メールにて敬愛する憂国の人井上氏より資料送付あり。以下掲載。
各位
井上寛康
チベット人のペマ・ギャルポ氏のチベット動乱の論評を御参考に
転送いたします。
【チベットの哀しみ】挑発に怨念噴出
産経新聞2008年3月22日
中国のチベット族居住地域で騒乱が続発している。チベット自治区の区都ラサだけ
でなく、四川省など近隣の各省に住むチベット族も中国当局とぶつかっている。チ
ベット族はいま、なぜ、このような行動に出ているのか。チベット仏教最高指導者、ダライ・ラマ14世のアジア・太平洋地区担当初代代表を務めたペマ・ギャルポ桐蔭横浜大学法学部教授(54)は21日、産経新聞に対し、中国共産党の支配下に入ったあとのチベット族の悲惨な境遇を振り返りながら、今回の騒乱に至る経緯などを、以下のように説明した。
ペマ・ギャルポ桐蔭横浜大教授
≪チベット族釈放要求≫
今回の騒乱は3月10日から始まった。1959年、ダライ・ラマがインドに亡命することになったチベット決起(動乱)からちょうど49年にあたるこの日、ラサでは僧侶たちが平和的にデモを行った。それが、死者99人(チベット亡命政府発表)を生む騒乱に拡大した。
中国の温家宝首相はダライ集団が背後で糸を引いた「計画的」な騒乱と主張している。だが、報道された映像をみると、僧侶は素手で店を壊したり、石を投げたりしていた。計画的であれば何らかの武器を持っているはずだ。むしろ、当局側の挑発行為があり、民衆が興奮したのが事実だろう。
3月10日のデモは毎年、中国国内のチベット族、海外のチベット人亡命者で行われている。だが、今年はこれまでのデモと違う点が3つあった。
昨年10月、ダライ・ラマは米議会から「議会名誉黄金章」を受章した。チベットでは祝賀会が全土で行われたが、この際、多くのチベット族が当局に逮捕された。今回のデモは拘束されているチベット族の釈放を求めることが目的のひとつだった。
≪五輪を政治利用≫
今年開催される北京五輪のため、中国政府がチベットを「政治利用」していることに対する抗議の意味も強い。聖火リレーがチョモランマ(英語名エベレスト)を通過するのはチベットが中国の一部であることを誇示するためだ。チベット人にとっては、それぞれの山に神がいる。山に登られること自体、抵抗がある。五輪のマスコットに使われているのはチベットの動物であるパンダとチベット・カモシカだ。チベットにおける植民地支配を正当化するために、オリンピックを政治の道具にしている。
ラサまでのびる青蔵鉄道の開通により、チベットへの「経済的侵略」が明確になってきたことに対する反発もある。鉄道開通によりコレクターらが文化財である寺院の骨董(こっとう)品や床の石などを買いあさっていく。だから、中国人の店が抗議対象になった。
また、チベットは希少金属などの鉱物資源も豊富だ。鉱物資源は青蔵鉄道で運ばれているともいわれている。鉄道は軍事的な目的も大きい。中国はソ連解体時、ミサイルを列車に乗せる技術を入手したといわれている。
中国政府は五輪開催が近づいてから問題が起きるより、3月10日のタイミング
使って、捕まえるべき人を捕まえようとしたのではないか。そのために、平和的なデモに対して挑発的な行為に出て、騒乱を引き起こしたと考える。
中国政府は暴動のシーンを発信することで、「仕方なく騒乱に対処するのだ」との印象を世界に与えようとしたのだろう。だが、チベットには観光客がいた。IT(情報技術)も発達していた。中国が伝えようとしたことと異なる事実が世界に流れた。
≪雰囲気一転≫
私は53年6月、現在の四川省の甘孜(ガンズ)チベット自治州で生まれた。父はもともとは藩主ということもあって、51年に北京政府と結んだ条約に基づいて、県長にもなった。中国側は、私のことを「藩主の子」と呼んでかわいがってくれた。家に毛沢東、劉少奇、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマの4人の写真が掲げられていたのを覚えている。人民解放軍の兵士たちも一生懸命、人を助けたり、私にもあめ玉をくれたりしたことがある。
