
芸術史にとって、イタリアのルネッサンスと同等に語られるメキシコの壁画運動について記述しておきます。
メキシコの芸術は壁画を抜きには語れない。そして、数々の傑作を生み出す土壌となった壁画運動もまた、メキシコ史を語る上で重要な要素となっている。
壁画運動の背景
壁画運動はメキシコ革命の文化遺産である。メキシコ革命は、34年にも及んだディアス独裁政権(1877~1911)への反発から生まれた。政府が長期にわたって推し進めた外国資本依存型の近代化政策は、海外投資家と裕福な白人階級、一部のエリート層にのみ利益が集中するという悪質な社会・経済構造を作り上げていたのである。一般国民、すなわちインディヘナ(先住民)とメスティーソ(混血)の人々を排除した権力政治に対する不信感は、やがて、スペイン人に征服される以前の“土着的なもの”を再評価する動きにつながっていく。
壁画運動のはじまり
命終結後まもない1920年初頭、インディへナ(先住民)やその文化を高く評価していた政治家、ホセ・バスコンセロスが文部大臣に就任。“メスティーソ(混血)”という民族主義をもとに国家統一を図ろうと考えた彼は、その一環として、国立学校や市庁舎といった公共建築物の壁面を開放し、いまだ革命熱冷めやらぬ若手芸術家たちに壁画の制作を依頼した。メキシコシティのサン・イルデフォンソ学院の講堂に描かれた記念すべき第一作目『創造』は、巨匠ディエゴ・リベラによるもの。
壁画について
主にヨーロッパ帰りの画家たちを中心に、必ずしも平面ではない“キャンバスとしての壁”を最大限に活用すべく、技法と構想を練りながらの制作が行われた。題材は、「古代文明」、「インディヘナの生活」、「スペイン人による征服」、「革命の過程」など歴史的な事柄が多く、具体的かつ分かりやすい描写を念頭に置いていた。なぜなら、メキシコ革命の精神や意味を広く民衆に訴えるためには、教育の有無を問わず、大人から子供まで、誰が見ても理解できる作品にする必要があったからである。また、壁画という開かれた媒体を通して、その当時、画家個人と絵画収集を好む一握りの裕福な白人階級だけのものだった芸術を、大衆の文化に帰属させることも目標に掲げていた。生や死など、人類の普遍的テーマを扱った作品も残されている。
壁画の三大巨匠
リベラ、オロスコ、シケイロスは壁画の三大巨匠と呼ばれている。時期は異なるものの、ともに国立サン・カルロス美術学校で絵画を学んだ。1907年に奨学金でヨーロッパに渡って以来、主にフランスでの活動に従事していたリベラは、1920年、シケイロスと出会う。シケイロスは、前年より、パリ大使館付文化担当官として当地に赴任していた。「ヨーロッパ的絵画に固執するメキシコ画壇に革命を起こしたい」、というシケイロスの考えに共感したリベラは、彼と共に壁画研究のためイタリア旅行に出かける。1921年にリベラが、その翌年にシケイロスが帰国。一方、オロスコは、美術学校在学中(1908年~)に壁画運動の先駆者ドクトル・アトルと出会い、早くから壁画に関心を抱いていた。3人はバスコンセロス文部大臣からの要請を受け、1922年より本格的な壁画制作に着手することになる。シケイロスが中心となって結成された革命的な芸術家組合は、壁画運動の原動力となった。
1922年に始まったメキシコ壁画運動は近代に入って非西欧圏で起こったという意味でも非常に希有な文化ルネッサンスの中心的運動であったといえる。後にヨーロッパのシュルレアリズムの芸術家たちを始め劇作家のアルトー、映画監督のエイゼンシュタイン、写真家のエドワード・ウエストン、ティナ・モドッティー、また北川民治、藤田嗣治、岡本太郎、利根山光人、阿部合成らたくさんの日本の画家たち、イサムノグチ等々、多くの国の様々な分野の芸術家、文化人に多大な影響を与えた。
