 もっとも、そうは言ってもプチヲタはシューミ(ミハエル・シューマッハの愛称)がこのまま「大政奉還」するなどとはこれっぽっちも思っていません。
 あの「偉大なる天才」は絶対に巻き返してきます!
 ・・・てか、巻き返してくれないとシーズンが面白くなりません。
 やっぱ「世代交代」は、激闘の末に老兵が敗れ、後進にその座を委ねるという筋書きでないと盛り上がらないでしょ? 

File-033 ストラトス・フォー (for キッズ・ステーション)

2005年05月07日 | Weblog
 本作を「クソアニメ」とまでは申しません。
 しかし、TV版13話・OVA版第1期2話、そして昨日の深夜に放送されたOVA版第2期の第2話まで含めるとトータルで17話も作られているクセに、ほとんど誉めるべきポイントを持たない「薄っぺら」な作品であることだけは確かではないかと・・・(山内則康サンが「絵」を手掛けている点だけが、プチヲタがチェックし続けている唯一の理由)。

 この作品、基本設定は悪くありません。
 地球に隕石が大量に落下してくる環境に陥った近未来、衛星軌道上でその隕石の迎撃に当たるエリート部隊「メテオ・スイーパー(MS)」と、彼らが撃ち漏らした隕石(&その破片)を大気圏内で処理する最終防衛部隊「コメット・ブラスター(CB)」。
 主人公たちは「CB」に訓練生として所属し、花形である「MS」のパイロットを目指す・・・と。

 1クール全13話の物語のベースとして、過不足のない良い設定だと思います。
 が、「シンプル・イズ・ベスト」という言葉を知らぬのか、はたまた己らの才覚を過大に評価していたのか、本作の製作者はこれに「落下してくる隕石には、人間に寄生してその思考を操る知的生命体が付着している」などという余計な設定を加え、結果として「二兎追う者は~」の教訓通り、どっちつかずの「駄作スパイラル」へ突入!
 OVA版第1期では自らの過ちに気付いたのか、この「宇宙生物」設定を脇へと追いやりますが(でも、今度はストーリーがお粗末すぎて・・・)、最新のOVA第2期では、あろうことか「新キャラ」を3人も投入してきます。

 製作者たちは「シンプル~」と同様、「選択と集中」という言葉も知らないのでしょうか?
 なんだか、視聴率の低迷に喘ぐTV番組の、断末魔状態での「テコ入れ」を見ている気分です。
 元々いた4人のキャラすら「消化不良」なのに、更に3人も加えたところで、邪魔になりこそすれ、物語の救済にはなりません(実際、投入された新キャラが劇中で「何か私達、忘れられてる」とボヤいてましたから、その愚に製作サイドも気付いているのかも。時すでに遅し、ですが・・・。笑)。

 今さら言っても始まりませんが、「宇宙生物」などという蛇足を加えず、大元の設定(まさか「宇宙生物」の設定が先ってコトはない、よな?)に従って「エリート部隊」を目指す「美少女4人組の航空青春ストーリー」にしておけば、きっとそれなりに評価できる作品になっていたと思います。
 そして、その「シンプル」な形態で物語を完結させておけば、後日談の形で「宇宙生物」の話や「新キャラ投入」を無理なくスムーズに組み込めたことでしょう。
 本当に返すがえすも残念なアニメでした。(過去形って、オイ・・・。思いっきり現在進行形の作品だっちゅーの・・・。^^;)

 さて、このように物語的には何ら一つも「讃えるべき所」の無い本作ですが、それ以外から何か誉められる点を捻り出す(笑)とすれば、「飛行機がバンバン出てくるアニメを作りて~!」という製作者のヲタ意識が露骨な割には、その「顕示欲」にある程度の抑制が効いてることでしょうか。
 ヲタクは心が狭いので、知っている「ヲタ知識」をひけらかされるとストレートに反感を持ちます。
 ですから頭の良いクリエイターは、基本的にそれをしません。  