ところが、それがある日、雰囲気ががらりと変わる。子供でも、毛沢東の写真に、傷を付けたりして喜ぶようになった。
私の村では水道がないので、水を川からくんでくるのが、女の子の日課になっていたが、中国軍に届け、乱暴されたことが何回かあって、それがきっかけで、摩擦が起きた。そこで村民が立ち上がった。
■中国指導部 決断の時
■交渉相手 ダライ・ラマだけ
それは1958年ごろだったと思う。逃げながらラサまで行った。何度か、追っ手の中国軍と戦い、村を出た当初は200人の大きな集団だったが、インドにたどりついたときは20人ぐらいになっていた。後から聞いたら、残ったおばあさん2人と兄2人は、餓死したり、射殺されたりしたらしい。
人々の話では、一番つらかったのは、人民裁判で、奥さんがだんなさんを、子供が親を告発したりしたことだという。人民裁判では、殴ったりしなければならなかっ
た。
私の父には、妻が2人いた。つまり私には母が2人いた。年下の母は共産党に非協力的で、騒乱を起こしたうちの一人だ。
その下の母にはそっくりのいとこがいて、(中国軍は)その人を殺し、見せしめにした。下の母を捕まえ、処刑したように見せかけたらしい。
80年5月、パンチェン・ラマと北京で会ったとき、一番つらかったのは刑務所で人としゃべれなかったことだと言った。彼は19年間、独房に入っていたので、私たちと会ったときも言葉がたどたどしかった。
チベット全土では、家族が全員そろっている人はいないと思う。必ず、誰かが犠牲になっている。
≪住職・檀家の関係≫
中国はあれだけ広いのに、北京の時間で国を統一している。チベットと中国は、2時間半から3時間の時差がある。しかし、北京の時間がチベットに適用されているので、チベットではまだ明るいのに、夕食を食べなくてはいけない。これが現実で、いかに北京中心の価値観が押しつけられているかということだ。
チベットの面積は中国全体の960万平方キロメートルのうち、250万平方キロメートル。チベット人居住地域にはチベット自治区とかチベット自治州とか、「自治」という言葉がついている。
チベットは2100年以上の歴史を持つが、チベット人が一番誇りに思っているのは吐蕃(とばん)王朝(7世紀ごろから9世紀中ごろ)の時代だ。チベットが中国にかいらい政権をつくっていたこともあった。
中国とチベットはお互いに、仲良く過ごした時代もある。最も仲が良かったのは、元の時代である。それから、明、清の時代と続くが、この時代はたとえば、ナポレオンが皇帝になっても、ローマ法王の認知と後押しがなければ、国民に対して正統性をもてないように、中国の歴代皇帝とダライ・ラマもそんな関係に似ていた。檀家(だんか)(中国)とお寺の住職(チベット)の関係だった。
檀家が偉いか、住職が偉いかは時代によって違うが、チベット側からすれば、自分たちの方が聖職で偉いと思っていた。こうした関係は1900年代まで続いた。
30年代、チベットには中国の支配が及んでいなかった。その証拠に、日本と中国が戦争したときに、チベット人は中国からかり出されなかった。49年に中華人民共和国が成立すると、朝鮮戦争のどさくさにまぎれ、人民解放軍がチベットに入ってきた。
≪権威、いまだ健在≫
中国政府は、今回のチベット騒乱を押さえ込んで正常に戻ったと言っているが、実際にしているのは、戦車を町に巡回させ、公安当局が疑わしい人物を捕まえることだ。これが世界中に知られれば、波紋を呼び、問題となるだろう。チベット族の運動の火山帯は活発であり、今後、どういうきっかけで何が起こるかは予想がつかない。そうならないためにも、中国政府は一日も早くダライ・ラマと真剣に対話すべきだ。
