さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

祈りの場

2020-05-21 13:06:43 | 仏教講座


「祈りの場」にいると、非常に落ち着きます。
寺でも、神社でも、教会でも、そこが「祈りの場」として生きている場所であるなら、宗教は選びません。
海外にいる時も、自由になる時間は、宗教施設を周っています。
末寺を訪れる時も、空いた時間には、寺社仏閣を周ります。
たぶん、私、祈っている人を見ているのが好きなんだと思います。
どんな祈りなのか、何を祈っているのかはわかりませんが、人が祈る、その姿に、心打たれるのです。
祈りの場は、多くの場合、静かではありません。
無数の人が入り乱れ、様々な雑音と人の声が波を打っていても、祈るその時だけは、そこだけ時間が止まり、祈る姿を静寂が包みます。
人が祈る姿は、美しいと思います。



ところが、我が浄土真宗では、「祈ってはならない」と言われます。
「祈る」という言葉を使うと責められたりもします。
「祈る」というのは、自分の欲望を叶えて欲しいと、神仏にお願いすることだから、卑しいことだとおっしゃいます。
「念じる」なら、良いらしい。
「ご健康をお祈りします」はダメで、「ご健康を念じます」なら構わないらしい。
「ご成功をお祈りします」はダメで、「ご成功を念じます」なら構わないらしい。
昔も今も、何を言っているのかわからない。
「念じる」お前は、超能力者か?と、聞いてみたい。

健康でいて欲しいという気持ちを、神仏に預けるのは低俗で、自分が念じるのは高尚なのか?
そもそも、「健康でいて欲しい」という欲望は、両者共通で変化はない。
「祈らない宗教・浄土真宗」らしい?
「正気か?」と、聞いてみたい。
いや、すでに、回数がわからないほど、聞いてはみた。
もはや、彼らには、何も念じてはいないが。

祈らない宗教など、宗教ではない。
祈る人を、卑しいと見下すような人間は、宗教者ではない。

私は、祈ります。
そして、やっぱり、祈る人たちが好きだ。
真宗寺院が「祈りの場」でないのであれば。
そんなところには、もう、行かない。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。