 例えば、銃を持っている主人公の前に強敵が現れたシーンで、相手を倒すために主人公が弾丸の種類を変える描写があるとします。その時
「この、戦車だって1発でしとめる20ミリ対戦車徹甲弾ならどうだ!」
 などと主人公に台詞で説明させるのは、まず三流の演出家です。
「この対戦車徹甲弾ならどうだ!」
 であれば二流、まぁ並でしょう。
 でも一流の演出家なら
「こんどの弾はちょっと違うぜ」
 と来ます(このネタのモデル、何人が分かるだろ?)。
 これならプチヲタのように「口うるさい」偏屈ヲタの反感を買うこともなく、それどころか「どう違うんだ?」という興味を逆に抱かせます(おまけに「一般人」の方にも、この表現が一番抵抗無く受け容れてもらえます)。
 
 本作の第3話「デシジョンハイト」(これと第1話は絵が良かったんで録画保存してます。^^;)では、高々度到達記録にムチャして挑んだ結果、主人公は燃料不足で基地に戻れなくなり、ギリギリ飛んで行けたグアムのアンダーセン米空軍基地に緊急着陸します。
 タイトルの「デシジョンハイト」とは「着陸決定高度」という意味の航空用語で、通常は「着陸中の飛行機がランディング(着陸)するか、ゴーアラウンド(着陸復航)して着陸をやり直すかを決定する高度」ということを示す語です。
 この言葉を、本作では「機体を捨てて脱出するか、一か八かで(途中に台風が立ち塞がる)グアムに向かうかを決定する」という選択肢に置き換え、プチヲタのような「航空ヲタ」をニヤリとさせます。
 ヲタクに限らず「ニヤリ」とするのは「共感」の証ですから、「無駄に余計な説明をしない」というスタンスは、「対ヲタク戦術」としてはそれなりに成功していると言えるでしょう。

 もっとも上記のように肝心な部分の出来が粗忽に過ぎるので、ヲタクの反感を回避したところで何の役にも立ってないですけどね(笑)。

File-032 ターミネーター (for スターチャンネル)

2005年05月05日 | Weblog
 前回の「ロボコップ」に続き、B級SFアクション繋がりで今回は「ターミネーター」をご紹介。
 もっとも、この作品を知らないという方は少ないと思うので、内容についてはスパッと割愛させていただきます(べつに断らなくても、毎度のコトなんだけど。笑)。

 さて、プチヲタがこの「ターミネーター」や「ロボコップ」を観ていつも思うのは、「映画というのはつくづく、作り手の情熱の賜物だなぁ」ということ。
 よく「映画は芸術だ!」などと、神をも恐れぬ暴言を吐く「映画通」気取りがいますが、ジョーダンはアイルランド系だけにしてくださいですよ、ホント(すみません、F-1ネタです・・・)。
 あんなのは発言者が「自分は芸術を解する人間なんザマス。所謂インテリゲンチアなんザマスのよ、私は」と愚にもつかない主張をしているだけの戯れ言で、映画はその誕生から今日まで一貫して「大衆娯楽」であり、額に入れて美術館に飾らなければ価値のでないような、低俗な存在じゃありません。
 てか、「芸術」というのは、人間の優越感をくすぐることでかろうじて存続している、凋落したかつての「大衆娯楽」の総称なんですヨ(「クラシック音楽」「オペラ」「バレエ」「歌舞伎」「能」「浄瑠璃」等々、芸術と呼ばれるモノは皆そうでしょ?)。
 芸術が「悪い」とは申しませんが、映画ヲタとしては、隆盛を極めている「我が愛すべき娯楽」を、手前勝手な虚栄心のために「過去の遺物」と一緒にするな!・・・ってカンジです。

 プチヲタが思うに、「映画監督」というのは「クリエイターズ・ヒエラルキー」の頂点にあります。
 これは決して独善的な解釈ではなく、作家や漫画家、あるいはアニメ演出家などのインタビューなどを見ると、やたら「映画監督になりたかった」という人が多いのです(また、日本で数少ない「映画学科」を持つ「日大芸術学部」が多方面に人材を輩出しているという事実も、このことの証左でしょう)。

 映画産業が斜陽な日本でさえこうなのですから、ハリウッドを擁するアメリカであればそれは尚更で、数少ないチャンスを求め、俊才から凡才までが跳梁跋扈しています。
 そして幸運にもチャンスを得た者が、次に繋がる結果を出すため、全身全霊を傾けて作品を撮る!
 「ターミネーター」はまさしくそんな気合いの籠もった作品です(世襲制で、「~の子供」というだけで出世が確約されている「伝統芸能」風情が、どうしてこの「ギラギラしたエリート」たちの創り出した娯楽作品に太刀打ちできましょうか?でーきーまーせーん!)