チベット側に、ダライ・ラマが重視する対話などの穏健路線に不満を持っている人がいるのは事実だ。しかし、最終的にはダライ・ラマに逆らうわけにはいかない。ダライ・ラマの権威は、いまだに健在といえる。
中国政府はダライ・ラマの悪口を言っているが、もしダライ・ラマに何かがあれ
ば、中国政府は交渉相手がいなくなるということを真剣に考えるべきだ。ダライ・ラマの下で問題を解決できれば、後遺症を残さない軟着陸が可能だ。
ただ、中国側との話し合いがうまくいっていないのは、中国指導部のなかに完全に強い人がいないためだ。これまでの話し合いのなかで、かなり具体的な話はできているが、それを実行するには決断が必要だ。その決断ができないから、話し合いを引き延ばしたりするのではないか。
もしかすると、中国指導部は現場の状況を把握していないのかもしれない。胡錦濤総書記(国家主席)は昨年秋の中国共産党大会で2期目を迎えたが、彼が力を持てば、チベット情勢は変わるかもしれない。
以上。
私もサンケイ紙上でのこの文に触れた際に、ペマ氏が心の中ではおそらく相当悲しみと打ちひしがれ、憤っているであろうに、よく冷静に語ってみえると、学者のつらさというか良心を感じていた。
しかし長年のペマ氏のご活躍を思うと、日本よ、かつての良き隣人愛の精神をどこに追いやったのか。アジア同胞の危機に立ち上がった先人の魂をうしなってどこに漂流していこうとするのか。日本精神の後継者はいないのか。
この叫びがひしひしと、その穏健な言葉の奥から伝わってきてならなかった。長年、日本にみえて、日本人よ、アイデンティティを回復せよと語ってみえる氏の思いにこたえずして何の日本人か。
現在進行中の虐殺を即刻中止させねば。あらゆる個人、団体で、抗議の声を上げて行こうではないか。
各位
井上寛康
チベット人のペマ・ギャルポ氏のチベット動乱の論評を御参考に
転送いたします。
【チベットの哀しみ】挑発に怨念噴出
産経新聞2008年3月22日
中国のチベット族居住地域で騒乱が続発している。チベット自治区の区都ラサだけ
でなく、四川省など近隣の各省に住むチベット族も中国当局とぶつかっている。チ
ベット族はいま、なぜ、このような行動に出ているのか。チベット仏教最高指導者、ダライ・ラマ14世のアジア・太平洋地区担当初代代表を務めたペマ・ギャルポ桐蔭横浜大学法学部教授(54)は21日、産経新聞に対し、中国共産党の支配下に入ったあとのチベット族の悲惨な境遇を振り返りながら、今回の騒乱に至る経緯などを、以下のように説明した。
ペマ・ギャルポ桐蔭横浜大教授
≪チベット族釈放要求≫
今回の騒乱は3月10日から始まった。1959年、ダライ・ラマがインドに亡命することになったチベット決起(動乱)からちょうど49年にあたるこの日、ラサでは僧侶たちが平和的にデモを行った。それが、死者99人(チベット亡命政府発表)を生む騒乱に拡大した。
中国の温家宝首相はダライ集団が背後で糸を引いた「計画的」な騒乱と主張している。だが、報道された映像をみると、僧侶は素手で店を壊したり、石を投げたりしていた。計画的であれば何らかの武器を持っているはずだ。むしろ、当局側の挑発行為があり、民衆が興奮したのが事実だろう。
3月10日のデモは毎年、中国国内のチベット族、海外のチベット人亡命者で行われている。だが、今年はこれまでのデモと違う点が3つあった。
昨年10月、ダライ・ラマは米議会から「議会名誉黄金章」を受章した。チベットでは祝賀会が全土で行われたが、この際、多くのチベット族が当局に逮捕された。今回のデモは拘束されているチベット族の釈放を求めることが目的のひとつだった。
≪五輪を政治利用≫
