清野幸輝/Photo日記

徒然なるままに撮り歩いた、「水の景」「花の景」.......

●Prologue

2011-04-10 10:42:14 | 世の中のこと

              

震災から1ヵ月が過ぎようとしている。TVや新聞は今日も衝撃的な映像を伝えている。何も出来ない私には、被災された皆様に心からのお見舞いを申し上げるほかに術はない。

被災地の方々、避難所で生活されている方々、衣食住、医療、プライバシーなど制約された環境の中で、互いに支えあい、復興へ向けて歩み始めているという。東北に住む人々のねばり強い側面が伺える。これが地震、津波の天災だけなら復興は急速に進んでいくだろう。だが今回は、それにブレーキをかける要因が存在する。

原発事故という人災である。日々、TVなどマスコミに登場する原子力の専門家や経産省の原子力安全保安院などは口癖のように「人体への影響はない」を繰りかえしている。彼らは、「毎日、1㌔ものほうれん草を食べるる人はいないだろう」とか「日々、何リットルもの海水を飲む人はいないだろう」、あるいは「CTスキャン撮影の1回分にも満たない」など医学的な例を挙げて安心宣伝を振りまいている。問題なのは人体に蓄積される線量なのだ。確かにヨウ素131の半減期は8日で、時間とともに体から出て行くが、セシーウムはどうなのだろう、これから汚染が予想されるストロンチュウム、プルトニュウムは?考えただけで背筋が寒くなる。原発を中心とした避難区域の設定にしてもそうである。10㌔,20㌔、30㌔など、同心円上に設定されているが、本当にこれでよいのだろうか。風向や風力、降水状況などなどによって避難区域は同心円ではなくいびつになるはずである。アメリカ政府が自国民に対して80㌔圏外へ避難勧告をしたという意味が何となく理解できる。汚染された水が海に放出されたときもそうである。「汚染は広い海で拡散され影響は弱まっていく。海域の魚への影響も次第に薄まる」。確かに海を巨大で静的な水の集合体というふうに単純化した場合、一般的にはそのようなことが言えるだろう。だが、実際の海は波もあり、海水の流れもある。被災海域には親潮と黒潮があり、これらがぶつかり合って合流し、その本体は太平洋に遠ざかるが、海岸付近に沿うようにして流れている地域もあるという。そのような場所では、汚染は拡散どころか凝縮することが考えられる。今少し、被災住民本位のピンポイントで正確なデータ、情報を提供する必要がある。このように、東電や国の原子力安全保安院は正確なデータを公表していないのではないか、という疑問を感じる。今、IAEAや各国の原子力専門グループが技術的な支援を申し出ているが、正しいデータを分析する事で的確な方針が生み出される。現状では各国の英知を生かすことが出来ない。それどころか「今回の津波は想定外であり、これに準じた対策を立てれば大丈夫」など、この現状のなかで「安全神話」を唱える潮流も見逃せない。これこそ、正に想定外と言うべきだろう。

今回の事故で明かになった事の一つとして、東北地方の海岸一帯は、大東京に電力を供給するための原発ラインだと言っても過言でない。これじゃ、東北に住む人達はたまったものじゃない。東京の方には悪いのだが、そんなに安全ならば、都内に建設すればよい。例えば、安全神話の旗振り役である、経産省のすぐ近くに日比谷公園という広大な空き地があるではないか。いや、これは、勿論、私の考えでもないし本心でもない。こうでも言わなければ収まりが付かない大きな怒りが込み上げてくるのだ。

東海大地震が近々予想される震源域の真上に「浜岡原発」が唸りを上げて駆動している。この唸りが、東海地方に住む人々の呻きに変わらないように、「福島原発」の教訓をふまえた全国民的視野に立った議論が必要な時がきたように思う。被災地の復興と新しいエネルギー政策のための荘厳なPrologue。