 本作はジェームス・キャメロン監督(プチヲタ絶賛の「エイリアン2」の監督です)が、B級ホラーの「殺人魚フライング・キラー」などを撮った後、メジャー入りを夢見て挑んだ渾身の一作であり、同様に主演のアーノルド・シュワルツネッガーも、「ミスター・ユニバース」あがりの筋肉バカというレッテルを払拭すべく奮闘しています。

 ただし、面白いことに間違いはないのですが、プチヲタ的には「上の下」あたりの評価で、「とにかく観ろ!」といった太鼓判は押せません。
 プチヲタはこの作品の評価をする時、同系(B級アクション)の「マッドマックス」をよく引き合いに出すのですが、「ターミネーター」も「マッドマックス」も新人監督が撮った低予算映画で、どちらも世界的に大ヒットしました。
 しかし、こんな言い方をするとちょっと変かもしれませんが、「ターミネーター」はほぼ完璧に「作り」が練り込まれていて、ともすると「売れないベテラン監督のB級作品」(例えに出すのは申し訳ないのですが、「ロッキー」の監督をしたジョン・G・アビルドセン監督とか)に見えなくもありません。
 対して「マッドマックス」は、低予算をカバーするためのムチャ(実際スタントマンが一人死んでいるとか・・・)が垣間見え、話もチョイ尻切れ気味に終わってたりするところが、なんか新人監督特有の「血気盛んさ」が感じられて好感がもてたりするワケです(ベテラン監督がそれをやったら、単なる「無能」ですけどね)。

 もっとも、キャメロン監督の「そつの無い映画作り」はその非凡さの証であって、本作のヒットを機に大作のメガホンを握るようになってからも、(面白い面白くないは別として)常に話題となる作品を撮り続けています(で、その「興行的な」頂点が「タイタニック」です。プチヲタは嫌いですけど・・・)。

 また、本作の続編は、「例の法則」に則ってあまり誉められた出来ではありませんが、それでも論じて損はない作品なので、今回は触れないでおきます(ネタの温存?)。

File-031 ロボコップ (for スターチャンネル・クラシック)

2005年05月04日 | Weblog
 日本の「特撮ヒーロー」物(宇宙刑事シリーズだっけ?)にヒントを得て製作されたことでも有名な、B級SFアクションの秀作にしてポール・バーホーベン監督の出世作。
 「ブレードランナー」適性の無いプチヲタにとっては、本作が「近未来SF」モノの頂点っぽいカンジ。
 これを言うと大半の「ブレードランナー」ファンは、「比べるべくもない」と露骨に本作を見下した言い方をしたりもしますが、そういう時プチヲタはこう返します。
「ブレードランナー2はどこ?3は?こっちは映画が3まで、あとTV版やアニメ版まであんねんけどなぁ。やっぱ、お客は正直やで」と。(もっとも「あんな続編なら無い方がマシ!」とやり返されると、グウの音も出ませんが・・・。^^;)

 さて、本作の概要を簡単に説明しますと、物語の舞台は荒廃しきった近未来のデトロイト。
 彼の地では警察業務も民営化され、巨大企業「オムニ」社がそれに従事していますが、先日大惨事を引き起こしたどこかの私鉄同様、「利潤追求」に熱中するあまり現場のモラルは著しく低下し、警官のストライキなどによって街の治安は悪化の一途を辿るハメに。
 で、その打開策として計画されたのが、ロボット警官(「ロボット刑事」ではありません。笑)「ED-209」。
 しかし、この期待のニューフェイスにはバグがあり、お披露目で「オムニ」社の幹部を蜂の巣にして計画はお蔵入り。
 そこで急遽代案として提出されたのが、殉職した警官を勝手にサイボーグ化する「ロボコップ」プロジェクト。
 で、誰か殉職しないかと手ぐすね引いて待っていた「オムニ」社幹部のもとに主人公の訃報が届くと、彼らは有無を言わさずそれをサイボーグ化し、ここに最強警官「ロボコップ」が誕生する・・・と。
 
