あかさたなにくそ

がんばるべぇ~

ライブドア事件やら何やら

2006-02-02 23:14:29 | Weblog

このところの一連の設計や建築の偽装事件、今回のライブドア事件で世間は騒がしい。これらの事件のことがいくら事細かに報道され論議されても、なんだか自分には映画の中のできごとのような、霧の向こう側にあるよそ事のような気がする。こんなことをいうと近くで実際に被害に遭遇した人たちに申し訳ないようだが、本当のところそんな実感しか持てないのをどうすることもできない。
いつも自分が書いているようなことに関連するが、例えば建築構造計算の偽装ひとつとってみても、その道のプロでさえ簡単に騙されるような、特殊な分野での非常に専門的に先細りになった暗がりでのできごとで、自分らのような輩が具体的に何も感知するところではない。建築工事の件でもそういう意味では事情は一緒だ。そしてライブドアの背後に浮かび上がってきたのは、計り知れない闇の世界。
ホリエモンなどと呼んで、その容貌、行動ぶりのいかにも現代的で時代を先取りしたかのような印象を頼もしく、好ましく感じてテレビを眺めてきた人たちも多いはずだ。それがあたかもすっかり裏切られて株主達からは悲鳴さえ聞こえてくるような状況となった。
しかし自分からすると、何で多くの人たちがああいう男に夢中になり、政治家までが担ぎ上げるような存在に祭り上げてきたのか、その気持ちがなにも分からないではないが、ああいう熱狂は全く理解できなかった。バカを見たというのなら、期待がはずれた、裏切られたということなのだろうが、何を裏切ったというのだろうか。幼稚で根拠のない期待、型破りな演出の効果にすっかり幻惑されて、みこしをかつぐ人間がだんだん多くなって騒ぐものだから、自分らもいい気持ちになって一緒にかつぎあげてしまった。かついでいる祭り気分がなかなかいい…。そういう幼稚な夢を見るだけの緩んだ気持ちを許しながら、その一方でホリエモンやライブドアの仕事を冷静に注視し、理解することに努めてきたのだろうか。どうもその辺は怪しいものである。
自分などはこれらの事件の全体像について理解できるだけの知識もなかれば意欲さえなかった。そもそも頭もないと認める。その前に報道を鵜呑みにできるかという疑いもあった。ただ、それらをおいて何よりああいうあからさま(と自分には映った)な演出が気に入らなかった。いやその前にあの人相だ。特にライブドアの幹部の顔ぶれが並んだのを見た瞬間。ああこれはまともでありっこないな、という確信をかなりはっきり持った。人間の質とはいわないが、IT企業の先端を行く巨大な組織の舵を取るだけの地位にふさわしい格みたいなものをあの顔ぶれからはちっとも感じられなかった。ずっと前のことだ。仕事は分からないが人間は見える。いや見えないとしてもほかの手がかりに比べ自分の場合あの顔ぶれの印象のほうがずっと説得力があった。ああ、これではだめだと思った。
その後もライブドアは実際に何をやっているのか、実像みたいなものが見えてこなかった。ホリエモンが騙しているとは思わなかったが、何をやっている何をめざしていると少しは具体的に仕事の内容を提示してほしいと思ったものである。何でもいいから自分らのような無知な人間にもひとつ分かりやすいように説明してほしいと。怠慢ながら…。
まあとにかく、今回の事件は自分には全体像が見えないものの摘発された罪状についてははやっぱりそういうことだったか、という感が強い。何も分からないながら勘が当たった。自慢にならないが。
繰り返すが、それにしても世間の人は何を買っていたのか?何が見えていたというのか?何に熱狂したのか? 自分の想像は上に書いたように非常に幼稚な像を人々の上に重ねてしまうのだが、もし、そうでなければどうなんだ? どんなわけで期待をかけたのか、何がそんなにはっきりしていてどういう根拠で、「裏切られた」というのかと思う。高校生や中学生までがライブドアの株を買っていたというが、ホリエモンならやってくれそう、という認識の点においては大人のほうも中高生と大差なかったのではないか。
旧来の壁を打ち破る型破りな発想や手法、次々とおそいかかる抵抗を軽々と交わす賢さとそれらの圧力を苦にしない前向きな意欲…? 褒め言葉はいろいろだったが、まるでそれらは映画のヒーローを応援するような現実離れした期待にこそ似てはいたものの、現実的には何のはっきりした根拠もなかったのではないか。結局は、だらしなく浮かれて自分の身の丈を忘れていたということではないか。
しかし被害を被ったのは一部の人たちで、騒いでいた人たちも大半が高見の見物と決め込んで面白がっていた、その結果がこうなって、がっかりとかやっぱりとか、ざまあみろなんて言っているだけで最初から距離を置いていたのかもしれない。多くの大人が今頃そんなところでふっと息を吐いているぐらいのところかもしれない。
それにしても一連の事件でこれだけの騒ぎになっていながら、今や被告となった当事者の側を責めたりつついたりし、同時に被害の大きさを経済の動向にからめ様々なアングルで見せてくれるものの、ああいう人物を節操もなくに持ち上げるだけ持ち上げておいて一体化していたような報道と大衆の側に反省を促し、戒めるような声が余り聞こえてこないのが残念というか、非常に問題と思う。見る側買う側に、見る目も認識も不足していたということが今回のこの日本経済をも揺るがした騒動の原因であることに間違いはないのだから。
この狂奔の1年を見ていて、かりにも先進国と呼べるような面目はなかった。自分のような人間が見てさえ知的レベルは相当に低い(あるいは低くなった?)のがこの国という感触を持った。生意気なようだが、国民こぞってのこの騒ぎはバカ丸出しとまでいわなくても、観ていてとても見苦しく、恥ずかしい、とても文化的といえる性格のものではなかった。学園祭レベルを国を挙げてやっていたようなものだ。

何を言いたいんだか自分でも分からなくなってきた。どうもこういう話は自分の身の丈に合わない気がして苦手だ。考えれば考えるほどとらえどころがなくなってきて、話が浮ついてくるのが分かる。自分みたいな人間がこういう個々のしかも大きな事件について何かしら明らかにしたり具体性をもたせようというのは、所詮方向として無理なのだろう。じっくり考えられる時間もないし…。
反省。



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