只管打坐ということもあります。
ひたすらに座りなさいということであるらしいのですが、
僕は、自転車にのっているのも、この只管打坐でないかなとおもっています。
数回見えたことのあるパニック系の男性から
気功を学びたいといわれたときに、気功の先生を薦める気にならなかったのも、
気功は気をコントロールするための方法であるため、
これも、只管打坐かな^^なんて思って、
自転車にのっても気功をやっているようなものですよ^^と
応えてしまいまいした。
只管打坐は曹洞宗での坐禅のはなしですが・・・
臨済宗では、ちょっと違う、座りながらどうも考えるらしい・・・
坐禅の型はあるのですが、これ、実際に呼吸の指導に使ったりします。
坐禅のときは薄めで、目をつぶってはいけなく、
呼吸は鼻をメインにするため。舌先はLの発音のときの位置に
・・・これって、呼吸の指導のときに使っています。
その他もろもろ・・・
大切なことは、ひとつのことをやるというのかな・・・
ですから、自然を相手にするときに、その意味がわかる。
あきらめ(諦め)ながら、あきらめ(明らめ)る
現状を見定めるのであって、受け入れるのとも違うと思います。
それ以上に、周囲を見渡す、気配を感じる
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自分の体験から、自身の影におびえるという感覚があります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最近では、江戸川を調子よく遡上しているときに、必ずといっていいほど
であう方がいて、このひとにあうと、一気に調子が悪くなります。
え~~ 数日前には最悪で、帰りの間中、考えにつきまとわれました(妄想)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
で、諦めることにしました。今度であうときは、自転車の速度を落とそう、
(ふらふら自転車にのっていて、しかも、片手で顔を隠し、危ない)
で、実際に、見かけてから大減速して、見定めました。
すると、妄想でなく、現実になりました。
ただ、ふらふらとしている人。その速度だと危なくないので、いつでも
よけることができますから・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明らめられたのかな^^とおもいました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
ひたすらに座りなさいということであるらしいのですが、
僕は、自転車にのっているのも、この只管打坐でないかなとおもっています。
数回見えたことのあるパニック系の男性から
気功を学びたいといわれたときに、気功の先生を薦める気にならなかったのも、
気功は気をコントロールするための方法であるため、
これも、只管打坐かな^^なんて思って、
自転車にのっても気功をやっているようなものですよ^^と
応えてしまいまいした。
只管打坐は曹洞宗での坐禅のはなしですが・・・
臨済宗では、ちょっと違う、座りながらどうも考えるらしい・・・
坐禅の型はあるのですが、これ、実際に呼吸の指導に使ったりします。
坐禅のときは薄めで、目をつぶってはいけなく、
呼吸は鼻をメインにするため。舌先はLの発音のときの位置に
・・・これって、呼吸の指導のときに使っています。
その他もろもろ・・・
大切なことは、ひとつのことをやるというのかな・・・
ですから、自然を相手にするときに、その意味がわかる。
あきらめ(諦め)ながら、あきらめ(明らめ)る
現状を見定めるのであって、受け入れるのとも違うと思います。
それ以上に、周囲を見渡す、気配を感じる
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自分の体験から、自身の影におびえるという感覚があります。
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最近では、江戸川を調子よく遡上しているときに、必ずといっていいほど
であう方がいて、このひとにあうと、一気に調子が悪くなります。
え~~ 数日前には最悪で、帰りの間中、考えにつきまとわれました(妄想)
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で、諦めることにしました。今度であうときは、自転車の速度を落とそう、
(ふらふら自転車にのっていて、しかも、片手で顔を隠し、危ない)
で、実際に、見かけてから大減速して、見定めました。
すると、妄想でなく、現実になりました。
ただ、ふらふらとしている人。その速度だと危なくないので、いつでも
よけることができますから・・
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明らめられたのかな^^とおもいました。
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