さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

豚と猪 「漢文読める」の罠

2020-05-22 12:57:03 | 仏教講座
インドネシア人の留学生(華人・キリスト教徒)に干支を聞いたら、恥ずかしそうに、
「わたし、ブタの年」
と、答えてくれた。
干支の「ブタ」とは、言うまでもなく「猪」のことですが、「猪」が「ブタ」ではなく、「イノシシ」なのは、日本人だけ(たぶん)です。
全く根拠のないテキトーな数字ですが、「干支」を知ってる人が世界に20億人いるとすれば、「猪年」が「イノシシ年」だと思っているのは、1億人しかいないので、5パーセント。
国際標準に準拠するなら、イノシシ年生まれのあなた、あなたは、ブタ年生まれです。


なぜこんなことが起こるのか?
それは、「干支」が日本に輸入された時に、「猪」という言葉が、日本語に翻訳されなかったからです。
と、言えると説明が楽なのですが、恐らく、当時の日本には家畜である豚さんがいなかったから、そこらにいた「山猪(中国語で猪のこと)」が、そのまま「猪」になっちゃったんだと思います。


話を変えます。
「老婆」を想像してみて下さい。
何を想像しましたか?
「老婆」に決まってるだろ!お前がそう言っただろ!
そう言わないでくださいね。
「老婆」ではわからないから聞いているのです。


あなたが想像したのは、
「年老いた女性」ですか?
それとも、
どなたかの「奥様」ですか?
国際標準では、「老婆」とは、奥さんに対する呼称なので、若い女性も普通にいます。
「いや、俺もたまに嫁をババアと呼んで、こっぴどく〆られる。」
ということではありません。
「老婆」は愛情たっぷりの呼称です。


なまじ漢字が読めてしまうために、こういう誤解が生まれます。
その文字と、その文字の日本語における意味を知っている→わかる。
という錯覚をするのです。


日本で使われている「仏教経典」は、だいたいが「漢訳(中国語訳)」されたものです。
中国大陸製の経典もたくさんあります。
でも、日本語訳された仏教経典は、つい最近まで存在しませんでした。
漢訳されていれば、日本語訳は必要ないと考えられていたのでしょう。
何故か?
漢字で書かれた経典を、読むことができた、からです。
仮に、漢訳仏教経典類で使われている言語を「漢語」と呼ぶことにしましょう。


仏教が日本に伝えられた当時の僧侶には、「漢語」という外国語の素養がありました。
中国大陸で生活し、勉強するだけの「漢語」能力があったわけですからね。
だから、「漢語」経典を、そのまま理解することができたのです。
お坊さんたちは、「猪(豚)」と「山猪(イノシシ)」が区別できたのです。


「漢語」を理解することのできる僧侶は、時代と共に減って行きます。
それとともに、「漢語経典」は「漢字経典」へと変化します。
つまり、「漢語」という「外国語で書かれたもの」であるという認識が失われ、日本でも使われている「漢字」で書かれたものとして扱われるようになるのです。
もちろん、中国大陸で翻訳され、そこから日本に来たものだという知識は失われてはいません。
しかし、「漢語」という外国語の素養を持たない人々は、「漢語」を外国語としてではなく、日本語として読むようになります。


「猪(豚)」と「山猪(イノシシ)」の区別を知らない人ばっかりになってしまったということです。
それでも読めた、読めたつもりにはなれた。
何故?漢字だから。
漢字なら、俺も知ってるもん!


漢字は読めるが、それは日本語としての漢字であって、「漢語」ではない。
と考えて、あくまでも外国語で書かれたものだという認識で、漢語文献に取り組まないと、とんでもない誤解が山のように起こりそうな気がしませんか?