 いや、ヒデェ話です、ホントに(笑)。
 「使えるモノなら親でも使え」どころか「使えるモノなら死者まで使え」って話ですから・・・・(^^;)。
 でも、ぶっちゃけ面白いんですワ、これが。
 シンプルな勧善懲悪のストーリーなので気楽に観られますし、またそういう「お気楽観賞モード」に、バーホーベン監督のハードな描写が意外に合ってたりもします。

 プチヲタはやたらツッコミをしてしまう性分なのですが、ツッコミどころ満載の本作には敢えて何もツッコミません。
 だって、最初に観たときはツッコミなど忘れて物語世界に見入ってましたから(同じツッコミでも、後から重箱の隅をほじくるようなツッコミってあまり好きじゃないんですよ)。

 では最後に幾つか余談を。
 本作は日本の特撮を元にしているせいか(もしくは当時、日本企業がブイブイいわしていたからか?)、結構日本がらみのネタがあったりします。
 劇中に「YAMAHA」の人工心臓のCMが流れたり(トヨタのセリカもチラッと登場していたような・・・。近未来の話なのに^^;)、続編で「オムニ」社を買収するのが日本企業だったり(「エイリアン」でもそうだったよな)するのですが、「銃ヲタ」として最大のトピックは、「2」以降の作品中で日本製のモデルガン(エアガン?)が使われていることでしょう。

 これは、ベレッタ社製の銃(確か93Rだったかと・・・)を改造して作られたロボコップ専用銃を、日本のモデルガン・メーカーが製品化し、それを日本人の映画評論家が続編の撮影現場に持ち込んだところ、その出来の良さに制作サイドが驚いて、製造元に「撮影用」として同製品を発注したという話で、プチヲタはこの「映画評論家」を小峰隆生氏(ジェームス・キャメロン監督と親交があり、同監督の作品にチョイ役で出ることで有名なヒト。大の銃好き)ではないかと思っていたのですが、偶然(本当に偶然)同氏とお会いする機会があり、このことについて訊ねてみたところ、「それは俺じゃないよ」と仰っておられました(となると、あと怪しいのは秋本某氏だけか・・・)。

 もっとも、日本製の「プロップガン(撮影用の銃)」が使われているからって「2」以降の続編を観ることがオススメかと言えば、答えは断固「NO!」です。
 あんなモノ、観る価値なんてありません。
 断言します。

 「ロボコップ」シリーズで観る価値があるのは、第1作目だけです!

閑話休題03 北朝鮮問題について思うこと

2005年05月03日 | Weblog
 あれ?もう「閑話休題」なの?
 「スターチャンネル」を「取り扱いch」に加えてネタ探しに余裕ができたせいか、今回はミョーに早く「閑話休題」が来たような気がします(実際はそうでもないんですケドね・・・。^^;)
 で、何について書こうか思案していたら、北朝鮮がまたミサイル発射演習をしたとかで世間をちょこっと騒がせていたので、それに関連したネタでいこうかと・・・。

 あ、いくらプチヲタに「ミリヲタ」属性があるからといって、やれ北朝鮮の軍備がドーノ、いや自衛隊の兵器がコーノとやるつもりはございません(てか、そんな詳しい知識も無いですし・・・)。
 今回は、ちょっと前からプチヲタが疑問に感じていることを、素直に書くだけのつもりです。

 さて、その疑問というのは、「北朝鮮で有事が勃発した際、はたして自衛隊は戦場となる朝鮮半島に戦争をしに行くのか?」という事です。

 TVでは北朝鮮問題に対し、訳知り顔の方々が、さも熟慮を重ねたような口ぶりで「ご高説」を宣ったりしていますが、プチヲタが観た限りにおいて、上の疑問を口の端にかけた人間は一人もいませんでした(非常にデリケートな問題なので、誰も明言したくないのでしょうが・・・)。
 日本本土もしくは在日米軍基地が北朝鮮に「直接攻撃」された場合は、安保条約に則って、日米両軍は北朝鮮に反撃をかけ、主に朝鮮半島で紛うことなき「戦争」をすることになります。
 これについて異論を挟む余地はありませんし、そもそも選択の余地すらありません。

