That's the Way I Am

私の好きなものについて

映画 ■■天井桟敷の人々■■

2014年11月18日 19時53分40秒 | 映画
「今まで見た映画の中で、何が一番好き?」と聞かれたら、これ。

語り出したら止まらないので、覚悟して読んでください!
それから、ラストシーンのことまで書いているので
これからこの映画を見たいと思われる方は
読まない方が良いです...



■■天井桟敷の人々■■

Yahoo映画 4.11(5点満点 2014 11/16現在)



この映画を見たのは大学時代だったと思う。
二部構成になっていて、途中休憩が入る、とても長い映画だったけど、長いなんて全く思わず、夢中になってみていた。
そして、最後には涙が滝のように流れていたと記憶する。
当時20前後だった私の心にピタッとはまり込んでしまった映画だった。



まずは主人公バチストへの共感。
彼は長い間、精神的な混迷から抜け出せず
声も出さず何処にも行かず
自分の殻の中に閉じこもっていた。

父親である劇団の団長から「でくのぼう」扱いされ
話しかけても頭を叩いても無反応の彼は
見せ物としてみんなからも笑い物にされてきた。

それでもバチストは自分の世界に閉じこもることしか出来なかった。

今になって思うと
これは今日本で社会現象になっている「引きこもり」に似ている。
当時はまだ「引きこもり」なんて言葉さえなかったのだけど。

バチストは殻に閉じこもっている自分の姿を大衆の前にさらけ出し
みんなの嘲笑を浴びていたので
部屋の中に閉じこもって
一切人に会わない「日本の引きこもり」とはちょっと違う。



そんな自分の殻に閉じこもった彼を目覚めさせたのは
絶世の美女ギャランス。
スリの濡れ衣を着せられたギャランスを救うため
バチストのスイッチが突然OFFからONに切り替わる。
長い眠りから覚めたバチストは
巧みなパントマイムで
犯行時の様子を再現して見せた。
笑いを誘いながら「盗んだのは別の人間だ!」と皆に教え
ギャランスを窮地から救う。

この出来事をきっかけに
バチストは父親の劇団のスター役者になる。

こういうエピソードもね
当時20前後の私には意味があったのよ。

殻に閉じこもっていても
全く何もしていなかった訳じゃない。
大きく才能が花開く前に
退行したり、殻に閉じこもったり
停滞する時間は必要なのだと。

今思うと
大学生というモラトリアム時代を
正当化したかったのか?とも思う。

とにかく、バチストの突然の開眼が嬉しかった。
混迷の後には必ず飛躍がある。
今はダメだけど
いつか花開く時のために準備しているのだ。
私もそう信じたかったのだと思う。



ギャランスを愛するバチスト
でも、恋愛に於いては経験不足。
悲しい程に不器用。

ギャランスを思いやるが故に
奥手になってしまい
口の上手い大人のルメートルに奪われてしまう。




もう1人
ナタリーという女性が出てくる。

彼女はバチストを愛しているが
彼にふさわしくない、平凡な女であることに
うすうす気付いている。

バチストと結婚し、子どもまで出来た今
自分の家庭を守るため
必死にバチストとギャランスを引き離そうとする。

彼女は「現実社会」...というか
「俗世間」の象徴。

全く平凡な女が
才能溢れる崇高な存在に一方的に恋い焦がれ、憧れ
自分に不相応なものを手に入れたいと
もがいている。

本当はバチストが
自分にはとても敵わない美しい女性を愛していると
分かっている。

でも素直に「彼の幸せ」は望めない
自分の「独占欲」だけを満足させようとする。
そして
それがいかに空しいことなのか
醜いことなのか
分かっているけれど
自分ではどうしようもない。

この作品を見ながら
自分はまずバチストに自分を重ねていた。
夢見がちなところ。
世間知らずなところ。
現実逃避している所。
世渡りが苦手で
不器用なところ。
好きな人にうまく想いが伝えられないところ。

でも
だんだんとナタリーの方に近いものを感じていった。

独占欲が強く
芸術の才能のカケラもない存在。
愛する人がいても
その人の幸せを願うことが出来ない
その人を自分のものにすることしか考えられない
子どもっぽい、利己的な愛しか持てない。

そんな自分勝手な愛は
逆に疎んじられるのに。
分かっていても
どうすることも出来ない。
ただ、ただ「私を見て!」としか言えない。

そんなナタリーが
つまりは自分自身が
哀れで哀れで仕方がなかった。



そしてラストシーン。
バチストの「ギャランス!」と呼ぶ声も
ギャランスには届かなかった。
バチストの声も、姿も
ギャランスも
全ては雑踏の中にかき消されてしまった。

当時の私は
雑踏の中に紛れない
「他人とは違う自分でありたい」という想いが
人一倍強かったと思う。

自分の個性を大切にしたい
自分を認めて欲しい
自分を見て欲しい
気付いて欲しい...という思いが。
(今から思うと「ヤレヤレ」なのですが。)

だからこそ
このバチストが雑踏に紛れて見えなくなるラストシーンは
本当に切なかった。

届かない声。
届かない想い。
「ここにいることに気付いて欲しい。」
でも、その想いは伝わらず
バチストは雑踏に飲み込まれ消えていく...



なぜこの映画にあんなにも惹かれたのか
あんなにも泣けたのか...を紐解いていくと
当時の自分の心理状態がよく分かるなあ。

「私を見て欲しい」
「私に気付いて欲しい」
という気持ちが満たされず
雑踏の中に紛れてしまう絶望感。
その切なさ、苦しさに、たまらなく共感してしまったのだと思う。



どうしてなんだろうな~。
こんなふうにブログをやっているというのも
「聞いて、聞いて!」という自己顕示欲の現れなのだと思うけれど

どうして私はこう、自己顕示欲が強いのか。
「誰かに見て欲しい」「気付いて欲しい」
という欲求が強いのか。

ここにいるのに、気付いてもらえない
無視されているという状態が
落ち着かなかったり、耐えられなかったり
そういう気持ちが、人一倍強い。
それが何故なんだろうな~と、不思議に思う。




こんなふうに告白すると
顔から火が出るくらい恥ずかしいんですが...

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