さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

香蔵のこと 「支えるべき寺」と「支えてはならない寺」

2020-05-21 17:22:53 | 仏教講座
小樽へ行くと、先輩に必ず連れて行ってもらう、大好きな店があった。



すごく真面目で丁寧な店で、それでいてリーズナブルな、今更、誉めても仕方ないかもしれないけれど、本当に大好きな店だった。
コロナ過に抗えず、閉店したらしい。
連絡をもらって、驚いた、というか、絶句した。



高級店ではないし、ミシュランだなんだは、たぶん関係の無い店だったと思う。
でも、そこへ行くと、何かしら発見があった。
素材と真面目に向かい合っていたからだと思う。



でも、仕方ありません。
どんな商売にせよ、このご時世です。
語りつくせないほどたくさんの、悩みや決断があったんだと思います。
悲しいけれど、決断なさった方々は、私の数万倍、悲しいんでらっしゃると思います。

が、ふと、思い至るところがあり、怒りが沸々と湧き上がってきました。
完全な八つ当たりですが、的は外れていないと思います。

世界中の人が苦しんでいるのに、それでも、平気な顔して、
「金は檀家に出させれば良い」
だとか、
「金は門徒が出すもんだろ」
だとか、普通に言う坊主。
絶対にいる!
いるというか、なんというか、私にはわかる。
お前ら、言うだろろろろろろろろろ!

お寺には二種類あります。
それは、「護るべき寺」と「護ってはならない寺」です。
厳しい時代だからこそ、仏教が活かされなければならないと思います。

だからこそ、皆さんの判断が重要です。

寺など無くなったところで、何も困ることはありません。
「支えるべき寺」と「支えてはならない寺」
それを、しっかりと見極めてくださいね。

大切なのは、皆さんの生活を守ることです。
仏教は、皆さんのために、あるんですからね。


祈りの場

2020-05-21 13:06:43 | 仏教講座


「祈りの場」にいると、非常に落ち着きます。
寺でも、神社でも、教会でも、そこが「祈りの場」として生きている場所であるなら、宗教は選びません。
海外にいる時も、自由になる時間は、宗教施設を周っています。
末寺を訪れる時も、空いた時間には、寺社仏閣を周ります。
たぶん、私、祈っている人を見ているのが好きなんだと思います。
どんな祈りなのか、何を祈っているのかはわかりませんが、人が祈る、その姿に、心打たれるのです。
祈りの場は、多くの場合、静かではありません。
無数の人が入り乱れ、様々な雑音と人の声が波を打っていても、祈るその時だけは、そこだけ時間が止まり、祈る姿を静寂が包みます。
人が祈る姿は、美しいと思います。



ところが、我が浄土真宗では、「祈ってはならない」と言われます。
「祈る」という言葉を使うと責められたりもします。
「祈る」というのは、自分の欲望を叶えて欲しいと、神仏にお願いすることだから、卑しいことだとおっしゃいます。
「念じる」なら、良いらしい。
「ご健康をお祈りします」はダメで、「ご健康を念じます」なら構わないらしい。
「ご成功をお祈りします」はダメで、「ご成功を念じます」なら構わないらしい。
昔も今も、何を言っているのかわからない。
「念じる」お前は、超能力者か?と、聞いてみたい。

健康でいて欲しいという気持ちを、神仏に預けるのは低俗で、自分が念じるのは高尚なのか?
そもそも、「健康でいて欲しい」という欲望は、両者共通で変化はない。
「祈らない宗教・浄土真宗」らしい?
「正気か?」と、聞いてみたい。
いや、すでに、回数がわからないほど、聞いてはみた。
もはや、彼らには、何も念じてはいないが。

祈らない宗教など、宗教ではない。
祈る人を、卑しいと見下すような人間は、宗教者ではない。

私は、祈ります。
そして、やっぱり、祈る人たちが好きだ。
真宗寺院が「祈りの場」でないのであれば。
そんなところには、もう、行かない。