今年開催される北京五輪のため、中国政府がチベットを「政治利用」していることに対する抗議の意味も強い。聖火リレーがチョモランマ(英語名エベレスト)を通過するのはチベットが中国の一部であることを誇示するためだ。チベット人にとっては、それぞれの山に神がいる。山に登られること自体、抵抗がある。五輪のマスコットに使われているのはチベットの動物であるパンダとチベット・カモシカだ。チベットにおける植民地支配を正当化するために、オリンピックを政治の道具にしている。
ラサまでのびる青蔵鉄道の開通により、チベットへの「経済的侵略」が明確になってきたことに対する反発もある。鉄道開通によりコレクターらが文化財である寺院の骨董(こっとう)品や床の石などを買いあさっていく。だから、中国人の店が抗議対象になった。
また、チベットは希少金属などの鉱物資源も豊富だ。鉱物資源は青蔵鉄道で運ばれているともいわれている。鉄道は軍事的な目的も大きい。中国はソ連解体時、ミサイルを列車に乗せる技術を入手したといわれている。
中国政府は五輪開催が近づいてから問題が起きるより、3月10日のタイミング
使って、捕まえるべき人を捕まえようとしたのではないか。そのために、平和的なデモに対して挑発的な行為に出て、騒乱を引き起こしたと考える。
中国政府は暴動のシーンを発信することで、「仕方なく騒乱に対処するのだ」との印象を世界に与えようとしたのだろう。だが、チベットには観光客がいた。IT(情報技術)も発達していた。中国が伝えようとしたことと異なる事実が世界に流れた。
≪雰囲気一転≫
私は53年6月、現在の四川省の甘孜(ガンズ)チベット自治州で生まれた。父はもともとは藩主ということもあって、51年に北京政府と結んだ条約に基づいて、県長にもなった。中国側は、私のことを「藩主の子」と呼んでかわいがってくれた。家に毛沢東、劉少奇、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマの4人の写真が掲げられていたのを覚えている。人民解放軍の兵士たちも一生懸命、人を助けたり、私にもあめ玉をくれたりしたことがある。
ところが、それがある日、雰囲気ががらりと変わる。子供でも、毛沢東の写真に、傷を付けたりして喜ぶようになった。
私の村では水道がないので、水を川からくんでくるのが、女の子の日課になっていたが、中国軍に届け、乱暴されたことが何回かあって、それがきっかけで、摩擦が起きた。そこで村民が立ち上がった。
■中国指導部 決断の時
■交渉相手 ダライ・ラマだけ
それは1958年ごろだったと思う。逃げながらラサまで行った。何度か、追っ手の中国軍と戦い、村を出た当初は200人の大きな集団だったが、インドにたどりついたときは20人ぐらいになっていた。後から聞いたら、残ったおばあさん2人と兄2人は、餓死したり、射殺されたりしたらしい。
人々の話では、一番つらかったのは、人民裁判で、奥さんがだんなさんを、子供が親を告発したりしたことだという。人民裁判では、殴ったりしなければならなかっ
た。
私の父には、妻が2人いた。つまり私には母が2人いた。年下の母は共産党に非協力的で、騒乱を起こしたうちの一人だ。
その下の母にはそっくりのいとこがいて、(中国軍は)その人を殺し、見せしめにした。下の母を捕まえ、処刑したように見せかけたらしい。
80年5月、パンチェン・ラマと北京で会ったとき、一番つらかったのは刑務所で人としゃべれなかったことだと言った。彼は19年間、独房に入っていたので、私たちと会ったときも言葉がたどたどしかった。
チベット全土では、家族が全員そろっている人はいないと思う。必ず、誰かが犠牲になっている。
≪住職・檀家の関係≫
中国はあれだけ広いのに、北京の時間で国を統一している。チベットと中国は、2時間半から3時間の時差がある。しかし、北京の時間がチベットに適用されているので、チベットではまだ明るいのに、夕食を食べなくてはいけない。これが現実で、いかに北京中心の価値観が押しつけられているかということだ。
