奇しくも今朝、安倍首相がアリゾナメモリアルを訪れスピーチをしましたが、別に安倍ちゃんが訪問するから行った訳でもなく、日米の歴史を語るうえでとても重要な場所ですから。
朝6時20分にバスがホテルに迎えにくる。20人乗り程度の小型のバスでほぼ満席。
全員日本人でおそらく全員翌日マラソンを走る人だと思う。
高速道路を通って30分ほどで到着。
国立の施設になっていてます。
朝7時前なのに入り口にはかなりの人が並んでいました。
数日前までは真珠湾攻撃75周年のイベントが開かれていてもっと混んでいたそうです。
白人がほとんどで日本人は少な目。
入り口ではセキュリティが厳しくバッグやポーチ類も持ち込み禁止。カメラもケースに入っているとNG。
入り口の横に有料の荷物預かりがありますが結構な混雑。事前に連絡もらってましたが手荷物持ってきた人が多くガイドはぶつぶつ・・・
最初に潜水艦などが展示してあるスペースに。これは米軍のMARK14型魚雷。
旧日本軍の人間魚雷「回天」
操縦席部分が外から見えるようになっています。
配管が複雑にからまってます。
1.5トンの爆薬を積んでこの狭い操縦席に座った当時の青年の気持ちや如何に。想像すらできません。
米軍潜水艦「ボーフィン号」
太平洋戦争末期、沖縄から疎開する児童などを乗せた対馬丸を魚雷攻撃で撃沈した潜水艦です。
1476名が犠牲になりそのうち約半数が小学生でした。
もし日本軍の潜水艦が同じ事をしたらどうなっていたでしょう。恐らく戦後に行われた軍事裁判で「人道に対する罪」で厳しく罰せられたでしょう。BC級戦犯がそうだったように。
ところが戦勝国だとこれが戦争犯罪どころかパールハーバーの敵を討った英雄として、このように記念艦として保存されているのです。
戦争の矛盾を感じずにはいられません。
中に入って見学できるのですが、ガイドさんはこの潜水艦がよほど気に入らないのか連れて行ってくれませんでした。
戦争中に沈没され行方不明になった軍人の慰霊碑。
米軍では行方不明の場合基本的に現在も作戦行動中として扱われているそうです。
すぐに戦死広報を出してしまう日本軍とえらい違いです。
5年ほど前に亡くなった私の叔父は玉砕の島として有名なパラオのペリュリュー島にいましたが運よく生き残り米軍の捕虜になりました。
しかし家には戦死広報が届き葬式まで出したそうです。戦後生きて帰ってきた時家族はびっくり。
その時もらった戒名を亡くなった時そのまま使いました。
「全軍突撃し玉砕す」という一報が入ると全員戦死とする日本軍。船が沈んで行方不明になっても作戦行動中のアメリカ。日米の死生観の違いでしょうか。
一旦施設を出てバスに乗って長い橋を渡り対岸にある戦艦ミズーリ記念館に向かいます。
戦艦ミズーリとミニッツ提督の銅像。
ミズーリはアイオワ級戦艦の3番艦として建造。終戦後東京湾で降伏文書の調印がされた艦として有名です。
排水量53,000トン。大和の7万トンよりは小さいが米軍最大の戦艦。
全長は大和より長いが幅は狭い。これはパナマ運河を通れる最大幅。
映画の撮影のために造った実物大の大和を見学した事がありますが、やはりホンモノの持つ迫力は違います。
40.6cm3連装の主砲。
主砲弾。
つい先日浜松市内で不発弾が見つかり処理されましたが、まさにこれです。
戦争時、国鉄の浜松駅に努めていた伯父がいますが、米軍の艦砲射撃後この不発弾を見たそうです。
一抱えもあり人間よりはるかにでかかった、と言ってましたがそんな事はありません。
恐怖心がより大きく見せたのでしょう。
ゼロ戦の特攻機がぶつかり舷側に出来たへこみ。
これは沖縄戦の時、鹿屋基地を出撃した第5建武隊の石野節雄二等兵曹と判明。
上半身が艦上から回収されその後水葬に付されたそうです。
特攻機がぶつかる瞬間の写真。
後に行ったアリゾナ記念館もそうですが、こんな小さなへこみすぐに直せばいいようなものだがアメリカ人は敢えてそれを残す。国民性の違いをここでも感じました。
艦橋内のようす。
ミズーリは朝鮮戦争後いったん退役。しかし湾岸戦争の時改修され再就役。ですからコンピューターなどの電子機器が並んでました。
主砲を発射するには数百人が必要だが、新たに装備されたミサイルはたったひとりがボタンを押すだけだけで発射できる。
大艦巨砲がなくなったのも理解できますね。不発弾多いし。
戦艦ミズーリのすぐ横にこんなものが置いてある、これもアメリカらしい。
ミズーリ記念館を後にして次は航空博物館に向かう。
真珠湾攻撃の時に不時着したゼロ戦。
ほぼ当時のままで残されている。色がやや薄い気がするがオリジナルはこの色だったらしい。
B-25
東京を初空襲した双発の中型爆撃機。
現在も使われている格納庫。
日本軍機による機銃掃射の跡があるらしいが確認できず。
航空博物館をあとにして再び最初の入った所に戻る。いよいよアリゾナ記念館へ。
アリゾナ記念館に行くには船に乗らなければならない。
戦艦アリゾナは割と陸地に近い所に沈んでいるので、橋を架ければいいのにと思うのだが。
軍事的な理由があるのか、あるいは演出として敢えて船に乗せるのか。
ちなみに船に乗る前には映画を見せられます。英語で分からないのですが、多分日本軍の奇襲攻撃を受けリメンバーパールハーバーを合言葉にみんな頑張った、みたいな内容なのでしょう。
いよいよ近づいてきました。
すぐ近くに先ほど行った戦艦ミズーリがあります。
記念館の下に戦艦アリゾナが沈んでいます。
見えているのは主砲の砲塔跡。
この下に現在も数百名の遺体があるそうです。回収しようとすればできるが敢えてしない。それがアメリカという国です。
今でも油が漏れ出ています。
戦死者の名前が彫られたプレート。
75年前、この空の上には日本軍のゼロ戦や97艦攻がたくさん飛んでいたと思うと感慨ひとしおです。
入り組んで狭いこの真珠湾で航空機からの魚雷攻撃するのは至難の業だったに違いない。
当時の日本の空母機動部隊の攻撃力は間違いなく世界一だったと思う。
大型空母4隻やゼロ戦や97艦攻といった優秀な艦上機や魚雷などの装備、そして乗員の練度も最高の仕上がりだったと思う。
アメリカとの国力の差は認識しつつ、この機動部隊があればもしかしたら・・・と誰しも思ったと思う、山本五十六も。
しかし現実は国力の差科学技術の差はいかんともしがたく、ボコボコにされて敗戦。
75年後このハワイで日本人がたくさんマラソンを走ってる。当時の人は想像すらできないでしょうね。
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