 しかし、以下のようなシナリオで戦争の火蓋が切られたとしたら、はたして日本はどう対処するのでしょうか?
想定1)アメリカが北朝鮮問題を国連安保理に持ち込み、「北朝鮮が核の廃棄に応じない場合、多国籍軍による軍事介入に踏み切る」との意向が安保理で承認され、北朝鮮がこれを拒否した場合。
想定2)アメリカが北朝鮮問題を国連安保理に持ち込まずに、アメリカとその支援国だけで開戦に踏み切った場合。
想定3)北朝鮮で弾道ミサイルを発射する兆候が確認され、「予防的措置」として米軍が北朝鮮に「先制攻撃」を仕掛けた場合。
想定4)北朝鮮が日米に攻撃を仕掛けることなく、韓国に侵攻した場合。

 上の想定には(3)を除いて実例があり、(1)が「湾岸戦争」、(2)が「イラク侵略戦争」、(4)が「朝鮮戦争」です。
 そしてこれらのいずれに対しても、日本は財政支援や後方支援にこそ応じていますが、直接の戦闘には関与していません。

 これらの過去の例から見れば、日本は「北朝鮮問題」に関しても、本土が直接攻撃されない限り、武力行使は行わないということになります。
 しかし、自身の隣国で紛争が生じている時に、「我が国は戦争を放棄しているから」という理由で、それに直接関与しないということが本当に許されるのでしょうか?

 例えば想定(1)を見た場合、遙か欧州からNATO軍が参戦してきた時、「問題解決」の恩恵が一番大きい日本が戦争を「TV観戦」していたら、実際に血を流す兵士たちはどう思うでしょう?
 これは想定(2)や(3)でも同じ事です。日本からすれば「アメリカが勝手に始めた戦争」と言えなくもないのですが、アメリカ(と言うより「アメリカ人」)からすれば、「なんで当事者の日本が戦わないんだ?」ということに間違いなくなります。
 想定(4)は少々複雑で、ここには「日本に悪意ある視線を向ける韓国人を救うために、日本人が血を流す必要があるのか?」という、日本人の感情も絡んできます(特に現在の状況では尚更です)。

 プチヲタは独善的な気質の強い人間だったりしますので、こういう命題にはポンと「~したらええんじゃ、ヴォケ!」という短絡的結論を出すことが多いのですが、さすがにこの問題ばかりは「どうしたらええんやろなぁ・・・」と考えるばかりで、(正しい正しくないは別として)未だ結論を出すことができません。

 単純に考えれば「自衛隊を戦場に出す」という選択肢が最も合理的に思えますが、世の中には「1度破られた禁は、必ず以後も破られる」という法則があります(でしょ?)ので、1度でも自衛隊が戦場に出てしまえば、それ以降はなし崩し的に、手を変え品を変え「自衛隊の実戦投入」が行われるようになるでしょう。
 そしてそれは、賛否両論はあるとしても、まがりなりにも60年の長きに渡り平穏を保ってきた「平和国家」としての日本の終焉でもあるのです。

 当ブログを読んでくださっている方にはお分かりのことと思いますが、プチヲタはあからさまに「嫌中」「嫌韓」です。
 ですがこれは中国や韓国の、粘着質で歪みきった対日姿勢に強い反感を持っているだけであって、両国の人間が心底から嫌いだというわけではありません。
 ゆえに、両国が仕掛けてきた「反日」運動に呼応する形で、「太平洋戦争は不可避の戦争だった」と主張するような唾棄すべき輩にも、中韓両国に対するそれと同様の嫌悪感を持っています。

 この世に不可避の戦争は無いなどと言うつもりはありませんが、ただ一つ確実なことは、戦争は「やりたい(あるいは仕方ない)と思う人間」が一定数以上いない限り、極めて起こりにくい事柄なのです(日本が半世紀以上を平和に過ごせた理由の一つは、間違いなくコレ。即ち圧倒的多数の人間が戦争に「否」という感情を抱いていたから)。
 戦争を「是」としない国民が多数いれば、政府は敵対者との「妥協点」を探す労を惜しむわけにはいきませんから、戦争回避の可能性は高くなります。
 アメリカがやたら戦争を起こすのは、国民の多くがそれを「是」もしくは「やむなし」と考えているからであることは、やたら「愛国心」を持ち出す彼の国の人々の姿を見れば明白でしょう。

