さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

非僧非俗? サルブツ通信番外編0009

2020-05-22 22:00:09 | 仏教講座


※「サルブツ通信」読者の皆様、今回から、番外編はブログにします。※

こんなことを言うと怒られるだろうし、
「もう、すでにそうだ」
と、仰る方もたくさんいるとは思います。
が、敢えて言います。

浄土真宗のお坊さんは、将来的にはボランティアであるべきだろうと思うのです。
兼業でやってらっしゃる方は、実質、ボランティアになっているかもしれませんね。
ご苦労に頭が下がります。

でも、それも仕方のないことだと思うのです。
私も同じですが、そもそも、浄土真宗の僧侶は、僧侶ではありません。
「居士(在家信者)」ですよね?
だって、「受戒」していないんだから。


「そんなことはない、親鸞聖人は・・・・・」
と、仰る方もおいでかとは思いますが、「僧侶」であるために、ある時期まで、本願寺御歴代が天台で受戒得度なさっていた事実を忘れてはいけません。


それに、「非僧非俗」は、親鸞聖人のたいへん厳しいお言葉ですが、今、どこかにあります?
「非俗(俗にあらず)」というところ。
「非僧にあらず」は、充分に理解できます。
自分が、そうですから。

しかし、「非俗」がどこにも見当たりません。
捜しにいかなきゃならないな、と、思っています。

「そんなこと言ったって、衣を脱げば一般人なんだから。」
という台詞を、かなり聞かされました。
「僧侶」は単なる職業なんでしょうか?
職業でしかないのであれば、ただの「俗」です。
「俗」であるなら、「僧侶」ではありません。

道徳心だとか倫理の話をしているわけではありません。
道徳心は個人の問題ですから、「僧俗」関係ありませんしね。
「俗」なんだから、「俗」を隠す必要はないんじゃないでしょうか?
別に、「僧侶」ではなく「居士」でいいんじゃないですか?
だって、「僧侶」じゃないんだもん。

そろそろ、その現実に立って、もう一度、
「浄土真宗の僧侶って何なんだろう?」
ということを、考え直していかないと、いけない時代になっていると思うのです。

私、今、そこにいます。

豚と猪 「漢文読める」の罠

2020-05-22 12:57:03 | 仏教講座
インドネシア人の留学生(華人・キリスト教徒)に干支を聞いたら、恥ずかしそうに、
「わたし、ブタの年」
と、答えてくれた。
干支の「ブタ」とは、言うまでもなく「猪」のことですが、「猪」が「ブタ」ではなく、「イノシシ」なのは、日本人だけ(たぶん)です。
全く根拠のないテキトーな数字ですが、「干支」を知ってる人が世界に20億人いるとすれば、「猪年」が「イノシシ年」だと思っているのは、1億人しかいないので、5パーセント。
国際標準に準拠するなら、イノシシ年生まれのあなた、あなたは、ブタ年生まれです。


なぜこんなことが起こるのか?
それは、「干支」が日本に輸入された時に、「猪」という言葉が、日本語に翻訳されなかったからです。
と、言えると説明が楽なのですが、恐らく、当時の日本には家畜である豚さんがいなかったから、そこらにいた「山猪(中国語で猪のこと)」が、そのまま「猪」になっちゃったんだと思います。


話を変えます。
「老婆」を想像してみて下さい。
何を想像しましたか?
「老婆」に決まってるだろ!お前がそう言っただろ!
そう言わないでくださいね。
「老婆」ではわからないから聞いているのです。


あなたが想像したのは、
「年老いた女性」ですか?
それとも、
どなたかの「奥様」ですか?
国際標準では、「老婆」とは、奥さんに対する呼称なので、若い女性も普通にいます。
「いや、俺もたまに嫁をババアと呼んで、こっぴどく〆られる。」
ということではありません。
「老婆」は愛情たっぷりの呼称です。


なまじ漢字が読めてしまうために、こういう誤解が生まれます。
その文字と、その文字の日本語における意味を知っている→わかる。
という錯覚をするのです。


日本で使われている「仏教経典」は、だいたいが「漢訳(中国語訳)」されたものです。
中国大陸製の経典もたくさんあります。
でも、日本語訳された仏教経典は、つい最近まで存在しませんでした。
漢訳されていれば、日本語訳は必要ないと考えられていたのでしょう。
何故か?
漢字で書かれた経典を、読むことができた、からです。
仮に、漢訳仏教経典類で使われている言語を「漢語」と呼ぶことにしましょう。


仏教が日本に伝えられた当時の僧侶には、「漢語」という外国語の素養がありました。
中国大陸で生活し、勉強するだけの「漢語」能力があったわけですからね。
だから、「漢語」経典を、そのまま理解することができたのです。
お坊さんたちは、「猪(豚)」と「山猪(イノシシ)」が区別できたのです。


「漢語」を理解することのできる僧侶は、時代と共に減って行きます。
それとともに、「漢語経典」は「漢字経典」へと変化します。
つまり、「漢語」という「外国語で書かれたもの」であるという認識が失われ、日本でも使われている「漢字」で書かれたものとして扱われるようになるのです。
もちろん、中国大陸で翻訳され、そこから日本に来たものだという知識は失われてはいません。
しかし、「漢語」という外国語の素養を持たない人々は、「漢語」を外国語としてではなく、日本語として読むようになります。


「猪(豚)」と「山猪(イノシシ)」の区別を知らない人ばっかりになってしまったということです。
それでも読めた、読めたつもりにはなれた。
何故?漢字だから。
漢字なら、俺も知ってるもん!


漢字は読めるが、それは日本語としての漢字であって、「漢語」ではない。
と考えて、あくまでも外国語で書かれたものだという認識で、漢語文献に取り組まないと、とんでもない誤解が山のように起こりそうな気がしませんか?


未だにお目にかかりますよ。
「猪(豚)」と「山猪(イノシシ)」の区別ができていない解説者。