チベットの面積は中国全体の960万平方キロメートルのうち、250万平方キロメートル。チベット人居住地域にはチベット自治区とかチベット自治州とか、「自治」という言葉がついている。
チベットは2100年以上の歴史を持つが、チベット人が一番誇りに思っているのは吐蕃(とばん)王朝(7世紀ごろから9世紀中ごろ)の時代だ。チベットが中国にかいらい政権をつくっていたこともあった。
中国とチベットはお互いに、仲良く過ごした時代もある。最も仲が良かったのは、元の時代である。それから、明、清の時代と続くが、この時代はたとえば、ナポレオンが皇帝になっても、ローマ法王の認知と後押しがなければ、国民に対して正統性をもてないように、中国の歴代皇帝とダライ・ラマもそんな関係に似ていた。檀家(だんか)(中国)とお寺の住職(チベット)の関係だった。
檀家が偉いか、住職が偉いかは時代によって違うが、チベット側からすれば、自分たちの方が聖職で偉いと思っていた。こうした関係は1900年代まで続いた。
30年代、チベットには中国の支配が及んでいなかった。その証拠に、日本と中国が戦争したときに、チベット人は中国からかり出されなかった。49年に中華人民共和国が成立すると、朝鮮戦争のどさくさにまぎれ、人民解放軍がチベットに入ってきた。
≪権威、いまだ健在≫
中国政府は、今回のチベット騒乱を押さえ込んで正常に戻ったと言っているが、実際にしているのは、戦車を町に巡回させ、公安当局が疑わしい人物を捕まえることだ。これが世界中に知られれば、波紋を呼び、問題となるだろう。チベット族の運動の火山帯は活発であり、今後、どういうきっかけで何が起こるかは予想がつかない。そうならないためにも、中国政府は一日も早くダライ・ラマと真剣に対話すべきだ。
チベット側に、ダライ・ラマが重視する対話などの穏健路線に不満を持っている人がいるのは事実だ。しかし、最終的にはダライ・ラマに逆らうわけにはいかない。ダライ・ラマの権威は、いまだに健在といえる。
中国政府はダライ・ラマの悪口を言っているが、もしダライ・ラマに何かがあれ
ば、中国政府は交渉相手がいなくなるということを真剣に考えるべきだ。ダライ・ラマの下で問題を解決できれば、後遺症を残さない軟着陸が可能だ。
ただ、中国側との話し合いがうまくいっていないのは、中国指導部のなかに完全に強い人がいないためだ。これまでの話し合いのなかで、かなり具体的な話はできているが、それを実行するには決断が必要だ。その決断ができないから、話し合いを引き延ばしたりするのではないか。
もしかすると、中国指導部は現場の状況を把握していないのかもしれない。胡錦濤総書記(国家主席)は昨年秋の中国共産党大会で2期目を迎えたが、彼が力を持てば、チベット情勢は変わるかもしれない。
以上。
私もサンケイ紙上でのこの文に触れた際に、ペマ氏が心の中ではおそらく相当悲しみと打ちひしがれ、憤っているであろうに、よく冷静に語ってみえると、学者のつらさというか良心を感じていた。
しかし長年のペマ氏のご活躍を思うと、日本よ、かつての良き隣人愛の精神をどこに追いやったのか。アジア同胞の危機に立ち上がった先人の魂をうしなってどこに漂流していこうとするのか。日本精神の後継者はいないのか。
この叫びがひしひしと、その穏健な言葉の奥から伝わってきてならなかった。長年、日本にみえて、日本人よ、アイデンティティを回復せよと語ってみえる氏の思いにこたえずして何の日本人か。
現在進行中の虐殺を即刻中止させねば。あらゆる個人、団体で、抗議の声を上げて行こうではないか。
今週の土日にかけて、
西三河においても、
中共糾弾の情宣活動をしましょう。
宣伝車、西三河のどこかに、
置いておいても、いいです。
今は、徹底的に、
日本国民に訴えましょう。
国旗国歌を強制するのは違憲?