 人間は「慣れる」生き物ですから、1度でも「戦争」を経験してしまうと、やはり次第に慣れが生じてきます。
 日本人の「戦争否定主義」も、「戦争経験」という契機が訪れてしまえば、おそらく急速に萎んでいくはずです(この「戦争否定主義」が確立されたのは、太平洋戦争の「戦争経験」より「敗戦経験」のインパクトの方が格段に大きかったからです)。
 ですからプチヲタとしては、この国に何としても「戦争否定主義」を貫いてほしいのですが、上に想定されたような状況でそれを貫徹すれば、単なる「エゴ」でしかないような気もするワケで・・・。

 いやホント、結論だせませんわ、プチヲタ如きの頭では・・・。 

File-030 WWE (for J SPORTS)

2005年05月02日 | Weblog
 本当はコレ、先月の「スカパー大開放デー」のネタとしてアップする予定でした(Jスポ未加入なので・・・)。
 が、書き終えてアップした途端「エラー」が出て、哀れ原稿は忘却の彼方へ・・・・OTZ。
 同じコトを2度書く徒労はゴメンだったので、「来月の大開放デーの時にでも書けばいいや」と気を取り直し、新しい原稿をデッチあげてから1ヶ月。
 今月の番組表を見ると、5月1日は無料放送の時間帯に「スマックダウン」と「RAW」の両番組が入っていました。先月は「RAW」しか観られなかったので、これは大ラッキーです!

 ・・・・だが、しかし。
 「J SPORTS」、今月から大開放デーの協賛を抜けてやがりました(T.T)。
 プチヲタが今後「WWE」を目にする機会は破滅的に少なくなってしまったので、惜別の意味を込めて、今回のネタとさせてもらいます(それにしても、最近「大開放デー」の協賛から抜けるch多いなぁ)。

 さて、プチヲタと「WWE」との出会いは、ほんの些細な偶然からでした。
 職場でメシを食いながら同僚と話していたとき、会話の中に「ストーンコールド」という言葉が出てきたのが始まりです。
「ストーンコールド・・・?何よ、それ?」
「レスラーの名前。WWF(←当時の名称。笑)知らん?メッチャおもろいで!」
「そういや前にストーン・コールドって映画を観たけど、主演はプロレスラーとか言うとったな」
「ああ、ほんならそうかもしれんわ。とにかく1回観てみ」
 ・・・以上のような会話でその場は終わったのですが、結論を言えばこの会話の内容は間違いです。
 映画「ストーン・コールド」の主演はブライアン・ボズワースという人物で、WWEの「ストーンコールド」・スティーブ・オースチンとは別人でした(このブログを書くためにウェブで検索したら、「ストーンコールド」で出てくるのはこのレスラーの事ばかりで、映画の情報はグーグルのイメージ検索でようやくポスターを見つけて確認できました。「ストーン・コールド」という映画もそれなりに面白かったので、よもやここまで知名度が違うとは結構オドロキです)。

 上のようなやり取りで、プチヲタの頭の中には「ストーン・コールドの主演=WWFのレスラー」という間違った知識が刻まれることになりましたが、これは別段問題ではありません。
 なぜならプチヲタは筋金入りの「アンチ」プロレス派で、「プロレスガチンコ説」を唱える信者たちと舌戦を闘わせてきた人間でしたから、面白いと言われても、そんなもの観る気はさらさら無かったのです。

 ところが運命というか巡り合わせとは不思議なモノで、暇を持て余していたある日の深夜、CATVで偶然「WWF」と遭遇してしまいます。
 いや、正直に言うと、「ディーバ」と呼ばれるWWFの色っぽいお姉ちゃんが目にとまり、そのお姉ちゃん目当てで観始めたのが、たまたまWWFだったのです(性よのぅ・・・)。

