・ 【ここに「椎の木」の大木3本立っていました】
今は枯れ果てて覗く人は少ない、この看板だけが立っております
八幡野から熱川へ行く道沿いはかつて旧下田街道が通って
おります。街道と言っても獣道に毛の生えたような所で
いたる所でヘビがにゅろにょろ這い出てきますのでご注意を!
この椎の木の麓で待ち伏せしていた二人組が遠矢を放ちました
先に河津三郎何がしに命中、命果てました
(ここから曽我兄弟あだ討ちの歴史が始まりますが
このお方は相撲にも理解があったらしく
決まり手の「かわずがけ」の発案者だったそうです!
かわずは蛙からきていると思っていました
河津なのでしたね!たけちゃん雑学時点に登録します!)
詳しくは下記をご覧下さい(河津町HPから拝借です)
曽我物語のルーツはその頃の伊東の領地争いからはじまります。
工藤祐経から伊東祐親暗殺の命をうけた大見の小藤太と
八幡の三郎は奥野で頼朝一行と狩りを楽しんでいた祐親を赤沢山
で待ち伏せします。
(これが赤沢の椎の木三本なのです)
一番手の大見は機をのがしてしまったが、二番手の八幡の三郎が
放った矢は目的の祐親ではなく、側にいた河津三郎に当たって
しまいました。
三郎はちらりと見えた敵の名を告げ、「妻子をたのむ」と一言
残した後その場で息をひきとりました。
その後、妻の万却は子供を連れて相模に住む曽我の太郎と再婚。
そして十八年後、曽我兄弟は元服し、富士で巻狩中の
祐経を夜いんに乗じて襲い、見事に父の敵を討つのでした。
(なるほど本命外れて運命の悪戯ですね!)
・ 【生憎、カメラアングルが悪く理解不能ですが!】
付近には「血塚」という、河津三郎を祭った史跡もあります
歌舞伎に詳しくないので判りませんが
小学校の頃、「曽我兄弟」「海彦山彦」等の話が教科書に
のっていたような気がします
当時はまだ、「あだ討ち」などと言う私的制裁を美化して
いたのですね
今は民主的裁判制度がありますのでこのような話が受けるのは
忠臣蔵が最後だと思います?
(以外にも吉良上野介さんは地元で評判が良いのです
親の仇を子が討つ:今は死語でしょうね)
今は枯れ果てて覗く人は少ない、この看板だけが立っております
八幡野から熱川へ行く道沿いはかつて旧下田街道が通って
おります。街道と言っても獣道に毛の生えたような所で
いたる所でヘビがにゅろにょろ這い出てきますのでご注意を!
この椎の木の麓で待ち伏せしていた二人組が遠矢を放ちました
先に河津三郎何がしに命中、命果てました
(ここから曽我兄弟あだ討ちの歴史が始まりますが
このお方は相撲にも理解があったらしく
決まり手の「かわずがけ」の発案者だったそうです!
かわずは蛙からきていると思っていました
河津なのでしたね!たけちゃん雑学時点に登録します!)
詳しくは下記をご覧下さい(河津町HPから拝借です)
曽我物語のルーツはその頃の伊東の領地争いからはじまります。
工藤祐経から伊東祐親暗殺の命をうけた大見の小藤太と
八幡の三郎は奥野で頼朝一行と狩りを楽しんでいた祐親を赤沢山
で待ち伏せします。
(これが赤沢の椎の木三本なのです)
一番手の大見は機をのがしてしまったが、二番手の八幡の三郎が
放った矢は目的の祐親ではなく、側にいた河津三郎に当たって
しまいました。
三郎はちらりと見えた敵の名を告げ、「妻子をたのむ」と一言
残した後その場で息をひきとりました。
その後、妻の万却は子供を連れて相模に住む曽我の太郎と再婚。
そして十八年後、曽我兄弟は元服し、富士で巻狩中の
祐経を夜いんに乗じて襲い、見事に父の敵を討つのでした。
(なるほど本命外れて運命の悪戯ですね!)
・ 【生憎、カメラアングルが悪く理解不能ですが!】
付近には「血塚」という、河津三郎を祭った史跡もあります
歌舞伎に詳しくないので判りませんが
小学校の頃、「曽我兄弟」「海彦山彦」等の話が教科書に
のっていたような気がします
当時はまだ、「あだ討ち」などと言う私的制裁を美化して
いたのですね
今は民主的裁判制度がありますのでこのような話が受けるのは
忠臣蔵が最後だと思います?
(以外にも吉良上野介さんは地元で評判が良いのです
親の仇を子が討つ:今は死語でしょうね)
私ごときに振舞っても猫に小判で意味ありません
どうか大切とっておき空瓶ラベルを堪能しながらでも飲めますよお~。
(普通のスコッチで十分です)
伊達騒動の大悪人:原田甲斐も[樅の木は残った]では伊達藩の救世主でもありましたし?
[ダビンチコード]を徹夜で読んでいますとキリストも人間だったのですよね!
僕は影響されるタイプですから、いつも右往左往です!
何を言っているか訳が判りませんね。
マッカラン…すっかり飲み干してしまいました。
また仕入れておきます故お許しを。
明日は早く帰途につきますね。
仙台国分町にて
さらに源頼朝にも刃を向けたとか・・。
頼朝暗殺未遂事件とも言われています。
この手の話は歌舞伎、浄瑠璃などで美化されてしまい真実はあまり語られないような気がします。
忠臣蔵、かなり嫌いです。
あまりにも善悪を別けすぎているところになんらかの思惑を感じてしまいます。
当時の権力者なのか、庶民の感情なのか、事件の真相に対する真実味が無さ過ぎて・・・。
田沼意次の賄賂もスケープゴートだと思いますし。
賄賂とかやってた張本人が「田沼がやった」と言ってたらしいことが歴史調査で判ったという話を聞いたことがあります。
それに仇を討っても、打ち首になったのでは、親の「妻子を頼む」と言い残した本意を無視した愚行としか思えません。