未だにお目にかかりますよ。
「猪(豚)」と「山猪(イノシシ)」の区別ができていない解説者。


香蔵のこと 「支えるべき寺」と「支えてはならない寺」

2020-05-21 17:22:53 | 仏教講座
小樽へ行くと、先輩に必ず連れて行ってもらう、大好きな店があった。



すごく真面目で丁寧な店で、それでいてリーズナブルな、今更、誉めても仕方ないかもしれないけれど、本当に大好きな店だった。
コロナ過に抗えず、閉店したらしい。
連絡をもらって、驚いた、というか、絶句した。



高級店ではないし、ミシュランだなんだは、たぶん関係の無い店だったと思う。
でも、そこへ行くと、何かしら発見があった。
素材と真面目に向かい合っていたからだと思う。



でも、仕方ありません。
どんな商売にせよ、このご時世です。
語りつくせないほどたくさんの、悩みや決断があったんだと思います。
悲しいけれど、決断なさった方々は、私の数万倍、悲しいんでらっしゃると思います。

が、ふと、思い至るところがあり、怒りが沸々と湧き上がってきました。
完全な八つ当たりですが、的は外れていないと思います。

世界中の人が苦しんでいるのに、それでも、平気な顔して、
「金は檀家に出させれば良い」
だとか、
「金は門徒が出すもんだろ」
だとか、普通に言う坊主。
絶対にいる!
いるというか、なんというか、私にはわかる。
お前ら、言うだろろろろろろろろろ!

お寺には二種類あります。
それは、「護るべき寺」と「護ってはならない寺」です。
厳しい時代だからこそ、仏教が活かされなければならないと思います。

だからこそ、皆さんの判断が重要です。

寺など無くなったところで、何も困ることはありません。
「支えるべき寺」と「支えてはならない寺」
それを、しっかりと見極めてくださいね。

大切なのは、皆さんの生活を守ることです。
仏教は、皆さんのために、あるんですからね。


祈りの場

2020-05-21 13:06:43 | 仏教講座


「祈りの場」にいると、非常に落ち着きます。
寺でも、神社でも、教会でも、そこが「祈りの場」として生きている場所であるなら、宗教は選びません。
海外にいる時も、自由になる時間は、宗教施設を周っています。
末寺を訪れる時も、空いた時間には、寺社仏閣を周ります。
たぶん、私、祈っている人を見ているのが好きなんだと思います。
どんな祈りなのか、何を祈っているのかはわかりませんが、人が祈る、その姿に、心打たれるのです。
祈りの場は、多くの場合、静かではありません。
無数の人が入り乱れ、様々な雑音と人の声が波を打っていても、祈るその時だけは、そこだけ時間が止まり、祈る姿を静寂が包みます。
人が祈る姿は、美しいと思います。



ところが、我が浄土真宗では、「祈ってはならない」と言われます。
「祈る」という言葉を使うと責められたりもします。
「祈る」というのは、自分の欲望を叶えて欲しいと、神仏にお願いすることだから、卑しいことだとおっしゃいます。
「念じる」なら、良いらしい。
「ご健康をお祈りします」はダメで、「ご健康を念じます」なら構わないらしい。
「ご成功をお祈りします」はダメで、「ご成功を念じます」なら構わないらしい。
昔も今も、何を言っているのかわからない。
「念じる」お前は、超能力者か?と、聞いてみたい。

健康でいて欲しいという気持ちを、神仏に預けるのは低俗で、自分が念じるのは高尚なのか?
そもそも、「健康でいて欲しい」という欲望は、両者共通で変化はない。
「祈らない宗教・浄土真宗」らしい?
「正気か?」と、聞いてみたい。
いや、すでに、回数がわからないほど、聞いてはみた。
もはや、彼らには、何も念じてはいないが。