 しかし程なくすると、余録として観始めたWWFの本編に、プチヲタはご執心となりました。
 プチヲタが「アンチ」プロレスだった最大の理由は、あからさまに八百長な試合を「ガチンコ」だと言い張るレスラー&ファンの姿勢が大嫌いだったからなのですが、WWFは「スポーツ・エンタテインメント」と称することで「プロレスは八百長である」と公言し、その上でエンタテインメントの名に相応しい優れた脚本を用意していました。
 
 そして、WWFに片足を突っ込んだところでプチヲタは「あの男」に出会い、より深みにハマってしまうのです。
 「アンチ」プロレスの急先鋒だったプチヲタをプロレスにハメた男・・・。
 それは「偉大なるプロレス馬鹿」にして「闘う億万長者」、WWFのオーナー「ビンス・マクマホン」!

 最初プチヲタは、出てくる度に「雇い人」たるレスラーにボコボコにされるこのおっさんを、悪徳オーナーを演じる「役者」だとばかり思っていました。
 だってWWFという団体は「NASDAC」だかに上場している「上場企業」であり、そこの大株主であるオーナーは途方もない億万長者なワケですよ。そのセレブなオーナー自らがリングに立ち、マットに叩きつけられたり、イスで顔面を殴打されたり、果てはレスラーの尻に顔を埋められて(笑)のたうちまわるなんて想像できますか?

 ところがコレが正真正銘のオーナーで、しかもこのオーナーの息子は金持ちのボンボンのくせしてトップロープ上から「場外」にいるレスラーにフライング・ボディアタックはカマすわ、娘は娘で深窓のご令嬢でありながら豊胸手術してレスラーにコケにされるわと、一族総出で団体を盛り上げる始末。
 まさに「捨て身の億万長者、闘えマクマホン一族」といった感じなのです(いや、マジで・・・)。

 更にこのオーナーの「捨て身」攻撃はリングの外でも発揮され、世界最大の自然保護団体である「世界自然保護基金」に「WWF」という名称の使用権を巡ってケンカをふっかけ、当然のように敗訴して名称を「WWE」に変更させられたりもしています(フツー本家本元の、しかも世界最大の自然保護NGOにケンカは売らんわなぁ。笑)。

 よく「ヒーロー映画の成否は悪役の出来で決まる」と言いますが、そういう意味では「WWE」は最高の悪役を、しかも離脱の危険性皆無で「保有」しているのですから、これは何よりの強みと言えるでしょう(このリッチでグレートな「敵役」の人気は相当なモノらしく、添付素材を求めて「ビンス・マクマホン」でググったら、メチャクチャ画像が出てきました。もっとも最近はオーナー業が忙しいのか、それともプチヲタの間が悪いのか分かりませんが、とんとお見受けいたしませんケド・・・)。

 まぁ、そんなワケで、ある期間ドップリと「WWE」にハマっていたプチヲタですが、「J SPORTS」が大開放デーの協賛を抜けてしまった今となっては、月に1度の邂逅すら叶わなくなってしまいました。
 ただ、飛び飛びで観ていた最近の展開がマンネリ気味だったのも確かなので、スッパリと訣別できそうです。
 もしこれが「正規軍」vs「反乱軍」(プチヲタが観始めた当初の展開)の頃だったら、食費を削ってでも「J SPORTS」に加入していたでしょうけどね(ホント、それくらい面白かったです。特にカート・アングルが裏切った時の驚きといったら・・・。ご存じの方なら同意してくれますよね?)。   

File-029 うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー (for スカパー160ch)

2005年05月01日 | Weblog
 シュー・ケツ・ダ・ダ・ボン!
 