中日新聞を見ると東京で国歌斉唱をせず着席する先生が大々的に取り扱われていた。それも十回ほど命令違反をして、今回免職になるのを覚悟の教師という。免職になればまた裁判の口実とするのであろう。
かつて難波とか言う裁判長が公立高校などで、国歌を歌うのを強制することは憲法違反だとの判決を出した。国歌斉唱をするのを公務員にさせるのがいかんなどとのたまう。それも戦争を連想させるなどという理由をもちだして。サッカーやボクシングなどで、国歌を歌っちゃ問題になると言うのか。オリンピックで、金をとったら国旗揚がってうれしくて君が代うたうのが戦争賛美なのか。もし北京オリンピックが開催されて、日本が金を得て、国旗が揚がれば、軍国主義を助長すると北京政府に抗議に行かれるのか、内政干渉だとでも理屈をつけて。
わざと座る行為は極めて政治的行為であり、教師として勤務中にすべきことではない。教育放棄に対して懲戒処分をするのは当然であり、それをあたかもヒロインの如く報じる中日新聞の良心を疑わざるを得ない。
かつて、教師時代、卒業式や入学式での国家斉唱中に先生方がしゃべってみえて、「生徒の手前、しっかりしてくださいよ。」と、注意して回っておった自分は、憲法違反やっていたというのか。
時代遅れの裁判官がおり、わがままな知性の低い教師がいてそれを支援するマスコミがある。これがこの国の現状なのか。
歌いたくない人は私立の先生になればいいのでしょう。(私立で歌わない先生は即「首」でしょうが)東京の学校崩壊、やはり分かる気がします。先生方の教育にかける情熱、岡崎とはぜんぜん違うということです。
やはり学校に出かけていかねば現状は変わらないのでしょう。
君が代歌わぬ教師は即刻クビにすべきでしょう。
わがまま言うようなら税金泥棒の一言で充分です。
私立であっても国から補助金もらっている以上、君が代を歌うのは当然です。
同志社大学の創立者、新島襄は幕末若きころ函館より決死の思いでアメリカに密航を試みた。吉田松蔭がペリーの船に乗り込んだ如くに。当然鎖国の時代に許されようはずも無く、密航である。単に若き冒険心でなくこの国に対して懸命に尽くそうとの並々ならぬ決断の故である。が、船賃も無く雑役夫として働いたのである。皿洗いの最中、誤って、スプーンを一本海中に落としてしまった。中国人の給仕に脅され「高価な銀のスプーンかもしれない」と思った新島は持っていた日本のカネすべてを持ち出し、アメリカ人船長に不注意の詫びをいい代償として受け取ってほしいと申し出る。船長はにっこり笑いカネを受け取らずその行為をほめ、さらに上海からアメリカ行きの船を斡旋してくれたのであります。その船長自身は密航の手助けをしたことにより解任されてしまったのですが。新島は他の船長からも目をかけられ、ついに船主が養父として無償で面倒を見てくれることとなり、九年間に渡りアメリカで学ぶことになる。新島の並々ならぬ決意と自助努力そして気概がアメリカ人の心を動かしたのである。
岩倉使節団が派遣された際、新島は密航のとがを受けることなく、留学生として処遇され、木戸孝允(桂小五郎)の通訳として随行。クラークが学長を務めるマサチューセッツ州立農学校に案内した。その出会いからクラーク博士が来日。日本の教育に多大なる影響を与えることになったのである。
名も無き密航青年が明治の元勲と臆すること無く共に国家の前途かくあるべしと談じる様子に明治日本の清々しさを感じるのは私だけではあるまい。そして青年の清き熱き思いこそ今の時代に必要なのです。