祈らない宗教など、宗教ではない。
祈る人を、卑しいと見下すような人間は、宗教者ではない。

私は、祈ります。
そして、やっぱり、祈る人たちが好きだ。
真宗寺院が「祈りの場」でないのであれば。
そんなところには、もう、行かない。

ブログ開設のご挨拶

2020-05-20 16:08:19 | 仏教講座
「さるぶつ」ブログ主の、川村と申します。

仏教を教えております。
寺院、大学、専門学校、カルチャーセンターなどなど。
ここ十年くらいは、「まともな坊さん」が作りたいなどと、柄でもないことを考え、僧侶の教育に携わっておりました。

専門は浄土真宗ですが、「宗学」だ「教学」という宗派意識にうんざりしてしまったので、「親鸞浄土教」と呼んでおります。
僧侶ではありますが、「職業=僧侶」というナンセンスが罷り通っているのがイヤなので、僧侶でご飯を食べないようにしております。

ちょうど、色々と我慢の限界に差し掛かっていたところで、コロナさんがやってらっしゃいました。
それにかこつけて、全力で逃亡を企てたら、研修会も講義もどこかへ行ってしまいました。
それでも、わずかではありますが、私の講義を待っていて下さる方がいらっしゃったので、ご迷惑をお掛けしてはなるものか、と、メールマガジンを発行することにしました。

「見真塾サルブツ通信」通称「さるぶつ」と申します。
勢いで書き溜めたので、今のところ、ほぼ毎日発行しておりますが、不定期です。
僧侶が好き好んで雁字搦めにされている「宗門」ということを忘れたら、思いのほか楽しくなりました。
ついでに、私が作りたい、いや、育てたいと思っているお坊さんは、宗門というピラミッドを歯牙にもかけず、人を信じ、人を愛し、人に揉まれることが嬉しい、そんな坊さんなんだという、当たり前のことにも、気付くことができました。
まあ、自分は棚に上げてますけれども。

そんな坊さんたちと、和気あいあいと、宗教や仏教や、信仰に係るあらゆるものごとを、楽しみ倒しながら、何か、発見できたら幸せだなあ、と、思い始めたのですが・・・・・・・
別に、お坊さんじゃなくても、一緒に楽しめる人なら、誰でもいいじゃん!と、また気付いてしまいました。
日本人の「信仰」は、セクトなど必要とはしていません。
ただ、神様や仏様を大切に思う、敬う心さえあれば、それで充分なんだと思います。

興味があって飛び込んできた人を、ここぞとばかりに捕まえようと待ち構えているのは、神仏ではなく、宗教団体です。
そんなことばかりしているから、怖がられるのです。
敷居が高いとしり込みされてしまうのです。

宗教は怖いものではありません。
怖がるばかりで、知らないと、いざという時につけ込まれてしまいます。
葬儀会社や墓石屋の請求書を見て、恨みつらみを言うことになったり、脅かされて、高い壺を買わされることになったりね。

宗教は楽しいんです。
楽しむなんて不謹慎だと思ってはいけません。
畏まっていなきゃいけない時もありますが、畏まることを楽しめば良いのです。
ふざけていては、楽しめることも楽しめません。
敬虔な態度を求められる場所では、敬虔である自分を楽しめば良いのです。

洗脳されてはいけません。
信者になる必要なんてないのです。
あ、なりたかったらなってもかまいませんが。
神仏を敬う気持ちで、楽しみながら親しんでおけば、無知につけ込まれることもありません。
それに、きっと、心が豊かになるはずです。

上から目線のクソ坊主に、「お前、屑だな」と、自信を持って言うこともできるようになります。
あ、別に、言うことをお勧めしているわけではありませんよ、公式には。
過酷な勧誘ノルマを背負わされたカルト信者が勧誘に来たら、「君はそれでも幸せなのか?」と、自信を持って、言ってあげられるようにも、なると思います。

ま、とにもかくにも、坊さんも、坊さんでない人も、一緒に「宗教を楽しみましょう」というのが、今では「さるぶつ」のテーマです。
よろしくお願い申し上げます。

「サルブツ通信」の配信申込は下記アドレスまで。
      comeon@1011.jp
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