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映画 ■■サード・パーソン■■

2014年06月26日 15時48分35秒 | 映画
難解とか複雑とかいう前評判で
二回観た方がいいなんてコメントもあったので
チラシに載っているあらすじはよく読んで
大体の構成はアタマに入れて観ました



映画 ■■サード・パーソン■■



Yahoo映画の評価(2014年6/26現在) 3.67(5点満点)



ニューヨーク、フランス、イタリアという
3つの場所で展開するストーリーを追って行く映画

ほんの少しずつ
それぞれのストーリーは繋がっています



今回はネタバレで書いて行きますから
これから観る予定の人は読まないで下さいね



難解ということでかなり覚悟して
謎解きをするように観たせいか

鈍い私にしてはかなり早くから
「ニューヨークとイタリアのストーリーは
作家マイケルの紡ぎ出すストーリーなのでは?」
と、わかりました

ニューヨークのホテルで
客室係ジュリアがメモするのに使ったメモ用紙が
なぜかフランスのホテルのマイケルの部屋にあり
彼は、ジュリアの書いたメモの裏に
電話番号を書き留めます

これは明らかにあり得ない話



ここで、夢物語が
あたかも現実のように展開されているのだと分かります



マイケルの子どもは
水の事故で亡くなったことが匂わされ

イタリアで
有名デザイナーのデザインを盗む男、スコットも
子どもとはもう数ヶ月
会いたいのに会えない状況になっているようです

後にまた事実が分かってきて
どうやらプールで
スコットが子どもをしっかり見ていなかったから
溺れてしまったらしい

そしてそれは
作家マイケルの子どもの死と
全く同じ状況
電話を優先させたため
事故に気付くのが遅かったのです



ここで
マイケルは
自分の不注意で子どもを死なせてしまった体験を元に

イタリアとニューヨークの物語を
書いたことがハッキリします



<ニューヨークの物語>
自分の過失で
息子を殺しそうになってしまったジュリアは
マイケルの分身

ジュリアは母親として精一杯努力していますが
それを証明できずに親権を認められません

同じようにマイケルも
深く息子を愛していたのだと
完璧な父親になるよう努力はしていたのですが
うまく行かなかったのだと
許しを請うているように見えます

自分の過失の言い訳でもあります



<イタリアの物語>
アメリカのビジネスマン、スコットが
マイケルの分身

マイケル同様、電話に夢中だったため
スコットの娘は水死してしまいます

そのため
偶然遭遇した
美しいロマ人のモニカの娘を助けることに
非常に執着します

マイケルが叶えられなかった
「子どもの命を救うこと」を叶え
みんなで満面の笑みをうかべながら
共に旅立っていくのです

このような物語を書くことで
自分が実際に手に入れられなかったものを
手に入れたように空想の世界で体験し
自分の傷を癒そうとしているように感じました



出版社の男性が
「マイケルの最近の作品は
自分の過ちの言い訳を
繰り返しているに過ぎない
全く魅力を感じない」
と、言います



本の出版が危うくなったと知ったマイケルは
ある決断を持って
新しい作品を執筆します

それを読んだ編集者は
「傑作だ」と絶賛するけど
その作品は
マイケルの愛人アンナの秘密を暴露しているため
「彼女がそれを読んだら
もう2人の関係は終わってしまうのでは?」
と、指摘します



私は、フランスで展開されている
マイケルを中心とする物語だけが
現実だと思っています

妻に電話で
「アンナと一緒にいるのか」と聞かれるますが
「いや、彼女はいない」とマイケルは答えます

そして、実際にはそこにいるアンナは
自分と実の父親との禁じられた関係が
マイケルによって執筆されている事実を知り
叫びながら雑踏の中を走るうち
透明になって消えてしまいます

一方、プールで泳ぐ妻も透明になり
消えます



これは
「アンナや妻が
実は虚構の人物でした」という意味なのではなくて

現実にいるのだけど
マイケルが自分の作品の中に書いてしまったことによって
マイケルにとっては「虚構の人物」と捉えられたことを
暗示しているのだと、私は思います

妻に告げた
「アンナはいない」という一言
アンナは最初からいなかったんだと
思い込むことで
辛い恋を終わらせようとしているのです



タイトルの「サード・パーソン」というのは
第三者という意味で
物語の渦中にはいないで
物語を外側から客観的に見る人のことです

マイケルは
自分が実際に関わっているアンナや妻を
物語の登場人物にして語ることで
愛情の対象としてではなく
非常に客観的に冷静に見つめ、語ることで
自分から切り離して
「虚構の人物」にしてしまったのだと思います

息子の死も、妻との不和も
物語の中のお話で
妻は現実には存在しないと

アンナと実父との関係も
「虚構の話なのだ
実際にはなかったのだ」と思うことで
自分が受けた傷を
和らげようとしているように思いました



以前から感じていたことですが
「物語を書く」ということは
まずは自分が内面に持っているものを
客観視し、整頓する作業であり

そこから新しく物語を紡ぐという行為は
自分の願望を物語の中で達成させたり
要らないものを斬り捨てたり
「傷を癒す」効果があるものなのだな
と、改めて思いました



しかしマイケルの場合
作家として生きていくために
妻やアンナも物語の中に登場させて
ある意味、売り飛ばしてしまい
自分から切り離してしまって

現実の世界に住む誰とも
もう、心を通わせることが出来ないのではないかという
危うさを感じました

最後には自分自身さえも
現実の世界にしっかり生きているという感覚が
なくなっていくのではないかと



創作活動というのは
傷を癒す力もあるけれど
魂を削りながら取り組む人もいて
そういう人達にとっては命がけなんだな~と
改めて感じました

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