ぬくぬくと♪ 温泉宿の亭主の日々

お世話になります♪群馬県猿ヶ京温泉の猿ヶ京ホテルの三代目亭主のブログです。歴史と野球とゴルフが「当座」の趣味です。

『信長街道』・安部龍太郎・新潮文庫

2009-02-15 18:41:41 | Weblog
如月某日

織田信長と言う人物はなかなか魅力的で、多くの
作家が手掛けて来ています。
古くは司馬遼太郎の『国盗り物語』、記憶に新し
いのは日本経済新聞に掲載された津本陽の『下天
は夢か』などですが、最近の研究を取り込んだ、
『信長燃ゆ』は読んでみたい一冊です。
この作者安部龍太郎氏が信長の天下統一の夢半ば
で本能寺で果てるまでの足跡をたどった『信長街
道』を読みました。
なかなか秀逸と思いました。そこで下記のような
感想をあるところに投稿しました。
時間がある方は読んでみてください。

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 一期一会の出会いを一生を左右する出会いにで
きる確率が高い人こそ、本当のリーダーだと思う。
 織田信長が生まれた尾張の勝幡は近くに交易の
盛んな津島と言う港町があった。若い日の信長は
当時流行のかぶいた服装で、人も物もチャンスを
求めて集まってくる津島の町を往き来した。
 後に豊臣秀吉になる羽柴秀吉をはじめ、明智光
秀、滝川一益など信長の家臣には素性のはっきり
しない者が多い。秀吉は「渡り」と言われる定住
しない商工者集団の出身と言うし、滝川一益に至
っては忍者の出身と言う説さえある。明智光秀は
美濃国土岐氏の流れと言うが実際のところ、世に
出るまでのことはよく分かっていない。
 これらは織田家譜代の家臣を押しのけ、それぞ
れ各方面の司令官を任されている。このことから
少なくとも信長は実力本位で人材を登用したこと
が分かる。
 また茶の湯に関しても今井宗久、津田宗及など
の堺の豪商よりも小さな魚屋に過ぎない千利休を
茶頭として重用した。
 信長が見出さなければ後の秀吉も利休もなかっ
た、つまり安土桃山文化はなかった。
 莫大な経済力をもたらした津島の港町を抑えた
織田家には合理的精神が育まれた。その中から信
長の様な有能な人物を瞬時に見抜く、稀代の天才
が生まれた。
 信長のその天才は海を渡ってきた南蛮の宣教師
に対しても発揮された。
築城、造船、武器弾薬などの西洋の技術や物資
を信長は版図の拡大に最大限利用した。
 だがその技術や物資の代償としてイエズス会の
宣教師が要求したのは天下統一の履行期限と、そ
の先の明国攻撃だった。
晩年の信長の性急な大量虐殺や狂気はそのため
だったと作者は推理する。

猿ヶ京ホテル三代目
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信長はガレオン船の建造技術や鉄砲の火薬の製造
に必要な硝石の輸入を当時来日していたイエズス
会の宣教師たちから得ていました。
その代償として、イエズス会とその背後にあるイ
スパニア国王は信長に対して天下統一をいつまで
に達成するという期限を設け、さらにキリスト教
布教の自由と当時の中国大陸を治めていた明への
遠征も要求していたと作者は仮説を立てています。

比叡山焼き討ち、長島一向一揆の殲滅、伊賀国の
掃討作戦など、信長の後半生には生き急ぐ余りの
血なまぐささが漂います。

そのことはイエズス会との密約で天下統一の履行
期限を守るための焦りからもたらされたとするの
は合理的な説明ではあります。

ガレオン船と言えば、後に仙台の伊達政宗もガレ
オン船を築造して、支倉常長等をローマ法王のも
とに派遣しています。

伊達政宗もイエズス会の誘いに乗って、イスパニ
ア国王等の謀略に引きずりこまれそうになったの
でしょうか?

2月10日 びーどろパークでガラス吹きを体験しました1

2009-02-13 19:27:05 | Weblog
如月十日

この2月10日は、送電線にヘリコプターが墜落する事故で、
このみなかみ町付近が大停電を起こす事故が起きました。
そんな中、月夜野のびーどろパークさんで、
ガラス吹き体験を行ってきました。

既に停電の報告が入っていたので、気もそぞろでしたが、
体験そのものは楽しく終えました。