または、詳しい人に聞きましょう。
杉田氏のブログファンは、確実に増加しています。
本日の情報産業も、よろしくお願いします。
善ければ、私のブログの
コメントに載せてください。
ブログに載せます。
コメントで書き込んでください。
毎日でも載せます。
ブログは毎日訴え続けることです。
私のブログのコメントに書き込んでください。
http://plaza.rakuten.co.jp/seimeisugita/
今後ともよろしくお願いいたします。
お時間が合うときに、いろいろと勉強させて頂きたいと思います。
ところで、日曜日の講演の中で「円周率」という言葉が出ましたが、こんなことを考えていたのを思い出しました。
「円周率=3」だとどれぐらい誤差が出るのかを計算したのですが、円周長、円の面積、球の体積などどの計算でも、円周率=3で計算すると真値に対して誤差は約4.5%ほど、3.14で計算すると約0.05%ほどです。
「ゆとり教育」とはなんだったのだろうかと考えていたときのひとコマでした。
失礼いたします。
かつてアメリカは第一次世界大戦の前から極秘にピンク作戦、ブラック作戦、オレンジ作戦の三つを用意していたという。ピンクは盟友であるはずのイギリスを仮想敵国にし、ブラックはドイツ、オレンジは日本である。しかし第1次大戦が勃発しヨーロッパが戦場と化しイギリスもドイツもアメリカの脅威ではなくなったとき、オレンジ作戦を国是にして、あらゆる仕掛けに動いたのである。蒋介石を支援して武器を投入し日本の進出を悉く退け、大陸に影響力を持とうとした。ドイツ攻略のために日本と戦端を開いたとの見方もあるが、果たしてそうであったのか。オレンジ作戦こそ主眼であったのではないかと思われてならない。
そのアメリカはいまどのような戦略を持っているのか。人権問題に常に敏感に反応するアメリカが、なぜチベットを非難せず、北京オリンピックを非難せず、台湾の国連加盟に必死に反対したのか。ドルの一方的下落は連動する元との公刊レートさえ維持できれば危機を脱しうると判断したのであろうが、余りに中国よりの言動は不可解である。太平洋を中国と二分する提案には、一応反対しているようだが、利にさとくしたたかなアメリカの本音はすでに中国との共同世界支配に傾いてきたのではないか。少なくとも民主党の選挙主張には日本が完全に入っていず、中国一辺倒である。かつて田中角栄が中国との協調路線を敷き、エネルギー戦略を、アメリカからはなれ、カナダからウラン買い付けに走ろうとしたのを阻止し、ロッキード事件を表ざたにし、逮捕までさせ、失脚させた実績を持つ。小泉首相とのイラン共同歩調時は蜜月時代を生み、経済のグローバル化を後押ししていたアメリカは、安倍首相の自立価値政策には快く思わなかったのであろうか、小泉氏ほどの協調姿勢を示さなかったのではなかろうか。チャイナ仕掛けの南京だの慰安婦非難決議だの、同盟国にあらざる対応をしてきた。良識ある日本人は明らかな虚偽に過ぎぬ慰安婦決議を通したアメリカの対応に不信感を持ったはず。私もその一人である。
いままたチベットの批判を本来すべきアメリカの沈黙が、どうしても腑に落ちぬ。杞憂であろうか
教えてくれてありがとう!!!ソッコーで旅行代稼げたよ(σ・∀・)σ
「臭いぉちωちωが好き」って変態女だったから千ン⊃洗わないで会ったら
大喜びで根元まで咥えてキレイにしてくれたしwwwwアホすぎーーーwwww
でもパイのデカさは最高だったわ(・∀・)