草莽の記     杉田謙一

教育・防衛・慰霊・エネルギー・歴史についての意見

合格おめでとう 高校入試発表の日

2008-03-21 23:24:40 | Weblog
 今日は愛知県高校入試の発表日。

 生徒にはすぐ報告に来るように言ったあってのであるが、心配な生徒に限って報告がない。もうだめだったのだろうか。しかし、大丈夫だと思いますよと社員の言葉。しかし、心配でならない。

 今年の入試の事前予想は自分で驚くほど。読みどうり。

 数学の図形はほぼ一致。「明日の試験は俺が作ればこれ」と提示したのは三角形の面積だしと円がらみの相似三角形での辺の長さ出し。7・8・9センチで予想したが、入試は7・8・5センチだったか。ほぼ同じ。面積だしも方針は同じ。しかもヘロンの公式で答え合わせもしっかりやっておいた。見事的中の部類である。自分が恐ろしいほどである。自画自賛ではあるが。

 試験に出る出ない。これは生徒にとって最大の関心事であることかも知れない。入試に失敗するわけに行かぬからこちらも必死。生徒も限界に向かってくるしみながらも必死になる。その中で共に進んでいくのは貴重な体験である。

 しかし「それが勉強か」と思われてならない。どこか邪まさのただよう道である。常に自問する。

 かつて、とあるお坊さんに「生徒さんの指導はどうですか」と問われ、「生徒が東大受かりました」と得意げに語ったことがあった。一生懸命、ともにがんばってなしえた実績を誇ろうとしていたのでした。見透かしたごとく「杉田よ、それがなんだ」「勘ちがいしているぞ」と厳しい言葉。(別に聞かれたから答えたまでなんだ。)と心の中では反発していたのですが。

 しかし確かに大学が、高校が、目標ではない。人生に対する考え方を学ぶのが学問なのです。
 毎日の学問は己の忍耐力や向上心をどれだけ深め得たかによってはかられなければならない。自分がなせば済むことを、人のせいにして責任を逃れてはいなかったか。自分の気力の衰えを他人のせいにしていないだろうか。成績が本物になるものは逃げないで引き受けた者のみが成功できるんだ。日々そんな事を投げかけてきたつもりである。
 
 宮沢賢治の理想は雨にも負けずにあらわれている。でくの坊になりたいと彼は言う。僕らもでくの坊と呼ばれようじゃないか。友のためにたとえ何もできなくてもおろおろして心配する、そんな自分に。
 生徒に言っている言葉がいまの自分への言葉。おろおろしてるのはプロ教師じゃないと知っていても毎年同じ姿のまま。情けないと思っても進歩できない。

 勉学したものは心が養われなければうそである。やる気になれない自分があるとすれば、本物の勉学ができていない証拠。
 そんな言葉に賛同してくれる生徒が成果を出してくれともに人生の出発を喜べるものである。
 明日は卒業生と食事会。また金がかかるなあ。でも何にも代えがたい喜びである。彼らの決意を聞くことが。

 私の「草莽の記」は生徒にとって入試後解禁.何人が読んでくれるだろうか。

気になった二人見事合格したといってきたのは6時過ぎ。遅すぎるぞ。