 これがプチヲタの「うる星やつら」劇場版シリーズに対する評価で、1作目から順に「秀作→傑作→駄作→駄作→凡作」だったという意味です。
 表題の「ビューティフル・ドリーマー」は劇場版2作目、即ち「傑作」の位置に当たる作品で、プチヲタとしては奇才・押井守カントクの最高傑作でもあると思っています。

 本作は理屈より感性(もしくは記憶)に訴えかける構成になっているので、宮崎駿カントクが円熟の境地に撮った傑作群(「カリ城」から「ラピュタ」に至る3傑作)のような「万人向き」の作品ではありませんが、ツボにハマれば、それらに勝るとも劣らぬカタルシスを観る者に与えてくれます。

 さて、「理屈よりも感性に訴える」とはどういうコトか説明するためには、まず本作の主題について触れておかなければなりません。
 この作品にはそれに該当する要素が二つあり、一つは「既視感」、そしてもう一つが「覚醒夢」です。
 「既視感」は「デジャヴ」の名でも知られている、「この光景、なんだか以前にも見たような気がする」とか「これとまったく同じことを、以前にもしたような気がする」といった、ほぼ全ての人間が経験するという感覚のことで、「覚醒夢」とは、夢を見ているということを「ああ、これは夢だな」と認知できる夢のことです(余談ですが、専門家の言うところによると、夢というものは原則「白黒」なのだそうですけど、プチヲタはモノクロの夢など見た記憶がありません。夢は常に「総天然色」です。てか、見える光景が白黒だったらすぐ夢と気が付くように思うのですが・・・?)。
 
 本作は冒頭シーンとして、主人公たちが通う高校の「学園祭前日」から物語が始まり、劇中、幾度もの朝と夜の訪れを描きながら、エンディングを迎えるのは「学園祭当日」の朝となります。
 つまり、延々と繰り返される「学園祭前日」という「日々」を描いているワケです。
 しかも、この部分における「日常の描写」、即ち学園祭を翌日に控えた主人公たちの描写が実に見事で、押井演出の極みと言えるでしょう。

 具体的に述べると、「深夜まで学校に居残る非日常感」とか「お祭を直前に控えた高揚感」といった独特の「空気」が画面に織り込まれ、ある意味、観ている人間にも「デジャヴ」を感じさせる作りとなっているのです。
 しかもそれを、押井カントクは「リアリティ」に頼らず(教室に戦車を持ち込んで展示し、あまつさえそれが暴走するといったような、あり得ないエピソードが次々に出てくる)、大半の観客が共有しているであろう「最大公約数的な記憶」(人々が「あー、あるある!」と頷くような、共通性のある体験の記憶)を用いた「ムード(=空気)」だけで表現し、また成立させているのですから、ホント空恐ろしい才能というほかありません。

 やがて物語が進んでいくと、際限なく続く「学園祭前日」というキーワードに疑念を持ち、(ずっと「デジャヴ」による錯覚だと考えていた)「同じ1日」がループして繰り返されている「現実」に思い至る人間が現れます。
 そして、この「現実」はおかしいと登場人物たちが「認識した」瞬間から、劇中の世界は「現実」から「夢」へと変転するのです。
 「覚醒」している「現実」の中で見る「夢(=既視感)」から、「夢」の中で覚醒したために得た「現実感(=覚醒夢)」へ。
 このあたりの切り替えも溜息モノの素晴らしさで、「押井ワールド」の真骨頂と申し上げてよいでしょう。

 「ネタばらし」は当ブログの本意とするところではありませんし、最初に記したように「感覚へ訴えかける」本作の魅力は、駄文をいくら並べたところで皆さんに伝わるとは思えません。
 ですので、興味を持たれた方には、是非とも本作を観賞することをオススメします。
 そして凡百のクリエイターなら別個に扱うであろう「既視感」と「覚醒夢」という難しい題材を、「学園祭前日」という最高の舞台を見出して融和させた、究極の「押井ワールド」を堪能してください。
 感性に起因することなので断言こそできませんが、それでも多くの方々には単純に物語としての面白さと、学生時代のかけがえのない思い出を再認識する幸福の二つを、この作品は与えてくれると思います。

 あ、でも原作マンガの「うる星やつら」が大好きという方は、ちょっと要注意かも!
 なんでも原作者の高橋留美子サンは本作がお嫌いらしいです(自分が構築した物語世界とあまりにもかけ離れているのがその理由だとか)。
 プチヲタは原作マンガのファンでは無かったので純粋に「押井作品」として楽しめましたが、原作が「なにより1番」という方にはこう断っておくべきでしょう。

 この「ビューティフル・ドリーマー」に原作マンガの面影はありません(それやったら「うる星やつら」とは違うがな。笑)。