あかさたなにくそ

がんばるべぇ~

都市の幻想 続き

2005-12-08 22:38:36 | Weblog

昨日書いたことの補足。

リアルタイムでなくて、思い出しながらだったからちょっと違うところがある。というか、実際現場にいると例えば高層ビルの高度感や大きさ、まっすぐでキラキラ無機的に連続して平気で長い距離と広大な面積内積を稼いでそびえ立つあの感じに圧倒されて、まずは感動すら覚える。そんな感じだろうか。
まあ、とにかく見た目の威圧的な印象に圧倒されずに色々想像をめぐらしてみるには、一呼吸必要だということがある。自分があまりに小さいのでつい外部の「とてつもなくスゲーもの」という風に見てしまいがちなところで、その印象を押し返すように思いなおして見ることが必要。
いくら圧倒的だといっても積み上げたのは人間なのだ。化合物や組み合わせを膨大な規模で機械と技術を扱って積み上げたのは、それぞれのちっぽけな人間であり、個々の仕事はすごいといってもやはりちっぽけなもので、高層ビルの偉容にひとりひとりの仕事や姿を重ね合わせてみたところで、どう見ても釣り合わないし、うまく結びつかないというものだ。
だから、奇跡的偶然のようだというのだ。不思議とできてしまっている、というようなものだ。釈然としないといえばまったくその通り。でも、できあがって現にある。びっくり玉手箱から飛び出したおばけのようなものだ(ひとりひとりの人間の大きさからするとこのぐらいの表現がぴったりではないか)。しかし騙されてはならない。ひとりひとりは全体を知らない部分であり、部分を着実にに成したというだけのことなのだ。前も知らなければ後ろも知らない、もちろん現の全体も想像がつかない。それが事実であってそれ以上のものではない。
そんなこと分かりきっているって? 分かりきっているがもはやどうにもならない、取り込まれてしまっているんだから、今更そんなことを叫んでも意味がない。だからせめて小さな楽しみでも見出してぼちぼちやるさ、今更大げさに、みっともないんだよ。そんな気持ちなのかな…。
しかし、自分の見る限り、意味がないというところでなんだか問題が終わってしまっている、というか、巧妙にすりかえられてしまっているような気がするのだ。最近の文学とか目に付くところでは、なげやりのような思い付きの爆発のような表現も様々あったりというのが、肝心のこういう問題意識(もちろんこればかりが重大な問題ではない)と繋がっているはずなのが、いつの間にかそれ自体の好事的な道にはまっていて、理由づけとしてだけこういう問題は上がってくる。
何かへンだ。問題意識が明瞭にあるんじゃなくて、問題意識の看板が立てられているから矢印のこっち側にいるみたいな、他人事みたいなところがある。こういう問題は常に新しく何度も何度も突き上げられる切実さを持っているはずなのに、当事者でなく借りてきたような言葉を語っているような気がする。はっきりはいえないが、この問題に限らず自分ら庶民にも伝わるはずの生々しい、痛々しいまでの切実な声がなぜか聞こえてこない。
最近の有名な偉い人っていうのは皆、巧妙に過ぎて保身術に長けている以上のものを感じさせる人が少ないのではないか。マスコミに何度も顔を出してボロが出ないって言うのもできすぎな感じがする。



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