メキシコの芸術は壁画を抜きには語れない。そして、数々の傑作を生み出す土壌となった壁画運動もまた、メキシコ史を語る上で重要な要素となっている。
壁画運動の背景
壁画運動はメキシコ革命の文化遺産である。メキシコ革命は、34年にも及んだディアス独裁政権(1877~1911)への反発から生まれた。政府が長期にわたって推し進めた外国資本依存型の近代化政策は、海外投資家と裕福な白人階級、一部のエリート層にのみ利益が集中するという悪質な社会・経済構造を作り上げていたのである。一般国民、すなわちインディヘナ(先住民)とメスティーソ(混血)の人々を排除した権力政治に対する不信感は、やがて、スペイン人に征服される以前の“土着的なもの”を再評価する動きにつながっていく。
壁画運動のはじまり
命終結後まもない1920年初頭、インディへナ(先住民)やその文化を高く評価していた政治家、ホセ・バスコンセロスが文部大臣に就任。“メスティーソ(混血)”という民族主義をもとに国家統一を図ろうと考えた彼は、その一環として、国立学校や市庁舎といった公共建築物の壁面を開放し、いまだ革命熱冷めやらぬ若手芸術家たちに壁画の制作を依頼した。メキシコシティのサン・イルデフォンソ学院の講堂に描かれた記念すべき第一作目『創造』は、巨匠ディエゴ・リベラによるもの。
壁画について
主にヨーロッパ帰りの画家たちを中心に、必ずしも平面ではない“キャンバスとしての壁”を最大限に活用すべく、技法と構想を練りながらの制作が行われた。題材は、「古代文明」、「インディヘナの生活」、「スペイン人による征服」、「革命の過程」など歴史的な事柄が多く、具体的かつ分かりやすい描写を念頭に置いていた。なぜなら、メキシコ革命の精神や意味を広く民衆に訴えるためには、教育の有無を問わず、大人から子供まで、誰が見ても理解できる作品にする必要があったからである。また、壁画という開かれた媒体を通して、その当時、画家個人と絵画収集を好む一握りの裕福な白人階級だけのものだった芸術を、大衆の文化に帰属させることも目標に掲げていた。生や死など、人類の普遍的テーマを扱った作品も残されている。
壁画の三大巨匠
リベラ、オロスコ、シケイロスは壁画の三大巨匠と呼ばれている。時期は異なるものの、ともに国立サン・カルロス美術学校で絵画を学んだ。1907年に奨学金でヨーロッパに渡って以来、主にフランスでの活動に従事していたリベラは、1920年、シケイロスと出会う。シケイロスは、前年より、パリ大使館付文化担当官として当地に赴任していた。「ヨーロッパ的絵画に固執するメキシコ画壇に革命を起こしたい」、というシケイロスの考えに共感したリベラは、彼と共に壁画研究のためイタリア旅行に出かける。1921年にリベラが、その翌年にシケイロスが帰国。一方、オロスコは、美術学校在学中(1908年~)に壁画運動の先駆者ドクトル・アトルと出会い、早くから壁画に関心を抱いていた。3人はバスコンセロス文部大臣からの要請を受け、1922年より本格的な壁画制作に着手することになる。シケイロスが中心となって結成された革命的な芸術家組合は、壁画運動の原動力となった。
1922年に始まったメキシコ壁画運動は近代に入って非西欧圏で起こったという意味でも非常に希有な文化ルネッサンスの中心的運動であったといえる。後にヨーロッパのシュルレアリズムの芸術家たちを始め劇作家のアルトー、映画監督のエイゼンシュタイン、写真家のエドワード・ウエストン、ティナ・モドッティー、また北川民治、藤田嗣治、岡本太郎、利根山光人、阿部合成らたくさんの日本の画家たち、イサムノグチ等々、多くの国の様々な分野の芸術家、文化人に多大な影響を与えた。
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