前回の続き。
自分にはこの件が特別な例とはとても思えない、たまたま表に出ないというだけでこうした問題をいちいち表ざたにしたらきりがない、というのが実情と思う。多かれ少なかれというか、かなり多くが危ない仕事をやっている。
今回の事件については、普通に考えると非常に無謀で、とても信じられないというレベルの特別な例と考えれらるのだろうが、それは鉄筋の数が通常の何分の一とか、表ざたには結果として誰にも分かりやすいかたちとして提示されたからだと思う。しかし、危ないのは人間の方で仕組んで偽装する場合に限ったものではないのだと思う。むしろもっと危ないのは、人間の側の方が逆にしくまれる、ということが考えられる。
それは既に社会のとてつもなく巨大化した機構や装置の複雑さに人間の側が飲み込まれてしまっていて、飲み込まれていること自体に気がつきもしないほど迷子であるということ。人々はどこから来たものか分からないものを受け取って中間媒介的にごく微小な仕事をして、それをどこへいくとも見届けられず送り出すのだろう。
そして、仕事のみならず生活空間から視野のあらゆるところのものがどこから来たものかという予想さえさせないほどよそよそしいものばかり。しかしそれをよそよそしいとか不思議だとか、まして不快と感じられない。まるでこれらの不明なものたちが不明なゆえにかえってすごいと見上げてみたり不思議と感じて、そのちょんぎれたような感触を、その暖かみのないキラキラやのっぺりや冷たさや届かない距離感なんかを楽しんでいる。複雑な様態や分からなさそのものまで、楽しめる。
そこにあるのは楽で愉悦的といったいわば受身の感覚で、助長しているのが迷子すら自覚できていず、平衡感覚を失っているのに自覚がないため平気という状態であり、本来の不安がふわふわした安心にすりかわっている。それは都会にあこがれて上京した少女が、はじめて都会に出て夢見るような気持ちで過ごす始まりの日々の感覚の延長にあるようなもので、質的には大差ないのではないか。いや、夢のきらびやかさはどんどん失われるが、感覚は地に落ちることがない。
都会で持続的に生活することによってベルトコンベアー(田舎の人間のたとえですね)に乗せられてボーっとなるような一種の催眠状態に取り付かれる。それが時を経てほぼ完璧な程度にまで達する。そうなると自分の分からないもの、想像もできないほど大きなものや複雑なものをみてかえって安心し、頼もしいと感じ、それらに囲まれている自分を安心と思うのだ。もちろん人により心の状態は様々なはずだが、程度の差こそあれどのみち催眠状態でないと生きていけないのが都会ではないか。自分が先に飲み込まれた状態といったのはこういうことだ。
この状態においてこそ人々は、平然とまたかなり有能に仕事を成すわけだが、有能ということがすでに全体性(全体性を気にするぐらいの意味)と切れた部分的な感覚を前提としており、全体を見渡せないという不安に苛まれていない部分は、ただ部分としてそれこそ前後の見境もなく有能に働く。と、どうなるかというと、結果としては部分をますます複雑化するだけでなく、その行為によってまさに全体との連携をはかなく難しいものにしていくので、必然的に全体のほうから報いを受けるということになる。「逆にしくまれる」といったのはこういう意味である。
そうなると当人は、意図せず意識さえよくしないで部分をはみ出し、暴走する危険を犯し、気がついたら犯罪人となっていて首根っこを押さえられるというようなことになるのだ。良かれと思ってすることが自分を危うくし、方向として全体をもなしくずしにする。建築偽装の件は当人らの意図と裏腹にこういった側面も合わせて持っていたと思う。そして考えてみれば、ライブドアのホリエモンなどこの例にぴったりかと思う。そしてまた、次々に類出するホリエモンに類するはみ出し者達をを封じ込めようとして、法整備が新たに成されたり、しくみを見直したりでシステムそれ自体がますます複雑化、細分化へと向かう悪循環が起こる。
このように巨きな社会機構の中で要請されていく仕事の複雑な内容や位置取りに対しての人間の能力の極度の不釣合いによって、ほころびが目に見えない部分であちこちで発生してきている。そういう不気味な社会状況が、すでに大きく現実のものとなっているのではないかと自分は見ている。そしてこうした傾向は、飲み込まれてしまっている人間達によってますます加速させられているのではないか。上に述べてきたような両者の間の密接なつながりを考えると恐ろしいことだが、この狂った歯車を止めるような動きはほとんどどこにも見られないような気がする。
今となっては素朴すぎる考えかもしれないが、冗談ではない。自分はなんとしても今の社会はこれ以上の複雑化を止めて、単純化し自然化するような方向へと徐々に向きを転換していく必要があると思う。そしてなるべくそれぞれの人間の能力に見あい、勘所が生きるような体制を模索していかなければならないのではないかと思う。今のままいったらそのうち自爆するしかないではないかと思う。
スコップの作業中の思い付きからはじまってとんでもないところまできたみたいで、自分でもなんだか可笑しい。幼稚といえばあまりに幼稚な空想という感じもある。しかし自分も人間で、他人も自分と同じような人間であると考えると、それほど荒唐無稽な見方とはどうしても思えないのだ。これは一田舎人のたわいない妄想に過ぎないということであればいいが。
なんだか頭がくらくらする…。
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まさしくこれが現実なのでしょうね。
皆、慣れきってしまってこんな大事なことが分からなくなっているだけです。
恐ろしいことですよね。
僕自身もはっとしました。
一部理解できない部分もありましたが、表現の難しい内容を上手く描いて下さいました。
まさしく達観ですね。
表現については、いい加減なつもりはないのですが、その場の勢いで書いているだけなので、とりこぼしが多いと思います。
その辺フォローして読んでいただけるとありがたいです。