さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

「個性を大切に」は、強者の論理ではないかと思う。

2020-05-27 17:10:37 | 仏教講座
サルブツ通信で、
「個性を煽るな」と名曲『世界に一つだけの花』と我らが『阿弥陀経』をかけた、よくある法話を叱ってみたら、


≪Q≫
「死にたいヤツは死んでみろ!あっちの世界は平和だぞ」になりませんか?
というご質問をいただきましたので、お応えいたします。


≪A≫
「厭離穢土欣求浄土」
という思想ですから、浄土教は、基本則として、
「死ぬのを止められません」
というか、
「死にたい」気持ちを抑止できません。


しかし、「痛み」を共有することはできるはずです。
「痛み」から何が生まれるのかは、人それぞれです。
私の関知するところではありません。


問題は、
「社会が個性を受け入れない」
「違っていると虐められる」
という事実を棚上げして、個性を賛美するという無責任です。


社会を変えることができないのであれば、人が変わるしかありません。
「人は変われる」
「人は変わっても良い」
「人は変わるものだ」
表現はどうでもかまいませんが、仏教が教えてくれるのは、
「守るべき自分などいない」
ということや、
「変わってはいけない自分などいない」
ということです。


≪Q≫
自分で決められるなら、「死にたい」と言わないと思うのです。


≪A≫
自分以外に決められる人がいますか?
決める権利を持つ人がいますか?
他人が決めれば、人権蹂躙ですよ。


親鸞聖人の「そのままでいい」は、
「まだ、あなたには、できることがある」
ということだし、
親鸞聖人の「できることをすればいい」は、
「できることはやれ」
です。


「何もできない人など、いない」んです。



伝えなければならないのは、
「変われ!」と「逃げろ!」
と、いうことじゃないですか?
共に「痛み」、逃げる手立てを考えるお手伝いをする。
こちらで切ることのできる縄を見つけたら、そっと切ってみる。
しても良いことって、それくらいしかないんじゃないのかなあ?


もちろん、洗脳して、より縛って「死なない」ところに、当座置いておく、ということは、可能だと思います。


私には、その熱量はありませんが。